秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

レフとスヴェータ

2761/レフとスヴェータ31—第11章②。

 Orlando Figes, Just Send Me Word -A True Story of Love and Survival in the Gulag- (New York, London, 2012). の試訳のつづき。
 --------
 第11章②。
 (06) レフは恩赦が「政治的」犯罪者へと拡大されることを望んだ。
 発電施設の技術者たちの中には、内務省から釈放申請をするように言われた者もいた。
 彼らはみな58条11号(反ソヴィエト組織への加入)にもとづく判決を受けていたのだが、これはレフの場合ほど重大でなかった。にもかかわらず、彼らに恩赦が与えられればレフも解放されるだろうという希望を抱かせるのに十分だった。
 彼は4月14日に、スヴェータにこう書き送った。
 「現地の警護官が間違いをしていたと分かった。
 恩赦の対象の拡大なんてないだろう。…。
 なんと残酷な手違いであることか!
 みんな希望で胸をいっぱいにし、家族たちも彼らの解放を期待していたというのに。」//
 --------
 (07) 受刑者の人数の減少によって、木材工場で働く労働者の数が徐々に少なくなっていった。
 材木を切って引き摺り出す収監者が満足にいなかったので、燃料や原材料の供給が劇的に低下した。
 1953年5月に収容所から輸送省へと移管されていた労働収容所当局は、ペチョラで新たに解放された収監者をそのまま雇用することで、人力の損失を埋め合わせようとした。
 受刑者の釈放を監理していた内務省の官僚たちは、いくつかの戦略を使った。
 釈放用書類を与えるのを拒み、鉄道切符を買う金を与えるのを拒んだ。また、どこへ行っても職を見つけられないと警告して、雇用労働者としてとどまり続けることができる誘引材料を提示した。
 彼らのうち何人かは、恩赦によって釈放された熟練工、職人、技術者の後継者となる訓練を受けた。
 この年の末まで、従前の受刑者たちは、運転手、大工、機械操作者、機械工および電気工として訓練を受けていた(レフは、発電施設での仕事を交替して行って、彼らの仕事の一部を行なうよう余儀なくされた。
 しかし、こうして努力してみても、木材工場の生産は急激に減少した。
 計画は達成されず。賃金や手当は減り、ほかの(同様の問題を抱えていた)労働収容施設でのよりよい条件を求めて、自由労働者たちは消え失せていった。
 レフは。こう書いた。
 「ここペチョラでは全体に減少した。とくに手荷物に古いレインコートをもつ者(すなわち従前の受刑者)は、どうすればよいか分からなかった。」(注50)
 (注50) レフとスヴェータは、雨に関係する言葉(例えば「傘」、「レインコート(Mackintosh)」)を強制労働収容所(Gulag)の暗号として用いていた。//
 --------
 (08) 故郷に帰った新しい釈放者たちは、仕事を見つけるのにじつに苦労した。
 ソヴィエトの役人たちは一般に以前の受刑者を信頼していなかった。また、多くの雇用者たちは依然として、潜在的な問題惹起者で「人民の敵」だという疑念をもって彼らを判断し続けた。
 失業の問題は切実だったので、従前の受刑者の中には、あきらめて労働収容所に戻る者もいた。
 自力で何とかやっていくのを助けてくれる家族や友人がいない場合には、彼らに残された選択の余地はほとんどなかった。
 労働収容所は、自由なまたはそれに準じた労働者(賃金が払われるが区画を離れることは認められない)として仕事を確実に得ることのできる、唯一の場所だった。
 1953年の7月頃までに、100人以上の従前の受刑者が準自由労働者として木材工場に雇用されていた。
 1954年の末には、この人数は456人にまで増えた。
 多くは、工業区域の垣根のすぐ外側にある、以前の第一居留区の営舎で生活していた。
 彼らには一月あたり約200ルーブルが支払われた。これは、極北地帯へと自由労働者を呼び寄せるための「北方特別手当」を含まない、最低限の賃金だった。だが、労働収容所の管理機関に週に二度報告した場合にだけ、この手当を受け取った。
 このような労働者の一人は、Pavel Bannikov だった。レフと同じ営舎にいて、モスクワ地方で仕事を見つけられないで木材工場に戻ってきていた。
 レフはスヴェータにこう書いた。
 「彼はここを一時的な停留地と考えていて、この秋に再びよりよい場所を求めて出ていくことを計画している。
 彼は僕にモスクワの印象を語ったよ。記憶で飾られた細々としたことの思い出として、そして新しいものの描写物として。」//
 --------
 (09) Bannikov はスヴェータに会ったことがあった。
 スヴェータはペチョラから釈放されてモスクワへ来る多数の受刑者たちを宿泊させてやった。
 レフは彼らにスヴェータの住所を知らせ、彼女にはモスクワで彼らを助けてやってほしいと告げたものだ。
 6月12日に彼は書き送った。
 「愛しいSvetloe、きみにKonon Sidorovich〔Thachenko〕は、Vitaly Ivanovich Kuzora がきみの家を訪れると言っただろう。—そうでないとしても、僕がきっとそうした。
 そう、ここに彼はいる。彼はとてもきちんとしていて、穏やかでもある。
 僕には、モスクワの事態がどうなっていくのか分からない。
 彼には一晩か二晩の宿泊が必要かもしれない。
 とくに今の時点では、それがきみには不便なことだと分かっている。
 でも、そう長くは続かないだろう。もう一年か、せいぜいあと一年半のことだ。」
 レフには、判決で宣せられた服役期間があとまだ18ヶ月あった。そんなときに収容所からの見知らぬ人々を受け入れるのは、スヴェータには当惑と困惑が増大することに間違いなかった。
 スヴェータはレフと、二年間会っていなかった。これは、1946年に再会したあとでの、最も長い別離の期間だった。//
 ——
 つづく。

2760/レフとスヴェータ30—第11章①。

 Orlando Figes, Just Send Me Word -A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012). の試訳のつづき。
 第7章末まで終わっている。第8章〜第10章は、さしあたり割愛。 
 これは、Orlando Figes 作の「小説」ではない。
 第二次大戦が終わっていた1953年、レフ(Lev)は北極海に近いペチョラ(Pechora)の強制労働収容所にいた。スヴェータ(Svetlana)は、モスクワにいた。  
 --------------------------------------------- 
 第11章①。
 (01) スターリンは、1953年3月5日に死んだ。
 彼は脳発作に襲われ、5日間意識不明で横たわった後に死んだ。
 その病は、ソヴィエトの新聞では3月4日に報道された。
 レフは2日後、スヴェータに書き送った。
 「この新しい知らせを、少しも予期していなかった。
 このような場合、現代の医薬の重要性がきわめて明瞭になる。//
 重要な人々が病気になったとき、自然のなりゆきより少しでも長く人間の健康を維持することが不可能であることが、完全に明らかになる。」
 --------
 (02) スターリンの死は、3月6日に全国民に発表された。
 3日後の葬儀まで、彼の遺体は赤の広場近くのthe Hall of Columns に安置された。
 巨大な群衆が、敬意を示すべく訪れた。
 首都の中心部は、涙ぐむ送葬者で溢れた。彼らはソヴィエト同盟の全ての地域から、モスクワに旅してきていた。
 数百人が、押しつぶされて死んだ。
 スターリンを失ったことは、ソヴィエトの人々には感情的な衝撃だった。
 ほとんど30年近く—この国の歴史で最も精神的打撃を受けた時代—、人々はスターリンの影のもとで生きた。
 スターリンは、彼らには精神的な拠り所だった。—教師、ガイド、父親的保護者、国民的指導者で敵に対する救い主、正義と秩序の保証人(レフの叔母オルガは、何らかの不正があったとき、「いつもスターリンいる」と言ったものだった)。
 人々の悲しみは、彼の死を受けて感じざるをえない当惑についての自然な反応だった。スターリン体制のもとでの人々の体験とはほとんど関係なく。
 スターリンの犠牲者ですら、悲しみを感じた。//
 --------
 (03) レフとスヴェータは、他の者たちと同じく、3月6日にラジオでこのニュースを知った。
 大きな衝撃と昂奮の状態にあり、二人ともに、本当にどう感じたのかを語ることができなかった。
 レフは3月8日に、こう書いた。
 「スターリンの死を全く予期していなかったので、最初は本当のことだと信じるのが困難だった。
 そのときの感情は、戦争が始まった日のそれと同じだった。」
 重大な報せについて、レフはそれ以上、付け加えなかった。労働収容所に関する政策の変化が生じ、早期に自分が釈放されるのではないかと望んだに違いないけれども。
 スヴェータもまた、用心深かった。だが、この人生の転機となる可能性のあるラジオ放送があったことで、レフと結びついて生きてきたことの喜びを隠すことができなかった。
 3月11日に、レフにあてて書き送った。
 「モスクワで先週にあったようなことは、今までなかった。
 そして何度も思いました。ラジオが発明されて、人々が同じことを同じ時に聞けるのはなんと素晴らしいことか、と。
 新聞があるのも、よいことです。
 今までより頻繁に語りかけるつもりですが、感じていることを数語で明確に語ろうと考える必要はないのだから、今はしません。」//
 ---------
 (04) スターリンの死が明からさまな喜びでもって歓迎された一つの場所は、労働収容所や収容所入植地区だった。
 もちろん例外はあり、当局または情報提供者による監視が収監者たちの喜びの表現を抑えた収容所もあった。だが、一般的には、スターリンの死の報せは、歓喜の声の自然発生的な爆発でもって迎えられた。
 レフは、「誰一人、スターリンのために泣きはしなかった」と思い出す。
 収監者たちは疑いなく、スターリンは自分たちの惨めさの原因だ、と考えていた。そして、そうして安全だと分かったときは、恐がることなくスターリンに対する蔑みの言葉を発した。
 レフは、1952年10月以降の事態を思い出す。その10月、彼の営舎の仲間たちは、党中央委員会最高幹部会での選挙の結果について、ラジオ放送に耳を傾けた。
 候補者たちが獲得した投票数が次々と読み上げられ、それが終わった後でアナウンサーは言った。「Za Stalina !! Za Stalina !!」(「スターリン万歳 !! 」)。
 収監者のうち何人かは、その代わりに「Zastavili !! Zastavili !!」(「強制だ !!」)と唱え始めた。これは、選挙は不正だ、ということを意味した。
 誰もがこれに加わり、この冗句を愉しんだ。//
 --------
 (05) 収監者たちの間では、スターリンの死によって釈放されるだろうと、一般に推測された。
 3月27日に政府は、5年以下の判決に服している受刑者の恩赦を発表した。これらは、経済的犯罪者とされた55歳以上の男性、50歳以上の女性および治療不可能の病気をもつ受刑者だった。ーつぎの数ヶ月間に、約100万の受刑者が釈放される見通しだった。
 木材工場では、1953年中に恩赦の対象になるのは、受刑者数のおよそ半分だった(1263名から627名へと減る)。
 釈放される者たちのほとんどは犯罪者だった。この者たちは暴れ回り、店舗から略奪し、家屋から強奪し、女性を強姦し、町中でテロルを繰り広げるまでになった。
 レフは〔1953年〕4月10日に、スヴェータにこう書き送った。
 「我々の仲間の何人かはもう外に出て、意のままにペチョラを徘徊している。
 彼らは、あらゆる機会を利用して、力ずくで盗んでいる。
 最悪の者たちは、自由気儘にやっている。
 髭を生やした見映えのよい、Makarovだ。…この人は武装強盗をして8年間服役した。
 Kolya Nazhinsky も、いなくなった。—この人は6キロの粥〔kasha〕を盗んで1947年にはここにすでに10年間いた。
 そして、去年に仲間の一人から300ルーブルを盗み、Nやその隣人から少しずつ金をくすねた。
 でもしかし、みんなはこの人の愚かさと彼に対する元々の判決の不公平さを憐れむばかりだ。この判決がなければ、彼は窃盗をしなかっただろうから。」//
 --------
 第11章②((06)〜)へとつづく。 

2298/レフとスヴェトラーナ20—第5章③。

 レフとスヴェトラーナ、No.20。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.105-p.110。
 ———
 第5章③。
 (23) 密送の仕組みが発展するにつれて、スヴェータはレフと同様に多くの報せを得られるようになった。
 1月20日、彼女は家族や友人たちと乾杯して、レフの30歳の誕生日を祝った。
 そしてOlga 叔母に会いに行った。叔母はスヴェータがレフに送るための小荷物を持っていた。
 スヴェータは、レフのために何かと労力を使おうとする人々を嫌がっていることを知って、「あなたの考えを伝えたけれど、枕と夏服を受け取るのを拒みました」と説明した。
 オルガは、急いで地方ソヴェトに行ったのだった。ソヴェトはレニングラード・プロスペクトにある共同住宅のレフの古い部屋に、「ジブシー」を移していたからだ。
 彼女はそれを「ジプシー」から返してもらうよう当局に掛け合っていた。彼らは、レフの持ち物を全て自分のトランクに詰めて放り出していた。
 オルガは、レフは自分の所有物を失えば気を動転させるだろうと気遣った。しかし、レフが本当に心配したのは、両親が持っていた写真だけだった。
 彼は叔母にこう書き送った。
 「あの部屋はもう僕のものではありません。僕の持ち物について気にかける必要はありません。
 判決で僕の物が全くなくなったのは確かで、それらは形式的にはあなたと僕の所有物のはずでしょう。でも、今では取り戻すのは遅すぎます。
 かつまた、それを必要ともしていません。
 何かがもし残っていたら、僕のために保存しないで、売って下さい。あなたには金がもっと必要です。
 それらは、人間の生活には重要ではありません。騒いだり神経をすり減らす価値のないものです。」
 (24) 物質的条件は、モスクワの誰にとっても厳しかった。
 店舗は空で、食料の供給は不足し、基礎的な物品ですら配給された。
 スヴェータの家族は、多くのモスクワ市民と同様に、ジャガイモや他の野菜を食べて生き延びていた。それらは、日曜日に地下鉄と列車で旅をする郊外の割当区画で栽培していた。
 1947年の春までに、モスクワの生活条件は飢餓を人々が不安になり始めるまでに悪化した。不安は、ウクライナの飢饉の噂で大きくなった。ウクライナでは1946-47年に、数十万の人々が飢餓で死んだ。
 スヴェータはレフへの手紙で「ウクライナで起きていることについては、考えるだけで耐えられません」と明確に書いた。検閲があれば、受け付けられなかっただろう。
 「人々はシベリアかベラルーシ行きの列車に、群がって詰めかけています。でも、そこに行っても、ジャガイモしかありません。
 列車は、モスクワに入って来るのを止められています。にもかかわらず、市内には大群の物乞いたちがいます。
 モスクワの住民の少なくとも半分は、戦争中よりも悪い生活をしています。
 レヴィ、これを見るのは痛ましい。
 みんな、秋までの日数を計算し、収穫量はどうなるだろうと自問しています。
 当分は、家では全て十分です。…
 肉を少しも見ないのは本当ですが、菜食主義のような人々がいて、彼らはしばしば100歳になるまで生きると言われています。
 収入に関するかぎり、事態は悪くなりました。パパは1300ルーブルを貰っており、私の月給は930ルーブルです〔注〕。でもこのお金はすぐになくなってしまいます。」
 (原書注記—モスクワの工場労働者の平均月額賃金は、約750ルーブルだった。)
 (25) 手紙を交換し始めた最初から、二人は、「Minimum(最小限)」「Maximum(最大限)」という暗号符で呼んだものについて議論してきた。二つを合わせると短く「minimaxes」だった。
 前者は、レフが科学的仕事のできる収容所の別の部署への移動を願い出ることを指した。後者はもっと野心的に、レフの判決の短縮を、あるいは釈放をすら、獲得するよう訴えることを指した。
 スヴェータは最初から楽観的だった。
 彼女は、1946年8月28日にこう書き送った。
 「二つともに完全に可能です。
 スターリン賞を貰ったTupolev やRamzin 〔注ー下記〕のことを知っているでしょう。十分には知られていない、他の例も多数あります。」
 (原書注記ーAndrey Tupolev(1888〜1972)、ソ連の航空機設計家。1937年に逮捕され、受刑者としてNKVDの秘密の調査発展研究所で働いた。1943年にスターリン賞を授与された。Leonid Ramzin(1887〜1948)、ソ連の暖房技師。1930年~1936年は収容所の受刑者で、やはり1943年にスターリン賞を得た。)
 MDV が労働収容所にいる科学者を見つけ、ソヴィエト経済の専門家部門へと、とくに収容所の統制下にある軍事研究施設へと再任用する政策を採用していたのは、本当だった。
 問題は、収容所の幹部たちが通常は輩下の科学者を釈放する気がないことだった。発電所、生産実験所、照明の仕組み等々を彼らに依存していたからだ。
 レフは、すでに電気グループへの配転によって得た以上のものを達成できる希望がある、とは考えていなかった。
 「最大限」については、全く望みをもたなかった。
 スヴェータにこう書いた。「最大限を願い出することで、きみの活動力を無駄に費やさないで欲しい」。
 しかし、彼女は二つともに追求し続けた。
 12月にこう書き送った。
 「あなたには自信がない。私にも大した自信はない。たぶん、あなたと変わりはない。
 でもレフ、少しでも可能性があるなら、試してみる価値があるのではない?
 何も得られなくとも、不必要な苦しみが今以上に増えるのではないと思う。
 だから、我々は冷静で、希望に惑わされないでいる必要がある。—でも、行動です。
 何もしないで自然に生まれるものは、何一つありません。」
 (26) レフは1947年2月頃には、どんな訴えを考えても遅すぎる、と結論づけていた。
 物理研究所での科学研究は「学生の作業」のようなもので、移転を何ら保証するものではない、と思った。Strelkovを通じて誰かが収容所の科学行事でペチョラを訪れる予定があることを知れば、その人に頼んでみる、とスヴェータに約束したけれども。
 判決に対する異議は、フランクフルト〔an der Oder〕の軍事法廷によるレフの調査を再検討することを意味するだろう。
 全てはもう確定してしまっていると思っていたので、自分の経験を繰り返す意味を認めなかった。また、自分の状況をいっそう悪くさせる必要もなかった。
 レフは、5月1日の長い率直な手紙で、「最小限」や「最大限」について語り合うのはもうやめようとした。
 「異議が成功する可能性が少しでもあるためには目撃証人が必要で、そんな証人は決して召喚されないだろうから、最大限については考えていません。証人を何とかして発見するのも困難でしょう。
 証言の時間と…評決の発表の間に、新しいウソが突如として作られないだろうとは、確信を持っては言えません。
 人は二度目には経験を積んでいる、というのは本当です。…でも、成功の可能性はなおも微々たるものです。
 全ての行為は、少なくとも二つの異なる動機にもとづきます。—「善意」、これは自然な説明です。「悪意」、これは共謀的な考え方をして「汚いこと」を隠蔽します。
 最大の問題は、僕に有利な事実の多くに目撃証言者がいない、ということです。そして、誰も僕を信じようとしません。
 紳士的な教授(訴追官)は、自分たちの前に来る者が、愛国心や普遍的良識への忠誠心のような真摯な動機をもつことはあり得ない、と確信しています。…
 「最小限」については、核と宇宙の研究の軍事上の秘密の重要性によって、58条1bによって有罪とされてこの地域で労働している者には、とくに特別に殊れた者以外の者には、いかなる可能性も排除されています。
 労働収容所で過ごした者は、Yakutia、Komi、Kolyma や若干のその他を例外として、遠く離れた地方の町ですら大きな経済・産業の中心で働くことは許されていません。この事実は、当局がこの政治的条項を、まだ緩やかな条項であっても、どのように見なしているかを、十分に示すものです。
 どの宣誓証言者も、受刑者のための人物であっても、こうした条項を無視することはできません。
 この二ヶ月以内に、『Tukhachevsky 時代』(1937年)に有罪とされた、ここの誰かが釈放されるでしょう。
 その人物は共産主義青年同盟中央委員会の元委員で、軍用機操縦者、純粋な狂熱者です。そして彼は、ここに残っています。
 彼はここで馬具製作者として働き、この木材工場はまるで自分のものであるかのごとく、収容所の全ての問題に関係していました。…
 彼は一度ならず、我々が作業場で必要とする革のひもを購入するために、自分のパンを売り、タバコを拒否しました。
 そして、彼が行なったことに誰も感謝しておらず、あるいは、彼が釈放されて生活するのが許される場所が決定されたときに、それを思い出しました。
 きみは、きみの判決の刑期を変えることができない。」
 (27) スヴェータはレフの論理を受容する気がなかった。
 6月8日に、こう書き送った。
 「どう言えばよいか、分からない。
 あなたと議論することはできない。なぜなら、あなたがが書いていることは全て本当であること、この不快な真実があなたの状況の99.99パーセントを占めていること、残っているのはほんの僅かの偶然にすぎないだろうこと、を知っているから。
 でも、可能性は存在している。このこともまた、事実です。
 あなたは、心を失望でいっぱいにしないで、やはり努力し続ける方へと向かって欲しい。
 言うのは行うよりも簡単だ、と分かっている。
 あなたの立場に私がいたら、耐えられないでしょう。だから、迫ったり、強く主張したりはしません。ただあなたを、優しく説得しようとしているのです。
 試しつづけることで、事態がもっと悪くなることはあり得ますか?
 そうでないなら、リョーヴァ(Lyova)、たぶんだけど、これまでやって来たことに、あなたはもう一度耐える気持ちになりはしない?」
 スヴェータが選んだのは「最大限」への望みを持ち続けることであり、「最小限」のために積極的に請願することだった。—この方針は、FIANの理事長の支持も得た。この人物は、レフのために文書を書くと約束した。
 彼女はレフに、こうも書いた。
 「私はたぶん間違っている。
 でも、希望や夢なしで生きるよりもこれらを持って生きることの方が易しいというのが、この5年間にあったことではなかったの?」
 (28) しかし、レフには最終的な言葉があった。6月28日に、こう書き送った。
 「ちなみにかつて、Kharakov 研究所出身の化学者で、直流電気技師が職業だったBoris German について書きました。
 この人は、その専門能力で雇用して欲しいと頼んだ。
 ほどなく収容所側は彼を、一時(transit)収容所へと呼んだ(我々と遠くなく、ペチョラ駅に近い)。
 彼はそこで数週間を座ったままで塩漬けにされたあと、「間違って」Vorkuta へと移送された。
 ふつうの仕事(北極圏の炭鉱)の数週間後に、彼は一時収容所に戻った。そこからもう一度「間違って」Khalmer-Yu(北極洋岸の鉄道建設収容所)へと移送された。そこは、電気技師の気配などどこにもない場所だった。
 彼は、どの移送車両でも、慣行に従って持ち物を強引に奪われた。そして、最後に彼は一時収容所で知人に見かけられたけれども、その知人には彼は、肉体的には以前の彼の半分の人間だと思えた。
 いま彼がどこにいるのか、誰も知らない。
 彼は、できるだけ早く手紙を書くと約束したけれど、今まで誰も、彼から何も受け取っていない。
 Anisimov の友人でKuzmich という名の人は、同じような運命に遭ったように思われます。
 その人も「特別の任務」のために呼び出され、その後に消え失せました。
 こんなことは日常茶飯事で、「そうなる」(完全な消耗の最後の段階に進む)最も迅速な方法はきみの専門能力でもって仕事ができるよう移送を頼むことだ、と古い収監者たちは言います。
 これを聞いて、僕は、思わず楽観的に書いた「収容所・内務省(MDV)」あての願い出文書をすっかり破り棄てました。…
 よし、これで終わりにします。」
 (29) レフは木材工場にとどまる他はないと観念して、スヴェータは、どんな「最大限」や「最小限」よりもはるかに大胆なことをする計画を立て始めた。
 すなわち、ペチョラでレフと逢うために秘密の旅をすること。
 ——
 第5章③、終わり。第6章へとつづく。

2292/レフとスヴェトラーナ17—第4章⑤。

 レフとスヴェトラーナ、No.17。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。
 ——
 第4章⑤。
 (35) レフの別の営舎仲間のモスクワっ子、Lyosha Anisimov は、Gleb Vasil'ev とともに、Strelkov のサークルの一人だった。
 Gleb Vasil'ev は、23 歳の機械屋で、モスクワではスヴェトラーナと同じ学校にいた。
 レフはスヴェータに、こう書き送った。
 「Gleb は数学がよくできる。自分の詩があり、その詩を朗読する才能もある。それはここでは大切にされている。
 自分では宣伝しないけれど、『内部消費』のために保っている。その点も好きだ。」
 レフはGleb とモスクワについて語り合うのを楽しんだ。Gleb の妻と息子は彼女の母親と一緒にモスクワに住んでいた。
 レフは友人たちに、Gleb は彼らの全てについて知るようになったと詳細に叙述した。
 彼はGleb に、スヴェータの手紙から得たモスクワについての報せを告げることになる。
 しかし、スヴェータについてはほとんど何も言わなかった。
 レフはスヴェータにこう説明した。
 「きみについて、誰とも分かち合うことはできない。きみは僕のものだ」。
 (36) 22歳のOleg Popov は、半分はリトヴィア人、半分はロシア人で、グループのもう一人の仲間だった。
 レフは、スヴェータにこう語った。
 「Oleg はかすかな訛りをつけてロシア語を話し、いくつかの言葉をを知らない。でも、新しい言葉を学んでいる彼から話を聞くのは、本当に楽しい。
 レフは、「ときどきは英語での、大した量ではないがそれでもなお意味のあるOleg との日常会話」から、不思議な満足を得た。
 彼はOleg の「ナイーヴな聡明さ」を好み、Oleg は「(最良の意味での)独創的な(original)」人物だと思った。
 (37)  Strelkov の実験室に集まったグループには、最後に、「二人のNikolais 」がいた。Litvinenko(「若Nikolais」)は21歳で、キエフ出身の政治的受刑者だった。もう一人のLileev(「老Nikolais」)は24歳、レニングラード出身で、この人物がレフをChikin に推薦した。
 Lileevは、レフのように、1945年にSMERSHに逮捕され、祖国に対する裏切りの罪で10年の判決を受けていた。
 彼は翻訳者の、次いで集中収容所のドイツ人たちの監督者の仕事を強いられた。
 フランクフルトからペチョラへの護送車の中で知り合って、二人のNikolais はとくに親しかった。
 レフはスヴェータにこう書き送った。
 「彼(Lileev)は、若Nikolais よりも穏健で率直だ。…。若い方は生活についてより実際的な考え方をもち、自分の有利になるように変える才能がある。その結果として、彼はときどきは不真面目に見える。きみが知っているように、僕が好きではない性格だ。」
 Lileev は、「より単純で、直接的で、ときどきは機転がきかない」。これをレフは最初は気にかけなかつたが、ときが経つにつれて煩わしくなってきていた。
 (38) 11月18日に、Gogol を意訳して、レフはスヴェータにこう書いた。「こんなうんざりする世界、こんな善良な領主はない」。
 〔原書注記—「Iwanovich は Ivan Nikiforovich とどう喧嘩したか」より。〕
 Strelkov の仲間と彼の他の友人たちには、ペチョラ労働収容所のような神に見捨てられた場所であっても、愉快な時間があった。
 レフはスヴェータに書いた。「総じて言って、暮らしは悪すぎるということは少しもありません」。
 「仕事の後で、ラジオから流れる<Oprichnik>〔原書注、チャイコフスキーのオペラ〕の放送を聴きながら実験室でStrelkov とともに過ごしました。
 これは最大の愉しみです。…
 7時に『家』に向かって発ち、数分間、黙って夕食を摂りました。
 そして、—まるでほとんど家庭にいるかのように—蒸し風呂に行こうと決めました。
 書くのが下手で、許して。
 樺の木は世界の我々がいる場所ではとても多くはないけれども、緑色のカンバの枝は豊富にありました。そして、Lyosha Anisimov が、モスクワの蒸し風呂の習慣のためにその枝を捧げることを僕に迫りました。
 良いお茶が、良い蒸し風呂の後で必要です。でもNikolai(Lileev)は、我々はそんな時代遅れの習慣を放棄すると強く主張しました。
 それで、暗い青の薄い絹地(crêpe-de-Chine)の付いた150ワットのランプの覆いの下で、我々は一緒にモッカ・コーヒーを飲みました。
 (これは、彼らの営舎でのことです。
 我々は不運にも、20メートル離れた、電球は40ワットしかない別の場所で生活しています。
 この40ワット電球が、内部での慰労用に使える標準です。)
 ここにはいかほどのご馳走があるか分かるでしょう。—我々はコーヒーのお代わりなしで我慢するつもりはないのです。
 そして、マグ・カップ缶から出てくる熱帯的香りを嗅いでいる間、我々は好んで、モスクワ、レニングラード、そしてノヴォシビルスクについて話しました。
 このあと、地方標準ではとっくに遅かったけれども(9時)、我々は外に出て、寒い中で息をし、星を見上げました。
 でも星は雲で隠れていて、月はほとんど見えませんでした。
 我々は松並木と営舎の間の小道をぶらつきました。営舎は最近に漂白され、田園地帯ふうの漆喰塗りをされていました。煙突から煙がきていて、内部の光は窓を通して黄色く見えました。
 11時の(営舎の消灯の)知らせがあつてようやく、時間を思い出しました。
 5分以内に我々は、モスクワのMaly 劇場を想像させる屋根の下から、自分たちの営舎の下へと潜り込みました。
 このように、我々は生活しています。」
 (39) 1946年、冬は早くやってきた。
 木材製造工場には、準備がなかった。
 収監者用のブーツ、帽子、手袋、綿入りのジャケットは不十分で、建物の多くが改修中だった。
 川が初めに凍結するということは、労働収容所や木材製造工場と繋がった居留地から揚げ下げした材木を浮かばせることがもはや不可能になるので、木材が不足することを意味した。
 (40) 12月半ば、気温がマイナス35度へと下がったので、手紙の配達も実質的に停止した。
 レフは1946年最終の手紙を、12月25日に出した。
 スヴェータの手紙を2週間と半週間受け取っておらず、彼女は高熱を伴う病気だったので、とてもひどく心配した。
 「スヴェータ、僕は絶望の海の中で溺れていて、海面にまで泳ぎ上がることができない。—手紙が届いていない。」
 12月9日にレフは、新しい年までにスヴェータに届く最後の手紙になるだろうと思う、と書いた。
 それは、彼の24番めの手紙だった。
 自分の望みと彼女の回復を同等視して、「何をきみのために—我々のために—望んでいるのか」と書いた。
 「僕にとって、欲しいのは手紙だけだ。…。他に何かを望めるならば、きみが健康を回復して、良い精神状態で、何があっても安心して、友人たちとともに、新しい年を始めることができることだ」。
 レフは、新年の夜をStrelkov と一緒にお茶を飲んで過ごそうと計画していた。彼は腸の病気でやつれたように見え、二回手術を受けたが健康を回復しなかった。
 スヴェータに12月25日の手紙でこう書いた。
 「彼〔Strelkov〕は病気について平静を装っているけれど、その自己統制の気持ちに騙されているのは、彼をよく知らない者たちだけです。
 スヴェータ、僕は彼の表情に、腸の痛みを和らげようとする努力を見てとることができる。」
 他人を助けようと思い、自分のためには何も求めないのは、レフによく見られることだった。
 (41) スヴェータは、その間に、絶望感を増幅させていた。
 新年の夜に、レフにあてて手紙を書いた。彼女は、レフの12月9日の手紙をまだ受け取っていなかった。
 レフと連絡を取りたくて、彼女はその日は家にとどまり、外出しないで手紙を書くことに決めていた。
 彼女はこう書いた。「あなたが居ないままで休日を過ごすことに飽きました」。
 「どこにいても楽しくはありません。Irina 以外は誰も、本当にはこのことに気づいていないと、あなたは信じられるでしょう。
 ともあれ、私はAlik(スヴェータの甥)を楽しませました。—クリスマス・ツリーに灯をともし、テーブルで祭りの茶を飲みました。…
 ほとんど真夜中になって、彼はようやく眠りました。
 彼はまだ、寝に行くのを恐がっています。… 
 クリスマス・ツリーは綺麗です。—大きくて、緑色が天井にまで届きそうです。
 枝はまだ一本も、枯れていません。
 Yara が六本の枝の先に小さな銀色のくるみを吊るし、その先端には赤い星が(もちろん)あります。
 レニングラードの古いアパートから持ってきた、飾りがまだあります。かなりの量のものは、他の人々にあげてしまったけれど。 
 クリスマス・ツリーは大人たちに愉しみを運んでいるように見えます(過去の思い出につながるから)。 
 Alik はお婆ちゃんの眼鏡に映る光にますます興味を持っています(「光はどこから来るの?」)。プレゼントに貰ったABCの本にも。…
 私たちは言葉ゲームで一緒に遊びました(女性詞か男性詞か? どの種の文字か?)。…
 あなたに手紙を書いていたから、私も幸せです。
 これが新年の最初の手紙になるでしょう。—時計がもう鳴りました。
 そしてすぐに、次の手紙に『2』と書くつもりです。
 明日は、店へ本漁りに出かけるつもりです。
 送る予定の本をたくさん買っていますが、一度に多数の書籍を送らないように気に掛けています。また今のところは、それらを一つにして入れる小さな箱か何かを持っていません。箱なしでは、多数の書籍は受け付けてもらえないでしょう。…
 憶えていないのだけど、労働者の子ども用に編まれた<古典詩>と呼ばれるとても可愛いコレクションを購入したと、もう書きましたか?
 お別れに、その本から、アレクセイ・トルストイ〔Aleksei Tolstoy〕の詩を差し上げます。
 『何故かと問うな、疑問をもつな。
  理屈で判断するな。
  どれほどあなたを愛しているか? なぜあなたを愛しているのか?
  何のためにあなたを愛しているか? そしてそれはどの程度続くのか?
  何故かと問うな、疑問をもつな。
  あなたは私の妹か? それとも若い妻なのか?
  あるいは、小さな子どもか?
  私は知らないし、理解しもしない。
  あなたを何と呼ぶべきか、どのように呼ぶべきか。
  広い野原にはたくさんの花がある。
  空にはたくさんの星がある。
  でも、私には名前を付けることができない。
  それらの全てを見分けることもできない !!
  どのようにしてあなたを愛するようになったのか、私は問わなかった。
  私は理屈で判断しなかったし、疑問も持たなかった。
  私は、ただあなたへの愛に落ちただけだ。
  自らの賢明な心に、ただ従っただけだ !!』
 そう、レヴィ、これが今あなたに伝えたいことの全てです。
 新しい年がやって来て、床に就く時間です。
 ごきげんよう。
  スヴェート 1947年1月1日」
 ——
 第4章⑤、終わり。第5章へとつづく。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー