前回のつづき。
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 第11節・七月3日-5日の出来事①。 
 臨時政府は、ボルシェヴィキがしようとしていることを7月2日に知った。
 7月3日に、ドヴィンスク(Dvinsk)の第五軍の司令部と連絡をとって、兵団出動を求めた。
 誰もが、進んで何かしようとは思わなかった。少なくともその理由の一つは、その承認が必要なソヴェトの社会主義者たちが、実力行使に訴える権限を与えるのを躊躇したからだ。
 7月4日の早い時間に、ペテログラード軍事地区の新しい司令官、P・A・ポロフツェフは、武装示威活動を禁止し、守備兵団に対して秩序維持を助けるよう『示唆する』声明を発表した。
 軍事参謀部は、街頭騒擾を抑圧するために使える軍力を調べて、ほとんどが存在していないことに気づいた。いたのは、プレオブランジェスキー守備連隊の100人、ウラジミール兵学校からの一隊、2000人のコサック兵、50人の傷病兵だった。
 守備軍団の残りは、反乱兵士たちとの対立に巻き込まれるようになるのを望まなかった。//
 7月4日は、平穏のうちに始まった。誰もいない街頭の不思議な静けさが、何かが始まるのを暗示しているようだった。
 午前11時、車に乗った赤衛軍と一緒に、機関銃連隊の兵士たちが、市の要所を占拠した。
 同時に、クロンシュタットからきた5000人から6000人の海兵が、ペテログラードに上陸した。
 彼らの指揮官のラスコルニコフはのちに、政府が地上の砲台から彼らの一つふたつの小型船を射撃して阻止しなかったことに驚いた、と語った。
 海兵たちは、ニコラエフスキー橋近くの上陸埠頭から直接にタウリダへと進むよう、命令を受けていた。
 しかし、彼らが隊列を整えたとき、ボルシェヴィキの使者が、命令は変更された、クシェシンスキー邸〔ボルシェヴィキ本部〕へと行くように、と伝えた。
 そこにいたエスエルは抗議したが、無視された。エスエルのマリア・スピリドノワは海兵たちに演説すべく来ていたが、聴衆はいないままで放っておかれた。
 軍楽隊を先頭にし、『全権力をソヴェトへ』と書く旗を掲げながら、長い一団の縦列になって、海兵たちは、ヴァシリエフ島と株式交換所橋を縦断し、アレクサンダー広場に着いた。そこから、ボルシェヴィキの司令部へと、進軍し続けた。
 そこで彼らは、バルコニーから、ヤコフ・スヴェルドロフ(Iakov Sverdlov)、ポドヴォイスキー(Podvoiskii)およびM・ラシェヴィッチ(Lashevich)の挨拶を受けた。
 クシェシンスキー邸にわずか前に到着していたレーニンは、言葉を発することについてはっきりせずにためらいを示した。
 レーニンは最初は、体調が悪いという理由で海兵たちに語るのを拒んでいたが、最後には屈して、若干の短い言葉を述べた。
 海兵たちを歓迎して、レーニンはつぎのように語った。//
 『起きていることを見て、嬉しい。二ヶ月前に打ち上げた全権力の労働者、兵士を代表するソヴェトへという主張が今や、理論的スローガンから現実へと転化しているのが分かって、嬉しい』。(163)//
 このような注意深い言葉ですら、誰の心にも、ボルシェヴィキがクー・デタを実行していることを疑う余地を残さなかっただろう。
 これは、レーニンが10月26日までに公衆の前に姿を見せた、最後のことになった。//
 海兵たちは、タウリダへと向かった。
 彼らが出立したあとでボルシェヴィキ司令部内部で起きたことについては、ルナシャルスキーに教えられたスハノフの文章によって分かる。//
 『7月3日-4日の夜、「平和的な集団示威行進」を呼びかける宣言書を<プラウダ>に送る一方で、レーニンは、心のうちにクー・デタの計画を具体化していた。
 政治的権力-実際にはこれはボルシェヴィキ中央委員会によって掌握される-は、傑出しかつ著名なボルシェヴィキ党員で構成される「ソヴェト」省によって公式に具象化される。
 この点で、三人の大臣が指名されていた。レーニン、トロツキー、そしてルナシャルスキー。
 この政府は、ただちに講和と土地に関する布令を発して、この方法で首都と地方の数百万人の共感を獲得し、それでもって政府の権威を強化する、ということとされていてた。
 レーニン、トロツキー、そしてルナシャルスキーは、クロンシュタットの海兵たちがクシェシンスキー邸を後にしてタウリダ宮へ向かったあとで、このような合意に達した。<中略>
 革命は、つぎのようにして、達成されるものとされた。
 クラスノエ・セロ(Krasnoe Selo)からの第一七六連隊-ダン(Dan)がタウリダを守護するために任されたのとまさに同じ連隊-が、〔ソヴェトの〕中央執行委員会メンバーを拘束する。
 まさにそのときに、レーニンが行動の現場に到着して、新政府の設立を宣言する。』(*)//
 海兵たちは、ラスコルニコフに率いられて、ネフスキー通りを行進した。
 彼らの隊列には、小さな分団と赤衛兵が配置されていた。
 先頭と最後尾には、武装した車が進んだ。
 男たちは、ボルシェヴィキ中央委員会が用意したスローガンを書いた旗を掲げた。
 ペテログラードの『ブルジョア』の中心部、リテイニュイに曲がって入ったとき、銃撃音が響いた。
 群衆は恐怖に囚われて、咄嗟に離れた。銃火は広く渡り、あらゆる方向に撒き打ちされた。
 一人の目撃者が窓から写真を撮り、ロシア革命の暴力に関する数少ない写真記録の一つを生んだ(図版第53〔秋月注記/本文中の写真-この書物の表紙に使われているもの〕)。
 銃撃が終わったとき、示威行進者たちは再び集まって、タウリダへの行進を再開した。
 彼らはもう秩序だった編成を維持しておらず、すぐに使えるように銃砲を持っていた。
 午後4時頃に、ソヴェト〔所在地〕に着いた。そこで、機関銃連隊の兵士たちから、大きな歓声で迎えられた。//
 ボルシェヴィキはまた、プティロフ〔企業名〕の労働者の大群団をタウリダ宮へと送り込んだ-その推算数には変わりがあり、1万1000人から2万5000人になる。(+)
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  (163) Chuganov, Revoliutionnoe dvizhenie v iiue, p.96。参照、Lenin, PSS, XXXIV, p.23-24、Flerovskii, in : PR = Proletarskaia revoliutiia, No. 7-54 (1926), p.77。
  (*) Sukhalov, Zapiski, IV, p.511-2。スハノフがこうした記憶を1920年に公刊したあとで、トロツキーは強く否定し、トロツキーに突つかれてルナシャルスキーもそうした。ルナシャルスキーはスハノフ宛ての手紙で、スハノフの記述には全く根拠がないと非難し、公刊すれば『歴史家としての不愉快な結果』になるだろうとスハノフを警告した(同上、p.514n.-p.515n.)。しかし、スハノフは撤回するのを拒否し、自分は正確にルナシャルスキーが語ったことを回想した、と主張した。
 だが、その同じ年にトロツキー自身が、あるフランスの共産主義者の出版物の中で、七月事件は権力奪取を-つまりボルシェヴィキ政府の確立を-意図していた、ということを認めた。
 『我々は、一瞬たりとも、七月の日々は勝利に至る前奏だということを疑わなかった』。Bulletin Communiste (Paris), No. 10 (1920年5月20日)。これは、以下で引用されている。Milorad M. Drachkovitch & Branko Lazitch, レーニンとコミンテルン, Ⅰ (Stanford, 1972), p.95。
  (+) Nikitin, Rokovye gody, p.133 は少ない数を、Istoriia Putilovskovo Zavoda 1801-1917 (モスクワ, 1961) は多い数を示す。トロツキーの8万という推算(ロシア革命の歴史 Ⅱ, p.29)は、全くの空想だ(fantasy)。
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 本来の改行箇所でないが、ここで区切る。②へとつづく。