佐藤幸治・日本国憲法論(成文堂、2011)。佐藤は英米系の憲法論に詳しいはずだが、消極・積極・能動といった分類はドイツの学者のそれを思い起こさせる。一種の「美学」・「アート」だから、「自由」の分類・体系化に絶対的なものはない。
目次構成から見ると、つぎのとおりだ。一部につき省略や簡略化をする。
第二編・国民の基本的人権の保障。
第1章・基本的人権総論。
第2章・包括的基本的人権。
第1節/生命、自由および幸福追求権。
第2節/法の下の平等。
第3章・消極的権利。
第1節/精神活動の自由。p.216~。
1/思想・良心の自由。
2/信教の自由。
3/学問の自由。
4/表現の自由。
5/集会・結社の自由。
6/結社・移転の自由。
7/外国移住・国籍離脱の自由。
第2節/経済活動の自由。p.299~。
1/職業選択の自由。
2/財産権。
第3節/私的生活の不可侵。p.320~。
1/通信の秘密。
2/住居などの不可侵。
第4節/人身の自由および刑事裁判手続上の保障。
1/奴隷的拘束・苦役からの自由。
2~6/<略>。
第4章・積極的権利。〔生存権、等々〕
第5章・能動的権利。〔参政権、等〕
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西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
この書が、「自由」として「個人の属性」・「個人的精神」にかかわる<精神的自由>に限ろうとしているようであることを、特段批判するつもりはない。<精神的自由>・<精神活動の自由>といっても、上記も示すように、決して同一内容ではないのではあるが。
従って、猪木武徳・自由と秩序-競争社会の二つの顔(中公文庫、2015/叢書2001)のような経済学者による、<自由>を冠する書物を無視していても、問題視できないだろう。
但し、「自由」論は、Liberty 系列かもしれないが、「リベラリズム」とか「リバタリアニズム」に関係しており、例えば以下の<新書>・<文庫>を秋月の広大な?書庫から見つけ出すことができる。
森村進・自由はどこまで可能か-リバタリアニズム入門(講談社現代新書、2001)。
仲正昌樹・「不自由」論-何でも「自己決定」の限界(ちくま新書、2003)。
井上達夫・自由の秩序-リベラリズムの法哲学講義(岩波現代文庫、2017/双書2008)。
こうした現代的?議論に西尾幹二は関心がないのかもしれない。それに、上の三つは、法学部出身者か、法学部に在職している人たちの書物だ。このことも、とくに疑問視することはしない、
もちろん、以下の書物にも関心はないのだろう。
ジョン・グレイ/松野弘監訳・自由主義の二つの顔-価値多元主義と共生の政治哲学(ミネルヴァ書房、2006)。
=John Gray, Two Faces of Liberalism (2000).
そして、巻末の計14頁に及ぶ「主な参考文献」から見ると、<歴史>、<思想・哲学>分野の文献が多い。
但し、疑問をもつのは、<思想・哲学>での「自由」を表題の一部とする著名かもしれないものを欠落させている、ということだ。邦訳書があって所持しているものに限る。
H・ベルクソン=中村文郎訳・時間と自由(岩波文庫、2001)。
このベルクソンの書は、自由意思の存否を検討する中で茂木健一郎も触れていた。
また、L・コワコフスキの大著は、このフランスの哲学者は、スターリン体制の中で「ブルジョアア」哲学者で「観念論」の代表者として扱われた、とかなり長く言及していた。
また、L・コワコフスキがフランクフルト学派に関する叙述の中で言及していた中には、つぎの書もあった。
エーリヒ・フロム=日高六郎訳・自由からの逃走(東京創元社、1952)。
西尾は第2章の中で「自由が豊富に与えられることは自由をもたらしません。人間は大きな自由に耐えられない存在なのです」と書く(p.76)。L・コワコフスキは1978年(英訳)の書でこのE・フロムの著にも言及し、彼の考え方をこう簡単に叙述している。
「我々は自由を欲するが、自由を恐れもする。なぜならば、自由とは、責任と安全不在を意味しているからだ。従って、人間は権威や閉ざされたシステムに従順になって、自由の重みから逃亡する。これは、生まれつきの性癖だ。破壊的なもので、孤立から自己諦念への、偽りの逃亡だけれども。」-本欄№2027/2019年8月16日参照。
タイトルに用いているかだけが重要なのではないとしても、上のベルクソンとE・フロムのニ著は、「自由」に(も)関係するほとんど必須の哲学文献ではないのだろうか。
リベラリズムやリバタリアニズムを扱うべきだったとは思わないが、<時間と自由>、<自由からの逃亡>くらいは参照しいほしかったものだ。これは、「ないものねだり」だとは思われない。
ともあれ、西尾幹二が挙げる「主な参考文献」が本当にきちんと吸収され、この書に利用されているのかを疑うとともに、よくは分からないが、重要な文献が参照されていないのではないかと思える。
西尾は第1章関係文献として、H・アレント〔アーレント〕の全体主義論・全三巻の邦訳書を挙げている。西尾のこの書に関してまだ第1章にとどまって、ハンナ・アレントにも次回では言及する。