Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第8章の試訳のつづき。第12節②へ。
——
第12節・ラパッロ(Rapallo)②。
(12) レーニンは、ドイツとの交渉をいったん決断すると、スターリンが1939年にいっそう巧く模倣した策略を用いた。すなわち、連合諸国との合意を追求しているふりをしつつ、ドイツに対して分離協定に署名するよう圧力を加えた。
この戦術が、フランスやイギリスを怒らせるのを怖れる政府内や実業界の親西欧派の反対を抑えるのに役立った。//
----
(13) 1922年1月遅く、Radek 〔ロシア・ボルシェヴィキ〕は、驚くべき報せを持ってベルリンに現れた。ソヴィエト・ロシアの法的承認と商業信用を呼びかけ、その代わりにモスクワはヴェルサイユ条約の実施を助ける、とするフランスとの間の協定をモスクワはまさに締結しようとしている、との報せだ。
Radek は、かりにロシアがそうするつもりならば、フランスはポーランドとの関係を断つかもしれない、とすら主張した。(*)
彼は、Rathenau 〔ドイツの政治家〕に対して、ロシアと折り合うことでそのそうな進展を阻止するように迫った。
また、これには多額の金銭がかかわっていた。
Rathenau は、50億紙幣マルクの借款を提示し、ロシアは自分を恐喝していると抗議した。しかし、Radek は、ソヴィエトの政策に影響を与えるにはこの額(金での5000-6000マルク)では少なすぎるとして、それを却下した。(+)
Rathenau は言葉を濁し、連合諸国の反応を心配し、輸入代金を支払うロシアの能力に懐疑的になった。
フランスとの協定が迫っているとの主張には、実体がなかった。しかし、ドイツの外務当局からRathenau を追い出した点では、究極的にはRadek とその仲間たちの役に立った。かりにドイツが1914年以前のフランス・ロシア同盟の復活を避けたかったとすれば、ドイツは行動すべきだった。それもすぐに、行動しなければならなかった。
Radek は、近代的軍需産業の建設を早くするために、Seeckt 〔ドイツの陸軍軍人〕に対して、赤軍は春にポーランドを攻撃する準備をしている、と内密に打ち明けた。ポーランドは猛烈に航空機を必要としている。
騙されやすいドイツ人たちはこの作り話を信じ込み、1922年4月に、モスクワの近傍のFili でのJunker 航空設備の開設を急がせた。
彼らはまた、空想上のポーランド侵攻にもとづいて、赤軍との職員間の討議を始めた。(注240)
Radek は、Genoa 経由で4月初めにベルリンに着いたChicherin の支援を受けた。
彼は、提示されているソヴィエト・ドイツ協定案を持ってきていた。ドイツ外務省の専門家の助けでのちに修正されたのだが、それは、Rapallo 条約の基礎文書として役立つことになる。(注241)//
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(脚注*) Wipert von Blücher, Deutschlands Weg nach Rappallo (1951), p.154-5. Gerald Freund はこの情報を引用し、彼自身が主導して行ったと示唆しつつ、Radek を「無責任」と称する。
しかし、このような重大な問題については、政治局とレーニン個人の是認なくして何も行なうことができなかった。これがまさにその事案に該当することの証拠は、Chicherin が率いたGenoa へのソヴィエト代表団は二ヶ月後に、全く同じ戦術を用いて、ドイツをRapallo 条約の署名へとさせた、ということだ。Freund, loc, cit., p.116-7.
(脚注+) RTsKhIDNI, F. 2, op.2, delo 1124. ベルリンからの報告の日付は、1922年2月14日。1922年2月22日のレーニンの覚書では、Genoa の戦術に下線があり、Chicherin が外国資本なくしてはソヴィエトの輸送と工業の再建の見込みはない、と強く主張していた。Ibid., delo 1151.
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(14) 1922年2月28日、政治局は、Genoa 会議に関する、経済協定を中心とするレーニンの基本方針を是認した。これは、「平和主義」派を分つことで、「ブルジョア」陣営の分裂を促進するものだった。
「我々は、その(ブルジョア)陣営(または特に選んだ別の丁重な表現を用いよ)の『平和主義的部分』は、小ブルジョア、平和主義者、準平和主義的民主主義派の第二インターナショナルか二・五インターナショナル、ゆえにKeynes タイプのそれ、等々だと見なして、呼称すべきだ。
我々の原則の一つは、原則でなければGenoa での政治的課題は、ブルジョア陣営のこの派を全体として切り離して、いい気分にさせ、我々が締結を受容できかつそれは望ましいと考えていることを知らしめることだ。我々の観点からして、取引上のみならず、政治的な合意の点でも。
(資本主義が新しい秩序へと進む平和的な移行の数少ない機会の一つとして。これに関して我々共産主義者は、全く楽観的ではないが、敵対的な他の多数派諸国の面前で、その試みを助ける気はあり、それが我々の義務だと、一つの大国を代表する者の義務だと見なしている。)/
全ての可能なことを、ブルジョアジーの平和主義派を強くしたり、少しでも選挙の見通しを明るくするのは不可能な何がしかのことをせよ。
これが、第一だ。
第二に、Genoa で一緒に我々に抵抗するだろうブルジョア勢力を分裂させよ。
これが、Genoa での我々の二つの任務だ。
どのような状況でも、共産主義者の見方を促進しなければならない。」(注242)
Genoa でのレーニンの戦術にとって重要な平和主義は「小ブルジョア幻想」だということにChicherin が異論を述べたとき、レーニンは、苛立ちを包み隠さず、まさにそのとおりであって、「敵であるブルジョアジーを破壊する目的で平和主義者を利用」しないのは正気でない、と説明した。(注243)//
----
(15) Genoa 会議は、4月10日に開会した。
ソヴィエト代表団は、レーニンではなく、Chicherin に率いられていた。レーニンは出席しようと思っていて、かつ議長になることを想定していたが、Krasin から暗殺に遭う危険があると警告された後でとどまることに決めた。
レーニンは、トロツキーまたはジノヴィエフが自分の代わりをすることも、拒否した。(注244)
Chicherin は第一日め、一般的な武装解除に関する包括的な「平和主義」綱領を発表した。
これは、ソヴィエト・ロシアが当時、ドイツの助けで近代化しつつある世界で最大の軍隊(武装兵80万人以上)(注245) を有していたことからすると、皮肉な案だった。
フランスの要請により、その提案は会合の議題とは関係がないものとして握りつぶされた。//
----
(16) Genoa での原理的なソヴィエトの経済的目標は、外国の借款と投資を確保することだった。
1918年にドイツ外務省とソヴィエト大使のAdolf Loffe の間の連絡者だった同調者のHarry Kessler 公は、ドイツ外務当局の東部支所の長から、「ロシア人が興味をもつのは金、金、金だ」と言われていた。(注246)
レーニンは実際に会議の前日の〈プラウダ〉に、ロシア人はGenoa へと、「共産主義者としてではなく、商売人として行く」と書いていた。(注247)
Genoa でのソヴィエトの政策方針は、ドイツに集中することだった。指導的なソヴィエトの新聞は、こう論じた。「自立したドイツのロシアでの経済政策は、ドイツ資本の合理的な利用への途を開く。ロシア自身でだけではなく、さらに東へと、目ざす途はロシアを通り抜け、ドイツが別の経路では到達することのできない領域へとつづく途だ。」(注248) //
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(17) 連合諸国は、ソヴィエト政府に対して、ロシアの外国債務を承認し、その「行動または不注意」によって発生した損失を外国人に補償することを求めた。
外国の請求権は、ソヴィエト債券の外国での発行によって埋め合わされるべきだ。(注249)
Chicherin は、きわめて条件付きの言葉で示唆して、再建に必要な融資はもちろん外交上の国家承認を受けるならば、損失を外国人に補償する、という意向を表明した。(注250)
この問題について交渉するふりをしながら、ロシア代表団は、ドイツとの分離条約の締結に向かって静かに動いていた。//
----
(18) こうした努力をするについて、ロシア代表団は、Lloyd George の外交的愚かさに助けられた。
自らを〈最高の人物(primus inter pares)〉だと示そうとして、この首相は、ソヴィエトを含む多くの代表団と会食をした。
彼のロシア人との私的な遭遇がさりげなく仕組まれ、Radek とChicherin は、連合国・ドイツ協定をドイツが結ぼうとしていると、警告した。(注251)
Rathenau は、穏当でないことが起きそうだとの助言に納得しつつ、疑念を拭い去り、4月16日に、Rapallo 近くのSt. Margherita ホテルで、本質的にはモスクワが草案を書いたソヴィエト・ロシア協定に署名をした。(**)
すぐのちに、二枚舌だと非難されて、ドイツは、連合諸国もまたモスクワと分離協定を結ぶべく動いていたと論じて、自分たちの行動を正当化した。(注252)//
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(脚注**) 二ヶ月後、Rathenauは、Rapallo 条約のために人生を捧げたのち、「親共産主義のユダヤ」だとしてナショナリストに殺害された。
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(19) 協定が定める条件により、署名によって相互の外交的承認がなされ、最恵国待遇の地位が与えられた。(注253)
両国は、戦争に起因する請求権を相互に放棄し、友好的な経済関係を促進することを誓約した。
ドイツはさらに、ソヴィエトの国有化措置によって政府や国民が受けた損失に対する請求権も放棄した。
Rapallo 協定は、ドイツが外交政策について連合諸国とは別個にかつ本来の望みとは反対に行動した、休戦以降の三番めの事例になった。いずれの場合も、ドイツは、ロシアに有利に行動した。—最初は、1919年に、封鎖に参加することを拒んだ。次いで、1920年に、ドイツを横切ってポーランドへと軍需資材を送るのをフランスに対して許可しなかった。//
----
(20) 連合諸国は驚いて、ドイツに対して集団的抗議団を送り、国際的交渉が従うべき問題に関する一方的な決定だと非難した。ドイツは対等な相手国として招かれているが、一体性という精神を侵犯することで応えたのだ。
ドイツはその行動によって、ソヴィエト・ロシアとの共同討議への参加を排除された。(注254)
Genoa 会議は、解散した。
西側はおそらく、Rapallo 条約の諸条項をその含意ほどには警戒しなかった。その意味とは、「怒れるドイツと貧しいロシアの同盟」がうっすらと出現した、ということだ。(注255)
----
(21) Rapallo 条約は、ヴェルサイユの後でドイツが初めて締結した国際条約だった。
ほとんどのドイツの政治家は、ロシアをドイツの経済的、政治的浸透に対して開くものだという理由で、この条約を支持した。
社会民主党は反対し、ロシアは世界革命のためにドイツを利用している、と警告した。(注256)
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(22) この条約は、ロシアのイギリスとの取引を犠牲にして、ソヴィエト・ドイツ間の取引を増大させた。
1922-23年、ソヴィエトの輸入の三分の一は、ドイツからだった。
1932年、この数字は47パーセントにまで上がった。(注257)
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後注。
(240) Freund, Unholy Alliance, p.99; F. L. Carstein in Survey, No. 44-45 (1962), p.119.
(241) Herbert Helbig, Die Träger der Rapallo-Politik (1958), p.79-81.
(242) Lenin, PSS, XLIV, p.407-8.
(243) 初出、Literaturnaia gazeta No. 45 (1972.11.5), p.11.
(244) TP, II, p.656-9; RTsKhIDNI, F. 2, op.1, delo 27069.
(245) RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo 27, list 74.
(246) Harry Kessler, In the Twenties (1971), p.176.
(247) Lenin, PSS, XLV, p.70.
(248) EZh, No. 71 (1922.3.29), p.1.
(249) Dennis, Foreign Policies, p.427.
(250) Ibid., p.431-2.
(251) Freund, Unholy Alliance, p.116-7.
(252) Sovetsko-Germanskie otnosheniia ot peregovorov v Brest-Litovske do podpisaniia Rapall'skgo dogovora, II (1971), p.485-6.
(253) Text in NYT, 1922.4.18, p.1.
(254) Sovetsko-Germanskie otnosheniia, II, p.486-7.
(255) Dennis, Foreign Policies, p.430.
(256) Freund, Unholy Alliance, p.148.
(257) Müller, Das Tor, p.84. Walter Laqueur, Russia and Germany (1965), p.132.
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第12節、終わり。
第8章の試訳のつづき。第12節②へ。
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第12節・ラパッロ(Rapallo)②。
(12) レーニンは、ドイツとの交渉をいったん決断すると、スターリンが1939年にいっそう巧く模倣した策略を用いた。すなわち、連合諸国との合意を追求しているふりをしつつ、ドイツに対して分離協定に署名するよう圧力を加えた。
この戦術が、フランスやイギリスを怒らせるのを怖れる政府内や実業界の親西欧派の反対を抑えるのに役立った。//
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(13) 1922年1月遅く、Radek 〔ロシア・ボルシェヴィキ〕は、驚くべき報せを持ってベルリンに現れた。ソヴィエト・ロシアの法的承認と商業信用を呼びかけ、その代わりにモスクワはヴェルサイユ条約の実施を助ける、とするフランスとの間の協定をモスクワはまさに締結しようとしている、との報せだ。
Radek は、かりにロシアがそうするつもりならば、フランスはポーランドとの関係を断つかもしれない、とすら主張した。(*)
彼は、Rathenau 〔ドイツの政治家〕に対して、ロシアと折り合うことでそのそうな進展を阻止するように迫った。
また、これには多額の金銭がかかわっていた。
Rathenau は、50億紙幣マルクの借款を提示し、ロシアは自分を恐喝していると抗議した。しかし、Radek は、ソヴィエトの政策に影響を与えるにはこの額(金での5000-6000マルク)では少なすぎるとして、それを却下した。(+)
Rathenau は言葉を濁し、連合諸国の反応を心配し、輸入代金を支払うロシアの能力に懐疑的になった。
フランスとの協定が迫っているとの主張には、実体がなかった。しかし、ドイツの外務当局からRathenau を追い出した点では、究極的にはRadek とその仲間たちの役に立った。かりにドイツが1914年以前のフランス・ロシア同盟の復活を避けたかったとすれば、ドイツは行動すべきだった。それもすぐに、行動しなければならなかった。
Radek は、近代的軍需産業の建設を早くするために、Seeckt 〔ドイツの陸軍軍人〕に対して、赤軍は春にポーランドを攻撃する準備をしている、と内密に打ち明けた。ポーランドは猛烈に航空機を必要としている。
騙されやすいドイツ人たちはこの作り話を信じ込み、1922年4月に、モスクワの近傍のFili でのJunker 航空設備の開設を急がせた。
彼らはまた、空想上のポーランド侵攻にもとづいて、赤軍との職員間の討議を始めた。(注240)
Radek は、Genoa 経由で4月初めにベルリンに着いたChicherin の支援を受けた。
彼は、提示されているソヴィエト・ドイツ協定案を持ってきていた。ドイツ外務省の専門家の助けでのちに修正されたのだが、それは、Rapallo 条約の基礎文書として役立つことになる。(注241)//
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(脚注*) Wipert von Blücher, Deutschlands Weg nach Rappallo (1951), p.154-5. Gerald Freund はこの情報を引用し、彼自身が主導して行ったと示唆しつつ、Radek を「無責任」と称する。
しかし、このような重大な問題については、政治局とレーニン個人の是認なくして何も行なうことができなかった。これがまさにその事案に該当することの証拠は、Chicherin が率いたGenoa へのソヴィエト代表団は二ヶ月後に、全く同じ戦術を用いて、ドイツをRapallo 条約の署名へとさせた、ということだ。Freund, loc, cit., p.116-7.
(脚注+) RTsKhIDNI, F. 2, op.2, delo 1124. ベルリンからの報告の日付は、1922年2月14日。1922年2月22日のレーニンの覚書では、Genoa の戦術に下線があり、Chicherin が外国資本なくしてはソヴィエトの輸送と工業の再建の見込みはない、と強く主張していた。Ibid., delo 1151.
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(14) 1922年2月28日、政治局は、Genoa 会議に関する、経済協定を中心とするレーニンの基本方針を是認した。これは、「平和主義」派を分つことで、「ブルジョア」陣営の分裂を促進するものだった。
「我々は、その(ブルジョア)陣営(または特に選んだ別の丁重な表現を用いよ)の『平和主義的部分』は、小ブルジョア、平和主義者、準平和主義的民主主義派の第二インターナショナルか二・五インターナショナル、ゆえにKeynes タイプのそれ、等々だと見なして、呼称すべきだ。
我々の原則の一つは、原則でなければGenoa での政治的課題は、ブルジョア陣営のこの派を全体として切り離して、いい気分にさせ、我々が締結を受容できかつそれは望ましいと考えていることを知らしめることだ。我々の観点からして、取引上のみならず、政治的な合意の点でも。
(資本主義が新しい秩序へと進む平和的な移行の数少ない機会の一つとして。これに関して我々共産主義者は、全く楽観的ではないが、敵対的な他の多数派諸国の面前で、その試みを助ける気はあり、それが我々の義務だと、一つの大国を代表する者の義務だと見なしている。)/
全ての可能なことを、ブルジョアジーの平和主義派を強くしたり、少しでも選挙の見通しを明るくするのは不可能な何がしかのことをせよ。
これが、第一だ。
第二に、Genoa で一緒に我々に抵抗するだろうブルジョア勢力を分裂させよ。
これが、Genoa での我々の二つの任務だ。
どのような状況でも、共産主義者の見方を促進しなければならない。」(注242)
Genoa でのレーニンの戦術にとって重要な平和主義は「小ブルジョア幻想」だということにChicherin が異論を述べたとき、レーニンは、苛立ちを包み隠さず、まさにそのとおりであって、「敵であるブルジョアジーを破壊する目的で平和主義者を利用」しないのは正気でない、と説明した。(注243)//
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(15) Genoa 会議は、4月10日に開会した。
ソヴィエト代表団は、レーニンではなく、Chicherin に率いられていた。レーニンは出席しようと思っていて、かつ議長になることを想定していたが、Krasin から暗殺に遭う危険があると警告された後でとどまることに決めた。
レーニンは、トロツキーまたはジノヴィエフが自分の代わりをすることも、拒否した。(注244)
Chicherin は第一日め、一般的な武装解除に関する包括的な「平和主義」綱領を発表した。
これは、ソヴィエト・ロシアが当時、ドイツの助けで近代化しつつある世界で最大の軍隊(武装兵80万人以上)(注245) を有していたことからすると、皮肉な案だった。
フランスの要請により、その提案は会合の議題とは関係がないものとして握りつぶされた。//
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(16) Genoa での原理的なソヴィエトの経済的目標は、外国の借款と投資を確保することだった。
1918年にドイツ外務省とソヴィエト大使のAdolf Loffe の間の連絡者だった同調者のHarry Kessler 公は、ドイツ外務当局の東部支所の長から、「ロシア人が興味をもつのは金、金、金だ」と言われていた。(注246)
レーニンは実際に会議の前日の〈プラウダ〉に、ロシア人はGenoa へと、「共産主義者としてではなく、商売人として行く」と書いていた。(注247)
Genoa でのソヴィエトの政策方針は、ドイツに集中することだった。指導的なソヴィエトの新聞は、こう論じた。「自立したドイツのロシアでの経済政策は、ドイツ資本の合理的な利用への途を開く。ロシア自身でだけではなく、さらに東へと、目ざす途はロシアを通り抜け、ドイツが別の経路では到達することのできない領域へとつづく途だ。」(注248) //
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(17) 連合諸国は、ソヴィエト政府に対して、ロシアの外国債務を承認し、その「行動または不注意」によって発生した損失を外国人に補償することを求めた。
外国の請求権は、ソヴィエト債券の外国での発行によって埋め合わされるべきだ。(注249)
Chicherin は、きわめて条件付きの言葉で示唆して、再建に必要な融資はもちろん外交上の国家承認を受けるならば、損失を外国人に補償する、という意向を表明した。(注250)
この問題について交渉するふりをしながら、ロシア代表団は、ドイツとの分離条約の締結に向かって静かに動いていた。//
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(18) こうした努力をするについて、ロシア代表団は、Lloyd George の外交的愚かさに助けられた。
自らを〈最高の人物(primus inter pares)〉だと示そうとして、この首相は、ソヴィエトを含む多くの代表団と会食をした。
彼のロシア人との私的な遭遇がさりげなく仕組まれ、Radek とChicherin は、連合国・ドイツ協定をドイツが結ぼうとしていると、警告した。(注251)
Rathenau は、穏当でないことが起きそうだとの助言に納得しつつ、疑念を拭い去り、4月16日に、Rapallo 近くのSt. Margherita ホテルで、本質的にはモスクワが草案を書いたソヴィエト・ロシア協定に署名をした。(**)
すぐのちに、二枚舌だと非難されて、ドイツは、連合諸国もまたモスクワと分離協定を結ぶべく動いていたと論じて、自分たちの行動を正当化した。(注252)//
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(脚注**) 二ヶ月後、Rathenauは、Rapallo 条約のために人生を捧げたのち、「親共産主義のユダヤ」だとしてナショナリストに殺害された。
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(19) 協定が定める条件により、署名によって相互の外交的承認がなされ、最恵国待遇の地位が与えられた。(注253)
両国は、戦争に起因する請求権を相互に放棄し、友好的な経済関係を促進することを誓約した。
ドイツはさらに、ソヴィエトの国有化措置によって政府や国民が受けた損失に対する請求権も放棄した。
Rapallo 協定は、ドイツが外交政策について連合諸国とは別個にかつ本来の望みとは反対に行動した、休戦以降の三番めの事例になった。いずれの場合も、ドイツは、ロシアに有利に行動した。—最初は、1919年に、封鎖に参加することを拒んだ。次いで、1920年に、ドイツを横切ってポーランドへと軍需資材を送るのをフランスに対して許可しなかった。//
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(20) 連合諸国は驚いて、ドイツに対して集団的抗議団を送り、国際的交渉が従うべき問題に関する一方的な決定だと非難した。ドイツは対等な相手国として招かれているが、一体性という精神を侵犯することで応えたのだ。
ドイツはその行動によって、ソヴィエト・ロシアとの共同討議への参加を排除された。(注254)
Genoa 会議は、解散した。
西側はおそらく、Rapallo 条約の諸条項をその含意ほどには警戒しなかった。その意味とは、「怒れるドイツと貧しいロシアの同盟」がうっすらと出現した、ということだ。(注255)
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(21) Rapallo 条約は、ヴェルサイユの後でドイツが初めて締結した国際条約だった。
ほとんどのドイツの政治家は、ロシアをドイツの経済的、政治的浸透に対して開くものだという理由で、この条約を支持した。
社会民主党は反対し、ロシアは世界革命のためにドイツを利用している、と警告した。(注256)
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(22) この条約は、ロシアのイギリスとの取引を犠牲にして、ソヴィエト・ドイツ間の取引を増大させた。
1922-23年、ソヴィエトの輸入の三分の一は、ドイツからだった。
1932年、この数字は47パーセントにまで上がった。(注257)
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後注。
(240) Freund, Unholy Alliance, p.99; F. L. Carstein in Survey, No. 44-45 (1962), p.119.
(241) Herbert Helbig, Die Träger der Rapallo-Politik (1958), p.79-81.
(242) Lenin, PSS, XLIV, p.407-8.
(243) 初出、Literaturnaia gazeta No. 45 (1972.11.5), p.11.
(244) TP, II, p.656-9; RTsKhIDNI, F. 2, op.1, delo 27069.
(245) RTsKhIDNI, F. 5, op.2, delo 27, list 74.
(246) Harry Kessler, In the Twenties (1971), p.176.
(247) Lenin, PSS, XLV, p.70.
(248) EZh, No. 71 (1922.3.29), p.1.
(249) Dennis, Foreign Policies, p.427.
(250) Ibid., p.431-2.
(251) Freund, Unholy Alliance, p.116-7.
(252) Sovetsko-Germanskie otnosheniia ot peregovorov v Brest-Litovske do podpisaniia Rapall'skgo dogovora, II (1971), p.485-6.
(253) Text in NYT, 1922.4.18, p.1.
(254) Sovetsko-Germanskie otnosheniia, II, p.486-7.
(255) Dennis, Foreign Policies, p.430.
(256) Freund, Unholy Alliance, p.148.
(257) Müller, Das Tor, p.84. Walter Laqueur, Russia and Germany (1965), p.132.
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第12節、終わり。