前回のつづき。
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党が示す革命の教条とレーニンとの全同一化のもう一つの魅力的な側面は、独特な形態の個人的謙虚さだ。
彼の後継者は彼個人の周囲に準宗教的なカルトを作ったが、彼らは自分たちの私的な目的のためにそうした。レーニンがいなければ、運動をともに維持するものは何もなかった。
レーニンはこのようなカルト化を決して助長しなかった。なぜなら、自分の存在は『プロレタリアート』の存在とは別のものだという見方は受容できないと考えていたからだ。ロベスピエールのように、まさに文言上の意味で、自分は『人民』だと考えていた。(*)
運動から区別して自分という一個人を取り出されるのを強く嫌う気持ちは、ふつうの虚栄心をはるかに超える自尊心に根ざした、謙虚さのためだった。
そのゆえに、回想録に対するレーニンの嫌悪感があった。ロシア革命のいかなる指導者も、自叙伝的資料をもう少しは残したのだったが。(+)//
道徳上の呵責を知らない人物。レーニンは、ランケが『完全な自己信頼意識をもつため、自分自身の行動の結果に関する疑いや恐れは体験したことがない痛みである』と述べたローマ法皇に、似ていた。
このような性格のためにレーニンは、ある種のタイプの、ロシアの似而非インテリたちにはきわめて魅力的だった。そのような者たちはのちに、困惑の世界に確実性を与えてくれるという理由で、群れてボルシェヴィキ党に入っていくだろう。
とくに若い読み書きの不十分な農民たちには、魅力的だった。彼らは、村落を離れて工場での仕事を求め、かつて慣れていた人間関係が非人間的な経済的かつ社会的束縛に代わった、見知らぬ、冷たい世界で漂っていたのだ。
レーニンの党は、彼らに帰属意識を提供した。彼らは団結と単純なスローガンを好んだ。//
レーニンには強い傾向の冷酷さがあった。彼が主義としてテロルを擁護したこと、何も悪事をしていない無実の多数の人々に死を宣告する布令を発したこと、そして自分に責任がある生命の喪失に対していかほどの悔恨も示さなかったこと、これらは明白な事実だ。
同時にまた、この冷酷さは他人が苦しむのを見て喜びを引き出すサディズムではなかったことも強調しておく必要がある。
むしろ、そのような苦しみに対する完全な無関心こそに由来していた。
マクシム・ゴーリキはレーニンとの会話から、彼にとっては個々の人間は『ほとんど何の関心もなく、党、大衆、国家…のことのみを考えている』という印象をもった。
別の場合にゴーリキが言うには、レーニンにとっては労働者階級は金属工にとっての原鉱石のようなもの (27) -換言すれば、社会実験のための原材料ようなものだった。
レーニンが住んだヴォルガ地域が突然に飢饉に陥った1891-92年にすでに、このような特徴は明らかになっていた。
飢餓の農民たちに食糧を供給する委員会が設立された。
ユリアノフ家の友人によれば、レーニンだけが(いつものようにその家族は共鳴したが)、このような援助に反対した。その理由は、農民を土地から離し、『プロレタリア』予備軍となる都市に移ることを強いることになるので、飢饉は『進歩的な』現象だ、ということだった。
レーニンは人間を新しい社会建設のための『原鉱石』と見なして、将軍が兵士に敵の砲火の中への前進を命令するときと同じように感情を欠如したまま、人々を処刑部隊の前へと、死へと、送り込んだ。
ゴーリキはフランス人から引用して、レーニンは『考えるギロチン』だと言った。
責任を拒みつつ、彼は人間ぎらいだったと認める。『一般には、彼は人民を愛した。自己犠牲心でもって人民を愛した。彼の愛は憎悪という霧を通してずっと先を見ていた。』(29)
1917年のあとでゴーリキが、死刑を宣せられたあれこれの人の生命を大切にするように強く求めたとき、レーニンはなぜそんな瑣末なことに邪魔されるのかと本当に当惑しているように見えた。//
よくあることだが(ロベスピエールにもそのとおりだが)、レーニンの冷酷さの反対面は、臆病さだった。
レーニンの人間性のこの側面は、大量の証拠資料があるけれども、諸文献ではほとんど言及されていない。
まだ10歳代のときには大学を自主退学して学生騒擾への関与に対する制裁を避けようと試みたことがあったものの、レーニンの特徴は勇気の欠如だった。
のちに記すように、ある原稿が自分の著作物であることををレーニンは認めようとしなかった。それで、共犯者は二年間の流刑を追加された。
身の危険に対するレーニンの変わらない反応の仕方は、飛び去ることだった。自分の兵団を見捨てることを意味するとしてですら、拘束や射撃の怖れががあるときはいつでも姿を消す、不思議な能力が彼にはあった。
第二ドゥーマのボルシェヴィキ議員団長の妻、タチアナ・アレクシンスキーは、レーニンが危険から逃げ去るのを見た。//
『1906年の夏に初めてレーニンと逢った。
その出会いを、私は思い出したくない。
左翼の社会民主主義者たちから崇拝されていたレーニンは、伝説的英雄のように私には思えていた…。
1905年の革命まで彼は国外にいたので近くで彼を見たことがなく、レーニンは恐怖も汚辱もない革命家だろうとわれわれは想像していた。
だから、ペテルスブルクの郊外での会合で1906年にレーニンを見たときの私の失望は、何と激烈であったことか。
私に好ましくない印象を与えたのは、彼の外貌だけではない。禿げていて、赤っぽい鬚を生やし、モンゴルの頬骨をもち、不愉快な話し方をした。
好ましくない印象は、そのあとの集団示威行進(デモ)の間の彼の振るまいだった。
群衆を命令している騎馬兵団を見ていただれかが『コサックだ!』と叫んだとき、レーニンは逃げ出した最初の人物だった。
彼は、柵を跳び越えた。黒布の帽子は脱げ落ち、裸の頭が露わになり、日光のもとで汗をかいて光っていた。
彼はころげ落ち、立ち上がり、そして走りつづけた…。
自分の身を守る以外のことは何もなかった。そしてまだ…。』(30) //
このような魅力的でない個人的特性は、同僚たちにはよく知られていた。しかし、彼らは知っていてそれを無視した。レーニンには、独特の長所があったからだ。すなわち、規律正しい仕事をする異常なほどの能力および革命的教条に対する全的な傾倒。
ベルトラム・ヴォルフェの言葉によれば、レーニンは『ロシアのマルクス主義運動を生み出した高度の理論的能力をもち、また細かい組織上の仕事に携わる能力と意思を同時にもつ、唯一の人間だった』。(31)
1885年にレーニンと逢って彼を第二級のインテリと見なしたプレハーノフは、にもかかわらず、レーニンを評価し、かつその欠点を見逃した。プレハーノフの言葉によればその理由は、『彼〔プレハーノフ〕はこの新しい人物〔レーニン〕の重要性を、その思想にでは全くなく、その党組織者としての独創力と才能のうちに認めた』からだった。
レーニンの『冷たさ』、侮蔑心および残虐さによって追放されたストルーヴェは、自分が『一つに自分の道徳的義務だ、二つにわれわれの教条には[レーニンが]政治的に不可欠だという両者』の関係を配慮して、このような否定的感情を『放逐』した、ということを認めている。(33) //
(*) 1792年、郊外居住者の輸送に際して、ロベスピエールはこう主張した。『私は人民の廷臣でも、仲裁者でも、審判官でも、擁護者でもない。-私は人民そのものだ!』(Alfred Cobban, Aspects of the French Revolution, London, 1968, p.188.)
(+) 彼はやがては個人的カルトを許すようになった。その理由を、アンジェリカ・バラバノッフにつぎのように説明した。『有用で、必要ですらある』、『われわれの農民は懐疑的で、読まないし、信じるために逢う必要もない。彼らが私の写真を見れば、レーニンは存在すると納得する。』 Balabanoff, Impressions of Lenin (1964, p.5-6).
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③につづく。
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党が示す革命の教条とレーニンとの全同一化のもう一つの魅力的な側面は、独特な形態の個人的謙虚さだ。
彼の後継者は彼個人の周囲に準宗教的なカルトを作ったが、彼らは自分たちの私的な目的のためにそうした。レーニンがいなければ、運動をともに維持するものは何もなかった。
レーニンはこのようなカルト化を決して助長しなかった。なぜなら、自分の存在は『プロレタリアート』の存在とは別のものだという見方は受容できないと考えていたからだ。ロベスピエールのように、まさに文言上の意味で、自分は『人民』だと考えていた。(*)
運動から区別して自分という一個人を取り出されるのを強く嫌う気持ちは、ふつうの虚栄心をはるかに超える自尊心に根ざした、謙虚さのためだった。
そのゆえに、回想録に対するレーニンの嫌悪感があった。ロシア革命のいかなる指導者も、自叙伝的資料をもう少しは残したのだったが。(+)//
道徳上の呵責を知らない人物。レーニンは、ランケが『完全な自己信頼意識をもつため、自分自身の行動の結果に関する疑いや恐れは体験したことがない痛みである』と述べたローマ法皇に、似ていた。
このような性格のためにレーニンは、ある種のタイプの、ロシアの似而非インテリたちにはきわめて魅力的だった。そのような者たちはのちに、困惑の世界に確実性を与えてくれるという理由で、群れてボルシェヴィキ党に入っていくだろう。
とくに若い読み書きの不十分な農民たちには、魅力的だった。彼らは、村落を離れて工場での仕事を求め、かつて慣れていた人間関係が非人間的な経済的かつ社会的束縛に代わった、見知らぬ、冷たい世界で漂っていたのだ。
レーニンの党は、彼らに帰属意識を提供した。彼らは団結と単純なスローガンを好んだ。//
レーニンには強い傾向の冷酷さがあった。彼が主義としてテロルを擁護したこと、何も悪事をしていない無実の多数の人々に死を宣告する布令を発したこと、そして自分に責任がある生命の喪失に対していかほどの悔恨も示さなかったこと、これらは明白な事実だ。
同時にまた、この冷酷さは他人が苦しむのを見て喜びを引き出すサディズムではなかったことも強調しておく必要がある。
むしろ、そのような苦しみに対する完全な無関心こそに由来していた。
マクシム・ゴーリキはレーニンとの会話から、彼にとっては個々の人間は『ほとんど何の関心もなく、党、大衆、国家…のことのみを考えている』という印象をもった。
別の場合にゴーリキが言うには、レーニンにとっては労働者階級は金属工にとっての原鉱石のようなもの (27) -換言すれば、社会実験のための原材料ようなものだった。
レーニンが住んだヴォルガ地域が突然に飢饉に陥った1891-92年にすでに、このような特徴は明らかになっていた。
飢餓の農民たちに食糧を供給する委員会が設立された。
ユリアノフ家の友人によれば、レーニンだけが(いつものようにその家族は共鳴したが)、このような援助に反対した。その理由は、農民を土地から離し、『プロレタリア』予備軍となる都市に移ることを強いることになるので、飢饉は『進歩的な』現象だ、ということだった。
レーニンは人間を新しい社会建設のための『原鉱石』と見なして、将軍が兵士に敵の砲火の中への前進を命令するときと同じように感情を欠如したまま、人々を処刑部隊の前へと、死へと、送り込んだ。
ゴーリキはフランス人から引用して、レーニンは『考えるギロチン』だと言った。
責任を拒みつつ、彼は人間ぎらいだったと認める。『一般には、彼は人民を愛した。自己犠牲心でもって人民を愛した。彼の愛は憎悪という霧を通してずっと先を見ていた。』(29)
1917年のあとでゴーリキが、死刑を宣せられたあれこれの人の生命を大切にするように強く求めたとき、レーニンはなぜそんな瑣末なことに邪魔されるのかと本当に当惑しているように見えた。//
よくあることだが(ロベスピエールにもそのとおりだが)、レーニンの冷酷さの反対面は、臆病さだった。
レーニンの人間性のこの側面は、大量の証拠資料があるけれども、諸文献ではほとんど言及されていない。
まだ10歳代のときには大学を自主退学して学生騒擾への関与に対する制裁を避けようと試みたことがあったものの、レーニンの特徴は勇気の欠如だった。
のちに記すように、ある原稿が自分の著作物であることををレーニンは認めようとしなかった。それで、共犯者は二年間の流刑を追加された。
身の危険に対するレーニンの変わらない反応の仕方は、飛び去ることだった。自分の兵団を見捨てることを意味するとしてですら、拘束や射撃の怖れががあるときはいつでも姿を消す、不思議な能力が彼にはあった。
第二ドゥーマのボルシェヴィキ議員団長の妻、タチアナ・アレクシンスキーは、レーニンが危険から逃げ去るのを見た。//
『1906年の夏に初めてレーニンと逢った。
その出会いを、私は思い出したくない。
左翼の社会民主主義者たちから崇拝されていたレーニンは、伝説的英雄のように私には思えていた…。
1905年の革命まで彼は国外にいたので近くで彼を見たことがなく、レーニンは恐怖も汚辱もない革命家だろうとわれわれは想像していた。
だから、ペテルスブルクの郊外での会合で1906年にレーニンを見たときの私の失望は、何と激烈であったことか。
私に好ましくない印象を与えたのは、彼の外貌だけではない。禿げていて、赤っぽい鬚を生やし、モンゴルの頬骨をもち、不愉快な話し方をした。
好ましくない印象は、そのあとの集団示威行進(デモ)の間の彼の振るまいだった。
群衆を命令している騎馬兵団を見ていただれかが『コサックだ!』と叫んだとき、レーニンは逃げ出した最初の人物だった。
彼は、柵を跳び越えた。黒布の帽子は脱げ落ち、裸の頭が露わになり、日光のもとで汗をかいて光っていた。
彼はころげ落ち、立ち上がり、そして走りつづけた…。
自分の身を守る以外のことは何もなかった。そしてまだ…。』(30) //
このような魅力的でない個人的特性は、同僚たちにはよく知られていた。しかし、彼らは知っていてそれを無視した。レーニンには、独特の長所があったからだ。すなわち、規律正しい仕事をする異常なほどの能力および革命的教条に対する全的な傾倒。
ベルトラム・ヴォルフェの言葉によれば、レーニンは『ロシアのマルクス主義運動を生み出した高度の理論的能力をもち、また細かい組織上の仕事に携わる能力と意思を同時にもつ、唯一の人間だった』。(31)
1885年にレーニンと逢って彼を第二級のインテリと見なしたプレハーノフは、にもかかわらず、レーニンを評価し、かつその欠点を見逃した。プレハーノフの言葉によればその理由は、『彼〔プレハーノフ〕はこの新しい人物〔レーニン〕の重要性を、その思想にでは全くなく、その党組織者としての独創力と才能のうちに認めた』からだった。
レーニンの『冷たさ』、侮蔑心および残虐さによって追放されたストルーヴェは、自分が『一つに自分の道徳的義務だ、二つにわれわれの教条には[レーニンが]政治的に不可欠だという両者』の関係を配慮して、このような否定的感情を『放逐』した、ということを認めている。(33) //
(*) 1792年、郊外居住者の輸送に際して、ロベスピエールはこう主張した。『私は人民の廷臣でも、仲裁者でも、審判官でも、擁護者でもない。-私は人民そのものだ!』(Alfred Cobban, Aspects of the French Revolution, London, 1968, p.188.)
(+) 彼はやがては個人的カルトを許すようになった。その理由を、アンジェリカ・バラバノッフにつぎのように説明した。『有用で、必要ですらある』、『われわれの農民は懐疑的で、読まないし、信じるために逢う必要もない。彼らが私の写真を見れば、レーニンは存在すると納得する。』 Balabanoff, Impressions of Lenin (1964, p.5-6).
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③につづく。