秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ライプツィヒ

2192/レフとスヴェトラーナ-第2章④。

 レフとスヴェトラーナ。
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 第2章④。
 (33) もっと恐ろしいことすら、やって来ることになった。
 1945年4月、西側連合軍がドイツに突入したとき、ナツィスは、ブーヒェンブァルト=ヴァンスレーベン(Buchenwald-Wansleben)収容所を退避させた。
 4月12日午後5時、長い行進が始まった。
 生き残っている収監者たちは、護送車に乗せられて収容所を離れた。その車は無蓋トラックに脇を挟まれ、それぞれに6人の武装したSS護衛兵が乗っていた。
 彼らは原野を北東に歩いて、デッサウへの道に入った。但し、レフや彼の周囲の者たちは、そのときどこに向かっているのかを知らなかった。
 彼らには、(反対方向の)ブーヒェンブァルトに戻っているように思えた。つまりは、ナツィスが虐殺した数万の犠牲者が以前に焼却された、火葬場を目ざしているのではないかと。
 ぼろ布を身にまとっている収監者たちは、疲労困憊して道から離れて倒れ始めた。-ドイツ兵が射殺して、全てが終わった。
 フランス人収監者は思い出している。
 「午後8時だと覚えている。突然に前方に、隊列の端から、多数の射撃音が聞こえた。
 SSが、疲れて歩けないか、求められる速さで歩けない仲間たち全員を、射殺していた」。//
 (34) レフは、逃げることに決めた。
 並んで歩いていた、ピトラー・グループの一人の、アレクセイ・アンドレーエフ(Aleksei)Andreev)に言った。
 レフは思い出す。
 「我々の前方の右側に、何かが燃えているのを見た。
 爆撃されたドイツの大型トラックが、火の中にあった。
 あそこを通過するときに、走ってあのトラックの後ろの茂みに逃げ込めば、我々の後方にいる監視兵たちは炎で気がつかないだろう、と私は言った。
 アンドレーエフは肯いた。」
 隊列から離れて走って、二人は、燃えている大型トラックの後ろの叢林に飛び込み、長い隊列の残りが通り過ぎるのを待った。
 そして、田畑を這って進み、溝の中へと身体を引き摺り込んで、縞模様の囚人服を隠せるように、干し草で身体を覆った。
 レフは、恐怖に打ち震えていた。
 彼が想起するように、戦時中の全期間の中で、これが最も恐怖に圧倒されたときだった。
 (35) 二人は、夜間に、森の中へと動いた。
 前方に、銃砲が火を吹く音が聞こえた。
 森の大部分は、爆撃ですでに破壊されていた。
 樹林を通して、光の輝き-探照灯-を見た。そしてその光のそばに、何台かの戦車の影があるのが分かってきた。
 アメリカ(US)の戦車だった。
 暗闇の中から、一人のアメリカ兵が現れた。
 二人に叫んだ。「武器を離せ!」
 レフは英語で叫び返した。「武器など持っていない」。
 「きみたちは誰だ?」
 「我々はロシア軍の将校だ。強制収容所から逃げてきた。」
 (36) レフは、ブーヒェンブァルトにいたこと、今はソヴィエト同盟に戻りたいこと、を説明した。
 アメリカ兵は、二人を近くの家屋に連れて行った。
 そこには、5人の戦車運転兵がいた。
 彼らは、ロシア人を自分たちと一緒に床で眠らせ、食料を与えてくれた。レフはパンと粥で生き返りながら、「レストランの食事のように旨い」と思った。
 翌朝、彼らはレフとアレクセイエフを自分たちでアイスレーベン(Eisleben)に送り、そこで離れたが、その際にアメリカ軍当局が助けてくれるだろうと告げた。//
 (37) 二人はアイスレーベンで、アメリカ軍少佐から取調べを受けた。その人物はレフに、ドイツ語で話しかけた。
 レフが核物理学者だと知ると、彼は、アメリカに亡命するようにレフを説得しようとした。そして、レフが断ると、それを理解できなかった。
 彼は言った。「どうして? ロシアは共産主義だ。共産主義には民主主義がない」。
 レフが戦争でどの程度自分の政治的見解を変えたかが分かるが、レフはこう答えた。
 「ロシアは共産主義ではない。賢い人々が得ることのできる自由が、十分にある」。
 レフは、政治的な議論にかかわろうとはしなかった。
 彼がアメリカでより良い生活を追求するのを拒否した本当の理由は、政治とは関係がなかった。要するに、故郷に、彼が愛した人々のいる所へ、帰りたかったのだ。
 世界の中で彼がもつ全員は、そこにいた。
 -彼は思い出した。「スヴェトラーナとその家族、オルガ叔母、カーチャ叔母、ニキータ叔父。こうした人々が、私には大切だった」。
 スヴェータが生きているかどうか、彼女がいつも自分を待ってくれているかどうか、レフは考えなかった。しかし、自分の気持ちに従わなければならないことを知っていた。
 「彼女が生きている可能性がほんの少しでもあるなら、どうして私がそれに背を向けて、アメリカに行くことができるのか?」
 (38) アメリカの少佐は、自由になった捕虜たちが使えるホテル用のクーポン券をくれた。
 その町の町長は元共産主義者で、二人をにコートと帽子を買わせるために店に連れて行き、新しいスーツを注文し、全額をその町が支払った。
 レフとアレクセイエフは、つぎの二ヶ月の間、アイスレーベンに滞在した。
 彼らの部屋の窓からは、マルティン・ルターが生まれた家が見えた。
 その二ヶ月間は、休暇のようなものだった。
 アイスレーベンには、アメリカ軍員と解放された捕虜たちのための自由食堂が4つあった。強制収容所で飢えていた年月の後だったので、レフは、それら食堂のどこでも、全ての食事をきちんと完食した。
 「我々は、一日に、12回食べた!」
 レフがこの当時に抱えた唯一の問題は、食事ごとに4つの自由食堂のいずれにも時間に間に合って着くことだった。
 この狂ったような食事ぶりは、レフに飢えるという恐怖感がなくなるまで、数日間は続いた。//
 (39) 〔1945年〕5月初頭、アイスレーベンで、アメリカ軍による勝利パレードがあった。
 そのすぐ後に、ソヴェト軍兵士の帰還を組織すべく、赤軍の代表者たちが到着した。
 ソヴェト軍が出発する6月8日、アメリカ軍は、ソヴィエトとアメリカの国旗を付けて「帰還おめでう!」と書いた幕で飾られたオープン・トラックを用意した。
 ソヴィエト軍兵士たちはそのトラックでトルガウ(Torgau)のエルベ河まで行き、そこで、ソヴィエト占領地帯へと渡った。
 彼らは、ソヴィエト軍当局には、同じ友好的な態度では受け入れられなかった。ソヴィエトは彼らを、収監者だとして扱った。
 帰還する兵士たちはソヴィエト軍護衛兵によって30のグループに分けられ、大型トラックでヴァイマル(Weimar)まで連れて行かれた。そこで、第8護衛軍司令部に付属する囚人地区へと入れられた。
 監獄は、SMERSH (「スパイに死を!」の頭字語)として知られる、NKVD の特殊部門によって管理されていた。その任務は、ドイツ軍に協力したソヴィエト兵士を根こそぎ殺戮することだった。//
 (40) レフの好運は、消え去った。
 彼は、他の8人とともに一つの部屋に投獄された。
 全員が衣類を脱がされ、身体を調査された。
 彼らの持ち物は全て、奪い取られた。
 レフは、過去の4年間ずっとポケットに入れて最も大切にしていたものを、失った。スヴェータの父親から貰った住所録だ。
 それは紙の一片にすぎなかったが、スヴェータと自分を結びつけるただ一つの物だった。//
 (41) 昼間は、床に座って、横になったり寝入ったりすることを禁止された。
 尋問は、夜に行われた。
 各人は順番に尋問に連れ出され、3ないし4時間あとで戻されたが、それは朝の起床の合図までの睡眠を剥ぎ取るものだった。
 レフは、一ヶ月以上にわたって、取調べを受けた。
 SMERSH の調査官は、ドイツ軍のためにスパイしているとレフを責めた。
 彼らがもつ唯一の証拠はレフの仲間から得たもので、カティンでドイツの少佐と会話しているのを聞いた、というものだった。
 レフは、それは本当のことだと認めた。
 彼は通訳者として働いていたことは承認したが、スパイでは決してなかったと強く主張した。ドイツに反対して働いていたのであって、ドイツ軍のためにではない。
 純粋無垢にも、真実を語れば郷土に帰ることが許されるだろう、という考えが彼には固着していた。
 彼は、ソヴィエトには正義があると信じていた。
 彼が闘ったのは、そのためにではなかったのか?
 つぎに起こったことで、彼の想いは粉々になった。
 数日後に、尋問官が、自白書に署名するのに同意しなければ射殺する、と脅迫した。
 レフは、打ちのめされた。
 彼は思い出す。
 「私は、死ぬことを怖れなかった。
 しかし、何度も、私が愛した人々が自分に罪があったと考えるかもしれない、と怖れた。」//
 (42) レフは、頻繁に、スヴェータのことを想った。
 生きて彼女のそばにおれそうにない、という気がした。
 1945年9月10日、スヴェータの28歳の誕生日、尋問が弱くなっていたとき、レフは、彼女と再び逢うことを諦めて、観念して彼女に「さよなら」を告げた。//
 (43) 質問がとくに連続した夜のあとの朝早くに、レフは生き生きとした夢を見ながら、軽い眠りに入っていた。
 「私は、取調べの後で、まどろんでいた。ほとんど夜が明けていた。夢を見た。
 自国のどこかを歩いているがごとく、きわめて鮮明で明確だった。
 振り返って、後ろにいるスヴェータを見た。
 スヴェータは白く身なりを整えて、やはり白い服を着ている小さな女の子の側で、地上に跪いていた。そして、何かを自分の服に合わせていた。
 とても輝いていて、とても明瞭で、そして目が覚めた。」
 (44) 自白書に署名させることができなかったので、尋問官たちは、有罪を認めて署名するよう、策略をレフに仕掛けた。
 軍事裁判所が無罪と認定するだろうと保障したうえで、彼らは、レフはがきちんと検証しなかった尋問調書に署名させた。
 レフは尋問将校たちを信頼した。文書を彼に提示し、レフが主張したものとされる言葉を使っていたからだ。
 将校は尋問調書の文章を読み上げ、レフは簡単にそれに署名した。
 頁の下にある小さな文字のこの署名は、彼のその後の人生を変えることになる。
 おそらくは、彼は疲れていた。
 おそらくは、彼は純粋無垢だった。
 レフは知らなかったけれども、将校は調書の一部だけを彼に読み聞かせ-大逆の罪を認める部分は全くそうしないで-、それに彼は署名した。
 レフが間違いだったと気づいたのは、ようやく裁判になってからだった。//
 (45) 1945年11月19日、三人で構成される第八護衛軍のヴァイマル軍事裁判所は、祖国に対する大逆の罪で、ソヴィエト公務員に用意されている刑法典第58条第1項(b)にもとづいて、レフに、死刑を言い渡した。
 この判決は即座に、グラク(Gulag)の矯正労働収容所への10年間の服役に減刑された。-奴隷労働にもとづくシステムの利益を考慮して、ソヴィエト裁判官がしばしば行う譲歩だった。
 裁判は、全てで20分つづいた。//
 (46) 〔1945年〕12月、レフは、フランクフルト・アン・デア・オーデル(Frankfurt an der Oder)の軍事監獄へと移された。
 彼は、ソヴィエト同盟の監視のもとで護送車で送り還された。そこから、北方のペチョラ(Pechora) 労働収容所への三ヶ月の長い旅が始まった。//
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 第2章の全部、終わり。

2186/レフとスヴェトラーナ-第2章②。

 レフとスヴェトラーナ。
 これはフィクションまたは「小説」ではない。
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 第2章②。
 (15) オーシャッツの生活条件は、その冬に劇的に悪くなった。
 労働時間は増えたし、監視員が疲れ果てた収監者をもっと労働させて搾り取るために、鞭打ちを行った。
 1943年の1-2月には、新しい捕虜の一群が労働旅団に入って来た。
 彼らの多くはウクライナ出身だった。ウクライナでは、1930年代のテロルと飢饉によってソヴィエト制度から多くの民衆が離れていて、このときはドイツ軍が占領していた。
 彼らが到着したすぐ後で、収容所体制が柔軟になった。それは、捕虜たちから募って、A・ウラソフ(Andrei Vlasov)が組織している反ソヴィエトのロシア解放軍に加入させようとするドイツ軍の努力の一つだった。
 ウラソフは、赤軍の前の将軍だったが、1942年7月にドイツ軍に捕らえられ、ナツィスに対して、自分を解放運動の長に任命するよう説得した。共産主義体制を一掃することを目指してのことだ。
 ウラソフがオーシャッツで募った者たちのグループがあり、そのほとんどは戦前の「明確ではないがドイツ製のではない制服を着ている」ロシア人エミグレだった。そうレフは思い出した。また、彼らは多数ではない、ソヴィエトの青年将校たちだった。
 その将校たちはロシア解放軍に入っていた。但し、主としては捕虜強制収容所の恐るべき条件から逃れるためにそうしたようにレフには思えた。というのは、その収容所で、ソヴィエトの収監者たちは「きわめて苛酷に扱われ、他のどの国の収監者よりも自己防衛の権利または手段を持たなかった」。//
 (16) レフは何度も呼び出されて、ドイツ軍とウラソフ募兵員から、ロシア解放軍に将校として加わるよう圧力を受けた。
 そのたびごとに、レフは拒絶した。
 ドイツは彼を疑うようになった。
 彼らはレフに、HASAG 収容所での通訳としての活動について尋ね始めた。
 こうした尋問の一つがあったときのタバコ休憩の間に、ドイツ人用の通訳者がレフを廊下の端まで連れて行って、ウラソフの徴兵の失敗はレフに責任があるとドイツ側は考えている、と警告した。
 収容所内のレフの作業チームは、その中で一人すらもウラソフ軍に応募しないチームだった。その作業チームの唯一のソヴィエト将校だったレフに、疑いが向けられていた。//
 (17) レフは、逃亡する必要がある、と認識した。
 旅団の中の他の三人の収監者も、同じことを考えた。
 彼らは、〔1943年〕6月に企てを実行することに決めた。そのときには収穫物は大きくなっていて、150キロ離れたポーランドへの行路で食糧を恵んでくれるだろう。ポーランドでは、その民衆たちが彼らに同情して、食糧をくれるだろう。
 彼らの計画は、ベラルーシにいるソヴィエト・パルチザンに合流することだった。
 準備のために、彼らは、乾パンと砂糖を節約して貯めた。
 レフはコンパスを作り、ドイツ監視員の一人から借りた地図を写し取った。そのドイツ人は自分の家族についてレフに話したり、週末にどこへ行ったかを語るのが好きだった。
 彼らは何とかして、薬すらも手に入れた。レフが注意深く自分の指を切り、ロシア人捕虜の医師がいる収容所の診療室に送った。
 その医師は何も訊かないで、消毒薬、アスピリンとバンドエイドが欲しいというレフの求めに応じた。//
 (18) レフたちは、1943年6月22日の夜に逃亡した。その日は、ドイツによる侵攻二周年の日だった。
 外衣をすでに少しは脱いで、彼らは兵舎の窓から上に昇り、中庭の壁を目測した。そして、頂上部の有刺鉄線を、レフが作業場で作った二つの尖った金属片を使って通り抜けた。
 収容所の外の野原に飛び降りて、暗闇の中を森へと走り込んだ。
 四人は、北に向かった。ドイツ軍は先ず東の方を探索するだろうと想定したからだ。
 夜は歩き、日中は隠れた。
 彼らがもつ地図は、きわめて粗いものだった。-写し取った原図は小学校の教科書に掲載のものだった。そのために、道路標識を手がかりにして進まなければならなかった。
 エルベ河に到達したとき、レフが泳いで横切るのをひどく怖がったので、河に沿って東に向かった。そして、ドレスデンの南を回って、ポーランドへと東に歩き続けた。
 レフは思い出す。
 「乾燥させた食べ物を持ってはいた。だがすぐに、それを予備に残して、農家の屋外の小屋から盗んで食べることに決めた。<中略>
 間違っていると私は最初は思ったが、それに同意した。」
 途上の三週間後に、ポーランド国境のゲルリッツ(Görlitz)の近くで、二人のドイツ兵に見つかった。
 自転車で自分たちに向かってくる兵士たちに気づき、銃砲を携帯しているだろうと想定して、彼らは、溝の中に逃げ込んだ。しかし、その兵士たちはそこで、光を照らして探そうとした。
 「我々の旅の馬鹿げた終わりだった。兵士たちは、武装すらしていなかった。」//
 (19) レフは何も分かっていなかった。ポーランドに着いたら、あるいはドイツの戦線を越えたら、そしてモスクワまでたどり着いたとしたら、いったいどうなるのだろうか。
 ソヴィエト同盟の状況について、あるいはスヴェータとその家族にもう一度逢う機会について、彼には現実的な考えがなかった。
 最初に捕まった瞬間から、ロシアから信頼できる情報を得る手段がなかった。
 オーシャッツでは、収監者にペンと用紙がドイツ軍によって与えられたが、ドイツが占領している地域の者たちにだけ手紙を書くことができた。
 レフは一度、行方不明になった収監者仲間の妻がいるプラハに手紙を出して、その夫である彼についての報せがあるかを尋ねた。
 その妻はレフに返事を書いてきて、小包すら送ってきたが、自分の夫の運命については自分よりもレフの方がよく知っていそうだ、と告げた。//
 ++
 (20) スヴェータもまた、暗闇の中にいた。
 1941年9月の末にレフがモスクワを去った後、彼に関する知らせは何も受け取っていなかった。
 そのとき、何もかもが、不確かだった。
 モスクワは生き残れるのかどうか、誰にも分からなかった。
 モスクワは、7月以降のドイツ空軍の爆撃で大きな被害を受けていた。
 一日に頻繁に、サイレンが鳴り響いた。
 発電所が攻撃され、アパート地区には熱や光がなくなった。燃えるビルだけが、夜空を照らしていた。
 人々は、地下の防空壕で生活した。
 膨大な数の人々が、死んだ。
 10月1日、スターリンは、政府をヴォルガのクイビシェフ(Kuibyshev)〔=サマラ〕に避難させることを命じた。
 市内への爆撃が激しくなるにつれて、パニックが広がった。
 全ての店に、巨大な人の列ができた。食糧をめぐって喧嘩が発生し、略奪が増えた。大量に逮捕しても、ほとんど統制することができなかった。
 ドイツ軍がヴャジマ〔Viazma〕を突破したとの報せが、10月16日に、ついにモスクワに届いた。
 どの鉄道駅でも、東に向かう列車に乗り込もうと競い合う群衆による、醜い光景が見られた。
 人々は、工場や共産党の幹部たちがすでに去ってしまっていることを知って、彼らを呪った。
 どの家族も、荷物を詰め込んで、利用できる手段を何でも使って、モスクワから外へ出た。
 タクシー運転手は、モスクワからカザンまでの料金として2万ルーブルを請求した。//
 (21) モスクワ大学は、10月に避難した。
 スヴェータは、家族と一緒に旅をした。
 列車に乗っていた学生たちの中に、のちのノーベル賞受賞者、A・サハロフ(Andrei Sakharov)がいた。サハロフは、レフやスヴェータの一年後に同じ学部に入学したのだったが、スヴェータは休学していたので、このときは同じ学年だった。
 彼らが最初に停車したのは、モスクワ東方300キロの古い地方都市、ムロム(Murom)だった。ここにサハロフはその母親と娘とともに滞在し、戦時中の混乱を有益なことに利用した。昼間には娘が、働いている店から砂糖を盗み、夜間には母親が、「一つなぎの兵士たちを」愉しませた。
 その市街は、東方への避難を待っている負傷兵たちで溢れていた。
 多くの兵士が駅のホールで担架の上に横たわり、鉄道路線そばの雪の中にいる者すらいた。
 近隣の村落から来た女性たちが、食べ物やタバコを売っていた。
 また別の女性たちは、息子や夫たちを探していた。そして、行方を知っているかもしれないと負傷兵に尋ねたり、病院で誰かが遭遇するかもしれない場合にと手紙を渡したりしていた。//
 (22) 学生たちはムロムからウラルまでは東へと旅をしつづけ、そして、南へと凍ったカザフ高原を縦断して、アシュハバート(Ashkhabad)に向かった。この都市はトゥルクメン共和国の埃っぽい首都で、ソヴィエトとイランの国境から大して遠くなかった。
 ここで、モスクワ大学物理学部は、その機能を再開することになる。
 旅行には、一ヶ月を要した。
 列車の各車両には一台のストーブと40人用の寝台があった。サハロフは各車両について、こう思い出している。
 「指導者、話し好きと寡黙な者、パニック煽り立て屋、敏腕家、大食漢、怠け者と勤勉家、そうした者たちがいる、別々の共同体になった」。
 スヴェータは、静かで勤勉な者の一人だったに違いない。
 アシュハバートで12月に始まった講義では、スヴェータは、戦争前の学習中断を埋め合わせるべく、懸命に勉強する必要があった。
 彼女は化学と振動物理学のクラスに出席した。これは実習のないむつかしい理論的な科目だったので、長時間を図書館に入り浸りで過ごした。
 彼女はまた、自分と両親の生活を支えるために、カフェテリアの皿洗いとして働いた。
 その冬とそれに続く春に多くのことがあったため、スヴェータは当時の中央アジアに共通する病気であるマラリアに罹患した。
 のちにスヴェータは、こう書いた。
 「疲れすぎて、飲むことすらむつかしい。
 高熱と闘って、消耗して、『完全に僻んだ』」。
 彼女は生きるべく藻掻いた。そして、何とか切り抜けた。
 (23) 卒業してのち、スヴェータは、軍用品人民委員部に配属された。
 しかし、彼女の父親の助力で、当時は化学合成以外でも活動していたが、スヴェルドロフスク近くのフロムニク(Khromnik)にあった合成樹脂産業科学研究所へと移った。スヴェータは1942年8月から、工業物理学者として「物理機械的検査実験室」に勤務した。
 この研究所は一日11時間活動しており、彼女は最初は自分のすることを見つける必要がある、と感じた。つぎのように書いたとおりだ。
 「不思議で馴染みのない実験室にいた。何から始めればよいか、どこに落ち着けばよいか、分からなかった。
 機械が怖かったし、ゴムについては何も知らなかった。
 それで図書館へと逃げた。<中略>
 私は図書館でロシアの論文や報告書を読んで一日の半分を過ごし、あとの半分は英語に取り組んだ。
 英会話クラブに入った。アシュハバートで英語を勉強したのではなかったけれども。
 総じては、気持ちがとても高揚した時期だった。
 アシュハバートの煙霧、アフガンの風のあとで、沙漠から粉塵のように細かい砂粒が吹いてきた。
 8月には、黄金の秋の予兆が全くないままに、葉っぱが落ちた。
 ウラルは地上の楽園のように思えた。-松の木、樺の木、キノコ、雨。
 世界じゅうの人々と、手紙をやりとりした。<中略>
 毎日2-3通の手紙を受け取った。そして、まもなく家に戻れると知った。」
 (24) 研究所はすでに、モスクワに帰る準備をしていた。モスクワでは、ソヴェト軍の反攻のあとで、ドイツ軍の脅威はもう過ぎ去っていた。
 赤軍が切実に必要としていたのは、タイヤ産業を支援するための、研究所の専門研究者だった。
 1943年1月頃に、スヴェータは家に戻った。
 学生としてレフとスヴェータが知っていた市街の多くは、戦争で破壊されるか損傷していた。
 ビルの多数が暖房のないままで残り、電力不足が原因で光は暗くなったり、しばしば完全に消えたりした。下水管は漏れており、食料店は空だった。
 スヴェータはのちに書くことになる。
 「我々はみな寒くて、飢えており、暗闇の中で生きていた」。//
 (25) 1942年4月に、スヴェータの両親は妹のターニャとともにモスクワに帰っていた。
 両親は、明らかに年老いていた。
 アナスタシアはしばしばブルセラ病に罹り、痛みを伴う胃腸病が彼女を消耗させた。そして、アレクサンドルは60歳のときに、急に衰えていく兆候を見せた。
 スヴェータが帰ったとき、彼らが神経質であるのに気づいた。
 両親には心配することが多数あった。スヴェータの兄は前線に行ったのだったが、それ以来彼からは連絡がなかった(彼はドイツ軍に捕らえられ、バルト海のウゼドーム島の強制収容所に収監されていた)。一方で妹のターニャは、1942年9月に学生「義勇兵」としてスターリングラードへと赴かされていた。
 アレクサンドルの弟のイノケンティ(「ケーシャ叔父さん」)とその妻が、両親の厄介になっていた。このレニングラードの二人は、戦争が始まって以降はモスクワにいて、1943年にレニングラードの包囲が解かれるまでは家に戻ろうとはしなかったのだ。
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 ③につづく。

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