Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)。
試訳をつづける。第一部第2章。邦訳書はないと見られる。
——
第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
第二章・野蛮人を求めて—文化的普遍性という幻想②。
(5)数年前に私はメキシコの前コロンビア遺跡を訪れて、そこで幸運に著名なメキシコの文筆家と知り合った。そして、その地域のインディアンの人々の歴史を十分に熟知した。
彼がいなければ私は知らなかっただろう多くの物事の意味を私に説明する過程で、彼はしばしば、スペインの兵士たちの野蛮さを強調した。彼らはアステカの彫像類を破砕して、美しい金の人物像を溶かして皇帝の像の付いた硬貨を鋳造した。
私は彼に言った。
「この者たちは野蛮だとあなたは考える。だがおそらく、そうではない。彼らは真(true)のヨーロッパ人だった。じつに、最後の本当のヨーロッパ人ではなかったか?
彼らはキリスト教とラテン文明を真面目に信頼した。真剣にそうしたがゆえに、異宗徒の偶像を守る理由はないと考えた。異なる、したがって敵対的な宗教的意義が染み込んだ自分たちの物事の考察方法に、考古学者の好奇心や美的公平さを持ち込む理由もない、と。
彼らの振る舞いにひどく立腹するとすれば、その理由は、彼らの文明と我々の文明のいずれにも無関心であることだ。」//
(6)もちろん冗談だが、しかし、完全には無邪気とは言えない冗談だ。
我々の世界の生き残りにとって決定的な問題は何かを、考えさせるかもしれない。すなわち、我々自身の文明に対する真剣な関心もつことをしないままで、他の文明に対して寛容さや好意的な関心を示すことは可能なのか?
言い換えると、他の文明を破壊しようとしないで、我々が一つの文明の排他的な構成員であることを肯定することは、我々はどの程度に可能なのか?
自分の文化の尊重という理由だけで野蛮さを拒否するというのが本当ならば、野蛮でないという性格をもつ文明だけは生き残ることのできないものだ。—これは慰めとなる結論ではない。そして思うのだが、本当の結論でもない。
私は逆に、我々の文明の発展には虚偽を裏付ける論拠が含まれている、と考える。
コルテス(Cortés〔メキシコ征服者〕)の兵士たちは野蛮人だったと言うのは、どのような意味で正しいのか?
彼らは遺跡の保存者ではなく征服者だった、彼らは残虐で貪欲で容赦がなかった、ということに疑いはない。
彼らはまた敬虔で、信仰に真摯に向き合っており、自分たちの精神的優越性に自信をもっていた、ということも十分に言えそうだ。
彼らが野蛮人であるなら、征服者の全てはその定義上野蛮人であるか、または異なる習慣をもって異なる神を崇拝している者たちを何ら尊重しなかったかのどちらかの理由でだろう。
要するに、他の文明に対する寛容という美徳が、彼らには欠けていたからだ。//
(7)しかし、ここで困難な問題が生じる。すなわち、他の文化に対する敬意はどの程度であるのが望ましいのか? そしてどの点でまさにその望ましさは野蛮になったり、今そうであるように賞賛すべきものになったりし、野蛮さに無関心になり、あるいはじつにその野蛮さを肯定するに至るのか?
<野蛮な>(barbarian)という術語はもともとは、理解し難い言語で話す人々を指すものとして用いられた。だがすみやかに、文化的意味で侮蔑の意味を帯びるようになった。
哲学を勉強した者ならば誰でも、Diogenes Laertius 〔3世紀頃の哲学史学者—試訳者〕の有名な序文を思い出すだろう。その序文で彼は、ギリシア人より前に野蛮人、インドの裸行者やケルト族(Celtic)の聖職者たちの間に哲学があったという誤った見解を攻撃した。これは、文化的普遍主義や3世紀のコスモポリタン主義に対する攻撃だった。
いや、彼が言っているのは、哲学と人間の種が生まれたのは、ここ、つまり神々の息子たちである、アテネやテーベの人々の中でだ、ということだ。
彼は、カルディア(Chaldean)の魔術師たちの奇妙な習慣やエジプト人の粗野な考え方を引き合いに出す。
<哲学者>という呼称がトラキアのオルフェウス(Orpheus of Thrace)、神々に人間の最も基礎的な感情すら与えて恥じなかった男、について用いられる可能性があることに、彼は激しく怒っている。
この防衛的な自己肯定が書かれたのは、古代の神話が有効性を失うか哲学的議論へと昇華したとき、そして文化的および政治的秩序が目に見えて解体していく状況だったときだった。この頃すでに、一種の懐疑が這入り込んでいた。
そうした秩序を継承しようとした者たちは、野蛮人だった。—つまり、キリスト教徒。
我々はときどき、シュペングラー(Spenglerian)哲学や何らかの「歴史形態学」の影響を受けて、我々は似たような時代を生きていて、非難宣告を受けた文明の最後の目撃証人だ、と心に描く。
しかし、いったい誰に非難されているのか?
神によってではなく、想定される何らかの「歴史法則」によってだ。
なぜなら、どんな歴史法則も我々は認知しないけれども、我々は実際には全く自由にそのようなものを考案することができ、そのような歴史法則はいったん考案されると自己実現的予言のかたちで実現されることがあるからだ。//
(8)しかし、この歴史法則なるものに関して我々が感じるのは曖昧さであり、一貫性がない、ということだ。
我々は一方では、異なる文明に関する価値判断をするのを拒む普遍主義と何とか折り合おうとしてきた。本質的な対等性を強調することによって。
他方で、この対等性を肯定することによって、全ての文化の排他性と不寛容さもまた、肯定してきた。—同じような肯定をする際に生まれたと我々が主張するのは、まさにこのことだ。//
(9)このような曖昧さには逆説的なものはない。こうした混乱の真只中ですら、我々は成熟の頂点にあるヨーロッパ文化の際立つ特質を肯定しているからだ。すなわち、排他性の外側へと踏み入り、自問し、他の文明の目を通して自らを理解するという能力。
Casa の司教バルトロメ(Bartlomé)は彼が専門とするキリスト教の同じ原理の名でもって、侵略者に対する激しい攻撃を開始した。
彼の闘いの直接の結果とは関係なく、彼は、他の文化を擁護し、かつヨーロッパ拡張主義がもつ破壊的影響力を非難しようとする自分の仲間の人々に対して反対の側に回った、最初の一人だった。
ヨーロッパが精神的な優越性を主張することに関する一般的な懐疑論が広がるには、宗教改革と宗教戦争の開始が必要だった。
それはモンテーニュ(Montaigne)とともに始まり、自由思想家(Libertines)や啓蒙の先駆者たちの間では常識的なことになった。
(Bayle の辞典の中の記事によって有名になったRosario に続いて)人間を動物と比較させて後者に対する優越性だけを認め、人間という種を全体としては侮蔑をもって見るという、のちに一般的となる趨勢の開始者となったのも、モンテーニュだった。
攻撃するために他文明の目を通じて自分たちの文明を見て、その趨勢は啓蒙主義の書物に広く行き渡った著作上の常套手法となった。そして、「他文明」とは、十分に対等に、中国人、ペルシア人、馬、あるいは宇宙からの訪問者であり得た。//
(10)つぎのことを言うために、よく知られた以上のことに言及している。つまり、我々は、おそらく大部分はトルコの脅威のおかげでヨーロッパがそれ自体の文化的一体性の明確な意識を獲得したのとまさに同時に、ヨーロッパの価値の優先性を疑問視し始めたのだ。そうして、ヨーロッパの強さだけではなく多様な弱点と脆さの根源となることになった、際限のない自己批判の過程が始まることになった。//
——
③へとつづく。
試訳をつづける。第一部第2章。邦訳書はないと見られる。
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第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
第二章・野蛮人を求めて—文化的普遍性という幻想②。
(5)数年前に私はメキシコの前コロンビア遺跡を訪れて、そこで幸運に著名なメキシコの文筆家と知り合った。そして、その地域のインディアンの人々の歴史を十分に熟知した。
彼がいなければ私は知らなかっただろう多くの物事の意味を私に説明する過程で、彼はしばしば、スペインの兵士たちの野蛮さを強調した。彼らはアステカの彫像類を破砕して、美しい金の人物像を溶かして皇帝の像の付いた硬貨を鋳造した。
私は彼に言った。
「この者たちは野蛮だとあなたは考える。だがおそらく、そうではない。彼らは真(true)のヨーロッパ人だった。じつに、最後の本当のヨーロッパ人ではなかったか?
彼らはキリスト教とラテン文明を真面目に信頼した。真剣にそうしたがゆえに、異宗徒の偶像を守る理由はないと考えた。異なる、したがって敵対的な宗教的意義が染み込んだ自分たちの物事の考察方法に、考古学者の好奇心や美的公平さを持ち込む理由もない、と。
彼らの振る舞いにひどく立腹するとすれば、その理由は、彼らの文明と我々の文明のいずれにも無関心であることだ。」//
(6)もちろん冗談だが、しかし、完全には無邪気とは言えない冗談だ。
我々の世界の生き残りにとって決定的な問題は何かを、考えさせるかもしれない。すなわち、我々自身の文明に対する真剣な関心もつことをしないままで、他の文明に対して寛容さや好意的な関心を示すことは可能なのか?
言い換えると、他の文明を破壊しようとしないで、我々が一つの文明の排他的な構成員であることを肯定することは、我々はどの程度に可能なのか?
自分の文化の尊重という理由だけで野蛮さを拒否するというのが本当ならば、野蛮でないという性格をもつ文明だけは生き残ることのできないものだ。—これは慰めとなる結論ではない。そして思うのだが、本当の結論でもない。
私は逆に、我々の文明の発展には虚偽を裏付ける論拠が含まれている、と考える。
コルテス(Cortés〔メキシコ征服者〕)の兵士たちは野蛮人だったと言うのは、どのような意味で正しいのか?
彼らは遺跡の保存者ではなく征服者だった、彼らは残虐で貪欲で容赦がなかった、ということに疑いはない。
彼らはまた敬虔で、信仰に真摯に向き合っており、自分たちの精神的優越性に自信をもっていた、ということも十分に言えそうだ。
彼らが野蛮人であるなら、征服者の全てはその定義上野蛮人であるか、または異なる習慣をもって異なる神を崇拝している者たちを何ら尊重しなかったかのどちらかの理由でだろう。
要するに、他の文明に対する寛容という美徳が、彼らには欠けていたからだ。//
(7)しかし、ここで困難な問題が生じる。すなわち、他の文化に対する敬意はどの程度であるのが望ましいのか? そしてどの点でまさにその望ましさは野蛮になったり、今そうであるように賞賛すべきものになったりし、野蛮さに無関心になり、あるいはじつにその野蛮さを肯定するに至るのか?
<野蛮な>(barbarian)という術語はもともとは、理解し難い言語で話す人々を指すものとして用いられた。だがすみやかに、文化的意味で侮蔑の意味を帯びるようになった。
哲学を勉強した者ならば誰でも、Diogenes Laertius 〔3世紀頃の哲学史学者—試訳者〕の有名な序文を思い出すだろう。その序文で彼は、ギリシア人より前に野蛮人、インドの裸行者やケルト族(Celtic)の聖職者たちの間に哲学があったという誤った見解を攻撃した。これは、文化的普遍主義や3世紀のコスモポリタン主義に対する攻撃だった。
いや、彼が言っているのは、哲学と人間の種が生まれたのは、ここ、つまり神々の息子たちである、アテネやテーベの人々の中でだ、ということだ。
彼は、カルディア(Chaldean)の魔術師たちの奇妙な習慣やエジプト人の粗野な考え方を引き合いに出す。
<哲学者>という呼称がトラキアのオルフェウス(Orpheus of Thrace)、神々に人間の最も基礎的な感情すら与えて恥じなかった男、について用いられる可能性があることに、彼は激しく怒っている。
この防衛的な自己肯定が書かれたのは、古代の神話が有効性を失うか哲学的議論へと昇華したとき、そして文化的および政治的秩序が目に見えて解体していく状況だったときだった。この頃すでに、一種の懐疑が這入り込んでいた。
そうした秩序を継承しようとした者たちは、野蛮人だった。—つまり、キリスト教徒。
我々はときどき、シュペングラー(Spenglerian)哲学や何らかの「歴史形態学」の影響を受けて、我々は似たような時代を生きていて、非難宣告を受けた文明の最後の目撃証人だ、と心に描く。
しかし、いったい誰に非難されているのか?
神によってではなく、想定される何らかの「歴史法則」によってだ。
なぜなら、どんな歴史法則も我々は認知しないけれども、我々は実際には全く自由にそのようなものを考案することができ、そのような歴史法則はいったん考案されると自己実現的予言のかたちで実現されることがあるからだ。//
(8)しかし、この歴史法則なるものに関して我々が感じるのは曖昧さであり、一貫性がない、ということだ。
我々は一方では、異なる文明に関する価値判断をするのを拒む普遍主義と何とか折り合おうとしてきた。本質的な対等性を強調することによって。
他方で、この対等性を肯定することによって、全ての文化の排他性と不寛容さもまた、肯定してきた。—同じような肯定をする際に生まれたと我々が主張するのは、まさにこのことだ。//
(9)このような曖昧さには逆説的なものはない。こうした混乱の真只中ですら、我々は成熟の頂点にあるヨーロッパ文化の際立つ特質を肯定しているからだ。すなわち、排他性の外側へと踏み入り、自問し、他の文明の目を通して自らを理解するという能力。
Casa の司教バルトロメ(Bartlomé)は彼が専門とするキリスト教の同じ原理の名でもって、侵略者に対する激しい攻撃を開始した。
彼の闘いの直接の結果とは関係なく、彼は、他の文化を擁護し、かつヨーロッパ拡張主義がもつ破壊的影響力を非難しようとする自分の仲間の人々に対して反対の側に回った、最初の一人だった。
ヨーロッパが精神的な優越性を主張することに関する一般的な懐疑論が広がるには、宗教改革と宗教戦争の開始が必要だった。
それはモンテーニュ(Montaigne)とともに始まり、自由思想家(Libertines)や啓蒙の先駆者たちの間では常識的なことになった。
(Bayle の辞典の中の記事によって有名になったRosario に続いて)人間を動物と比較させて後者に対する優越性だけを認め、人間という種を全体としては侮蔑をもって見るという、のちに一般的となる趨勢の開始者となったのも、モンテーニュだった。
攻撃するために他文明の目を通じて自分たちの文明を見て、その趨勢は啓蒙主義の書物に広く行き渡った著作上の常套手法となった。そして、「他文明」とは、十分に対等に、中国人、ペルシア人、馬、あるいは宇宙からの訪問者であり得た。//
(10)つぎのことを言うために、よく知られた以上のことに言及している。つまり、我々は、おそらく大部分はトルコの脅威のおかげでヨーロッパがそれ自体の文化的一体性の明確な意識を獲得したのとまさに同時に、ヨーロッパの価値の優先性を疑問視し始めたのだ。そうして、ヨーロッパの強さだけではなく多様な弱点と脆さの根源となることになった、際限のない自己批判の過程が始まることになった。//
——
③へとつづく。