秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ユートピア

2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 第12章の後半。原書、p.88〜p.93。この書に邦訳書はない。
 ——
 第12章・退屈について(On Boredom)②。
 (7)毎日の決まり事と単調さは、実際に退屈だったように見ることもできる。
 マス・メディアが好んで印刷したり放映する報道はいつも悪いことで、旱魃や飢饉、戦争や危機、殺人や大虐殺と全く同じようだと、我々はしばしば不満をこぼす。
 人々は、全くしばしば、悪いニュースだけがニュースなのだから、とその理由を答えるだろう。 
 スミス氏が通りで殺されれば、ニュースになる。
 だが、スミス氏が起床し、朝食を摂り、仕事に出かけて、また家に戻っても、ニュースにならない。つまり、これらは退屈なのだ。
 ジョーンズ氏が離婚すれば、ニュースだ(少なくとも彼の友人には)。だが、彼が妻と幸せに仲睦まじく生活していれば、ニュースではなく、退屈させるものだ。
 ニュースは、蓋然性がなく、予見し難いことで出来ている。そして、予見し難いことは、我々には、好ましくないことの方が多い。
 我々が世界の混乱から利益を得ることはない。
 人間の歴史は、予見不可能性や偶然との長い闘いだ。
 しかし、かりに偶然が全体として我々に好ましいものならば、我々の生活への偶然の影響を少なくしたいと思う何の理由もないだろう。
 スミス氏が宝くじに当たることもニュースだ。良いニュースだけれども。
 スミス氏にだけ良いニュースで、券を買って負けて、スミス氏が勝つのを許す残りの我々には、そうではない。
 そして、スミス氏にとってすら、宝くじに当たることは全体としては結局は悪いニュースだったことが判明する。//
 (8)例えばだが、人生の大部分を読書に費やす、我々のうちの好運な者たちは、総じて、関心を掻き立てる事物がなくて困るということはない、という意味で、退屈しはしない。 
 その者たちには、そのような事物はつねに、手の届く範囲内にある。
 実際のところ、ラジオ、テレビ、音楽その他の形態の娯楽をつねに利用できる世界で、いったい誰が退屈することがあるだろうかと、思うかもしれない。この世界では確かに、興味を抱かせる何かを見つけるのは十分に容易だ。
 だがなおも、我々はいつも、暴力をふるう若者の一団がいて世界中の都市で略奪し回り、通り道で何かまたは誰かを理由もなく破壊したり襲ったりしていると、聞いたり読んだりしている。そして、彼らは退屈しているのだと言って、彼らの振る舞いの理由を説明している。
 興奮させる映画を観る理由は、観ているのがフィクションであることを忘れることができない、あるいは行動に現実に参加していると感じることのできない、そのような消極的な気分で観ていることではおそらくない。
 テレビの英雄たちの最も刺激的な冒険ですら、じつに、一種の刺激物に対する我々の退屈や空腹感を増加させる。そして、不公平だとの感情すら生じさせる。「エリザベス・テイラーほどの金を、なぜ自分は持てないのか? 公正じゃない。」
 食べる物も着る物もあるが、豊かさはなく、映画スターなら持つだろうと想像する現実のまたは虚構上の冒険をすることのできない、貧しい若い人々がいる。このような人々に対して、我々はどうすればよいのか?
 我々は彼らの好奇心や刺激を求める気持ちを「建設的な」方向へと流し込む必要がある、と言うのは容易だ。そのようになれば、彼らは理由もない破壊行為や無意味の演奏会と喧しい騒音での集団的恍惚状態でもって自己を表現しはしないだろう、と。
 しかし、どうやって?//
 (9)好奇性は、退屈さと同様に、人間に独特の性質で、<とくに秀でた>人間の性質だ。
 肉体的必要を充足させて、脅威となる危険はないことが確実になった後ですら、世界を探検に向かわせる衝動を与えるのが、好奇性だ。
 言い換えると、我々を動物の状態を超える場所へと導くのが、とりわけこの性質だ。
 退屈さと退屈するという特性と同様に、好奇性と関心をもつという特性、つまり好奇の客体は、その客体についての我々の経験と客体それ自体のそれぞれの属性であり得るものだ。
 一方は、もう一方なくしては存在することができない。
 そして、「好奇性」と「関心をもつ」や「退屈さ」と「退屈している」はそれぞれ反意語かつ補完語であるがゆえに、退屈さは好奇性を求めて我々が払う代償だ。すなわち、我々が少しも退屈していなければ、我々はきっと好奇心を持たないだろう。
 言い換えると、我々のもつ退屈するという能力は、我々の人間性の不可欠の一部なのだ。
 我々は、退屈することができるがゆえに、人間だ。//
 (10)退屈だとの感情は、我々が当然に逃れることを望むものだ。そして逃れようとするには、破壊的形態と建設的形態のいずれも必要になり得る。
 破壊的形態は、しかしながら、より容易だ。
 例えば、戦争は、恐ろしいものだが、退屈させはしない。
 闘争心と戦いの中で生まれる本能は、退屈を防止する良い手段だ。そしてこれらは、多くの戦争の原因の中にあったに違いない。
 さらに加えて、退屈はしばしば反復によって生まれるがゆえに、我々の存在の根源にある興味が薬依存者のように尽きてしまい、多くのかつより強い刺激を絶対的に必要とするようなもの以上に、多く発生し得る。
 このような状況が何をもたらすかについて、語る必要はないだろう。//
 (11)我々が考察してきた現象のうち一つの個別の事例は、「退屈させる人」だ。
 退屈させる人というのは、叙述するのがきわめて困難だ。
 この人の退屈さは、彼の学歴やその欠如、あるいは彼の性格に関係はない。
 彼には、常時同じことを反復させる誰かが必要なのではない。
 退屈させる人は、重要なものとそうでないものを識別することのできない人物である可能性が高い。
 この人に関する逸話は、不必要で煩わしい些細なことでいっぱいだ。
 彼は、ユーモアと皮肉のいずれにも縁がない。
 彼は、他の全員が興味を失ったあとでも、長く一つの主題を奏でつづけるだろう。
 要するに、彼には人間の相互関係の通常のメカニズムが欠けているように見える。
 たぶんこのことの理由は、正確には、人間の意思疎通に必要な対照関係(contrast)を作り出すことができない、ということにある。
 そうだとすると、この人物は、私が概述してきた退屈という一般的概念には適応しないだろう。//
 (12)対立やストレスのない完全な充足の状態は、これを我々はユートピアと呼ぶが、かりに万が一生じるとしても、人間性の終わりを意味するだろう。
 なぜなら、人間性のうちにある好奇(curiosity)を求める我々の本能もまた消滅するだろうからだ。
 これが、我々の種(species)が現実にそうであるのとは異なり、ユートピアが決して建設され得ないことの理由だ。
 しかし、最近にFrancis Fukuyama が予言したように、「歴史の終わり」を、すなわち現存する政治諸制度に対していかなる別の選択肢も想定できず、戦争も貧困も、芸術も文学もない世界—要するに、全面的でかつ永続的な退屈の世界—を想像することができないのか?
 その見込みは果てしなくなさそうなので、深刻に悩む必要は全くない。だが、もしもあるとすれば、我々はこうするだろう。すなわち、絶望的になってまさに街中の略奪集団が選ぶような解決方法—それ自体が目的の破壊衝動—を探さないで、我々自身の退屈な生活をすぐには諦めない。
 これこそが、普遍的な人間の現象全てと同じく、退屈は利益にもなるし危険にもなり得る、ということの理由だ。//
 ——
 以上、第12章、終わり。
 下は、原書の表紙。
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1700/社会主義と独裁②ーL・コワコフスキ著18章6節。

 レーニンは、「人民(民衆)」、「被抑圧階級」等々とよく言う。
 日本共産党がこれに該当とするものとして現在用いているのは、「国民」だ。
 「国家、それは一階級の他の階級に対する支配を維持するための機構である」。p.485。
 「国家とは、一階級が他の階級を抑圧するための機構、一階級に他の隷属させられた諸階級を服従させておくための機構である」。p.487。
 エンゲルスが言うように、「土地と生産手段の私的所有が存在しており、資本が支配している国家は、どんなに民主主義的であろうと、すべて資本主義国家であり、労働者階級と貧農を隷属させておくための資本家の手中にある機構である」。p.493。
 以上、1919年。日本語版・レーニン全集29巻より。
 「今日に至るまでの全ての社会の歴史は、階級闘争の歴史だ。/
 封建時代の没落から生まれた近代ブルジョア社会は、階級対立をなくさはしなかった。新たな階級を、新たな抑圧条件を、新たな闘争形態を古いものと置き換えたにすぎない。/ブルジョア階級の時代は、階級対立を単純化したことによって際立っている。社会全体がますます、敵対する二大陣営、直接に対峙し合う二大階級-ブルジョア階級と7プロレタリア階級-に分裂する」。
 以上、1848年。カール・マルクス・共産主義宣言より。平凡社・2015年の柄谷行人訳を参照。
 日本共産党は、「国家」観も、「歴史」観も、最初からまるで違っている。
 <階級闘争>-<敵・支配階級との闘い>-絶えず<敵>を設定しての執拗かつ継続的な<闘い>。まともな人間は意識したり想定したりしないところのものを、彼らはつねに考えている。彼らとは<人間>そのものが同じではない、と理解しておくべきものなのだ。
 ---
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 =レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 この本には、邦訳書がない。何故か。
 日本共産党と「左翼」にとって、読まれると、きわめて危険だからだ。
 <保守>派の多くもマルクス主義・共産主義の内実に関心がないからだ。
 第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
 ---
 第6節・社会主義とプロレタリア-ト独裁②。
 1917年4月-5月の『党綱領改正に関する資料』で、レーニンはこう書いた。
 『公教育は、民主主義的に選出された地方政府機関によって管理されるべきこと。
 学校のカリキュラム編成や教材の選択に中央政府が介入するのを許さないこと。
 教師たちは直接に地方民衆によって選任され、地方民衆は望ましくない教師を解任する権利をもつこと』、等々(全集24巻p.473〔=日本語版全集24巻501頁〕。)(+)//
 最終目標は国家と全ての束縛を完全に廃棄することだ。このことは、自発的な共存と連帯の原理に人民が慣れるときに可能になるだろう。
 犯罪や非行の原因は、搾取と貧困だ。そして、社会主義のもとで徐々に消失するだろう。 -こうしたレーニンの確信は、実際上、社会主義者たちの間で一般的なものだった。//
 ヨーロッパで戦争が闘われている間にこうした言葉で叙述されたレーニンの夢想郷(Utopia)は、ソヴィエト権力50年を経た後で読む者には、度肝が抜かれるほどにナイーヴ(無邪気)だ。
 トマス・モアの空想小説がヘンリ13世のイギリスを扱ったのと同じように、やがてすぐに成立することとなる国家を扱っている。
 しかし、綱領的計画と半世紀後のその『達成物』の間の醜悪な相違(grotesque divergences)を全て指摘するのは、実りないことだ。
 レーニンの夢想郷は、総じてはマルクスの考えと合致している。しかし、のちの著作には触れないで、レーニン自身の初期の著作と比較すると、際立つ違いが明らかだ。すなわち、党に関してはそもそも何も語っていない、ということだ。//
 レーニンがその幻想を真面目に書いたことを疑う理由はない。書いたときに彼は、世界革命がまさに起こりつつあると間違って(wrongly)信じていた、ということが想起されるべきだ。
 しかし、レーニンは明らかに、自分が描く絵は自分自身の革命と党に関する教理に紛れもなく反している、ということを感知していなかった。
 『多数者の独裁』は、歴史に関する科学的な理解で装備された政治組織を通じて行使されると想定されていた。『過渡期のプロレタリア国家』という考えに広く通じるこうした性格づけは、<国家と革命>では、全く述べられていない。
 この書物を書いていた時期に、レーニンは、明確につぎのように思い描いていた。武装し、解放された全人民が、行政、経済管理、警察、軍隊、裁判等々の全ての作用を直接に遂行するだろう、と。
 彼はまた、自由への制約は従前の特権的階級に対してのみ適用され、一方で労働者および労働農民は完璧に自由に、選択に従って彼らの生活を規律するだろう、と考えていた。//
 しかしながら、革命後に出来あがった体制の本質は、たんに内戦やロシアの外部での革命運動の立ち止まりと関係する歴史的偶然の結果ではなかった。
 専制的でかつ全体主義的な(この区別は重要だ)全ての特質を備えた体制は、その主要な道筋については、レーニンが長い年数をかけて作りだしたボルシェヴィキの教理によって、あらかじめ描かれていた。当然に、その結果は完全には実現されなかったし、予見もされなかったけれども。//
 レーニンが1903年以降に多くの場合にかつ多様な形態で設定した根本的な原理は、自由や政治的平等といった範疇は重要な意味をもたず、階級闘争の道具にすぎない、そして、どの階級の利益に役立つのかを考慮しないでこれらを擁護するのは阿呆(foolish)だ、というものだった。
 『実際には、プロレタリア-トは、共和制への要求を含む、全ての民主主義的要求への闘いをブルジョアジーの打倒のための革命的な闘争の劣位に置くことによってのみ、自主性を維持することができる。』(+)
 (『社会主義革命と民族の自己決定権』、1916年4月。全集22巻p.149〔=日本語版全集22巻「社会主義革命と民族自決権」172頁〕。)
 ブルジョア諸制度のもとでの専制政と民主政の違いは、後者が労働者階級の闘争を容易にするかぎりでのみ意味がある。これは二次的な違いであって、形式の一つにすぎない。
 『普通選挙、憲法制定会議、国会は、たんなる形式であり約束手形であるにすぎず、現実の事態を何ら変えることがない。』 (+)
 (『国家について』、1919年7月11日の講義。全集29巻p.485〔=日本語版全集29巻493頁〕。)
 これこそが、革命後の国家に関する、なおさらに(a fortiori)本当のことだ。
 プロレタリア-トに権力があるがゆえに、その権力を維持すること以外に、重要なものは何も考えられない。
 全ての組織上の問題は、プロレタリア-ト独裁を維持することの劣位に置かれる。//
 プロレタリア-ト独裁は-一時的にではなく永続的に-、議会制度および立法権と執行権の分離を廃棄するだろう。
 これこそが、ソヴェト共和国と議会主義体制の間の主要な違いだとされるものだ。
 ------
 (+) 秋月注記-日本語版全集を参考にし、ある程度は訳を変更した。
 ---
 段落の中途だが、ここで区切る。③へとつづく。

1540/「左翼」の君へ⑧完-レシェク・コワコフスキの手紙。

 Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 前回のつづき。⑧。
 ---
 しばらくの間に、伝統的な社会主義の諸装置のいくぶんかが、予期しなかったやり方で資本主義社会にそっと這入り込んでいるように思える。
 最も近視眼的な政治家たちですら、全てを金で買うことができるわけではないと、大金を積んでも清浄な空気、水、広い土地その他の自然資源を買えないときがくるかもしれないと、分かっている。
 そしてそうだ、『使用価値』が徐々に経済の中に戻ってくる。
 人類が生ゴミの処理の仕方を知らないことから生じる、『社会主義』の逆説的な結論だ。
 この帰結は官僚制の増大であり、権力の中心にいる者たちの役割の増大だ。
 共産主義が考案した唯一の治療薬-国民資産に対する中央集中型の、抑制されない国家所有と一党支配-では、治癒されるべき病気はさらに悪くなる。経済的には効き目がないし、社会関係の官僚的性格を絶対的な原理にしてしまう。
 高い程度の自治権を小さな諸共同体のためにもつ、非中央集中的な社会という君の理想を、高く評価する。そして、こうした伝統への君の執着について、共感する。
 しかし、私的所有からではなくて技術の発展から生じる、中央集中的官僚制につながる力強い権力の存在を拒否するのは愚かだ。 
 この状況を見通す一つの方法でも知っているつもりなら、『平和的な革命を起こす、そうすればこの趨勢は逆転する』と言って解決策を見つけたと想うなら、君は自らを欺いているし、言葉の魔術の犠牲者になっている。
 複雑な技術的組織網に社会が依存すればするほど、それだけ多く諸問題は中央権力によって規制されければならない。国家官僚制が力強くなればなるほど、政治的な民主主義や『形式的』、『ブルジョア的』自由が支配機構を抑制する必要、個人の弱まりうる権利をそのままにして個人に保障する必要が、ますます大きくなる。
 全てを包含する、政治的な(『ブルジョア的』な)民主主義がなくして、いかなる経済民主主義も産業民主主義も、かつてなかったし、また存在することはできない。
 現代社会が課す相反する責務をどのようにして調和させるべきかを、我々は知らない。
 我々には矛盾のない安定した社会の青写真はないのだから、ただ、これら責務の間の不確定な平衡状態に到達するように努めることができるだけだ。
 どこか別の箇所で書いたことを、繰り返そう。
  『心配しないで、平穏にかつ安全に、その人生の余後を過ごせるだけの資金を一瞬で得る方法について考えている人々の心構えが、私的な生活にはある。
 そして、明日までどうやって生きようかと懸念しなければならない人々の心持ちもある。
 人間社会というのは、全体としては、かつて得た金銭のおかげで生涯にわたる保険金があったり株式配当金があったりする、年金受給者のような幸せな地位には決しておれないだろう、と私は思う。
 人間社会の地位は、翌日までの生活の仕方に困惑している日雇い職人のそれに似ているだろう。
 夢想家(ユートピアン)というのは、人類を年金生活者の地位に置こうと夢見る人々、そうした地位は素晴らしいもので、代償(とくに道徳的な代償)がそれを獲得するには大き過ぎはしないと確信している人々だ。』//
 こう書くのは、社会主義とは死滅した選択肢だと意味させてはいない。
 そうは考えていない。
 だが、この選択は、社会主義国家の経験によってのみならず、信奉者たちの自信を理由として、彼ら信奉者が行なう社会を変えようとする努力にも限界があること、および要求と信条となった価値とを両立させられないこと、の両方に直面して彼らが何もできないことを理由として、破滅した。
 簡単に言うと、社会主義を選択する意味は、完全に、そのまさしく根源から修正されなければならない。//
 『社会主義』と言うとき、私は完璧な国家を意味させず、平等、自由および効率性への要求を達成しようとする運動を想定している。どの価値のいずれにも別々に隠れている諸問題の複雑性だけではなくて、諸価値は相互に制限し合い、それらは妥協を通じてのみ充たされうるということに気づいているかぎりで、諸困惑に対処する資格があるような運動をだ。
 そう考えないなら(またはそう考えているふりをしなければ)、自分や他人を笑い物にしている。
 全ての諸制度の変更は、全体としてこれら三つの価値に奉仕する手段だと見なさなければならず、それら自体に目的があると考えてはいけない。
 そうした変更は、一つの価値を増大させるときに別の価値を犠牲にする対価を考慮に入れて、相応に判断されなければならない。
 諸価値のいずれかを絶対的なものと見なしたり、全てを犠牲にして諸価値を実現しようとする企ては、残る二つの価値を破滅させることに必然的になるだけではなく、その一つの価値をも結局は破滅させるに違いない。
 注意しなければならない(nota bene)。これは、貴重な過去から発見したことだ。
 絶対的な平等性は、特権を与えるがしかし換言すると平等性を破壊するのを意味する、独裁的な支配制度においてのみ達成されうる。
 完全な自由は、無政府状態を意味する。無政府状態は、肉体的な最強者が支配することに結果としてはなる。つまり、完全な自由は、その反対物に変わる。
 至高の価値としての効率性は、再び独裁制を呼び起す。そうして、技術が一定のレベル以上になると、独裁制は経済的には非効率だ。
 こうした古くて自明のことを繰り返すのは、彼らがまだ夢想家の思考方法に気づかないままで歩んでいるように見えるからだ。
 それはまた、ユートピアを描く以上に簡単なことは何もない、ということの理由だ。
 この点で、我々が合意できると望む。
 そうできるなら、寛容になってお互いを許し合いたい、若干の辛辣な意見を交換し合った後であっても、他の多くの点で合意できる。
 共産主義は原理的に優れた発明品だと、優れた応用について決していくぶんかも損なわれていないと、君がまだ思い続けているなら、この合意には達しそうにないだろう。
 長年にわたって君に説明してきた、と思う。
 何をって、私が何故、共産主義思想を修繕したり、刷新したり、浄化したり、是正したり〔mend, renovate, clean up, correct〕する試みに、いっさい何も期待しなくなったのか、だ。
 哀れむべき、気の毒な思想だ。私は知った、エドワード君よ。
 これは二度と微笑むことがないだろう。
  君に友情を込めて。/レシェク・コワコフスキ。
 ---
 終わり。上掲書、p.115-140。
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