秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ユダヤ教

2498/R・パイプスの自伝(2003年)⑦。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部の試訳のつづき。
 ——
 第三章・知と美への萌芽(Intellectual & Artistic Stirrings)①
 (01) 1935年は、私の青春時代の転換期だった。
 その年に、三つのことが起きた。Pilsudski 元帥が死んだ。ナツィスはニュルンベルク法を通過させた。これはドイツのユダヤ人の市民権を奪い、そして人間たる地位まで剥奪した。私は思春期の激動を経験した。//
 (02) 生涯の最後の10年間に軍事独裁を敷いたPilsudski には、社会主義の背景があった。
 彼は1887年に逮捕され、アレクサンダー三世暗殺の陰謀に加担したとしてシベリアへの流刑に遭った。その同じ陰謀がレーニンの兄の生命を奪ったのだったが。
 社会主義の不変の遺産の一つは、全ゆる様式の民族的かつ宗教的偏見に対する嫌悪だ。社会主義者たちはこれを、階級闘争から逸らすものだと見なした。 
 Pilsudski が支配的地位にあったとき、ポーランドは公然たる反ユダヤ主義を採用しなかった。
 しかし、彼の死後ほとんどすぐに、権力は、軍団で彼に仕えていた将軍や大佐たちに移った。
 世界的な趨勢は、権威主義的支配と単一の政治ブロックの生成だった。
 ポーランドは、ヨーロッパが陥った不況の運命をほとんど逃れられなかった。
 ユダヤ人の状況は急速に悪化した。ナツィスが外で反ユダヤ主義の炎を煽っただけに、いっそうそうなった。
 「ユダヤ問題の解決」が語られた(「解決」を必要としたのは反ユダヤのパラノイア〔偏執症者〕だけだったけれども)。
 ユダヤの企業は購買を拒否された。
 非ユダヤの店舗の中には、「キリスト教者」を明示する顕著な符号を掲示したものもあった。
 ポーランド人は「同じ仲間から買う」よう迫られた。
 従前は別々にかつ円満にカトリック教徒とユダヤ人が過ごしていた私の学校では、生徒たちが「ユダヤ問題」を討論した。この語で意味されていたのは、ポーランドの経済と文化に対するユダヤ人の、あるとされる有害な影響だった。
 〈zazydzenie〉、あるいはポーランドのユダヤ化という用語が、流行した。
 ユダヤ人大学生は身体的攻撃を受けた。1937年に教育大臣は、ファシストの民族民主党の要求に屈して、講義室の左側にある離れた長椅子に座るよう、彼らに命令した。
 こうして、耐え難い雰囲気が生み出された。//
 (03) Pilsudski の死後すみやかに、虐殺(pogroms)が始まった。
 1936年3月、Radom に近い小さな町のPrzytyk で、ユダヤ人が地方農民に強奪され、二人が殺された。
 そのような暴力的事件が続いた。
 当時わずか12歳だったけれども、当局が殺人者や強奪者を無罪放免した一方で自衛したユダヤ人を非難して収監したとき、私は燃えるような激しい怒りの感覚を経験した。//
 (04) これら全ては、ドイツの国家的支援を受けた反ユダヤ主義を背景にして起きていた。ドイツはヨーロッパじゅうで、この憎悪に充ちたイデオロギーを正当化し、奨励していた。
 父親は、ヒトラーの最新の狂乱をラジオで聴くために、家に急いで帰ったものだ。
 私のドイツ語はほとんどネイティブだったが、聴衆たちの非人間的な甲高い声で何度も中断するヒステリックな叫びを、ほとんど何も理解することができなかった。
 その叫び声は、恐ろしいというよりもむしろ当惑させるものだった。//
 (05) そのときまで事実として受け取ってきた私のユダヤ性は、今や一つの問題になった。
 我々は閉じ込められた。
 私は、シオニズムに共感した。
 イギリスの委任統治国は、ユダヤ人居留者に対する大量の暴力行使を1936年に犯したパレスチナ・アラブを宥めようとして、パレスチナへの移住を厳格に制限した。
 我々は、私をイギリスの、あるいはキューバですらの、船員学校に送ることを語り合った。だが、実現しなかった。理由の一つは惰性で、もう一つは資金不足だった。//
 (06) 同化したポーランド・ユダヤ人は、ポーランドのユダヤ人総数の5ないし10パーセントと見積もられ、個人数では15万人と30万人の間だった。
 これら同化ユダヤ人のほとんどと同じく、我々はユダヤ性とそれとの関係に誇りを持っていたにもかかわらず、我々はユダヤ的儀礼を遵守しなかった。
 稀なことだがかつて、父親が私をシナゴーグ〔ユダヤ教の教会〕へと連れて行ったとき、真似ることができないままで、私は信者たちが祈るのを眺めたものだ。
 驚いたのは、非公式のシナゴーグの数はカトリック教会よりも多いことだった。また、カトリック教徒は祈りの場所で客のように振る舞っているように見えたが、ユダヤ人はまるで自分の家にいるように行動していた。
 母親は、Burger 一家が行っていた楽しいクリスマスの祝日によって、私が宗教について当惑しているだろうと、気にかけた。
 それで、Hanukkah(ハヌカー)〔12月にあるユダヤ教の行事—試訳者〕のろうそくを一度か二度、私に点けさせた。だがそれは、きらめく常緑の木、積み重なるプレゼント、そして「聖夜」の歌のあるクリスマスと比べると、生彩を欠いた行事だった。//
 (07) 言うまでもなく、母親は、私の宗教的嗜好を心配した。
 13歳の年のいつか、Bar Mitzvah(バル・ミツワー)〔ユダヤ教上の成人男性またはその行事—試訳者)の準備をまだしていないことに私は気づいた。
 それをしたいと、私は両親に言った。そうして、私を個人指導する年配のユダヤ人を雇ってくれた。
 貧素なその人は、彼の考えでは私が6歳のときに学んでおくべきだったことを、彼が無駄な仕事だと考えたものは諦めて、教えてくれた。
 14歳のとき、近隣にあった母親一族のシナゴーグで、私はBar Mitzvah となった。
 のちにアメリカ合衆国で出席した豪華なBar Mitzvah 行事と比べて、私が体験したのは簡素なものだった。
 私はTorah〔ユダヤ教の聖書の一部—試訳者〕のその日の一節を読むように呼び出され、その後、他の信者たちと一緒に、母親がケーキとワインを用意していた部屋へと赴いた。
 それで全てだった。
 私へのプレゼントは、tefillin(聖なる小箱)、祖母からの贈り物である、祈りの間に額に付けるphylecteries だった。//
 (08) そのとき、そしてそれ以降、私は人前で祈るのを気まずく感じた。
 かくして、ユダヤ教の行事に出席して心易かったことはなかった。High Holidays の間の奉仕に出席し、Yom Kipper の断食を遵守し、Pass Over の8日間はパンを食べるのをやめたものだったけれども。
 Harvard 大学の著名なユダヤ人学者のHarry Wolfson と同じく、私は「遵守しない正統派ユダヤ人」だった。
 私は、理想主義と現実主義を結合しているがゆえに、ユダヤの信仰は卓越したものだと思ったし、今でもそう思っている。
 キリスト教の貧困と犠牲という理想は理論的により高貴だと認めるとしても、尋常ではない特別の個人による以外は、決して実践されなかったし、実践され得ないだろう。
 我々の宗教は、ユダヤ人に富を放棄するよう強いるのではなく、共同体に負担をかけないよう財産を取得し、その後で慈善を実践するよう助言する。
 私はこれは、イェスが説いたものよりもはるかに、現実的な道徳原理だと考える。//
 (09) ユダヤの信仰や民族との私の関係は、いくつかの基盤に依拠している。
 第一に、ユダイズムには、無神論の付着が完全にない。それは、妥協のない、精神的宗教だ。
 第二に、私はいつも、ユダヤの文化に支配的な、諦念した理想主義の雰囲気を好んでいる。すなわち、とくにユダヤ人にとっては過酷な世界で道徳的理想を維持し、ユーモアの感覚でもってそのような条件での生活を耐えられるものにしていること。
 私は、正統派ユダヤ人と同じく、人間の全ての行動を道徳の観点から観察してきた。日常生活でも、歴史家としての仕事でも。
 〈Sittlicher Ernst〉—道徳的誠実さ—は、私の明快な理想だったし、今でもそうだ。
 最後に、二千年にわたる敵対的世界の中で生き延び続け、信仰への忠誠心をずっと保ち続けた私の祖先たちの能力に、私は限りのない尊敬の気持ちを捧げる。//
 (10) Pilsudski の死後に支配的になった毒に充ちた雰囲気の中で、父親は、軍団の同僚だった一人のカトリック教徒を仲間として雇用しなければならなかった。彼は、書ける範囲内でのことだが、たんに表看板としてだけ役立った。
 父親は1936年に、ポーランドの主要な港のあるGdynia に事務所を開いた。
 その夏と翌年の夏に彼を訪れたが、それ以外には、父親との接触はなかった。
 父親が不在だった二年の間、父親が私に電話したり手紙を書き送ったりした記憶は、一度たりともない。//
 (11) 1935年以降の政治的社会的雰囲気の悪化は、私自身の身体と心理の両面での激動を伴う、子ども時代と思春期の境を越える変化と同時期に起きた。
 何も知らなかったことが起き始めた。それは言わばまるで異なる人間へと、私を変化させた。
 最初に現れたのは、女の子への関心ではなく、知的かつ美的な大変貌だった。//
 (12) それは音楽で始まった。
 母親の妹のRegina と一緒に夕方を過ごしていたときに、私はラジオ装置をいじくっていた。その装置はいわゆるsuperheterodyne のモデルで、ヨーロッパじゅうの放送局を選択できると見込まれていたが、実際にはほとんどガーガーという雑音だけを発していた。
 突然に、釘付けになるような音楽が流れた。
 それはBeethoven の交響曲第7番の最終楽章だった。
 演奏されているテンポの速さから判断して、おそらくはToscanini の指揮のものの録音だった。
 私はそのようなものを聴いたことがなかった。
 単純に「美しい」ものだったのではない。
 そうではなく、だいぶ昔に知っていたが忘れてしまっていた言語で、私に語りかけてきた。
 私の心の奥底を、貫いた。
 その夜、私は頭の中を走り抜ける音楽につれて揺さぶられ、眠れそうになかった。//
 ——
 第三章②へ、つづく。

2168/J・グレイ・わらの犬(2002)⑩-第4章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.123-p.126。太字化は紹介者。(1), (2), (3)は秋月による。
 ***
 第4章・救われざる者(The Unsaved)。
 第1節・救済者(Saviours)。
 (1) 「仏陀は、万人が理解する苦悩からの解放(煩悩からの解脱)〔release from suffering〕を約束した。
 これに対して、だれも人間の原罪とは何かを説明できず、キリスト教の苦悩がどうして人の罪を償うことになるのか、理解してもいない。
 キリスト教はユダヤ教の一宗派(a sect)に始まった。
 初期の信者にとって、罪とは神の意志に背くことであり、罪深い人間に下される罰は世界の終末だった。
 この神話信仰(mythic beliefs)が、救世主(メシア)の人物造形に結実した。世界に懲罰を与え、篤信の少数に救いをもたらす神の使者である。」
 「キリスト教の開祖は聖パウロであって、イエスではない。
 パウロはユダヤ教の救世主信仰(Jewish messianic cult)をギリシア・ローマふうの神秘主義に塗り替えたが、自身の創始した信仰をユダヤ教の伝承から解放するまでには至らなかった。
 罪と償いの理念がユダヤ教の根幹をなす、というだけの話ではない。
 この考えがなかったならば、キリスト教が説く原罪の約束も、意味をなさない。
 人間に罪がないならば、救われるまでもないし、贖罪の約束も、悲痛に耐える身の支えにはならない。」
 (2) 「人類は自分たちを自由で覚醒した存在だと考えているが、じつはたぶらかされた動物(deluded animals)である。
 それでいながら、想像で作り上げた自分の姿から逃れようと足掻き続けている。
 その信仰(religions)は、手にしたこともない自由を打ち捨てる苦行である。
 20世紀には、右翼と左翼のユートピア思想がともに同じ機能を果たした。
 今日では、政治が娯楽(entertainment)としてすら説得力を失って、科学が救世主の役割を引き受けている。
 (3) 「おおかたの人間は救済者(saviours)を軽んじているばかりに、救済者から解放されることを願わない。
 人間が救済者を待ち望む以上に、明日の救済者の方がよほど人間を必要としているのである。
 人間が救済者に期待するのは気散じ(distraction)であって、救済の福音ではない。」
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 第2節以降へ。

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