Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)。
第一部第三章の試訳のつづき。原書、p,30-p.33。
——
第三章・知と美への萌芽 ④。
(28) 人間として扱われるときは、私はとても良い仕事をした。
1937年の春、歴史の教師のMarian Malowist から、当時はポーランド語訳書のなかったドイツ語のPrescott の著〈ペルーの征服〉を夏の間に翻訳するように頼まれた。
私は訳文を秋に提出することになった。
頼まれた翻訳報告書を書き終えたが、夏が終わって学校に戻ったとき、Malowist はいなかった。彼は、教師たちの中で唯一のユダヤ人だった。そして、学校を去ったのは、Radonski の反ユダヤ詐術にもう我慢できなかったからだった。
私は報告書をファイルに綴じ込んだ。
その文書は、他の私の文書類と一緒に、戦争の後になって私に届けられた。
Malowist は、ポリオで手足が不自由だったのだが、奇跡的にホロコーストを生き延び、ワルシャワ大学の経済史の教授に任用された。
彼は1975年に、Harvard 大学を訪問した。そして私はついに、ほとんど40年遅れて、Prescott の書物の翻訳文書を彼に手渡す機会を得た。
これは何らかの記録になるのではないか、と思う。
彼は帰国後のポーランドからの手紙で、報告文書を見て、戦争前に14歳だった少年が戦後のほとんどの大学生の能力を超える歴史研究書を執筆していることを思って、涙が出た、と書いてきた。//
(29) 1938年6月に、ギムナジウムを卒業した。そして同じ学校の二年間のリセ(Lyseum)に登録することになった。
教育省から来た視学官によって、私の卒業は目視された。
教師は各人を彼女の机の所に呼んで、私たちの成長を示すべく若干の質問をした。
私の番になったとき、どこで生まれたのかと彼女は尋ねた。
「シェシンです」と答えた。
「シェシンの特別なことは何ですか?」
「市が二つに分かれていて、一方はCzechoslovakia に、片方はポーランドに帰属しています」。
「その二つともどちらに帰属すべきですか?」と彼女は迫った。
ためらうことなく、私は答えた。「Czechoslovakia」。
彼女は驚いて尋ねた。「なぜ? 人口の多数派はポーランド人でありたいと思っていることを示す住民投票はなかったのか?」
私は応えた。「たしかにあった。でも住民投票は不正に操作されていた。」
「ありがとう。座ってよい。」
実際のところは、住民投票について何も知らなかった。私はたんに反抗していた。期待されているように言うのが嫌で、ポーランド・ナショナリズムに同意していないことを示したかった。
60年後に、シェシンで住民投票は一度も行われておらず、公平に言って、市の住民の多数派を占めているのでポーランドに配属されるべきだった、ということを知った。
経緯を父親に話したら、彼は怖くなった。そして、父親と母親のどちらかが事態を取り繕うために、教師に会いに行った。
思うに、彼らは私が外国のラジオ放送でそのような異宗派の考え方を聞いたという理由で、私を弁明したのだろう。//
(30) 私の美や知への関心を共有してくれるクラス友達はほとんどいなかったので、私はたいてい孤独だった。
しかし、二人の友人がいた。一人はAlexander (Olek) Dyzenhaus で、人生の残りずっと仲良しだった(ポーランドで戦争を生き延び、南アフリカで死んだ)。
もう一人はPeter Blaufuks で、とても神経質だった。不運にも、殺された。//
(31) 女友達もいた。
我々はKrynica という保養地で、1938-39年の冬に逢った。
Wanda Elelman は二歳年上で、すでにギムナジウムを卒業していた。
日記から判断すると、私は情熱的に恋をしたようだ。だが振り返ると、そうではなかった、と思う。かつてポーランドを離れるとき、遺憾なことに、彼女のことはほとんど思い浮かばなかった。
でも我々は、とくに1939年の春には、カフェで、あるいはLazienski 公園沿いに花盛りの栗の木々の下を歩いて、たくさんの幸せな時間を一緒に過ごした。//
(32) 戦争が近づいていた。
母親とEmmy Burger の二人は、不測の事態に備えて、手袋と帽子の作り方を習った。
私は、Methodist の夕方学級での英語の授業に出席した。
そこでアメリカ人たちと初めて接触したのだが、彼らには不思議な印象をもった。
各授業の前に我々は大ホールに集まって最近のヒット曲を歌った。例えば、ピアノを弾く歯の目立つ女性や髪の毛を真ん中で分けてポマードで塗り固めた男性に指導されて、「I love you, yes I do, I lo-o-ove you」。
我々はふつうは、流行しているラブソングを学習と結びつけはしなかった。
しかし、会話ができる程度には英語を学習した。このことはのちに、私に大いに役立つことになった。//
(33) 1939年6月、John Burger を失った。彼の家族とは、ともにアメリカ合衆国へ移住することになる。
彼の母親のEmmy は半分ユダヤ人で、彼は四分の一はユダヤ人だった。ニュルンベルク諸法では、どちらも非アーリア人だった。
ドイツが1938年にオーストリアを併合したときに公民権を取り替えなければならなかったので、彼らは離れるのは賢明だと考えた。
私には、彼らがとても羨ましかった。//
(34) 戦争前の学校の最終学年に経験した悲哀の一つは、軍事教練だった。それは一般に「PW」として知られる「軍事予備訓練」で、一種のROTC だった。我々は皺くちゃの黄緑色の制服を着て毎月曜日に学校に行き、一定の訓練を受けた。
リセの最終学年とその前年の間、卒業予定の一年前に、他の学校の学生たちと一緒に、三週間課程の軍事訓練に参加しなければならなかった。
1939年6月の終わり頃、クラスの仲間とともにKozienice にある軍営地に向かった。そこはワルシャワから南西に約100キロメートル離れた森林地帯にあった。
ひどく辛い経験だった。
粗雑な営舎に住み、麦藁かけ布団の簡易ベッドで寝た。
十分に食べはしたが、食べ物は粗末だった。—朝食は無地のライ麦パンで、コーヒーと紅茶のどちらかが付いた。
だが、最悪だったのは、ワルシャワの他の学校の学生から持ち込まれた反ユダヤ主義の蔓延だった。
ユダヤ人学生は、馬鹿にされ、嫌がらせを受けた。しかし、ほとんどの場合は平然としていた。
唯一の愉しみは、森の中に監視で立つことだった。夜に眠れないことを意味したが、静かで私的な時間が持てたからだ。//
(35) まもなく、困惑することが起きた。
ある日、隊列の中で喫煙しているのを見つけられた。
その軍営地で予備将校として勤務していたRadoriski が私を叱責し、軽い制裁を命じた。
ついで、私は野原に立って空を見上げ、外国の航空機の通過を報告するチームに、配属された。
空中には外国の航空機はおらず、いても判別できなかっただろうから、馬鹿げた任務だった。
私は近くの店に、煙草を買いに行った。
同僚たちとそこにいた軍曹が、一緒にウォッカを飲もうと誘った。
私はそれまでウォッカを飲んだことがなかったが、成人として扱われたことを喜んだ。そして、誘いを受けた。
見つかって、紀律違反の行為についてもう一度Radoriski に報告しなければならなかった。
釈明させてもらえるなら、我々について責任のある軍曹が非難されるべきだっただろう。
だが、そのときまでに、全てに嫌気がさしていて、潜在的にはみんな放り出したい気分だった。
数日後に、何らかの業務のために野原に集められた。
髭を生やしたユダヤ人が、荷馬車を運転してやって来た。
兵士たちは揶揄してやじった。もっと不快にさせたのは、ユダヤ人の彼もそれに加わって、自分自身を笑ったことだった。
私はむかついた。
その後のすぐ、軍営地が閉鎖される予定の三日前のことだったが、営舎で喫煙しているのを見つけられた。
Radonski は、意地悪いほくそ笑みをたたえて、私に退学を言い渡した。
それ以来、彼に会わなかった。一年以内に戦争捕虜となり、ソヴィエトの治安警察によって殺害されたのだろう。//
(36) 家に帰った。
両親は何が起きたかを知って、狼狽した。
父親はその人的関係を通じて、私が第二次の軍営地訓練に参加するようにすぐに取り決めた。夏季の訓練を完了していないと、学校を修了することができなくなっただろうからだ。
第二次の軍営地は、最初よりもはるかに愉快だった。それに参加していた地方の学校は、ワルシャワに浸透していたユダヤ恐怖症(Judeophobia)に染まっていなかったからだ。
私は問題なく訓練を終え、8月の初めにワルシャワに戻った。戦争が勃発する直前だった。//
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以下、試訳者。原書p.33 の途中から<第四章・イタリア>が始まるが、p.32 とp.33の間に、10頁ぶんの複数の写真が掲載されている。それぞれに固有の頁番号は付されていない。後にもそのような箇所が二つあって、L. Kolakowski, I. Berlin, Ronald Reagan, George Bush (父), Alexander Kerensky (ロシア十月革命前の臨時政府首班。亡命後の1959年) らとそれぞれ一緒の写真が掲載されている。
p.32 とp.33の間の10頁ぶんに掲載されている写真は、つぎのとおり。
01/母方の祖父。
02/母方の祖母。
03/父方の祖母と抱かれる従兄。Cracow, 1922年。
04/①母親一族、計11名。1916年頃。②父親。Wien, 1919年。
05/両親の結婚写真。1922年9月。
06/①著者、18ヶ月。②著者、4歳の誕生日。1927年。
07/①Burger 一家とPipes 一家、計6名(3×2)。②将来の妻 Irene、10歳。Warsaw, 1934年。
08/①学校の友人たち、Blaufuks, Olek, 著者を含めて計11名。②Burger 家のHans(弟代わり)。Warsaw, 1939年。
09/①著者。Warsaw, 1939年6月。②ドイツによる爆撃後のMarszalkowska 通り。Warsaw, 1939年10月1日頃。
10/①ワルシャワ出立後の旅券用写真、著者と両親。Warsaw, 1939年10月。②ポルトガルに停泊中のアメリカ行きの船上での著者と両親(愛犬ココも写っている)。Lisbon, 1940年7月。
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第一部第三章、終わり。
第一部第三章の試訳のつづき。原書、p,30-p.33。
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第三章・知と美への萌芽 ④。
(28) 人間として扱われるときは、私はとても良い仕事をした。
1937年の春、歴史の教師のMarian Malowist から、当時はポーランド語訳書のなかったドイツ語のPrescott の著〈ペルーの征服〉を夏の間に翻訳するように頼まれた。
私は訳文を秋に提出することになった。
頼まれた翻訳報告書を書き終えたが、夏が終わって学校に戻ったとき、Malowist はいなかった。彼は、教師たちの中で唯一のユダヤ人だった。そして、学校を去ったのは、Radonski の反ユダヤ詐術にもう我慢できなかったからだった。
私は報告書をファイルに綴じ込んだ。
その文書は、他の私の文書類と一緒に、戦争の後になって私に届けられた。
Malowist は、ポリオで手足が不自由だったのだが、奇跡的にホロコーストを生き延び、ワルシャワ大学の経済史の教授に任用された。
彼は1975年に、Harvard 大学を訪問した。そして私はついに、ほとんど40年遅れて、Prescott の書物の翻訳文書を彼に手渡す機会を得た。
これは何らかの記録になるのではないか、と思う。
彼は帰国後のポーランドからの手紙で、報告文書を見て、戦争前に14歳だった少年が戦後のほとんどの大学生の能力を超える歴史研究書を執筆していることを思って、涙が出た、と書いてきた。//
(29) 1938年6月に、ギムナジウムを卒業した。そして同じ学校の二年間のリセ(Lyseum)に登録することになった。
教育省から来た視学官によって、私の卒業は目視された。
教師は各人を彼女の机の所に呼んで、私たちの成長を示すべく若干の質問をした。
私の番になったとき、どこで生まれたのかと彼女は尋ねた。
「シェシンです」と答えた。
「シェシンの特別なことは何ですか?」
「市が二つに分かれていて、一方はCzechoslovakia に、片方はポーランドに帰属しています」。
「その二つともどちらに帰属すべきですか?」と彼女は迫った。
ためらうことなく、私は答えた。「Czechoslovakia」。
彼女は驚いて尋ねた。「なぜ? 人口の多数派はポーランド人でありたいと思っていることを示す住民投票はなかったのか?」
私は応えた。「たしかにあった。でも住民投票は不正に操作されていた。」
「ありがとう。座ってよい。」
実際のところは、住民投票について何も知らなかった。私はたんに反抗していた。期待されているように言うのが嫌で、ポーランド・ナショナリズムに同意していないことを示したかった。
60年後に、シェシンで住民投票は一度も行われておらず、公平に言って、市の住民の多数派を占めているのでポーランドに配属されるべきだった、ということを知った。
経緯を父親に話したら、彼は怖くなった。そして、父親と母親のどちらかが事態を取り繕うために、教師に会いに行った。
思うに、彼らは私が外国のラジオ放送でそのような異宗派の考え方を聞いたという理由で、私を弁明したのだろう。//
(30) 私の美や知への関心を共有してくれるクラス友達はほとんどいなかったので、私はたいてい孤独だった。
しかし、二人の友人がいた。一人はAlexander (Olek) Dyzenhaus で、人生の残りずっと仲良しだった(ポーランドで戦争を生き延び、南アフリカで死んだ)。
もう一人はPeter Blaufuks で、とても神経質だった。不運にも、殺された。//
(31) 女友達もいた。
我々はKrynica という保養地で、1938-39年の冬に逢った。
Wanda Elelman は二歳年上で、すでにギムナジウムを卒業していた。
日記から判断すると、私は情熱的に恋をしたようだ。だが振り返ると、そうではなかった、と思う。かつてポーランドを離れるとき、遺憾なことに、彼女のことはほとんど思い浮かばなかった。
でも我々は、とくに1939年の春には、カフェで、あるいはLazienski 公園沿いに花盛りの栗の木々の下を歩いて、たくさんの幸せな時間を一緒に過ごした。//
(32) 戦争が近づいていた。
母親とEmmy Burger の二人は、不測の事態に備えて、手袋と帽子の作り方を習った。
私は、Methodist の夕方学級での英語の授業に出席した。
そこでアメリカ人たちと初めて接触したのだが、彼らには不思議な印象をもった。
各授業の前に我々は大ホールに集まって最近のヒット曲を歌った。例えば、ピアノを弾く歯の目立つ女性や髪の毛を真ん中で分けてポマードで塗り固めた男性に指導されて、「I love you, yes I do, I lo-o-ove you」。
我々はふつうは、流行しているラブソングを学習と結びつけはしなかった。
しかし、会話ができる程度には英語を学習した。このことはのちに、私に大いに役立つことになった。//
(33) 1939年6月、John Burger を失った。彼の家族とは、ともにアメリカ合衆国へ移住することになる。
彼の母親のEmmy は半分ユダヤ人で、彼は四分の一はユダヤ人だった。ニュルンベルク諸法では、どちらも非アーリア人だった。
ドイツが1938年にオーストリアを併合したときに公民権を取り替えなければならなかったので、彼らは離れるのは賢明だと考えた。
私には、彼らがとても羨ましかった。//
(34) 戦争前の学校の最終学年に経験した悲哀の一つは、軍事教練だった。それは一般に「PW」として知られる「軍事予備訓練」で、一種のROTC だった。我々は皺くちゃの黄緑色の制服を着て毎月曜日に学校に行き、一定の訓練を受けた。
リセの最終学年とその前年の間、卒業予定の一年前に、他の学校の学生たちと一緒に、三週間課程の軍事訓練に参加しなければならなかった。
1939年6月の終わり頃、クラスの仲間とともにKozienice にある軍営地に向かった。そこはワルシャワから南西に約100キロメートル離れた森林地帯にあった。
ひどく辛い経験だった。
粗雑な営舎に住み、麦藁かけ布団の簡易ベッドで寝た。
十分に食べはしたが、食べ物は粗末だった。—朝食は無地のライ麦パンで、コーヒーと紅茶のどちらかが付いた。
だが、最悪だったのは、ワルシャワの他の学校の学生から持ち込まれた反ユダヤ主義の蔓延だった。
ユダヤ人学生は、馬鹿にされ、嫌がらせを受けた。しかし、ほとんどの場合は平然としていた。
唯一の愉しみは、森の中に監視で立つことだった。夜に眠れないことを意味したが、静かで私的な時間が持てたからだ。//
(35) まもなく、困惑することが起きた。
ある日、隊列の中で喫煙しているのを見つけられた。
その軍営地で予備将校として勤務していたRadoriski が私を叱責し、軽い制裁を命じた。
ついで、私は野原に立って空を見上げ、外国の航空機の通過を報告するチームに、配属された。
空中には外国の航空機はおらず、いても判別できなかっただろうから、馬鹿げた任務だった。
私は近くの店に、煙草を買いに行った。
同僚たちとそこにいた軍曹が、一緒にウォッカを飲もうと誘った。
私はそれまでウォッカを飲んだことがなかったが、成人として扱われたことを喜んだ。そして、誘いを受けた。
見つかって、紀律違反の行為についてもう一度Radoriski に報告しなければならなかった。
釈明させてもらえるなら、我々について責任のある軍曹が非難されるべきだっただろう。
だが、そのときまでに、全てに嫌気がさしていて、潜在的にはみんな放り出したい気分だった。
数日後に、何らかの業務のために野原に集められた。
髭を生やしたユダヤ人が、荷馬車を運転してやって来た。
兵士たちは揶揄してやじった。もっと不快にさせたのは、ユダヤ人の彼もそれに加わって、自分自身を笑ったことだった。
私はむかついた。
その後のすぐ、軍営地が閉鎖される予定の三日前のことだったが、営舎で喫煙しているのを見つけられた。
Radonski は、意地悪いほくそ笑みをたたえて、私に退学を言い渡した。
それ以来、彼に会わなかった。一年以内に戦争捕虜となり、ソヴィエトの治安警察によって殺害されたのだろう。//
(36) 家に帰った。
両親は何が起きたかを知って、狼狽した。
父親はその人的関係を通じて、私が第二次の軍営地訓練に参加するようにすぐに取り決めた。夏季の訓練を完了していないと、学校を修了することができなくなっただろうからだ。
第二次の軍営地は、最初よりもはるかに愉快だった。それに参加していた地方の学校は、ワルシャワに浸透していたユダヤ恐怖症(Judeophobia)に染まっていなかったからだ。
私は問題なく訓練を終え、8月の初めにワルシャワに戻った。戦争が勃発する直前だった。//
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以下、試訳者。原書p.33 の途中から<第四章・イタリア>が始まるが、p.32 とp.33の間に、10頁ぶんの複数の写真が掲載されている。それぞれに固有の頁番号は付されていない。後にもそのような箇所が二つあって、L. Kolakowski, I. Berlin, Ronald Reagan, George Bush (父), Alexander Kerensky (ロシア十月革命前の臨時政府首班。亡命後の1959年) らとそれぞれ一緒の写真が掲載されている。
p.32 とp.33の間の10頁ぶんに掲載されている写真は、つぎのとおり。
01/母方の祖父。
02/母方の祖母。
03/父方の祖母と抱かれる従兄。Cracow, 1922年。
04/①母親一族、計11名。1916年頃。②父親。Wien, 1919年。
05/両親の結婚写真。1922年9月。
06/①著者、18ヶ月。②著者、4歳の誕生日。1927年。
07/①Burger 一家とPipes 一家、計6名(3×2)。②将来の妻 Irene、10歳。Warsaw, 1934年。
08/①学校の友人たち、Blaufuks, Olek, 著者を含めて計11名。②Burger 家のHans(弟代わり)。Warsaw, 1939年。
09/①著者。Warsaw, 1939年6月。②ドイツによる爆撃後のMarszalkowska 通り。Warsaw, 1939年10月1日頃。
10/①ワルシャワ出立後の旅券用写真、著者と両親。Warsaw, 1939年10月。②ポルトガルに停泊中のアメリカ行きの船上での著者と両親(愛犬ココも写っている)。Lisbon, 1940年7月。
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第一部第三章、終わり。