Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節へ。
——
第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭①。
(01) レーニンの病気の最初の兆候は、1921年の2月に現れた。その頃、彼は頭痛と不眠を訴え始めた。
それらは、全てが肉体に起因するものではなかった。
レーニンは、連続した屈辱的な敗北を被っていた。ヨーロッパへの革命の拡大という望みが断ち切られたポーランドでの軍事的大失敗、市場の力への屈辱的な降伏が必要になった経済破綻、など。
身体上の兆候は、1900年に生じたものに似ていた。そのときは、社会民主主義運動が内部分裂で崩壊しそうに見えた、党の歴史上のもう一つの危機的な時期だった。(*)
1921年夏を経て、頭痛は徐々に治まったが、レーニンは、眠れないで困っていると言い続けた。(+)
秋には、政治局が、レーニンの仕事のし過ぎを心配し、仕事の予定を軽くするよう求めた。
12月31日には、彼の状態をなおも心配して、政治局は6週間の休暇をとるよう命令した。書記局の許可がないかぎり、職務に復帰してはならない。(注96)
このような命令は奇妙に思えるかもしれないが、党の最高機関から共産党員に対して、機械的に発せられていた。レーニンの主要な秘書のE. D. Stasova がS. S. Kamenev 将軍に言ったように、ボルシェヴィキ党員たちはその健康が「宝のような資産」だと見られていた。(注97)//
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(脚注*) N. K. Krupskaia, Vospominaniia o Lenine. 2nd ed. (1933), p.35. このときには、愛人のInessa Armand のコレラによる突然死(1920年12月)によっても動揺した。
(脚注+) レーニンは、クレムリンの薬局に自分で精神安定剤(Sumnacetin とVeronal)を注文することになる。
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(02) レーニンの体調は、改善を示さなかった。
昔には二つの仕事をすることができたのに今はほとんど一つもできないと、こぼした。
彼は、1922年3月のほとんどを田舎で休養して過ごした。そこで、事態の推移を詳細に辿り、第11回党大会用の演説の草稿を書いた。
どら声になり、苛立っていた。医師たちは、問題は「極度の疲労からの神経衰弱」だと誤診した。(注98)
この当時、彼の習慣的な辛辣さは極端になり、異常なほどだった。エスエルや(正教会の)聖職者の逮捕、裁判、そして処刑を命じたのは、この時期だった。//
----
(03) レーニンの身体状態の悪化は、彼が出席するのが最後になる、1922年3月に開かれた第11回党大会で明らかになった。
彼はとりとめのない二つの演説を行なった。防衛的な性格のもので、自分に同意しない全ての者の人格をやたらに攻撃した。最も親密な仲間の何人かも愚弄した。
奇妙な動き、記憶間違い、ときに生じる発話障害を見て、何人かの医師たちは今では、より深刻な病気、すなわち進行性麻痺に罹っていると結論した。それには治療法はなく、やがては全身不随になり、死ぬ。
最近の2月にカーメネフとスターリンへの私的な手紙で自分の病気には「客観的兆候」がないと否定していたレーニンは (注99)、この診断を受け入れたようだった。きちんとした権限の移行の準備を開始したのだから。
この準備は彼には苦痛となる仕事だった。他の何よりも権力が好きだっただけではなく、1922年12月のいわゆる「遺書」で明確にしたように、自分の権威を継承する資格が本当にある者はいないと考えたからだった。(**)
彼はさらに、現実政治から自分が退去すれば、仲間たちの中に破壊的な個人的抗争を解き放つことになるのではないかと懸念した。//
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(脚注**) 1922年3月21日付のレーニンの不思議なメモがある。これは、訪問中のドイツ人専門家に、Chicherin、トロツキー、カーメネフ、スターリンその他のソヴィエト高官たちの「神経疾患」を検査させることの同意を、中央委員会に求めていた。RTsKhIDNI, F. 2, op. 1, delo 22960.
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(04) 当時は、トロツキーがレーニンの自然の相続者だと思われた。
Radek が称した「勝利の組織者」(注100) であるトロツキー以上に、誰がレーニンの継承者たる権利を持つだろうか?
しかし、トロツキーの立場は、実質よりも表面だった。レーニンに数多く逆らってきたのだから。
トロツキーは、長年にわたってレーニンとその支持者たちを冷笑し、批判したあとで、十月のクーの直前にボルシェヴィキ党に加入した。
古くからの支持者たちは、トロツキーの過去を理由として彼を決して許さなかった。1917年以降の彼の技量がどうであれ、党の内部社会からすれば外部者のままだった。
トロツキーの主な対抗者であるジノヴィエフ、スターリン、カーメネフとは違って政治局員だったけれども、党の執行的役職に就いたことはなく、ゆえに後援する勢力はもちろん一般党員たちに支持基盤を持たなかった。
第10回党大会(1921年)の際の中央委員会選挙で、トロツキーは第10位で、スターリンよりも、相対的には無名のViachevlav Molotov よりすらも、下位だった。(注101)
つぎの大会で、若きアルメニアの党員、Anastas Mikoyan は、トロツキーを軽蔑して、党が地方でどのように活動しているかを知らない「軍人」だと称した。(注102)
トロツキーの個性も、利点ではなかった。
彼は、傲岸さと気配りの欠如のために広く嫌われていた。自分自身が認めたように、「非社交的、個人主義的、貴族主義的」という評判があった。(注103)
トロツキーを称賛する自伝作家すら、彼は「他人にその過ちを思い出させる、 自分の優越性を言い張って分からせようとする、そのような誘惑に、ほとんど抵抗できなかった」と認めた。(注104)
彼は、レーニンや他のボルシェヴィキ指導者たちの合議スタイルを侮蔑して、国の軍隊の司令官のように、自分への絶対的な服従を要求し、「ボナパルティスト」的野望が語られもした。
かくして1920年10月、Wrangel に直面した赤軍兵団の中にあった不服従の報告に怒って、彼は、つぎの文章を含む命令を発した。
「私は、つまりは政府に任命された、人民の信任を得ている、きみたちの赤色指導者は、私自身への完全な忠誠を要求する」。
彼の命令を疑問視する全ての企ては、即決の処刑で対処されることになっていた。(注105)
その高圧的な管理手法は中央委員会の注意を惹くことになり、中央委員会は1919年7月に厳しく批判した。(注106)
1920年の労働の軍事化という彼の無謀な企ては、その判断力に疑問を生じさせただけでなく、ボナパルティズムの疑いを強めた。(注107)
1922年3月、トロツキーは、政治局に対して声明文を送り、党は経済運営への直接の介入をやめるべきだと強く主張した。
政治局はトロツキーの提案を拒絶し、レーニンは、トロツキーの書簡についての慣例だったように、その上に「文書庫へ」と走り書きした。しかし、トロツキーの対抗者たちは、この文書を、彼は「党の指導的役割を廃絶しようとした」証拠として利用した。(注108)
彼は、日常的な政治に巻き込まれるのを拒み、しばしば内閣の会議やその他の行政的討議に欠席した。喧嘩を超越した政治家というポーズをとったのだ。
「トロツキーにとって主要なのはスローガン、話し手の基盤、印象的な身振りであって、決まりきった作業ではなかった」。(注109)
彼の行政的能力は、実際に、低いレベルのものだった。
Harvard 大学のトロツキー文書資料庫にある文書の蓄えが示しているのは、その中にはレーニンへの多数の連絡文書もあるのだが、トロツキーには簡潔で実際的な解決策を文章化する能力がもともとないことだ。レーニンは、原則として、そうした文書にコメントしなかったし、それらに依拠して行動しもしなかった。//
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後注。
(96) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, ed. khr. 4376.
(97) G. A. Kamevev in Revvoensovet Respubloki (1991), 115. IzvTsK, No. 4/291 (1984.4), p.191-8.を参照。
(98) N. Petrenko, in MInuvshee (Paris), No. 2, 1986, p.198.
(99) RTsKhIDNI, F. 2, op. 1, ed. khr. 24760.
(100) Pravda, No. 56 (1923.3.14), p.4.
(101) Desiatyi S"ezd, p.402.
(102) Odinadtsatyi S"ezd, p.430.
(103) L. Trotskii, Moia zhizn', II (1930), p.246.
(104) Deutscher, Prophet Unarmed, p.34.
(105) RevR, No. 3 (1922.2), p.7.
(106) Iu. I. Korablev in REvvoensovet (1991), p.51.
(107) RR, p.707-8.
(108) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 1164; Dvenadtsatyi S"ezd, p.817.
(109) Volkogonov, Triumf, I/1, p.116.
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②へと、つづく。
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。第四節へ。
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第四節・レーニンの病気とスターリンの擡頭①。
(01) レーニンの病気の最初の兆候は、1921年の2月に現れた。その頃、彼は頭痛と不眠を訴え始めた。
それらは、全てが肉体に起因するものではなかった。
レーニンは、連続した屈辱的な敗北を被っていた。ヨーロッパへの革命の拡大という望みが断ち切られたポーランドでの軍事的大失敗、市場の力への屈辱的な降伏が必要になった経済破綻、など。
身体上の兆候は、1900年に生じたものに似ていた。そのときは、社会民主主義運動が内部分裂で崩壊しそうに見えた、党の歴史上のもう一つの危機的な時期だった。(*)
1921年夏を経て、頭痛は徐々に治まったが、レーニンは、眠れないで困っていると言い続けた。(+)
秋には、政治局が、レーニンの仕事のし過ぎを心配し、仕事の予定を軽くするよう求めた。
12月31日には、彼の状態をなおも心配して、政治局は6週間の休暇をとるよう命令した。書記局の許可がないかぎり、職務に復帰してはならない。(注96)
このような命令は奇妙に思えるかもしれないが、党の最高機関から共産党員に対して、機械的に発せられていた。レーニンの主要な秘書のE. D. Stasova がS. S. Kamenev 将軍に言ったように、ボルシェヴィキ党員たちはその健康が「宝のような資産」だと見られていた。(注97)//
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(脚注*) N. K. Krupskaia, Vospominaniia o Lenine. 2nd ed. (1933), p.35. このときには、愛人のInessa Armand のコレラによる突然死(1920年12月)によっても動揺した。
(脚注+) レーニンは、クレムリンの薬局に自分で精神安定剤(Sumnacetin とVeronal)を注文することになる。
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(02) レーニンの体調は、改善を示さなかった。
昔には二つの仕事をすることができたのに今はほとんど一つもできないと、こぼした。
彼は、1922年3月のほとんどを田舎で休養して過ごした。そこで、事態の推移を詳細に辿り、第11回党大会用の演説の草稿を書いた。
どら声になり、苛立っていた。医師たちは、問題は「極度の疲労からの神経衰弱」だと誤診した。(注98)
この当時、彼の習慣的な辛辣さは極端になり、異常なほどだった。エスエルや(正教会の)聖職者の逮捕、裁判、そして処刑を命じたのは、この時期だった。//
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(03) レーニンの身体状態の悪化は、彼が出席するのが最後になる、1922年3月に開かれた第11回党大会で明らかになった。
彼はとりとめのない二つの演説を行なった。防衛的な性格のもので、自分に同意しない全ての者の人格をやたらに攻撃した。最も親密な仲間の何人かも愚弄した。
奇妙な動き、記憶間違い、ときに生じる発話障害を見て、何人かの医師たちは今では、より深刻な病気、すなわち進行性麻痺に罹っていると結論した。それには治療法はなく、やがては全身不随になり、死ぬ。
最近の2月にカーメネフとスターリンへの私的な手紙で自分の病気には「客観的兆候」がないと否定していたレーニンは (注99)、この診断を受け入れたようだった。きちんとした権限の移行の準備を開始したのだから。
この準備は彼には苦痛となる仕事だった。他の何よりも権力が好きだっただけではなく、1922年12月のいわゆる「遺書」で明確にしたように、自分の権威を継承する資格が本当にある者はいないと考えたからだった。(**)
彼はさらに、現実政治から自分が退去すれば、仲間たちの中に破壊的な個人的抗争を解き放つことになるのではないかと懸念した。//
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(脚注**) 1922年3月21日付のレーニンの不思議なメモがある。これは、訪問中のドイツ人専門家に、Chicherin、トロツキー、カーメネフ、スターリンその他のソヴィエト高官たちの「神経疾患」を検査させることの同意を、中央委員会に求めていた。RTsKhIDNI, F. 2, op. 1, delo 22960.
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(04) 当時は、トロツキーがレーニンの自然の相続者だと思われた。
Radek が称した「勝利の組織者」(注100) であるトロツキー以上に、誰がレーニンの継承者たる権利を持つだろうか?
しかし、トロツキーの立場は、実質よりも表面だった。レーニンに数多く逆らってきたのだから。
トロツキーは、長年にわたってレーニンとその支持者たちを冷笑し、批判したあとで、十月のクーの直前にボルシェヴィキ党に加入した。
古くからの支持者たちは、トロツキーの過去を理由として彼を決して許さなかった。1917年以降の彼の技量がどうであれ、党の内部社会からすれば外部者のままだった。
トロツキーの主な対抗者であるジノヴィエフ、スターリン、カーメネフとは違って政治局員だったけれども、党の執行的役職に就いたことはなく、ゆえに後援する勢力はもちろん一般党員たちに支持基盤を持たなかった。
第10回党大会(1921年)の際の中央委員会選挙で、トロツキーは第10位で、スターリンよりも、相対的には無名のViachevlav Molotov よりすらも、下位だった。(注101)
つぎの大会で、若きアルメニアの党員、Anastas Mikoyan は、トロツキーを軽蔑して、党が地方でどのように活動しているかを知らない「軍人」だと称した。(注102)
トロツキーの個性も、利点ではなかった。
彼は、傲岸さと気配りの欠如のために広く嫌われていた。自分自身が認めたように、「非社交的、個人主義的、貴族主義的」という評判があった。(注103)
トロツキーを称賛する自伝作家すら、彼は「他人にその過ちを思い出させる、 自分の優越性を言い張って分からせようとする、そのような誘惑に、ほとんど抵抗できなかった」と認めた。(注104)
彼は、レーニンや他のボルシェヴィキ指導者たちの合議スタイルを侮蔑して、国の軍隊の司令官のように、自分への絶対的な服従を要求し、「ボナパルティスト」的野望が語られもした。
かくして1920年10月、Wrangel に直面した赤軍兵団の中にあった不服従の報告に怒って、彼は、つぎの文章を含む命令を発した。
「私は、つまりは政府に任命された、人民の信任を得ている、きみたちの赤色指導者は、私自身への完全な忠誠を要求する」。
彼の命令を疑問視する全ての企ては、即決の処刑で対処されることになっていた。(注105)
その高圧的な管理手法は中央委員会の注意を惹くことになり、中央委員会は1919年7月に厳しく批判した。(注106)
1920年の労働の軍事化という彼の無謀な企ては、その判断力に疑問を生じさせただけでなく、ボナパルティズムの疑いを強めた。(注107)
1922年3月、トロツキーは、政治局に対して声明文を送り、党は経済運営への直接の介入をやめるべきだと強く主張した。
政治局はトロツキーの提案を拒絶し、レーニンは、トロツキーの書簡についての慣例だったように、その上に「文書庫へ」と走り書きした。しかし、トロツキーの対抗者たちは、この文書を、彼は「党の指導的役割を廃絶しようとした」証拠として利用した。(注108)
彼は、日常的な政治に巻き込まれるのを拒み、しばしば内閣の会議やその他の行政的討議に欠席した。喧嘩を超越した政治家というポーズをとったのだ。
「トロツキーにとって主要なのはスローガン、話し手の基盤、印象的な身振りであって、決まりきった作業ではなかった」。(注109)
彼の行政的能力は、実際に、低いレベルのものだった。
Harvard 大学のトロツキー文書資料庫にある文書の蓄えが示しているのは、その中にはレーニンへの多数の連絡文書もあるのだが、トロツキーには簡潔で実際的な解決策を文章化する能力がもともとないことだ。レーニンは、原則として、そうした文書にコメントしなかったし、それらに依拠して行動しもしなかった。//
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後注。
(96) RTsKhIDNI, F. 558, op. 1, ed. khr. 4376.
(97) G. A. Kamevev in Revvoensovet Respubloki (1991), 115. IzvTsK, No. 4/291 (1984.4), p.191-8.を参照。
(98) N. Petrenko, in MInuvshee (Paris), No. 2, 1986, p.198.
(99) RTsKhIDNI, F. 2, op. 1, ed. khr. 24760.
(100) Pravda, No. 56 (1923.3.14), p.4.
(101) Desiatyi S"ezd, p.402.
(102) Odinadtsatyi S"ezd, p.430.
(103) L. Trotskii, Moia zhizn', II (1930), p.246.
(104) Deutscher, Prophet Unarmed, p.34.
(105) RevR, No. 3 (1922.2), p.7.
(106) Iu. I. Korablev in REvvoensovet (1991), p.51.
(107) RR, p.707-8.
(108) RTsKhIDNI, F. 2, op. 2, delo 1164; Dvenadtsatyi S"ezd, p.817.
(109) Volkogonov, Triumf, I/1, p.116.
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②へと、つづく。