Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第九章/新体制の危機、の試訳のつづき。第六節へ。原書、p.471〜。
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第六節・ジョージア紛議(the controversy over Georgia)①。
(01) レーニンのスターリンに対する敵対意識は強いものだったが、少数民族に対処するスターリンの高圧的方法によって、さらに増大した。
レーニンは、ロシアの少数民族への適切な対応を重要視した。それはソヴィエト国家の結合にとって重要なだけではなく、植民地諸民族への影響をもちそうだったからだ。
本質問題について、スターリンと対立してはいなかった。つまり、民族主義(nationalism)は「プロレタリアート独裁」においては「ブルジョア的」遺物だった。
ソヴィエト国家は中央志向であり、諸決定は民族的選好を考慮することなく行われなければならなかった。
スターリンとの違いは、方法だった。
レーニンは、民族少数派はロシア人の過去の虐待を理由としてロシア人への不満を説明してきた、と考えた。
彼は、制限された文化的自治をもつ連邦上の外装を認めたり、とりわけ最大限の如才なさでもって対応するといった、本質的には形式上の譲歩をすることで、この不満を緩和しようとした。
民族的情緒を全く欠く人物を軽蔑し、大ロシア排外主義は共産主義の世界的利益にとって危険だと見ていた。//
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(02) 奇妙な外国訛りでロシア語を話すジョージア人のスターリンは、異なって考えていた。
彼は早くに、共産党の権力基盤は大ロシアの民衆にあると理解した。
1922年に登録された37万6000人の党員のうち、ゆうに27万人あるいは72パーセントがロシア人だった。そして残りの党員たちのうち高い割合の者たちが、ロシア化していた。ウクライナ人党員の半分、ユダヤ人党員の三分の二。(注156)
さらに、内戦の過程で、かつ対ポーランド戦争の間ですら、共産主義とロシア民族主義の間の微妙な融合が起きた。
それが最も顕著に発現したのが、いわゆる「Smena Vekh」または「目印の変化」だった。これは保守的なエミグレ(国外脱出者)の中で人気を博した運動で、ソヴィエト国家をロシアの民族的偉大さを示すものと把握し、エミグレたちに帰国するよう説いた。
第10回党大会(1921年)で、ある代議員は、ソヴィエト国家の成果は「ロシア革命に関係した者たちの心を誇りで充たし、特有の赤色ロシア愛国主義を引き起こした」、ということに気づいた。(注157)
スターリンのような野心的政治家には、より大きい関心は、世界を転覆させることではなく、地元(home)で権力を獲得することにあった。そして、このような民族にかかわる推移は、危険ではなく好機だった。
彼の経歴の最初から、そしてより公然と彼の独裁の年月とともに、彼は民族少数派を犠牲にする大ロシア民族主義者だと自認した。//
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(03) 1922年までに、共産主義者は非ロシア人が住む境界諸国のほとんどを再征服していた。
この帝国主義的拡大の決定的要因は、赤軍だった。
しかし、本国の共産党員たちも、プロパガンダと破壊活動によって、貢献した。そして、新しい体制が樹立されると、地方の事情について発言しようとした。
このような要求に、中央は十分な注意を払わなかった。スターリンは、民族問題人民委員と書記局長の職に就いていたが、各々のいわゆるソヴェト共和国を、帝政時代にあったのとよく似たロシアに固有の一部だと見ていた。
その結果として生じたのは、〔中央に対する〕憤慨であり、地方の共産党員とモスクワの中央機構の間の対立だった。レーニンはこのことに、1922年遅くに注意を向けるに至った。//
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(04) この点に関する最も暴力的な対立が、ジョージアで発生した。
スターリンは、鎮圧したメンシェヴィキの本拠は自分の個人的な管轄区域だと見なし、ジョージアが占拠されたあとで、地方党員を越えて、ジョージア人仲間で共産党コーカサス事務局長のSergei Ordzhonikidze の助けを安直に求めた。
トランスコーカサスの経済の統合というレーニンの指示を実行するために、Ordzhonikidze は、ソヴィエト・ロシアへと一体化する予備段階として、ジョージアをアルメニア、アゼルバイジャンとともに一つの連邦に合併させた。
Budu Mdivani とPhlip Markharadze が率いた地方党員たちはこれに抵抗し、Ordzhonikidze の高慢な措置についてモスクワに対して不満を述べた。(注158)
レーニンは彼らの異議に従って、トランスコーカサスの政治的および経済的統合を一時的に延期した。
その後、1922年3月に、彼は合併を進めるよう命令した。
そして、Ordzhonikidze は、トランスコーカサス・ソヴェト社会主義共和国連邦同盟の設立を発表した。三共和国の政府が行使していた権力のほとんどは、新しいトランスコーカサス連邦へと移管された。
Tiflis〔ジョージアの首都—試訳者〕からの異議申立ては、レーニンには効果がなかった。彼はこのような問題について、スターリンの助言を信頼していた。//
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(05) 1922年の夏、共産党の領域は、四つの共和国で構成されていた。
ロシア(RSFSR, ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦)、ウクライナ、ベラルーシ、およびトランスコーカサス。
これらの形式的関係は双務的条約で規定された。
だが現実には、四つの共和国全てがロシア共産党によって管理された。
今決定されたのは、これらの共和国の関係をより整理されたものにする、ということだった。
レーニンは、連邦同盟の基本的考え方を検討する任務を、1922年8月に、スターリンを長とする委員会に委託した。(注159)
スターリンは、驚くほどの簡潔さをもつ結論に至った。
すなわち、三つの非ロシア人共和国は、RSFSR〔ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦〕に自治的団体として加盟する。ロシア共和国の中央国家機関が、連邦的権限を引き継ぐ。
このような制度では、ウクライナまたはジョージアと、Iakutiia またはBashkiriia のようなRSFSR内部の自治共和国との間の国制上の区別が消滅してしまう。
これは、全ての重要な国家機能をロシア共和国に与えるという、きわめて中央集権的な制度編成だった。(注160)
じつに、帝制時代の「一つで不可分のロシア」という原理を復元させるものだった。//
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(06) これは、レーニンが想定していたものでは全くなかった。
彼は1920年に早くも、二種のソヴェト的政体を構想していた。すなわち、大民族集団のための、形式上の主権をもつ「同盟」諸共和国と、少数派民族集団のための「自治」諸共和国。
スターリンは、今のモスクワは行政の実際の観点から大民族と小民族を区別していないように、こう区別するのは学者的だと考えた。(注161)
レーニンの命令を受けて、スターリンは自分自身の考えに従って新しい国家構造を考案しようとした。//
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(07) 「自治化」(autonomization)という観念にもとづくスターリンの提案の草稿が、同意を求めて各共和国に送られた。
それは、敵対的に受けとめられた。
最も不満をもったのは、ジョージア共産党だった。彼らは1922年9月15日に、スターリンの提案は「未熟」だと宣明した。(注162)
Ordzhonikidze はこれを却下し、トランスコーカサス連邦に賛成して草稿は〔ジョージア共産党に〕同意されたと、スターリンに知らせた。
ウクライナは判断を保留し、ベラルーシはウクライナの決定に従うと宣言して、両方に肩入れした。
スターリンの委員会は、事実上の全員一致で、彼の案を採択した。//
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後注。
(156) Richard Pipes, Formation of the Soviet Union, rev. ed. (1964), p.278.
(157) V. P. Zatonskii in Desiatyi S"ezd, p.203.
(158) Pipes, Formation, p.266-9.
(159) Ibid., p.270; IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191.
(160) スターリンの提案は、1964年に初めて公刊された。Lenin, PSS, XLV, p.557-8. 彼の「自治化」提案をめぐる論争に関するその他の文献資料は、つぎにある。IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191-p.218.
(161) Lenin, Sochineniia, XXV, p.624.
(162) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.196.
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②へと、つづく。
第九章/新体制の危機、の試訳のつづき。第六節へ。原書、p.471〜。
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第六節・ジョージア紛議(the controversy over Georgia)①。
(01) レーニンのスターリンに対する敵対意識は強いものだったが、少数民族に対処するスターリンの高圧的方法によって、さらに増大した。
レーニンは、ロシアの少数民族への適切な対応を重要視した。それはソヴィエト国家の結合にとって重要なだけではなく、植民地諸民族への影響をもちそうだったからだ。
本質問題について、スターリンと対立してはいなかった。つまり、民族主義(nationalism)は「プロレタリアート独裁」においては「ブルジョア的」遺物だった。
ソヴィエト国家は中央志向であり、諸決定は民族的選好を考慮することなく行われなければならなかった。
スターリンとの違いは、方法だった。
レーニンは、民族少数派はロシア人の過去の虐待を理由としてロシア人への不満を説明してきた、と考えた。
彼は、制限された文化的自治をもつ連邦上の外装を認めたり、とりわけ最大限の如才なさでもって対応するといった、本質的には形式上の譲歩をすることで、この不満を緩和しようとした。
民族的情緒を全く欠く人物を軽蔑し、大ロシア排外主義は共産主義の世界的利益にとって危険だと見ていた。//
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(02) 奇妙な外国訛りでロシア語を話すジョージア人のスターリンは、異なって考えていた。
彼は早くに、共産党の権力基盤は大ロシアの民衆にあると理解した。
1922年に登録された37万6000人の党員のうち、ゆうに27万人あるいは72パーセントがロシア人だった。そして残りの党員たちのうち高い割合の者たちが、ロシア化していた。ウクライナ人党員の半分、ユダヤ人党員の三分の二。(注156)
さらに、内戦の過程で、かつ対ポーランド戦争の間ですら、共産主義とロシア民族主義の間の微妙な融合が起きた。
それが最も顕著に発現したのが、いわゆる「Smena Vekh」または「目印の変化」だった。これは保守的なエミグレ(国外脱出者)の中で人気を博した運動で、ソヴィエト国家をロシアの民族的偉大さを示すものと把握し、エミグレたちに帰国するよう説いた。
第10回党大会(1921年)で、ある代議員は、ソヴィエト国家の成果は「ロシア革命に関係した者たちの心を誇りで充たし、特有の赤色ロシア愛国主義を引き起こした」、ということに気づいた。(注157)
スターリンのような野心的政治家には、より大きい関心は、世界を転覆させることではなく、地元(home)で権力を獲得することにあった。そして、このような民族にかかわる推移は、危険ではなく好機だった。
彼の経歴の最初から、そしてより公然と彼の独裁の年月とともに、彼は民族少数派を犠牲にする大ロシア民族主義者だと自認した。//
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(03) 1922年までに、共産主義者は非ロシア人が住む境界諸国のほとんどを再征服していた。
この帝国主義的拡大の決定的要因は、赤軍だった。
しかし、本国の共産党員たちも、プロパガンダと破壊活動によって、貢献した。そして、新しい体制が樹立されると、地方の事情について発言しようとした。
このような要求に、中央は十分な注意を払わなかった。スターリンは、民族問題人民委員と書記局長の職に就いていたが、各々のいわゆるソヴェト共和国を、帝政時代にあったのとよく似たロシアに固有の一部だと見ていた。
その結果として生じたのは、〔中央に対する〕憤慨であり、地方の共産党員とモスクワの中央機構の間の対立だった。レーニンはこのことに、1922年遅くに注意を向けるに至った。//
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(04) この点に関する最も暴力的な対立が、ジョージアで発生した。
スターリンは、鎮圧したメンシェヴィキの本拠は自分の個人的な管轄区域だと見なし、ジョージアが占拠されたあとで、地方党員を越えて、ジョージア人仲間で共産党コーカサス事務局長のSergei Ordzhonikidze の助けを安直に求めた。
トランスコーカサスの経済の統合というレーニンの指示を実行するために、Ordzhonikidze は、ソヴィエト・ロシアへと一体化する予備段階として、ジョージアをアルメニア、アゼルバイジャンとともに一つの連邦に合併させた。
Budu Mdivani とPhlip Markharadze が率いた地方党員たちはこれに抵抗し、Ordzhonikidze の高慢な措置についてモスクワに対して不満を述べた。(注158)
レーニンは彼らの異議に従って、トランスコーカサスの政治的および経済的統合を一時的に延期した。
その後、1922年3月に、彼は合併を進めるよう命令した。
そして、Ordzhonikidze は、トランスコーカサス・ソヴェト社会主義共和国連邦同盟の設立を発表した。三共和国の政府が行使していた権力のほとんどは、新しいトランスコーカサス連邦へと移管された。
Tiflis〔ジョージアの首都—試訳者〕からの異議申立ては、レーニンには効果がなかった。彼はこのような問題について、スターリンの助言を信頼していた。//
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(05) 1922年の夏、共産党の領域は、四つの共和国で構成されていた。
ロシア(RSFSR, ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦)、ウクライナ、ベラルーシ、およびトランスコーカサス。
これらの形式的関係は双務的条約で規定された。
だが現実には、四つの共和国全てがロシア共産党によって管理された。
今決定されたのは、これらの共和国の関係をより整理されたものにする、ということだった。
レーニンは、連邦同盟の基本的考え方を検討する任務を、1922年8月に、スターリンを長とする委員会に委託した。(注159)
スターリンは、驚くほどの簡潔さをもつ結論に至った。
すなわち、三つの非ロシア人共和国は、RSFSR〔ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦〕に自治的団体として加盟する。ロシア共和国の中央国家機関が、連邦的権限を引き継ぐ。
このような制度では、ウクライナまたはジョージアと、Iakutiia またはBashkiriia のようなRSFSR内部の自治共和国との間の国制上の区別が消滅してしまう。
これは、全ての重要な国家機能をロシア共和国に与えるという、きわめて中央集権的な制度編成だった。(注160)
じつに、帝制時代の「一つで不可分のロシア」という原理を復元させるものだった。//
----
(06) これは、レーニンが想定していたものでは全くなかった。
彼は1920年に早くも、二種のソヴェト的政体を構想していた。すなわち、大民族集団のための、形式上の主権をもつ「同盟」諸共和国と、少数派民族集団のための「自治」諸共和国。
スターリンは、今のモスクワは行政の実際の観点から大民族と小民族を区別していないように、こう区別するのは学者的だと考えた。(注161)
レーニンの命令を受けて、スターリンは自分自身の考えに従って新しい国家構造を考案しようとした。//
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(07) 「自治化」(autonomization)という観念にもとづくスターリンの提案の草稿が、同意を求めて各共和国に送られた。
それは、敵対的に受けとめられた。
最も不満をもったのは、ジョージア共産党だった。彼らは1922年9月15日に、スターリンの提案は「未熟」だと宣明した。(注162)
Ordzhonikidze はこれを却下し、トランスコーカサス連邦に賛成して草稿は〔ジョージア共産党に〕同意されたと、スターリンに知らせた。
ウクライナは判断を保留し、ベラルーシはウクライナの決定に従うと宣言して、両方に肩入れした。
スターリンの委員会は、事実上の全員一致で、彼の案を採択した。//
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後注。
(156) Richard Pipes, Formation of the Soviet Union, rev. ed. (1964), p.278.
(157) V. P. Zatonskii in Desiatyi S"ezd, p.203.
(158) Pipes, Formation, p.266-9.
(159) Ibid., p.270; IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191.
(160) スターリンの提案は、1964年に初めて公刊された。Lenin, PSS, XLV, p.557-8. 彼の「自治化」提案をめぐる論争に関するその他の文献資料は、つぎにある。IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.191-p.218.
(161) Lenin, Sochineniia, XXV, p.624.
(162) IzvTsK, No. 9/296 (1989.9), p.196.
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②へと、つづく。