リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
=Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原書、597頁~600頁。
毎回行っているのではないコメント。1918年のムルマンスクへの連合国軍(とくにイギリス)の上陸はしばしば<ロシア革命に対する資本主義国の干渉>の例とされている。しかし、以下のR・パイプスの叙述によると、何のことはない、当時の種々の可能性をふまえてのトロツキーらボルシェヴィキの要請によるもので、間違いなくレーニンも是認している。
第13章・ブレスト=リトフスク。
----
第15節・連合国軍がロシアに初上陸。
(1)レーニンはドイツの諸条件に従ったが、ドイツをまだ信頼してはいなかった。
彼はドイツ政府内部の対立に関する情報を十分に得ており、将軍たちが自分の排除を強く主張していることを知っていた。
そのため、レーニンは、連合諸国との接触を維持し、ソヴィエトの外交政策を彼らのよいように急激に転換する用意があると約束するのが賢明だと考えた。//
(2)ブレスト条約が調印されたが批准はまだのとき、トロツキーは、アメリカ合衆国政府への伝言を記したつぎの文書を、ロビンスに手渡した。
「つぎのいくつかの場合が考えられる。a)全ロシア・ソヴェト大会がドイツとの講和条約を批准するのを拒む。b)ドイツ政府が講和条約を破って強盗的収奪を継続すべく攻撃を再開する。あるいは、c)ソヴィエト政府が講和条約を破棄するように-批准の前または後で-、そして敵対行動を再開するように、ドイツの行動によって余儀なくされる。
これらのいずれの場合でも、ソヴィエト権力の軍事的および政治的方針にとってきわめて重要なのは、つぎの諸質問に対して回答が与えられることだ。
1) ソヴィエト政府がドイツと戦闘する場合、アメリカ合衆国、大ブリテン(イギリス)、およびフランスの支援をあてにすることができるか?
2) 最も近い将来に、いかなる種類の支援が、いかなる条件のもとで用意され得るだろうか?-軍事装備、輸送供給、生活必需品は?
3) 個別にはとくにアメリカ合衆国によって、いかなる種類の支援がなされるだろうか?
4) 公然たるまたは暗黙のドイツの了解のもとで、またはそのような了解なくして、日本がウラジオストークと東部シベリア鉄道を奪うとすれば、それはロシアを太平洋から切り離し、ソヴィエト兵団がウラル山脈あたりから東方へと戦力を集中させるのを大いに妨害することとなるだろう。この場合、連合諸国は、個別にはとくにアメリカ合衆国は、日本軍がわが極東の領土に上陸するのを阻止し、シベリア・ルートを通じてロシアとの安全な通信連絡を確保するために、どのような措置をとるつもりだろうか?//
アメリカ合衆国政府の見解によれば、-上述のごとき情勢のもとで-イギリス政府はどの程度の範囲の援助を、ムルマンスクやアルハンゲルを通じて確実に与えてくれるだろうか?
イギリス政府は、この援助を行い、それでもって近いうちにイギリス側はロシアに対して敵対的行動方針をとるという風聞の根拠を喪失させるために、いかなる措置をとることができるだろうか?//
これらの質問の全ては、ソヴィエト政府の内政および外交の政策は国際社会主義の諸原理と合致すべく嚮導される、またソヴィエト政府は非社会主義諸政府の完全な自立性を護持する、ということを自明の前提条件としている。」(82)//
この文書の最後の段落が意味したのは、ボルシェヴィキは、助けを乞い求めているまさにその諸政府を打倒する闘いをする権利を留保する、ということだった。//
(3)トロツキーがこの文書をロビンスに渡した日、彼はB・ロックハートと会話した。(83)
トロツキーはこのイギリス外交官に対して、近づいているソヴェト大会はおそらくブレスト条約の批准を拒否し、ドイツに対する戦争を宣言するだろう、と言った。
しかし、この事態が起きるためには、連合諸国はソヴィエト・ロシアを支援しなければならなかった。
日本の大量の遠征軍がドイツと交戦すべくシベリアに上陸する可能性を連合諸国政府に伝えるべきだと暗に示唆しつつ、トロツキーは、そのようなロシアの主権の侵害は連合諸国との全ての信頼関係を破壊するだろう、と語った。
ロックハートはトロツキーの発言をロンドンに知らせつつ、こうした提案は東部前線での戦闘を活性化させるよい機会を与える、と述べた。
アメリカ大使のフランシスは、同じ意見だった。彼はワシントンに電信を打って、連合諸国が日本に対してシベリア上陸計画をやめるよう説き伏せることができれば、ソヴェト大会はおそらくブレスト条約を拒否するだろう、と伝えた。(84)
(4)もちろん、ソヴェト大会が条約の批准を拒否する可能性は、きわめて乏しかった。ボルシェヴィキが多数派を占めることが定着しているにもかかわらず、レーニンが苦労して獲得した勝利をあえて奪い去ることになるからだ。
ボルシェヴィキは、本当に怖れていたことを阻止するために餌を用いた。-怖れたこととはすなわち、日本軍によるシベリア占領と、反ボルシェヴィキ勢力の側に立っての日本のロシア問題への干渉だ。
フランス外交官のヌーランによると、ボルシェヴィキはロックハートを信頼していたので、ロックハートが暗号を使ってロンドンと連絡通信するのを許した。そうしたことは、公式の外国使節団ですら禁止されたことだった。(85)
(5)連合諸国との友好関係によって生じた最初の具体的結果は、3月9日に連合諸国の少数の分遣隊がムルマンスクに上陸したことだった。
1916年以降、約60万トンに上る軍需物資がロシア軍に対して送られ、その多くについては支払いがなかったのだが、その軍需物資は輸送手段が不足しているために内陸には送られず、そこに蓄積されていた。
連合諸国は、この物資がブレスト=リトフスク条約の結果としてドイツ軍の手に入るか、ドイツ=フィンランド軍勢力によって分捕られることを、怖れた。
連合諸国はまた、ペチェンガ(Pechenga, Petsamo)付近をドイツ軍が奪取して、そこに潜水艦基地を建設するのを懸念していた。//
(6)連合諸国による保護を求める最初の要請はムルマンスクのソヴェトによるもので、3月5日に、ドイツ軍に援助されていると見られる「フィンランド白軍」がムルマンスクを攻撃しようとしている、とペトログラードに電報を打った。
当地のソヴェトはイギリス海軍と接触し、同時に、ペトログラードに対して、連合諸国に介入を求めることの正当化を要請した。
トロツキーはムルマンスク・ソヴェトに、連合諸国の軍事援助を受けるのは自由だ、と知らせた。(86)
こうして、ロシア国土に対する西側の最初の干渉は、ムルマンスク・ソヴェトの要請とソヴィエト政府の是認によって行われた。
レーニンは1918年5月14日の演説で、イギリスとフランスは「ムルマンスクの海岸を防衛するために」上陸した、と説明した。(87)
(7)ムルマンスクに上陸した連合諸国の部隊は、数百名のチェコ兵のほか、150名のイギリス海兵たち、若干のフランス兵で構成されていた。(88)
その後の数週間、イギリスはムルマンスクの件について、モスクワとの恒常的な連絡通信関係を維持した。不幸にも、その意思疎通の内容は、明らかにされてきていない。
両当事者は、ドイツとフィンランドの両軍がこの重要な港湾を奪取するのを阻止すべく協力した。
のちに、ドイツの圧力によって、モスクワはロシア国土に連合諸国軍が存在することに抗議した。しかし、トロツキーとの緊密な関係を保っていたフランス外交官のサドゥールは、自国政府に対して、心配する必要はない、とこう助言した。//
「レーニン、トロツキーおよびチチェリンは、現在の情勢のもとで、連合諸国との同盟する希望をもって、イギリス・フランスのムルマンスク上陸を受容している。これはドイツに講和条約違反だと抗議する言い分を与えるのを阻止するために行われたと理解されていて、彼ら自身は連合諸国に対して純粋に形式的な抗議を表明するだろう。
彼らは素晴らしいことに、北部の港湾とそこにつながる鉄道を、ドイツ・フィンランドの危険な企てから守ることが必要だと理解している。」(89)
(8)第四回ソヴェト大会の前夜、ボルシェヴィキは第7回(臨時)党大会を開いた。
緊急に招集された、46名の代議員が出席したこの大会の議題は、ブレスト=リトフスク条約に集中していた。
口火を切った、とくにレーニンの不人気な立場を防衛する親密なグループの議論からは、国際法および他国との関係に関する共産主義者の態度について、きわめて稀な洞察を行うことができる。
(9)レーニンは、左翼共産主義者に対して、力強く自分を擁護した。(90)
彼が最近の事態を概述して聴衆に想起させようとしたのは、ロシアで権力を奪取するのがいかに容易だったか、そしてその権力を組織化して維持するのがいかに困難であるか、だった。
権力を掌握する際に有効だと分かった方法を、それを管理するという骨の折れる任務に単純に移し替えることはできない。
レーニンは、「資本主義」諸国との間の永続的な平和などあり得ないこと、革命を世界に拡大することが必須であること、を承認した。
しかし、現実的でなければならない。西側の産業ストライキの全てが革命を意味するわけではない。
全くの非マルクス主義者ではむろんないが、レーニンは、後進国であるロシアに比べて、民主主義的な資本主義諸国で革命を起こすのははるかに困難だ、と認めた。//
(10)これらは全て、聞き慣れたことだった。
目新しいのは、平和と戦争という主題に関する、レーニンのあけすけな考察だ。
レーニンは、指導的な「帝国主義」権力との永遠の講和をしたのではないかと怖れる聴衆に対して、あらためて保証した。
まず、ソヴィエト政府は、ブレスト条約の諸条項を破る意図をつねに持っている。実際に、すでに30回か40回かそうした(たった3日間で!)。
中央諸国との講和は、階級闘争の廃止を意味していない。
平和はその性質上つねに一時的なもので、「力を結集する機会」だ。「歴史が教えるのは、平和は戦争のための息抜きだ、ということだ」。
別の言葉で言うと、戦争が正常な状態であり、平和は小休止だ。すなわち、非共産主義諸国との間の永続的な平和などあり得ず、敵対関係の一時的な停止、つまり停戦があるにすぎない。
レーニンは、続けた。講和条約が発効している間ですら、ソヴィエト政府は-条約の諸条項を無視して-新しいかつ力強い軍隊を組織するだろう。
彼はこのように述べて、是認することが求められている講和条約は世界的革命の途上にある迂回路にすぎないと、支持者たちを安心させた。//
(11)左翼共産主義者たちは、反対論をあらためて述べた。しかし、十分な票数を掻き集めることはできなかった。
条約を是認するとの提案は、賛成28、反対9、保留1で、通過した。
レーニンはさらに、党大会に対して、秘密決議を採択するよう求めた。この秘密期間未定のままで公表されない決議は、中央委員会に、「帝国主義者やブルジョア政府との間の平和条約をいつでも無効に(annul)する権限、および同様に、それらに宣戦布告する権限」を、与えるものだった。(92)
ただちに採択され、のちにも公式には撤回されなかったこの決議は、ボルシェヴィキ党中央委員会の一握りの者たちに、彼らの随意の判断でもって、ソヴィエト政府が加入した全ての国際的協定を破棄する権能、およびいずれかのまたは全ての外国に対して宣戦布告をする権能を与えた。
-------------
(82) J. Degras, Documents of Russian Foreign Policy, I(London, 1951), p.56-p.57. 文書の日付は、1918年3月5日。
(83) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.82-4.
(84) 同上, p.85-6.
(85) J. Noulens, Mon Ambassade en Russie Sovietique, II(Paris, 1933), p.116.
Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.161-2.を参照。
(86) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.; D Francis, Russia from the American Embassy(New York, 1922), p.264-5.
Brian Pearce, How Haig Saved Lenin(London, 1988), p.15-p.16.
(87) NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
(88) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.
(89) 1918年4月12日付手紙、in: Sadoul, Notes, p.305.
ドイツによる圧力につき、Lenin, in: NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
(90) Lenin, PSS, XXXVI, p.3-p.26.
(91) Lenin, Sochineniia, XXII, p.559-p.561, p.613.
(92) KPSS v rezoliutsiiakh i resheniiakh s"ezdov, konferentsii iplenumov TsK, 1898-1953, 第7版, I(Moscow, 1953), p.405.; Lenin, PSS, XXXVI, p.37-8, p.40.を参照。
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第15節、終わり。この章には、あと第16節・第17節がある。
=Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原書、597頁~600頁。
毎回行っているのではないコメント。1918年のムルマンスクへの連合国軍(とくにイギリス)の上陸はしばしば<ロシア革命に対する資本主義国の干渉>の例とされている。しかし、以下のR・パイプスの叙述によると、何のことはない、当時の種々の可能性をふまえてのトロツキーらボルシェヴィキの要請によるもので、間違いなくレーニンも是認している。
第13章・ブレスト=リトフスク。
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第15節・連合国軍がロシアに初上陸。
(1)レーニンはドイツの諸条件に従ったが、ドイツをまだ信頼してはいなかった。
彼はドイツ政府内部の対立に関する情報を十分に得ており、将軍たちが自分の排除を強く主張していることを知っていた。
そのため、レーニンは、連合諸国との接触を維持し、ソヴィエトの外交政策を彼らのよいように急激に転換する用意があると約束するのが賢明だと考えた。//
(2)ブレスト条約が調印されたが批准はまだのとき、トロツキーは、アメリカ合衆国政府への伝言を記したつぎの文書を、ロビンスに手渡した。
「つぎのいくつかの場合が考えられる。a)全ロシア・ソヴェト大会がドイツとの講和条約を批准するのを拒む。b)ドイツ政府が講和条約を破って強盗的収奪を継続すべく攻撃を再開する。あるいは、c)ソヴィエト政府が講和条約を破棄するように-批准の前または後で-、そして敵対行動を再開するように、ドイツの行動によって余儀なくされる。
これらのいずれの場合でも、ソヴィエト権力の軍事的および政治的方針にとってきわめて重要なのは、つぎの諸質問に対して回答が与えられることだ。
1) ソヴィエト政府がドイツと戦闘する場合、アメリカ合衆国、大ブリテン(イギリス)、およびフランスの支援をあてにすることができるか?
2) 最も近い将来に、いかなる種類の支援が、いかなる条件のもとで用意され得るだろうか?-軍事装備、輸送供給、生活必需品は?
3) 個別にはとくにアメリカ合衆国によって、いかなる種類の支援がなされるだろうか?
4) 公然たるまたは暗黙のドイツの了解のもとで、またはそのような了解なくして、日本がウラジオストークと東部シベリア鉄道を奪うとすれば、それはロシアを太平洋から切り離し、ソヴィエト兵団がウラル山脈あたりから東方へと戦力を集中させるのを大いに妨害することとなるだろう。この場合、連合諸国は、個別にはとくにアメリカ合衆国は、日本軍がわが極東の領土に上陸するのを阻止し、シベリア・ルートを通じてロシアとの安全な通信連絡を確保するために、どのような措置をとるつもりだろうか?//
アメリカ合衆国政府の見解によれば、-上述のごとき情勢のもとで-イギリス政府はどの程度の範囲の援助を、ムルマンスクやアルハンゲルを通じて確実に与えてくれるだろうか?
イギリス政府は、この援助を行い、それでもって近いうちにイギリス側はロシアに対して敵対的行動方針をとるという風聞の根拠を喪失させるために、いかなる措置をとることができるだろうか?//
これらの質問の全ては、ソヴィエト政府の内政および外交の政策は国際社会主義の諸原理と合致すべく嚮導される、またソヴィエト政府は非社会主義諸政府の完全な自立性を護持する、ということを自明の前提条件としている。」(82)//
この文書の最後の段落が意味したのは、ボルシェヴィキは、助けを乞い求めているまさにその諸政府を打倒する闘いをする権利を留保する、ということだった。//
(3)トロツキーがこの文書をロビンスに渡した日、彼はB・ロックハートと会話した。(83)
トロツキーはこのイギリス外交官に対して、近づいているソヴェト大会はおそらくブレスト条約の批准を拒否し、ドイツに対する戦争を宣言するだろう、と言った。
しかし、この事態が起きるためには、連合諸国はソヴィエト・ロシアを支援しなければならなかった。
日本の大量の遠征軍がドイツと交戦すべくシベリアに上陸する可能性を連合諸国政府に伝えるべきだと暗に示唆しつつ、トロツキーは、そのようなロシアの主権の侵害は連合諸国との全ての信頼関係を破壊するだろう、と語った。
ロックハートはトロツキーの発言をロンドンに知らせつつ、こうした提案は東部前線での戦闘を活性化させるよい機会を与える、と述べた。
アメリカ大使のフランシスは、同じ意見だった。彼はワシントンに電信を打って、連合諸国が日本に対してシベリア上陸計画をやめるよう説き伏せることができれば、ソヴェト大会はおそらくブレスト条約を拒否するだろう、と伝えた。(84)
(4)もちろん、ソヴェト大会が条約の批准を拒否する可能性は、きわめて乏しかった。ボルシェヴィキが多数派を占めることが定着しているにもかかわらず、レーニンが苦労して獲得した勝利をあえて奪い去ることになるからだ。
ボルシェヴィキは、本当に怖れていたことを阻止するために餌を用いた。-怖れたこととはすなわち、日本軍によるシベリア占領と、反ボルシェヴィキ勢力の側に立っての日本のロシア問題への干渉だ。
フランス外交官のヌーランによると、ボルシェヴィキはロックハートを信頼していたので、ロックハートが暗号を使ってロンドンと連絡通信するのを許した。そうしたことは、公式の外国使節団ですら禁止されたことだった。(85)
(5)連合諸国との友好関係によって生じた最初の具体的結果は、3月9日に連合諸国の少数の分遣隊がムルマンスクに上陸したことだった。
1916年以降、約60万トンに上る軍需物資がロシア軍に対して送られ、その多くについては支払いがなかったのだが、その軍需物資は輸送手段が不足しているために内陸には送られず、そこに蓄積されていた。
連合諸国は、この物資がブレスト=リトフスク条約の結果としてドイツ軍の手に入るか、ドイツ=フィンランド軍勢力によって分捕られることを、怖れた。
連合諸国はまた、ペチェンガ(Pechenga, Petsamo)付近をドイツ軍が奪取して、そこに潜水艦基地を建設するのを懸念していた。//
(6)連合諸国による保護を求める最初の要請はムルマンスクのソヴェトによるもので、3月5日に、ドイツ軍に援助されていると見られる「フィンランド白軍」がムルマンスクを攻撃しようとしている、とペトログラードに電報を打った。
当地のソヴェトはイギリス海軍と接触し、同時に、ペトログラードに対して、連合諸国に介入を求めることの正当化を要請した。
トロツキーはムルマンスク・ソヴェトに、連合諸国の軍事援助を受けるのは自由だ、と知らせた。(86)
こうして、ロシア国土に対する西側の最初の干渉は、ムルマンスク・ソヴェトの要請とソヴィエト政府の是認によって行われた。
レーニンは1918年5月14日の演説で、イギリスとフランスは「ムルマンスクの海岸を防衛するために」上陸した、と説明した。(87)
(7)ムルマンスクに上陸した連合諸国の部隊は、数百名のチェコ兵のほか、150名のイギリス海兵たち、若干のフランス兵で構成されていた。(88)
その後の数週間、イギリスはムルマンスクの件について、モスクワとの恒常的な連絡通信関係を維持した。不幸にも、その意思疎通の内容は、明らかにされてきていない。
両当事者は、ドイツとフィンランドの両軍がこの重要な港湾を奪取するのを阻止すべく協力した。
のちに、ドイツの圧力によって、モスクワはロシア国土に連合諸国軍が存在することに抗議した。しかし、トロツキーとの緊密な関係を保っていたフランス外交官のサドゥールは、自国政府に対して、心配する必要はない、とこう助言した。//
「レーニン、トロツキーおよびチチェリンは、現在の情勢のもとで、連合諸国との同盟する希望をもって、イギリス・フランスのムルマンスク上陸を受容している。これはドイツに講和条約違反だと抗議する言い分を与えるのを阻止するために行われたと理解されていて、彼ら自身は連合諸国に対して純粋に形式的な抗議を表明するだろう。
彼らは素晴らしいことに、北部の港湾とそこにつながる鉄道を、ドイツ・フィンランドの危険な企てから守ることが必要だと理解している。」(89)
(8)第四回ソヴェト大会の前夜、ボルシェヴィキは第7回(臨時)党大会を開いた。
緊急に招集された、46名の代議員が出席したこの大会の議題は、ブレスト=リトフスク条約に集中していた。
口火を切った、とくにレーニンの不人気な立場を防衛する親密なグループの議論からは、国際法および他国との関係に関する共産主義者の態度について、きわめて稀な洞察を行うことができる。
(9)レーニンは、左翼共産主義者に対して、力強く自分を擁護した。(90)
彼が最近の事態を概述して聴衆に想起させようとしたのは、ロシアで権力を奪取するのがいかに容易だったか、そしてその権力を組織化して維持するのがいかに困難であるか、だった。
権力を掌握する際に有効だと分かった方法を、それを管理するという骨の折れる任務に単純に移し替えることはできない。
レーニンは、「資本主義」諸国との間の永続的な平和などあり得ないこと、革命を世界に拡大することが必須であること、を承認した。
しかし、現実的でなければならない。西側の産業ストライキの全てが革命を意味するわけではない。
全くの非マルクス主義者ではむろんないが、レーニンは、後進国であるロシアに比べて、民主主義的な資本主義諸国で革命を起こすのははるかに困難だ、と認めた。//
(10)これらは全て、聞き慣れたことだった。
目新しいのは、平和と戦争という主題に関する、レーニンのあけすけな考察だ。
レーニンは、指導的な「帝国主義」権力との永遠の講和をしたのではないかと怖れる聴衆に対して、あらためて保証した。
まず、ソヴィエト政府は、ブレスト条約の諸条項を破る意図をつねに持っている。実際に、すでに30回か40回かそうした(たった3日間で!)。
中央諸国との講和は、階級闘争の廃止を意味していない。
平和はその性質上つねに一時的なもので、「力を結集する機会」だ。「歴史が教えるのは、平和は戦争のための息抜きだ、ということだ」。
別の言葉で言うと、戦争が正常な状態であり、平和は小休止だ。すなわち、非共産主義諸国との間の永続的な平和などあり得ず、敵対関係の一時的な停止、つまり停戦があるにすぎない。
レーニンは、続けた。講和条約が発効している間ですら、ソヴィエト政府は-条約の諸条項を無視して-新しいかつ力強い軍隊を組織するだろう。
彼はこのように述べて、是認することが求められている講和条約は世界的革命の途上にある迂回路にすぎないと、支持者たちを安心させた。//
(11)左翼共産主義者たちは、反対論をあらためて述べた。しかし、十分な票数を掻き集めることはできなかった。
条約を是認するとの提案は、賛成28、反対9、保留1で、通過した。
レーニンはさらに、党大会に対して、秘密決議を採択するよう求めた。この秘密期間未定のままで公表されない決議は、中央委員会に、「帝国主義者やブルジョア政府との間の平和条約をいつでも無効に(annul)する権限、および同様に、それらに宣戦布告する権限」を、与えるものだった。(92)
ただちに採択され、のちにも公式には撤回されなかったこの決議は、ボルシェヴィキ党中央委員会の一握りの者たちに、彼らの随意の判断でもって、ソヴィエト政府が加入した全ての国際的協定を破棄する権能、およびいずれかのまたは全ての外国に対して宣戦布告をする権能を与えた。
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(82) J. Degras, Documents of Russian Foreign Policy, I(London, 1951), p.56-p.57. 文書の日付は、1918年3月5日。
(83) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.82-4.
(84) 同上, p.85-6.
(85) J. Noulens, Mon Ambassade en Russie Sovietique, II(Paris, 1933), p.116.
Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.161-2.を参照。
(86) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.; D Francis, Russia from the American Embassy(New York, 1922), p.264-5.
Brian Pearce, How Haig Saved Lenin(London, 1988), p.15-p.16.
(87) NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
(88) NZh, No.54/269(1918年3月16日/29日), p.4.
(89) 1918年4月12日付手紙、in: Sadoul, Notes, p.305.
ドイツによる圧力につき、Lenin, in: NS, No.23(1918年5月15日), p.2.
(90) Lenin, PSS, XXXVI, p.3-p.26.
(91) Lenin, Sochineniia, XXII, p.559-p.561, p.613.
(92) KPSS v rezoliutsiiakh i resheniiakh s"ezdov, konferentsii iplenumov TsK, 1898-1953, 第7版, I(Moscow, 1953), p.405.; Lenin, PSS, XXXVI, p.37-8, p.40.を参照。
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第15節、終わり。この章には、あと第16節・第17節がある。