一 F・ニーチェ、1844〜1900。
但し、1889年には「精神」に異常をきたして隔離され、それ以降の文章執筆はない。この1889年には、日本では大日本帝国憲法が発布された。むろん、明治時代。
いずれにせよ、ニーチェは19世紀後半または19世紀の「世紀末」に生きた人間だ。
G・マーラー(Gustav Mahler)、1860〜1911。
音楽またはクラシックの世界では、今のチェコで生まれて当時のオーストリア帝国を中心に活躍したG・マーラーが、ニーチェの世代にかなり近い。
三Bと言われるBach, Beethoven, Brahms よりも新しい世代で、ニーチェが一時期に尊敬したR・ワーグナー(1813〜1883)よりも、かなり若い。
G・Mahler は交響曲の「革命」者ともされる。たしかに、トランペット独奏で始まったり、弦楽器の低いガガガッで始まったりして新奇さを感じさせ、旋律全体も当時としては新鮮だったかもしれない。だが、同時代のSibelius やDebussy 、さらにRachmaninov 、もっと後のShostakovich 等々を聴いてしまっていると、Mahler の交響曲の途中からは意外に単調で退屈だ。より前のR. Schumann やJ. Brahms の方が、俗物の秋月の好みにはまだ合う。
G・クリムト(Gustav Klimt)、1862〜1918。
絵画の世界では、ウィーンで活躍したクリムトが、ニーチェの世代にかなり近い。
Mahler 以上に、「革新」性が明確だ。ウィーンの三つの美術館・博物館と「分離派」会館で、この人の絵(額付きでなく、壁面に直接に描いたものを含む)を実際に観たことがある。
風景画や穏和な人物画には好感をもつが、「分離派」会館地下の「Beethoven Frieze」(ベートーヴェン・フリーズ)となると、俗人には意味不明で、また少し気味が悪い。
この建物(Secession会館)の入口の上部には、試訳だが、二行のドイツ語でこう書かれている。
「時代には、それに合った芸術を/芸術には、それに合った自由を」。
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二 ニーチェは、19世紀後半または「世紀末」に中部ヨーロッパで生きた人物だった。120年以上前の、ドイツの人だ。
この時代的・地理的な制約または環境をふまえないと、いくら彼の著作の表面をなぞっても、その意味や、影響力の不思議さを理解することはできないだろう。そもそも、「理解」することのできる内容と文体の著作を残したのか、という問題もありそうだが。
上に続けると、どの時代でも新しいもの、または「新しいと感じられる」ものは人を魅惑するものだと感じられる。とくに、「(ヨーロッパ)近代」における自然科学の進化、産業や科学技術の発展に伴う、反面としての不安感や閉塞感が増大する中では。
世紀末または世紀転換期の<芸術>運動として知られるのは、フランスではアール・ヌーヴォー(art nouveau、「新しい芸術」)と呼ばれた。上に挙げなかったが、チェコに生まれてフランス・パリで人気を博したA・ムシャ(Alfons Mucha、ムハ。1860〜1939)の絵画・ポスターは、これの最たるものかもしれない。生地プラハの旧市街地区に、小さなムハ美術館がある。
アール・ヌーヴォー様式の建築物・装飾物は現在のパリにも多く残っているが、ウィーンの地下鉄カールスプラッツ(Karlsplatz、カール広場)駅の駅舎も、保存されている(はずだ。新しい模造物の傍に、かつての本物を観た)。
ドイツでは、同時期の同様の芸術運動はユーゲント・シュティル(Jugendstil、「若者(青春)様式」)と呼ばれた。
三島憲一は下掲書で、これへのニーチェの影響の例として、雑誌『ユーゲント』1895年号のつぎの文章を引用している。そこからさらに抜粋する。
「ユーゲントは、…永遠回帰の法則にしたがい、…のうちにある。〈いまだ輝かざる多くの曙光がある〉とニーチェは語っている。ニーチェとともに我々は上昇する生のラインに立っているのだ。」
三島ら・現代思想の源流(講談社、新装版2003)、p.104。
オーストリアでも上の語は使われたかもしれないが、とくに絵画分野では、在来の美術家組合から離れた「分離派」(Sezession)が1897年に結成され、G・クリムトが代表した。上記のBeethoven F. は1902年の作。
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三 これらの芸術運動への参加者がいかほどニーチェを読み、「理解」していたかは、疑わしい。時代の雰囲気、「空気」があったのであり、ニーチェの著作はその形成・促進をある程度助けたのだろう。古い、伝統的なものを疑問視または破壊して、「新しい」哲学・思想を示している(らしき)ものとして。
また、上に挙げた人物のうちには長生きした人もいるが、ニーチェをはじめとする19世紀後半や、世紀転換期までを生きた人々は、第一次大戦の勃発と「総力戦」、ボルシェヴィキによるロシア「革命」、ナツィスによるユダヤ人ホロコースト、第二次大戦、原爆の開発と投下による惨害等々を、全く知らないままだった、ということには、格別の注意を払っておく必要がある、と考えられる。
これらを知らずして、「人間」の所業・本質、社会や国家をどれほど適確に論じることができるだろうか。
西尾幹二は「哲学」を知らない旨書いたことがあるが、西尾が自らを「思想家」で「哲学」の素養もあるかのごとく装っていることの奇妙さを指摘するためで、元来は、上のような20世紀の事件・事態をまるで知らない「哲学」は、歴史学と「教養」の対象にはなっても、現代を論じるためには無効のものだ、役に立たないものだ、と秋月瑛二は思っている。
かりに何らかの素養があったとしても、西尾幹二にあるのは、「歴史学」や「哲学」の基礎的訓練を受けていない、「独文学」的なニーチェに関する一部だけだ。西尾の書いたものですぐに判明するが、この人は、ニーチェと同じドイツ語圏に属していても、<フランクフルト学派>について、便宜的にハーバマスも含めておくが、何一つ知らないと推察される。
ニーチェもマルクスも母国語として読解したこの派のドイツの哲学者または思想家の主張、議論に、西尾幹二は「独文学」的にすら、全く言及することができていない。
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四 西尾幹二は、せいぜいニーチェ止まりだ。これは大きな欠点だ。
これは哲学・思想についてのみ指摘しているのはではなく、「発想」や「思考」の方法自体が、せいぜいニーチェ止まりだ、という意味でもある。
ニーチェの名を出していなくとも、西尾の文章のこの部分はニーチェのこの部分、あるいは別の部分に依拠している、参照している、と感じることがある。
さらに、そのニーチェ理解にしても、どの程度、正確で適確なものかは疑わしい、と考えられる。西尾幹二を通じて、ニーチェをどの程度「理解」することができるのか。より具体的には、今後触れるだろう。
ところで、かつてL・コワコフスキのフランクフルト学派(アドルノ、ベンヤミン等々、『啓蒙の弁証法』、『否定弁証法』等々)に関する叙述を読んで、ふと、反科学技術(・反文明)、反大衆の点で西尾幹二と似ている(ところがある)と感じたことがある。
三島憲一の上記引用部分あたりのつぎの表現からも、思わず?西尾幹二を思い出してしまった。あくまで三島の言葉であって私自身の論評ではない。
①『ユーゲント』の文章には、「全体として優美で繊細な神経とともに、力んだ内容空疎な誇示がある」。p.104。
②ニーチェ支持の〜は、「精神的であると同時に、居丈高なだけで、内容空疎な力み返り」も宿していた。p.109。
なお、三島は最初の方でニーチェは政治的には「右」にも「左」にも利用され得た旨を書きつつ、最後の文にはこうある。難解だ。三島の政治的立場が反映されているのかどうか。
「ニーチェの言語の政治的セマンティクスも、政治的な左右の区別に回収されないポテンシャルを捉えて読む必要があろう」。これはベンヤミンの場合より遥かに困難だ。「なぜなら、ニーチェは、共同性と経験の強度の関係の問題を充分に捉えきれず、本人によるものも含めて長期間にわたり、政治的右派によって回収されていたからである」。p.157。
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但し、1889年には「精神」に異常をきたして隔離され、それ以降の文章執筆はない。この1889年には、日本では大日本帝国憲法が発布された。むろん、明治時代。
いずれにせよ、ニーチェは19世紀後半または19世紀の「世紀末」に生きた人間だ。
G・マーラー(Gustav Mahler)、1860〜1911。
音楽またはクラシックの世界では、今のチェコで生まれて当時のオーストリア帝国を中心に活躍したG・マーラーが、ニーチェの世代にかなり近い。
三Bと言われるBach, Beethoven, Brahms よりも新しい世代で、ニーチェが一時期に尊敬したR・ワーグナー(1813〜1883)よりも、かなり若い。
G・Mahler は交響曲の「革命」者ともされる。たしかに、トランペット独奏で始まったり、弦楽器の低いガガガッで始まったりして新奇さを感じさせ、旋律全体も当時としては新鮮だったかもしれない。だが、同時代のSibelius やDebussy 、さらにRachmaninov 、もっと後のShostakovich 等々を聴いてしまっていると、Mahler の交響曲の途中からは意外に単調で退屈だ。より前のR. Schumann やJ. Brahms の方が、俗物の秋月の好みにはまだ合う。
G・クリムト(Gustav Klimt)、1862〜1918。
絵画の世界では、ウィーンで活躍したクリムトが、ニーチェの世代にかなり近い。
Mahler 以上に、「革新」性が明確だ。ウィーンの三つの美術館・博物館と「分離派」会館で、この人の絵(額付きでなく、壁面に直接に描いたものを含む)を実際に観たことがある。
風景画や穏和な人物画には好感をもつが、「分離派」会館地下の「Beethoven Frieze」(ベートーヴェン・フリーズ)となると、俗人には意味不明で、また少し気味が悪い。
この建物(Secession会館)の入口の上部には、試訳だが、二行のドイツ語でこう書かれている。
「時代には、それに合った芸術を/芸術には、それに合った自由を」。
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二 ニーチェは、19世紀後半または「世紀末」に中部ヨーロッパで生きた人物だった。120年以上前の、ドイツの人だ。
この時代的・地理的な制約または環境をふまえないと、いくら彼の著作の表面をなぞっても、その意味や、影響力の不思議さを理解することはできないだろう。そもそも、「理解」することのできる内容と文体の著作を残したのか、という問題もありそうだが。
上に続けると、どの時代でも新しいもの、または「新しいと感じられる」ものは人を魅惑するものだと感じられる。とくに、「(ヨーロッパ)近代」における自然科学の進化、産業や科学技術の発展に伴う、反面としての不安感や閉塞感が増大する中では。
世紀末または世紀転換期の<芸術>運動として知られるのは、フランスではアール・ヌーヴォー(art nouveau、「新しい芸術」)と呼ばれた。上に挙げなかったが、チェコに生まれてフランス・パリで人気を博したA・ムシャ(Alfons Mucha、ムハ。1860〜1939)の絵画・ポスターは、これの最たるものかもしれない。生地プラハの旧市街地区に、小さなムハ美術館がある。
アール・ヌーヴォー様式の建築物・装飾物は現在のパリにも多く残っているが、ウィーンの地下鉄カールスプラッツ(Karlsplatz、カール広場)駅の駅舎も、保存されている(はずだ。新しい模造物の傍に、かつての本物を観た)。
ドイツでは、同時期の同様の芸術運動はユーゲント・シュティル(Jugendstil、「若者(青春)様式」)と呼ばれた。
三島憲一は下掲書で、これへのニーチェの影響の例として、雑誌『ユーゲント』1895年号のつぎの文章を引用している。そこからさらに抜粋する。
「ユーゲントは、…永遠回帰の法則にしたがい、…のうちにある。〈いまだ輝かざる多くの曙光がある〉とニーチェは語っている。ニーチェとともに我々は上昇する生のラインに立っているのだ。」
三島ら・現代思想の源流(講談社、新装版2003)、p.104。
オーストリアでも上の語は使われたかもしれないが、とくに絵画分野では、在来の美術家組合から離れた「分離派」(Sezession)が1897年に結成され、G・クリムトが代表した。上記のBeethoven F. は1902年の作。
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三 これらの芸術運動への参加者がいかほどニーチェを読み、「理解」していたかは、疑わしい。時代の雰囲気、「空気」があったのであり、ニーチェの著作はその形成・促進をある程度助けたのだろう。古い、伝統的なものを疑問視または破壊して、「新しい」哲学・思想を示している(らしき)ものとして。
また、上に挙げた人物のうちには長生きした人もいるが、ニーチェをはじめとする19世紀後半や、世紀転換期までを生きた人々は、第一次大戦の勃発と「総力戦」、ボルシェヴィキによるロシア「革命」、ナツィスによるユダヤ人ホロコースト、第二次大戦、原爆の開発と投下による惨害等々を、全く知らないままだった、ということには、格別の注意を払っておく必要がある、と考えられる。
これらを知らずして、「人間」の所業・本質、社会や国家をどれほど適確に論じることができるだろうか。
西尾幹二は「哲学」を知らない旨書いたことがあるが、西尾が自らを「思想家」で「哲学」の素養もあるかのごとく装っていることの奇妙さを指摘するためで、元来は、上のような20世紀の事件・事態をまるで知らない「哲学」は、歴史学と「教養」の対象にはなっても、現代を論じるためには無効のものだ、役に立たないものだ、と秋月瑛二は思っている。
かりに何らかの素養があったとしても、西尾幹二にあるのは、「歴史学」や「哲学」の基礎的訓練を受けていない、「独文学」的なニーチェに関する一部だけだ。西尾の書いたものですぐに判明するが、この人は、ニーチェと同じドイツ語圏に属していても、<フランクフルト学派>について、便宜的にハーバマスも含めておくが、何一つ知らないと推察される。
ニーチェもマルクスも母国語として読解したこの派のドイツの哲学者または思想家の主張、議論に、西尾幹二は「独文学」的にすら、全く言及することができていない。
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四 西尾幹二は、せいぜいニーチェ止まりだ。これは大きな欠点だ。
これは哲学・思想についてのみ指摘しているのはではなく、「発想」や「思考」の方法自体が、せいぜいニーチェ止まりだ、という意味でもある。
ニーチェの名を出していなくとも、西尾の文章のこの部分はニーチェのこの部分、あるいは別の部分に依拠している、参照している、と感じることがある。
さらに、そのニーチェ理解にしても、どの程度、正確で適確なものかは疑わしい、と考えられる。西尾幹二を通じて、ニーチェをどの程度「理解」することができるのか。より具体的には、今後触れるだろう。
ところで、かつてL・コワコフスキのフランクフルト学派(アドルノ、ベンヤミン等々、『啓蒙の弁証法』、『否定弁証法』等々)に関する叙述を読んで、ふと、反科学技術(・反文明)、反大衆の点で西尾幹二と似ている(ところがある)と感じたことがある。
三島憲一の上記引用部分あたりのつぎの表現からも、思わず?西尾幹二を思い出してしまった。あくまで三島の言葉であって私自身の論評ではない。
①『ユーゲント』の文章には、「全体として優美で繊細な神経とともに、力んだ内容空疎な誇示がある」。p.104。
②ニーチェ支持の〜は、「精神的であると同時に、居丈高なだけで、内容空疎な力み返り」も宿していた。p.109。
なお、三島は最初の方でニーチェは政治的には「右」にも「左」にも利用され得た旨を書きつつ、最後の文にはこうある。難解だ。三島の政治的立場が反映されているのかどうか。
「ニーチェの言語の政治的セマンティクスも、政治的な左右の区別に回収されないポテンシャルを捉えて読む必要があろう」。これはベンヤミンの場合より遥かに困難だ。「なぜなら、ニーチェは、共同性と経験の強度の関係の問題を充分に捉えきれず、本人によるものも含めて長期間にわたり、政治的右派によって回収されていたからである」。p.157。
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