リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
=Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
第12章・一党国家の建設。
----
第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散①。
(1)1918年1月5日、金曜日。ペトログラード、そしてタウリダ宮周辺は、野戦場のようだった。
社会革命党のM・ヴィスニャク(Mark Vishniak)は、代議員たちで行列してタウリダ宮に向かって歩いているとき、つぎのような光景を目にした。//
「我々は、正午に、進み始めた。およそ数百人が広がった列をなして、通りの真ん中を歩いた。
代議員たちに同行していたのは、報道者、友人、妻たちで、タウリダ宮への入館券をあらかじめ得ていた。
タウリダ宮までの距離は、1キロメートルを超えていなかった。
近づくほどに、見ることのできる歩行者の数は減り、兵士、つまり赤軍および海兵たちが増えた。
彼らは、完全武装をしていた。肩に銃砲を結びつけ、爆弾、手榴弾、弾丸を持っていた。タウリダ宮の正面と両側の至る所に配置されるか、入り込んでいた。
舗道を歩いていた一人の通りすがりの者は、見慣れない行列に遭遇した。そしてほとんど叫び声が上げられることなく、むしろしばしば同情的な目で迎えられ、急いで進んだ。
誰が何処に行っているのかと尋ねたかったので武装兵士たちが接近したが、元の停留地に戻った…。」//
「タウリダ宮の前の広場全体が、大砲、機銃および戦場用炊事車両でいっぱいになっていた。
機銃用弾丸装着ベルトが、乱雑に積み上げられていた。
タウリダ宮の全ての入口は閉鎖されていたが、最も左端にくぐり門があり、人々はそこを通って入館させられた。
武装監視兵たちは、入場を許す前に注意深く顔を調べた。背後を探索し、背中に触った。…。
左扉から入った後で、もっと厳しい検査があった。…。
監視兵は代議員たちに、前室とカテリーヌ大広間を通って会議場に行くように指示した。
至るところに武装した兵士たちがいて、そのほとんどは海兵かラトヴィア人だった。
彼らは街頭の兵士たちと同様に武装していた。銃砲、手榴弾、軍隊袋、回転式連発銃。
武装兵士や武器の数多さやガチャガチャという金属音のために、防衛するか攻撃するかをしようと準備している野戦地帯のごとき印象があった。」(116)//
(2)レーニンが率いるボルシェヴィキ代議員団は、午後1時にタウリダ宮に着いた。
レーニンは、状況が展開するのに応じてすみやかに決定を下せるよう、近くに居るのを望んだ。
会議の間は「政府席」と呼ばれた場所に座って、つづく9時間のボルシェヴィキの行動を指揮した。
ボンチ=ブリュエヴィチは、つぎのように彼を思い出す。
「彼は緊張して、死体のように蒼白だった。…。
顔と首は極端に青白かったが、大きくすら見え、目は拡がって、揺らがない火のごとく燃えていた。」(117)
じつにそのときが、ボルシェヴィキの独裁が運命の岐路に立つ、決定的な瞬間だった。
(3)会議は昼頃に始まった。しかし、レーニンは、ウリツキを通して、外で起きていることが分かるまでは手続を開始するのを許さなかった。外のペトログラードの街頭では、ボルシェヴィキの命令に果敢に抵抗して、午前中ずっと、大規模の示威行動が行われていたのだ。
示威行進の組織者は、「平和的」行動であって対立は避けるべきだと訴えの中で強調していた。(118)
しかし、レーニンは、大衆が抵抗する最初の兆候を示した場合に彼の実力部隊を発動させないとは、何ら保証しなかった。
示威行動者たちが彼の実力部隊を圧倒する場合に備えての非常時対応策を、レーニンは用意していたに違いなかった。
社会革命党のソコロフは、かりにそういう事態になれば、レーニンは立憲会議と妥協するつもりだろうと、考えている。(119)
(4)立憲会議防衛同盟は参加者たちに、ペトログラードのいくつかの場所に9時までに集合するよう指令していた。そこから、中央集会場であるChamp de Mars〔シャン・ド・マルス公園〕へと進む。
正午に、一団となって動きはじめることになっていた。「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかける旗のもとで、Panteleimon 通りに沿って。その後すぐに右に曲がってKirochnaia 通りに入り、つぎに左へPotemkin 通りをLiteinyui Prospectへと、さらに右に曲がってShpalernaia 通りを進む。そこはタウリダ宮正面に通じている。
タウリダ宮を過ぎたあとで、右に曲がってタウリダ通りに入り、ネフスキー(Nevskii)へと向かう。ここで解散することになっていた。
(5)午前中にペトログラード全域から集まった群衆は、相当のものだった(ある者は5万人ほどだと計算した)。しかし、その規模も、その熱狂感も、組織者が期待したほどではなかった。
兵士たちは兵舎にとどまり、出てきた労働者たちは、予期したよりも少ない数だった。その結果として、参加者は主として、学生、公務員およびその他の知識人たちになった。彼らはみな、意気消沈していた。
ボルシェヴィキの脅かしと実力部隊の顕示が、影響を与えていた。(120)//
(6)示威行動組織者が広く喧伝していたため、ポドヴォイスキーは、隊列がとろうとしているルートを知っていた。そして、部下たちをその進行を妨げるよう配置した。
弾丸を詰めた銃砲や機銃で武装したその兵団の先遣部隊は、各通りに、そしてPanteleimon 通りがLiteinyui に入る地点の屋根上に、配置についた。
示威行進の隊列の先頭がこの交差点に近づいたとき、叫び声が上がった。
「立憲会議、万歳!」
このとき、兵団の火が噴いた。
何人かが倒れ、何人かが遮蔽物を目指して走った。
しかし、示威行進参加者は隊列を再び整えて、歩きつづけた。
Kirochnaia 通りに接近するのをもっと数が多い兵団が妨害したため、示威行進はLiteinyui 通り沿いに進んだ。
そのとき、Shpalernaia 通りへとまさに曲がろうとしていたときに、銃火による一斉射撃が始まった。そのの中に彼らは嵌まり込んだ。
ここで混乱が発生した。
ボルシェヴィキの兵士たちは示威行動者の後を追って、旗を奪い取り、それを細切れに引きちぎって、かがり火の中に放り込んだ。
ペトログラードの別の箇所の隊列は、ほとんどが労働者たちだったが、やはり銃火を浴びた。
もっと小さないくつかの示威行進も、同じ運命に遭った。(121)//
(7)1917年の二月に、ロシアの兵士たちは公共的集会の禁止を無視する群衆を武力で解散させた。その運命的な日以降、ロシアの兵団は非武装の示威行進者に対して発砲することはなかった。
暴力(violence)が暴動と反乱に火をつけ、それが革命の始まりになったのだった。
それ以前には、血の日曜日と1905年に、暴力が用いられた。
このような経験からして、〔1918年1月の〕示威行動の組織者が、そのような大量殺戮につながる暴力は再び全国民的な抗議を招来するだろうと想定したとしても、非合理ではなかった。
犠牲となった死者たち-ある者たちによれば8名、別の者によれば21名(122)-は、血の日曜日の記念日の1月9日に、厳粛な葬儀を受け、プレオブラジェンスキ墓地の、その時代の犠牲者たちの傍らに埋葬された。
労働者代議員たちが花輪を運んだ。そのうちの一つには、こう書かれていた。
「スモルニュイ独裁者による専横の犠牲者たちのために」。(123)
ゴールキは怒りの論説を書いて、血の日曜日の暴力になぞらえた。(*)
(8)示威行進者は解散された、市の街路はボルシェヴィキの統制下にある-これらは午後4時頃に起きた-、という知らせが届くやいなや、レーニンは、会議の開会を命じた。
選出された代議員のうち僅かに過半数の463名が在席していたが、そのうち社会革命党259名、ボルシェヴィキ136名、そして左翼エスエルが40名だった。(+)
開会のベルが鳴ったときから、ボルシェヴィキ代議員と武装護衛兵たちは、非ボルシェヴィキの発言者たちに向かって野次り、ブーイングを浴びせた。
通路とバルコニーを埋めていた武装兵の多くは、無理して騒ぎ立てる必要はなかった。食事棚に置かれていたウォッカを、勝手気侭に飲んでいたからだ。
この立憲会議の議事録は、つぎのような光景から始まる。
「社会革命党の立憲会議議員団の一人が、その座席から叫ぶ。
『同志たち、もう午後4時だ。
最長老の議員が立憲会議を開会するよう提案する。』
(左側から大きな騒ぎ声、中央と右側から拍手、…。聴取不能。…。
左側から口笛が続き、右側が拍手する。)
立憲会議の最長老議員ミハイロフ(Mikhailov)、(壇上に)昇る。//
ミハイロフ、鐘を鳴らす。
(左側に騒ぎ声。『無権限者は、どけ!』
騒ぎ声と口笛が継続し、右側からは拍手。)//
ミハイロフ、『休憩(intermission)を宣告する』。」(124)
--------------
(116) M. V. Vishniak, Vserossiiskoe Uchredotel'noe Sobraine(Paris, 1932), p.99-p.100.
(117) V. D. Bonch-Bruevich, Na boevykh postakh feural'skoi i oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1930), p.256.
(118) DN, No. 2/247(1918年1月4日), p.2.
(119) Sokolov in ARR, XIII, p.66.
(120) A. S. Izgoev in ARR, X, p.24-p.25.; Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.340.
(121) DN, No. 4(1918年1月7日), p.2.の叙述。Griaduiushchi den', No. 30(1918年1月6日), p.4.; Pravda, No. 5(1918年1月6日/19日), p.2.
(122) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2. および、Sheibert, Lenin , p.19.
(123) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2.
(*) NZh, No. 6/220(1918年1月9日/22日), p.1.
ボルシェヴィキは、反発を怖れて、射撃に関する調査を命令した。
リトアニア人連隊の兵士たちが示威行進者に発砲した、それはそのことで立憲会議を「妨害者」から防衛すると信じたからだった、ということが明らかになった(NZh, No. 15/229, 1918年2月3日、p.11)。
調査委員会は、報告書を公刊することなく、1月末には仕事を停止した。
(+) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.339.
出席していた代議員の正確な人数は、知られていない。
同上のp.340では410名とされているようだ。
(124) I. S. Marchevskii, ed., Vserossiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Moscow, 1930), p.3.
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第8節②へとつづく。
=Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
第12章・一党国家の建設。
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第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散①。
(1)1918年1月5日、金曜日。ペトログラード、そしてタウリダ宮周辺は、野戦場のようだった。
社会革命党のM・ヴィスニャク(Mark Vishniak)は、代議員たちで行列してタウリダ宮に向かって歩いているとき、つぎのような光景を目にした。//
「我々は、正午に、進み始めた。およそ数百人が広がった列をなして、通りの真ん中を歩いた。
代議員たちに同行していたのは、報道者、友人、妻たちで、タウリダ宮への入館券をあらかじめ得ていた。
タウリダ宮までの距離は、1キロメートルを超えていなかった。
近づくほどに、見ることのできる歩行者の数は減り、兵士、つまり赤軍および海兵たちが増えた。
彼らは、完全武装をしていた。肩に銃砲を結びつけ、爆弾、手榴弾、弾丸を持っていた。タウリダ宮の正面と両側の至る所に配置されるか、入り込んでいた。
舗道を歩いていた一人の通りすがりの者は、見慣れない行列に遭遇した。そしてほとんど叫び声が上げられることなく、むしろしばしば同情的な目で迎えられ、急いで進んだ。
誰が何処に行っているのかと尋ねたかったので武装兵士たちが接近したが、元の停留地に戻った…。」//
「タウリダ宮の前の広場全体が、大砲、機銃および戦場用炊事車両でいっぱいになっていた。
機銃用弾丸装着ベルトが、乱雑に積み上げられていた。
タウリダ宮の全ての入口は閉鎖されていたが、最も左端にくぐり門があり、人々はそこを通って入館させられた。
武装監視兵たちは、入場を許す前に注意深く顔を調べた。背後を探索し、背中に触った。…。
左扉から入った後で、もっと厳しい検査があった。…。
監視兵は代議員たちに、前室とカテリーヌ大広間を通って会議場に行くように指示した。
至るところに武装した兵士たちがいて、そのほとんどは海兵かラトヴィア人だった。
彼らは街頭の兵士たちと同様に武装していた。銃砲、手榴弾、軍隊袋、回転式連発銃。
武装兵士や武器の数多さやガチャガチャという金属音のために、防衛するか攻撃するかをしようと準備している野戦地帯のごとき印象があった。」(116)//
(2)レーニンが率いるボルシェヴィキ代議員団は、午後1時にタウリダ宮に着いた。
レーニンは、状況が展開するのに応じてすみやかに決定を下せるよう、近くに居るのを望んだ。
会議の間は「政府席」と呼ばれた場所に座って、つづく9時間のボルシェヴィキの行動を指揮した。
ボンチ=ブリュエヴィチは、つぎのように彼を思い出す。
「彼は緊張して、死体のように蒼白だった。…。
顔と首は極端に青白かったが、大きくすら見え、目は拡がって、揺らがない火のごとく燃えていた。」(117)
じつにそのときが、ボルシェヴィキの独裁が運命の岐路に立つ、決定的な瞬間だった。
(3)会議は昼頃に始まった。しかし、レーニンは、ウリツキを通して、外で起きていることが分かるまでは手続を開始するのを許さなかった。外のペトログラードの街頭では、ボルシェヴィキの命令に果敢に抵抗して、午前中ずっと、大規模の示威行動が行われていたのだ。
示威行進の組織者は、「平和的」行動であって対立は避けるべきだと訴えの中で強調していた。(118)
しかし、レーニンは、大衆が抵抗する最初の兆候を示した場合に彼の実力部隊を発動させないとは、何ら保証しなかった。
示威行動者たちが彼の実力部隊を圧倒する場合に備えての非常時対応策を、レーニンは用意していたに違いなかった。
社会革命党のソコロフは、かりにそういう事態になれば、レーニンは立憲会議と妥協するつもりだろうと、考えている。(119)
(4)立憲会議防衛同盟は参加者たちに、ペトログラードのいくつかの場所に9時までに集合するよう指令していた。そこから、中央集会場であるChamp de Mars〔シャン・ド・マルス公園〕へと進む。
正午に、一団となって動きはじめることになっていた。「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかける旗のもとで、Panteleimon 通りに沿って。その後すぐに右に曲がってKirochnaia 通りに入り、つぎに左へPotemkin 通りをLiteinyui Prospectへと、さらに右に曲がってShpalernaia 通りを進む。そこはタウリダ宮正面に通じている。
タウリダ宮を過ぎたあとで、右に曲がってタウリダ通りに入り、ネフスキー(Nevskii)へと向かう。ここで解散することになっていた。
(5)午前中にペトログラード全域から集まった群衆は、相当のものだった(ある者は5万人ほどだと計算した)。しかし、その規模も、その熱狂感も、組織者が期待したほどではなかった。
兵士たちは兵舎にとどまり、出てきた労働者たちは、予期したよりも少ない数だった。その結果として、参加者は主として、学生、公務員およびその他の知識人たちになった。彼らはみな、意気消沈していた。
ボルシェヴィキの脅かしと実力部隊の顕示が、影響を与えていた。(120)//
(6)示威行動組織者が広く喧伝していたため、ポドヴォイスキーは、隊列がとろうとしているルートを知っていた。そして、部下たちをその進行を妨げるよう配置した。
弾丸を詰めた銃砲や機銃で武装したその兵団の先遣部隊は、各通りに、そしてPanteleimon 通りがLiteinyui に入る地点の屋根上に、配置についた。
示威行進の隊列の先頭がこの交差点に近づいたとき、叫び声が上がった。
「立憲会議、万歳!」
このとき、兵団の火が噴いた。
何人かが倒れ、何人かが遮蔽物を目指して走った。
しかし、示威行進参加者は隊列を再び整えて、歩きつづけた。
Kirochnaia 通りに接近するのをもっと数が多い兵団が妨害したため、示威行進はLiteinyui 通り沿いに進んだ。
そのとき、Shpalernaia 通りへとまさに曲がろうとしていたときに、銃火による一斉射撃が始まった。そのの中に彼らは嵌まり込んだ。
ここで混乱が発生した。
ボルシェヴィキの兵士たちは示威行動者の後を追って、旗を奪い取り、それを細切れに引きちぎって、かがり火の中に放り込んだ。
ペトログラードの別の箇所の隊列は、ほとんどが労働者たちだったが、やはり銃火を浴びた。
もっと小さないくつかの示威行進も、同じ運命に遭った。(121)//
(7)1917年の二月に、ロシアの兵士たちは公共的集会の禁止を無視する群衆を武力で解散させた。その運命的な日以降、ロシアの兵団は非武装の示威行進者に対して発砲することはなかった。
暴力(violence)が暴動と反乱に火をつけ、それが革命の始まりになったのだった。
それ以前には、血の日曜日と1905年に、暴力が用いられた。
このような経験からして、〔1918年1月の〕示威行動の組織者が、そのような大量殺戮につながる暴力は再び全国民的な抗議を招来するだろうと想定したとしても、非合理ではなかった。
犠牲となった死者たち-ある者たちによれば8名、別の者によれば21名(122)-は、血の日曜日の記念日の1月9日に、厳粛な葬儀を受け、プレオブラジェンスキ墓地の、その時代の犠牲者たちの傍らに埋葬された。
労働者代議員たちが花輪を運んだ。そのうちの一つには、こう書かれていた。
「スモルニュイ独裁者による専横の犠牲者たちのために」。(123)
ゴールキは怒りの論説を書いて、血の日曜日の暴力になぞらえた。(*)
(8)示威行進者は解散された、市の街路はボルシェヴィキの統制下にある-これらは午後4時頃に起きた-、という知らせが届くやいなや、レーニンは、会議の開会を命じた。
選出された代議員のうち僅かに過半数の463名が在席していたが、そのうち社会革命党259名、ボルシェヴィキ136名、そして左翼エスエルが40名だった。(+)
開会のベルが鳴ったときから、ボルシェヴィキ代議員と武装護衛兵たちは、非ボルシェヴィキの発言者たちに向かって野次り、ブーイングを浴びせた。
通路とバルコニーを埋めていた武装兵の多くは、無理して騒ぎ立てる必要はなかった。食事棚に置かれていたウォッカを、勝手気侭に飲んでいたからだ。
この立憲会議の議事録は、つぎのような光景から始まる。
「社会革命党の立憲会議議員団の一人が、その座席から叫ぶ。
『同志たち、もう午後4時だ。
最長老の議員が立憲会議を開会するよう提案する。』
(左側から大きな騒ぎ声、中央と右側から拍手、…。聴取不能。…。
左側から口笛が続き、右側が拍手する。)
立憲会議の最長老議員ミハイロフ(Mikhailov)、(壇上に)昇る。//
ミハイロフ、鐘を鳴らす。
(左側に騒ぎ声。『無権限者は、どけ!』
騒ぎ声と口笛が継続し、右側からは拍手。)//
ミハイロフ、『休憩(intermission)を宣告する』。」(124)
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(116) M. V. Vishniak, Vserossiiskoe Uchredotel'noe Sobraine(Paris, 1932), p.99-p.100.
(117) V. D. Bonch-Bruevich, Na boevykh postakh feural'skoi i oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1930), p.256.
(118) DN, No. 2/247(1918年1月4日), p.2.
(119) Sokolov in ARR, XIII, p.66.
(120) A. S. Izgoev in ARR, X, p.24-p.25.; Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.340.
(121) DN, No. 4(1918年1月7日), p.2.の叙述。Griaduiushchi den', No. 30(1918年1月6日), p.4.; Pravda, No. 5(1918年1月6日/19日), p.2.
(122) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2. および、Sheibert, Lenin , p.19.
(123) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2.
(*) NZh, No. 6/220(1918年1月9日/22日), p.1.
ボルシェヴィキは、反発を怖れて、射撃に関する調査を命令した。
リトアニア人連隊の兵士たちが示威行進者に発砲した、それはそのことで立憲会議を「妨害者」から防衛すると信じたからだった、ということが明らかになった(NZh, No. 15/229, 1918年2月3日、p.11)。
調査委員会は、報告書を公刊することなく、1月末には仕事を停止した。
(+) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.339.
出席していた代議員の正確な人数は、知られていない。
同上のp.340では410名とされているようだ。
(124) I. S. Marchevskii, ed., Vserossiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Moscow, 1930), p.3.
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第8節②へとつづく。