秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

マルクス=レーニン主義

2021/L・コワコフスキ著第三巻第10章第4節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.369-372.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第4節・実存的「真性主義」(existential 'authenticism')批判。
 (1)実存主義(existentialism)は「物象化」批判に関してはフランクフルト学派の主要な競争相手で、哲学としてははるかに影響力をもった。
 ドイツの思想家はほとんどこの語を用いなかったが、それにもかかわらず、彼らの人類学的理論の意図は同じだった。すなわち、個人の自己決定意識とそれ独自の規範に適合させようとする殺伐とした社会的紐帯の間の対照さを、哲学的用語を用いて表現すること。
 かくして、マルクスによるヘーゲル攻撃と同様に、KierkegaardおよびStirnerには共通する要素、つまり現実の主観性(subjectivity)に対する非人格的「一般性」の優越に対する批判、があったので、マルクス主義者と実存主義者は、人間存在を社会的に決定された役割に限定して擬似自然的な諸力に従属させる社会システムを批判する点で、共通する基盤に立った。
 マルクス主義者たちは、ルカチに従って、事物のこういう状態を「物象化」と呼び、マルクスが行ったように、その原因は資本主義諸条件の平準器である貨幣がもつ全能的な効力にあると見なした。
 実存主義それ自体は階級闘争や所有関係のようなものの説明を行わなかったが、やはり基本的には発展産業社会の文化に対する抗議であり、その文化は人間諸個人を社会機能の総体に貶めてしまうと考えていた。
 「真性」(authenticity)または「本当の存在」(authentic being)(<本来性(Eigentlichkeit)>)という範疇はハイデガーの初期の著作では重要な位置を占めるもので、還元不能な個々の主体を、「非人格的な」(impersonal)という言葉で要約される殺伐とした社会的諸力に対抗するものとして、擁護しようとする試みだった(<人(das Man)>)。//
 (2)ドイツの実存主義者に対するアドルノの攻撃は、したがって完全に理解可能なものだ。すなわち、彼は、フランクフルト学派は「物象化」に対する唯一の闘争者だと主張し、「物象化」を批判しているように見える実存主義は実際にはそれを是認していることを証明しようとした。
 これは、<本来性(Eigentlichkeit)という術語: ドイツのイデオロギーについて>(1964年)の目的だった。彼はこの書物で、ハイデガーと、またヤスパースや場合によってはBuber 等々とも原理的に論争した。
 アドルノは、「物象化」という概念とそれが人間の交換価値への従属から帰結したものだとするマルクス主義者の見方を受け入れた。しかし、プロレタリアートを人類の救済者だとする考えは拒絶し、「物象化」を生産手段の国有化によって除去するこができると考えもしなかった。//
 (3)実存主義に対するアドルノの攻撃の主要な点は、つぎのとおりだ。
 (4)第一に、実存主義者は、特有の「霊力」でもって言葉の独立した力に対する魔術的な確信を掻き立てる、そのような欺瞞的な用語法を創り出した。
 これは内容に先立つ修辞上の技術であり、たんに深遠だと思われるために考案されたものだ。
 言葉の魔術は、「物象化」の真の淵源を分析することに代わるもので、まじない言葉でもってそれを除去することができることを示すものだと考えられている。
 しかしながら、言葉は現実には、還元不能な主観性を直接に表現することはできず、「本当の存在」を一般化することもできない。すなわち、「真性主義」という惹句を採用して、物象化から逃れたと信じることは全く可能だが、実際にはそれに従属したままだ。
 さらに加えて-これが本質的だと思われるが-、「真性主義」はきわめて形式的な惹句またはまじない言葉だ。
 実存主義者たちは、どのようにして我々は「真性的」になることができるのかを語らない。すなわち、我々は何であるかに満足しているのみだとすれば、抑圧者や殺人者はまさにそれであることによってその任務を履行している。
 要するに(アドルノはこうした言葉で表現しなかったけれども)、「真性主義」は何らかの特有の価値を意味してはおらず、それが何であれ何らかの行動で表現され得るものだ。
 もう一つの欺瞞的な観念は、決まり文句の機械的な交換に対抗するものとしての、「本当の意思疎通(communication)」という観念だ。
 真性の意思疎通を語ることによって、実存主義者たちは、思考を他者に表現することだけで社会的抑圧を是正することができる、こうして会話はその後に生ずべきこと(アドルノは、これが何であるかを説明しない)の代わりになる、と人々を説得しようとしている。//
 (5)第二に、「真性主義」は、いかなる場合でも物象化の救済方策にはなり得ない。なぜなら、その淵源、つまり商品崇拝主義(fetishism)と交換価値の支配に関心を持っていないからだ。
 「真性主義」は、誰もが自分の生活を真性的にすることができると提示する。しかし、全体としての社会は、物象化の魔術のもとにあり続けている。
 これは、共同的生活の条件に変化を何ら生じさせることなく個人の意識のうちに自由を実現することができるという幻想を魔術的に取り出すことによって、人々の注意をその隷属状態から本当の原因を逸らす、古典的な形態だ。//
 (6)第三に、実存主義の効果は、「非真性」の生活の全領域を、排除できないが自分自身の存在に限定された努力でのみ抵抗することのできる、そのような形而上学的実体として硬直化することにある。
 例えば、ハイデガーは、物象化された世界としての空虚で日常的な雑談について語る。しかし、彼はそれを永続的な特質だと見なしており、宣伝広告のために金銭を浪費しない理性的な経済では存在しないだろうということに気づいていない。//
 (7)第四に、実存主義は、注意を社会的条件から逸らすことによってのみならず存在を定義する態様によって、物象化を永続化させがちだ。
 ハイデガーによれば、個々の人間存在(<Dasein>)は自己所有と自己参照の問題だ。
 全ての社会的内容は真性さの観念からは排除され、その真性さは自分自身を所有したいとの意思から成り立つ。
 このようにして、ハイデガーは、現実には、人間の主観性を物象化し、外部世界とは関連性のない「自分自身である」という同義反復的状態へと貶める。//
 (8)アドルノはまた、言語の起源を探求しようとするハイデガーの試みも攻撃する。
 彼はこれを、過ぎ去った時代、田園的素朴さ等を称賛する一般的傾向の一部で、その結果として「血と土」のナツィ・イデオロギーと連関したものだ見なす。
 (9)アドルノの批判は、「ブルジョア哲学」に対するマルクス主義者の伝来的批判の線に沿ったものだ。つまり、実存主義は、物象化を批判するふりをしつつ、実際には、社会的諸問題を考慮の外に置き、「自分自身である」とたんに決定することで「本当の生活」を達成することができると個々人に約束することによって、物象化をさらにひどくする。
 換言すれば、反対しているのは、<本来性という術語>は何の政治綱領も含まない、ということに対してだ。
 これは正しい。しかし、同じことは、アドルノ自身の物象化や否定いう術語についても言えるだろう。
 我々は交換価値を平準化する圧力に従属した文明に対してつねに断固として抵抗しなければならないという前提命題は、社会的行動に関するいかなる特有の規則をも意味包含していない。
 正統派マルクス主義者については、事情は異なっている。彼らは、有害な諸帰結を伴う物象化は全工場を国家が奪取するならば終わるだろう、と主張する。
 しかし、アドルノは、このような結論をとくに拒否する。
 彼は、代替可能な社会はどんなものかに関する示唆を何ら与えないままで、交換価値にもとづく社会を非難する。
 そして、将来に関する青写真を提示することができない実存主義者たちに対する彼の憤激には、何か偽善的なところがある。//
 (10)アドルノはたしかに正当に、「真性主義」は結論や道徳的規則を導くことのできないきわめて形式的な価値だと語る。
 さらには、それを最高に価値があるものとして設定するのは危険だ。例えば、強制収容所の所長はそれとして行動することで、人間存在を完全に達成することができる、という考えに対抗する道徳的な保護策を、それは提供しない。
 言い換えると、ハイデガーの人類学は、価値の定義を何ら含んでいないかぎりで、非道徳的だ。
 しかし、「批判理論」は、よりよい状況にあるのか?
 たしかにそれは、基礎的諸観念のうちにとりわけ「理性」と「自由」を含んでいる。
 しかし、「理性」は些細な論理または経験的情報崇拝に拘束されることはない、ということ以外には、より高次の弁証法的形式での「理性」については、ほとんど何も語っていない。
 そして、「自由」に関しては、自由ではないものを主としては語るだけだ。
 その自由は、物象化を排除しないで悪化させるブルジョア的自由でも、マルクス=レーニン主義によって約束され、実現される自由でもない。その自由は、隷属だからだ。
 明らかに、これら以外の何か良いものがなければならない。しかし、それが何かを語るのはむつかしい。
 我々は、積極的意味でのユートピアを予期することはできない。
 我々が行うことができる最大のことは、否定的に現存する社会を超越することだ。
 かくして、批判理論が教えるものは、特定されない行動の呼びかけにすぎず、ハイデガーの「真性主義」と全く同様に形式的なものだ。//
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 つぎの第5節の表題は、<「啓蒙」批判>。

1940/L・コワコフスキ著第三巻第四章第11節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
 全体的に、以下の独語訳書(1979年、新改版1989)をも照合して、試訳とした。抽象度、理論度・「哲学」度が(試訳者には)高いので、趣旨を把握し難い部分があるからだ。従って、必ずしも英語訳書の「試訳」ではない(英語版と独語版の違いの印象についてはいずれ言及する)
 Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus.(1979年、新改版1989年)、Der dritter Band, Zerfall.
 試訳者のいちいちのコメントは原則として行っていない。但し、前回と今回の<弁証法的唯物論>批判は、マルクス主義「哲学」の根本にかかわるので、マルクス・エンゲルスに関する部分は未読だが、L・コワコフスキ著の理解にとって重要な部分だろう。表現を少し変えると、L・コワコフスキによると、「弁証法的唯物論」は結局は、つぎの三つの部分(範疇)で成っている(前回①の(3))。
 1.自明のこと。当たり前のこと。誰でも経験上知っていること又は簡単な想起で気づくこと。
 2.科学的に証明され得ないドグマ・教条。ドイツ語訳語の直接邦訳では「信仰告白」。
 3.たわ言・ナンセンスなこと。
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 第11節・弁証法的唯物論の認識論上の地位②。
  (7)私が弁証法的唯物論のうちのたわ言の(ナンセンスな)主張だと称した第三の範疇の中に、感覚は事物をそれと同じように「反射(reflect)する」ものだとの言明が入る。
 これは、プレハノフを攻撃したレーニンの主張だ。
 神経細胞の中で生じている何らかの過程、あるいは外部世界に存在する客体や過程を感知する「主観的」行為は、神経細胞の中に対応する変化を因果関係的に呼び起こすものと「同じような」ものだ、というこの命題の主張は、何を意味することができているのか。これを理解することはできない。
 もう一つのナンセンスな(スターリンは特別に称賛しはしなかったが、プレハノフによって提示され、マルクス主義の叙述で規則的に繰り返された)主張は、形式論理は静止状態にある現象に「適用される〔当てはまる〕」が、弁証法の論理は変化に「適用される」、というものだ。
 この馬鹿げた主張は、たいていは形式論理による表現が何を意味するかを理解することができないマルクス=レーニン主義者の無知の結果だ。そして、論じるに値しない
 (8)その他の諸主張は、すでに記したように、どのように解釈するかによって上の三つの範疇のいずれかに含まれる。
 その中にはとくに、「矛盾」に関する「弁証法の法則」なるものがある。
 多数のソヴィエトの教科書が教示するように、かりにこれが意味するのは、運動と変化は「内部矛盾」によって説明することができる、ということだとすれば、これは意味のない言明の一つだ。なぜならば、「矛盾」とは諸命題の関係を読み解く論理的な範疇であり、「矛盾した現象」とは何を意味するかを答えることは不可能だからだ。
 (少なくとも唯物論の主張からは不可能だ。ヘーゲル、スピノザおよび論理的関係と存在論的関係を見分ける(identify)その他の者たちの形而上学では、矛盾を抱えた存在という観念は、無意味ではない。)
 一方で、かりに、この言明が意味するのは、現実は緊張状態とそれに対抗する傾向の一つのシステムだと理解されなければならない、ということであるとすると、これは自明のことにすぎず、科学的探求や実践的行動に役立つ特有の帰結を何らもたらさないと考えられる。
 多くの現象が相互に影響し合うということ、人間社会は対立し調和しない利害によって分断されること、人々の行動はしばしば、意図していなかった結果をもたらすこと。-これらは陳腐で当たり前のことだ。
 そして、これらを「弁証法的方法」とか、「形而上学」思考とは対照的な深遠さをもつものとか言って高く評価するのは、マルクス主義の典型的な傲慢さのもう一つの例に他ならない。その傲慢さは、マルクスまたはレーニンが世界に授けた記念碑的な科学的発見だと、古来から知られた自明のことを述べているのだ。
 (9)真実(truth)は相対的(relative)だという、ずっと前にこの著で論述した主張もまた、この範疇に入るものの一つだ。
 真実の相対性ということがかりに、エンゲルスが記したように、科学の歴史ではいったん受容された見解はのちの研究によってしばしば完全に放棄されるのではなく、その有効性は限定的にだが承認される、ということを語っているにすぎないのであれば、この言明の正確さに関して論じる必要はなく、それは決してマルクス主義に特有のものではない。
 これに対して、この言明がかりに、「我々は全てを知ることはできない」または「判断はある状況では正しい(right)が、別の状況では正しくない」、ということを意味するのだとすれば、これらもまた、古代から自明のことだ。
 例えば、雨は干魃の場合には有益だが、洪水の状況ではそうでない、ということを知るために、我々がマルクスの知性を必要とすることはなかった。
 もちろんこれは、これまでにしばしば指摘してきたように、「雨は有益だ」との言述は状況に応じて真実だったり虚偽だったりする、ということを意味するものではない。上の言明は両義的で曖昧だ、ということを意味している。
 「雨は全ての状況で有益だ」ということをそれが意味しているならば、明らかに虚偽だ。
 「雨は一定範囲の状況では有益だ」と意味させているならば、明らかに真実だ。
 しかしながら、マルクス主義の真実の相対性という原理的考え方を、その意味を変えることをしないで、ある言述は状況に応じて真実だったり虚偽だったりし得る、ということを表現するものと我々が解釈するとすれば、この言明もまた、たわ言〔ナンセンス〕という第三の範疇に入る一つだ。我々がレーニンもそうしていたように、真実を伝統的な意味で理解する、ということを前提にするとすれば。
 他方で、「真実(truthful)の判断」とは「共産党にとって有用だと承認する判断」と同じものを意味しているとすれば、真実の相対性というこの原理的考え方は、ここでもう一度、明白に陳腐な常套句になる。
 (10)しかしながら、「真実」という語を発生論的(genetic)または伝統的のいずれの意味で理解しているのかという疑問は、マルクス主義の歴史の中でかつて明瞭には回答されてきていない。
 すでに述べたように、マルクスの諸著作には、人間の必要(needs, Bedürfnisse)との関係での「有効性」だと真実という語を理解しなければならない、ということを強く示唆するものがある。
 しかしレーニンは、かなり明確に、伝統的な理解に立って真実とは「現実との合致」だと主張していた。
 弁証法的唯物論に関するほとんどの手引き書はこの点でレーニンに従っていたが、もっと実践的で政治的な見方を示す兆候もまた、しばしば見られた。その見方によれば、社会的進歩を「表現」するものが真実だ。このような理解によれば、むろん党当局の諸決定が、真実か否かの規準となる。
 混乱を助長するのは、ロシア語には「真実」という二つの言葉があることだ。
 <istina>と<pravda>。前者は<is〔存在する,である〕>という伝統的な意味を表現する傾向がある。後者は、道徳的な色彩がより強く、「正しくて公平なこと」〔right, just〕または「なされるべきこと」を示唆する。
 このような両義性が、「真実」の発生論的観念と伝統的観念の区別が曖昧になるのを助けている。//
 (11)「理論と実践の統一」という原理的考え方について言うと、これもまた、異なる意味で理解することができる。
 これはときどきは単純に、何らかの実際的有用性のある問題についてのみ思考すべきだ、ということを多少とも示す規範の意味で用いられている。
 この場合には、この命題は、上に挙げた三つの範疇のいずれにも、これらは規範的であるとは言えないので、含まれない。
 記述的な言明だとして考察すると、人々は一般に実際的な必要の影響を受けて理論的な考察を行っている、ということを意味している可能性もある。
 これはゆるやかな意味では正しい。しかし、マルクス主義に特有のものではない。
 再びかりに、理論と実践の統一とは、実際的な成果が我々が実践行動の基礎にした思考の正しさ(rightness, Richtigkeit)を確認する、という意味だとすれば、受容可能な真実の標識だ。但し、絶対的な通用力が要求されないかぎりで。なぜならば、知識や科学の多数の分野では、実際的な確認(verification)なるものは、全く明らかに存在しない。
 最後に、この原理的考え方は、特殊にマルクス主義的な意味で理解され得る。すなわち、思考は行為の一側面であって、このことに気づいているということによって「真実」になる、という意味で。
 しかし、このような意味での理論と実践の統一なるものは、ソヴィエトの弁証法的唯物論には存在しなかった。
 理論と実践の統一の意味は、マルクス、コルシュおよびルカチに関する章で検討されている。//
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 第11節、終わり。次の第12節の表題は<スターリニズムの根源と意義。「新しい階級」の問題。>

1939/L・コワコフスキ著第三巻第四章第11節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
 ①のとくに後半について、以下の独語訳書(1979年、新改版1989)も参照した。
 Leszek Kolakowski, Die Hauptstroemungen des Marxismus.(1979年、新改版1989年)、Der dritter Band, Zerfall.
 原文の 'diamat'と'histmat'は途中から〔弁証法的唯物論〕や〔歴史的唯物論〕へと変えた。
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 第11節・弁証法的唯物論の認識論上の地位①。p.151-.
 (1)通称で言われた'diamat'〔弁証法的唯物論〕や'histmat'〔歴史的唯物論〕の、そしてソヴィエトのマルクス=レーニン主義一般の社会的機能は、それ自体を賛美し、帝国主義的膨張を含めたその諸政策を正当化するために、統治する官僚機構が用いたイデオロギーだ、ということにある。
 マルクス=レーニン主義を構成している全ての哲学的および歴史的原理は、わずかな単純な前提命題によって、その最高点と最終的な意味へと到達する。
 生産手段の国有制と定義される社会主義は歴史的には社会秩序の最高の形態であり、全ての労働人民の利益を代表する。
 ソヴィエト体制はゆえに進歩を具現化したものであり、そのようなものとして、いかなる異論に対しても当然に正しい(right)ものだ。
 公式の哲学と社会理論はたんに、特権をもつソヴィエト支配階級の自己賛美の修辞文に他ならない。
 (2)しかしながら、いったん社会的側面は考慮外として、宇宙〔世界〕に関する言明の集積である、スターリニズムの形態での弁証法的唯物論に関して考察しよう。
 マルクス、エンゲルスおよびレーニンの考え方との関係ですでに述べてきた多数の批判的論評は脇に置き、「弁証法的唯物論」にかかる主要な論点に集中するならば、以下のような考察をすることができる。//
 (3)弁証法的唯物論は、異なる性質の主張で成り立つ。
 ある部分は、マルクス主義に特有の内容をもたない自明のこと(truism)だ。
 つぎの別の部分は、科学的手段では証明することのできない哲学上のドグマだ。
 さらに第三にあるのは、全くのたわ言(nonsense, Unsinn)だ。
 最後の第四の範疇は異なる態様で解釈することのできる前提命題で成り立っており、その解釈次第で、上記の三分類のいずれかに含まれる。//
 (4)自明のことの中ではとくに、宇宙の全てのものは何らかの形で関係している、あるいは、全てのものは変化している、という言明のごとき「弁証法の法則」だ。
 誰一人として、これらの命題を否定しない。しかし、これらは認識論的または科学的な価値を全くほとんど有しない。
 第一の言明は、そのとおりだが、例えばライプニッツやスピノザの、形而上学という別の論脈では、確かな哲学上の意味をもつ。しかし、マルクス=レーニン主義ではそれは、認識上または実践上の重要性のある、いかなる帰結をも導かない。
 誰もが、現象は相互に関連すると知っている。しかし、世界を科学的に分析するという現存の問題は、我々には究極的には不可能なので、宇宙的相互関係をいかに考慮するか、にあるのではない。
 そうではなく、どのような関係が重要なもので、どの関係を無視することができるかを、いかにして決定するかが問題だ。
 マルクス=レーニン主義がこの点で我々に教えることができるのはただ、鎖でつながった現象にはつねに、把握されるべき「主要な連環」(main link, Hauptglied)がある、ということだ。
 これはたんに、実際には、追求している目的から見て一定の現象が重要であり、その他の現象は重要でないか無視できるものだ、ということを意味するにすぎない。
 しかし、これは認識上の価値のない、陳腐なこと(commonplace, triviale Alltagswahrheit)だ。我々は、いかなる規準でもってしても、全ての特定の場合について、重要性の程度の階層を確定することはできないのだから。
 「全てのものは変化している」という命題に関しても、同じことが言える。
 個々の変化、その本性、速さ等々に関する経験的な叙述にのみ、認識論上の価値がある。
 ヘラクレイトス(Heraklitus)の格言には、彼の時代の哲学的な意味があった。しかし、それはすみやかに誰でも知る一般常識、日常生活の知恵の範疇へと埋もれ込んだ。//
 (5)マルクス=レーニン主義者による、「科学」はマルクス主義を確証している、の信奉は、これらのような自明のことがマルクス主義による重大な発見だと叙述されたことにまさに依拠している。
 経験科学や歴史科学の真実というものは、一般論として言って、何かが変化しているとか、その変化が何か別のものと関係しているとか、を語るものであるので、全ての新しい科学的発見は、そのように理解される「マルクス主義」を確認することになるのだろう、と我々は認めることができる。//
 (6)証明することのできないドグマという第二の範疇に、話題を移す。これには、とりわけ唯物論それ自体の主要なテーゼが含まれる。
 マルクス主義の分析の低い水準によって、このテーゼはほとんど明瞭には定式化されておらず、その一般的に意味するところは十分に単純だ。
 すでに指摘したように、「世界はその性質において物質的だ」との言明は、レーニンの様態に倣ってたんに物理的固有性から抽出された「客観物」だと、あるいはレーニンが述べたように「意識から独立した存在」だと物質が定義されるのだとすれば、あらゆる意味を失う。
 意識という概念がまさにその物質という観念の中に含まれているということは別論として、「世界は物質的だ」との言明はたんに、世界は意識から独立したものだ、ということだけを意味することが分かる。
 しかし、これを全てに当てはめるならば、マルクス=レーニン主義自体が認めるように、一定範囲の現象は意識に依存しているのだから、明白に間違っている、というだけではない。それだけではなくて、唯物論にかかわる問題を解決することもしない。宗教的な人々の考えによれば、神、天使および悪魔もまた同様に、人間の意識から独立したものだ。
 他方で、物質は物理的固有性-外延範囲や貫通不可能性等々-だと定義されるとすれば、「物であると証明されない微小物体にはその規準-固有性の一定範囲-を当てはめることはできない、と論駁され得る。
 唯物論は、その初期の範型では、存在する全物体は日常生活のそれと同じ固有性をもつ、と考えた。
 しかしながら、基本的には、この命題は一定の消極的なものだ。すなわち、我々が直接に感知するものと本質的に異なる現実体は存在しない。また、世界は理性的存在によって生み出されたものではない。
 ちなみにこれは、エンゲルスが自ら定式化したことだった。すなわち、唯物論での問題の要点は、神は世界を創造したのか否か、だった。
 明らかに、神が存在した、または存在しなかったことの経験上の証拠は存在し得ないし、科学上の論議によって神が存在するか否かを決定することもできない。
 合理主義は、思考経済という(レーニンが否定した)考え方にもとづいて、経験上の情報の有力さにもとづいてではなく、神の存在を拒絶する。
 この考え方が前提とするのは、経験が我々に強いているとすれば、我々にはただ何かが存在することを受け容れる権利だけがある、ということだ。
 しかし、このような条件の明確化はそれ自体が論議を呼ぶもので、明瞭さからはほど遠い前提に依拠している。
 ここではこの問題に立ち入らないで、我々は、つぎのように確言することができる。すなわち、我々がこのように再定式化した唯物論のテーゼは、科学的な主張ではなく、ドグマ的な言明(dogmatic statement)〔信仰告白(Glaubensbekenntnis)〕だ。
 同じことは、「精神的な実体」や「人間の意識の非物質性」についても当てはまる。
 人間の意識はつねに肉体的な過程によって影響される、と人々は古い昔から気づいてきた。
 例えば、頭を棍棒で打って人を気絶させることができる、ということに気づくのに、長期の科学的な観察は必要でなかっただろう。
 だが、このことは、意識の過程が異なる肉体的条件に依存することに関してその後に研究しても、本質的なことを何も付け加えることはない。
 意識の非物質的な根底があると考える者たちは、意識と身体の間に連環はない、とはむろん主張しない。(かりにそうするとすれば、彼らは、デカルト、ライプニッツやマールブランシュ(Malebranche)のように、経験上の事実を考慮する複雑で技巧的な方策を考案しなければならない。)
 彼らはただ、身体上の過程は人間精神の働きを停止させることができるとしても、破壊することはできない、と主張する。-身体は、意識がそれを通じて作用するいわば媒体物だ。しかし、その意識の作用のための不可欠の条件ではない。
 こういう主張の正しさは、経験上は証明することができないが、反証することもできない。
 たんに、進化論は非物質的な精神を支持する議論に反駁したと、いかにしてマルクス主義の支持者たちは主張するのかも、一致していない。
 かりに人間という有機体が突然変異によって生命の下層から発生したのであれば、そのことから論理的には、精神の否定につながるわけではない。
 そうであるとすれば、現代的な進化論と意識の非物質的根底、または世界の目的論的見方すら、の間を同時に結びつける矛盾なき理論を生み出すのは、不可能だろう。
 しかし、そのような若干の理論が、ベルクソンを通じてフロシュアマー(Froschammer)からテイヤール・ド・シャルダン(Teilhard de Chardin)まで、存在した。そして、それらには何らかの矛盾がある、ということは、全く明瞭ではなかった。
 キリスト教哲学者もまた、教義に進化論の効果からの免疫をつけるための様々な可能性をすでに見出した。そして、この哲学は異論に対して開かれていたかもしれないが、自己矛盾があった、と言うこともできない、
 科学的作業に応用できる有効性という規準で判断すれば、唯物論のテーゼは、その反対理論と同じ程度には恣意的なものだった。//
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 ②へとつづく。

1931/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。 
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 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質②。
 (7)イデオロギー全体の礎石は、指導者に対する個人崇拝(cult)だった。これは、この時代にグロテスクで悪魔的な様相を見出したもので、のちの毛沢東に対する個人崇拝を例外として、おそらくは歴史上にこれを上回るものはない。
 スターリンを賛美する詩歌、小説および映画が、途切れない潮流の中に溢れ出た。彼の写真や肖像が全ての公共広場を飾った。
 作家、詩人、および哲学者はお互いに競って、新しい酒神礼賛的(dithyrambic)崇拝の形態を考案した。
託児所や幼稚園の子どもたちは、彼らの幸福な幼年生活について、スターリンに心溢れる感謝を捧げた。
 民衆の宗教心の形態は全て、歪められた形で復活した。すなわち、聖像(icon)、行列、声を揃えて朗読される祈り、(自己批判という名のもとでの)罪の告白、遺物崇拝。
 このようにしてマルクス主義は、宗教のパロディー(parody)となった。 但し、内容を欠いたパロディーだ。
 適当に選んで、以下は、この当時のある哲学上の著作にある、典型的な導入部だ。
 「同志スターリン、諸科学に関する偉大な指導者は、深さ、明瞭さ、および活力について無比の研究をして、弁証法的かつ歴史的唯物論の基礎の体系的論述を、共産主義の理論上の土台として、与えた。
同志スターリンの理論的諸著作は、全同盟共産党(ボルシェヴィキ)中央委員会およびソ連邦閣僚会議により、彼の70歳の誕生日での同志スターリンへの挨拶で、尊敬の念をもって語られた。
 『科学の偉大な指導者!。帝国主義、わが国におけるプロレタリア革命と社会主義の勝利という新しい時代に関連させてマルクス=レーニン主義を発展させた貴方の古典的な諸著作は、人類の巨大な達成物であり、革命的マルクス主義の百科辞典である。
 ソヴィエトの男女および全国の労働人民の指導的代表者たちは、労働者階級の運動の勝利へと向かう闘いにおいて、知識、確信および新たな強さを、共産主義への今日の闘争に関する最も焦眉の諸問題についての解答を見出しつつ、これら諸著作から獲得している。』
 <弁証法的および歴史的唯物論>に関する同志スターリンの輝かしい哲学的全集は、知識と世界の革命的変革の力強い手段であり、不可避的に打倒される宿命にある、唯物論の敵および資本主義社会の衰亡していくイデオロギーと文化、に対抗する圧倒的な武器である。
 それは、マルクス=レーニン主義世界観の発展…<中略>における新しい、至高の段階である。
 同志スターリンはその全集において、無比の明瞭さと簡潔さをもって、マルクス主義の弁証法的方法の基本的特質を解説し、自然と社会の法則的な発展に関する理解の重要性を指摘した。
 同じ深さ、力強さ、簡潔さおよび党政治上の決意をもって、同志スターリンは、その諸著作で、マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質…<以下略>を定式化した。」
 (V. M. Pozner, <マルクス主義の哲学的唯物論の基本的特質に関するJ. V. スターリン>、1950年)
 (8)スターリンは、ロシア史上の偉大な英雄たちを通じて、間接的にも称賛された。
 ピョートル大帝、イワン雷帝およびアレクサンダー・ネフスキーに関する映画や小説が、スターリンの栄誉のために捧げられた。
 (しかしながら、イワン雷帝のほかにスターリンの明確な命令にもとづきその<oprichnina〔親衛隊〕>または秘密警察を賛美するアイゼンシュタイン(Eisenstein)の映画は、スターリンが生きている間は上映されなかった。そうした映画は、いかに雷帝が、たとえ気が重くても、最も執念深い陰謀家たちの手を切り落とさざるをえなかったかを描写していたからだ。-なるほど、観客たちには疑いなく、まさしく札付きの悪漢だが、イワンは思慮深い政治家には期待され得たことを何もしなかった、という気分が残っただろうけれども。
 身長の低いスターリンは、映画や劇では、レーニンよりもかなり身長のある、背の高い男前の人間のように描かれた。//
 (9)ソヴィエト官僚機構の階層的構造は、スターリン崇拝が下位の者たちにまで影を落としていたということに見られた。
 全てではないにせよ多数の分野で、スターリンの線上で公式に「最も偉大な者」として知られる者たちがいた。
 スターリン自身が最高位を占める多数の場合-哲学者、理論家、政治家、戦略家、経済学者-は別として、例えば、誰が最も偉大な画家、生物学者、あるいはサーカスの道化師なのか、が知られていた。
(ちなみに、サーカスは1949年に、この分野でのブルジョア形式主義を非難した<プラウダ>上の論文でイデオロギー的に改革された。
 ユーモアの世界主義的形態へと堕落して、イデオロギー的内容がなく、階級敵に対処するために教育するのではなく、たんに人々を笑わせようとしていた上演者が、どうやらいたようだ。)//
 (10)この時代に、歴史の偽造と歴史研究者に対する圧力が、クライマクスに達した。
 帝制ロシアの外交政策は基本的に進歩的だった、とくにロシアによる征服は他民族にロシア文明の恵みをもたらした、ということを示すのは、歴史家の任務になった。
 レーニン全集の第四版は新しい文書をいくつか含んでいたが、別のいくつかは削除されていた。その中には、一国での社会主義の建設の不可能性に関する、きわめて断定的(categorical)な論述があった。また、ジョン・リード(John Reed)の<世界を震撼させた十日間>への熱心な序言も、そうだった。
 十月革命の間はペトログラードにいたリードは、レーニンとトロツキーについては多くのことを語っていたが、スターリンには全く言及していなかった。したがって、レーニンが彼の書物を世界に推奨するのは、〔スターリンには〕許しがたい<失態(gaffe)>だった。
 新しい版はまた、ほとんど完全に、執筆者が粛清によって殺戮された者たちである、いくつかのきわめて貴重な歴史的な論評や記述を、削除した。
 (こうした過去の再編集の方法は、スターリンの死でもって終わった。
 ベリヤ(Beriya)が新指導者によって死刑に処せられたその数カ月のち、<大ソヴィエト百科辞典>の申込み者たちはその次の巻の注意書きが、こう求めていることに気づいた。以前の一定の頁分をカミソリ刃を使って切除し、注意書きに添えられた新しい頁の用紙をそこに挿入するよう求めていることに。
 読者たちは、指示された場所を開いてみて、ベリヤに関する記載部分だと分かった。
 しかしながら、補充する新しい頁の用紙は、ベリヤに関するものでは全くなく、ベーリング海(Bering -)の追加の写真が掲載されたものだった。)
 歴史的な資料は、警察が例外なく握っており、それらを利用するのは、今日でもそうであるように、厳格に制限されていた。
 これはしばしば、賢い手段で判明することだった。すなわち、例えば、女性ジャーナリストがかつて古い教会区の書庫でレーニンの母親はユダヤ人の血を引いていると発見したとき、彼女にはこの情報をソヴィエトのプレスに掲載しようと試みる馬鹿正直さ(naïvety)すらがあった。//
 (11)この雰囲気は、当然にあらゆる種類の、適切に愛国的言語を用いて彼らの偉業を宣言する科学的ぺてん師を培養した。
 ルィセンコが最も有名だったが、他にも多数いた。
 Olga Lepeshinskaya という名前の生物学者は1950年に、無生の有機物から生細胞を作り出すのに成功したと発表した。そして、プレスはこれをブルジョア科学に対するソヴィエトのそれの優越性を証明するものだとして拍手喝采した。
 しかしながら、すみやかに、彼女の実験は全て無価値であることが判明した。
 スターリンの死後、なお一層衝撃的な記事が<プラウダ>に出た。それは、消費するよりも大きなエネルギーを生み出す機械がSaratov の工場で製造されたというものだった。
 -かくしてこれは、ついに熱力学の第二法則を定めて、同時に宇宙に放散されたエネルギーはどこかに(Saratov の工場に特定される)集中するはずだというエンゲルスの言明を確認することになる。
 しかしながら、のちにすみやかに、<プラウダ>は恥じ入った撤回記事を掲載しなければならなかった。-知的雰囲気がすでに変化してしまっていた徴しだった。//
 (12)書き言葉の世界も話し言葉の世界も、スターリン時代の雰囲気を忠実に反映していた。
 公共に対して何かを発表する目的は知らせることではなく、教示し、啓発することだった。
 プレスの内容は、ソヴィエト体制を賛美する、または帝国主義者を非難する報告だけだった。
 ソヴィエト同盟は、罪からのみならず自然災害からも免れていた。これらはともに、帝国主義諸国家の不幸な特権なのだった。
 事実上は、いかなる統計も公表されなかった。
 新聞の読者たちは、公然とは語られないが全ての者が知っている特殊な符号(code)で情報を得るのに慣れていた。
 例えば、党の幹部たちがあれこれの場合に名前を呼ばれる順序は、彼らがその時点でスターリンの好みの中のいかほどの位置にいるかを知る指標(index)だった。
 表面的には、「コスモポリタニズムおよび民族主義と闘おう」は「民族主義およびコスモポリタニズムと闘おう」と同じだと思えるかもしれなかった。しかし、ソヴィエトの読者は、スターリンの死後に後者の表現を見つけるやいなや、「方針が変わった」、民族主義が現在の主要な敵だと気づいた。
 ソヴィエト・イデオロギーの言語は暗示で成り立っており、直接的な言明によってではなかった。すなわち、<プラウダ>の指導的論文の読者は、決まり文句の洪水の真ん中にさりげなく書かれた単一の文章が掴みどころだと知っていた。
 意味を伝えるのは特定の言明の内容なのではなくて、言葉の順序であり、文章全体の構造なのだった。
 官僚制的な言語の独占、死んでいるがごとき非人間的な文章、そして不毛な言葉遣いは、社会主義文化のこり固まった聖典(canon)となった。
 多数の語句が、自動的に繰り返された。したがって、一つの言葉から次の言葉を予測することができた。例えば、「帝国主義者の凶暴な顔」、「ソヴィエト人民の栄光ある偉業」、「社会主義諸国家の揺るぎない友情」、「マルクス=レーニン主義の古典執筆者たちの不滅の業績」。-このような類の無数のステレオタイプの語句は、数百万のソヴィエト民衆の、知的な規定食(diet)だった。//
 (13)スターリンの哲学は、成り上がり者的な官僚制的心性に、形式と内容のいずれについても見事に適合していた。
 彼の論述のおかげで、誰もが30分で哲学者になることができた。真実を完全に所有するに至るだけではなくて、ブルジョア哲学者たちの馬鹿げて無意味な思想を知ることができた。
 例えば、カントは何かを知るのは不可能だと言ったが、我々ソヴィエト人民は多数の事物を知っている。カントには多すぎたのだ。
 ヘーゲルは世界は変わると言い、世界は観念(idea)で構成されていると考えた。にもかかわらず、誰でも、我々の周りにあるものは観念ではなくて物(things)であることを理解している。
 マッハ主義者は私が座っている椅子は私の頭の中にあると言ったが、明らかに、私の頭と椅子とは別の場所にある。
 このような考え方をして、哲学は、全ての小役人の遊戯場になった。彼らは、若干の常識的で自明なことを繰り返すことによって哲学上の問題を全て片付けたと思って、満足していたのだ。//
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 つづく第11節の表題は、「弁証法的唯物論の認知状態」。

1930/L・コワコフスキ著第三巻第四章第10節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第10節・スターリン晩年時代のソヴィエト文化の一般的特質①。
(1)この時代のソヴィエトの文化生活の独自性は、たんにスターリンに特有の独特な個性によるのではなかった。
 その独自性は一口で言うと、国家・国民の文化は成り上がり者(parvenu、成金者)のそれだった、と要約できるかもしれない。-全ての独自性はほとんど完璧に、初めて権力を享有した者の心性、信条、および好みを表現している。
 スターリン自身が、この独自性を高い程度に例証していた。しかし、統治機構の全体にも特徴的なもので、その成り上がり者性は、スターリンがそれを一方では隷属状態へと変えながらも、スターリンを助け続け、彼の至高の権威を維持し続けた。//
 (2)ボルシェヴィキの古い守り手たちや従前の知識人たちが連続して粛清され、絶滅したあと、ソヴィエトの支配階級は主として、労働者と農民の出自をもつ個人で構成された。彼らは乏しい教育しか受けておらず、文化的背景をもたず、特権を渇望し、純粋な「世襲の」知識人たちに対する憎悪と嫉妬を溢れるほどもっていた。
 成金者の本質的特性は「見せびらかす」ことへの絶え間なき切望感だ。したがって、彼らの文化は見せかけ(make-believe)であり、粉飾(window-dressing)だ。
 彼らは、従前の特権階層の知的な文化の代表的なものを自分の周囲に見ているかぎりは、心の平穏を持たない。それから遮断されていたがゆえに、彼らはそれを憎悪し、ブルジョア的または貴族的だとして貶す。
 成金者は狂信的な民族主義者で、その母国や環境は他の全てより優れているという考え方に飛びつく。
 自分たちの言語は、彼らによれば、(他の言語を通常は知らないが)<とくに優れた>言葉で、自分の微少な文化的資源でも世界で最も洗練されたものだと自分や他者の誰をも納得させようとする。
 彼らは、<アヴァン・ギャルド的(avant-garde)>な文化的実験の雰囲気があるものや、創造的な新奇さをひどく嫌悪する。
 限定された傾向の「一般常識」的格言でもって生活し、その格言類について誰かが説明を求めてきたときには、怒り狂う。//
 (3)成金者の心性のこうした特質は、スターリニスト文化の基本的なところにも感知することができる。すなわち、民族主義、「社会主義リアリズム」という美学、そして権力システムそれ自体にすら。
 彼らは、権威に対する農民に似た卑屈さを、権威を分有しようという大きな欲求と結びつける。ある程度まで階層が上がってしまうと、上位者にはひれ伏しつつ下位の者たちは踏みつけるだろう。
 スターリンは成金者たるロシアの偶像であり、栄光の夢の具現者だった。
 成金国家には権力の階層と、従属者をむち打ってもなお崇拝される指導者が存在しなければならない。//
 (4)既述のように、戦前に徐々に増大していたスターリニズムの文化的民族主義は、戦勝後には巨大な形をとった。
 1949年、プレスは「コスモポリタニズム」、明確には定義されていないが反愛国主義を明らかに含んで西側を称賛する悪徳、に対抗する宣伝運動を開始した。
 この運動が展開するにつれて、コスモポリタン〔世界主義者〕はユダヤ人と全く同一だということがますます理解されてきた。
 個々人が嘲笑されたり、ユダヤ的に響く従前の名前を持っていたときには、こうしたことが一般には言及されていた。
 「ソヴィエト愛国主義」はロシア排外主義と区別がつかないもので、公的な熱狂症(mania)になった。
 宣伝活動によって、全ての重要な技術的考案や発明がロシア人によってなされた、ということが絶え間なく語られ、この文脈で外国人に言及することはコスモポリタニズムおよび西側に屈服する罪悪だとされた。
 <大ソヴェト百科辞典>は、1949年末からそれ以降に出版された。これは、半分は滑稽で、半分は気味の悪い巨大熱狂症患者の、比類なき例だ。
 例えば、歴史部門の「自動車」の項は、こう書き始める。「1751-52年に、Nizhny Novgorod 地方の農民であるLeonty Shamshugenov(q.v.)が二人で動かす自己推進の車を作った」。
 「ブルジョア」文化、つまり西側文化は、腐敗と頽廃の温床だとして継続的に攻撃される。
 例えば以下は、ベルクソン(Bergson)に関する記述内容から抽出したものだ。〔以下のBは原文どおりで「ベルクソン」の意味〕//
 「フランスのブルジョア哲学者。-観念論者、政治と哲学について反動的。
 Bの直観主義(intuitionism)は理性と科学の役割を軽視し、社会に関する神秘主義理論は帝国主義者の哲学の土台として寄与している。
 彼の見方は帝国主義時代でのブルジョア・イデオロギーの退廃、階級矛盾の増大に直面したブルジョアジーの攻撃性の成長、プロレタリアートの階級闘争の深化に対する恐怖、…<中略>を鮮やかに示している。
 資本主義の初期の全般的危機とその全ての矛盾の激化の時期に、唯物論、無神論、科学的知識の狂気じみた敵、民主主義の敵および階級的抑圧からの被搾取大衆の解放の敵として、その哲学をえせ科学的切り屑で偽装して…<中略>、Bは出現した。
 Bは、観念論を『新しく』正当化するものとして、『内的映像』による認識について生活、実践と科学によって以前にとっくに反証されている…<中略>、古代の神秘主義者、中世の神学者の見方を、提示しようとした。
 弁証法的唯物論は、直観という観念論的理論を、世界と現実に関する知識は何らかのきわめて感覚的な方法によってではなく人間性に関する社会歴史的な実践を通じて生まれる、という論駁し難い事実でもって拒否する。
 Bの直観主義は、不可避的に迫り来る資本主義の崩壊を前にした帝国主義的ブルジョアジーの恐怖と、現実に関する科学的な知識、とくにマルクス=レーニン主義の科学が発見した社会発展の法則が抗し難く意味するもの…<中略>から逃亡しようとする切実さを、表現している。
 Bは、民族の至高性の敵として、ブルジョア的コスモポリタニズム、世界資本主義の支配、ブルジョア的宗教と道徳を擁護した。
 Bは、残虐なブルジョアの独裁や、労働者を抑圧するテロリストの手段に賛同した。
 第一と第二の大戦の間に、この戦闘的な反啓蒙主義者は、帝国主義的戦争は『必要』でありかつ『有益』だと主張した…<以下略>。」//
 (5)もう一つ、以下は、「印象主義(Impressionism)」に関する記述内容だ。〔以下のIは原文どおりで「印象主義」のこと〕
 「19世紀の後半のブルジョア芸術における退廃的傾向。
 Iは、ブルジョア芸術の初期段階の退廃の結果で(<デカダンス>を見よ)、進歩的な民族的諸伝統と断絶したものである。
 Iの支持者は、『芸術のための芸術』という空虚で反民衆的な基本綱領を擁護し、客観的現実の真実に合った現実的な描写を拒否し、芸術家は自分の主観的な印象によってのみ記録しなければならないと主張した…<略>。
 Iの主観的観念論的見方は、哲学における現在の反動的趨勢の基本原理と関係がある。-新カント主義、マッハ主義(q.v.)等。これらは現実と感覚を、印象と理性を分離させた…<略>。
 人類、社会現象および芸術の社会的機能には無関心のままで、客観的な真実の諸規準を拒否することによって、Iの支持者は、現実の実像を崩壊させ、芸術の形態を喪失している…<中略>、そのような作品を不可避的に生み出した。」
 (6)ソヴィエト同盟の世界の文化からの孤立は、ほとんど完璧だ。
 西側の共産主義者の若干のプロパガンダ的作業は別として、ソヴィエトの読者たちは、小説、詩作、戯曲、映画、そして言うまでもなく哲学や社会科学の形態で西側が生み出しているものに関して、全く無知の状態に置かれたままだった。
 レニングラードのエルミタージュ(Hermitage)にある20世紀絵画の豊かな貯蔵作品は、正直な市民を腐敗させないように、地下室に置かれたままだった。
 ソヴィエトの映画や戯曲は、戦争と帝国主義に奉仕するブルジョア学者たちの仮面を剥ぎ取り、ソヴィエトの生活の無類の愉楽さを称賛した。
 「社会主義リアリズム」が至高のものとして支配した。もちろん、ソヴィエトの現実をその現実のままに提示する-これは生硬な自然主義かつ一種の形式主義になっただろう-という意味でではなく、自分たちの国とスターリンを愛するようにソヴィエト人民を教育するという意味でだが。
 この時期の「社会主義リアリズム」の建築物は、スターリン主義イデオロギーの最も権威ある記念碑だ。
 ここでもまた、支配的原理は「形式に対する内容の優越性」だった。但し、この二つが建築物についてどう区別されるのか、誰も説明することができなかったけれども。
 その影響は、いかなる場合でも、誇張されたビザンティン様式の尊大な正面〔ファサード〕を造ることだった。
 住宅がほとんど建設されておらず、大中の市や町の数百万の民衆が汚い中で群がって生活しているときに、モスクワや他の都市を装飾したのは、虚偽の円柱と上辺だけの飾りに満ちた、かつその大きさは「スターリン時代」の荘厳さに釣り合う、巨大な新しい宮殿だった。
 こうしたことはまた、建築分野での、典型的な成り上がり者様式だった。要約するならば、つぎのモットーになるだろう。すなわち、「大きいものは美しい」。//
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 ②へとつづく。

1922/L・コワコフスキ著第三巻第四章第7節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第7節・ソヴィエト科学に対する影響一般。
  (1)ルィセンコの事件は、体制による文化との闘争の歴史を、幸いにもかなりの程度、例証している。
 獲得された特性の遺伝の問題よりも宇宙論の問題にイデオロギーが多くかかわり合った、と容易に理解することができる。
宇宙には時間の始まりがあるという理論を弁証法的唯物論と調和させるのは困難だ。
 しかし、遺伝に関する染色体理論の場合は、明らかにそうではない。誰でも容易に、この理論はマルクス=レーニン=スターリン主義という不朽の思想を完璧に確認するものだと、勝利感をもって宣言する、と想像することができる。
 実際には、イデオロギー的闘いは、遺伝学の場合の方がとくに激しかった。党による介入が最も残虐な形態をとったのはまさにこの遺伝学の分野だった。一方で、宇宙論に対する扇動的攻撃は、かなり穏健なものだった。
 このような違いに関する論理的な説明を行うのは困難だ。すなわち、多くは偶然による。反対運動を担当したのは誰だったのか、スターリン個人は論争になっている問題に関心があったのか否か、等々。//
 (2)にもかかわらず、この時代の歴史を概観するならば、イデオロギー的圧力の強さに、コントやエンゲルスが確立した諸科学の階層に大まかには対応した、一定の段階的差異があることを感知し得るかもしれない。
 数学については圧力はほとんどゼロで、宇宙論と物理学についてはかなり強かった。生物学については、さらに強かった。そして、社会科学や人文科学については、圧力は最大限に強力だった。
 年代史的順序も、大まかにはこうした重要性の程度の差異を反映していた。
 社会科学は、最初から統制管理の対象だった。一方で、生物学や物理学はスターリニズムの最後の段階までは統制されなかった。
 スターリン後の時代に最初に自立性を取り戻したのは、物理学だった。しばらくして、生物学が続いた。だが、人文社会系(humanistic)学問はかなり厳格な支配のもとに置かれたままだった。//
 (3)イデオロギー的監督の中でも幸運な要素は、高次の神経機能に関する心理学と生理学の場合にも、見出すことができる。
 この分野の特質は、ロシアが世界的に有名なパブロフ(Ivan P. Pavlov )の誕生地だったことだ。1936年に死んだこの人物には若干の弟子たちがおり、彼らはパブロフの実験を継続し、またイデオロギー的圧力とは関係なくその理論を発展させることが許されていた。
 典型的にも、体制側は反対方向の極端へと進み、パブロフの理論を、生理学者や心理学者が逸脱することを禁止される、公式のドグマにまで屹立させた。
 かりにパブロフがイギリス人あるいはアメリカ人であったならば、彼の考えは、ソヴェトの哲学者によって厳しく非難されていただろう。パブロフ理論は条件反射によって精神作用を説明するがゆえに機械主義者だ、という根拠でもって。
 パブロフはまた、人間と動物の「質的な違い」を無視する等々によって人間の精神を神経活動という最も下位の形態へと「矮小化(reduce)」した、と責め立てられただろう。
 実際には、パブロフ理論は公式に神経生理学の分野でのマルクス=レーニン主義を代表するものとされ、この分野でのイデオロギー攻撃は他のどの分野よりも酷くなかった。
 にもかかわらず、たとえ真摯で科学的な実験にもとづいてはいても、一つの理論が国家と党のドグマにまで持ち上げられたという、まさにその事実こそが、研究の進展に対して激痛を与えるごとき効果をもった。//
 (4)ソヴィエト国家の利益に反して動いたイデオロギーのとくに驚くべき事例は、サイバネティクス〔人工頭脳学〕、動態的過程統制システムに関する科学、に対する攻撃だった。
 サイバネティクス研究は、全ての技術分野、とくに軍事技術、経済計画等々での自動化の発展に大きな貢献をした。しかし、マルクス=レーニン主義の純粋性という権威は、しばらくの間は、ソヴィエト同盟での自動化の進展を完全に抑えることができた。
 1952-53年、サイバネティクスという帝国主義的「えせ科学」に対する反対運動が起こされた。
 ここにはじつに、本当の哲学上の問題または哲学に準じた問題が介在していた。
 すなわち、社会生活がサイバネティクスの範疇でもって記述され得るのか否か、および記述され得る程度、精神的活動はいかなる意味でサイバネティクスの図式へと「推論され得る」のか、あるいは逆に、いかなる意味で、人工的なメカニズムの一定の作用が思考と同等であり得るのか、等々。
 しかし、本当のイデオロギー上の危険性は、サイバネティクスは西側で発展してきた広い視野をもつ学問分野で、その当否はともあれ、<普遍的数学(mathesis universalis)>、動態的現象を全て包含する一般的理論だと自己主張しているものだ、ということにあった。そのような自己主張は、正確にマルクス=レーニン主義こそが行っていたものだったからだ。
 非公式の(むろん公的な情報で確認されていない)報告によると、最終的にサイバネティクスに対する反対運動を中止させたのは軍隊だった。軍はその主題の実践的重要性に気づいており、ソヴェトの根本的な国家利益を損傷する反啓蒙主義的攻撃と闘うに十分な強さを持っていた。//
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 つぎの第8節の表題は「スターリンと言語学」。

1921/L・コワコフスキ著第三巻第四章第6節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第6節・マルクス=レーニン主義の遺伝学。
 (1)マルクス=レーニン主義と現代科学との間の全ての闘いの中で、遺伝学に関する論争ほど外部世界の注目を集めたものはなかった。
 公式の国家教理が遺伝の問題に関して用いて、かつ「論議」一般に破壊的な影響をもったやり方というのは、実際にとくに悪辣だった。
 相対性や量子理論の場合は、イデオロギー正統派が研究を妨害し確実に非難することに成功して勝者となった。しかし、正統派は反対派を完全に破壊してしまったわけではなかった。また、遺伝学の場合に起きたようには、反対派の理論の公式かつ絶対的な禁止をもたらしたわけでもなかった。//
 (2)戦前の段階でのルィセンコ(Lysenko)の活動については、すでに言及した。
 事態は、1948年8月のモスクワでの農業科学レーニン・アカデミーでの論議で、絶頂点に達した。
このとき、「メンデル=モルガン=ヴァイスマン主義者」が最終的に非難され、ルィセンコ自身が会合に対して発表したように、彼の考え方が党によって是認された。
 党がマルクス=レーニン主義と合致する唯一のものだと宣告したルィセンコの理論は、遺伝は「究極的には」環境の影響によって決定される、したがって一定の条件のもとでは、個々の生物(organism)がその人生を通じて獲得する特性(traits)はその子孫たちに継承〔遺伝〕される、というものだった。
 遺伝子(gene)なるものはなく、「遺伝という不変の実体」はなく、「固定した、変更不可能な種(species)」もない。そして、原理的に言えば、科学、とりわけソヴィエト科学が、現存する種を変形させて新しい種を生み出すことを妨げるものは、何もない。
 ルィセンコによれば、遺伝とは一生物の一つの属性にすぎず、その属性は、その生物が生きていく特有の条件を必要とし、またその生物が特有の方法でその環境に反応するということから生じる。
 一個体はその生の過程で環境条件と相互に影響し合い、その環境条件を自分自身の特性へと変える。そしてそれを、子孫たちへと伝達していくことができる。-このことは、代わりに、自分たちの特性を失うか、または遺伝によって伝達できる新しい特性を獲得することでありうる。それはまた、外部条件が決定しうるものだ。
 永遠(immortal)の遺伝という実体の存在を信じる進歩的科学の擁護者は、マルクス主義に反して、突然変異(mutation)は制御不可能な偶然によって生じると主張する。
 しかし、ルィセンコがアカデミーの会合で論じたように、「科学は、偶然なるものの敵だ」。そして科学は、生命の全過程が法則に従っており、それを人間の干渉によって支配することができる、と想定するよう義務づけられている。
 生物は「環境との統合体(unity)」を形成する。ゆえに原理的には無制限に、その環境を通じて生物に影響を与えることが可能だ。//
 (3)ルィセンコが提示した理論は第一に、農学者のミチュリン(Michurin、1855-1935)の発想と実験を発展させたものだった。第二に、「創造的ダーウィニズム」の例だとして提示された。
 ダーウィン(Darwin)が道を誤っていたのは、自然にある「質的跳躍」を認識しなかったこと、および種内部の闘争(最適者生存)を進化の主要な要因だと考えたことだった。 彼は、目的論的解釈に頼ることをしないで、進化を純粋に因果関係の意味で説明し、進化の過程の「進歩的」性格を明らかにしなかった。//
 (4)ルィセンコ理論の経験上の根拠に関して、今日の生物学者たちは疑いなく、ルィセンコの実験は科学的には無価値であり、間違って行われているか全く恣意的な解釈が施されているかのいずれかだ、と判断している。
 ルィセンコは1948年の会合から、ソヴィエトの生物科学の疑いなき指導者となって登場した。そして、観念論的、神秘主義的、スコラ主義的、形而上学的、およびブルジョア的で形式主義的な遺伝学の学者たちは完璧に粉砕された。
 全ての組織、雑誌および生物学に関連する出版団体は、ルィセンコと彼の助手たちの権威のもとに置かれた。そして多年にわたり、遺伝に関する染色体(chromosome)の理論の擁護者(<仮説だが(ex hypothesi)>、ファシスト、人種主義者、形而上学者、等々)が公衆に語りかけまたは活字となって登場することが許される、などということは全くの論外だった。
 「創造的ミュチュリン主義生物学」が至高ののものとして支配し、プレスにはルィセンコを称賛し、メンデル=モルガン主義者たちの邪悪な策略を非難する記事が洪水のごとく溢れた。
 ソヴィエト科学の栄光ある勝利は、無数の会合や集会で祝福された。  
 哲学者たちはもちろん、ただちにそうした運動に加わり、会合を組織し、反動に対する進歩の勝利を歓呼して喜ぶ多数の論文を執筆した。
 娯楽雑誌は、観念論的遺伝学の支持者を嘲弄した。そして、ルィセンコを賛美する歌までが作られた。「ミチュリンの足跡にそってしっかりと前進しよう。メンデル=モルガン主義者の陰謀を挫折させよう」。//
 (5)ルィセンコの経歴は、1948年以後の数年間にわたり継続した。
 その間に、彼の指揮のもとで、ある範囲の大草原地帯には浸食から畑地を守るべく森林帯が植え付けられた。しかし、その実験は完全な失敗だったことが分かった。
 1956年、スターリン死後のイデオロギー的な部分的雪解けの間、科学者が圧力を加えた結果として、ルィセンコは農業科学アカデミーの院長から外された。
 数年のち、フルシチョフの好意によって彼はいくつかの地位を回復した。しかし、のちに長く続いた全体的な救いにはならず、ルィセンコは最終的には舞台から消えた。
 ソヴィエトの生物学がルィセンコの支配によって被った損失は、計り知れないものだ。//
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つぎの第7章の表題は、「ヴィエト科学に対する一般的影響」。

1917/L・コワコフスキ著第三巻第四章第2節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)のマルクス主義の主要潮流(英訳書、1978年)の第三巻・崩壊(瓦解、The Break Down)の、つぎの三つの章全体と四つめの章の第一節まではこれまでに、「試訳」をこの欄に掲載している。
 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の第一段階-スターリニズムの開始。
 第2章・ソヴィエト・マルクス主義の1920年代の理論闘争。
 第3章・ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 および、
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
  第1節・戦時中という幕間。<№1893、2018/12/16>
 このあとに続く、第2節から再続行する。段落の冒頭に原書にはない数字番号を付す。なお、第5章の標題は「トロツキー」(分冊版でp.183-p.219)。
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 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 第2節・新しいイデオロギー攻勢。
 (1)戦争が終わったとき、ソヴェト・ロシアには莫大な人的損失があり、経済は破滅の状態にあった。
 だが、世界でのその地位は、したがってスターリンの個人的威厳は、きわめて高くなった。
 スターリンは、戦争の混乱の中から、偉大な政治家、優れた戦略家、そしてファシズムの破壊者として登場してきた。
 戦争が過ぎ去りヨーロッパでのソヴィエト征服地が確保されたため、独裁者は、戦時中の「リベラリズム」による有害な影響から転換させて、その権力を和らげる意図を政府は持たないとロシア民衆に教え込み、戦争によって世界のプロレタリアートの祖国以外の諸国を知った者たちにできる限り早くその光景を忘れることを強いるために、新しいイデオロギー攻勢を開始した。
 (この政策のとくに劇的な例は、解放されて西側連合により引き渡されたソヴィエトの戦争捕虜たちの全員を、強制収容所(concentration camp)へと追放したことだった。)
 テロルと戦争の「真正さ」は、これらで一緒になってマルクス主義のイデオロギー規準の緩和をもたらした。また、詩、映画その他の作品もそうだが、例えばV. P. Nekrasov やA. A. Bek の傑出した小説の登場でも示される、一定の文化的再生を生じさせた。//
 (2)1946年以降に始まった仮借なきイデオロギー運動は、かつてアレクサンダー二世が法王となるときに用いた「恍惚点!(- de rêveries)」との格言で要約されるかもしれなかった。
 目的はイデオロギーの純粋さを回復することだけではなく、新しい高さへとそれを挙げることだった。同時に、ソヴィエト文化を世界の外部との接触から離れさせることだった。
 全ての形態の知的生活は、これによって影響をうけた。文学、哲学、音楽、歴史学、経済学、自然科学、絵画および建築。
 それぞれの場合に、主題は同一だった。すなわち、西側に頭を下げるのをやめること、思想および芸術にある自立性の痕跡を全て破壊すること、スターリン、党そしてソヴィエト国家の称賛へと全ての形態の文化を集中すること。//
 (3)この政策の1946-48年の主任担当者は、ジダノフ(A. A. Zhdanov)だった。中央委員会書記の一人で、文化的自立性に対する闘争に熟達していた。
 1934年8月の全国作家同盟大会で党を代表して、ソヴィエト文学は世界で最も偉大であるのみならず唯一の創造的で発展する文学だ、一方で全てのブルジョア文化は衰亡と腐敗の状態にある、と述べたのは、この人物だった。
 ブルジョアの小説は、悲観主義に充ちていて、著者たちは資本主義に身を売っており、彼らの主人公はたいていは泥棒、売春婦、スパイ、不良少年だ。
 「ソヴィエト作家の大きな一団は今やソヴィエトの権力と党と一体となり、党の指導を受け、中央委員会の配慮と日常的な協力、および同志スターリンの絶えざる支援を得ている。」
 ソヴィエト文学は楽観的でなければならず、「前を向いて」いなければならず、労働者と集団的農民の根本教条に奉仕しなければならない。//
 (4)ジダノフ(Zhdanov)の戦後最初の重要な行動は、二つのレニングラードの雑誌、<Zvezda(星)>と<レニングラード>を攻撃することだった。
 これらの雑誌を非難する決議が、1946年8月の中央委員会によって採択された。
 主要な犠牲者は、著名な女性詩人のAnna Akhmatova(アフマトワ) とユーモア作家のMikhail Zoshchenko だった。
 ジダノフはレニングラードで演説を行い、この二人を激しく攻撃した。
 Zoshchenko は、ソヴィエト人民を悪意をもって中傷している。彼はレニングラードで自由に生活するよりも動物園の檻の中でいた方がよいと決める猿に関する物語を書いた。これは明らかに、Zoshchenko が人間を猿の水準に落とすのを欲していることを意味している。
 1920年代にすら、党の精神の欠如した非政治的な作品を作り出していた。そして、社会主義建設に関係しようとは何も欲しなかった。彼は「文字通りの不潔なネズミで、原則がなく、自覚もない」。
 Akhmatova について言うと、「カトリーヌの良き古き時代」を色狂って神秘的に懐かしんでいる。<中略>「修道女と堕落した女のいずれかと言うのは困難だ。おそらく、そのどちらでもあるという方がよい。欲望と祈りとが捻れ合っている」。
 レニングラードの雑誌がこうした者たちの作品を掲載したことは、文学が悪い方向にあることを示している。
 多数の作家たちは腐敗したブルジョア文学を真似ており、別の作家は今日的主題から逃れるために歴史を利用している。そして、ある者は、プーシキンを風刺すらした。
 文学の仕事は、青年たちに愛国心と革命的熱情とを喚起させることだ。
 レーニンが断定したように、文学は政治的で、かつ党の精神で染められたものでなければならない。ブルジョア文化の腐敗を暴き、ソヴィエト人民の偉大さを示さなければならない。今日にそうだとしてのみならず、将来にもそのようなものとして。//
 (5)ジダノフの明瞭な指令は、ソヴィエト文学のその後数年間の進路を設定した。
 イデオロギー的に無色の作家たちは、より悪くはならなかったとしても、沈黙を強いられた。
 Fadeyev のような正統派のほとんどは、新しい仕様書に合うように彼らの作品を修正した。
 「前向きの」文学でなければならないということは、実際には、ソヴィエト体制をそのままににではなく、イデオロギーがそうだと要求しているように表現する、ということだった。
 この結果として生じたのは、党を賛美しソヴィエトの生活の美しさを称揚する、奇妙に甘酸っぱい(saccharine)文学作品の洪水だった。
 印刷される言葉は、ほとんど完全に、ご都合主義者と阿諛追従者へと身を落とした。//
 (6)音楽が別のものとされたのではなかった。
 1948年7月、ジダノフは作曲家、指揮者、批評家の会議で演説を行い、ブルジョア音楽の腐敗を攻撃し、より多くの愛国的ソヴィエトがもつ多様性を呼びかけた。
 すぐに反応したのは、ジョージアの作曲家のMuradeli のオペラ<偉大な友情>だった。
 この作品は、最大限の意図としては、革命の直後にはロシアと闘ったがすみやかにソヴィエト体制に順応したコーカサスの民衆-ジョージア人、Lezgian 人およびOssetes 人-を表現していた。 
 ジダノフは、そのようなものでは全くない、と言った。すなわち、民衆たちは最初からソヴィエト権力のために闘ったのであり、ロシア人と協力してきたのだ、と。
 チェチェン人やIngush ではなかった唯一の者たちは-ジダノフはこのことに言及しなかったけれども誰もと同じくよく知っていた-、ナツィ=ソヴィエト戦争の間に<一塊で>追放された。そして、彼らの自治共和国は、地図から抹消された。
この例に満足しないでジダノフは、グリンカ、チャイコフスキーおよびムソルグスキーのごときロシアの偉大な伝統を継承することをしないで西側の新奇なものに霊感を求めている作曲家に対する一般的な攻撃を開始した。
 ソヴィエト音楽は、イデオロギーの他の様式よりも「立ち後れている」。作曲家たちは、「音楽の真実」や「社会主義リアリズム」から離れて「形式主義」に屈服している。
 ブルジョア音楽は反人民的であり、形式主義か自然主義かのいずれかで、どちらにせよ「観念論的」だ。
 ソヴィエト音楽は人民に奉仕しなければならない。すなわち、オペラ、歌、合唱曲には必要なものがあるにもかかわらず、形式主義に汚染された作曲家たちは些細なものだとしてそれを見下している。
 そのような作曲家は標題音楽(programme music)を横目で見ているが、ロシアの古典音楽のたいていは、その種から生まれている。
 党は絵画について、反動的で形式主義的な傾向をすでに克服し、VereshchaginやRepin の健康な伝統を再確立した。だが、音楽はまだ、後進的だ。
 ロシアの古典遺産は卓絶したものだ。そして、作曲家は、音楽劇の作者はもちろん、繊細な「政治的な耳」を持たなければならない。//
 (7)こうした説諭の結果は、遅滞なく表れた。
 ジダノフの演説の前に作曲されていたハチャトリアン(Khachaturian)のピアノ協奏曲をそのバイオリン協奏曲と比較すれば、そのことが分かる。
諸作品の中でも第九交響曲が批判されていたショスタコヴィチ(Shostakovich)は、スターリンの林業計画を称賛する一頌(ode)を作って修正を加えた。そして、多数のその他の音楽家が、彼らのイデオロギー上の障壁を修繕した。この当時に最も好まれた作曲様式は、党、国家そしてスターリンを賛美するオラトリオ(聖譚曲)だつた。//
 (8)文学や音楽に対しての運動は、この時期のスターリンの諸政策の全体的基本方針を反映していた。それは、戦争がかりに生起する場合に備えてのイデオロギー上の威嚇であり、物理的および精神的な再武装だった。
 この基本方針の基礎にあったのは、人間界を二つの陣営に分かつことだった。一つは、腐敗して、衰微している帝国主義の世界で、自己矛盾の重みでもってまもなく崩壊する運命にある。もう一つは「社会主義という平和の陣営」、進歩の城砦だ。
 ブルジョア文化はその定義上反動的で退廃的だ。そして、それに肯定的な価値を見る者は全て、大逆罪を犯しており、階級敵の利益に奉仕している。//
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 つぎの第3節の標題は、「1947年の哲学論争」。

1893/L・コワコフスキ著・第三巻第四章第1節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第四章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化(crystallization。独語訳版はAusformung=形成)。
 1978年英語版第三巻 p.117-p.121、2004年合冊版p.881-p.884。
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 第1節・戦時中という幕間。
 (1)1930年代の終わりまでに、マルクス主義は、ソヴィエトの党と国家の教理という、明瞭に定められた形態をとるに至っていた。
 その公式名称は、マルクス=レーニン主義(Marxism-Leninism)だった。これは、すでに説明してきたように、スターリンの個人的イデオロギー以外の何ものをも意味しなかった。マルクス、エンゲルスおよびレーニンからの理論の細片をわずかに含んではいた。しかし、四人の「古典的」教師たちが「発展」させ、「豊かに」した単一のイデオロギーだと称した。
 マルクスはこうして「古典的マルクス=レーニン主義」の中核へともち上げられ、スターリンの先駆者だとされた。
 マルクス=レーニン主義の本当(true)の内容はスターリンの諸著作が、もっと個別に言えば<小教程>が、解説した。//
 (2)すでに述べたように、全体主義国家を支配する階層の利益を抜きん出て映し出すこのイデオロギーの際立つ特質は、極端な厳格性と極端な融通性を結合していることだ。
 相反するように見えるこれら二つの性質は、お互いを補強し合っている。
 微小の逸脱すらなく反復するよう全ての者が義務づけられた、変わらない、型に嵌まった諸定式を集めたものだ、という意味で、それは厳格だった。
 しかし、その諸定式の内容はきわめて曖昧であり、どの段階でもどんな変化があっても、全ての国家政策をそれが何であっても正当化するために、用いることができた。//
 (3)ソヴィエト・マルクス主義がもつこの機能の最も逆説的な効果は、第二次大戦中の、それ自体の部分的な自己崩壊だった。
 (4)1930年代の後半、ヨーロッパはナツィによる攻撃という脅威で弱体化していた。
 戦争勃発に先行していた危機の間、スターリンを冠に戴くソヴィエト同盟は、全ての方向からの脅威に対抗して安全を確保すべく、巧妙で目敏い政策を追求した。
 宥和という西側諸勢力の臆病な政策によって、かりにドイツがその東方または西方の隣国を攻撃したとすればどうなるか、を予見することが困難になった。
 ドイツがチェコスロバキアを併合して従属させた後では、戦争が避けられないことがほとんどの人々に明白だった。
 1939年8月のドイツ・ソヴィエト不可侵協定〔独ソ不可侵条約〕は、秘密条項を含んでいた。その条項は、ポーランドを両国で分割することを定め、フィンランド、エストニアおよびラトヴィアをソヴィエトの利益圏に組み込んでいた。
 (リトアニアは、同年9月28日の協定の修正で、これらに付け加えられた。)
 同年9月1日、ソヴィエト同盟がこの協定を裁可した翌日に、ドイツはポーランドへと侵攻した。そして同月17日、ソヴィエト赤軍がポーランド東部地域を「解放する」ためとして侵入してきた。両国政府は一方で、ポーランドはこれを最後に消滅した、と宣言した。
 侵略者たちは、それぞれの占領地域での地下活動を弾圧して相互に助け合う秘密合意書を締結していた。
 (ナツィとソヴィエトの協力の期間、後者は、ソ連邦に収監されていた何人かのドイツ共産党員を引き渡した。その中には、物理学者のAlexander Weissberg も含まれていた。しかし彼は生き延びて、スターリンの粛清に関する事実を記録する(documentary)最初の諸文書を書くことができた。)
 ヒトラーとの協定は、ソヴィエトの国家イデオロギーの変形を生じさせた。
 ファシズムに対する批判が、かつ「ファシズム」という言葉自体が、ソヴィエトの宣伝活動から消滅した。
 西側の諸共産党、とくにイギリス共産党とフランス共産党は、宣伝活動の全体を戦争への反対に向け、ナツィ・ドイツと闘う西側帝国主義諸国を非難するよう指令された。
 フィンランド侵攻が失敗したことで、ロシアの軍事力の弱さが世界中に、とりわけ、その目標は最初からソヴィエトという「同盟者」(ally)だったヒトラーに、明らかになった。
 さらに大災難だったのは、1941年6月21日のドイツ侵攻のあとに生じた、ソヴィエト同盟のだらしない混乱ぶりだった。
 歴史研究者たちは、その驚くべき不用意さの原因について、今もなお議論している。
 軍隊の最良の幹部たちの粛清、スターリンの軍隊の無能力、ドイツによる早期の攻撃への警戒心を抱かなかったこと、およびソヴィエト国民が完全に心理的武装解除に陥っていたこと-ドイツ侵攻の一週間前に政府は戦争に関する風聞は「馬鹿げている」と公式に非難していた-、これらが、ソヴィエト国家を破滅の縁に追い込んだ一連の失敗の理由として挙げられている。//
 (5)ドイツ・ソヴィエト戦争は、ソヴィエト同盟と世界の全共産主義者たちにさらに、イデオロギーの変化をもたらした。
 西側の共産主義者たちはもはやその攻撃を反ナツィ勢力に向ける必要がなかった。自発的にファシズムを「当然の」敵だと見なすべきことになった。
 1941年6月まではポーランド国家の廃絶を従順に受容してたポーランドの共産主義者たちはその党を再建し、一部はソ連邦内で、主としてはドイツ占領下のポーランドの地下運動として、ナツィの侵略者と闘った。
 「正常な」残虐さと破壊とは別に、ロシアでの戦争はそれ自体のイデオロギー上の暴虐を生んだ。すなわち、東部領域からのポーランド人、とくに知識人の大量の追放と殺戮、ロシア軍の捕虜になっていたポーランド将校たちの大殺戮、ドイツとの戦闘がなお続いている間の八つの少数民族集団の<ひとかたまり>での再移住、および四つの自治民族共和国の解体-ヴォルガ・ドイツ人、クリミア・タタール人、the Kalmyksおよびチェコ人とthe Ingushes の人々の自治共和国のそれ。
 無数の生命がこうした追放の間に失われ、逃亡した人々は、生まれた故郷に再び戻ることは決してできなかった。//
 (6)他方で、戦争によって、ロシアのイデオロギー統制を緩和することが可能になった。
 貴重な生命のために闘う国民については、マルクス主義は心理的な兵器としては価値がないことが分かった。
 マルクス主義は、公的な宣伝から事実上は消失した。そして、スターリンはその代わりに、ロシア愛国主義とAlexander Nevsky、Suvrov およびKutukov のような英雄たちの記憶に訴えかけた。
 インターナショナル歌はソヴィエトの聖歌であることをやめ、ロシアの栄光を賛美する曲に替えられた。
 反宗教の煽動は止まり、戦闘的無神論者同盟は事実上解散し、一方で聖職者たちが、愛国主義の精神を維持するのを助けるために召喚された。//
 (7)1945年以降のソヴィエトの宣伝は、社会主義イデオロギーの栄光としてのヒトラーに対する勝利を象徴的に意味した。これは、戦闘をした男たちとソヴィエト民衆全体の心のうちに生きていた。
 そうではなく、反対のことが真実(truth)に近かっただろう。すなわち、国民はマルクス主義イデオロギーに関して忘れなければならず、代わりに民族的かつ愛国的な心情を吹き込まれなければならないということが、勝利のための必要条件だったのだ。むろん、十分条件ではなかったけれとも。
 ソヴィエト国家と民衆の戦争努力を別にすれば、莫大な量のアメリカ合衆国による軍事的援助やヒトラーの「イデオロギー的」まぬけさなどの、別の要因がそれぞれの役割を果たした。
 ヒトラーは、戦争の最初の数カ月の圧倒的な成功に幻惑されて、征服した地域を完全に厳格なナツィの教理に従属させた。ベラルーシとウクライナで「解放者」として振る舞うのではなく、人種主義の笞をふるい、住民たちを永遠に絶滅され、奴隷とされるべき劣等人間として扱った。
 (ドイツ人は、征服地域にある集団農場の解体すらしなかった。そのシステムによって生産物を徴発するのが容易になったからだ。)
 ナツィスの凶暴な残虐さによって、すべての民衆が、ヒトラー主義(Hitlerism)よりも酷いものはあり得ない、と確信した。
 最初の後退のあとで傑出した勇気と献身性を示した赤軍の兵士たちは、彼らの国家の存在のために闘った。マルクス=レーニン主義のためにではなかった。
 ロシアでは多数の者が、戦争はナツィズムに対する最終的な勝利で終わるだけではなく、国内での自由をも、少なくとも圧政の緩和をも、望んでいた。
 戦争に勝利すべく全力が捧げられるためにイデオロギー的統制が緩やかになったのだとすれば、そのように考えるのも当然だった。しかし、勝利のあときわめてすみやかに、そのような希望は幻想であることが明白になった。//
 (8)種々のことがあったにもかかわらず、多様なマルクス主義諸装置は、戦争中ずっと機能し続けた。
 ソヴィエト哲学の分野での最も重要な出来事は、G. F. Aleksandrov が編集した<哲学の歴史>全集の第三巻にある誤りを非難する、党中央委員会の布告だった。
 時代と並行して進み続けることをしない執筆者は、哲学者およびマルクス=レーニン主義の先駆者としてのヘーゲルを過大評価しており、ヘーゲルのドイツ排外主義を考慮していない、とされた。
 この非難は、反ドイツ宣伝のためになされた戦時中の多数の行為の一つにすぎなかった。しかし、マルクス=レーニン主義正統派の歴史文書に占めるヘーゲルの地位を破壊した。
 ソヴィエト哲学者のあるインタビューに答えて、スターリンは、ヘーゲルはフランス革命とフランス唯物論に対して貴族政的に反応したイデオロギストだ、と述べた。これ以降、この評価が哲学の分野で義務的なものになった。//
 (9)勝利の見込みによって事実上の安定を獲得したとき、征服と膨張への欲求を動機とするスターリンの政策は、ヨーロッパと世界の戦後秩序に関わり合った。
 西側連合国は、テヘラン協定とヤルタ協定によって事実上、東ヨーロッパに関するフリー・ハンドをソヴィエト同盟に与えた。
 バルト三国の公然たる併合とほとんど全ての隣国からの領土獲得に加えて、チャーチルとルーズヴェルトの不本意な同意を得て、ソヴィエト同盟は、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、およびより少ない程度でユーゴスラヴィアで支配的な地位を得た。
 これらの諸国で、また東ドイツでも、共産党体制が確立するのに、数年とかからなかった。しかし、この結果は、すでに先立って決められていたことだった。//
 (10)ある範囲の歴史研究者たちは、併合や赤軍が占領した諸国への共産主義の押し付けは帝国主義諸国の企図によるのではなく、ソヴィエト同盟が必要とした可能なかぎりでの「友好」なまたはむしろ卑屈な諸国家に包囲されていることによる安全確保への関心による、と論じた。
 しかし、これは不必要な区別だ。なぜなら、全ての国家がソヴィエト同盟に従属していないかぎりは、ソヴィエト同盟の安全についての絶対的な保障などあり得ないのだから。完全に有効であるためには、世界全体がソヴィエトの支配下に置かれるまでは、「防衛」の過程は継続されなければならないのだ。//
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 第1節、終わり。第四章の途中だが、第三巻の試訳は、ここでいったん区切る。
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