秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

マリノフスキー

1743/論駁者・レーニンの天才性①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 
第2巻/第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳の前回のつづき。三巻合冊版p.772-775、分冊版・第2巻p.520-524。
 <>はイタリック体=斜体字。
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 第10節/論争家としてのレーニン・レーニンの天才性①。
 
大量のレーニンの刊行著作は、攻撃と論争(論駁、polemics)で成り立っている。
 読者は必ずや、彼の文体の粗暴さ(coarseness)と攻撃性(agrressiveness)に強い印象を受ける。それらは、社会主義の文献の中で、並び立つものがない(unparalleled)。
 彼の論駁は、愚弄(insults)とユーモアの欠けた嘲笑(mockery)で満ちている(実際、彼にはユーモアのセンスが少しもなかった)。
 レーニンが攻撃しているのが「経済主義者」、メンシェヴィキ、カデット(立憲民主党)、カウツキー、トロツキーあるいは「労働者」対立派のいずれであれ、違いはない。
 彼の対抗者がブルジョアジーや土地所有者の追従者でないとすれば、その人物は、娼婦、道化師、嘘つき、屁理屈を言う詐欺師、そうしたもの、だ。 
 こうした論争のスタイルは、その日の話題に関するソヴィエトの著作物での義務的なものになることになった。ステレオタイプ化し、個人的な情熱を欠く官僚的な形式だったが。
 かりにレーニンの対抗者がたまたまレーニンが同意する何かを言ったとすれば、その人物は、それが何であれ、「認めることを強いられた」。
 論争が敵の陣地内で勃発すれば、その構成員の一人は他者に関する真実を「うっかり口にした」。
 書物または論考の著者がかりに、レーニンは言及すべきだったと考える何かに言及しなかったとすれば、その人物は「もみ消し」をした。
 社会主義者のそのときどきのレーニン敵対者は、「マルクス主義のイロハを理解していない」。
 しかしかりにレーニンが係争の問題点に関する考えを変えれば、「マルクス主義のイロハを理解していない」その人物は、レーニンがその日以前に主張していたものを主張している。
 誰もがつねに、最悪の意図を持っているのではないかと疑われている。
 きわめて些末な問題についてレーニンとは異なる意見をもつ者は誰でも、欺瞞者であり、またはせいぜいのところ、馬鹿な子どもだ。//
 このような技巧の目的は個人的な嫌悪を満足させることではなく、ましてや真実に到達することではなく、実践的な目標を達成することだった。
 レーニン自身が、1907年にある場合にこのことを確認した(他の誰かに関して言うだろうように、「思わず口を滑らせた」)。
 メンシェヴィキとの再統合の直前に、メンシェヴィキに対して「許し難い」攻撃をしたとして、中央委員会は党の審問所にレーニンを送った。
 レーニンは中でもとくに、『ペトルブルクのメンシェヴィキは、労働者の票をカデットに売り渡す目的でカデットとの交渉に入った』、そして『カデットの助けで労働者たちの中の人物をドゥーマ〔帝制下院〕にこっそりと送り込む取引をした』と、彼の小冊子で書いた。
 レーニンは審問の場で、自分の行動をつぎにように説明した。
 『この言葉遣い(つまり上に引用したばかりのもの)は、このような行為をする者たちに対する読者の憎悪、反感や軽蔑を誘発するために計算したものだ。
 この言葉遣いは、説得するためにではなく、対抗者の隊列を破壊してしまうために計算したものだ。
 論敵の過ちを是正するためではなく、彼らを破壊し、その組織を地上から一掃するためのものだ。
 この言葉遣いは、じつに、論敵に関する最悪の考え、最悪の疑念を呼び起こすような性質のもので、またじつに、説得したり是正したりする言葉遣いとは対照的な性質のものだ。それは、プロレタリア-トの隊列に混乱を持ち込むのだ。』(+)
 (全集12巻424-5頁〔=日本語版全集12巻「ロシア社会民主労働党第五回大会にたいする報告」のうち「党裁判におけるレーニンの弁論(または中央委員会のメンシェヴィキ部分にたいする告訴演説」)433頁〕。)
 しかしながらレーニンは、これについて悔い改める気持ちを表明していない。
 彼の見解によれば、論拠に訴えるのではなく憎悪を駆り立てることは、反対者が同じ党の構成員でなければ、正当なこと(right)だった。
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキは、分裂のために二つの別々の政党だった。
 レーニンは、中央委員会をこう非難した。
 『冊子を書いた時点で、(形式的にではなく本質的に)その冊子が起点とし、その目的に奉仕する単一の党は存在していなかった、という事実に関して、沈黙したままでいる。<中略>
 労働大衆の間に、異なる意見を抱く者たちに対する憎悪、反感や軽蔑等を体系的に広げる言葉遣いで党員同志に関して書くのは、間違っている(wrong)。
 しかし、脱落した組織に関してはそのような調子で<書くことができるし、そう書かなければならない>。
 何故、そうしなければならないのか?
 分裂が生じたときには、脱落した分派から指導権を<奪い返す>こと(to wrest)が義務だからだ。』(+)
 (同上、425頁〔=日本語版全集同上434頁〕。)
 『分裂に由来する、許容される闘争に、何らかの限度があるのか?
 そのような闘争には、党のいかなる基準も設定されていないし、存在し得ない。なぜなら、分裂とは、党が存在しなくなることを意味するからだ。』(+)
 (428頁〔=日本語版全集同上437頁〕。)
 我々は、レーニンを刺激してこう白状させたことについて、メンシェヴィキに感謝してよい。レーニンの言明は、彼の全生涯の活動で確認される。
 いかなる制約によっても、遮られない。重要なのは、目的を達成することなのだ。//
 レーニンは、スターリンとは違って、個人的な復讐心を動機として行動することはなかった。
 レーニンは、人々を-強調されるべきだが、彼自身も含めて-もっぱら政治的な器具として、かつ歴史的過程の道具として、操作(treat)した。
 このことは、彼の最も顕著な特質の一つだ。
 かりに政治的な計算で必要ならば、彼はある日にある人物に泥を投げつけ、翌日にはその人物と握手することができた。
 レーニンは1905年の後で、プレハノフを誹謗中傷した。しかし、プレハノフが清算主義者および経験批判論者に反対していることを知って、そして彼の名前の威信によって貴重な盟友だと知ってただちに、そうすることをやめた。
 1917年になるまでは、レーニンはトロツキーに対して呪詛を投げつけた。しかし、トロツキーがボルシェヴィキ党員になり、きわめて才能のある指導者であり組織者であることが分かるや、その全てが忘れられた。
 レーニンは、10月の武装蜂起計画に公然と反対したことについて、ジノヴィエフとカーメネフの裏切りを非難した。しかしのちには、彼らが党やコミンテルンの要職に就くのを許した。
 誰かを攻撃しなければならなかったときには、個人的な考慮は無視された。
 レーニンは、基本的な問題について同意することができると考えれば、論争を棚上げすることのできる能力があった。-例えば、党が第三ドゥーマ〔帝制下院〕に議員を出すこに関してボグダノフがレーニンに反対するまでは、彼は、ボグダノフの哲学上の誤りを看過した。
 しかし、レーニンがある時点で重要だと考える何かに論争が関係していれば、容赦なく反対意見を提示した。
 彼は、政治的な抗論において、個人的な忠誠に関する疑問を嘲弄した。
 メンシェヴィキがボルシェヴィキ指導者の一人だったマリノフスキーをオフラーナ(Okhrana)の工作員だと責め立てたとき、レーニンはこの「根本的な誹謗」にきわめて激烈に反駁した。
 二月革命の後で、メンシェヴィキの言い分は本当(true)だったことが明らかになった。それに対してレーニンは、ドゥーマ議長のロジヤンコ(Rodzyanko)を攻撃した。
 ロジヤンコはマリノフスキーの任務を知っていたが、彼の議員辞職をもたらし、(この当時に悪意をもってロジヤンコの政党を報じていた)ボルシェヴィキに言わなかった。それは、彼が内務大臣から〔マリノフスキーに関する〕情報を受けとったときに決して口外しないと「名誉」に賭けた約束をした、という、いかにもありそうな理由にもとづいてだ、と。
 レーニンは、ボルシェヴィキの敵たちが「名誉」という口実でもってボルシェヴィキを助けなかったことに、きわめて強い、偽りの道徳的(pseudo-moral)憤慨を感じた。//
 もう一つのレーニンの特徴は、彼の論敵たちはつねに悪党で裏切り者だったと示すために、敵意をしばしば過去へと投影させる、ということだ。
 1906年にレーニンは、ストルーヴェ(Struve)はすでに1894年に反革命者だった、と書いた。
 (「カデットの勝利と労働者党の任務」、全集10巻265頁〔=日本語版全集10巻253-4頁〕。)(*秋月注1)
 しかし誰も、1895年のストルーヴェに関するレーニンの議論からこのことを想定することはできなかった、その当時、二人はまだ協力関係にあったのだから。
 レーニンは数年にわたって、カウツキーを最も高い権威のある理論家だと見なしていた。しかし、カウツキーが戦争の間に「中央主義」の立場を採った後では、1902年の冊子で彼を「日和見主義者」だと非難した。
 (<国家と革命>、全集25巻479頁〔=日本語版全集25巻「国家と革命」のうち「第6章・日和見主義者によるマルクス主義の卑俗化」以降、516頁以降を参照〕。)
 また、カウツキーは1909年以降はマルクス主義者として執筆していなかった、と主張した。
 (1915年12月、ブハーリンによる冊子への序言。全集22巻106頁〔=日本語版全集22巻「エヌ・ブハーリンの小冊子『世界経済と帝国主義』の序文」115頁参照〕。)(*秋月注2)
 「社会排外主義者」に対する、1914年~1918年の攻撃の中でレーニンは、帝国主義戦争とは何の関係もない諸政党に呼びかけた第二インターナショナルのバーゼル宣言を援用した。
 しかし、第二インターナショナルと最終的に断絶した後では、その宣言は「変節者」による欺瞞文書だった。
 (1922年、「Publicist に関する覚え書」。全集33巻206頁〔=日本語版全集33巻「政論家の覚え書」203-4頁〕。)(*秋月注3)
 長年にわたってレーニンは、自分は社会主義運動内部のいかなる分離的傾向も支持せず、自分とボルシェヴィキはヨーロッパの社会民主主義者、とくにドイツ社会民主党と同じ原理を抱いてきた、と主張した。
 しかし、1920年に<左翼共産主義-小児病>で、政治思想の一種としてのボルシェヴィズムは、まさにその通りなのだが、1903年以来存在していたことが、明らかにされた。
 歴史に関するレーニンの遡及的な見方は、むろん、スターリン時代の体系的な捏造(falsification)とは比べものにならなかった。スターリン時代には、個々人と政治的諸運動に関するその当時の評価は全ての過去の年代について同じく有効だということが、何としてでも示されなければならなかったのだ。
 この点では、レーニンは、まだきわめて穏和な始まりを画したにすぎなかった。そして彼は、思想に関する合理的な流儀(mode)にしばしば執着した。例えば、プレハノフはマルクス主義の一般化に多大の貢献をした、プレハノフの理論上の著作は再版されるべきだと、プレハノフはそのときには完全に「社会排外主義者」の側に立っていたにもかかわらず、最後まで主張した。//
 レーニンは彼の著作の政治的な効果についてのみ関心があったがゆえに、彼の著作は反復で満ちている。
 彼は、同じ考えを何度も何度も(again and again)繰り返すことを怖れなかった。彼は、文体上の野心を持たず、党や労働者に対する影響にのみ関心があった。
 レーニンの文体はその党派的な論争の際や党の活動家に向かって表現しているときに最も粗暴だが、労働者に対してはかなり易しい言葉で語る、ということは記しておくに値する。
 労働者に対して向けられた彼の著作は、プロパガンダの傑作だ。ときどきの主要な諸問題に関する各政党の立場を簡潔かつ明快に説明している、<ロシアの諸政党とプロレタリア-トの任務>という小冊子(1917年5月)のように。//
 理論的な論争についても同様に、レーニンは論拠を詳細に分析することよりも、言葉と悪罵によって反対者を打ち負かすことに関心があった。
 <唯物論と経験批判論>はその際立った例だが、他にも多数の例がある。
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 (+) 日本語版全集を参考にしつつ、ある程度は訳を変更した。
 (*秋月注1) 日本語版全集10巻253-4頁から一部をつぎに引用する。「諸君の友人であるストルーヴェ氏を、反革命におしやったのはだれであったか、それはまたいつだったか?/ストルーヴェ氏は、彼の『〔ロシア革命の経済的発展の問題にたいする〕批判的覚え書』で、マルクス主義にブレンターノ主義的な但し書をつけた1894年には、反革命家であった」。
 (*秋月注2) 日本語版全集22巻115頁からつぎに引用する。「…。というのは、彼はこことを、すでに1909年に特別の著述-彼がマルクス主義者としてまとまりのある結論をもって執筆した最後のもの-のなかでみとめていたのである」。
 (*秋月注3) 日本語版全集33巻203-4頁からつぎに引用する。「20世紀の人々は、変節者、第二および第二半インターナショナルの英雄たちが1912年と1914~1918年に自分や労働者を愚弄するのにつかったあの『バーゼル宣言』の焼きなおしでは、そうやすやすと満足しはしないであろう」。
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 段落の途中だが、ここで区切る。②へとつづく。

1591/党と運動③-L・コワコフスキ著16章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976)。
 第16章・レーニン主義の成立。
 前回のつづき。
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 第2節・党と労働者運動-意識性と自然発生性③。
 レーニンの新しさは、第一に、自然発生的な労働者階級運動は、それが社会主義の意識を発展させることができず、別の種類の意識も存在しないために、ブルジョア意識をもつに違いない、という言明のうちにある。
 この考えは、レーニンが引用するカウツキーの議論のいずれにも、マルクス主義の諸命題のいずれにも、従っていない。
 レーニンによれば、全ての社会運動は、明確な階級的性格をもつ。
 自然発生的な労働者運動は社会主義の意識を、すなわち言葉の適切な理論的および歴史的意味でのプロレタリアの意識を生み出すことができないので、奇妙に思えるのだが、社会主義政党に従属しなければ労働者運動はブルジョアの運動だ、ということになる。
 これは、第二の推論によって補充される。
 言葉の真の意味での労働者階級運動、すなわち政治的革命運動は、労働者の運動であることによってではなく、正しい(right)観念大系を、つまり定義上『プロレタリア』的であるマルクス主義の観念大系(ideology)を持っていることによって、明確になる。
 言い換えれば、革命党の階級構成は、その階級的性格を決定するに際して重要な意味を持たない。
 レーニンは一貫して、この見地を主張した。そして例えば、イギリス労働党はその党員は労働者であるがブルジョア政党だと考える。一方で、労働者階級に根源を有しない小集団も、マルクス主義観念大系への信条を告白しているかぎりで、プロレタリアートの唯一つの代表だと、プロレタリアの意識の唯一つの具現体だと自己宣告する資格がある、と考える。
 これは、レーニン主義の諸政党が、現実の労働者の間では最小限度の支持すら得なかった政党を含めて、かつてから考えてきたことだ。//
 以上のことは勿論、レーニンは自分の党の構成に無関心だったことを意味していないし、レーニンが知識人たちのみから成る革命組織を設立しようと意図したことを意味していない。
 他方でレーニンは、党における労働者の割合は可能なかぎり高くあるべきだと、しばしば主張した。また彼は、知識階層を極度の侮蔑でもって処遇した。
 『知性的』との言葉はレーニンの語彙の中の蔑称であり、決まって、『優柔不断な、頼りにならない、紀律のない、個人主義にとらわれた、移り気な、空想的な』等々を意味するものとして使われた。
 (レーニンが最も信頼した党活動家たちは、労働者階級の出自だった。スターリンやマリノフスキー(Malionovsky)のように。
 後者は、のちに判るようにオフラーナ(Okhrana、ロシア帝国政治秘密警察部局)の工作員でレーニンの最も近い協力者としてきわめて貴重な奉仕をその主人のためにしたのだったが、党の全ての秘密を自由に使えた。)
 レーニンが労働者を知識人で『置き換える』のを意図したこと、あるいはたんに知識人だという理由で知識人を社会主義の意識の体現者だと見なしたこと、についての疑問は存在し得ない。
 その具現体とは<党>であり、述べたように、知識人と労働者の間の区別が消失する、特殊な種類の一体だった。
 知識人たちは知識人であることをやめ、労働者たちは労働者であることをやめた。
 いずれも、厳格に中央集中化した、よく訓練された革命組織の構成分子だった。//
 かくして、レーニンによると、党は『正しい(correct)』理論上の意識を持って、現実の経験上のプロレタリアートが自分たち自身または党に関して考えているかもしれないこととは無関係に、プロレタリアの意識を体現化する。
 党はプロレタリアートの『歴史的』利益がどこにあるかを知っており、いかなる瞬間においてもプロレタリアートの真の意識がどこにあるべきかを知っている。その経験上の意識は、一般的には遅れていると分かるだろうとしても。
 党は、そうすべきだとプロレタリアートが合意しているがゆえにではなくて、社会の発展法則を知り、マルクス主義に従う労働者階級の歴史的使命を理解しているがゆえに、プロレタリアートの意識を代表する。
 この図式では、労働者階級の経験上の意識は、鼓舞させる源としてではなく、障害物として、克服されるべき未熟な状態として現われる。
 党は、現実の労働者階級から、それが実践において党の支援を必要としている場合を除いて、完全に自立したものだ。
 こうした意味で、党の主導性に関するレーニンの教理は、政治上は、労働者階級は『置き換えられ』ることができるし、そうされなければならない。--しかしながら、知識人によってではなく、党によって。
 党は、プロレタリアの支援なくして有効に活動することはできない。しかし、政治的な主導権を握り、プロレタリアートの目標は何であるはずかを決定するのは、唯一つ、党だけだ。
 プロレタリアートには、自分の階級の目標を定式化する能力がない。そう努力したところで、その目標は、資本主義の制限の範囲内に限定された、ブルジョアのそれになるだろう。//
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 秋月注記/ロマン・マリノフスキー(Roman Malinovsky)について、リチャード・パイプス著・ ロシア革命(1990)の第9章第4節に論及がある。
 すでに試訳して紹介した、「レーニンと警察の二重工作員①・②=マリノフスキーの逸話①・②-R・パイプス著」、この欄の№1463・№1464=1917年3/22付と同年3/23付を参照。
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 ④へとつづく。

1464/レーニンと警察の二重工作員②-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)②〔つづき〕。  
 ボルシェヴィキ議員団の長が突然に、説明もされずにドゥーマから消え失せた。これによりマリノフスキーの経歴は終わったはずだった。しかし、レーニンは彼の側に立って、『清算人』と中傷して非難しつつ、メンシェヴィキの追及者たちからマリノフスキーを守った。
 この場合には、重要な仲間に対するレーニンの個人的な信頼がその合理的判断を妨げた、と言うのは可能だ。しかし、そうではないように見える。 
 マリノフスキーは、1918年の裁判で、レーニンは自分の前科について知っていたと語った。このような記録があればロシアではドゥーマ選挙に立候補することができないので、内務省がこの情報を使ってマリノフスキーが議会に入るのを阻止しなかったという事実からだけでも、レーニンはマリノフスキーの警察との関係を察知したに違いないだろう。
 ロシアの警察挑発問題に関する重要な専門家だったプルツェフは1918年に、マリノフスキーの裁判で証言した帝制時代の警察官との会話を通じて、つぎのように結論した。
 すなわち、『マリノフスキーによれば、彼の過去には通常の犯罪ではなく自分が警察の手のうちにあった-つまり挑発者だった-ことも隠されているということを、レーニンは理解していたし、理解せざるをえなかった』、と。(110)
 なぜレーニンは自分の組織に警察工作員を維持しようとしたのかについて、帝制時代の上級治安官僚だったアレクサンダー・スピリドヴィッチ将軍が、つぎのように示唆している。
 『ロシアの革命運動の歴史には、革命的組織の指導者がその構成員のうち何人かに政治警察との関係に入ることを認める、いくつかの大きな事例があった。彼ら構成員は、秘密情報員として、警察に瑣末な情報を与える代わりに、その革命的党派にとってもっと重要な情報を警察から引き出そうという狙いをもっていた。』(111)
 レーニンが1917年6月〔いわゆる二月革命のあと、ボルシェヴィキ「七月蜂起」の前-試訳者〕に臨時政府の委員会の前で証言した際、彼は実際にこのような方法でマリノフスキーを使ったのかもしれないことを仄めかした。
 『この事件については、また次の理由にもとづいて、私は挑発者の存在を信じない。かりにマリノフスキーが挑発者であるのならば、わが党が<プラウダ>やその他の合法的な組織全体から得るよりも多くの成果を、オフランカ(Ohkranka〔帝制時代の秘密警察部門〕)は得ていないだろう。 
 ドゥーマに挑発者を送り込み、また彼のためにボルシェヴィキの対抗者〔メンシェヴィキ〕を追い出すなどをしたが、オフランカは、ボルシェヴィキの粗野なイメージに支配されているのだ。-漫画本の滑稽な絵だと言おう。ボルシェヴィキは、武装蜂起を組織するつもりはない。
 オフランカの立場からすれば、あらゆる糸を手繰り寄せるために、マリノフスキーをドゥーマに、そしてボルシェヴィキの中央委員会に入り込ませることは、何らかの価値がある。
 しかし、オフランカがこの二つの目的を達成したときにようやく、マリノフスキーはわれわれの非合法の基地と<プラウダ>とを繋ぐ、長く固い鎖の連結物の一人であることが判明したのだ。』(*)
 レーニンはマリノフスキーの警察との関係を知っていたことを否認したけれども、上のような理由づけは、党の目的を推進させるために警察工作員を使ったことについての、もっともらしい釈明のように感じられる。-つまり、他にとりうる手段がないときに、大衆の支持を獲得するために最大限に合法活動の機会を利用するため、だったのだ。(+)
 マリノフスキーが1918年に裁判での審尋に進んだとき、ボルシェヴィキの訴追者は実際に、マリノフスキーはボルシェヴィキに対してよりも帝制当局に対してよりひどい害悪をなしたと証言するように警察側の証人に圧力をかけた。(112)
 マリノフスキーが自分の自由意思で1918年11月という赤色テロルが高潮しているときにソヴェト・ロシアに帰ってきたこと、そしてレーニンと逢うことを強く求めたことは、マリノフスキーは無罪放免になることを期待していたことを強く示唆している。 
 しかし、レーニンには、もはや彼の使い道がなかった。彼は裁判に出席はしたが、証言しなかった。
 マリノフスキーは、処刑された。//
 マリノフスキーは実際、レーニンのために多くの価値ある仕事をした。
 彼が<プラウダ>および「nashput」の創刊を助けたことは、すでに述べた。
 加えるに、ドゥーマで彼が演説をする際には、レーニン、ジノヴィエフその他のボルシェヴィキ指導者が書いた文章を読んだ。演説の前に彼はそれらの原稿を警察部門の副局長であるセルゲイ・ヴィッサーリオノフに提出し、校訂を受けた。 
 このように方法によって、ボルシェヴィキの宣伝文章は国じゅうに広がった。
 特筆しておきたいのは、マリノフスキーは注意深くかつ忍耐強く、ロシアのレーニンの支持者とメンシェヴィキとが再統合することを妨害したことだ。
 第四ドゥーマが開催されたとき、7人のメンシェヴィキ議員と6人のボルシェヴィキ議員は、レーニンまたは警察が望んだ以上に、協力的精神でもって行動した。実際、レーニンが不一致の種を植え付けるために個人的に出席していない場合には通常のことだったが、彼らは一つの社会民主党の議員団のごとく振る舞った。
 二つの党派を離れさせ、そうしてそれらを弱体化させることは、警察が設定した最優先の使命だった。ベレツキーによれば、『マリノフスキーは、両党派間の溝を深めることのできるいかなる事でもするように命令されていた。』(114)
 それ〔二党派間の溝の深まり〕は、レーニンの利益と警察の利益とが合致している、ということだ。(++)//
 レーニンの独裁的な手法とその完全に欠如した道徳感情は、彼の熱心な支持者をある程度は遠ざけた。陰謀と瑣末な争論に飽き、覆いかかる精神主義(spritualism)の風潮に囚われて、何人かの最も賢いボルシェヴィキは、宗教と観念哲学のうちに慰めを追求し始めた。1909年に、ボルシェヴィキ幹部たちの支配的な傾向は、『神の建設』(Bogostroitel'stvo)として知られるようになった。  
 のちの『プロレタリアの文化』の長のボグダノフやのちの啓蒙人民委員〔大臣〕のA・V・ルナチャルスキーに教え導かれた運動は、非ラジカル知識人の間で有名な『神の探求』(Bogoiskatel'stvo)に対する社会主義者の反応だった。 
 <宗教と社会主義>という書物の中でルナチャルスキーは、社会主義を一種の宗教的体験、『労働者の宗教』だと表現した。
 このイデオロギーの提唱者たちは1909年に、カプリに学校を設置した。 
 こうした展開全体を全く不愉快に感じていたレーニンは、反対の二つの学校を組織した。一つは、ボローニャで、もう一つは、パリ近くのローンジュモで。
 1911年に設立された後者は一種の労働者大学で、ロシアから送られた労働者が、社会科学と政治についての体系的な教条教育(indoctrinnation 〔洗脳〕)を受けていた。教師陣の中には、レーニンや彼の最も忠実な支持者であるジノヴィエフとカーメネフもいた。
 今度は学生に偽装した警察情報者が不可避的に潜入していて、ローンジュモでの教育について報告した。
 『授業の断片を生徒が丸暗記することで成り立っている。なされる授業は疑ってはいけないドグマの性格を帯びており、決して批判的な分析や合理的で意識的な学習を奨励するものではない。』(115) //
  1912年までに、マルトフがレーニンの無節操な財政取引や支配力を得るために多くは不法に獲得した金の使い方を公に明らかにしたあとだったが、二つの党派は一つの党だと装うことを止めた。
 メンシェヴィキは、ボルシェヴィキの行動は社会民主党運動を汚辱するものだと考えた。
 1912年の国際社会主義者事務局の会合で、プレハーノフは公然と、レーニンを窃盗者だと責め立てた。
 メンシェヴィキは、レーニンが犯罪や誹謗中傷に頼ったことや労働者を意識的に誤導したことに唖然としたと表明したにもかかわらず、また、レーニンを『政治的ペテン師』(マルトフ)と呼んで非難したにもかかわらず、レーニンを除名することをしなかった。一方、その咎はエデュアルド・ベルンシュタインの『修正主義』に共感したことだけのストルーヴェは、すみやかに追放された。
 レーニンがこれらを深刻に受け止めなかったしても、何ら不思議ではない。//
 二党派の最終的な分裂は、レーニンのプラハ大会で、1912年1月に起きた。それ以降は、彼らは共同の会合を開かなかった。
 レーニンは『中央委員会』という名前を『私物化』して、もっぱら強硬なボルシェヴィキたちで構成されるように委員を指名した。
 頂部に断絶があるのはもはや完璧なことだったが、ロシア内部でのメンシェヴィキおよびボルシェヴィキの幹部や一般党員は、しばしばお互いを同志と見なし続けて一緒に活動した。//
  (*) レーニンのマリノフスキーに関する証言は、委員会の記録にかかる数巻の出版物にも(Padenie)、レーニンの<選集>にも掲載されていない。
  (+) タチアナ・アレクジンスキーは、中央委員会に警察情報員が加入している可能性についての疑問が生じたとき、ジノヴィエフがゴーゴルの<将軍検査官>から『良い一家は、がらくたすらも利用する』を引用したことを憶えている。〔文献省略〕  
  (++) レーニンがマリノフスキーの警察との関係を知っていた蓋然性(likelihood)は、認められている。ブルツェフに加えて、ステファン・ポッソニー(1964, p.142-43.)によって。
 マリノフスキーの自伝は、ボルシェヴィキは警察がマリノフスキーによってボルシェヴィキに関して知ったよりも少ない情報しか、マリノフスキーから警察に関する情報を得ていないという理由で、この仮説を拒否している(Elwood, マリノフスキー, p.65-66.)。
 しかし、マリノフスキーが彼の二重工作員性に関してレーニンの陳述およびスピリドヴィッチの言明を無視していることは、上に引用した。
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 第10節につづく。

1463/レーニンと警察の二重工作員①-R・パイプス著9章9節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第9節・マリノフスキーの逸話(Episode)

 1908年に、社会民主党の運動は衰退に入った。その理由の一つは、知識人の革命への熱望が冷めたこと、二つは警察の潜入によって地下活動がほとんど不可能になったことだ。
 治安維持機関は、上から下まで、社会民主党の組織の中に入り込んだ。党員たちは逃げる前に日に晒され、逮捕された。
 メンシェヴィキはこの状況に、合法活動をすることを強調する新しい戦略でもって対応した。すなわち、出版物発行、労働組合の組織化、ドウーマでの活動。 
 いくらかのメンシェヴィキは、社会民主党を労働者党に置き換えることを望んだ。
 彼らは非合法活動をいっさい放棄するつもりではなかった。しかし、綱領問題の大勢は、党が労働者に奉仕するほど多くは労働者を指導しない、民主主義的な労働組合主義へと進んだ。
 レーニンには、これは呪詛の対象だった。彼はこのような戦略を支持するメンシェヴィキに、『清算人(liquidators)』とのラベルを貼った。彼らの狙いは党を清算し、革命を放棄することだからだ。
 レーニンの用語である『清算人』は、反革命主義者と同じ意味になった。//
 にもかかわらずレーニンも、警察による弾圧によって生じた困難な条件に適応しなければならなかった。
 彼は、対応するために、自分の組織に潜入した警察工作員を自分の目的で利用した。
 以下について確実なことは何もありえないけれども、そうでなくとも幻惑的な、工作員挑発者(agent provocateur)・マリノフスキーの事件は、最も納得できる説明になっているように見える。マリノフスキーは、しばらくの間(1912-14年)、ロシアのレーニン党派の代議員で、ドゥーマ・ボルシェヴィキ議員団の代表者だった。 
 それは、ウラジミール・ブルツェフの見解では、もっと有名なエヴノ・アゼフ事件を超えすらする重要性をもつ、警察による挑発の事件だった。(106)//
 レーニンは、支持者たちに第一回ドゥーマの選挙をボイコットするように命令した。その一方、メンシェヴィキは問題をその地方組織に委ね、ジョージア支部を除く多くの地方組織はボイコットを採択した。
 そのあとでレーニンは気持ちを変え、1907年に仲間たちのほとんどの意向を無視して、動く〔立候補する〕ようにボルシェヴィキに命じた。
 彼はドゥーマを、自分のメッセージを広げる公共広場として利用することを意図した。
 マリノフスキーが計り難い価値をもつことが判るのは、まさにドゥーマにおいてだった。//
 民族的にはポーランド人で、職業上は金属労働者、そして副業は窃盗というマリノフスキーは、窃盗と家宅侵入窃盗の罪で三つの収監判決を受けていた。
 彼自身の証言によれば、刑事記録〔前科〕のために満足させられない政治的野心に駆られて、またつねに金が必要だったために、マリノフスキーは、奉仕しようと警察当局に申し出た。 
 警察の指示により、彼はメンシェヴィキから向きを変えて、1912年1月にボルシェヴィキのプラハ大会に出席した。
 レーニンはきわめて好ましい印象を彼に持ち、『優秀な仲間』、『傑出した労働者指導者』だとマリノフスキーを褒めた。(107)
 レーニンはこの新規加入者を、裁量でもって党員を加える権限のある、ボルシェヴィキ中央委員会のロシア事務局員に任命した。 
 マリノフスキーはロシアに帰って、スターリン支持者を広げるためにこの権限を利用した。(108)
 内務大臣の命令にもとづき、マリノフスキーの刑事記録〔前科〕は抹消され、ドゥーマへと立候補することが許された。
 警察の助けで選出され、彼は、議員の免責特権を用いて、『ブルジョアジー』や社会主義『日和見主義者』を攻撃する燃えるがごとき演説を行った。それらの多くは治安機関によって準備され、全ては了解されていた。
 社会主義サークル内には彼の忠誠さについて疑問の声があつたにもかかわらず、レーニンは無条件でマリノフスキーを支持した。
 マリノフスキーがレーニンのためにした最大の仕事の一つは、-警察の許可を得てかつありそうなことだが警察の財政支援もおそらく受けて-ボルシェヴィキの日刊紙『プラウダ(pravda)』の創刊を助けたことだった。
 マリノフスキーは新聞の財産管理者として働いた。編集権は、警察の別の工作員、M・E・チェルノマゾフに渡った。 
 警察によって保護された党機関は、ボルシェヴィキの考えをメンシェヴィキ以上に広くロシア内部に伝搬させることができた。
 発行するために、警察当局は時たま<プラウダ>を繊細にさせたが、新聞は、発行され続けて、マリノフスキーや他のボルシェヴィキがドゥーマで行った演説の文章やボルシェヴィキの書きものを印刷し続けた。レーニンは一人で1912年と1914年の間に、265の論文をこの新聞に掲載した。
 警察は、マリノフスキーの助けによって、モスクワのボルシェヴィキ日刊紙「Nashput」をも創刊した。(109)
 このような仕事に就いている一方で、マリノフスキーは、定期的に党の秘密を警察に渡すという裏切り行為をしていた。
 われわれがのちに知るはずだが、レーニンは、この取引で得たものの方が、失ったものよりも大きいと信じた。//
 二重工作員としてのマリノフスキーの経歴は、内務省の新しい副大臣〔政務次官〕、V・F・ジュンコフスキーによって突然に終焉を告げられた。
 反諜報活動の経験のない職業軍人であるジュンコフスキーは、固く決心して、警察官たちの一団を『浄化』し、その政治活動を止めさせようとした。彼は、いかなる形態での警察の挑発についても、妥協をしない反対者だった。(*1) 
 任務を履行しているうちに、マリノフスキーは警察の工作員で、警察がドゥーマに浸透していることを知ったジュンコフスキーは、警察の大スキャンダルになることを恐れて、ドゥーマ議長のラジアンコに、その事実を内密に通知した。(*2)  
 マリノフスキーは退任を余儀なくされ、彼の年収分の6000ルーブルが与えられ、そして国外に追放された。//
  (*1) Badenie, Ⅴ, p.69, Ⅰ, p.315。ジュンコフスキーは、軍隊や第二次学校の中の警察細胞を廃止した。その理由は、軍人や学生の中で連絡し合うのは適切でない、ということだった。
 警察庁長官で、マリノフスキーの直接の監督者だったS・P・ベレツキーは、このような手段〔警察細胞の廃止〕は、政治的な反諜報活動の組織を混乱させるものだと考えた。Badenie, Ⅴ, p.70-71, p. 75。
 ベレツキーは、チェカ〔のちにボルシェヴィキ政府=レーニン政権が設立した政治秘密警察〕によって1918年9月に射殺された。これは、赤色テロルの波の最初のものだった。
  (*2) ドゥーマでのマリノフスキーの扇動的な演説は、ロシアが新しい産業ストライキの波に掴まれていた当時に労働者たちに対してもつ影響が大きかった、そのように警戒して、ジュンコフスキーはマリノフスキーを馘首した、という可能性は指摘されてきた。
 Ralph Carter Elwood, ロマン・マリノフスキー (1977), p.41-43。
 ---
 ②へとつづく。

1437/R・パイプスの大著『ロシア革命』(1990)の内容・構成。

 1.Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)は、表紙、新聞書評の抜粋、著者の他の著書の紹介、扉、著作権記述、献辞(「犠牲者たちに」)、内容〔=目次〕、写真・地図の一覧、謝辞、略語表、まえがき、本文p.1-p.840、あとがきp.841、用語集〔ロシア語/英語〕p.842-p.846、年表p.847-p.856、注記p.857-p.914、参考文献〔ロシア革命に関する100の著作〕p.915-p.920、索引p.921-p.944、文献への謝辞〔9文献・資料集〕p.945、著者紹介p.946、裏表紙、から成る。p.は、記載された頁数。
 2.「内容」=目次のうち、細節を除いて、部と章のタイトル、始めの頁数を記すとつぎのとおり。
 ---
 第一部 旧体制の苦悶 p.1
  第01章 1905年-予震 p.3
  第02章 帝国ロシア p.53 
  第03章 田園ロシア p.91
  第04章 知識人 p.121
  第05章 立憲主義の実験 p.153
  第06章 戦時ロシア p.195
  第07章 崩壊へ p.233
  第08章 二月革命 p.272
 第二部 ボルシェヴィキによるロシアの征圧 p.339
  第09章 レーニンとボルシェヴィズムの起源 p.341
  第10章 ボルシェヴィキの権力への欲求 p.385
  第11章 十月のクー p.439
  第12章 一党国家の建設 p.506
  第13章 ブレスト=リトフスク p.567
  第14章 革命の世界輸出 p.606
  第15章 『戦時共産主義』 p.671
  第16章 農村に対する戦争 p.714
  第17章 皇帝家族の殺戮 p.745
  第18章 赤色テロル p.789
 ---
 上のうち、第9章『レーニンとボルシェヴィズムの起源』は、目次の細目部によると、以下の諸節から成っている。但し、「節」の旨の言葉も「数字番号」も、原著にはない。原著の本文では、これら(以下の各節)の区切りは、一行の空白を挿むことによってなされている。
 ---
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第1節 レーニンの青少年期
  第2節 レーニンと社会民主党 
  第3節 レーニンの個性
  第4節 レーニンの社会民主党への失望
  第5節 ボルシェヴィズムの出現
  第6節 メンシェヴィキとの最終決裂
  第7節 レーニンの農業問題・民族問題綱領
  第8節 ボルシェヴィキ党の財政事情
  第9節 マリノフスキーの逸話
  第10節 ツィンマーヴァルト、キーンタールおよび敵工作員との接触
 ---
 以上。

1342/日本共産党の大ペテン・大ウソ14ー稲子恒夫・山内昌之。

 二(さらにつづき)
 レーニン時代の「真実」が明らかになってきていることについて、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)はつぎのように書いている。
 不破哲三や日本共産党は、新情報を知っているのかどうか。あるいは知っていても無視しているのかどうか。
 「レーニンはソビエト政権初期の問題のほとんど全部に関係していたが、日本ではソ連の否定的なことは全部スターリンの『犯罪的誤り』であるとして、彼〔スターリン〕一人のせいにし、レーニンはこれと関係がなく、彼にも誤りがあったが、彼〔レーニン〕は基本的に正しかったとするレーニン無関係説が有力である。この説はレーニン時代の多くのことを不問にしている
./〔改行〕
 今は極秘文書が公開され、検閲がないロシアでは、レーニンについても…多くのことが語れるようになった。//
 たとえばスパイ・マリノーフスキーを弁護したレーニンの文書、臨時政府時代のドイツ資金関係の一件書類、レーニン時代の十月革命直後と戦時共産主義時代のプロレタリアート独裁と法、一連の人権侵害-報道、出版の自由の否定、宗教の迫害、数々の政治弾圧、赤色テロ、とくに…1921年8月の「ペトログラード戦闘組織団」事件の真実が明るみに出ている。/〔改行〕
 ボリシェヴィキーは中選挙区比例代表という民主的選挙法による憲法制定会議の選挙で大敗すると、1918年1月に憲法制定会議の初日にこれを武力で解散するクーデターをしたことが、今日非難されており、ニコラーイ二世一家の殺害も問題になっている。//
 ソ連時代は食糧などの徴発と食糧独裁、農民弾圧がまねいた飢饉と数多くの緑軍(農民反乱,…)など戦時共産主義時代の多くのことが秘密だった。この秘密が解除され,数多くの事実が判明した。その上戦時共産主義時代のペトログラードの労働者と一般市民の生活と動向が判明した。//
 ネップへの政策転換をうながしたのは、クロンシュタートの反乱だけでなく、…労働者農民の支持を失ったソビエト政権が存亡の危機にあったことである。党指導部はひそかに亡命の準備をしていたことまで明らかになった。//
 したがってレーニンの秘密が解けた今日、ロシア史研究は資料が豊富になった彼の時代の真実にあらためてせまる必要があるだろう。」
 以上、p.1006-7。//は原文では改行ではない。
 三 山内昌之は、ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/下(1995、日本放送出版協会)の末尾に、この書物の「解説」ではなく「革命家と政治家との間-レーニンの死によせて」と題する文章を寄せている(p.377-)。 
その中に、つぎの一文がある。
 ・「もっと悲劇的なのは、レーニンの名において共産主義のユートピアが語られると同時に、二十世紀後半の世代にとっては、まるで信じがたい犯罪が正当化されたことであろう。//
 この点において、レーニンとスターリンは確実に太い線で結ばれている。//
 スターリンは、レーニンの意思を現実的な<イデオロギーの宗教>に変えたが、その起源はレーニンその人が国民に独裁への服従を説いた点に求められるからだ。」
以上。p.378、//は原文では改行ではない。
 他にも、山内は以下のことを書いている。
 ・「 …赤軍は、タンボフ地方の農民たちが飢餓や迫害からの救いを求めて決起した時、脆弱な自国民には毒ガスの使用さえためらわなかった。1921年4月にこの作戦を命じた指揮官は、後にスターリンに粛清されるトゥハチェフスキーであった。もちろんレーニンは、この措置を承知しており、認めてもいた」。
 ・「歴史が自分の使った手段の正しさを証明するだろうというレーニンの信仰は、狂信的な境地にまで達していた」。
 以上、p.378。
 山内は上掲書を当然に読んだうえで書いているのだろう。
 上掲書/上・下には、レーニンの「真実」が満載なので、のちにも一部は紹介する。
 ----
 さて、日本共産党現綱領が「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、…、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」と明記してしまっている歴史理解は、すでに<大ウソ>または自己の出生と存在を正当化するための<大ペテン>であるように見える。
 もう少し論点を整理して、レーニンとスターリンとの違い・同一性に関する諸文献を見ていこう。その際の諸論点とは、さしあたり、以下になる。
 ①ネップ(新経済政策)への態度。レーニンは<正しく>これを採用したが、スターリンは<誤って>これを放棄したのか。
 ②<テロル>。スターリンは1930代半ばに「大テロル」とか称される、粛清・殺戮等々を行なったとされる。では、レーニンはどうだったのか。この点でレーニンはスターリンとは<質的に>異なっていたのか。
 なお、日本共産党は、レーニンとスターリンの対立点は社会主義と民族(民族自決権)との関係についての見方にあった、ということを、少なくともかつては(覇権主義反対としきりに言っていた時期は)強調していたかに見える。但し、近年から今日では、この点を重視していないように見える。
 もっとも、レーニンはスターリンの危険性を見抜いていてそれと「病床でたたかった」という<物語>を、今日でも述べているようだ。以下では、この点にも言及することがあるだろう。
 <つづく>
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