立花隆による月刊現代7月号(講談社)の「護憲論」の嗤うべき点の指摘を続ける。
 前回に続けていうと第二に、立花隆は「たしかに、最終案を煮詰める過程は二週間ほど」だが、「その過程に入る前に、実は数年間にわたる先行研究があるんです」と書く(p.38-39)。
 まるで憲法草案の作成作業が数年間にわたって行われた如くだが、彼の表現を使えば、数年間にわたる先行研究の対象は、戦後の「日本の体制をどう変えればいいか」、「戦争が終わったらどうするか」なのだ。その中に、新しい憲法草案の起草が含まれている筈がない。立花自身がそのように理解されるのを注意深く避けつつ、しかし、そのように誤解されてもよいようにも書いてあり、かなり巧妙な文章になっている。わずか一週間(立花のいう二週間ですらない)で条文原案作りがなされたということを立花隆すら、隠したいのだろう。
 GHQ側の憲法改正の内容に関する考え方が明瞭に示されたのは、松本蒸治委員会案が新聞で報道されたあと、1946年2/03のマッカーサー・ノートによる「三原則」だろう。それは、1.天皇制度の存置、2.戦争放棄、3.封建遺制の排除だった。この時点までは、GHQはこれらの基本的考え方以上の具体的な草案などは全く用意していなかった。立花隆の上の文章はこの点を誤魔化すものだ。
 なお、立花は現憲法三章の「基本的人権の部分は、非常によくできた部分であって、国際的にも評価が高い」としし、さらに現憲法97条を特筆して重要な条文だと言っている。
 考え方の違いになるが、初めて日本国憲法の内容を知ったとき(小学生高学年か中学生だっただろう)、私が一番違和感を持ったのは97条だった(「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」)。というのは、他の条項はそれぞれ何らかの内容を持っているのに、この97条は「基本的人権」一般の性格を述べているだけで、かつ国民の<心構え>をお節介にも述べているように感じたからだ。今の時点で言えば、これは<美しい作文>であるとの疑問を持ち、自然法による、又は自然権としての基本的人権という考え方にも違和感を持った、ということかもしれない。
 この条文の内容を「人類の共有財産」・「人類共通の遺産」等と高く評価する立花隆は、「人類」の中に全アジア・全アフリカ、イスラム圏の人びとも含めているはずだが、その点は措くとしても、多くの憲法学者とともに、<美しいイデオロギーに嵌っている>。