Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
=アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
試訳のつづき。序説(Introduction)・ウクライナ問題。
——
序説・ウクライナ問題③。
(12) 言語と農村地帯との間の結びつきは、ウクライナ民族運動はつねに強い農民的雰囲気をもった、ということをも意味した。
ヨーロッパの他の部分と同様に、ウクライナの民族的覚醒は田園地帯の言語と習慣の再発見によって始まった。
民俗学者と言語学者は、ウクライナ農民の芸術、詩、日常会話を記録した。
国の学校では教えられなかったけれども、ウクライナ語は、一定範囲の反体制的な、反既得権益層のウクライナの作家や芸術家が選択する言語になった。
ウクライナ語は公式の取引では用いられなかった。だが、私的な文書のやり取りや詩作で使われた。
1840年に、Taras Shevchenko —1814年に農奴の孤児として出生—は、〈Kobzar〉—「吟遊詩人」の意味—を出版したが、これは、ウクライナの詩歌を最初に本当に素晴らしく収集したものだった。
Shevchenko の詩は、浪漫的なナショナリズムと農村地帯の理想的な像を社会的不公正に対する怒りと結びつけ、出現すべき多数の議論の基調となった。
「Zapovit」(「遺言」)という最も有名な詩の一つで、彼はDnieper の河岸に埋葬されるよう頼んだ。
「私を埋めよ。そして、あなたたちは立ち上がり、重い鎖を壊し、暴君の血で洗い、自由を獲得する。…」(13)
農民層の重要性はまた、最初から、ウクライナの民族的覚醒は、人民主義(Populist)やのちにロシア語やポーランド語を話す商人、地主、貴族に対する「左翼」反対派と呼ばれることになるものと同義だったことを、意味した。
この理由で、ウクライナの民族的覚醒は急速に力強くなり、1861年の皇帝アレクサンダー三世のもとでのロシア帝国の頃の農奴解放が続いた。
農民層の自由は、実際には、ウクライナの自由のことであり、ロシアやポーランドの主人たちに対する一撃だった。
より強いウクライナの一体性を目指す運動は、帝国の支配層はよく理解していたことだが、当時ですら、より大きい政治的かつ経済的な平等を求める運動だった。//
(13) ウクライナの民族的覚醒は国家制度と結びつかなかったため、それはまた、初期の時代から、広汎な、自律的で自由意思による慈善団体の形成を通じて表現された。これは、いま我々が「市民社会」と称するものの初期の例だった。
農奴解放後の短い期間、「ウクライナ愛国者」はウクライナ青年たちに、自立した学習グループの形成、雑誌や新聞の刊行、日曜学校を含む学校の設立、農民層の識字能力の拡大、を呼びかけた。
民族的希望は、精神的自由、大衆の教育、農民層の上方可動性を求めることとなった。
この意味で、ウクライナ民族運動は、最初から、西側の同様の運動の影響を受けており、西側のリベラリズムや保守主義とともに西側社会主義の要素を含んでいた。//
(14) この短い期間は、続かなかった。
ウクライナ民族運動が強くなり始めるとすぐに、モスクワは、他の民族運動とともに、それは帝国ロシアの統一性に対する潜在的な脅威だと感知した。
ジョージア人、チェチェン人その他のグループが帝国内部での自治を追求したように、ウクライナ人はロシア語の優越性に挑戦した。また、ウクライナを「南ロシア」、民族的一体性を有しないたんなる地方、と叙述する歴史のロシア的解釈に対しても。
彼らは、すでに経済的な影響力を得ていたときには、農民層の力をさらに強くしようとした。
富裕で、より識字能力があり、うまく組織された農民たちは、大きな政治的権利をも要求する可能性があった。//
(15) ウクライナ語が、第一の目標だった。
1804年にロシア帝国最初の大きな教育改革が行われたとき、皇帝アレクサンダー一世は、いくつかの非ロシア語が新しい国立学校で使われるのを許したが、ウクライナ語は認められなかった。表向きは、それは「言語」ではなく一つの方言だ、というのが理由だった。(14)
実際には、ロシア帝国の官僚は、ソヴィエトの継承者がそうだったように、この禁止を政治的に正当化することを—1917年までつづいた—、およびウクライナ語が中央政府にもたらす脅威を、完全に理解していた。
キーフ総督のPodolia とVolyn は、1881年に、ウクライナ語と学校の教科書でそれを用いることは高等教育や、さらに立法府、裁判所、公行政でそれを使用することになり、そうして「多大の複雑さと統一したロシアに対する危険な変化」を生むことになる、と宣告した。(15)//
(16) ウクライナ語の使用が制限されたことで、民族運動は大きな影響を受けた。
そのことで、識字能力を持たない人々が広がる、という結果にもなった。
ほとんど理解できないロシア語で教育された多数の農民たちは、上達することがなかった。
20世紀初めのPoltava のある教師は、「ロシア語での勉強が強いられると、生徒たちは教えたことをすぐに忘れる」と嘆いた。
別の者は、ロシア語学校の生徒たちは「やる気を失って」、学校に退屈するようになり、「フーリガン」になる、と報告した。(16)
差別はまた、ロシア化も生じさせた。ウクライナに住む全ての者—ユダヤ人、ドイツ人、その他のウクライナ人などの少数民族—にとって、より上の社会的地位を得る方途は、ロシア語を話すことだった。
1917年の革命まで、政府の仕事、専門的仕事および商業取引には、ウクライナ語ではなく、ロシア語での教育を受けていることが要求された。
現実にこのことは、政治的、経済的または知的な志望をもつウクライナ人は、ロシア語での表現能力を必要とする、ということを意味した。//
(17) ロシア政府はまた、ウクライナ民族運動が大きくなるのを妨げるために、「政治的不安定を生じさせない保障として…、市民的社会団体と政治団体のいずれも」から成るウクライナ人の組織を禁止した。(17)
1876年、皇帝アレクサンダー二世は、ウクライナ語の書物と定期刊行物を非合法化し、劇場で、そして音楽劇の台本にすら、ウクライナ語を用いることを禁止する布令を発した。
彼はまた、新しい自発的組織の結成を思いどどまらせるか禁止し、反対に、親ロシアの新聞や親ロシアの組織には助成金を交付した。
ウクライナの報道機関やウクライナの市民的社会団体に対する明確な敵意は、のちのソヴィエト体制でも維持された。—さらにのちには、ソヴィエト後のロシア政府によっても。
このように、先例はすでに19世紀の後半にあった。(18)//
——
序説④へと、つづく。
=アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
試訳のつづき。序説(Introduction)・ウクライナ問題。
——
序説・ウクライナ問題③。
(12) 言語と農村地帯との間の結びつきは、ウクライナ民族運動はつねに強い農民的雰囲気をもった、ということをも意味した。
ヨーロッパの他の部分と同様に、ウクライナの民族的覚醒は田園地帯の言語と習慣の再発見によって始まった。
民俗学者と言語学者は、ウクライナ農民の芸術、詩、日常会話を記録した。
国の学校では教えられなかったけれども、ウクライナ語は、一定範囲の反体制的な、反既得権益層のウクライナの作家や芸術家が選択する言語になった。
ウクライナ語は公式の取引では用いられなかった。だが、私的な文書のやり取りや詩作で使われた。
1840年に、Taras Shevchenko —1814年に農奴の孤児として出生—は、〈Kobzar〉—「吟遊詩人」の意味—を出版したが、これは、ウクライナの詩歌を最初に本当に素晴らしく収集したものだった。
Shevchenko の詩は、浪漫的なナショナリズムと農村地帯の理想的な像を社会的不公正に対する怒りと結びつけ、出現すべき多数の議論の基調となった。
「Zapovit」(「遺言」)という最も有名な詩の一つで、彼はDnieper の河岸に埋葬されるよう頼んだ。
「私を埋めよ。そして、あなたたちは立ち上がり、重い鎖を壊し、暴君の血で洗い、自由を獲得する。…」(13)
農民層の重要性はまた、最初から、ウクライナの民族的覚醒は、人民主義(Populist)やのちにロシア語やポーランド語を話す商人、地主、貴族に対する「左翼」反対派と呼ばれることになるものと同義だったことを、意味した。
この理由で、ウクライナの民族的覚醒は急速に力強くなり、1861年の皇帝アレクサンダー三世のもとでのロシア帝国の頃の農奴解放が続いた。
農民層の自由は、実際には、ウクライナの自由のことであり、ロシアやポーランドの主人たちに対する一撃だった。
より強いウクライナの一体性を目指す運動は、帝国の支配層はよく理解していたことだが、当時ですら、より大きい政治的かつ経済的な平等を求める運動だった。//
(13) ウクライナの民族的覚醒は国家制度と結びつかなかったため、それはまた、初期の時代から、広汎な、自律的で自由意思による慈善団体の形成を通じて表現された。これは、いま我々が「市民社会」と称するものの初期の例だった。
農奴解放後の短い期間、「ウクライナ愛国者」はウクライナ青年たちに、自立した学習グループの形成、雑誌や新聞の刊行、日曜学校を含む学校の設立、農民層の識字能力の拡大、を呼びかけた。
民族的希望は、精神的自由、大衆の教育、農民層の上方可動性を求めることとなった。
この意味で、ウクライナ民族運動は、最初から、西側の同様の運動の影響を受けており、西側のリベラリズムや保守主義とともに西側社会主義の要素を含んでいた。//
(14) この短い期間は、続かなかった。
ウクライナ民族運動が強くなり始めるとすぐに、モスクワは、他の民族運動とともに、それは帝国ロシアの統一性に対する潜在的な脅威だと感知した。
ジョージア人、チェチェン人その他のグループが帝国内部での自治を追求したように、ウクライナ人はロシア語の優越性に挑戦した。また、ウクライナを「南ロシア」、民族的一体性を有しないたんなる地方、と叙述する歴史のロシア的解釈に対しても。
彼らは、すでに経済的な影響力を得ていたときには、農民層の力をさらに強くしようとした。
富裕で、より識字能力があり、うまく組織された農民たちは、大きな政治的権利をも要求する可能性があった。//
(15) ウクライナ語が、第一の目標だった。
1804年にロシア帝国最初の大きな教育改革が行われたとき、皇帝アレクサンダー一世は、いくつかの非ロシア語が新しい国立学校で使われるのを許したが、ウクライナ語は認められなかった。表向きは、それは「言語」ではなく一つの方言だ、というのが理由だった。(14)
実際には、ロシア帝国の官僚は、ソヴィエトの継承者がそうだったように、この禁止を政治的に正当化することを—1917年までつづいた—、およびウクライナ語が中央政府にもたらす脅威を、完全に理解していた。
キーフ総督のPodolia とVolyn は、1881年に、ウクライナ語と学校の教科書でそれを用いることは高等教育や、さらに立法府、裁判所、公行政でそれを使用することになり、そうして「多大の複雑さと統一したロシアに対する危険な変化」を生むことになる、と宣告した。(15)//
(16) ウクライナ語の使用が制限されたことで、民族運動は大きな影響を受けた。
そのことで、識字能力を持たない人々が広がる、という結果にもなった。
ほとんど理解できないロシア語で教育された多数の農民たちは、上達することがなかった。
20世紀初めのPoltava のある教師は、「ロシア語での勉強が強いられると、生徒たちは教えたことをすぐに忘れる」と嘆いた。
別の者は、ロシア語学校の生徒たちは「やる気を失って」、学校に退屈するようになり、「フーリガン」になる、と報告した。(16)
差別はまた、ロシア化も生じさせた。ウクライナに住む全ての者—ユダヤ人、ドイツ人、その他のウクライナ人などの少数民族—にとって、より上の社会的地位を得る方途は、ロシア語を話すことだった。
1917年の革命まで、政府の仕事、専門的仕事および商業取引には、ウクライナ語ではなく、ロシア語での教育を受けていることが要求された。
現実にこのことは、政治的、経済的または知的な志望をもつウクライナ人は、ロシア語での表現能力を必要とする、ということを意味した。//
(17) ロシア政府はまた、ウクライナ民族運動が大きくなるのを妨げるために、「政治的不安定を生じさせない保障として…、市民的社会団体と政治団体のいずれも」から成るウクライナ人の組織を禁止した。(17)
1876年、皇帝アレクサンダー二世は、ウクライナ語の書物と定期刊行物を非合法化し、劇場で、そして音楽劇の台本にすら、ウクライナ語を用いることを禁止する布令を発した。
彼はまた、新しい自発的組織の結成を思いどどまらせるか禁止し、反対に、親ロシアの新聞や親ロシアの組織には助成金を交付した。
ウクライナの報道機関やウクライナの市民的社会団体に対する明確な敵意は、のちのソヴィエト体制でも維持された。—さらにのちには、ソヴィエト後のロシア政府によっても。
このように、先例はすでに19世紀の後半にあった。(18)//
——
序説④へと、つづく。