Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime.
 リチャード·パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994年)。試訳。
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 序(Introduction)
 (01) 〈ボルシェヴィキ体制のもとでのロシア〉(注)は、〈ロシア革命〉を継続させ、完結させるものだ。
 ある意味では、この書物は、20年前に〈旧体制のもでのロシア〉で始まった私の三部作を完了させもする。
 しかしながら、この書物は、これだけで自立するものであることが意図されている。
 この書物が対象とするのは、ボルシェヴィキが、1917-18年の冬に征圧した大(Great)ロシアの基盤から、消滅したロシア帝国の国境地帯へと、さらに世界の残余へと、その権威を防衛しかつ拡張させる企てだ。
 1920年の秋までには、この企ては成功しないだろうこと、新しい体制は本拠地で(at home)共産主義国家建設に集中しなければならないこと、が明らかになっていた。
 この書物の結びの部分では、この予期されなかった展開がロシアの新しい支配者にもたらした諸問題と危機を扱う。
 私は、加えて、共産主義者の文化政策および宗教政策を叙述する。
 通常は歴史学で無視されたこうした問題を扱うことによって、私は、〈ロシア革命〉の序で記した、これまでなされた以上に包括的に主題を説明するという約束を、果たそうと努めたい。すなわち、企図とその権力の行使に対する革命の真髄だと通常は見られている、その権力を求める闘争について、より掘り下げて叙述する、という約束だ。
 この書物は、1924年1月のレーニンの死でもって終わる。そのときまでに、将来のスターリニズムの全ての制度とほとんど全ての実務は、整っていた。
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 (02) この書物は、ソヴィエト同盟が解体して新しい政府が共産党を非合法としたときには、事実上は完成していた。
 事態の突然の転換によって、私の仕事には終結部(coda)のようなものが与えられた。
 歴史家が、その起源の説明を執筆し終えるまさにそのときに、主題そのものが歴史となるというのは、珍しい経験だったに違いない。
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 (03)  共産党の消滅によって、それによる文献資料の独占は終わった。
 執筆の最後の段階でモスクワのかつての中央党文書庫を利用できたのは、私には幸運だった。そこには、1917年以降のソヴィエト同盟共産党(CPSU)の重要な文書のほとんどが保存されていた。
 私はこの機会に、ロシア文書庫委員会の長のR. G. Pikhoia 氏、ロシア現代史文書の保存研究センターの長のK. M. Anderson 氏と職員たちに、感謝の念を表明したい。
 こうした資料(レーニンとその秘書部の個人的文書、スターリン、Dzerzhinskii に関する文書、等)を知ることで、私の叙述の一定部分を修正または敷衍することができた。しかし、西側にすでに存在していた印刷された資料と文書を通じて私が形成していた見方を訂正する必要が生じた部分は、一箇所もなかった。
 このことは、私に一定程度の自信になった。他の、まだ秘密の文書収納庫—とくに、党政治局の細かい文書やチェカ/KGBの綴込み書類を含む、いわゆる大統領文書庫(Presidential Archive)—は、私の叙述の説得力を失わせそうではない。
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 (04) この機会を利用して、寛大な財政的支援をしてくれたJohn. M. Olin 財団に対して、謝意を表する。
 リチャード・パイプス(Richard Pipes)
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 (注) この書物の表題は、最初は「〈新しい〉体制のもとでのロシア」だと発表された。しかしながら、過去2年のあいだにロシアで起きた変化のために、この表題は有効でなくなった。1917年での〈新しい体制〉は、1991年に〈古い体制〉になった。
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 第1章・内戦:初期の戦闘(1918年)①。
 緒言。
 (01) 第一次大戦のただ中の1917年2-3月に、14世紀以来ロシアを支配してきたツァーリ体制は、驚くべき速さと終末の状態で崩壊した。
 瓦解の原因は数多く、歴史の奥深くに及ぶ。しかし、原因のうち最も直接的なものは、戦争遂行への民衆の不満だった。
 ロシア軍は、1914-16年の戦闘を満足には遂行しなかった。ドイツ軍に何度も敗北し、ポーランドを含む広く豊かな領土をドイツに委ねることを強いられた。
 高官層の中での反逆(treason)の風聞が広がり、保守層はそれに反発した。
 都市部の住民は、食料と燃料の価格高騰と不足に怒っていた。
 革命の勃発に火をつけたのは、退職した農民徴集兵からなる、ペトログラードの守備連隊の反乱だった。
 反乱が勃発するとすぐに、公共の秩序は瓦解した。これは、権力を掌握したいリベラルと急進派の政治家たちを勇気づける成り行きだった。
 3月2日のニコライ二世の退位とともに、国家の官僚機構の全体が解体した。
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 (02) 真空に入ってきたのは、行政経験はないが野心だけはもつ知識人たちだった。
 リベラルたちは、のちに穏健な社会主義者も加わって、臨時政府を構成した。一方で、急進派は、労働者と兵士の代表者でなる会議体であるソヴェトに加入した。だが、このソヴェトは、社会主義諸政党の知識人によって動かされていた。
 結果として生まれた二頭政治または二重権力は、うまく機能しなかった。
 1917年の夏までに、ロシアは、社会的および民族的な対立の増大によって引き裂かれた。地方の農民は私的な土地を奪い、労働者は工場を奪い、少数民族は自己統治の権利を要求した。
 首相のAlexander Kerensky は、独裁的権力の要求を試みた。しかし、彼はそれに相応する気質をもっておらず、いずれにせよ、有力な権力基盤を欠いていた。
 世論は、秋に、両極化した。Kerensky はリベラルと急進派の間の中間路線で舵を取ろうと試みた。
 Kerensky の権威への最終的な打撃になったのは、8月末にかけての、最高司令官のLavr Kolnilov 将軍との争論だった。Kerensky は彼を自分の権威を奪おうとしていると非難した。
 政府を守ることのできる唯一の実力組織である軍隊が争論に反対し、戦場はボルシェヴィキに残された。
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 (03) ボルシェヴィキ党は、独特の装置だった。
 ボルシェヴィキ党は、権力を奪取し、最初はロシアで次いでその他の世界で上から革命を起こすという特定の目的のための陰謀集団として組織されており、その組織と活動方法においてきわめて非民主主義的だった。
 その後の全ての全体主義的組織の原型(prototype)であり、通常は用いられている意味での政党よりも、秘密結社に似ていた。
 誰もが認めるその創設者、Vladimir Lenin は、二月革命の勃発を知ったまさにその日に、ボルシェヴィキが軍事力でもって臨時政府を転覆させる、と決意した。
 彼の戦略は、全ての不満をもつ集団に対して、彼らが望むものを約束することだった。農民には土地、兵士には平和、労働者には平和、少数民族には独立。
 これらのスローガンは全て、ボルシェヴィキの綱領には入っていなかった。そして、ボルシェヴィキが権力を奪取するとすぐに、全てが投げ捨てられることになる。しかし、これらのスローガンは、民衆の中の大きな集団を政府から遠ざけるという目的のために役立った。
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 (04) ボルシェヴィキは、春と夏に3回、権力の奪取を試みた。しかし、失敗した。
 最後の7月には、ペトログラードの兵士たちは、政府からレーニンは敵のドイツと取引をしていると知らされて、落胆した。
 この3回めの蜂起の失敗のあと、レーニンは、フィンランドに隠れた。そして、作戦の指揮権を、Leon Trotsky に委ねた。
 トロツキーと他のボルシェヴィキ指導者たちは、次の権力奪取の企てを全ての権力のソヴェトへの移譲だと偽装(camouflage)して行なう、と決定した。この目的のために、ボルシェヴィキは、10月25日に、違法で適正に代表されていない第四回全国ソヴェト大会を召集した。
 このクーは、成功した。Kerensky のKolnilov に対する措置に怒っていた軍が、Kerensky への支援を、今度は拒否したからだった。
 ボルシェヴィキのクーは、ペテログラードから、ロシアの他都市へと広がった。
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 (05) ソヴェトの名前で権力が奪取され、そのソヴェトには全ての社会主義政党が代表されていたけれども、レーニンは、政府大臣の全てにボルシェヴィキ党員を任じて、他の社会主義諸政党が彼の政府に加わるのを拒否した。
 ロシアに新しい国制と行政を生み出すものとされた立憲会議の選挙で、ボルシェヴィキは手ひどい判断を受け、投票数の4分の1未満しか獲得できなかった。
 一度だけ開会したあとで、1918年1月にボルシェヴィキが立憲会議を解散したことは、ロシアでの一党体制の始まりの画期となった。
 ボルシェヴィキは、政治化した法廷と新しく設立された政治警察であるチェカを用いて、テロルを開始した。テロルは、ボルシェヴィキの権力の初年度に、彼らの領域内の対抗派を、効果的に沈黙させた。
 全ての組織的活動は、ボルシェヴィキ党の指揮下に置かれた。そして、この党自体は、外部からの統制をいっさい受けなかった。
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 (06) だが、ボルシェヴィキは、中央ロシアだけを支配した。そこですら、都市部と工業中心地域のみの主人だった。
 かつてのロシア帝国の国境地帯は、シベリアとともに異なる民族と宗教の人々が居住していたが、ロシアから分離し、独立を宣言した。民族の権利を主張するか(シベリアやコサック地域)、ボルシェヴィキの支配を受けるのを望まなかったかの、いずれかの理由で。
 したがって、ボルシェヴィキは、分離した国境地帯および全人口の5分の4が住む村落を、文字どおり、軍事力でもって征服しなければならなかった。
 ボルシェヴィキ自体の権力基盤も安定したものではなく、多くて20万人の党員と、解体過程にあった軍に、依存していた。
 だが、権力とは相対的な概念で、匹敵できる人数がいる組織が他に存在しない国では、ボルシェヴィキは、強力な勢力(formidable force)だった。
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 (07) ボルシェヴィキは、まずロシアで、次いでヨーロッパ、そしてその他の世界で広範な武装闘争を始める、という明確な目的のために、権力を奪取した。
 ロシア帝国だった時代の国境の外では、彼らは失敗した。
 しかし、その内部では、十分に成功した。
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 緒言、終わり。つづく。