秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ボグダノフ

2617/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編序④。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.177-8。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927
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 第三節。
 (01) 既述の状況だったにもかかわらず、NEP はソヴィエト文化の黄金時代だった。
 包括的な文化政策を党がもっていなかったために、ソヴィエトのアヴァン-ギャルドを世界的に有名にした諸実験の余地が生まれた。
 NEP 文化の特徴は、機能的合理性と、強いプロメテウス主義の構成要素としての千年紀的狂熱の共存だった。
 後者は、叛乱、神との闘い、科学と技術による自然の克服、および「〈nous〉(知性または意識)による現実の支配」をその意味に含んでいた。(注11)
 マルクス主義に内在するプロメテウス主義は、ニーチェ主義、Federova 主義、神秘(オカルト)思想と接合した(Soloviev はボルシェヴィキ的な意味での十分なプロメテウス主義者でなかった)。
 広報宣伝者たちは、魔術や宗教への崇拝を、科学技術がもつ驚異作動力への崇拝に転換させようとした。
 科学の周縁にある準オカルト理論の支持者である宇宙主義者たち(cosmists)は、死の廃棄、宇宙旅行、何でも行なうことができる不死の超人を心に夢見た。(注12)
 心理学の支配的学派は、反射論とフロイト主義だった。
 Ivan Pavlov(1849-1936)は、条件反射を強調した。一方で、Vladimir Bekhterev(1857-1927) は、連想的反射を強く主張した。
 Bekhterev はとくに、「心理感染」(psychic contagion)と社会生活における示唆(suggestion)(〈unushenie〉)の役割に関心をもった。
 トロツキーは、説明し難い霊魂やプシュケー(psyche)にではなく肉体的欲求を基礎にしているとの理由で、フロイト理論は一種の唯物論だと考えた。
 多数のフロイト主義者はニーチェに関心をもってきていたし、おそらく依然としてそうだった。(注13)
 私は思うのだが、フロイトは彼らに、(ディオニュソス的)無意識や「権力への意思」に関する「科学的」議論という外装を与えた。//
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 (02) ソヴィエト・マルクス主義は、まだ完成するほどに編纂されてはいなかった、
 知識人たちは、マルクス主義を広範囲の諸々の問題や論点に適用した。その際に、関係があると見なした、ニーチェのものを含む非マルクス主義の諸思想も利用した。
 全体として言えば、知識人たちは、破壊よりも建設を、狂喜よりも理性を、芸術よりも科学や技術を、熱情よりは神経生理学的または精神心理学的な感情を重視した。そして、「社会主義の建設」のために必要な特質—自己紀律、目的志向性、純粋性—を、付加すれば、もちろん党意識を、高く評価した。
 このような方向づけの中には、ニーチェのAppolo 的利用も含まれていた。
 芸術は社会を「組織」し、「階級意思」を強化する、というBogdanov の基本的主張は、当然のこととされていた。
 彼の〈赤い星〉(1907年)は、1918年、1922年、1928年に再出版された。
 〈技術者Menni〉(1912年)は、少なくとも7回の再版となった。
 〈Tektology〉は、技術者、専門家たちに、そしてアヴァン-ギャルドに対して特別の訴求力があった。
 革命前のように、個々人はニーチェ思想やその普及者たちの考え方のこうした側面を取り上げた(または再作動させた)。その諸側面は、重要なまたは有用なものとして強い印象を彼らに与え、残りの部分は無視させた。
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 序の第四節へとつづく。

2616/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編序③。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
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 第二節②。
 (07) 他の積極的手段には、LEF(芸術の左翼戦線、avan-garde 連合)、VAPP(全ロシア・プロレタリア作家同盟)のような組織やこれらが刊行する雑誌に対する資金援助があった。
 Agitprop の長は1924年に、党が考える様式に添って書かれた、そして「広範な大衆に社会主義の精神についてイデオロギー教育をする」のに適した文学を擁護した。
 党は関連する動きとして、ボルシェヴィキの英雄たちと、革命前の探偵物語の英雄的主人公であるNat Pinkerton に因んだ「赤いPinkerton」に関する冒険物語の執筆を励ました。
 Marietta Shaginian(1888-1982、Merezhkovsky たちのかつての同僚)の小説である〈Mass-Mend〉(1924年)は、民衆が神秘的なもの(オカルト、occult)に嵌っていることを利用していた。
 この小説では、プロレタリアの「白い魔術」が資本主義陰謀家の「黒い魔術」を打ち負かす。(注8)
 党は特定の様式または語法を命令しなかった。そうする気は実際になかった。しかし、遅かれ早かれ単一の社会主義的芸術様式が支配するだろうと、広く想定されていた。
 文筆家や芸術家の競い合う諸組織は、それは自分たちだということを確実にしようとした。//
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 (08) 党はまた、大衆や党員たちがNEPは社会主義の放棄であるとか、ボルシェヴィキ幹部による意欲の減退または方向性の喪失であるとかと解釈しないように保障しなければならなかった。
 〈Pravda〉で最も頻繁に使われた隠喩—「任務」、「途」、そして「社会主義建設」におけるがごとき「建設」—は、上からの統制、目的志向性、指導性を含意していた。
 〈Pravda〉上の隠喩は、管下にある他の新聞類でも同じように使われた。
 「任務」(task)は通常、上級の当局によって与えられた。
 「途」(path)は、「任務」の意味を補強した。
 レーニンは、この「途」を、物事を行なう唯一の方策があるという確信を表現するために用いた。「一つの戦略、一つのイデオロギー、一つの方向」だ。
 1920年代の半ばまでには、「レーニン主義の途で」とか「社会主義への途」とかの語句は、至るところで見られた。そして、「途」は「線(路線)」へと狭まった。スターリンの「線(路線)」(line)というように。
 ときには、「途」と「路線」は一緒に用いられた。1926年に、ある編集者が「一般的路線」を社会主義への「高速道」と同一視したように。(注9)
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 (09) 「途」という隠喩は、マルクスやエンゲルスに由来しなかった。
 これは直線的な歴史の動きを想定していたが、曖昧な隠喩として使われた。
 ボルシェヴィキは、Merezhkovsky からこの「途」という隠喩を取り上げたのかもしれない。
 「途」(the path)は、キリスト教的神秘主義の中心的表象だ。
 ボルシェヴィキたちが、そしてLunacharsky やかつて神学生だったスターリンがこのことを知っていたかはともかく、「途」という隠喩は、世俗的な救済のためのイデオロギーであるボルシェヴィズムの宗教的性格を示していた。
 「途」という隠喩はまた、ある保証の感覚も伝えていた。実際に、党指導者たちは、大衆が困惑しているとしても方向を失ってはいない、と言われた。
 また別の次元では、「途」という隠喩は、党の将来の方位を映し出していた。共産主義の社会は、まだ遠く離れたところにあった。//
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 (10) 上級党学校は、党意識(〈partiinost'〉)、プロレタリア化、実践性を教え込んだ。
 知識のための知識は、「スコラ哲学」または「ブルジョア・アカデミズム」だとして蔑まれた。
 Sverdlovsk大学には、神学校の雰囲気があった。
 狂熱的な生活様式は、政治的な忠誠心と関連していた。
 「ブルジョア的」ソヴィエト科学アカデミーと対抗すると自認した社会主義アカデミーは、学術計画(高等教育の組織化と統制)と集団的な学術研究を擁護した。
 それに加盟した学者たちは、広範な聴衆が入手しやすい辞典、教科書、編集書を執筆して送り出した。また、マルクス主義の観点から社会科学についての再作業(再評価)を行なった。
 党は1923年に、アカデミーに対して物理科学を含めることを認めた。
 赤色教授研究所は、若い党政治家、学者、広報者たちをマルクス主義でもって訓練した。
 上級党学校との間の、そして各々の内部での競争は、部門や学生たちが味方する党内闘争によって、加速された。//
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 (11) 1924年の「社会主義」アカデミーから「共産主義」アカデミーへの変化は、1925年頃の大きな転換の予兆だった。1925年には、作家や芸術家たちの対立組織間の闘いが激化し、外国の出版物の輸入や外国旅行に対する規制が厳しくなった、
 第14回党大会(1925年)は、ソヴィエト同盟を自己充足の産業国家にすると決議し(「一国社会主義」)、GOSPLAN(国家計画局)に、総合的な経済計画のための統括数字(予想)をまとめるよう指示した。
 最初の案は、均衡ある発展を強調し、それにはBogdnov とBayarov の見方が生かされていた。(注10)
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 第三節へとつづく。

2613/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002年)第三章序。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 「第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917」の「第3章・ニーチェ的マルクス主義者」の「序」の試訳。邦訳書は、ない。
 以下に名が出てくるA. Lunacharsky は、1917年「十月革命」後の初代の<啓蒙(=文化·教育)人民委員(=大臣)>。
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  第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
  第3章・ニーチェ的マルクス主義者。
  序。
  (01) George I. Kline は、「ニーチェ的マルクス主義」という用語を作って、その中に、Aleksandr Bogdanov(出生名はAleksandr Malinovsky、1873-1938)、その義弟のAnatoly Lunacharsky(1875-1933)、Maxim Gorky(Aleksei Peshkov、1868-1936)、V. A. Bazarov(V. Rudnev、1874-1939 )、Stanilav Volsky(Andrei Solokov、1880-1936)を包摂した。(注1)
 私は、Aleksandra Kollontai(1872-1952)も含める。
 これらのマルクス主義者たちは、マルクスとエンゲルスが軽視した問題—倫理、認識論、美学、心理学、文化、その他の諸価値—を強調した。そして、神話がもつ政治心理的(psychopolitical)有用性を承認した。//
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 (02) 彼らは全てが芸術的文化的創造性の問題に敏感で、自由な発意と意欲を強調した。しかし、意欲や創造性がとる形態は個人なのか集団なのかに関しては一致していなかった。
 彼らにおける集団性は、義務的なものを意味してはいなかった。
 彼らは、人々が義務の意識から集団に従属するのではなく、自分たちを集団と一体視することを望んだ。
 ニーチェが助けたのは、Plekhanov がほとんど抹消して革命的人民主義の精神の中に含めてしまった、マルクス主義の「英雄的」で主意主義的(voluntaristic)な側面を取り出すことだった。//
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 (03) ニーチェが〈平等への意思は、権力への意思だ〉と言ったとき、論理(logic)について語っていたが、彼の観察は、政治と社会に適用することができるものだった。「平等への意思」が既存の権威を廃して代わりに新しい権威を就かせる、という意味を含んでいる場合には。
 ニーチェ的マルクス主義者は、プロレタリアートを権威に就かせることを望んだ。
 彼らは、「ロマン派革命家たち」、「ボルシェヴィキ左派」としても知られている。Gorky が公式にはボルシェヴィキではなく、Kollontai は1915年まではメンシェヴィキだったとしても。
 レーニンは、Bogdanov の「マッハ主義」認識論に因んで、彼らを「Machians」(ときどき「マッハ主義者」(Machists)と翻訳される)と称した。//
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 (04) ニーチェ的マルクス主義者は、第一章と第二章で叙述した表象主義者や哲学者たちと議論した。
 思想についてBerdiaev が意欲の重要性を強調したこと(意欲は人間の行動を喚起する)は、Bogdanov の認識論への関心を掻き立てた。
 Bogdanov とLunacharsky は、新観念論者の雑誌〈哲学と心理学の諸問題〉にいくつかの初期の論考を発表した。
 Bogdanov は〈観念論の諸問題〉を論評し、〈実在論的世界観に関する小考〉(1904)という対抗シンポジウムを組織した。(注2)
 Gorky とLunacharsky は、宗教哲学学会の会合やIvanov の社交的集まりに出席した。
 他に多くの交流の例を挙げることができる。//
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 (04) Bogdanov は、Gorky とLunacharsky が行ったほどに頻繁には、ニーチェに言及しなかった。そして、無味な「科学的」語彙を用いた。そのために、彼に対するニーチェの影響はより分かりづらい。
 しかしながら、芸術と神話がもつ意識を変革する力についての彼の信念、神話創造の自分自身の試み、そして文化革命の呼びかけには、プロレタリアートの立場からする「全ての価値の再評価」が含まれていることが明らかだ。
 最もよく分かるのは、Bogdanov は「イデオロギー」という語を肯定的に用いており、「イデオロギー」は虚偽の意識であって支配階級の利益のための現実の神秘化または歪曲を意味したマルクスやエンゲルス(MER,p.154-5.)とは大きく違っていた、ということだ。 
 Bogdanov は、「社会におけるイデオロギーの客観的役割、イデオロギーがもつ不可欠の社会的機能を不明瞭な」ままにした、「イデオロギーは組織する形態だ、同じことだが、全ての社会的実践のための組織的手段だ」として、マルクスとエンゲルスを批判した。(注3)
 イデオロギーはたんに社会経済的構造を反映するのではなく、社会を「組織する」、ゆえに創造するに際してきわめて重大な役割を果たす。
 イデオロギーは、正当化する形態であるだけではない。それは構築的な現象だ。
 Bogdanov の著作においては、イデオロギーは神話とほとんど同義だ—合理的に構成された神話。
 彼はときおり、Ivanov の語である「神話創造」(myth-creation)を用いた。しかし、理性的な意識の役割を強調した。//
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 (05) Bogdanov の小論である「人間の集結」(〈Sobiranie cheloveka〉,1904)は、つぎの三つの標語でもって始まる。
 「社会的存在が意識を規定する」(マルクス)。「神は自ら自身の像で人間を創造した」(創世記I、27)。「人間は橋渡しであって、目標ではない」(ニーチェ)。(注5)
 〈Sobiranie〉は、「集団」または「集合」と翻訳することもできる。そして、認識論的には〈Sobornost〉という観念と結びついている。
 考え得る他の訳語の「統合」を用いると、〈Sobiranie〉はスラヴ人好みの全体(wholeness)という観念をその意味に含んでいる。
 Bogdanov にとって、進歩とは「意識的な人間生活の全体と調和」を意味した。(注6)
 彼は、職業上の専門化と労働の区別がそうしているように、個人主義は、個人と社会の調和を破壊する、と考えた。
 とくに、精神労働と身体労働の分離に反対した。—これは、青年マルクス、Mikhailovsky、そしてFedorov が思考した主題だった。
 彼が疎外の克服を強調したのは、まだ知られていなかった1844年のマルクスの草稿を先取りしていた。 
 Bogdanov がとくに好んだ言葉の中に、「調和」があった(ニーチェの語彙の一部ではなく、Fourier その他の夢想的社会主義者たちによって多くは使われた)。また、「支配」や「支配すること」(mastery, to master)(〈ovladenie〉,〈ovladet〉)もあった(これは、「把握(すること)」または「所有(すること)」とも翻訳することができる)。
 彼の用語法での「支配」およびこれに関連する言葉は、複数の意味を含んでいた。知識や技術をmasterしている労働者、自然をmaster している専門家(〈chelovechestvo〉)、奴隷がmaster になる、地上の新しい主人としてのプロレタリアート。
 彼が最も好んだ言葉である「組織化」はLavrov の戦略に立ち戻るものだったが、Bogdanov の用語法では、Apollo 的側面があった。
 Apollo は統合し、構造化する。
 Bogdanov は、「組織化への意思」によって駆り立てられていた、と言っても誇張ではないだろう。
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 第一編第1章「序」、終わり。

2476/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ⑤。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 第二部の最初の章の「序」のあとの本文へと進む。
 なお、「Nietzschean」は、ニーチェ的、ニーチェ主義的(・ニーチェ主義者)、またはそのまま「ニーチェアン」と訳す。
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 第二部・第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
 第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?
 (01) 疑問符を付しているのは、意図的だ。レーニンの「ニーチェ主義」(Nietzscheanism)の証拠は間接的だから。
 レーニンのレトリックには、確かにニーチェ的な響きがある。
 「意思」、「権力」および「紀律」(これはニーチェに関するApollo的解釈と符合する)は、彼の好みの言葉だ。
 レーニンは政治における「感傷」を嫌い、ほとんど生活様式のごとく闘争に喜びを感じた。
 このような嗜好に加えて革命的人民主義の「英雄的」伝統の称賛、1904年から1907年までのBogdanov との連携、Gorky との友人関係、ニーチェが染み込んだ一般的文化状況があったので、ニーチェがレーニンのマルクス主義解釈に影響を与えた(inform)、という高度の蓋然性はある。
 レーニンは自分のノートでニーチェに言及しており、クレムリンの執務室に一冊の〈ツァラストゥラ〉を置いていた。(注5)
 Gorky は、解放を目ざす大衆の闘いを指導するロシアの超人(Superman)を探していた。
 レーニンは自分がその役割を果たすと、または少なくとも「世界的な歴史的個人」(ヘーゲルの観念)だと考えたかもしれない。
 彼はブハーリンの、ニーチェ的要素のある帝国主義に関する書物に自分のその主題の本で回答し、プロレタリア国家の描写をして左翼ボルシェヴィキの「アナーキズム」に反論した。
 もちろん、レーニンはニーチェを読んで彼の権力への意思を得たのではなかった。しかし、ニーチェはおそらくそれを強めた。//
 (02) レーニンの全集は決して完全なものではない。
 彼または彼の信条を当惑させそうな文書は、排除されていた。
 彼自身がいくつかを破棄し、または手紙の場合には、破棄するよう受取人に指示した。(注6)
 レーニンの公刊著作にはマルクス、エンゲルス、プレハノフおよびカウツキーへの言及が豊富にあり、より少ない程度で、Chernyshevsky、Herzen、Belinsky、および彼がマルクス主義の先駆者と見做した「70年代の輝かしい星座のごとき革命家たち」(Tucker 編,レーニン選集=LA,p.20)への言及がある。
 彼は、自分の思想に対する非マルクス主義の影響については寡黙だった。
 そのノートから明らかであるのは、ヘーゲル、クラウセヴィッツ、アリストテレスがレーニンのマルクス主義解釈と革命戦略を磨くのを助けた、ということだ。
 ダーウィンとマキアヴェリ(Machiavelli)も、そうだった。
 レーニンは執務机の上にダーウィン像を置いていた。しかし、マキアヴェリについては名前を出してはほとんど言及しなかった。だが、私的な連絡文書でもそうだったのではない(注7)
 政治局の指導者たちに対する(読後に破棄すべきものとされた)手紙で、レーニンはこう書いた。
 「政治手腕(statecraft)の問題に関するある賢人[マキアヴェリ]は正しく、一定の政治目標を実現するのと同じことのためには一定の残虐さに訴えることが必要であるならば、最も激しいやり方でかつ可能なかぎり短時間のうちに、実行されなければならない、なぜならば、大衆は長期間の残酷さの利用に耐えることができない、と言った。」(注8)//
 (03) マキアヴェリもそうだがニーチェもおそらく、レーニンのエリート主義と革命的反道徳主義を促進した。
 レーニンは、プロレタリアートは自分たちで解放する力を持たないというTkachev の見方を共有しており、革命は「タフな事業だ」と叙述した。
 「白い手袋をはめた、きれいな手では革命をすることができない。…。
 党は女学校ではない。…。
 悪人はまさに悪人であるがゆえに、我々が必要とするかもしれない。」
 彼は、Nechaev の同時代人は「組織者、陰謀家としての特殊な才能を持ち、衝撃的な明瞭さでまとめ上げる技巧を持つことを忘れていた」と観察した。(注9)
 レーニンの世代の最大原理主義者たちは、Nechaev は「ニーチェより前のニーチェアンだ」と見なした。
 おそらくレーニンも、そうした。//
 (04) レーニンは、ボルシェヴィズムの基礎的文献である〈何をなすべきか〉(1902年)で、前衛政党に関するマルクスの考えを超える、革命的エリート主義を提示した。
 「階級的政治意識は労働者に対して〈外からのみ〉、すなわち経済的闘争の外部からのみ、もたらすことができる」(LA,p.50)
 プロレタリアートは自分たちでは、労働組合主義の意識だけを持つことができる。
 潜在的には、プロレタリアートは間違った方向へと慌てて逃げることになる大きな群れだ。
 この書物でレーニンは、「Tkachev の説示が用意し、現実に威嚇する『威嚇的な』テロルの手段により実行された『壮大な』権力奪取の企てと、たんに滑稽なだけの、とくに平均的な人々の組織化という考えで補完された場合には滑稽な、小Tkachev の『刺激的な』テロル」とを区別した。(LA,p.107.)
 彼は、マルクス主義者は革命的人民主義者の過ちを繰り返さないということに関係して、職業的革命家、意識が高くて自己紀律をもつ革命的エリートの組織を強く主張した。//
 (05) レーニンの「意識性」(〈soznatel'nost〉)と「自然発生性」(〈stikhinost'〉)という両範疇は、ニーチェのApollon 的衝動とDionysus 的衝動に対応している。
 これは偶然ではないかもしれない。〈悲劇の誕生〉の1901年のドイツ語版は、レーニンの個人的蔵書の中にあった。(注10)
 〈Stikhinost'〉は〈stikhinyi〉、「自然的」(elemental)という形容詞に由来しており、思考のない(mindless)過程を含意している。
 レーニンは「自然発生性」の危険に警告を発し、それを奴隷性や原始性と結びつけた(LA,p.27,32,46,63)
 彼が術語を用いるとき、「意識」はたんに知覚だけではなく、権力を獲得するための戦略でもあった。
 レーニンは、Bogdanov のように、マルクス主義を活性化するイデオロギー、あるいは動かす神話(mobilizing myth)だと見なした。
 そのいずれも、組織のApollon 的原理を強調するものだった。//
 (06) ニーチェ的マルクス主義者たちとの論争で、レーニンはニーチェ的用語を使い、自分の動的神話を発展させた。
 1905年の革命の間、彼とBogdanov は(フィンランドの)同じ建物に住んだ。そこで彼らは、政治理論、文化、哲学、革命の戦略と戦術を論じ合った。(注11)
 確実に、ニーチェはその討論に入ってきていた。
 レーニンの動的神話は、新しい目標、新しい道徳、新しい政治形態を伴っていた。新しい政治形態—職業的革命家で構成される前衛政党、訓練されて意識が高い陰謀家的エリート、そして資本主義から共産主義の第一段階への直接的移行を指揮するプロレタリアート独裁。
 マルクスは、どの時代にも特有の幻想(あるいは神話)がある、と書いた(Tucker 編,マルクス.エンゲルス読本=MER,p.165)
 レーニンは科学的であれと主張したが、社会主義という対抗神話を生み出していた。
 「『唯一の』選択肢は、ブルジョア・イデオロギーか社会主義イデオロギーか、のどちらかだ。
 中間の経路はない。…。
 非階級の、または階級を超えたイデオロギーなど決して存在し得ない。」(LA,p.29.)//
 (07) レーニンは「社会民主党の二つの戦術」(1905年6-7月)で、〈革命的民主主義的なプロレタリアートと農民の独裁〉を提起した。プロレタリアートだけでは権力を奪取するのに十分でなかったからだ。
 この戦術変更を正当化するために、彼は弁証法的形態で論拠を言い表した。
 「全ての事物は相対的だ。全てのものは流動する。全てのものは変化する。…。
 抽象的な真実なるものは存在しない。
 真実は、つねに具体的だ。」(LA,p.135.)
 Bogdanov も、同じ言葉遣いをすることができただろう。//
 (08) レーニンは同じ論文で、「革命は被抑圧者たちの祭典だ」と宣告した。
 ボルシェヴィキは、「大衆の祭典のための活力、および直接の決定的行路を目ざす仮借なき自己犠牲的闘いを繰り広げる彼らの革命的熱情」を利用しなければならない」(LA,p.140-1)
 「熱情」(ardor)や「活力」(energy)という言葉は、ニーチェ的マルクス主義者たちに好まれた。
 彼はまた、ボルシェヴィキには新しいスローガンが必要だ、と言った(「新しい言葉」のレーニン版)。
 「言葉も、行動だ」。
 「行動に移す必要のある〈直接的スローガン〉に進むことなくして、〈古いやり方で〉「言葉」に閉じ込める」のは裏切りだ(LA,p.134)
 言葉遣いに対するレーニンの繊細さは、ニーチェやそのロシアでの崇拝者たちと共通している、もう一つの分野だった。
 ボルシェヴィキ指導者は、終生にわたって古典文献学に関心をもった。//
 (09) 現実的にであれ潜在的にであれ、反抗に関するレーニンの定番の言葉は、「粉砕せよ」、「麻痺させよ」、「壊滅せよ」、「破壊せよ」だった。
 彼は、このような乱暴な言葉は「憎悪、反感、そして侮蔑心、…を読者に掻き立てるように、納得させるのではなく敵の隊列を破壊するように、敵の誤りを訂正するのではなく破滅させて敵を地球の表面から一掃するように、計算されている」と語った(レーニン全集第12巻p.424-5)=(日本語版全集12巻「ロシア社会民主労働党第5回大会にたいする報告」433頁.)
 Bogdanov の好きな言葉の一つである「調和」は、レーニンの語彙の中にはなかった。
 Gorky は、レーニンの言葉を「鉄斧の言語」と呼んだ。//
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 (注5) Robert Service, Lenin -A Biography, p.203.
 (注6) Ricard Pipes, ed, The Unknown Lenin, p.4.
 (注7) Service, p.203-4, p.376.
 (注8) In Pipes, p.153.
 (注9) Dmitri Volkogonov, Lenin, p.22 から引用。
 (注10) Aldo Venturelli, in "Nietzsche Studien" 1993, p.324.
 (注11) Service, p.183.
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 第一節②へとつづく。

1630/「哲学」逍遙②-L・コワコフスキ著17章7節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第7節・レーニンの哲学への逍遙②。
 この〔リュボフ・アクセルロートの〕本は、レーニンがのちに経験批判論に反駁したことのほとんど全てを含んでいた。レーニンよりも簡潔だったが、論調は同じく粗野だった。
 二つの主要な論拠が、外部世界は我々の感覚へ『反射したもの』だ、またはそれに『対応したもの』だという見方を支持するために、提示された。
 第一に、我々は正しい(true)知覚と偽り(false)のそれかを、妄想か『適正(correct)な』観察かを区別する。そして、実際と我々の感覚が一つであり同じであるなら、我々は区別することができない。
 第二に、事物は我々の頭の中にではなく、その外側にあることを、誰でも知っている。
 カントの哲学は、唯物論と観念論の間の折衷物だ。
 カントは、外側世界という観念を維持した。しかし、神学と神秘主義の影響をうけて、世界は知り得ない(unknowable)ものだと述べた。
 この折衷物は、しかしながら、作動しないだろう。我々の知識の根源は意識と物事のいずれかにある。第三の可能性は、ない。
 物事を定義することはできない。なぜなら、『始源的事実』(primal fact)だからだ。
 『全ての事物の本質』、『全ての現象の起源かつ唯一の原因』、『元来の実質』、等々。
 物事は『経験にある所与』のもので、感覚的知覚によって知ることはできない。
 観念論は、主体なくして客体はない、と主張する。しかし、科学は地球が人よりも前に存在したことを示した。そして、意識は自然の産物であるはずであり、自然の条件ではない。
 数学知識も含めた我々の全ての知識は、我々の精神にある外部世界の『反射物』から成る、経験に由来する。
 マッハのように世界は人間の創出物だと主張するのは、科学を不可能にする。なぜなら、科学は、その研究の客体としての外部世界を前提にするからだ。
 観念論は、政治上は、反動的帰結へと導く。
 マッハとアヴェナリウスは、人間を普遍世界の測量器(measure)だと考えた。
 『この主観的理論は、大きな客観的価値をもつ、とする。
 こう言うことで、貧者は富者であり、富者は貧者だ、全てが主観的な経験に拠っている、ということを証明するのは簡単だ。』
 (<哲学小論集>〔L・アクセルロート, 1906年〕、p.92。)
 主観的観念論はまた、絶対に確実に、唯我主義(solipsism)にもなる。全てが『私の』想像のうちにあれば、他の主体の存在を信じる理由は何もないからだ。
 これは原始人の哲学だ。野蛮人は文字通りに、頭の中に入ってくる全てのものの存在を信じて、夢想を現実と、偽りの知覚を真の知覚と混同する、そして、現実に存在しているものだと考える。これは、バークリイ(Berkley)、マッハ、ストルーヴェ、そしてボグダノフがそうしているのと同じだ。//
 同じ著作で、リュボフ・アクセルロートは、スタムラー(Stammler)に反対して、決定論を擁護する。スタムラーは、歴史的決定論と革命的な意思の力の両方を信じることは一貫していないと、異論を述べていた。
 この点に関しても、彼女は、プレハノフの反論と同じものを繰り返す。歴史を作るのは人間で、その行為や精神的努力の有効性は、人間が制御できない情勢に依存する。
 自然の必然性と歴史的必然性の間に、あるいはしたがって、自然科学と社会科学の方法の間に、違いはない。
 ブルジョア的観念論者は、現在だけが現実だと主張する。そうすることで、彼らは、歴史により宿命的に破滅させられる階級の恐怖を表現している。しかし、マルクス主義者には、歴史の法則に照らして予見することができるという意味で、未来は『現実』だ。//
 つぎのことは、追記しておくべきだ。すなわち、リュボフとプレハノフはいずれも、『反射物』という語は文字通りに受け取られるべきでない、と言う。
 知覚は、鏡の中の像と同じ意味における事物の『写し』ではない、そうでなく、その内容物はそれが生む客体に依存しているという意味においてだ、と。//
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 ③へとつづく。


1619/二党派と1905年革命③-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争③。
 つづく数年間は、これらの問題、とくに農業問題綱領およびカデットとの関係についての問題、に関する論争でいっぱいだった。
 メンシェヴィキ派は、ますます懐疑心をもち、戦術上の問題についてしばしば優柔不断だった。そして、合法的な制度や幅広い基盤のあるプロレタリア組織を是認する方向へと傾斜した。
 レーニンは、党があらゆる合法的活動の機会を利用するのを望んだが、しかし、その秘密組織を維持し、憲法制定主義、議会主義および労働組合主義への追従に抵抗することをも望んだ。すなわち、全ての合法的形態は、実力による権力奪取という最終の目標に従属するものでなければならないのだった。
 レーニンは、同時に、個人に対するテロルというエスエル〔社会革命党〕の方針に反対した。
 彼は、1905年の前に、党は原理上の問題としてテロルを拒否はしない、テロルは一定の事情のもとで必要だ、しかし、大臣やその他の公的人物への攻撃は時期尚早で、反発を誘発する、と強調した。革命的勢力を散逸させ、有益な効果を何らもたらさないだろうから、という理由で。
 革命の時代の後半部には、レーニンは、『没収(expropriations)』に関してメンシェヴィキと激論を交わした。『没収』とは、党の財政資金を補充するための、テロリスト集団による武装強盗のことだ。
 (トランスコーカサスでのスターリンは、このような活動の主要な組織者の一人だった。)
 メンシェヴィキおよびトロツキーは、このような実務は無価値で非道徳的だと非難した。しかし、レーニンは、個人に対してではなく銀行、列車あるいは国家財産に対して行使されるという条件で、これを擁護した。
 1907年春の党大会で、レーニンの反対に抗して、『没収』はメンシェヴィキの多数派によって非難された。//
 党員の数は、反動の時期に相当に消滅した。
 1906年9月の『統一大会』の後で、レーニンは、その数を10万人余だと見積もった。
 大会の代議員たちは、およそ1万3000人のボルシェヴィキと1万8000人のメンシェヴィキを代表した。再加入したブント(the Bund)は3万3000人のユダヤ人労働者を有しており、加えて、2万6000人のポーランド・リトアニア社会民主党員、1万4000人のラトヴィア人党員がいた。トロツキーはしかし、1910年に、全体数をわずか1万人と推算していた。
 しかしながら、減勢にもかかわらず、革命後の状況は合法活動への多くの幅広い機会を与えた。
 1907年の初めに、レーニンはフィンランドへと移り、そこでその年の末に再び亡命した。
 彼は、第二ドゥーマ選挙のボイコットを宣言した。しかし、全ての社会民主党員が従ったわけではなく、35名が選出された。
 約三ヶ月のちに、第二ドウーマが、第一のそれのように、解散された。そのときに、レーニンは、ボイコット方針を放棄し、彼の支持者たちが第三ドゥーマに参加するのを認めた。社会改革のためにではなく、議会制主義という妄想を暴露して、農民代議員たちを革命的方向へと導くために。
 数ヶ月前にはボイコットに反対していた誰もが、レーニンによると、レーニンはマルクス主義の考え方を知らない全くの日和見主義者だという姿勢を示した。今や、ボイコットに賛成する誰もが、日和見主義者で無学な者を自認することになった。
 ボルシェヴィキの中に、レーニンを『左翼から』批判する小集団、彼が『otzovist』と命名した者たち、すなわち社会民主党代議員をドウーマから召還(recall)することを主張する『召還主義者』、が出現するようになった。
 一方で、別の集団は、『最後通告主義者(ultimatist)』と命名された。ほとんどはメンシェヴィキの代議員たちに、従わなければ解職すると党が送付すべきとする最後通告書(ultimatum)の案を作成したからだ。
 二つの小集団の違いは重要ではなく、重要だったのは、革命的ボルシェヴィキの中にレーニンに反対する分派ができ、党は議会と関係をもつべきではなく、来たる革命への直接的な用意に集中すべきだ、と考えたことだ。
 この小集団の最も積極的なメンバー、A・A・ボグダノフ(Bogdanov)は、レーニンの長い間のきわめて忠実な協力者で、ロシア内でボルシェヴィズムを組織化する主要な役割を果たした。そして、独立の政治運動としてのボルシェヴィズムを、レーニンとともに共同で創始した者だと見なすことができる。
 『召還主義者』または『最後通告主義者』の中には、数人の知識人がいた-すなわち、ルナチャルスキー(Lunacharsky)、ポクロフスキー(Pokrovsky)、メンジンスキー(Menzhinsky)。このうち何人かは、のちにレーニン主義正統派へと復帰した。//
 『召還主義者』との戦術上の論争は、奇妙な様態で哲学上の論争と、このときに社会民主党の陣地内で生じた論争と、絡みついた。レーニンはこの論争から唯物論を守る専門論文を作成して、1909年に刊行した。
 この論争には、簡単に叙述しておくべき前史があった。//
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 第1節、終わり。第2節・ロシアの知識人の新傾向、へとつづく。

1615/二党派と1905年革命①-L・コワコフスキ著17章1節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 この書物には、邦訳がない。三巻合冊で、計1200頁以上。
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。三巻合冊本(New York, Norton)の、p.687~p.729。
 試訳をつづける。訳には、第2巻の単行本、1978年英訳本(London, Oxford)の1988年印刷版を用いる。原則として一文ごとに改行する。本来の改行箇所には、//を付す。
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 第1節・1905年革命のときの分派闘争①。
 第二回党大会の効果は、ロシアでの社会民主主義運動の生命が続いたことだと誰にも感じられた。
 レーニンが大会の後半で党への支配力を勝ち取った僅少差の多数派を、彼が望んでいたようには行使できないことが、大会の後ですぐに明らかになった。
 これは、主としてプレハノフ(Plekhanov)の『裏切り』によった。
 大会は、党機関誌のための編集部を任命した。この機関は、そのときは実際には中央委員会から独立していて実際上はしばしばもっと重要だったが、プレハノフ、レーニンおよびマルトフ(Martov)で構成された。一方で、『少数派』の残り-アクセルロート(Akselrod)、ヴェラ(Vella)およびポトレソフ(Potresov)-は、レーニンの動議にもとづいて排除された。
 しかしながら、マルトフはこうして構成された編集部で働くのを断わり、一方で、プレハノフは、数週間のちにボルシェヴィキと離れ、彼の権威の重みでもって4人の全メンシェヴィキの者と編集部を再構成するのに成功した。 
 このことで、レーニンは代わって辞任した。そのときから<イスクラ>はメンシェヴィキの機関になり、ボルシェヴィキが自分たちのそれを創設するまで一年かかった。//
 大会は、論文、小冊子、書籍およびビラが集まってくる機会で、新しく生まれた分派はそれらの中で、背信、策略、党財産の横領等々だという嘲弄と非難を投げかけ合った。
 レーニンの書物、<一歩前進二歩後退>は、この宣伝運動での大砲が炸裂した最も力強い破片だった。
 これは大会での全ての重要な表決を分析し、党の中央集権的考えを擁護し、メンシェヴィキに対して日和見主義だと烙印を捺した。
 一方で<イスクラ>では、プレハノフ、アクセルロートおよびマルトフの論考がボルシェヴィキは官僚制的中央集中主義、偏狭、ボナパルト主義だと、そして純粋な労働者階級の利益を知識階層から成る職業的革命家の利益に置き換えることを謀っていると、非難した。
 それぞれの側は、別派の政策はプロレタリアートの利益の真の表現ではないという同じ非難を、お互いに投げつけ合った。その非難は、だが、『プロレタリアート』という言葉が異なるものを意味しているという点を見逃していた。
 メンシェヴィキは、その勝利へと助けるのが党の役割である、現実の労働者による現実の運動を想定した。
 レーニンにとっては、現実の自然発生的な労働者運動は定義上ブルジョア的な現象で、本当のプロレタリア運動は、正確にはレーニン主義の解釈におけるマルクス主義である、プロレタリア・イデオロギーの至高性によって明確にされる。//
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキは、理論上は、一つの政党の一部であり続けた。
 両派の不和は不可避的にロシアの党に影響を与えた。しかし、多くの指導者が<移民者>争論をほとんど意味がないと見なしたように、その不和はさほど明白ではなかった。
 労働者階級の社会民主党員は、それぞれの派からほとんど聞くことがなかった。
 両党派は、地下組織への影響力を持とうと争い、それぞれの側に委員会を形成した。
 一方で、レーニンとその支持者たちは、党活動を弱めている分裂を治癒するために、可能なかぎり早く新しい大会を開くように圧力をかけた。
 そうしている間に、レーニンは、ボグダノフ(Bogdanov)、ルナチャルスキ(Lunacharski)、ボンチ・ブリュェヴィチ(Bonch-Bruyevich)、ヴォロフスキー(Vorovsky)その他のような新しい指導者や理論家の助けをうけて、ボルシェヴィキ党派の組織的かつイデオロギー的基盤を創設した。//
 1905年革命は両派には突然にやって来て、いずれも最初の自然発生的勃発には関係がなかった。
 ロシアに戻ってきた<亡命者>のうち、どちらの派にも属していないトロツキーが、最も重要な役割を果たした。
 トロツキーはただちにセント・ペテルブルクに来たが、レーニンとマルトフは、1905年11月に恩赦の布告が出るまで帰らなかった。
 革命の最初の段階は、レーニンが労働者階級自身に任せれば何が起こるかを警告したのを確認するがごとく、実際には警察によって組織された労働組合をペテルブルクの労働者が作ったこととつながっていた。
 しかしながら、オフラーナ〔帝制政治警察〕のモスクワの長であるズバトフ(Zubatov)が後援していた諸組合は、組織者の観点から離れていた。
 労働者階級の指導者としての役割を真剣に考えた父ガポン(Father Gapon)は、『血の日曜日』(1905年1月9日)の結果として革命家になった。そのとき、冬宮での平和的な示威活動をしていた群衆に対して、警察が発砲していた。
 この事件は、日本との戦争の敗北、ポーランドでのストライキおよび農民反乱によってすでに頂点に達していた危機を誘発した。//
 1905年4月、レーニンは、ボルシェヴィキの大会をロンドンに召集した。この大会は党全体の大会だと宣言し、しばらくの間は分裂に蓋をし、反メンシェヴィキの諸決議を採択し、ただのボルシェヴィキの中央委員会を選出した。
 しかしながら、革命が進展するにつれて、ロシアの両派の党員たちは相互に協力し、これが和解の方向に向かうのを助けた。
 自然発生的な労働者運動は、労働者の評議会(ソヴェト)という形での新しい機関を生んだ。
 ロシア内部のボルシェヴィキは最初は、これを真の革命的意識を持たない非党機関だとして信用しなかった。
 しかしながら、レーニンは、将来の労働者の力の中核になるとすみやかに気づいて、政治的にそれら〔ソヴェト〕を支配すべく全力をつくせと支持者たちに命じた。//
 1905年10月、ツァーリは、憲法、公民的自由、言論集会の自由および選挙される議会の設置を約束する宣言を発した。
 全ての社会民主主義集団とエスエルはこの約束を欺瞞だと非難し、選挙をボイコットした。
 1905年の最後の二ヶ月に革命は頂点に達し、モスクワの労働者の反乱は12月に鎮圧された。
 血の弾圧がロシア、ポーランド、ラトヴィアの全ての革命的な中心地区で続き、一方で革命的な群団は、テロルやポグロム(pogroms、集団殺害)へと民衆を煽った。
 大規模の反乱が鎮圧された後のしばらくの間、地方での暴発や暴力活動が発生し、政府機関によって排除された。
 革命的形勢のこのような退潮にもかかわらず、レーニンは、闘争の早い段階での刷新を最初は望んだ。
 しかし、レーニンは、最後には反動的制度の範囲内で活動する必要性を受容し、1907年半ばからの第三ドゥーマ選挙に社会民主党が参加することに賛成した。
 この場合には(後述参照)、彼は自分の集団の多数派から反対され、メンシェヴィキには支持された。//
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 ②へとつづく。
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