秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ホロドモール

2547/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor④。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第三節①。
 (01) 第二次大戦の終了は、元の状態への回帰を意味したのではなかった。
 ウクライナの内部では、戦争は体制の言語の意味を変更した。
 ソヴィエト連邦に対する批判はもはや「敵」を意味するだけではなく、「ファシスト」または「ナツィス」になった。
 飢饉に関するどんな会話も、「ヒトラーたちのプロパガンダ」だった。
 飢饉の記憶は、箪笥や引き出しの奥深くに閉じ込められ、それに関して議論することは、裏切りになった。
 1945年に、最も雄弁にホロドモールに関する日記をつけていた者の一人であるOleksabdra Radchenko は、まさにその私的な文章を理由として追及された。
 彼女のアパートが探索されているあいだに、秘密警察がその日記を没収した。
 彼女は、つづく6ヶ月間の尋問で、「反革命の内容の日記」を書いたとして責められた。
 裁判では、彼女は裁判官に、こう言った。
 「書いた主な理由は子どもたちに残すことでした。
 社会主義を建設するためにどんな暴力的方法が用いられたかを、20年後に子どもたちが信じないだろうがゆえに、書きました。
 ウクライナの人々は、1930-33年に恐怖で苦しめられました。…」
 その訴えは聞き入れられず、彼女は10年間、収容所に送られた。ウクライナに戻ったのは、ようやく1955年だった。(注32)
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 (02) 新しい恐怖の記憶も、1933年のそれを包み隠した。
 1941年には、Babi Yar 渓谷でのKyiv のユダヤ人の殺害があった。
 Kursk の戦い、Stalingrad の戦い、Berlin での戦い、これらはみな、ウクライナ人兵士がとともに闘ったものだった。
 戦争捕虜収容所、強制労働収容所、帰還者浄化収容所、大虐殺と大量逮捕、燃え落ちた村と破壊された田畑—これらが全て、今ではウクライナの物語の一部にもなった。 
 ソヴィエトの公式の歴史書では、第二次大戦がこう称されるようになった「大祖国戦争」が、研究と記念の中心になった。これに対して、1930年代の抑圧については決して語られなかった。
 1933年は、1941-44年および1945年の背後に隠された。//
 ——
 (03) 戦後の混乱で1946年はすでに良くなかった。苛酷な食料徴発の復活、大旱魃—そして再び、今度はソヴィエトが占領した中央ヨーロッパに食糧を与えるためにだが、輸出の必要—は、食料の供給を崩壊させた。
 1946-47年に、250万トンのソヴィエトの穀物が、ブルガリア、ルーマニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアへ、そしてフランスへすら、輸出された。
 ウクライナ人は都市でも地方でももう一度飢餓へと向かい、ソ連全体でも同様だった。
 食料剥奪に関連した死者数はきわめて多く、また、数百万人が栄養失調になった。(注33)//
 ——
 (04) ウクライナ以外でも、状況は変わった。それは、きわめて異なる方向に向かってだった。
 1945年5月にヨーロッパでの戦争が終わったとき、数十万のウクライナ人は、他のソヴィエト市民と同様に、自分たちがソヴィエト連邦の境界の外側にいることに気づいた。
 多数の者たちが強制労働収容所におり、工場や農場で働くためにドイツに送られていた。
 ある人々はドイツ軍と一緒に退却し、あるいは赤軍に帰還する前にドイツへと逃亡した。その人々は、飢饉を体験していたので、ソヴィエト権力が再び課そうとする何物も持っていないことを知っていた。
 Odessa 出身の農学専門家で飢饉を目撃していたOlexa Woropay は、ドイツの都市のMünster 近傍の「離散者収容所」にいた。 そこで彼とその同僚たちは、「軍用車庫から転換した大きな小屋」で生活していた。
 1948年の冬、彼らがカナダかイギリスに送られるのを待っている間、「何もすることがなく、夜は長くて退屈だった。時間つぶしのために、自分たちが経験したことを話した」。
 Woropay がその物語を書き留めた。(注34)
 数年後に、それはThe Ninth Circle という表題の小さな書物となって出版された。//
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 (05) 当時には影響はほとんどなかったけれども、〈The Ninth Circle〉は今では魅力的な読み物だ。
 飢饉のときにすでに成人で、飢饉をまだ生々しく憶えていて、原因と帰結を考察する時間があった人々の考え方が、その書物には映されている。 
 Woropay は、数年前のSosnovyi と同様に、飢饉は意識的に組織された、スターリンは飢饉を慎重に計画した、飢饉は最初からウクライナを従属させて「ソヴィエト化する」ために意図された、と主張した。
 彼は、集団化のあとの反乱をこう叙述し、それが持った意味をこう説明した。
 「モスクワは、これがさらなるウクライナ戦争だと理解しており、1918-21年の解放闘争を思い出して怖れもしていた。
 モスクワはまた、経済的に自立したウクライナが共産主義に対していかに大きな脅威となるかを、知っていた。—とくに、民族意識が高くて道徳的にも強いために独立し統一したウクライナという考えを抱く、相当に大きい要素が、ウクライナの村落にはある、と。…
 赤色のモスクワはゆえに、3500万人の強固なウクライナnation が抵抗する力を破壊する、最も軽蔑すべき計画を採用した。
 ウクライナの強さは、飢饉でもって破壊されるべきものとされた。」(注35)
 Woropay と同じ離散者のその他の者も、こうした見方に同調していた。
 彼らは至るところで自発的に、ウクライナの歴史の転換点として飢饉に注目し、追悼するために、飢饉に関して論じるのを開始した。
 1948年、ドイツの、多くは離散者収容所にいたウクライナの人々は、飢饉の15周年を記念した。
 Hanover では、飢饉は「大量虐殺」だと叙述するビラを配布し、デモ行進を組織した。(注36)
 1950年、バイエルンにあるウクライナ語の新聞は、占領下のKharkiv で最初に公刊されたSosnovyi 論考を再掲載し、その結論を繰り返した。すなわち、「飢饉は、ソヴィエト体制によって組織された」。(注37)//
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 (06) 1953年、Semen Pidhainy という名のウクライナからのエミグレは、さらに一歩進めた。
 クバーニ(Kuban)のコサック家庭に生まれた彼は、長いあいだ収容所にいた。
 逮捕され、Solovetskii 島の強制収容所に収監されたのち、彼はナツィによる占領の前に解放され、戦争中はKharkiv の市役所で働いていた。
 1949年にトロントに移り、そこでウクライナの歴史の研究と普及に没頭した。
 ドイツにいるウクライナ人と同様に、彼の目標は道徳的であるとともに政治的だった。
 彼は、記憶し、哀悼したかった。しかしまた、ソヴィエト体制の残虐で抑圧的な本質へと西側の人々の注目を引きたかった。
 冷戦の初期の時点では、ヨーロッパと北アメリカの多くの部分にまだ、強い親ソヴィエト感情があった。 
 Pidhainy とウクライナからの離散者たちは、これと闘うことに専念した。//
 ——
 第三節②へとつづく。

2544/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor②。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第二節①
 (01) 1941年6月22日、ヒトラーがソヴィエト同盟に侵攻した。
 ドイツ軍は11月までに、ソヴィエト領ウクライナのほとんどを占領した。
 つぎにどうなるかが分からないまま、多くのウクライナ人は、ユダヤ系ウクライナ人ですら、最初はドイツ兵団を歓迎した。
 ある女性はこう思い出す。
 「少女たちはしばしば兵士に花を捧げ、人々はパンを与えたものだ。
 我々はみんな、彼らを見て嬉しかった。
 彼らは、我々から全てを奪って飢えさせた共産主義者から救ってくれようとしていたのだ。」(注7)
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 (02) バルト諸国も、同様にドイツ軍を歓迎した。これら諸国は、1939年から1941年まで、ソ連に占領されていた。
 コーカサスとクリミアも同様に、ドイツ兵団を熱烈に迎えた。これらの住民たちがナチスだったのが理由ではない。
 非クラク化、集団化、大量テロルと教会に対するボルシェヴィキの攻撃によって、ドイツ軍がもたらすものについて、幼稚で楽観的な見方が生まれていた。(注8)
 ウクライナの多くの地方で、ドイツ軍の到来とともに、自発的な非集団化が発生した。
 農民たちは後方地を奪ったのみならず、ラッダイト(Luddite)の憤激のようにトラクターや複式収穫機を破壊した。(注9) 
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 (03) 大騒ぎは、すぐに終わった。—そして、ドイツによる占領のもとでのよりましな生活を望んだ全ての者たちの期待は、すみやかに消滅した。
 つぎにどうなったかの十分な説明は、この書物の射程を超えている。ウクライナにナツィスがもたらした苦難は、広範囲で、暴力的で、ほとんど理解できないほどの規模で残虐なものだったからだ。
 ソ連に来るまでに、ドイツは他国を破壊する多数の経験をもっていた。そしてウクライナでは、自分たちがどうしたいのかを知っていた。
 ただちにホロコーストが始まり、遠く離れた収容所でのみならず、公然と繰り広げられた。
 ドイツ軍は、移送をするのではなく、隣人たちの面前で、村落の端や森の中で、ロマ人やユダヤ人の大量の処刑を敢行した。
 ウクライナのユダヤ人の三分の二が、戦争の全過程を通じて死んだ。—80万人と100万人の間。この割合は、大陸全体で死んだ数百万の現実的部分のそれよりも大きい。//
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 (04) ヒトラーによるソヴィエトの犠牲者の中には、200万人以上の戦争捕虜も含まれていた。彼らのほとんどは病気か飢餓のために死に、また、多くはウクライナの領域で死んだ。
 人肉喰いが、再びウクライナで発生した。
 Kirovohrad の第306捕虜収容所では、監視兵が収監者が死んだ仲間を食べていると報告した。
 Volodymyr Volynskyi の第365捕虜収容所での目撃者は、同じことを報告した。(注10)
 ナツィの兵士と警察官は、その他のウクライナ人を、とくに公職の役人たちから強奪し、打ちのめし、恣意的に殺害した。 
 ナツィの人種階層では、スラヴ人は下層人間(Untermenschen)『“で、おそらくはユダヤ人よりも一階位上だったが、偶発的な抹殺の候補になった。
 ドイツ軍を歓迎した者の多くには、ドイツは一つの独裁制を新しい独裁制に変更した、ということが分かった。とりわけ、ドイツが新たな移送の波を打ち寄せ始めたときに。
 戦争のあいだに、ナツィ兵団は、200万人以上のウクライナ人をドイツの強制労働収容所に送り込んだ。(注11)
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 (05) ウクライナを占領した全ての諸国と同じく、ナツィスも究極的にはただ一つの現実的な関心をもっていた。すなわち、穀物。
 ヒトラーは以前から、「ウクライナの占領は全ての経済的不安から我々を解放する」、ウクライナの領土は「誰も前の戦争のように我々をもう一度飢えさせることができなくなる」のを保障する、と主張していた。
 1930年代の遅く以降、ヒトラー政権はこの願望を現実に変えようとしてきた。
 Herbert Backe という食料と農業を担当した悪辣なナツィ官僚は「飢餓計画」を構想したが、その目標は率直だった。すなわち、「戦争の三年めに全軍がロシアで食べていけてはじめて、戦争に勝つことができる」。
 しかし、軍全体は、ドイツ自体もそうだが、ソヴィエト国民が食糧を奪われてはじめて、自分は食べていくことができる、とも結論づけていた。 
 1941年6月に1000名のドイツの官僚たちに回覧された覚書にもあるが、彼は5月に出版した「経済政策指針」でこう説明した。
 「信じ難い飢餓がまもなくロシア、ベラルーシおよびソヴィエト連邦の産業都市を襲うだろう。Kyiv 、Kharkiv はもちろんモスクワやレニングラードでも。
 この飢饉は偶発的なものではないだろう。目標は、およそ三千万の人々が『死に絶える』(die out)ことだ。」(注12)
 征服した領域の活用を所管する東方経済部員(Staff East)への指針は、厳としてつぎのように述べていた。
 「この領域の数千万もの多数の人々は不必要になり、死ぬかまたはシベリアへと移住しなければならないだろう。
 〈黒土地帯からの余剰分を使って飢餓による死から彼らを救う試みは、ヨーロッパへの供給を犠牲にしてのみ成り立ち得る。
 そのような試みは、ドイツが戦争に踏み出すのを妨げる。
 ドイツとヨーロッパが封鎖に対抗する妨げになる。
 このことは、絶対的に明瞭だ。〉」[強調〔=〈〉〕は原文のまま](注13)
 これは、何倍も大きくしたスターリンの政策だった。飢餓による民族(nations)全体の抹殺。//
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 (06) ナツィスには、この「飢餓計画」をウクライナで完全に実施する時間的余裕がなかった。
 しかし、その影響はその占領政策に感じ取ることができた。
 集団農場からの食料徴発の方が容易だという理由で、自発的な非集団化はすぐに停止された。
 Backe は、「ドイツ人は、ソヴィエトがすでに整えていないならば、集団農場を導入しなければなければならなかっただろう」と報告的に説明した。(注14)
 1941年には、農場は「協同組合」へと転換させることが意図されたが、それは起きなかった。(注15)//
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 (07) 飢餓も、戻ってきた。
 スターリンの「焦土」政策が意味したのは、ウクライナの経済的資産の多くが赤軍を退却させたことですでに破壊されている、ということだった。
 占領によって、状況はそこにとどまった人々にはさらに悪くなった。
 Kyiv が9月に陥落する直前に、帝国経済大臣のHermann Göring は、Backe と会談した。
 二人は、都市部の住民が食物を「むさぼる」(devour)のが許されてはならない、ということで一致した。「もし誰かが新たに占領した領域の住民全員に食を与えたいと望んだとしても、そうすることはできないだろう」。
 SSのHeinrich Himmler は数日後にヒトラーに対して、Kyiv の住民は人種的に劣っており、不要なものとして処分することができる、と言った。
 「彼らの80-90パーセントなしで、容易に済ませられる」。(注16)//
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 (08) 1941年冬、ドイツは都市部への食料供給を断ち切った。
 固定観念とは逆に、ドイツ当局はソヴィエトのそれよりも有能ではなかった。つまり、農民取引者たちは暫定的な非常線を通過した—1933年にそうするのは困難だと気づいていた。そして、数千人の人々が再び食料を求めて道路や鉄道を利用した。
 それにもかかわらず、食糧不足は、占領地帯で増大した。
 もう一度、人々は膨らみ、痩せ、遠くを見つめ、そして死に始めた。
 その冬、Kyiv で5万人が飢餓のために死んだ。
 ナツィの司令官が非常線で遮断していたKharkiv では、1942年5月の最初の二週間で、1202人が飢餓のために死んだ。
 占領期間中の飢餓による全死者数は、約2万人に達した。(注17)//
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 (09) こうした論脈の中で、ウクライナの1933年飢饉に関して公然と語るのが初めて可能になった。—残虐な占領のもとでの苦難と混沌、そして新たな飢饉の発現の中で。
 状況によって、物語の語られ方が形成された。
 占領のあいだ、議論の目的は生存者が嘆き悲しんだり、回復したり、正直な記録を生んだり、あるいは将来のための教訓を学んだりするのを助けることでは、なかった。
 過去を思い出すようなことを望んだ人々は、失望していた。
 飢饉についての秘密の日記類を守り続けた農民たちの多くは、日記類を地下から掘り出し、地方の新聞社へ持ち込んだ。
 しかし、「不幸なことに、編集者たちの多くは、今になっては過去の時代のことに興味がなかった。そして、こうした貴重な歴史的記録は公表されなかった」。(注18)
 その代わりに、この編集者たち—仕事と生活を新しい独裁制に依存していた—のほとんどが、ナツィのプロパガンダに奉仕する記事を掲載した。
 この者たちには、議論の目的は、新しい体制を正当化することだった。//
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 (10) ナツィスは実際には、ソヴィエトによる飢饉について多くのことを知っていた。
 その飢饉が起きているあいだ、ドイツの外交官はベルリンへの報告書で詳細に飢饉に関して叙述していた。
 Joseph Goebbels は、1935年のナツィ党大会の演説で、飢饉に言及した。彼はそこで、500万人が死んだと発言した。(注19)
 ドイツ軍が到着した瞬間から、ウクライナ占領者たちは、彼らの「イデオロギー的工作」のために飢饉を利用した。
 彼らが望んだのは、モスクワに対する憎悪が増幅すること、ボルシェヴィキによる支配の結果を人々が思い出すこと、だった。
 彼らがとくに熱心だったのは田園地帯のウクライナ人に達することで、ドイツ軍が必要とする食料の生産のためにはそうした努力が要求された。
 プロパガンダ用ポスター、壁新聞、時事漫画が、不幸で半ば飢えた農民たちを描いた。
 あるやせ細った母親とその子どもは、「これがスターリンがウクライナにしたことだ」というスローガンのある荒廃した都市を見た。
 別の貧しい一家は、「同志たちよ、生活はよくなった、愉快になった」というスローガンの下で、食物のないテーブルに座っていた。—このスローガンは、有名なスターリンからの引用句だった。(注20) //
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 第二節②へとつづく。
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