秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ペテログラード

2398/O·ファイジズ・人民の悲劇-ロシア革命(1996)第15章第2節④。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
 第一部・旧体制下のロシア…第1章〜第4章。
 第二部・権威の危機(1891-1917)…第5章〜第7章。
 第三部・革命のロシア(1917.2-1918.3)…第8章〜第11章。
 第四部・内戦とソヴィエト体制の形成(1918-1924)…第12章〜第16章。
 ——
 第15章/勝利の中の敗北。
 第2節・人間の精神の技師④。
 (14)通常の「ブルジョア的」設定を取り払って街頭、工場、兵舎に舞台を移すことで劇場を大衆にとってより身近なものにする、類似の試みが行われた。
 劇場はこうして、アジプロ(agitprop、煽動的宣伝)の一形態になった。
 その意図は、演者と観客の間の障壁を破壊し、劇場を現実と分ける舞台と客席の境界線(proscenium)を消し去ることだった。
 これら全ては、のちにBrecht が好んだMax Reinhardt によって開拓された、ドイツの実験劇場の技巧を採用していた。
 Meyerhold やその他のソヴィエトの監督たちは、観衆が演劇に対する反応を声に出すよう勇気づけることによって、観衆の感情を革命の教訓的寓話へと引き込もうとした。
 新しい演劇は、国家的次元と私的な人間生活の局面の両方での革命的闘争に光を当てて、強調した。
 登場人物は粗雑で非現実的な徴標だった。—山高帽をかぶる貪欲な資本家、Rasputin 的鬚を生やした極悪な聖職者、そして誠実で簡素な労働者。 
 こうした演劇の主要な目的は、革命の「敵」に対する大衆の憎悪を掻き立てて、人々を体制のもとへと結集させることだった。
 1924年にEisenstein が上演した、そのような演劇の一つの<モスクワのことを聞いているか?>は、ドイツの労働者がファシストの牙城へと突撃する場面が演じられる最終幕で、観衆たち自身がそれに参加しようとする感情を掻き立てる、というものだった。
 殺害されるファシストたち全員が、激しい喝采で迎えられた。
 観衆の一人は、ファシストの愛人役の女優に向かって、銃砲を弾こうとすらした。隣席の者たちが彼を正気に戻らせたけれども。//
 (15)街角劇場の最も壮麗な例は、十月蜂起三周年を記念して1920年に上演された、<冬宮への突撃>だった。
 この大衆的な見せ物は、—いずれにせよつねに混同されていた—演劇と革命の区別を消滅させた。
 1917年の革命劇が演じられたペテログラードの街路は、今や劇場に変わった。
 重要な光景が、宮廷広場の巨大な舞台で再演された。
 冬宮の多数の窓には、内部の異なる場面を順番に明らかにできるように、照明が灯された。そして、冬宮自体が、舞台の一部となった。
 <オーロラ>〔戦艦・巡洋艦〕は主役を演じた。ネヴァ(河)から大砲弾が放たれて、宮廷急襲を開始する合図となった。あの歴史的な夜に、実際そうだったように。
 実際の蜂起に参加した数よりもおそらく多い、1万人の役者たちがいた。彼らは、古代ギリシャの劇場の合唱団のように、革命という偉大な考えを人民の一つの行為として具現化すべく登場した。
 概算で10万人の観衆は、宮廷広場から、繰り広げられる行動を見つめた。
 彼らはケレンスキーのおどけた人物を嘲笑し、宮廷への攻撃中は大いに喝采を浴びせた。
 これが、偉大なる十月の神話の始まりだった。—Eisenstein が「記録ドラマ」映画の<十月>(1927年)で見せかけの事実(pseudo-fact)へと変えた神話。
 この映画の中の諸映像は、今なおロシアと西側の両方で、革命の本当の写真だとして、書物の中で再生産されている。//
 (16)芸術もまた、街頭に持ち出された。
 構成主義者たちは、芸術を美術館から取り出して日常生活に送ることについて語った。
 Rodchenko やMalevich を含む彼らの多くは、衣類、家具、事務所、工場を彼らの言う「産業スタイル」を強調してデザインすることに努力を傾注した。—単純な意匠、原色、幾何学的模様、直線。彼らは、これら全てが人々を解放しかつより理性的にするだろうと考えた。
 「対象だけではなく家庭の生活様式全体を再建設する」ことが自分たちの狙いだ、と彼らは言った。
 Chagall 、Tatlin のような何人かの指導的なアヴァン-ギャルド絵画家、彫刻家は、「煽動芸術」(agitation art)へと手を伸ばした。—建物や電車の装飾、五月一日や革命記念日のような多数の革命的祝祭のためのボスターのデザイン。このような祝祭日に、人々は、集団的な喜びと感情を示す公開の展示物によって団結するものと想定されていた。
 街じゅうが文字通り赤く塗られた(ときには樹木すら)。
 彼らは、彫像や記念碑を通じて、街路を革命の美術館に、新体制の力とその威厳の生ける聖像に、変えようとした。それらは文字能力のない者にも感銘を与えるだろう。
 国家による自己神聖化のためのこのような行為には、何も新しさはなかった。つまり、帝制体制も全く同じことをした。
 ロマノフ家により1913年に王朝300年を記念して建設されたクレムリンの外側のオベリスクは、レーニンの指令にもとづいて維持された。これは、じつに見事に皮肉なことだった。
 ツァーリ体制の碑文は、16世紀にまで遡る「社会主義的」祖先たちの名前で書き換えられた。
 その中に含まれていた名前には、Thomas More、Campanella、Winstanley があった。(*23)//
 (17)言い得るかぎりで、こうしたアヴァン-ギャルド芸術の実験のいずれも、心性や精神を変えるには少しも有効でなかった。
 左翼芸術家たちは、例えば大衆のための新しい美意識を創出していると考えたかもしれない。しかし、自分たちのための新時代的な美的感覚を作り出していたにすぎなかった。たとえ、「大衆」のうちにある何かを、彼ら自身の理想の象徴として表現していたのだとしても。
 労働者や農民たちの芸術的嗜好は、本質的に保守的だった。
 実際に、芸術問題についての農民の保守性を過大評価するのはむつかしい。1920年にボリショイ・バレェ団が地方を巡回旅行したとき、「<コルフェイ(coryphee)>が剥き出しの腕と脚を見せていることに深い衝撃を受け、呆れて上演から歩き去った」と言われている。
 現代主義芸術のこの世のものでない印象は、芸術を見知るのは聖像(icon)に限られていた人々にとっては、疎遠なものだった。(原書注記+)
 (+1930年代の社会主義リアリズムは、明らかにアイコンの性質をもち、宣伝としてははるかにより有効だった。)
 最初の十月蜂起記念日にVitebsk の街頭が飾られていたとき、Chagall は、共産党の職員からこう尋ねられた。「なぜ雌牛は緑色をしていて、なぜ馬は空を飛んでいるのか、どうして?
 マルクスとエンゲルスの結合とはいったい何のことだ?」
 1920年代の民衆の読書習慣に関する調査によると、労働者や農民たちは、アヴァン-ギャルド文学よりも、革命以前から読んできた、探偵小説や恋愛小説を好みつづけた。
 新しい音楽もまた同様に、成功しはしなかった。
 ある「工場コンサート」でのことだが、全てのサイレンと警笛が生み出す不協和音の騒音がひどかったために、労働者たちは、インターナショナルの旋律を識別することができなかった。
 コンサート会館や劇場は、最近に豊かになった、ボルシェヴィキ体制のプロレタリアたちで満たされた。—モスクワのボリショイ劇場には毎晩、彼らが噛んだヒマワリの種の殻が散らばっていた。だがなお彼らは、Ginka やTchaikovsky を聴きにやって来ていたのだ。(*24)
 芸術的趣味の問題となると、半ばの教養しかない労働者たちが望んだものは、ブルジョアジーにとって物まね芸がそうだった以上のものは何もなかった。//
 ——
 ⑤へとつづく。

2339/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節⑧。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.784-5。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑧。
 (21)ロシアの偉大な二人の詩人、Alexander Blok とNikolai Gumilev が死んだことは、Gorky にとって最後のとどめになった。
 Blok は、1920年にリューマチ熱に襲われた。それは、暖房のない居所と飢えの中で内戦を経験した結果だった。
 しかし、彼の本当の苦悩は、革命の結果についての絶望と幻滅だった。
 彼は最初は、腐敗した旧ヨーロッパ世界を浄化するものとして、革命のもつ破壊的暴力を歓迎した。腐った旧世界から、新しく純粋なアジア的世界—the Scythians—が出現するだろう、と。
 彼の1918年の叙事詩<十二>は、旧世界を壊して新世界を創ろうと、前の見えない吹雪をくぐり抜けて「革命と足並みをそろえて」行進する12人の赤衛隊員を描写していた。
 先頭には、白薔薇で縁取られた赤旗を掲げ、雪上を軽やかに歩む、イエス・キリストがいた。
 Blok はのちにこう記した。この劇的な詩を作っている間、「私は大きな物音を周りに聞きつづけた。—文字通り、私の耳で聞いたことを意味する。多数の音からなる物音をだ(たぶん旧世界が粉々に崩れていく物音だった)」。
 Blok はしばらくの間は、ボルシェヴィキのメシア的性格を信じつづけた。
 しかし、1921年までには、幻滅するに至った。
 三年間、詩作をしなかった。
 親友であるGorky は、彼を「迷子」に喩えた。
 Blok は、Gorky に死に関する質問をして閉口させ、「人間の叡智への信頼」を全て捨て去った、と言った。
 Kornei Chukovsky は、1921年5月の詩作朗読会でのBlok の様子を、こう思い出す。
 「私は彼と一緒に、舞台裏に座っていた。
 舞台上で『弁士』か誰かが…聴衆に向かって、陽気に叫んだ、詩人としてのBlok はもう死んでいる、と。…
 彼は私に寄りかかって、言った。『本当だ。彼は真実を語っている。私は死んでいる』」。 
 Chukovsky が、なぜあれから詩を書かなかったのかと訊ねたとき、彼はこう答えた。「全ての音が止まった。きみは、もはやどんな音もないことを知らないのか?」
 その月に、Blok は死の床に就いた。
 彼の医師は、外国に運んで特別の療養所に入れる必要があると強く主張した。
 5月29日にGorky は、彼に代わってLunacharsky に手紙を書いた。
 「Blok は、ロシアの現存する最も優れた詩人だ。
 彼が外国に行くのをきみが禁止するならば、彼は死ぬ。そして、きみとその仲間たちには、彼の死についての責任があるだろう。」
 数週の間、Gorky は、旅券の発行を懇願しつづけた。
 Lunacharsky は同意して、7月11日に、党中央委員会に書き送った。
 しかし、何もなされなかった。
 そしてようやく8月10日に、旅券が下りた。
 一日遅かった。一夜前に、詩人は死んでいた。(*18)//
 (22)Blok が絶望と遺棄によって死んだとすれば、わずか2週間後のGumilev の死の原因は、はるかに分かりやすいものだった。 
 Gumilev はペトログラード・チェカに逮捕され、数日間拘禁され、そして、審判なくして射殺された。
 彼は、君主主義者の陰謀に加担したとして訴追されていた。—彼は情緒的には君主主義だったけれども、ほとんど確実に虚偽の嫌疑。
 Blok の葬儀の際に形成された知識人の一委員会は、彼の釈放を訴えた。
 科学アカデミーは、審判法廷に彼が出頭するのを保証すると申し出た。
 Gorky は間に入って、レーニンと会いにモスクワへと急いで行くよう求められた。
 しかし、釈放せよとの命令書を持ってGorky がペテログラードに帰る前に、Gumilev はすでに射殺されていた。
 Gorky は動転して、せきをして吐血した。
 Zamyatin は、「Gumilev が射殺された夜ほどに怒って」いた彼を見たことがなかった、と語った。(*19)//
 (23)Gumilev は、ボルシェヴィキによって処刑された最初の著名なロシアの詩人となった。
 彼とBlok の二人の死は、Gorky にとって、そして知識人層全体にとって、革命の死を象徴していた。
 数百の人々が—Zamyatin の言葉では「ペテログラードの著作界に残っていた全員」が—、Blok の葬儀に参列した。
 そのとき少女にすぎなかったNina Berberowa は、思い出す。Blok の死が伝えられたとき、「一度も経験したことがなかった、自分が突如として明瞭に孤児になった、…最後がやって来た、喪失した」という感情に襲われた、と。
 Gumilev の最初の妻だったAnna Akhmatova は、Blok の葬儀の際に、詩人のためばかりではなく、一つの時代の理想のために、同じように死を悼んだ。
 「銀色の棺に入れて、彼を運ぶ。
  Alexander、われわれの純真な白鳥よ。
  私たちの太陽が、苦悩のうちに消え失せた。」(*20)/
 二ヶ月のち、自分の病気に苦しみながら、Gorky はロシアを去った。見たところでは、永遠に。//
 ——
 第一節⑧、そして第一節全体が終わり。
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