秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ペチョラ

2325/レフとスヴェトラーナ29—第7章⑤。

 レフとスヴェトラーナ、No.29。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.168〜p.174。省略した箇所がある。
 ——
 第7章⑤。
 (51) レフに逢うと決意して、かつ非合法に収容所に立ちいることで逮捕される危険を冒したくなくて、スヴェータは、レフを訪れる公式の許可を得るべく、収容所管理本部へ行った。その白い古典的建造物は、前年にLev Izrailevich と二人で木材工場へ行く途中で通り過ぎたところだった。
 こうするのは、勇気ある行為だった。なぜなら、MVDはほとんど確実に、1947年の彼女の非合法の収容所への侵入を知っており、今は彼女の逮捕を命じるかもしれなかった。
 スヴェータは階段を昇り、収容所所長のA. I. Borovitsky の執務室のドアを見つけた。そこは、木の床の広い廊下の端にあり、廊下には彼女が木材工場の発電施設の煙突を眺めることのできる大きな窓があった。 
 Borovitsky の執務室の大きな広間には受刑者が作った浮き彫りの石膏があった。それは北方の森の風景、建物地区、鉄道線路を表現していた。
 着いたとき、Borovitsky は不在だった。
 彼が現れるのを待った。 
 彼女は長旅の後で、とても疲れていた。
 スヴェータは、こう思い出す。「管理本部長を一日いっぱい待ちました。夜遅くまでずっと待っていました」。
 (52) 他の幹部たちと同じく、またスターリンがそうだったように、彼は、夜に仕事をした。
 どの執務室の時計もモスクワ時間に合わせられていた。
 首都にあるMDV から電話がある場合に備えて、幹部は誰も眠ろうとはしなかった。
 Borovitsky がやっと現れて、執務室に入らせた。机と大きな金庫の間に、彼は座った。 
 Borovitsky は丁重かつ慇懃に、スヴェータの願いにすぐに応じて、命令書に署名した。そして、内容が見えるように示してスヴェータの手の中に入れた。
 スヴェータは思い出す。「彼にとても感謝しました」。
 通りにいったん出て、手の中の書類をもっと近寄せて見た。
 「明るい街路灯か、たぶん探索灯かがあり、その光で私は文書を読みました。
 『軍人監視員の同席のもとで、20分の面会を許す』。」//
 (53) 面会は翌日に、第二入植区の受刑者用営舎への入口にある小さな監視員小屋で行われた。
 執務中だった監視員は、その上司よりも親切であることが判明した。
 その監視員は、テーブルと長椅子のある主な部屋から離れた私的な休憩室で二人が逢うことを認めてくれた。
 休憩室のドアは開けられたままだったが、監視員は入って来なかった。
 テーブルの上には、監視員が訪問者の記録を付けるための帳面があった。
 スヴェータに与えられていたのは20分だった。しかし、その監視員は彼女が到着した時間を記帳しなかった。
 もし誰かが尋ねたら、彼女はいま到着したばかりでまだ帳面に記録していない、と答えただろう。
 このようにして、レフとスヴェータは、その日に数時間、一緒にいることができた。
 監視員の執務時間が終わる前に、彼は、翌日の正午に来るように二人に言った。それは、彼のつぎの執務時間だった。
 スヴェータは、指定された時間に戻って行った。
 そのとき、レフも現れた。そして二人は、その日の午後全部を、休憩室にある長椅子に座って過ごした。
 その間じゅうずっと、ドアの後ろから外を見ると、収監者たちや監視員が監視員小屋に出入りしていた。
 そうした時間は、二人が期待した以上に長いもので、かつ同時に、救いようもなく不適切なものだった。//
 (54) 8月30日、スヴェータはペチョラを発った。
 彼女はレフの忠実な友人のStanislav Yakhivich と一緒に駅まで行き、彼が切符を買い、モスクワ行きの列車に乗せてくれた。
  Kotlas までの途中の車内で、スヴェータは書いた。
 「私の大切なレフ、あなたがいない二日めが来て、もう過ぎていきます。/
 私の車両は組合せ型(上で寝て、下で座る)で、人々は(寝台車よりも)頻繁に出入りします。
 でも私のいる仕切り部屋は全員がKotlas へ旅行していて、Kotlas で列車は5時間停車する予定です。
 Kotlas は恐ろしい場所です。—全行程中であんなに不潔なところはありません。
 眠ります。
 寒い夜ですが、綿入りの下着を身に付けています。
 その上に毛布をかぶりますから、凍えないでしょう。…
 森林にはもう湿り気がありませんが、秋らしい様子が美しい。…
 私の下の段には子どもたちがいます。—10歳の女の子、女の子と5歳の男の子、また別の3歳の女の子。
 この子どもたちは三人の姉妹の子で、三人姉妹の夫は全員が殺されました。—そして、一家族としてみんな一緒に生活してます。
 子どもたちは可愛い。
 さて、レヴィ、今はこれで全て。
 気をつけて。みなさまによろしく。」//
 (55) 9月4日にようやく、彼女は家に帰った。そして、両親が心配して具合が悪いことを知った(両親はスヴェータから一通の電報も受け取っていなかった)。
 その夕方、彼女はレフに書き送った。
 「私の大切な、大切なレフ、やっと家にに着きました。
 Gorky からもう一通の手紙を送りたかったのだけど、時間がなかった。
 旅行中にどこかの駅から二度、そしてKirov から手紙を出しました。
 雨のためにKirov では横道はどこも抜けられませんでした。でも泥土で、Kotlas のようなぬかるみではなかった。
 Kirov からGorky までの列車は非常な旧式でしたが、寝床は好くて、人々も素敵でした。それで、よい気持ちで到着しました。
 下の寝台には、まだ歩かず、話しもしない3歳の男の子を連れた母親とお婆ちゃんがいました。
 医師たちは、治療する必要はない、ふつうに静かに気をつけて育てれば6歳になるまでには良くなる、と言うそうです。
 その男の子は見つめるととても可愛くて—長くて厚い丸まったまつげのある大きな眼だった—、とても人懐こかった。…
 私とともに旅行しているやはりモスクワ市民の別の女性もいました。彼女は、夫を(夫が労働収容所から帰るのを)10年間待っていて、一緒になろうとKirov へと引っ越しましたが、その夫は誰か別の女性と結婚していたそうです。
 彼女にとって、世界は空虚な場所になりました。/
 ほとんど3時間遅れて、モスクワに入りました。
 家には8時頃に帰り、ママが階段の上で私を迎えてくれました。…
 今9時で、外は急に暗くなっています。
 はい、私の大切な人、とりあえずさようならと言います。
 全てを覚えていて。
 あなたの気持ちが平穏であるよう、考え過ぎてあなたの心がかき乱されないよう、願っています。
 でも、あなたの頭に何か好くないことが起きたときには、ただちに私に手紙を下さい。私が治療法を見つけます。
 ごきげんよう。みなさまによろしく。」//
 (56) スヴェータはいつも、誰かを失った人々に惹き付けられた。しかし、労働収容所で別の女性のために夫を失った女性には初めて遭遇した。
 そのモスクワ女性のような話は、決して異常ではなかった。
 多数の夫婦が、10年の判決によって引き裂かれた。
 —妻たち、諦める、収容所にいる夫を待つことができない、あるいは死んでいると思う、そうして他の誰かと新しい人生を始める。
 —夫たち、妻や子どもたちが「人民の敵の縁戚」として差別されるのから救おうとして離婚する気になる、あるいは妻に見切りをつけて、自分が体験したことをよく理解できるかもしれない収容所出身の女性たちと結婚する。//
 (57) スヴェータは、ペチョラへの旅行によって、今度は元気になった。
 帰ったあとで彼女はレフにこう書いた。
 「今日鏡で、自分の姿を見ました。
 Pereslavl'(-Zalessky) から帰ったときよりも、はるかに良いように見えます。」
 3日後、彼女は「この上ない幸福感を感じ、誰に対しても親切だった」。
 3週間後でも、旅の効果を感じていた。
 彼女は書いた。
 「幸せでいっぱいです。
 もう泣かなくなっただけではなく、先日は電車に乗っていて微笑んでいる自分に気づきました。」//
 (58) 一方レフは、スヴェータ以外のことを考えることができなかった。
 9月4日、彼女が安全に帰宅したという知らせをまだ待っているときに、彼は書き送った。
 「僕の大切な、美しいスヴェータ、僕の状態をどう描写すればよいかわかりません。
 『切望している』は正しくない。—とても心配してもいるのです。
 考えたり見たりしているのは、きみだけだ。きみの全部ではなくて、きみの眼、眉毛、そしてきみの灰色の衣服だけを見ている。」/
 5日後、まだスヴェータからの手紙を受け取っていないとき、10日の彼女の幸福な誕生日を祝って書いた。しかし、悲しい気分だった。
 「僕の大切なスヴェータ、明日はきみの誕生日だ。
 僕の大切な人、僕がきみに何かを望むのはむつかしい。—僕がきみに望むことと今そして将来に可能なことの間には、大きな違いがあります。
 僕が望んでいることの全ては、誰も信じない、狂人のたわ言のように聞こえるに違いない。
 明日までに僕の手紙がきみに届くのなら、手紙を書かないでしょう。
 我々の状況を無意味に思い出させて、きみを困惑させることは今日はしたくない。
 スヴェータ、スヴェータ、もしも運命がもっと寛大だったなら、運命が我々に微笑んでくれるなら。…
 将来に何が起きるか、それがどのようなものか、分からない。でも、我々には共通する一つのものがあると、僕は信じたい。
 本当に多すぎて、信じることはできない? …
 スヴェト、気をつけて。スヴェティンカ、健康でいて。」//
 (59) 9月22日、スヴェータが発ってから3週間後にも、知らせの言葉はまだなかった。
 他の収監者たちは、わずか数日前にモスクワから送られた手紙を受け取っていた。だが、レフには、何も来なかった。
 彼は心配して、我を忘れた。
 「僕の大切なスヴェータ、きみから手紙がまだ来ていない。
 書いているように、僕が考えていることを神は知っている。
 いま、きみに書きます。
 こっけいで感傷的な16歳の少年と心配している年老いたママのいずれのようにも見える32歳の薄のろだと、自分を恥じてはいません。ただ、僕がきみを苦しめていて、僕の嘆きによって悩んでいるのではないかと、恐れています。もしも全てがうまくいっていれば、郵便で何かするだけではないかと。
 これが、理由ですか?」/
 23日、ついに一通の手紙が届いた。
 「僕は最悪のことを想像していて、最も耐えられない状態でした。そのとき突然に全く知りもしない男がやって来て、手紙を手渡してくれました。きみの手書き文字を認めるや否や、その人に感謝するのを忘れました。
 スヴェーティク、きみは僕のものだ、僕の大切な人、輝かしいスヴェトラニンスカだ。
 ただ困るのは、手紙を読んでもきみを思い描けないことです。
 二人のスヴェータがいる。—一人は目で見ている。もう一人は、きみの手紙から現れてくる。
 この後の方のスヴェータを望むなら、きみが書いた手紙の文章を思い出す。でも、声がないままでやって来るし、きみの姿と結びついてもいない。
 きみを見たいなら、僕には手紙がない方が簡単だ。
 気をつけて。このことから僕は、きみの手紙がなくとも人生は容易だなどと言いたいのではありません。スヴェータ、僕の大切な人。」//
 (60) レフは徐々に、日常の仕事に戻っていった。
 冬が再びやって来た。
 労働収容所は準備をしていなかった。壊れた窓、建物の多くの屋根にある穴、そして、第二入植区の十分でない暖房や電灯。
 管理部では、木材工場全体にもう一度鉄条網を張ることを話し合った。しかし、何もなされなかった。
 11月、河が凍ると、氷の上に木屑で作った大きなかがり火を焚きながら、労働収容所の手作業での清掃が始まった。//
 (61) レフは発電施設で、忙しく修繕作業をした。
 <以下、略>
 (62) レフは、極北の「特殊体制」収容所へと運ぶ移送車についての新しい風聞で困惑していた。
 その移送車に乗せられる受刑者の名簿が最終的に発表されたとき、彼の最も親しい友人で寝台仲間のLiubka Terletsky の名もそこに載っていた。
 11月2日、Terletsky は、最も過酷な鉱山収容所の一つで、Vortukaへの鉄道路上にある、ペチョラの180キロメートル北にあるInta へ送られた。
 それはレフにとって厄災事だった。彼はLiubka を弟のように好み、その若さと肉体的脆弱さのゆえに、彼をいつも心配していた。
 <以下、略>
 (63) レフは友人〔Liubka Terletsky〕は移送を生き延びることができるだろうかと怖れた。
 10月3日、レフはスヴェータに書き送った。
 「Liubka は懸命の労働でひどい病気になり、神経を消耗し、体重を落としている。
 今の凍える寒さの中での旅行は身体的に強い者にとってすら困難なものなので、僕は最悪のことを恐れている。…
 誰かにこれほどに親密に感じることができるとは、思っていなかった。
 あと11ヶ月*、彼は耐えることができると思う?」
 〔*原書注記—Inta へ送られたとき、Terletsky に対する10年の判決で残っていた期間〕//
 (64) 友人たちの支えに大きく依存してこそ、収容所で生き延びることができた。そしてレフはLiubka を、労働収容所でのただ一人の本当に親しい友人だと思ってきた。
 <中略>
 12月3日、レフはLiubka に一通の手紙を書いた。 
 「さぁ、僕の友よ、きみに手紙を送ることを怒らないでほしい。
 この手紙が配達されるのかどうか、そしていつかすら、僕は知らない。
 もちろん、僕の側の惨めな利己心から書いた。—生きている魂に対して、若干の言葉を告げたいという望みに打ち克つことができない。手紙を通じてだけであっても。こちらには、生きている魂はいないのだから。
 きみは手紙を受け取らない方が良いのだろう。—僕はきみを知っている。だが、耐えられるなら、この手紙はきみには何の害悪にもならないだろう。/ 
 Liubka 、そこがどんなに悪い条件であっても、一つのことだけ考えよう。
 8年半辛抱して、9年目で諦めるのは愚かなことだ。9年めの後がきみにとってより良いかどうか、どちらであっても。」/
 レフは、Liubka が去って以降その月に発電施設で起きた全てのことを詳細に書いた。
 <中略>
 その手紙は、配達されなかった。レフはInta のTerletsky にどのようにして届けられるのかを知らなかったからだ。
 彼には、Terletsky がそこにいるのかどうか自体が確かではなかった。//
 ——
 第7章、終わり。第8章〜第12章がまだある。

2321/レフとスヴェトラーナ28−第7章④。

 レフとスヴェトラーナ、No.28。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.162〜p.168。
 **
 第7章④。
 (43) 〔1948年〕7月31日、スヴェータの母親が、三通の手紙を持って、モスクワから到着した。
 スヴェータは手紙を開くとき、昂奮をほとんど抑えられなかった。
 しかし、三つのうち最後の短い手紙を読んで、希望は失望に変わった。
 レフはその年の出逢いの可能性を全て排除し、賢明に観察していたが、ほとんど無頓着に「たぶん1949年はより良い年でしょう」と書いていた。
 スヴェータは立腹した—全てに。そして、レフにぶちまけた。
 自分が必死の思いで彼を訪れようとしているのに、その一年全体を待とうとしているのが、理解できなかった。
 絶望的になって、彼女は彼を叱った。何の確実さもなく、あなたと逢える
のを待ちつづけることができると考えているのか。
 8月2日、スヴェータは書いた。
 「レヴィ、気になる。分かっているの?
 たくさんの『もしも、だけでも』がなかったならば、私にはどんなに良かったか、ということを。
 あなたはこれに答えることができない。—質問ではなく、叱責です。」
 8月9日になってようやく、彼女はレフに多数の言葉を使って書くことができた。
 「私の気持ち(soul)が平穏で静かでなかったので(今でもそうでないけれど)、一週間、書かなかった。 
 ママがPereslavl' にいる私たちに会いに来て、あなたの手紙を持ってきたとき、再び、完全に、くずれ落ちました。
 (これは、あなたは手紙を書くべきではなかった、と言っているのではない。)
 私が早くペチョラに行かないようにする全ての分別ある大人に対して、休みをとるよう強く言うママに対して(全く正しいけれど)、腹を立てました。
 でも、もちろん、ほとんどは私自身に対してです。30歳になって、自分で物事を決定しているべきなのです。
 もっと早く急いであなたに逢わなかったことに、すぐに家に戻って研究所へ行って、仕事の旅行の手筈を整えなかったことに、怒りました。仕事旅行がまだ可能であればだったけど、今ではもう遅すぎます。
 そして私は、煮えくり返っている。どうすべきか、分からない。」/ 
 先の「叱責」が残酷と思われることを懸念して、スヴェータは、今はその意味を明確にした。
 「前の手紙で、自分がいなければ私の人生はもっと良くなる、とあなたが決して考えないようにと、私はあなたを叱りました。
 あの手紙を受け取っていない場合は、大事をとって、このことを繰り返します。」//
 (44) スヴェータは、激しく、レフに逢いたかった。
 彼の助言に従っていれば、さらにもう一年が、もう一度彼に逢わないままで過ぎてしまうだろう。
 1949年、自分は32歳になる。
 人生を開始するために、あとどのくらい長く待つことができるのか?
 子どもをもつまで、どのくらい長い時間が必要なのか?
 彼女は、レフと結びついていることの対価(cost)を分かっていた(彼は何度もこのことについて彼女に警告していた)。つまり、子どもをもてない可能性が大きくなっていた。
 そしてときたま、とても耐えられない、と感じた。//
 (45) スヴェータは、二通の「叱責」の手紙で、子どもの問題を提起していた。
 彼女はレフに、叔父のNikita と行った会話について書いた。その会話で叔父は、誰も「生命を生む権利」を有しない、「人々は自分たちだけのことを考えて、利己的な理由で子どもをもつ」と語っていた。
 スヴェータは「新しい生命は、世界により多くの良いことを生む可能性をもたらす」と答えた。
 彼女は、Nikita は気の毒だと思った。なぜなら、「彼の息子に対してより安楽でより愉快な人生を保障することができなかったのに、息子に生を与えたという、罪悪感をもっている」。
 答えは一人以上の子どもをもつことだ、スヴェータはそう結論づけた。
 かりにNikitaに子どもがもう一人いれば、「年下の子ども、あるいはもっと良いけど年上の子どもがいれば、今頃は彼にはすでに、何人かの孫がいたでしょう。その孫たちは彼を見守り、彼の人生に意味を与えてくれたでしょう。そうであれば、あのような考えが彼の頭に入り込みはしなかったのです。
 たぶん性別(gender)が違いの理由なのでしょう。
 女性にとっては、愛して子どもをもてば、人生はすでに達成されている。
 全ての(またはほとんど全ての)女性にとって、それは人生の中心目標なのです。公的生活や仕事等でいかほどにたくさんの様々な利益を得るかもしれないとしても。」
 (46) スヴェータは、モスクワに戻ってもう一度、ペチョラへ旅しようと決意した。—それも、夏が終わる前に。
 Natalia Arkadevna は、息子のGleb に逢うため、8月18日にペチョラに向かって出発することになつていた。 
 Nataliaとの間にはつぎの合意があった。スヴェータは、Natalia がペチョラのすぐ後でKirov への調査旅行へ行く費用を出すよう研究所を説得する。Natalia は、スヴェータの二回めの収容所訪問ができそうか否かを彼女に知らせるために、Kirov の郵便局へと電報を打つ。
 時間は経っていったが、十分な準備なしで旅行することの危険は大きかった。
 8月13日、スヴェータはレフに書き送った。
 「一方では、可能性は毎日少なくなっています。
 他方では、必要な取り決めを行っていないで旅行するのは不可能です。—そして、この取り決めの調整がとてもむつかしい。/
 それで、N. A. が到着するのを待つこと—そうすると彼女が私に電報を打つことができる—が最も賢明な選択肢のように思えます。…
 彼女は18日に出発する予定です。だから、19日より以前に電報を打つことができそうにありません。従って、私は20日までにKirov に行っている必要があります。
 これ以上待つのは恐ろしい。
 最良の手段を見つけることはできない。
 たぶん、彼女と一緒に旅行するのが良かったのでしょう。でもその場合は、切符入手の問題が生じたかもしれません。
 彼女から知らされていなければ、自分で危険を冒すだろうし、その場合は22日か23日に着くことになったでしょう。
 もちろん、Kirov から電報を打ちます。でも、それでは時間的に間に合ってあなたに届かないかもしれません。
 こんな計画を一切しないで、いつかお互いにもう一度逢うことができれば素敵です。
 新しい時刻表(今年用)によると、列車は夜にはもう着かず、午前の10時と11時の間に着きます(I(Ivan Lileev—Nikolai の父親)によるとです)。でも、たぶんひどく困難ではないでしょう。
 迎えにくる人がいなければ、直接に住居に行かずに、仕事中の人(軽い鞄を持っていて、今着いたばかりという明らかな兆候のない人)を探します*。
 〔*原書注記—スヴェータは名を隠した自発的労働者との接触について書いている。その人物は工業地帯内部の住居区画に彼女を泊らせることになる。実名は、Boris Arvanitopulo(木材工場の発電施設の長)とその妻のVera。〕
 これが最善だと思う。—間違った動き方をしないかと神経質になっています。
 私の愚かな頭で、その人(Arvanitopulo)の名前と休日中の姓を何とかして忘れました(イニシャルは憶えているけど)。そして、手紙のいずれからも必要な情報を探し出すことはできません。失くしたからです。
 最も重要な詳細が書いてある手紙は、手渡すためにどこかに片付けたことを憶えている。でも、『どこか』とはどこ?
 手紙類を、もう一度全部読み通さなければなりません。
 同名の人(Lev Izrailevich)への希望をまだ持ちつづけています。
 予定の日々と期間にはどこにも行かないことを確かめたくて、彼に手紙を書き送りました。 
 結局のところ、彼は私の行き方をほとんど知っていません。
 運命が私に逆らうのがとても怖いので、旅行の日程と戸惑ったときの時間を誰にも言っていません。
 閏年なのですが、だまし通して、こっそりと接近したいと思います。
 恐くて、何かを携行して運ぼうとは全く計画していません。…
 お願いが三つ。1. すぐに私に電報を打つ。2. 私の考えを理解する。3. 逢う。」
 (47) 5日後、スヴェータはまだモスクワにいた。
 列車の切符を入手するのに手間取ったからだ(人々が切符売場で行列を作るソヴィエト同盟では、珍しくなかった)。
 8月18日に、彼女はこう書いた。
 「いつ出発できるのか、神だけが知っている。
 三ヶ月の間に業務旅行をする人々のための特別の売場はありませんでした。
 運が好いと、事前予約所で一日以内に切符を買うことができます。または、翌日に並び順を変えないで始められるように人名が記帳されているので、二日以内に。…
 でも、自分が愚かなため、もう二日も使って何も得ていません。
 行列の中に私の場所をとり、Yara と一緒に仕事に出かけ、ママが私を引き継ぎましたが、ママが窓口に着くまでに切符は売り切れました。そして、ママは行列の中の位置を確保しておかなければならないことを知らずに、家に帰りました。
 ママは自身に腹を立てて、翌朝早くに行列の中に立ちました。でも、私が交替しようと到着したときに判ったのは、Gorky 方面行きの列車の切符は別の窓口だと言った警察官の話をママが信用してしまっていた、ということでした。
 短く言うと、ママは私がいた行列の中に立ってはいなかったのです。そして私には、もう一度最初から並び直す時間がありませんでした。研究所に行かなければならなかったので。…」/
 結局、あれこれの混乱があった後、スヴェータの母親は、21日付の片道切符を何とか購入することができた。
 その切符の有効期間は6日で、スヴェータがKirov の工場で仕事をし、ペチョラまで旅をするのに、際どいながら、ちょうど十分だった。
 彼女はKirov へ先に寄るかそれとも帰路にするかを決めなければならなかつた。
 先にKirov で降りることにした。
 このことによって、郵便局へ行って、Natalia Arkadevna からの電報が着いているかを調べ、帰りを延長するTsydzik に連絡することができることとなる。
 また、帰りの直通切符を買うことができることも、意味しただろう。
 彼女はレフに、「Kirov で停車するのは悲しいけれど、そこが済むと不安は少なくなるでしょう」と書いた。//
 (48) 8月21日、スヴェータはモスクワを出発した。
 Kirov に着いて電報を打った。それをレフが受け取ったのは、その翌日だった。
 しかし、彼女の指示に反して、彼は返答しなかった。彼女に届くにはもう遅すぎると考えたからだった。
 その代わりに、レフは彼女が到着するのを待ち受けていた。
 スヴェータを迎え、彼女が宿泊するのに同意していた彼の友人かつ上司のBoris Arvanitopulo は、23日に〔ペチョラ〕駅へ行った。
 列車が到着したのを見守り、駅のホールへと通り過ぎていく乗客たちの中にお下げ髪でリュックを背負った細くて若い女性を探した。
 乗客たちの中に、スヴェータはいなかった。
 24日、彼はまた駅へ行ったが、彼女はその日の列車のいずれにも乗っていなかった。
 そのつど、Boris はスヴェータを伴わずに収容所に帰ってきた。そしてそのたびに、レフは、心配して気が狂いそうになった。
 24日付で、彼はこう書いた。
 「僕の大切なスヴェータ、ここに座って考えている。来るのか、来ないのか?
 来ないのなら、全てが、N. A. に耳を傾けて**、K.(Kirov)へ電報を打たなかった僕の過ちだろう。
 他に何も考えることができない。
 たぶん、きみに何かが起きたのだ。」
 〔**原書注記—Natalia Arkadevna はレフに電報を発しないよう助言したに違いない。〕
 (49) スヴェータは実際に、苦しい状態にあった。
 Kirov とKotlas の間の線路上で、列車の後方の客車のいくつかが切り離された。検査官がそれらの車両に欠陥を見つけたからだった。
 前方の車両に座席を確保しようとする乗客が、前へと激しく突進した。
 スヴェータは持ち物をさっと掴んで、列車が動き始めるまでに、やっと前方の端の車両に座席を見つけた。
 さほど早くなかった他の乗客たちはどうなったのか、彼女には分からなかつた。
 もっと大きい危険が、やって来ることになった。
 彼女は、Kotlas 駅の庭でリュックの上に座っていた。ペチョラ行きの列車を待ち、かつ注目を避けることを期待したからだった。
 そのとき、一人の警察官が近づいてきた。
 彼女は、最初の旅の際に助けとなったカーキ色の礼服ではなく民間人の衣装だったので、おそらくは駅のホールの中で待たないのが良いと考えていた。
 警察官は彼女に書類を見せるように求め、どこへ旅行しているのかと尋ねることができただろう。
 しかし、その警察官は友好的であることが判った。ただ彼女の安全を気に掛けたのだった。
 彼は、この辺りには泥棒が徘徊している、列車を待つのならホールの中の方が安全だ、と告げた。//
 (50) 〔1948年8月〕25日、スヴェータはついにペチョラに着いた。
 Arvanitopulo は駅で彼女を迎え、木材工場を周る塀のすぐ外にある自分の家へ連れていった。
 Arvanitopulo 家には電話があった。
 Boris は発電施設での火災に備えていつも電話での呼び出しに応じる状態にあった。発電施設にも電話があり、レフが交替執務中は利用することができた。
 スヴェータは、レフに電話をかけた。
 その呼び出しは、電話交換所のMaria Aleksandrovskaya を経た。この女性は、前年に二人を自分の家に泊らせた人だ。
 レフはスヴェータに、非合法に労働収容所に入る彼女の計画を監視員に知らせた者がいる、「彼らは彼女を逮捕する機会を躍起になって待っている」と言った。
 しかしながら、全ての監視員が敵対的ではなかったように見える。彼らの一人が、その危険性をレフに警告していたのだから。
 レフは、発電施設の地下にある貯蔵室を「密議(conspiratorial)の部屋」に改造していた。首尾よくやって来れば、スヴェータはそこで彼と一緒に過ごすことができる。//
 **
 第7章⑤へとつづく。

2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。

 レフとスヴェトラーナ、No.27。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.156〜p.162。一部省略している。
 ——
 第7章③
 (31) 移送車に乗せられるという危険は、1948年には現実的だった。その頃、第四入植区が開発中で、木材工場の受刑者たちがそこへ運ばれていた。
 <以下、略>
 (32) レフは6月24日にスヴェータに書き送った。「収監者たちの大部隊」が不穏状態に対処するために北シベリアの収容所へと移されるという噂がある、と。
 彼は状況を明らかにできるまではどんな小荷物も送らないように、スヴェータに警告した。自分自身を含む政治犯が最初に、可能性としては「つぎの数日以内に」、移送車へと選抜されるのではないかと予期していたからだ。
 6月25日にもう一度書いて、今度はペチョラへの旅を計画しないように助言し、自分が移送された場合に備えて、Aleksandrovich 経由で手紙を送るように頼んだ。/
 「スヴェティッシェ(Svetische)、来ることを考えているきみへの助言です。旅をするために休暇をとってはいけない。
 仕事の旅行に特別の努力が何も要らないとき、本当にそのときだけ、ここに来ることを考えて。
 うまくいく可能性は、あさっての段階では実際には無きに等しくなるだろう。
 最も重い条項(58条)による者はみんな、仕事をやめさせられているように見える—『一般的』業務をしている者以外は。そして彼らは、「増強体制」〔原書注記—省略(試訳者)〕と再定義されている第三入植区(川そば)へと再配置されている。
 きみがたとえ短時間でも、工業地帯(僕たちが今働いている所)に滞在するのは完全に不可能だろう。
 ただ個人的な例外があるときにだけ、可能だろう。
 でも、もう一度言うけど、その可能性は実際にはゼロです。—今度は、とても困難になりそうだ。…
 一番良いのは、訪れようとしないことだ。
 スヴェト、聴いていますか?
 僕が言うようにして下さい。
 これが僕の最終決定だと受け入れて下さい。… 
 スヴェト、分かった?
 これが今の状態です。
 先のことは、後で話し合いましょう。今の時点では何が起きるのか推測すらできないのだから。…
 必要なときには、'Zh(aba)'(Aleksadrovich)が新しい仕事を得たときに数日以内に、新しい宛先の住所を伝えます。
 でも、その住所は、頻繁には使わないで。
 当面かぎりのものです。 
 スヴェティッシェ、もう一つだけ。
 この手紙を保管してはならない。—番号を振っていないのは、そのためです。
 受け取ったことを僕に知らせるよう、手紙を下さい。—念のため、25日付で配達されたもの。」/
 スヴェータは、レフが望んだようにはしなかった。
 彼の手紙は貴重だった。スヴェータは、全てを残し続けた。
 レフと逢うという計画を断念することも、しなかった。//
 (33) レフとスヴェータは、4月以降、二度目の旅について語り合ってきた。
 スヴェータは今度は、前よりはるかに不安がった。
 元々の計画は、夏に行くことだった。
 彼女の上司のTsydzik は、前年よりも多く時間をとるように助言して、その考えを励ました。 
 4月16日、スヴェータは、レフにこう書き送った。
 「昨日、M. A.(Tsydzik)が、いつKirov へ行こうと計画しているのかと尋ねました。
 8月の休暇を申請した、その月のKirov のタイヤ工場の定期検査のために名前を登録した、と彼に告げました。
 でも、彼は言いました。『7月に行きなさい。その方が暖かい。また『sit』〔原書注記—刑務所に「座っている」人々をこう呼んだ〕でしばらくの間は、きみは去年と全く同じように全てのことをする必要がないから』。
 そして、今はそうなっています。
 でも、今度は前回よりもはるかに恐ろしい。
 どういう訳か、うまく行かない結末への覚悟を、前よりもしています。そして、ほんの少し無感情です。
 でも今は、考えることすらできない。」//
 (34) 5月の末、Kirov への業務旅行の終わりに北へ旅するというスヴェータの計画は、危うくなった。
 研究所が、協力組織から予定されている支払いがまだ行われていないので、科学者による検査は延期すべきだと警告していた。
 スヴェータはレフに書いた。
 「仕事の旅行を夏の間にすることになれば、7月の休日を利用します。
 望んでいることではありません。
 私が不在であると研究所で目立つので、必ず気づかれます。そして、みんながどこにいたの、何を見たの、と訊き始めるのです。」
 レフは同意しなかった。 
 Tsydzik の助言に従った方がよいと感じた。彼女の旅を隠す彼の助けに依存しているのだから、と。
 レフはまた、7月よりも後に旅行するのは「困難なことになるかもしれない」と怖れた。
 7月8日、スヴェータに手紙を出して、かつてペチョラに来たときに出逢いを提供したTamara Aleksandrovich に旅行の詳細について書き送るように言った。
 (35) しかし、今ではシベリアへの移送の噂が広まった。レフは、自分は第三入植区へと移動されようとしていると考えて、6月25日にスヴェータに、全ての計画を廃棄するように促す言葉を送った。
 このメッセージを送った後で、6月27日に判明したように、状況は再び変化した。
 レフは書いた。
 「気まぐれな地方の(または地方のでない)権力の最新の決定で、全ては現状のままに、またはほとんどそのままに、残ります。少なくとも来月の間は。提起された改革(6月25日の僕の手紙を憶えている?)が実施されないと、計画の達成がひどく困難になるからです。」
 受刑者たちの移送車が、シベリアから第二入植区に到着したばかりだった。
 レフは「シベリアは、第三入植区の後に我々を動かすと計画されていた場所だ」と説明した。そして彼は、これは受刑者たちを送るのを遅らせる決定が下されたことに「ある程度の信憑性」を与える。と考えた。
 彼はこう思った。
 当局は「最も重い条項による『信頼できない者たち』を集中させる場所にしようとしている、というのはあり得る。
 スヴェータ、25日の僕の手紙の助言は生きたままだ。
 この手紙の紙切れは、速読のためのものにすぎない。
 すみやかにもう一度書きます。でも、これを今すぐ送らなければならない。」//
 (36) 7月1日、レフは、第二入植区が政治犯たちの「増強体制」になろうとしていること、より軽い判決の者たち、いわゆる「ふつうの条項」(窃盗、殺人、ごろつき、労働放棄等々)による者たちは生活条件がまだましな第三入植区で維持されようとしていること、を確認した。 
 レフはこう付け加えた。
 「見るところ、我々(第二入植区にいる政治犯)に特別の制限を加えようとしているのではない。でも、いま工業地帯の内部で生活している自由労働者たちは、立ち退かされようとしている。自由労働者と専門的被追放者が雇用されていた小さな生産単位とともに」。
 自由労働者たちが工業地帯から離れることは、スヴェータがAleksandrovsky の家でレフと逢った、前年のような取り決めを反復するのを全て排除することになるだろう。//
 (37) 工業地帯内部での治安確保措置が強化されたことについて、レフは正しかった。自由労働者たちの排除が切迫しているという風聞は、全体としては正確ではなかったけれども。
 木材工場の収容所幹部たちは実際に、自由労働者と受刑者の間の接触を撲滅するためにより警戒することを決定していた。
 5月12日の秘密の党会合で、彼らは、手紙類の密送(smuggling)、ウォッカの黒市場、収監収容所への権限なき訪問者による悲合法の立ち入り、等の多数の治安違反について、こうした〔自由労働者と受刑者の間の〕接触が原因となっている、ということに合意していた。
 彼らは、自由労働者を工業地帯から外に移動させることについて考えた。しかし結局は、地帯の外での新しい家屋の建築が必要になるので実際的ではないという理由で、その案を却下した。
 その代わりに幹部たちが決定したのは、自由労働者が生活する居住区画と残余の工業地帯の間の分離を、監視員小屋付きの新しい鉄条網の塀を立ち上げることで強化する、ということだった。//
 (38) スヴェータはその夏にペチョラへ旅するという計画を進行させていた。
 6月25日、まさにレフが彼女にまだ届いていない手紙を書いていた日に、レフに書き送った。
 「問題は解消されました。
 Kirov へ行き、そして昨年のようにすぐに向かうつもりです。
 休暇期間を延長して、私が本当にいたいところで、できるだけ長く過ごします。」
 4日後、研究所の会計主任が、早くても8月末まで業務旅行用の金がない、と彼女に告げた。それでスヴェータは、休日の日程を7月へと変更することを申し出た。
 そのときにペチョラへと旅するつもりだった。
 彼女は、7月10日頃に出発する予定にした。そして、Lev Izrailevich〔レフの同名人—秋月〕に手紙をすでに出して、自分の到着予定を知らせた。 
 Tsydzik は休日について同意したが、スヴェータの本当の計画を隠す手段として、ともかくもKirov へ行くように彼女に助言した。//
 (39) 7月8日、スヴェータは、レフの手紙を受け取った。治安が強化されたこと、彼女が来るのは勧められないこと、が書いてあった。
 彼から新しい知らせを受け取るまでは何もしようとはしなかった、とスヴェータは〔後年に?—試訳者〕語った。
 夏の期間の実験所について責任をもつ、誰かがいる必要があった。
 それで8月中ずっと、Tsydzik が休暇で過ごしている間、モスクワにとどまろうとした。そして9月には出発して、ペチョラへか、またはそこはまだ可能でなけれぱ、モスクワから北東に100キロメートル離れたPereslavl'-Zalessky へ行くつもりだった。Pereslavl'-Zalessky では兄のYaroslav が一週か二週の間別荘を借りていたので、そこに滞在することになるだろう。//
 (40) レフはこの頃、治安強化の影響を感じていた。
 7月7日付でスヴェータにこう書いた。
 「彼らはゆっくりと、あらゆる種類の新しい厳しい規則をここに導入している。今のところは重大な不快さを被ってはいないけれども。」
 彼は10日間、スヴェータからの手紙を受け取っていなかった。そして、これが新しい体制〔「増強体制」〕の結果なのかどうかを知らなかった。
 「全てのものは変化し得る。一振りで色は変わる。カレイドスコープのように」。//
 (41) 翌日、レフはLev Izrailevich と連絡をとった。
 発電施設から電話をかけた。そこには工場ので火災が起きた場合に備えて一台の電話器があった。そして彼から、スヴェータはなおも旅行を計画していることを知らされた。
 治安確保措置が、順調に稼働していた。
 7月半ば、政治的受刑者用の新しい移送車が到着する準備として「特別追放者」が工業地帯から移動させられた。このことは、木材工場は特殊な体制の収容所になるだろうとのレフの考えを強めた。
 7月21日、レフはスヴェータに対して、この夏に出逢いを計画するのはきわめて困難だと、再び警告した。
 彼は書いた。
 「たぶん1949年はより良い年だろう。
 いわゆる増強体制が、来週を待たずに実施されようとしている。」//
 (42) 休暇を遅らせると決めたにもかかわらず、スヴェータの母親は、休みをとって、Pereslavl'-Zalesskyにいる兄の家族に7月半ばから加わるよう説得した。
 彼らの木造の夏の家には果樹園があり、松林に囲まれた静穏な湖を見渡せた。
 美しくて、閑静だった。
 彼らは湖上にボートを浮かべ、きのこ狩りをした。
 スヴェータは、たくさん寝た。
 しかし、レフなしでは精神的な安らぎを見出すことができない、と感じた。
 7月23日に、こう書いた。
 「私の大切なレフ、一週間がもう過ぎ去り、私は何も書かなかった。
 睡眠を取り戻し、日光浴をしました。
 みんなが、私は少し明るくなったと言います。
 私は自分らしく、分別をもって振る舞っています。泣いてはいません。
 あなたについて考えないようにしていますが、朦朧とした中であなたに逢っているところの夢を見ました。
 あなたの手紙、そこに書かれていること、何が可能で何が可能でないかについて考えないように、きつい皮ひもで自分を縛りつづけています。
 ここでひどく悪いということは決してありません。でも、これは私の頭が語っていることで、心(heart)の言葉ではありません。
 湖、森林、あるいは私の存在とともにある空気を、楽しむことはできません。
 私の身体は休んでいますが、心(soul)はそうではありません。」//
 ——
 第7章③、終わり。
 ++++
 下は、原書の巻末にある地図・図面の一つ。
 青緑で囲まれた(鉄条網つき)区域がWood-Combine=「木材工場」と試訳。この中に〔下で記載はないが、斜め下半分弱?〕、Industrial Zone =「工業地帯」があり、その端(工場全体では中心に近い所)に<発電施設>がある。
 木材工場地区の中に「2nd Colony 」=「第二入植区」がある。第三入植区と診療所は外。
 右上からの赤色の線は、1947年にスヴェータが来るときはLev Izrailevich と二人で、帰りは一人で歩いた道〔ほとんどが「ソヴィエト通り」で、角から正門までだけをSchool Street と言うようだ)。


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 ++++

2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。

 レフとスヴェトラーナ、No.24。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。ごく一部、原文のままにしている。p.132-p.138。
 ——
 第6章④。 
 (33) スヴェータが監視員に自分は居住区画に住んでいる自発的労働者の妻だと告げたとき、その監視員は夫が迎えに来なければならないと言って、彼女が入るのを拒否した。
 通行証をもつIzrailvich は、この地帯にいる彼女の「夫」を見つけて、監視小屋まで連れて来る、と言った。 
 Izrailvich は、長い間行ったままだった。
 監視員がスヴェータに対して粗雑に話しかけ始めた。その際彼は、彼女の策略だと推測していることを示唆するふうに、「北方の奥さん」(収容所の受刑者である夫と一緒にいる女性)と悪態をついた。
 ようやくIzrailvich が、「夫」とともに現れた。—濡れて雫を落とし、明らかに酔っ払っていた。この人物は居住区画の自由労働者で、スヴェータの配偶者役を割り当てられていたが、端役を演じるときになって酔っ払って寝てしまい、Izrailvich がバケツ一杯の冷たい水をかけて覚醒させなければならなかった。
 スヴェータは、こう思い出す。
 「その人は、ばつが悪い思いをしているようだった。
 キスをするのを避けて、身体を彼に向かって投げ出して、悪罵の言葉を発し始めた。
 『手紙を出したでしょう !! それなのに、迎えにくる手間さえかけなかった。』
 すると彼は、恥ずかしそうにしながら、『行こう、行こう』とだけ言った。」
 監視員が質問する時間をもつ前に、スヴェータとその「夫」は、刑務所地帯へと入り込んだ。//
 (34) 二人は、「夫」が住んでいる家屋に着いた。
 彼には妻がいることが判明した。その妻は、そこでレフをスヴェータと逢わせる約束を夫がしていることを聞いていなかった。
 息がひどくアルコール臭い夫に対して妻が叫ぶ、怒り狂った場面が見られた。
 スヴェータはこう思い出す。〔その妻の振舞いは〕「嫉妬からではなく」、発覚して、レフとスヴェータの犯罪を「助けて支援した咎で刑務所に入れられるかもしれない、という恐怖から」だった。
 レフはその家に早くに着いていて、スヴェータが到着するのを待って、外で隠れていた。
 この場面の真っ最中に姿を現して、心配になって怒り狂った妻からスヴェータを守ろうとした。
 これは、彼らが夢見た再会の仕方ではあるはずがなかった。—叫ぶ女と酔っ払った男が住む見すぼらしい家屋で再会するとは。しかし、それが現実だった。
 二人は6年間、この瞬間を待ち望んできた。だが、思い描いていたに違いないものとは大きく違つていた。二人は何ものにも邪魔されずに逢うはずだった。
 緊迫した、危険な状況だった。—妻はひどく怯えて、激怒していたので、自分の無実を証明しようとして監視員を呼ぶかもしれなかった。二人はとりあえずは、部屋の反対側に目を向けるしかなかった。
 レフはこう思い出す。
 「われわれは、感情を抑えなければならなかった。
 お互いに身を投げ出して、抱擁し合うような状況ではなかった。
 われわれがしていることは高度に非合法だったので、警戒していなければならなかった。」//
 (35) その夫婦は、居住区画にある木造家屋の一つの上階に2部屋で生活していた。一つには家具があり、もう一つは完全に何もなかった。
 スヴェータは思い出す。
 「彼らは、私たちのために2個の椅子を持って来た。
 そして私たちは、レフの友人が二人が隠れる別の場所を探しに離れている間、空の部屋にともに座っていた。
 そのうちに、Aleksandrovsky の所で泊まることができるという伝言が届いた。」
 (36) Aleksandrovsky 家は居住区画の近くの家屋に住んでいたが、電話部員のMaria は、自分用家屋にして2人の小さな男の子たちと生活していた。
 彼女の夫のAleksandrovsky は、ペチョラ拘置所にいた(鉄道駅の喫茶室で彼から盗もうとした者と喧嘩をして、「フーリガン主義」だとして訴追されていた)。
 Maria は、ソヴィエト通りの電話交換局で夜間勤務をすることになっていた。
 彼女は午後に監視員とその妻の訪問を待っていたが、その二人が立ち去るや否や、灯りを全て消して、レフとスヴェータが自分の家に来ても安全だ、という合図を送ることになっていた。//
 (37) 暗くなると、すみやかにレフとスヴェータは外に這い出し、可能なかぎりす早く、Maria の家へと移動した。
 Maria の窓の反対側にある積み重なった丸太の背後に隠れて、二人は監視員が離れるのを待った。
 身を潜めている間、もう一人の監視員が二人のいる所へと向かって来た。
 発見されたと思い、最悪のことを恐れた。すなわち、スヴェータは逮捕され、国家反逆罪で訴追されるだろう。レフは数年間の刑を追加され、移送車でさらに北へと送られるだろう。
 しかし、そのとき、積み丸太の反対側で放尿する音を二人は聞いた。
 それが終わると、その監視員は立ち去って行った。//
 (38) やがてMaria の家への訪問者は出て行った。
 彼女の家の明かりが全部消えた。
 レフとスヴェータは隠れ場所から姿を現して、内部へと入った。
 そこには二つの狭い部屋しかなかった。一つには通常はMaria が寝ている一人用寝台、テーブル、椅子があり、もう一つの床には男の子たち用の寝具があった。
 レフとスヴェータが入って来たとき、二人の男の子はMaria の部屋で眠っていた。それで、レフとスヴェータはもう一つの部屋を使った。
 スヴェータは思い出す。「その夜、少しも眠らなかった」。
 レフが付け加えた。
 「二人だけ、二人一緒に残され、怖れるものはもう何もなくなって、二人の少年は寝入っていたときです。そのとき初めて、われわれは自由に行動し、思うかぎりにキスをし、互いに抱き締め合いました。
 でも、…。これ以上言うつもりはありません。」
 レフが言い淀んだことを、のちにスヴェータが明らかにした。
 「私は彼に尋ねました。『Do you want to ?』」
 すると彼は考えて、こう答えました。『でも、後でどうなるのだろうか?』(what would happen afterwards ?)」//
 (39) レフとスヴェータはMaria の家で、一緒に二晩を過ごした。
 レフが昼間に発電施設で働いている間、彼女は中にいてMaria の子どもたちと遊んだ。
 二日めの夕方、レフとスヴェータは、実験室のStrelkov にあえて逢いに行くという冒険をした。
 何人かのレフの友人たちが、挨拶するためにやって来た。—彼らはみな、自分たちを訪れるという大きな危険を冒している若い女性に対して、多大の称賛の気持ちを示した。
 また、持っていき、自分たちに送るように、手紙類を彼女に渡した。
 (40) その翌日、スヴェータを密かに送り出すために誰かがやって来た。彼女はその人物が誰かを憶えていなかった。
 自分で鉄道駅まで歩き、切符売場のそばの広間で待った。切符売場は列車が到着する直前にだけ開くからだった。
 手枕をしてスーツケースに座っているうちに、疲労で寝入ってしまった。列車が到着して他の全員が乗車した後で目醒めた。
 持ち物をさっと掴み、切符を買って、彼女は、列車に向かって走った。
 切符を買った乗客用車両はすでに満員だった。しかし、「ガラ空きの、一種の衛生車両」に入ることが許された。
 彼女は、長椅子に横たわり、再び眠り込んだ。
 (41) Kozhva で目が覚めた。
 夜はもう遅かった。
 スヴェータはLev Izrailvich の家へ行き、そこで朝まで眠った。
 彼女が出発する前に、Lev Izrailvich は、レフへのお土産として、彼女の写真を2枚撮影した。
 一枚では、写真スタジオのように幕として吊り下げた布を背景にして、スヴェータが枝編み細工の籐椅子に座っている。もう一枚では、Izrailvichの家を出発するときに、コートを着て鞄を持って立っている。//
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 下は、その2枚。1947年9月の末日頃だと見られる。スヴェータ、誕生日がすぐ前にあって、30歳。原書p.137(下左)、p.136(下右)。後者の背後に見えるのが「土地に掘り込まれた」Izrailvichの家だろう。—試訳者。


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 (42) スヴェータはこれを、レフのためにKozhva で投函した。
 「私の大切なレフ、まだKozhva にいます。
 昨晩は直通列車がなかったのですが、今日はそのための切符を得ようとするでしょう。
 L. Ia.(Izrailvich)が明日、私の出立についてあなたに話すでしょう。
 とても素敵でした。…
 (ペチョラの)駅で、そして(Kozhva までの )移動中に、眠りました。
  I(Izrailvich)の家に深夜に着いて、そっと彼を揺り起こしました。
 そうして私は、また朝まで寝て、一度も目醒めませんでした。」
 「今のところ、私は元気です。調べ抜いた小さな穴から、一滴の水も流していません。
 そのためか、全てがまだ夢のようです。
 レヴェンカ、Askaya(Aleksandrov Maria)を家で見なかつたと、昨日 G. Ia(Strelkov)に言うのを忘れました。—そう彼に言っておくのを忘れないで。…
 レフ、私のためにしてくれたみんなに、もう一度感謝します。
 言葉では気持ちを言い尽くせません。でもたぶん、みんな理解してくれるでしょう。」
 「私の大切な人、ごきげんよう。もう一度キスをしてお別れにします。
 L. Ia.(Izrailvich)が、あなたにびっくり(surprise)を用意しています。—今は内緒です。」//
 レフは同じ日に、スヴェータにあてて書いた。
 「僕だけの素敵なスヴェータ、今日は天気も乱れています。
 風が強くて、今朝はひょうが降りました。全てが陰鬱で、悲しい。
 僕の同名人が来るのを待っています。—たぶん、明日来るでしょう。
 もちろん、心配しています。…
 今朝、9時まで、Gleb(Vasil'ev)と少ししゃべりました。
 我々は、お茶を飲みました。
 みんなStrelkov の所にいて、僕は出るとき、ガラス枠の下の<秋の日>を見せて、Strelkov の寝床の上に架けました〔原書注記—Isaac Levitan の有名な風景画の複製で、スヴェータが贈り物として持ってきたもの〕。そして、「幸運」のためにその下に座りました。…
 Nikolai(Lileev)は今日の夕方に来たがっていて、Oleg(Popov)は少しあとで立ち寄るでしょう。でも、僕はひとりでいたい。」//
 レフは、スヴェータが安全に帰ったという知らせを待ち望んだ。
 帰る途中で逮捕される危険が、彼女には相当にあった。
 彼は2日後に書いた。
 「僕だけの素敵な、輝かしいスヴェータ、今日、10月3日まで、きみから手紙をまだ受けとっていません。
 怖ろしい。そして僕は、他に何も考えることができません。」
 (43) ついに、Kotlas から送られた手紙が届いた。それには彼女の2枚の写真が付いていた。—Lev Izrailvichが用意した「びっくり」だった。
 「僕の素敵な、美しい(lovely)スヴェータ、…、やっと !!
 良かった。全てがうまくいっている。
 みんなに、僕の最も真摯な感謝を捧げます。
 きみのメモを読んで、僕はすぐに、いったいどんな驚きのことを書いているのかと思いました。でも、写真が少し見えたとき、こんなに欲しくて愉しいものだとは、全く思わなかった。
 きみはこの10年間、今と全く同じだったのだろう(肘掛け椅子)。
 でも、きみはいつも、あらゆる意味で美しい。…/
 僕の、本当に信じ難いほど美しいスヴェータ、誰もがきみに会釈を送るだろうが、僕は何を送ればよいか分からない。
 ただきみのことを考え、きみについて書きたい。
 Liubka(Terletsky)と少し話したのを除いて、僕はどんな会話も避けています。読書も興味を惹きません。…
 しきりと<秋の日>に見入って、なかなか離れる(tear myself away)ことができません。…
 僕の素敵で優しい人よ、きみの分身をしっかりと抱き締めています(squeeze your paws)。」//
 (44) 10月5日までに、スヴェータはモスクワに戻った。
 計画していたようには、Lev Izrailvich に電報を打たなかった。前のそれがKozhva の郵便局の誰かに盗み見られており、「ただちに全ての人民の所有物になった」(意味は、その内容がMDVに伝達され得ること)からだった。
 しかし、2日後、スヴェータはレフに手紙を書いて、帰路について説明した。//
 「250ルーブル払って、直通列車の座席を得ることができました。
 あなたの同名者が切符を私に渡し、列車に乗せてくれました。
 三晩過ごした、あなたの同名者の小さい家で、記念に私の写真を撮りました。
 車掌は最初はほとんど空いている仕切り付き車両に私を乗せたのですが、ほとんど眠れませんでした。そのとき、女性たちと一緒になってしまった男性と座席を交換するのをその車掌が提案し、私は喜んで同意しました。
 三人の素敵な若い女性がいて、彼女たちは航空写真撮影の旅行をしている写真技術者でした。
 彼女たちは末端(Vorkuta)から旅をしてきていて、はるばるとモスクワへ向かっていました。
 本当に何もすることがありませんでした。—帰り旅用に本を持ってくることなど思いつきませんでしたから。そして、ずっと寝ていました。…
 列車が着いたとき、私は目覚めすらしませんでした。」/
 「〔10月〕5日の朝(4時30分)に家に着き、うたた寝をした後、しばらくの間 Alikと遊びました。
 そして、蒸し風呂(banya)へ行った後、昼食を調理しました。
 ママの体温は、その日また39度でした。」/
 「モスクワは、陰鬱でした。—寒くて、雨模様です(でも全く絶望的ではない)。頭を惑わせる日常事は、今はジャガイモです。店で見つけるのが困難で、市場ではもう7ルーブルもします(以前は3ルーブルでした)。
 誰もが、貯蔵をしています。…
 砂糖は消え失せました。ペーストやロールパンも。
 憂鬱です。
 木々は葉っぱをほとんど落とし、市場の区画には花がありません。
 さて、レヴィ、大切な人、とりあえずさよならと言います。
 大きな、大きな愛を込めて。
 こちらで私が訪問した人々はみんな、あなたによろしくと言うでしょう。
 スヴェータ。
 そちらにいる全ての方々に、私の敬意と感謝の念を送ります。」//
 ——
 第6章④、終わり。第6章全体も終わって、第7章がつづく。

2301/レフとスヴェトラーナ21—第6章①。

 レフとスヴェトラーナ、No.21。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.111-p.117。
 ——
 第6章①。
 (01) スヴェータは、最初の手紙ですでに、レフと逢うという考えを持ち出していた。
 1946年7月12日の手紙で、こう書いていた。
 「もう一度5年が過ぎる前に私たちが逢うことができるよう、全力を尽くしてくれると思います」。
 レフは最初から悲観的だった。こう答えた。
 「逢うことについてきみは尋ねている。…
 スヴェータ、ほとんど不可能です。58-1(b)は恐ろしい数字です。」
 (02) レフは正しかった。
 収監者が訪問者を受ける許可を得るのは、実際に稀だった。
 また、許可がなされるとしても、家族または配偶者に限られた。
 出逢うことは、「良好で良心的な、かつ迅速な労働」に対する褒賞として例外的な場合にのみ許された。
 訪問者があるという約束は、受刑者が好ましい振る舞いをすることの大きな誘因となった。
 だが、出逢いが行われたとき、それはしばしば失望になるものだった。数分間に限られ、かつ監視員がいる場所でだったからだ。
 親密な会話をし、身体的な愛情を示すことは困難だった。
 北部収容所のある追想録は、妻たちの訪問が終わった後で、受刑者たちは「決まって寡黙になり、苛立っていた」と記した。
 (03) 妻や親戚の訪問もすでに十分に困難だったが、スヴェータはこれらのいずれでもなかった。
 彼女は友人で、大学以来の級友にすぎなかった。そして、レフと逢う許可を申請する根拠は何もなかった。
 しかし、スヴェータは、延期しないと決心した。
 親戚がペチョラを訪問するのは「原則として可能だ」とレフが書いていたのに勇気づけられ、彼女が書き記したように、「あなたと私が個人的に可能かどうかを調べる」ことを始めた。
 おそらく収容所当局は、慣習法上(common-law)の妻として彼女に同意するだろう。
 スヴェータは、1946年秋に、そのような旅をする希望をもっていると、こう書き送っていた。
 「可能性があるにすぎなくとも、できるだけ早く可能になるように全てのことをするよう、お願いします。
 休暇を得ることは全く期待していませんが、研究日に10日間を使うことはいつでもできるし、無給で休日を利用することもできます。
 Mik. Al. (Tsydzik)は私を支援するでしょう。」
 成功する機会についてもっと情報を得るまでどんな危険もスヴェータに冒してもらいたくなくて、レフは、秋になるまで思いとどまるように告げた。
 こう警告した。旅をするのに2週間は必要だろう、これは予定される休日以外に仕事から離れることができる期間よりもはるかに長い、数ヶ月先に行う必要がある、と。
 Glev Vasil'ev の母親は、八月に息子と逢ったあとモスクワに帰るのに2週間かかった。これはレフが知っているただ一つの訪問の例だった。但し、彼はその旅は長すぎる、と分かっていたに違いないけれども(モスクワまで2170キロメートルの旅行は通常は、列車で2日または3日を要した)。
 レフは、スヴェータを遅らせようとした。
 たぶん彼は、彼女が失望するのを怖れていた。あるいは、彼女がさほどに努力する意味はないと感じていた。
 しかし、彼女が計画を実行したときに直面するだろう莫大な危険を恐れたことに、疑いはない。
 スヴェータは「国家機密」とされた研究を行なっていた。そのときに彼女は、確信的「スパイ」と逢うために労働収容所に旅をする許可をMVD に申請しようと計画していたのだ。
 このような申請をするだけでも、彼女には研究所から追放されるか、またはもっと酷いことをすらされる危険があった。
 (04) スヴェータは、旅をするのにかかる期間の長さや巻き込まれ得る危険について説かれても、納得しなかった。
 レフから受け取った情報に疑いをもったので、彼女はもっと知る必要があった。
 10月15日に、つぎのように書き送った。
 「2週間の旅行だとは思っていませんでした。
 足のない手紙であれば、それほどの長い期間がかかるのだと思います。
 本当だとしても(何とかして調べます)、休暇中でなら別だけど、〔秋ではなく〕冬に私が行くことを話題にしても無意味です。
 でも、実行する前に、もう一度検討しています。
 特別の許可が必要なのかどうか、私に尋ねていましたが、その許可はいったい誰から?
 あなたの側の当局(とあなたの行動がどう評価されているか)にだけ依っていると、私は言われてきました。でも、私が言われたことを信じない十分な根拠はあります。
 私がいる地位は、もちろん、どんな特権も与えてくれません。」
 (05) 第一に不確実だったのはそもそも、彼女は妻でなくともレフに逢うことが許されるか否か、だった。
 レフには、信頼できる情報がなかった。
 1947年2月9日に、こう書いた。
 「Abez の北部ペチョラ鉄道労働収容所管理部でよりも、可能性は大きいように思えます。そこでは、原則として15分から2時間を認めています。
 上級管理機関は、親戚、兄弟、妻(法律上と慣習法上のいずれも)、姉妹と従兄弟には、数日間にわたって一度に数時間を認めているようです。
 不幸ながら、この情報は公式の情報源によるのではありません。
 調べることができたのは、さしあたりこれだけです。」
 3月1日までに、レフはより多くのことを知った。勇気づけられるものではなかったけれども。
 「出逢いについてだけど、スヴェータ、きみにどう説明すればよいか分からない。でも、僕の素晴らしいスヴェータ、逢うのは、本当にとても困難で、たぶん屈辱的ですらある。そのときに僕たちが『痩せたナナカマドの木』(The Slender Rowan Tree)〔注〕を歌わないとしても。
 (原書注記—あるロシア民謡(「Ton'kaya nabina」)。悲しく美しい曲で、その歌詞はレフとスヴェータの気持ちと合致していた。
 「痩せたナナカマドの木よ/どうして揺れながら立っているの?/頭を下に曲げて/自分の根っこにまで。/道を横切り/広い河を越えて/やはり独りで/樫の木は高く立っているのに。/ナナカマドの木のように、どうやれば私は/樫の木に近づくことができるの?/可能ならば私は/前にかがんで腰を曲げはしないだろう。/私の細い枝で/樫の木の中へ入って落ち着き/昼も夜も囁きつづけるだろう。」〔/は改行部分—試訳者〕)
 ほとんどいつも、監視員がいる監視小屋で、数分間だけ逢うことしか許されていない。…
 ときには—これは最近にBoris German と彼の母親の場合に起きたことだけど—監視員が、当局がすでに許可を裁可した出逢いを、最後の瞬間になって拒否するかもしれない。…
 工業地帯でたまには連続する日々に数時間ずつ逢うことが許されてきた、というのは本当だし、その中には実際には監視されないまま逢うのが認められることもある(これはGleb(Vasil'lev)と彼の母親の場合に起きた)。
 でも、これらは稀なことで、58-1(b)の政治的受刑者には原則として認められません。
 収容所轄機関の文化教育部門からの肯定的証明書が役立つかもしれない。それを得るのは容易ではないけれども。
 しかし、それは主要な問題ではありません。…
 二人が逢うことの性格を思うと、かりにそんなことが起きるとしてだけど、僕はすぐに、きみは満足するだろうか、それともあの耐え難い苦痛を再び呼び覚ますだけだろうかと、考えてしまいます。あの耐え難い苦しみは、すでによく確立された僕たち二人の新しい現在の関係に慣れたために少しは和らいでいたのです。
 われわれを分かつ到達不可能な隔たりを、いま以上に強く感じてしまうのではない?
 他の人々は幸せなところにいるのに、幸せであることがきみにはいま以上に困難になるのではない?」//
 (06) スヴェータは思いとどまろうとしなかった。
 自分にとっての危険や影響がどのようなものであっても、ペチョラまで旅をしてレフに逢うと決心していた。たとえ数分間であっても。
 モスクワの収容所管轄機関が彼を訪問させようとしなければ、ペチョラの収容所当局に直接に申し込むつもりだった。
 そして、拒否されるようなことがあれば、おそらくはレフを助けてきた自由労働者の協力を得て、収容所に入り込む他の方法を探すつもりだった。
 手紙が秘密裡に彼に届けられるのならば、彼女はなぜできないのか?
 これはきわめて勇気がある、大胆な計画だった。
 かつて誰も、密かに労働収容所に入り込もうと考えなかった。//
 (07) しばらくの間は、計画を立て、情報をより多く収集する時間があった。
 北極圏では五月まで続く可能性のある冬の間にペチョラに旅するのは、暗闇が長くつづき、列車が動く可能性は氷結する気温で閉ざされるために、安全ではなかった。
 レフは発電施設で、夜間勤務で働いていた。
 彼は三月の末に、春が到来する兆しを感知した。
 早朝の光の美しさに心打たれつつ、希望と幻想を性格的に慎重に見守っていた。//
 「朝に発電施設を出るとき、僕のとても嫌いな黎明の影はもうありませんでした。でも日の出の輝き、暖かい太陽は、雪の吹きだまりを半分溶けた角砂糖に変えています。
 客観的に悪さを持っていないものがあるというのは不思議ですが、何かの理由で、きみはそれを嫌悪するだろう。
 このようにして僕は、偽りの朝焼けを感じています。…
 かつて夜明けに仕事を終えて歩いて帰っていたとき、月はもう低い所にありました。
 僕は尋常でない光に驚いて、突然に黙り込みました。
 雪の平らな表面は、朝の光を受けて青白く、影の部分は濃い灰色でした。一方で、雪の吹き溜まりの斜面は、徐々に衰える月光を反射してまだ光っていました。
 そして朝の空は、松の木の優美な影の上にあって、薄暗い灰色と灰色混じりの青緑色から柔らかいバラ色に変わりました。…
 日々が春に似て素晴らしくなった瞬間に、ゆっくりと溶けていく雪の中の汚れの中で、春が姿を現しています。そして、太陽は輝くのをもう惜しみません。
 きみは明るい光の中の全てを見つめるだろう。
 きみは少し(僕はたまにしか好きでないけど)語りたいと思っている。—誰か好い人物について話す、または…ちょっとの間だけ馬鹿話をする…。」
 (08) 暖かい天候が戻ってくるとともに、あらためて訪問についての会話が始まった。
 6月の間に、Nikolai Litvinenko の両親がKiev から彼らの息子に逢いに来た。
 レフは警告としてスヴェータにこう書いた。「出逢いは、愉快なものではありませんでした」。
 Litvinenko が申し込んだ北部ペチョラ鉄道労働収容所管理機関は、各回2時間逢うことのできる訪問を三回許可していた。
 しかし、木材工場の管理者は、監視小屋で監視員が同室してのものを、一回だけしか許さなかった。
 レフはスヴェータに書いた。
 「これが我々が得ることのできる最上限です。
 僕の条項は、それ以上を何も保証しないでしょう。
 Nikolai は、条項58-1(a)(原書注記—祖国に対する裏切りの罪。レフに対する58-1(b)(軍人による祖国に対する裏切り)と似た条文だった)の適用を受けてここにいます。」 
 Litvinenko 家族は「豊富な潤滑酒」にもかかわらず、それ以上の時間を得ることができなかった。この語でレフが意味させたのは賄賂だった。「莫大な総額の金が彼らにかかりました」。
 レフはLitvinenko の件から、スヴェータの訪問について積極的なことを何も見出さなかった。//
 「あらゆる事が、とくに調整が、彼らにとってきわめて高価なものでした。
 少なくとも彼らは多額の金銭を持っていて、だからさほどに負担にはなりませんでした。
 仕事をしているふりをして監視小屋へ歩いていったとき、彼らを見ました。
 母親はまだ若くて、でも痩せていました。彼女はKiev には自分のようにふっくらした人々は多くはいない、太つている人を見るのは珍しい(飢饉の示唆)、と言ったけれども。
 スヴェータ、外部者としてこのような出逢いを観るのは悲しい。
 Anton Frantsevich (原書注記—Anton Frantsevich Gavlovskiiは1938年以来のペチョラの受刑者で、Strelkovの実験室で助手として働いていた)が昨年に彼の妻に、離れたままでいて欲しいとの頼んでいるにもかかわらず彼女が来れば、逢おうとすらしないだろう、と伝えました。これは理解できることです。 
 彼らに神の加護あれ。
 時期がもっとよくなるまで、この問題を語るのはやめよう。」//
 レフは、自分を訪れるというスヴェータの計画に気落ちし、勇気が出なかったので、ほとんど彼女と逢うのを怖れているように見えた。
 たぶん彼は、逢っても満足を与えず、離れている苦痛をもっとひどくするのではないかと彼女に尋ねたとき、自分の心の声を伝えていたのだ。//
 (09) Litvinenko の経験でレフは意気消沈したとしても、スヴェータは、ペチョラへの別の訪問者によって励まされていた。
 Glev Vasil'ev の母親のNatalia Arkadevna は、息子に逢うため6月半ばにペチョラへの二度めの旅をしようとしていた。
 レフはスヴェータへの5月1日の手紙で、1946年の最初の旅行で彼の母親はは息子と聴取されない時間を何とか過ごすとができた、と語っていた。
 Natalia Arkadevna には、その成功を繰り返す自信があった。
 彼女はペチョラに出発する前に、レフの叔母のOlga に会いに行った。Olga は彼女と一緒に旅をしようと思ってきていたが、それは、レフが安心したことだが、彼女が医師に思いとどめられるまでだった(Olga はスヴェータがレフと通信して欲しくなかったということ)。
 数週の間、Olga はスヴェータに旅行計画について話していた。
 Olga が旅行をやり遂げると考えるのはどうかしている、という点で、スヴェータはレフに同意した。—地下鉄でモスクワを縦断するにも大騒ぎをしていた女性だった。Olga は、賢明にもNatalia Arkadevna のような「経験のある旅行者」にくっつこうとしたのだけれども。
 その頃までにGlev の母親は出発する準備が出来ていたが、スヴェータは、Olga が提案した旅行についてたくさん聞かされていたので、自分も昂奮する気分になった。—かりに間接的にでも—スヴェータを知った者は、彼女はまもなくレフと逢うのだろうと思ったに違いない。
 ——
 第6章①、終わり。
 

2294/レフとスヴェトラーナ19—第5章②。

 レフとスヴェトラーナ、No.19。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。原書、p.98-p.105。
 ——
 第5章②。
 (12) レフや他の収監者のために木材工場の内外に密かに手紙を出し入れする自由労働者が、他にも数人いた。
 一人は、Aleksandr Aleksandrovsky だった。食糧供給部に勤務していた、灰色の毛髪の50歳代半ばの人物で、1892年に、Voronezh の近傍で生まれた。
 Aleksandr は第一次大戦を戦い、ロシアの内戦時に赤軍に入隊した。
 1937年、彼は内戦の英雄のTukhachevsky元帥による弾圧に反対して公衆の面前で演説した後で、逮捕された。
 ペチョラでの5年の判決に服したあと、釈放後も、年下の妻のMaria とともに自由労働者としてとどまった。Maria は、戦争中にカリーニンの町からペチョラに避難していた。
 彼女は、ソヴィエト通りにある電話交換所で働いていた。
 二人は二人の小さい息子たちと一緒に川そばの待避壕に住んでいたが、1946年に、工業地帯の中にある住居地区へと移った。
 その家屋は、内部はきわめて窮屈だった。
 壁は、ベニヤ板でできていた。
 小さな(上水道なしの)台所があり、二つの小さな部屋があったが、シングル・ベッドは一つだつた。
 男の子たちは、床で寝た。
 家屋の裏には庭があり、そこで彼らは何羽かのニワトリと一頭の豚を飼った。
 (13)  Aleksandr とMaria は、Strelkov の親しい友人だった。
 二人はしばしば、彼と電気グループの彼の門下生たちを、家でもてなした。
 二人は政治的収監者たちに同情し、彼らを助け、支えることのできる全てのことを行なった。
 Maria は、電話交換所で当局の会話に耳を傾けた。そして、計画されている移送やその他の制裁について収監者たちに警告を発することができた。
 二人はどちらも、収監者たちのために手紙類を送り、受け取った。
 子息のIgol は、「父は、シャツの中に手紙類を隠し、それらを刑務所地帯の内外へと出し入れしたものだ」と、思い出す。Igol は、切手を収集するのが好きだった。
 (レフはスヴェータと叔母たちに、「ここには熱心な切手収集者がいる」ので、違う種類の「面白い切手」を送ってくれるよう頼んだ。)
 Igol はつづける。
 「父は工業地帯のための通行証を持っており、一度も探索されなかった。
 誰も恐れていなかった。父はよく言っていたものだ。『私を処罰しようとさせてみろ!! 』」
 (14) Stanislav Yakhovich は木材工場の機械操作者で、収監者のための手紙密送に関与したもう一人の自発的労働者(voluntary worker)だった。
 レフはこの人物に発電施設で初めて会い、ほとんど取っ組み合いの喧嘩になった。 
 Yakhovich がレフのさらの手袋を取り去り、泥と油脂を付けて返した。
 これはレフが発電施設に来て最初の週に起きたことで、レフは、自分はこき使われるような人間ではないと示したくなった。
 レフは軍隊にいたことがあり、剛強だった。
 彼は、自分が生き延びたのは自分を防御する能力があったからだと思っていた。
 それでレフはYakhovich に跳びかかり、もう一度手袋を取っていけば「顔を強く殴るぞ」と威嚇した。 
 Yakhovich は何も言わず、微笑んでいた。
 彼はレフよりもかなり大きかったが、その喧嘩ごしの言葉にもかかわらず、レフは乱暴な人物ではないと理解することができた。
 二人は、互いに友人になった。
 (15) Yakhovich はLodz〔ウッジ〕出身のポーランド人で、微かな訛りのあるロシア語を話した。
 彼は工業学校を卒業しており、Orel 出身のロシア人と結婚し、二人の子どもがいた。息子は1927年生まれ、娘は1935年生まれだった。
 1937年まで、機械操作者として働いたが、その年に逮捕された。それはほとんど確実に、ポーランド出自が理由だった(彼を「ポーランド民族主義者」とするので十分だった)。
 Yakhovich は、ペチョラ労働収容所での8年の判決に服し、1945年の釈放の後もとどまった。そして今は、工業地帯の鉄条網の垣根のすぐそばの工場通りにある粗末な家屋の一つの中の一部屋で、もう一人のかつての収監者であるLiuskaという名の女性と一緒に生活していた。
 (16) ペチョラで長く過ごしていたので、Yakhovich は、収監者たちに深い同情の気持ちをもち、彼らを助けるために、できることなら何でもした。—使い走り、食糧提供、手紙配達。自分自身にとって大きな危険となるものだったが。
 自分のように妻と離れさせられた収監者には、特別の感情をもった。
 彼は1947年にOrel へと旅をして、妻と娘にペチョラに来て一緒に生活しようと説得したものだ。
 (17) あるとき、レフはYakhovich に、一束のスヴェータの手紙類を渡した。それは、営舎の厚板の床の下に保蔵していたものだった。
 レフはYakhovich に、モスクワまで運んでくれる者が見つかるまでそれを預かって欲しいと頼んだ。モスクワにはスヴェータがいて、彼女が回収する。
 収容所による検印が捺されていないためにその手紙類は非合法で、監視員の探索で発見されれば、没収され、廃棄されただろう。
 レフは分離地区へと入れられて制裁を受けるか、第三コロニー〔植民地域〕へと移送されるだろう。第三コロニーの生活条件はぞっとするようなもので、規則にもう一度違反すれば、懲罰警護車両で送られた。
 Yakhovich は手紙類の束をきつく詰めて上着の内部に隠し、収容所を出る途中にある主要監視小屋へと向かった。
 しかし、監視員は上着のふくらみに気づいた。
 監視員はYakhovich を止めて、それは何かと訊ねた。 
 Yakhovich は答えた。「何て?、これ? ただの紙だよ」。
 監視員は「見せろ」と言った。 
 Yakhovich は、手紙類の束を取り出した。
 監視員は「いや、手紙じゃないか」と言った。 
 Yakhovich は言った。「そうだ。それで何か(so what)?」
 「誰かがこれを投げ捨てた。それで、私はこれを掴んでトイレ区画へ行って、紙として使うつもりなんだ」。
 監視員は手で合図して、通過させた。
 (18) 密送者のネットワークが大きくなるにつれて、レフは、検閲を避ける自信をいっそうもち、ますます率直に手紙を書き始めた。
 この新しいやり方で彼が書いた最初の問題は、数ヶ月間悩んでいた事案に関係していた。すなわち、Strelkov に対する確執で、これは、収容所での人間の性質の暗い側面を晒け出すものだった。
 鉱山技師としての専門的能力によって、Strelkov は実験室の長としての高い地位を得た。実験室で木材工場での生産方法を試験し、制御した。
 他の誰も、彼の仕事をすることができなかった。
 しかし、自分の道を進む彼の「頑固な粘り強さ」(レフの言葉)によって、収容所幹部の何人かが彼から遠ざかった。彼らは、自分たちが生産計画を達成する圧力をかけられているときに、たんなる一収監者によって可能なこと、または不可能なことを告げられることが不愉快だった。
 1943年、Strelkov は、ペチョラ鉄道森林部の副部長だったAnatoly Shekhter と衝突した。Strelkov は、技術基準に適合していない資材を使って建設することを止めさせた。
 この問題はついには収容所当局の最上部にまで達したが、Strelkov が支持された。
 しかし、Shekhter はこの事件を忘れず、それ以来ずっと、Strelkov が行なった全てについて落ち度を見出そうとして、迫害した。
 (19) 1946年12月、Shekhter は作業を監察するために木材工場で数週間を過ごした。
 乾燥室の長—Gibash という名の収監者で、レフによると「嘘つきでペテン師」だとみんなが知っていた—は、自分の経歴のためにこの機会を利用しようとし、悪意をもってStrelkov を非難し咎める文書を書いた。それによると、実際には乾燥しているのに乾燥していないという理由で、作業のために材木を提供することを、Strelkov は拒んでいる。 
 Gibash は検査を求めて近傍の実験所に材木の見本を送り、その実験室は乾燥していると認定した。送る前に彼が自分で乾燥させた、と広く疑われたけれども。 
 Strelkov は、この非難—大テロル時代の用語法では、彼は乾燥した材木の供出を破滅的に遅延させて、工場の計画を破壊した、という非難—にもとづいて解任され、「怠慢(sabotage)」の罪を問われて、MDVの前に引っ張りだされた。 
 Strelkov は技術統制部に対して異議を申し立て、多数の材木標本が試験され、その結果として、自分の地位を回復した。
 しかし、Gibash は、別の訴追原因を見つけた。そしてこの事件は1947年の初めの数週にまで引き摺られた。
 この当時、レフはスヴェータにこう書き送った。
 「これについて、書きたくはありません。とても悲しいことです。でも、これを分ち合えるただ一人はきみです。…
 いったい何が、同じような地位にいる他人の破滅を望ませるのでしょうか? 
 Gibash は絶対に人間ではない。彼はとっくに、そのような言明をする権利を失っている。…
 この長い期間ずっと、僕はStrelkov の平静さと自己抑制を本当に尊敬していた。
 ときどき僕は、彼の妻か娘さんに手紙を出して、彼女らには何と素晴らしい人がいるのかと語りたくなる。
 もちろん、そんなことは馬鹿げている。彼女たちは誰よりもそれを知っている。だから、無分別なくしてそんなことをやり遂げないだろう。
 でも、僕はやはりそうしてしまうのではないか、と怖れています。 
 Strelkov の娘さんは、鉄道技術モスクワ国立大学の学生で、その夫、赤ん坊の子息、母親と一緒にプラウダ通りに住んでいます。
 当局はStrelkov に関して何かをするでしょう。でもゆっくりすぎて、誰に有利に決定するのかを知っているのは神だけです。
 最も理想的な人々がときには、最も暗い道へと入り込むのを強いられます。—僕は全く懐疑的になって、過去だけを信頼しています。」
 良い知らせが1月28日にやって来た。ペチョラ収容所管理機関がAbezで、Strelkov を復職させる決定を下したのだ。
 数週間後、Gibash は、さらに北方にある石炭地域であるVolkuta へと送られた。
 (20) Strelkov 事件は、レフの心の内部に何かを解き放った。
 彼はスヴェータに、より率直に収容所の生活条件について考えていることを書き記し始めた。
 レフを最も動揺させたのは、収容所システムがほとんど全員に対して最悪のものを生じさせた、そのあり様だつた。小さな対立関係や敵愾心が、窮屈な生活条件と生き残ろうとする闘いによって増幅した。
 悪意がわだかまり、容易に暴力へと転化した。
 レフは3月1日に、こう書き送った。
 「僕の大切なスヴェータ、事態の全てについて語る必要がある。
 スヴェータ、きみを愉しませるものを多くはもっていない。たぶん、これを決して書くべきではないのだろう。
 きみはかつて、不快な文章をお終いにするのは必ずしも良くはなく、その必要もない、と言った。
 でも、書き始めたので、書いて終えてしまう必要がある。
 耐えるのが最も困難なのは決して物質的な苦難ではない、ということが分かりますか?
 二つの別のことだ。—外部の世界と接触できないということと、僕たちの個人的な状況の変化は、いつでも予期せぬかたちで生じ得るということ。
 明日何が起きるのか、僕たちには分からない。一時間後のことについてすら。
 きみの公的な地位は変化し得る。あるいは、いつの瞬間にでもどこか別の場所に、ほんの些細な理由でもって、送られるということがあり得る。ときには、何の理由も全く存在しないかもしれない。 
 Strelkov 、Sinkevich(この人は今日去った)、そして多数の他の者たちに起こったことが、このことの証拠だ。
 ふつうの生活では全てのことが誇張されるのだから、これは興味深い(悲劇的な意味で)。
 人間の欠点や弱所と人々の諸行為の結果は、莫大な重みをもつ。
 もちろん美点もある。でも、それはふつうの状況では始めるのに大きな役割を果たさないのだから、ここでは美点ははるかに稀少になって、消失し始めるほどだ。
 悪意は敵愾心に変わり、敵愾心は激しい憎悪のかたちをとる。そして、慈悲深さは無意味なものになり、ひいては何らかの罪へと導く。
 ぶっきらぼうが侮辱となり、疑念は中傷となり、金銭横領は強盗になる。義憤は憤激となり、ときには殺人にまで至る。
 どんな少しでも明確な活動であれ、利己的な視点と世間的な視点のいずれからも、不適切かつ不必要なものになる。
 人が望むことのできる最大のものは、全く退屈な何かだ。辺鄙な片田舎の劇場の案内係の職務のような。その仕事は、個人的生活のために一日あたり少なくとも16時間をきみに残し、少しばかりの金銭も与える。…
 ああ、スヴェータ、今日はとても日射しの好い日なので、僕が書いた馬鹿げたことなど全て、誰の役にも立たない。」
 (21) 「どこか別の場所に移送されること」、これがレフの大きな恐怖だった。
 これは、条件がもっと悪い別の収容所または森林植民地区へと出発する懲罰車両によるものを意味した。
 レフは、「物質的苦難」ではなく、「外部の世界との接触」ができなくなることを怖れた。後者は、スヴェータを意味した。
 警護車両では、監視員は必ず彼の物(「全てが消失する。—印刷物、文書資料、手紙、写真」と彼は彼女に説明した)を奪う。そして、彼は何も書くことができない場所で最後を迎えるかもしれなかった。
 これは、スヴェータが恐れたことでもあった。—いつどの瞬間にでも、レフが消えるかもしれない。そうなれば、彼女はレフと接触できなくなる。
 毎月、木材工場を出発する警護車両があった。
 収容所運営者はその車両を、特定の収監者たちを懲罰し、危険だと判断した集団を破壊するために用いた。
 ある収監者が車両移送へと選抜されるか否かは、通常は恣意的に決定された。また、しばしば監視員または管理員がその者を嫌ったことによるにすぎなかった。
 (22)  病気になること、これがレフのもう一つの恐怖だった。
 他の収容所またはコロニーから収監者たちが到着することは—彼らは「ほとんどつねに体調がはるかに悪く見え、おそろしく不健康だった—、簡単に病気になることがあることを、彼に思い起こさせるのに役立った。
 「栄養障害—衰弱—は、我々の収容所でふつうのことです。
 壊血病もあります。でも、ある程度の対処法と経験があり、夏は緑に覆われますから、相当に御し易い。きみがレモンを齧ってビタミンCを摂れなければ、松葉やいろいろな種類のハーブに十分な量があります。きみは、このことを憶えておく必要がある。
 冬の間は、きみのタブレットをよく服用し、何人かの友人にあげます。
 Anisimov は残りを使い果たしてしまっています。彼は少し壊血病でしたが、今は良くなりました。
 きみのタブレットがどれほど助けになっているか、分かって!! 」
 もしレフが病気になれば、すみやかには回復しそうになかった。かりにもしも、工場の診療所に入ったとしても。
 診療所には一人の医師しかおらず、薬品や食料はほとんどなかった。病気患者用の供給品は、監視員によって決まって盗まれたからだ。
 ——
 第5章②、終わり。

2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。

 レフとスヴェトラーナ、No.18。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。原書、p.92-p.98。
 ——
 第5章①。
 (01) 収容所システムで働く人々のうち重要な部分は、受刑者たちでは全くなく、賃金を支払われる自由労働者(free workers)だった。
 労働収容所にはいつでも一定割合の自由労働者がいたが、戦後になって、とくに材木引き揚げや建設の部門で、その数が増加した。それらの部門では、大きな集団の収監者たちが手でかつて行ったいた作業が、次第に機械化されていたからだ。
 このために、新しい機械類を運転する技術や専門能力のある賃金労働者を募集する必要が生じた。
 1940年代の末には、建設にかかる収容所の労働力のうち4分の1以上が、自由労働者だった。
 (02) 自由労働者たちのほとんどは、判決に服したあとどこにも行けない、従前の受刑者だった。
 大テロルの時代の8年や10年の判決が終わった戦後には、数百万人のこうした労働者たちがいた。
 官僚制的な障害によって、彼らの多くは収容所から出て行くのを妨げられた。
 典型的に言えば、MDV〔内務省〕が出所証の発行を拒んだとすれば、専門家や熟練技術者は労働収容所で働きつづけることを余儀なくされただろう。
 他の者たちは、帰るべき家庭がないため、家族との関係を失なっていたため、あるいは収容所の誰かと結婚していたために、労働収容所にとどまった。
 (03) ペチョラ木材工場には、1946年に、445人の自由労働者がいた。
 ほとんどは、管理者や専門家としてMVDに雇われていた。
 彼らは、種々の場所で—ある程度は刑務所地帯内部に—家族と一緒に住んでいた。刑務所地帯には発電施設から遠くないところに自由労働者用の家屋地区があり、他の家屋地区は、内部で働く者用だったが地帯の外にあつた。
 生活条件は、収監者たちと比べてはるかに良い、ということはなかった。
 多くの者が、寄宿舎や仮設家屋で群がって生活した。一つの部屋を6人ほどの多数で分け合っていた。
 木材工場の党指導者が検討した1946年10月の報告書によると、刑務所地帯内部の自由労働者たちには、一人あたり1.8平方メートルの居住空間があった。—この数字は、収容所規則で各受刑者に許された1.5平方メートルと比べて、大して広くはなかった。
 一階建ての木造家屋には、水道の供給や衛生設備がなかった。ほとんどの屋根は、雨漏りしていた。
 そのような木造家屋には、基本的な家具もなかった(労働収容所ではそれを製造していた)。
 居住地区自体は収容所のきたない一角にあり、外には街灯、洗い場やトイレはなく、水を汲む井戸が一つだけあった。
 その場所には木材工場のおが屑、樹皮や焚き付けが散乱していた。—これらは火災の危険があり、ねずみを喜ばせた。
 (04) 自由労働者は木材工場の運営に重要な役割を果たしたけれども、徐々に受刑者に似た状態になっていった。自由労働者に疑念を持っていたMVDや労働収容所の党指導者が想定した以上に、彼らはかつての収監者として同情の気持ちをもった受刑者に近づいていった。
 木材工場の党書記であるVetrov は、1945年12月に、自由労働者を論議する会合で、こう発言した。
 「我々はソヴィエト権力に抵抗してきた、不満をもつ者たちに囲まれている。
 もっと警戒し、自発分子の中への我々の宣伝活動を増加させなければなない。」
 (05) 収容所運営者の懸念の対象は、とくに自由労働者と収監者たちの混合だった。
 収容所内部では、居住区画の実際上の分離がなかった。—居住区画には、自由労働者の家屋、管理用の建物、職員用食堂、クラブ・ハウス、店舗があった。—そして、工場地帯の残りは、レフのような収監者が勤務交替時に監視なく自由に歩き回ることができた。
 1949年に、この二つの区域は、鉄条網の塀で分けられた。それには、監視小屋が統制する、居住区画内外への通路が付いていた。そのときでも塀は完全ではなく、収監者たちは、発電施設と川沿いの外部フェンスの間にある荒地を通って比較的容易に、居住区画に入り込むことができた。
 しかし、塀が立てられるより前は、居住区画に行くのを監督する間に合せの監視小屋以外には何もなかった。
 収監者たちは、定期的に行き来した。
 クラブ・ハウスで自由労働者と一緒に酒を飲む収監者たちを、しばしば見ることができた。
 収監者と共同生活をし、収監者と一緒の家庭をもったりすらしている自由労働者による多数の報告が存在している。—また、監視員や党員による報告も。
 MVDは継続的に、収容所規則順守のための防御の強化を呼びかけていた。しかし、そうした努力は、財源不足、誰もが耐えていた恐ろしい生活条件や人間的弱さ、そして同情心によって、実らなかった。些少な諸自由が、システムの端まで拡大するのが許された。
 (06) 自由労働者の多くが、収監者ための手紙の秘密の出し入れ(smuggling、密輸・密送)に関与した。—これは、ときどきは金銭または物品による報酬を得るためだったが、より多くは友情または連帯から生じた。
 彼らは、自分の衣服に隠して刑務所地帯から手紙類を持ち出し、Schanghai 地域にある町の郵便局からそれらを送った。
 反対に、自分の住所あてに送られた手紙類を受け取り、それらを密かに刑務所地帯へと持ち込んだ。
 どちらの方法も、収容所による検閲を回避する非合法なものだった。収監者とその文通相手には、手紙類を運ぶ者が監視員に捕まったならば犯罪者になってしまうのを避ける方法で手紙類を出すことが、依然として勧められたけれども。
 MDV は秘密の発送(smuggling)がなされていることを十分に気づいており、根絶をしばしば決定した。
 その際の関心は、収監者が収容所の生活条件をあからさまに書いて、収容所システムの秘密が掘り崩されることではなく、より直接的には、脱走を準備するのを助けるべく、収監者に偽造文書や金銭が送られることにあった。
 (07) レフは、1947年までには、彼とスヴェータの手紙を郵送し受け取る心づもりのある、かつ増加している自由労働者の仲間たち(circle)を得た。
 彼の手紙が全て非合法に送られたのではなく、スヴェータに重要なことを書きたいときに、この連絡網(channel])を彼は用いた。
 この仕組み(system)は、〔1947年の〕3月と6月の間に完全に作動するに至ったと考えられる。
 3月1日、レフは以下のように、重要な手紙を密かに送ってくれる人物の登場を、まだ待たなければならなかった。
 「大切なスヴェータ、僕はあらゆることに関する手紙をきみに書き送る必要がある。
 でも、それができるのはいつなのか、分からない。
 きみの手に、かつきみの手にだけ渡るのが確実になって、その機会ができたときにのみ、書き送るつもりだ。
 いったん手紙を書いてしまえば、その機会を待つのはむしろ危険でもある。
 僕は、二つの件について書こうと計画している。—最短化〔minimaxes〕(レフの判決に対する異議申立ての問題)と出逢う可能性。」
 5月14日までに、レフは「新しい仕組み」によって手紙類を送っていた。但し、初期の問題がまだあった。
 「手紙類を発送する新しい仕組みは一時的に行き詰まった—そして二通の手紙が、発送されるのを二週間待っていると、この手紙で言わなければならない」。
 そして6月2日、彼はこう確認することができた。
 「新しい仕組みによって、僕の手紙類は時期厳守できちんと配達されるように思えます。もう、tar (収容所による検閲の暗号語)を通過する必要がなくなったからです。
 何かに嵌まって渋滞する危険はもう多くはありません。」
 (08) この段階で、レフの手紙類を主に密送したのは(chief smuggler)は、彼と「同名人物」(namesake)のLev Izrailevich だった。この人物は、生き生きとした眼と丸く禿げた頭をもつ、背の低いユダヤ人男性だった。 
 Izrailevich はKozhva に住んでいた。そこは、ペチョラから見て川の向こう側に広がる居留地だった。そして彼は、鉄道運転指令員として勤務していた。
 レフは5月16日にスヴェータにこう書いた。
 「僕」は、面白い紳士と知り合いになりました。
 「彼の名をまだ尋ねていませんでしたが、我々は気持ちよく会話しました。…
 彼は知的な、教養のある人です。
 分かったところでは、レニングラード出身で、工芸(polytechnic)を勉強し(卒業は止められた)、そして1937年までジャーナリストでした。…
 彼はレニングラードのお偉方や企業のトップたちを、みな知っています。」
 (09) Lev Izrailevich は、1937年に逮捕される以前は有名な雑誌<科学と技術>の学術幹部で、ソヴィエトの大衆に科学を伝えるのを意図した数冊の書物を書いていた。その中には、<自分の手による物の製造方法・40の図面付き案内書>もあり、この本は、顕微鏡やカメラから衣服掛けのような簡単な家庭用品までの範囲にわたる、物品の作り方を読者に示していた。
 彼はペチョラ労働収容所から釈放された後、Kozhva に落ち着き、分離して土地に半分埋まった木造家屋に住んだ。
 運転指令者として働いていたので、彼はしばしば、技術者および修繕者としての契約業務で木材工場に来るようになった。
 いつでも工業地帯に出入りすることのできる通行証(pass)を持っていた。
 熱心な写真撮影者でもあったので、収監者たちの写真を撮り、彼らの家族に送ることでおまけの現金を稼いだ。
 (10) 密送の仕組みは、以下のようにして作動した。
 スヴェータはレフあての手紙類を彼の「同名者」に、写真用紙、化学製品やLev Izrailevich が頼んだその他の物の積送品と一緒に発送する。
 Izrailevich は、木材工場のレフに手紙類を配達して、そうした物品の対価をレフに支払い、スヴェータへの手紙を取ってやる。
 このようにして、スヴェータは、レフあての手紙や小包類でけではなく、そうでなければ監視員たちに盗まれるだろう金銭をも、レフに送ることができた。
 レフの手紙は、この仕組みの作動をこう叙述している。
 「〔6月16日〕僕は最近、もう一度 Izrailevich に会いました。
 彼は今でも、写真撮影で稼いでいます。彼はいつも現像液を切らしていて、我々の実験室の資材では本当に彼を助けるには少なすぎるのだけれども。
 ところで、彼は、誰かが僕に手紙を書き送ったり写真を送ったりする必要があるのなら、彼の住所を利用すれば速くかつ安全に僕の手に入る、と提案しました。L.M.c/o Lev Izrailevich, Freight Office, Kozhva Station, Komi ASSR。
 彼はいつでも、発電施設への電話で我々と話すことができます、」
 「〔7月24日〕L. Y.〔Izrailevich〕は、きみの努力に本当に感謝しています。
 薬用粉末の形態以外にはHgC12 の必要はありません。硝酸(nitric acid)の方がもっと良いだろうけれど。…
 彼はまた、6x9フィルムと礬水紙(glazed paper)—どんな大きさでも—柔らかいのと硬いのと、を欲しがつています。
 もちろん、代金を払うでしょう。…
 今ではきみの手紙類を全部受け取ることができて、幸せです。…
 これを可能にするのに必要な唯一の物は、写真用材です。
 彼は炭酸ナトリウムや重炭酸ナトリウムのことを、何か言っていました。
 これらは(少なくともこれらは)安価ですが、必要とされる約1キログラムほども送るのは困難です。だから、これは明確な注文には含めないで下さい。」
 「〔8月23日〕昨日、I〔Izrailevich〕が二通の手紙を運んでくれた。—8月10日と12-14日、〔番号〕46と47。でも、前の番号のものが出てこない。…
 発電施設の住所ではなくI〔Izrailevich〕の住所を使わなければならないと、きみに書いた。そうしないと、きみの手紙類は、前の番号のもののように、失くなってしまうだろう。」
 スヴェータはある手紙で、レフに、彼の「同名者」に宛てた封筒に「For Lev」と書く必要があるかどうかを訊ねた。
 レフは答えた。「書いたように、これからは、発電施設に宛てて書かないように。
 僕の同名人物には正しい住所があります。有難いのは彼のおかげです。きみは『For』なしで書くことができます。」
 (11) レフは同名者との交際を楽しんだ。
 二人ともに、数学と科学に対する関心をもっていた。そしてレフはいつも、二人の会話は面白いと感じていた。
 「彼と話していて、勉強になります。
 全くの愉しみという以上に、最も好ましいことは、彼の知識は僕よりも少ないかもしれないけれど、彼は数学的に思考し、事物を僕よりも十分に把握している、ということです。
 そして、僕が早合点をすると、彼は確実に訂正してくれます。それで、二人の間では物事はいつもうまく進みます。」
 しかし、数学以上に、二人のレフを結びつけたのは、写真撮影だった。
 Izrailevich は、収監者の写真を数百枚撮していた。—これは収容所ではきわめて稀なことだった。
 レフはスヴェータに、自分と友人たちの写真を何枚か送った。
 彼は最初は、収容所でほとんど6年間が経ったので自分は大きく変わったので、彼女は自分を認識すらできないのでないか、と怖れた。
 彼はスヴェータに対して、4月にこう書き送った。
 「先日、—全く予期していないときに—僕の写真が撮られる機会がやって来ました」。
 「その結果のものを封入しました。これは原物とほとんど同じものです。
 G. Ia.〔Strelkov〕が正面にいます。
 説明しておく必要があるかもしれない。他の二人のうち、右側にいるのが、僕です。
 きみはこれらの写真で、僕がまったく健康で、僕についてのきみの心配を鎮めたいという僕の望みに十分な理由があると、分かるでしょう。…
 僕は同じ写真をOlya 叔母とKatya 叔母にも送りました。—Olya の住所で(局留め)。
 一枚だけ送りました。
 機会があれば、怠けぶりを直すようつとめて、別のものを送ります。でも、多数の写真を配りたいというほどには、自分の顔が好きではありません。」
 スヴェータはこの写真について、返事を書いた(この写真は失われた)。この写真は、彼女がレフを1941年に見て以降、最初のものだった。
 「Katya 叔母が今日、我々に会いに来ました。
 叔母はあなたの写真をまだ受け取っていませんでしたが、私のものを見て喜びました。
 叔母は、あなたはいい表情と快活な眼をしている、と言います。
 私の考えでは、強いレンズなしで見たために、あなたの表情はまるで反対であることを彼女は分かっていないのです。
 でも、いろいろと考えてみると、私が今のあなたについて想像していた以上に、あなたはあなた自身であるように見えます。
 よくない光が、あなたの顔に陰影を運びました。そのため、半分は陰鬱です。そして、完全にあなたではないように思えます。
 でも、スヴェータは、あなたの同名人物に対して、やはり感謝しています。」
 ——
 第5章①、終わり。

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 左は、当時あったclub-house/クラブ・ハウス(4章⑤・5章①に出てくる)。原書p.180-1。人物像は中央はレーニン、右はスターリンだろう。左はマルクスか。
 右は5章①最後に出てくる写真ではなく、第4章④の途中の本文内に挿入されている写真。原書p.88。上より少し以前の写真と思われるが、正面または前列中央が実験室を持つ Strelkov、その右側が Lev 、である点では同じ。後列の右が、発電施設にレフを推薦したLileev(老Nikolais)、後列の左が若い方のNikolais=Nikolais Litvinenko。
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2208/レフとスヴェトラーナ13-第4章①。

 レフとスヴェータ、No.13。
 (New York, 2012)

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 第4章①。
 (01) グラクは、手紙のやり取りに関する細かな規則を定めていた。
 この規則は状況に応じて変更されたが、各労働収容所(labor camp)ごとの異なる厳格さをもって、適用された。
 受刑者が受け取れる手紙の数の多さは、受けている判決の内容や生産割当て達成の程度によって変わった。//
 (02) 木材工場群では、公式には検閲後に毎月1通が認められた。
 これは、一年に数通にすぎない他の収容所に比べると、多かった。
 1946年8月1日の叔母オルガ宛てのレフの手紙は、受け取ることのできる手紙や小包みの数について制限はない、と書いていた。
 「手紙や印刷物〔banderoli〕はここには2-3週間で届きますが、モスクワからは7-8日で届く場合もあります。
 検閲のために長く留め置かれることはありません。…。
 書いて下さるなら、順番どおりに数字を書くのを忘れないで下さい。そうすれば、手紙を全部受け取っているかどうかを調べることができます。
 おそらく用紙と鉛筆以外には、何も送っていただかなくて結構です。」
 (03) レフが書いたことは、全部が本当ではなかった。
 彼はしばしば、手紙に関する収容所での条件を思い浮かべた。
 実際には手紙類は一ヶ月に2-3回配達され、受刑者は一度に数通を受け取ることがあり得た。
 しかし、これはまだよい方で、確実に1930年代のグラク収容所よりもはるかによかった。かつては、受刑者は数年間に一通の手紙も受け取らずにすごしていたからだ。
 検閲は比較的に緩やかだった。-検閲のほとんどを行っていたのは、収容所監視官やその他の役人たちの夫人たちで、彼女たちは完全には手紙を読み通すことができず、仕事をしていることを示すために若干の無害な語句を黒く塗りつぶすだけだった。
 しかし、受刑者たちはそのことを知らず、自分たちの文章について自主検閲(self-censorship)を行なった。//
 (04) 小包みや印刷物については、そう単純ではなかった。
 これらを送るためには、ムィティシ(Mytishchi)または他のモスクワ近郊都市に行くことを含めた複雑な官僚的手続が必要だった。グラク労働強制収容所への小包みはソヴィエトの首都から送ることができず、検査されて登録されるために数時間の長い質問に耐える必要があった。
 8キログラム以上の重さの小包みは、受理されなかった。
 収容所に届いたときにも、それらを受け取るための同じように複雑な手続が必要だった。
 木材工場群ではMVD官僚のところに集められ、権限ある監視官が全ての中を開け、しばしば勝手に自分のものにし、その後で内容物の残りを受刑者に与えた。
 食糧、金、および暖かい衣服はほとんどつねに監視官に奪われた。そこでレフは、友人や親戚の者たちに、書物以外の物は送らないように頼んだ。書物についても、外国文学書は、とくに1917年以前に刊行されたものは没収されそうだったので、警戒が必要だった。。
 そのことの注意を、レフは最初の手紙でスヴェータに求めた。
 「きみやオルガ叔母さんが本を送ってくれるときは、必ず安価なものにして下さい。
 安くてぼろいほど好いです。そうだと、失ったときに金を無駄遣いしないで済みます。
 外国語の文学書を送ってくれるなら、ソヴィエト版のもの、また古書専門店からのではないものにして下さい。そうしないと、検閲で誤解を招いて私が受け取れない可能性があります。」
 (05) レフの第一の手紙は、スヴェータが8月7日に書き送っていたとき、まだ届いていなかった。
 「私の親愛なるレフ、私は一にちじゅう、7月12日に送った手紙を受け取ったのかどうかと気を揉んですごしています。
 受け取った?」
 レフは受け取っていなかった(その翌日、「重要な」8日にそうした)。
 スヴェータは彼の最初の手紙を23日に受け取った。それは、別荘から帰っあとすぐのことだった。
 スヴェータは、その日の午後に書き送った。
 「私もまた、運命論者になりました。
 私が第一の手紙を書いているとき、あなたは二番めを書いている。
 でも、私が二番めを送るのは、あなたが私の一番めを受け取っているときです。
 そして、私が三番めを書いているのは、あなたの一番めを受け取ったときです。
 -<La Traviata>〔椿姫〕がラジオで流れています!」
 レフは、8月11日にスヴェータへの二番めの手紙を送って、9月10日の彼女の誕生日に確実に間に合うようにと考えた。そしてまさにその日に、彼の一番めの手紙に対する彼女の返事を受け取った。
 レフはその夕方にスヴェータに書いた。
 「私にはプレゼントでした。
 この日には、全てのプレゼントはきみのためのものであるべきなんだけれども。」
 (06) こうして、二人の会話が始まった。
 しかし、たどたどしくて戸惑いのある会話だった。
 スヴェータは、9月6日に、レフに対してこう書いた。
 「あなたの手紙を、今日26日に受け取りました。
 そして、その前に8日付と11日付のあなたの手紙も。
 でも、あなたの21日付はまだ受け取っていません。
 レヴィ、手紙の間隔が合わせて数カ月になると、お話しするのがむつかしい。
 私の気持ちを理解するまでに、あなたはもう別の気分になっているかもしれない。」
 (07) 遅配だけがいらいらの原因ではなかった。
 検閲があるという意識もまた、会話を制限した。
 どの程度までになら明確に書いても問題にならないのか、確信がなかった。
 レフは三番めの手紙で「明確な限界」について書いて、内心を明らかにしている。
 「スヴェータ、手紙を書くことを決して怠けてはいません。
 だから、心の中ではきみと24時間のうち16時間も話していると言っても、信じて下さい。
 頻繁には書けないとしても、それは書きたくないからではなく、明確な限界の範囲内できみに書く方法を私は知らないからだ、ということが分かるでしょう。」
 レフは、手紙に書けることについて慎重に考え、現実に書く前に数日間は頭の中でこしらえた。
 営舎を離れるときに他の受刑者が紙タバコ用に使うのを心配して、書き終わっていない手紙をポケットに入れて運んだ。そのために、書き終えたときには、手紙はしばしばよれよれになっていた。
 (08) レフが伝えたい意味は、行間で読まれなければならなかった。-遠回しの言葉が用いられた。MVDの役人(「叔父」、「親戚」)、グラク制度(「雨傘」)、贈賄金(金を意味するden'gi から「ビタミンD」)。また、収容所内での日常生活の不条理さを伝えるために、文学的隠喩(とくに19世紀のNikolai Gohol やMikhail Saltykov-Shchesrinのそれ)も用いられた。
 友人や縁戚者たちの名前は決して明記されず、イニシャルでまたは通称を使って隠された。
 (09) レフが元々もっていた怖れは、受刑者から手紙を受け取ることでスヴェータが危険に晒されるのではないか、ということだった。
 スヴェータへの最初の手紙で、彼は「局留め」(poste restante)にしようかと提案していた。
 スヴェータは回答した。
 「局留めにする必要は全くありません。
 私たち二人は、隣人たちをみんな知っています。」
 のちに彼女は考えを変えて、隣人たちがそのブロックの入口そばの郵便受けを見たときに「注意を惹かないように」、レフが封筒上の宛先から彼女の名前を省略することを提案した。
 しかしとりあえずは、スヴェータは受刑者に手紙を書いていることを明らかにし、彼女の家族や親友たちはそれに好意的だった。//
 (10) スヴェータも、慎重に手紙を書いた。
 草稿を書き、修正し、かつ自分が考えたことを正確にしておくために複写をすることになる。そして、レフを危険にすることは何も書かなかった。
 スヴェータは自分の手紙がうまく届くかに自信がなかった。そのため、草稿を置いておくことは安全確保のための最後の手段だった。
 彼女は、小さく、ほとんど読み難い手書きの文字を、白紙または最も間隔が細い線の入った便箋に書いた。その文字は、一枚の紙全体を埋め尽くした。
 スヴェータはどの手紙にも、何枚かの白紙を挿入した。レフが返事を書けるようにだった。
 彼女は、自分の家にいるときの夜に、手紙を書いた。
 「手紙を書くには家にいて、また(誰もが眠れるためにも)一人でいる必要があります。私の頭が邪魔されず、眠りたいと思わないために、また落ち着いた気分でおれるために。
 これらの目的(「fors」)は、必ずしもつねには一致しませんが。」
 (11) スヴェータは、自分の日常生活、家族、仕事と友人たちに関する新しい知らせや詳細で手紙をいっぱいにした。
 彼女は自分の手紙を通じて、レフのために生きた。
 スヴェータの文章は表面的には、ロマンティックな感傷に欠けているようにも思える。
 これはある程度は、ソヴィエトの技術系知識人世界-そこで彼女は育てられた-にあるあっさりとして質素な言語上の性格だ。一方で、レフは、彼の祖母や19世紀のロシア紳士階層がもつ、より表現的な言葉遣いに慣れていた。
 スヴェータは、自分は感情を奔出させるのが好きではないと、認めていた。
 実際的な人柄で、感情はたっぷりとあり、愛情についてもしばしば熱いものがあった。しかし、ロマンティックな幻想に負けてしまうほどに実直でも単純でもなかった。
 「愛に関する感傷的な言葉(高慢で安っぽいの両方)は、私には広告と同じような効果を生みます。
 私へのあなたの言葉と同じく、あなたへ私からの言葉も。
 それから生まれるのは、終わることのない哀しみです。
 心の中で、つぎの文章をいつも聴いています。
 『与えよ、そしてその見返りを得ようと手を出すな。-これは、心を全て開くためには不可欠だ』」。
 感傷的な言葉がスヴェータの手紙に少ないことは、誤魔化しでもあった。
 彼女が引用するサーシャ・コルニィ(Sasha Chorny)のつぎの詩は、手紙を毎回書いてレフに示す愛情を完璧に表現している。 
 「窮状を終わらせる最良の決定をしたとしても
 脚の重いハイエナが、世界全体を漁り回るだろう!
 空を飛ぶ本能的な愉しみ…に恋をすれば
 魂のすべてが解き放たれる
 兄弟、姉妹、妻、あるいは夫であれ
 医師、看護師、あるいは芸術の達人であれ
 自由に与えよ-しかし、震える手を出して見返りを求めるな
 これが、心を全て開くためには不可欠だ」
 (12) スヴェータはレフに、自分の生活を説明しつづけた。
 自分が仕事に行く途中のモスクワの風景を描写し、レフが憶えている自分の衣服に関する少しばかりの詳細を付け加えた。
 「モスクワっ子は自分が残しているものは何でも着ます。-皮のコート、綿入りジャッケット(私が電車で仕事に行く朝のお気に入り)。
 工場は8時に始まり、研究所は9時に始まり、役所は11時…。
 冬用コートを持っていません。古くて黒いコートは破りたい熱情の犠牲になりました。破壊願望は二本脚の全ての動物の特性ですが、ママが強く言い張ったので、良いスーツに再利用しました。…。
 灰緑色のコートは、まだ使っています。…。
 まだ他にどうなっているか、知っていますか?
 買っていた靴。これはいつも側にあって、とても軽いので、いま研究所まで履いています。…。
 私の生活の様子で書いておかなけれけばならないのは、以上です。
 -あなたが思い浮かべているだろうと私が思うほど好くはありません。」
 (13) レフは、モスクワに関する知らせを待ち望んだ。
 スヴェータからモスクワについて知るのをとても好んだ。
 彼は収容所で、アニシモフやグレブ・ワシレフ(Gleb Vasil'ev)のようなモスクワ仲間とその都市について、数時間もかけて想い出話をした。ワシレフは、スヴェータと同じ学校で勉強をした、金属工場にいる機械工で、1940年に逮捕されたときはモスクワ大学物理学部の第一年次を終えたばかりだつた。
 ペチョラの荒涼とした北西部の風景から、自分の手紙が夢のモスクワへと彼を運んでくれるのを願った。
 「今日は、灰色で、一面に曇っています。
 秋が静かに、瞞すようにして忍び寄ってきましたが、頑固さを主張するように、ペチョラの上、森林の上、堤防上の家屋の上、そしてわれわれの産業入植地の建物や煙突の上、無表情で厳しい松…の上は、蜘蛛の巣のように覆われています。
 モスクワには、Levitan やKuindzniにふさわしい秋があるでしょう。木の葉が落ち、乾いた葉っぱが足元でさらさらと音を立てる、そんな黄金の季節です。〔原書注-Isaac Levitan(1860-1900)とArkhip Kuindzni(1842-1910)は、ロシアの風景画家。〕
 全てが、何と遠く感じることでしょうか。
 でも、モスクワの夕べはかつてと同じに違いないと、私は思い浮かべます。-人々はかつてと同じで、街路は変わっていないままです。
 そして、きみがかつてそうだったのと同じだということも。
 そして、今なお見えているのは、消え失せる幻想だとは、思いたくはありません。
 ああ、この紙に何度『そして(and)』を書いたことだろう。そして、何と論理的でないことか。
 これは手紙ではなくて、感情を支離滅裂に束ねたものです。」//
 スヴェータは、現実的な描写をして、レフの郷愁を挫いた。
 9月10日に、こう書いた。
 「モスクワでは、もう黄金色は見えません。
 モスクワは、あなたが思い浮かべるようでは全くありません。
 人々の数が、多すぎます。
 街路電車では、それは愉快ではありません。
 人々は、苛立っています。
 人々は口論をし、喧嘩して組み打ちすらします。
 メトロ(地下鉄)はいつも満員です。
 あなたが乗り換えていた地下鉄駅では、もうそれはできません。」
 (14) スヴェータが最初の手紙で約束していたように、彼女はその仕事について、レフにより詳しく書いた。
 研究所は計650人が働く工場と実験所で成る大複合体で、技師120名、研究者および技術助手50名、そして残りは労働者だった。-整備工、組立て工、機械工。
 これら労働者の多くは戦争前に建てられていたラバー(ゴム)工場用の古い木造宿舎で、家族と一緒に生活していた。
 スヴェータが仕事をする実験室では、合成ゴム(重炭酸ナトリウム)からタイアを製造する新しい方法を試験していた。
 彼女の仕事は多数の研究と教育を含んでいたが、西側の最新の発展に追いつくために英語を学習することももちろんだった。西側の最新の状況を、スヴェータは博士号申請論文「ラバーの物理構造について」で論述しなければならなかったからだ。//
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 第4章②につづく。

2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。

 レフとスヴェトラーナ。

 IMG_1901 (2) IMG_1900 (2)
   (1936年)
 ***
 第3章④。
 (30) レフにあてて、スヴェータは書いた。
 「1946年7月12日。(1)
 レヴィ(Levi)、人の行為は結果ではなくて動機で判断されるべきだと私が知らなかったら、私には黙っていたことであなたを責めたでしょう。//
 あなたがこのようには逢いたくないと言ったあの九月を、憶えているでしょう。
 ところが私は、二人に与えられたその週の間、喜んでいました。
 レフ、今でも同じ。それ以外になかったとすると、これが何よりもよかったのです。
 私たちは、ともに29歳です。二人は11年前に出逢い、お互いに5年間も逢わないままでした。
 これらの数字について詳しく話すのは、恐ろしい。でも、レフ、時間は過ぎてゆきます。
 そして私は、もう一度5年が過ぎる前に私たちが逢うことができるよう、全力を尽くすでしょう。//
 レフ、私は逞しくなっています。
 いったい何度、あなたの腕の中に身体をうずめたいと望み、でも前にある空っぽの壁に向き合うしかなかったことでしょうか?
 息ができないと、感じました。
 でも時は経ち、そして気を取り直したことでした。
 レフ、私たちはこの事態を乗り越えるでしょう。//
 大学を卒業すると、あなたに約束しました。そして、その約束を守りました。
 我々は1942年夏に(課程の4年目のあとに)卒業しましたが、その後ほとんど6ヶ月間、移り住みました。-モスクワからアシュハバート、スヴェルドロフスクへと…。//
 『パパ』の研究所(タイア産業科学研究所)の物理工学試験実験室に勤め出してから、まもなく4年になります(1942年の私の誕生日以降)。
 どれだけゴムを避けようとしたことか。でも、やはり戻ってきました。嬉しい?
 私の仕事は、新しくてもっと良い試験方法を考案することです(多くありすぎて一つの手紙で詳細を書くことはできません。だから、ほんの少しずつ書きます)。
 私の上司はとてもいい人ですが、本当の管理者ではなく、私たち二人が、あまりうまくいきませんが、42人の若い女性たちを監督しています。
 研究所に新しい卒業後課程ができ、最初の志望者は-スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ(Svetlana Aleksandrovna)!
 私はものの見事に、試験に合格ました(5月と6月)。大学の誰よりもよい成績で(その主な理由は、私の才能ではなくて科学についての素養です)。…。
 レヴィ、嬉しい?//
 7月1日からの休日に居続けなければなりません。でも、私たちの学術秘書が、雑誌のための論文を手渡すまで、自由にさせてくれないのです。
 どうすれば実行できるかを描写しようと、苦闘しています(ゴムの可塑性と成分に関する実験についてのものです)。
 ママとアリカ〔スヴェータの甥〕は、もう1ヶ月間、別荘に行っています。-やはりイストラ河畔ですが、今度は少しだけモスクワに近い。
 アリカは、もう6歳です。
 読み方を知って、大文字に夢中です。
 ヤラの器用さと才能を、受け継いでいるのでしょう。
 引っ張って、『実験』を始めます。話し方や書き方を喋ります。そしてもう、たくさんの詩を知っています。
 標本箱を作って、カブト虫、ハエ、芋虫を集めています。
 うたを歌います。-きっと、彼の叔母さん譲りです!
 可愛い頭はボタンのように丸くて、髪の毛はブロンド、大きくて黒い瞳、でも虹彩は青色(これも彼の叔母と同じ)。
 ヤラは、前の11月に家に来ました。
 彼については、3年以上何も知っていませんでした。
 そのとき彼は、とてもやつれていました。
 ターニャは軍にいて(1942年5月から)、1943年9月2日に、虫垂炎で病院で死にました。
 いつも、あなたのことを想うように、ターニャのことを考えます。でも、その中身は書けない。
 母も父も、もちろん、年老いました。
 父はいま、ゴム産業省で働いていて、母は家で忙しくしています。-ブルセラ症で、痩せている。…。//
 レヴィ、手紙を書いて、どんな小包を送れるかを知らせて下さい。
 私に可能なら、何が欲しいかも。
 小説、それとも物理の本?
 この手紙ができるだけ早くあなたに届いたら、それだけ早く返事を書けるでしょう。
 これで、終えます。
 ごきげんよう。
  スヴェト(Svet.)」//
 (31) 8月8日木曜日、夕方に仕事の後で郵便物を取りに営舎へ行ったとき、レフは手紙を受け取った。
 封筒に、スヴェータの手書き文字を認めた。
 それを開くと、中に彼女の写真も入っていた。
 レフはその夜、何度も、何度も、手紙を読み返した。
 寝台には行かないで、早足で外を回った。北極圏の白夜が、読めるだけの光を与えてくれた。
 レフが翌朝の5時半に手紙を書き始めたときには、太陽はすでに2時間も地上にあった。//
 「ペチョラ、1946年8月9日。第1番め。
 スヴェータ、スヴェト、いま何を感じているか、想像できますか?
 感じている幸福感がどんなもので、どんなに大きいか、書くことができません。
 8日は、私の人生ではいつも重要な日付です(運命論者になりました。分かる?)。
 手紙類を取りに行ったのですが、手紙を受け取る者たちには少しも嫉妬を感じていませんでした。自分あてのものは何も期待していませんでしたから。
 31日〔7月-試訳者〕にオルガ叔母から手紙を貰い、9月が始まるまでは、他に何も望んでいませんでした。
 そのとき、突然、-私の個人名!
 そして、まるで生きているような、きみの文字!
 3年間、私は何とか、きみの手書き文字で書かれた、紙の小片をきちんと持ち続けていました。-きみについて私が持つ全てでした。
 でも、1944年7月3日にブーヒェンヴァルトで全部調べ上げられて、没収されました。
 きみがまだ生きていて、もう一度二人は逢えるという希望をもって生活しました。
 しかし、きみの最後の誕生日、取調べを受けて辛いときに祝ったその日に、きみに別れの言葉を告げようと観念しました。…。
 もう一度きみと逢えるという望みだけではなく、きみについて何かを知るという望みすら拒んで、生きつづけました。//
 スヴェータ、少しでも想像できるなら、取調べ(interrogation)が実際にどんなものだったか、分かって下さい。
 肉体的苦痛の問題だけではないのです。-苦痛を私は一度も経験しませんでした。そうではなく、魂(soul)のような感じのする問題なのです!
 死よりも悪辣なものがあると、知っていましたか?
 それは、不信(mistrust)です。
 しかし、この点には触れません。
 そう、ともかくも、私はきみに、さよならと告げました。
 しかし、きみなくしては、頑張ることができなかった。
 8ヶ月のち、オーリャ叔母さんに手紙を書きました。-ごく僅かの僥倖を祈って、大した期待もしないで。
 そして、きみのことを尋ねました。
 そうすると、あの馬鹿な1936年7月31日と同じ月日のことでした。かつてのその日、私はボリスコヴォにいたきみに逢いに行く途中で、ほとんど溺れかけてイストラ河から救い上げられたのでした。
 あんな愛情溢れた、暖かい、母性的な手紙を、少しも期待してはいませんでした。
 本当に一通の手紙すら、少しも期待していませんでした。…。
 オーリャ叔母さんは、きみについて全部書いてくれた!
 きみは、-元気だ(alive)!
 そして、きみが彼女を訪れたことも分かる。これが意味しているのは、きみが私の記憶を消し去ろうとは、決心することができていない、ということでしょう。
 それ以上のことのいったい何を、私は望むでしょう!
 ただ私は、きみの人生に干渉しないで、きみの今について知りたいと思っていた。
 そして突然、昨日のことだ。いや、今8月9日の朝6時だから、今日だ。
 私はまだベッドに行っていません。だから、私には今日です。-ともあれ、北極圏には夜はありません。今日、突然に手紙が届きました。
 手書きだというだけでなく、きみが書いた文章だというだけでなく、何と言う言葉だ、何という手紙だ!
 そして、写真も。
 みんな、私のため?
 私のため?
 スヴェトカ(Svetka)、スヴェトカ!、これ以上何も書けません。…。//
 別のことに移りましょう。
 逢うことについて、きみは尋ねている。…。
 スヴェトカ、これはほとんど不可能です。
 58-1(b)は、恐ろしい数字です。〔原書注-刑法典第58条第1項(b)にもとづき、レフは判決を受けた。〕
 これについて、いかなる幻想も持っていません。
 でも、判決を訂正させるよう、できる限りのことをすることを、きみに約束します。//
 自律した生活をやはりきちんと送っていることを知って、嬉しい。スヴェータ!、きみは強くて、たしかな精神(spirit)がある。
 重要な仕事をし、きみが評価されているのも、嬉しい。
 スヴェータ、きみには素晴らしい知性(mind)があって、とても賢い(intelligent)! でも、でも、鼻を引張り上げないで下さい。-無知の者の褒め言葉ですから。
 スヴェータ、スヴェータ、きみが近くにいる。-5年間に何も起きなかったごとくに感じる。今は距離も二人を分かれさせているけれども。2,170キロメートルの距離が。
 私には、きみは実際にかつて同じだと見えます。-何かをほんの少しだけ感じるけれど。写真ではほとんど何も気づかない。心は年老いたときみは言うかもしれない。でも、本当だ。…。//
 本について尋ねている。
 恐ろしくも数年間、本がないのを寂しく思いませんでした。
 本を手に入れるのはとてもむつかしくて、だから、恥ずかしくもほとんど読んでいません。…。
 アフマトーヴァ(Akhmatova)やブロク(Blok)のものを憶えていますか?
 ブーシキンのものが欲しい。そして、君の好みのもの。
 「石の客(Stone Guest)」-Tver 大通りの街頭の下を二人で腕を組んで歩いていたとき、きみが私に少し諳んじてくれたのを思い出します。
 もう一つ、<La Traviata>〔椿姫〕。誰かが口ずさんだり、ラジオから聞こえてきたりすると、感慨なくしてこれを聴くことはできません。…。
 スヴェータ、きみが書くように、二人はこの事態を何とか乗り越えるでしょう。…。
 もう止めなければならない。
 きみの最良の幸運を願って。
 手紙以外は、何も送らないで下さい。手紙、-手紙! …。
  レフ。」
 ----
 第3章、終わり。

2201/レフとスヴェトラーナ10-第3章②。

 レフとスヴェトラーナ。
 ***
 第3章②。
 (16) レフは、木を河岸から木材工場群まで引き摺り上げる、一般労働チームに配属された。
 その仕事の意味は、重い材木を、丸太コンベヤにまで引き摺り上げることだった。そのコンベヤには巻き揚げ機と鋼索がついていて、材木の丸太が製材所(saw-mill)まで引き揚げられた。
 仕事はきつくて、一度に数時間も、凍えるような水の中に立ち続けた。
 夜のあいだずっと明るい夏には、たくさんの蚊が我慢できないものだった。
 仕事に出かける前に、受刑者たちは、手と顔を僅かばかりの布で覆った。//
 (17) チームの他の者たちと同様に、レフは、標準服を受け取っていた。耳垂れの付いた帽子、綿入りのエンドウ豆色の上衣、重い綿入りズボン、上衣と同じ素材で作られた手袋、冬季用の靴。
 靴には、毛皮もなく、裏張りもなかった。また、湿っぽくて風通しの悪い営舎では、乾かす手段がなかった。そのために、彼の足はいつも湿っていた。//
 (18) 夜明け前に、24時間交替制が始まった。
 受刑者たちは、割り当て分を達成すれば、一日あたり600グラムのパンという糧食を受け取った。達成しなければ、わずか400グラムだった。
レフが毎日の割り当て量を達成するには、最低で60立方メートルの材木(小さな車庫を充たす量)を河から木材工場群まで引き揚げなればならなかった。
 もし彼がこの割り当て量を超えて労働すれば、800グラムのパンが貰え、そしてボーナスとして、詰め物入りのライ麦パイが貰えた。彼が思い出すに、詰め物は特別の味がなく、また少しも詰め物に値するものではなかった。
 受刑者たちには毎朝、一椀のポリッジ(粥)、一杯の茶、15グラムの角砂糖(これは注意深く測られた)、および一片のニシンが与えられた。
 昼食では、通常はわずかに肉または魚が中に入っている一椀のキャベツ・スープ、別の一椀のポリッジ(粥)、より多い茶を受け取った。
 これらは、木材引き揚げチームの者たちの身体を長く維持するには、十分でなかった。
 病気や死亡の割合は、きわめて高かった。
 1945-46年に、収容所の1600人の受刑者の三分の一以上が、病気で診療所、つまり木材工場群の主要な受刑者地区の外にある分離された建物、にいた。そこには当時、ただ一人の医師しかいなかった。
 墓地掘りチームで当時働いていたある受刑者によると、彼らは毎日、一ダースの受刑者たちを、診療所の後ろにある墓地に埋葬していた。
 引揚げチームの労働条件は非人間的だったので、監視兵のうちの何人かは不安になった。
 ある者は木材工場群の党会議で、「我々は、彼らが生きているかどうかを気にかけているようには思えない」、と愚痴をこぼした。
 「我々は、病気になるまで、彼らを凍えんばかりの水の中に立たせている。そして、彼らがもう働けなくなれば、診療所で死なせている」。
 (19) 引揚げチームで三ヶ月経って、レフの身体は疲労困憊した。
 精神的にも壊れてしまった。
 テレツキーはのちに、初めてを見たときレフは、「トラクターにひかれた農民のように見えた」と語った。
 10年前にイストラ河に飛び込んだ元気な少年の痕跡は、何も残っていなかった。//
 (20) テレツキーに励まされて、労働が終わったあとでレフは木材乾燥所に行き、身体を温めることになる。
 産業区域には監視付きの護送車はなかった-受刑者たちは、仕事場まで自分で行くように放っておかれた。したがって、レフが材木コンベアでまたは製材所の近くで働いていると、毎日の最後に第二入植地区へと帰る途中で、乾燥所のそばに止まることのできる時間があった。なお、第二入植地区に入る際は、監視用建物を通って、人数を数えられた。
 レフは、乾燥所を訪れたことによって、殺されそうになる労働から救われた。//
 (21) 乾燥所に付属している研究実験室の長は、G・ストレルコフ(Georgii Strelkov)という名の、内戦を闘った年配ボルシェヴィキで、ソヴィエトの年長の実業家だった。この人物は、1937年に逮捕されるまで、重工業人民委員部の一部署であるクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)のMinusazoloto 金鉱トラストの長だった。
 彼は、シベリアの遠く北東にあるコルィマ(Kolyma)金鉱にいた飢えていく受刑者たちの報告に関心をもって、食糧を載せた二隻の船を派遣した。しかしそれは、NKVDによって妨害され、全ての食糧が奪い去られて、その代わりに新しい受刑者たちが船に乗せられた。
 NKVDは、どれだけ多数の人々が死のうと気にかけず、食糧を無駄にしたとストレルコフを責めた。
 ストレルコフは、「反革命的活動」で訴追された。
 銃殺刑の判決を受けたが、執行は猶予された。そして20年間、ペチョラ労働強制収容所で、手紙をやり取りする権利を奪われたままだった。
 彼の専門技術をペチョラのグラク当局が高く評価したので、彼は木材工場群で実験的な仕事に就くこととなった。但し、25年の判決を受けた受刑者として、困難な手作業に従事しなければならなかった。
 グラク当局は、ストレルコフが営舎ではなく実験室で生活するのを認めた。それは、いくつかの技術的問題や産業区域内のその他の問題を解決するために、彼の存在がばしば必要になったからだった。
 ストレルコフは、標準服ではなく、スーツを着ることすら認められていた。//
 (22) ストレルコフは厳格で頑固だったが、親切でもあった。
 彼の木材工場群での権威のおかげで、彼は引揚げチームで完全に疲労消耗した多数の受刑者たちを、乾燥所または工場へと移すことによって、救うことができた。こうした介入がしばしば、収容所当局との間に悶着をもたらしたのだったとしても。
 ストレルコフは、怖れなかった。
 自分がグラクの幹部たちに必要とされていることを、知っていた。そして、数年間にわたって、彼の意向に沿って何とかシステムを動かそうとした。
 1946年、乾燥所は専門技術をもつ新しい技術者をはなはだしく必要とするようになった。
 高圧蒸気暖房機が十分に速く材木を乾燥させなかったので、設定された目標を達成しようとする工場に、必要な量の材木を供給することができなくなった。そして、内務省または(1946年3月にグラクの運営をNKVDから引き継いだ)MVDからの、業績達成能力を改善せよという圧力が、日増しに強くなった。
 ストレルコフはレフが科学者であることを知って、技術者として乾燥所に加わるようレフを誘った。そして、蒸気室で作業させた。
 レフの仕事は、材木の外皮部分を乾燥する状態にさせることだった。
 蒸気室は最低でも摂氏70度で維持されており、また手と顔を覆って入ったため、一度に数分間以上はそこにとどまることができなかった。
 苛酷な肉体的労働だったが、河から材木を引き揚げるのに比較すると、レにとっては「楽園」だった。//
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 第3章③へとつづく。

2200/レフとスヴェトラーナ09-第3章①。

 レフとスヴェトラーナ。
 今回の試訳には、適宜省略している部分がある。
 ***
 第3章①。
 (01) 列車による護送は北に向かってゆっくり、ミンスクから、ヴォログダ(Vologda)、コトラス(Kotlas)そしてペチョラ(Pechora)へ、北極圏に近い森林奥深くへとつづいた。レフはペチョラで、長期刑に服することになっていた。
 <中略>
 (02) 受刑者は、一日あたり200グラムのパンと塩漬けの魚類を食事として供された。水はほとんど与えられなかった。
 彼らのうちの多数は、病気になり、渇きで死にすらした。
 死んだ者および死にそうな者は、列車から投げ落とされた。
 <中略>
 (03) コトラスを超えても、列車はゆっくりと走るような速さで進み、新しい死者や瀕死者を投げ棄てるために、頻繁に停止した。
 <中略>
 (04) 三ヶ月の旅をして、レフの護送団は、1946年3月にペチョラに到着した。
 春ではまだなかった。
 北極の暗い冬は、ここよりも北では9ヶ月続いた。
 河はまだ凍ったままで、地上には雪があった。
 <中略>
 (05) 受刑者たちは、通過収容所に連れて行かれた。そこが労働強制収容所への到着地点で、有刺鉄線で囲まれた鉄道駅舎の近くの区域にあった。受刑者用の三つの仮設小屋、分離ブロック(懲戒のため)、墓地が付属している診療所、そして狭い作業場があった。
 男たちはシャワーをかけられ、頭を剃られ、シラミを駆除された。そして、いくつかのグループに分けられた。
 病人(主としてペラグラと壊血病)はまっすぐ診療所へと進み、残りの者には、それぞれの身体的条件に応じて、多様な労働と器具が割り当てられた。
 レフには、木材工場群(wood-combine, <Lesokombinat>)が選ばれた。
 <中略>
 (06) 鉄道はペチョラの何よりも大切なもので、鉄道こそがグラクの設置と入植、北部の経済開拓の鍵だった。
 <中略>
 (07) ソヴィエトはしばらくの間は、河をヴォルクタ(Vorkuta)からの石炭輸送に利用しようと考えていたが、ルートが長く間接的で、またペチョラ河とウスト・ウラ河は一年のうち9ヶ月は凍ったままだった。
 そこで1934年に、ソヴィエトは、レニングラードをコトラス、ウフタ(Ukhta)、ペチョラおよびヴォルクタと結ぶ鉄道の建設に取りかかった。
 1939年までには、労働収容所や小さなグラク入植地が、計画路線の全長に沿って設立されていった。
 その年の統計調査によれば、これら労働収容所や入植地に、13万1930人の受刑者がいた(うち1万8647人は女性)。 
<中略>
 (08) ドイツ軍の侵攻によって、鉄道路線の建設はますます緊急を要するものになった。
 1941年末までにドイツは、ソヴィエト同盟の石炭の55パーセントを生産していたドンバス(Donbass)のほとんどを占領した。1942年には、コーカサスにまで着実に前進して、ソヴィエトの石油供給を脅かした。
 ヴォルクタまでの鉄道建設を完了させることは最優先事項、国の生存にかかわる問題になった。そして、この路線を完成させるよう、グラク〔強制収容所〕の幹部たちには多大な圧力が加えられた。
 1942年ころ、15万7000人の受刑者が休みなく鉄道工事に働いていた。彼らは、暖房のないテントで、あるいは外の凍える温度の中で、寝ていた。
 <中略>
 (09) ペチョラは、この地域の主要な経済的中核として発展していた。
 鉄道とペチョラ河とが交差する場所に位置しており、ペチョラは、グラクの木材加工、鉄道事業、および造船産業の中心だった。
 1937年にグラクの施設が建設され、1946年にレフが来た頃まで、1万の受刑者と自由市民がいる、小さな田舎町だつた。
<中略>
 建物の中にトイレはなかった(労働強制収容所の指揮官の家屋を除く)。
 また、どの家屋にも上水がなく、井戸だけがあった。井戸は、長い冬に水が凍らないように、小さな仮設の建築物で覆われていた。冬の気温は、常時摂氏マイナス45度に落ちた。
 ほとんど店舗はなく、シャンハイ地区に小さな郵便局があった(ウォッカを売った)。//
 (10) レフは、木材工場群の入口門を通って、つぎの10年間の刑務所がある産業区域(industrial zone)に入った。
 それは一つの村落の規模の、大きな長方形の区画で、広さが52ヘクタールあり、高い有刺鉄線付きの塀と探照灯のある監視塔で囲まれていた。
 その区画内にはおよそ50の建物があり、それらは主には、計画なしの成り行きで建設されたように見える臨時の木造建築物だった。
 <中略>
 (11) レフとともに護送された男たちは、鉄道荷積み地帯で人数を数えられた。その荷積み地帯では、木材工場群(家具、プレハブ家屋用分区)の最終製品が列車に荷積みされた。
 そして彼らは、第二入植地区(Colony)または労働旅団(work brigade, <kolonna>)の営舎(barrack)へと進んだ。その営舎は、固有の有刺鉄線の塀と衛兵舎を産業地区内にもつ、特別の部門の中にあった。//
 (12) 第二入植地区には、およそ800人の受刑者を収容する、計10の営舎があった。
 全ての営舎は同一だった。つまり、長い一階建ての木造建築物で、各段に二人を収容する、二列の寝台棚(bunk)が中にあった(グラクの専門用語では、<vagonki>として知られていた。旅客用の寝台列車の棚に似ていたからだ)。
 寝台棚の列の間の通路には、テーブル、ベンチ、そして木をくべる暖房器具があった。
 天井からぶら下がる40ワットの白熱灯が、ぼんやりした黄色の光を放っていた。
 マットレスと枕には、木の切り屑が詰め込められていた。
 レフの営舎は、監視兵が暖房具用の木片を持ち込むのを認めてくれたために、つねに暖かくおれるという利点をもっていた。
 営舎は夜にも鍵がかけられず、受刑者たちは、有刺鉄線に近づかないという条件のもとで(違反すれば射殺されただろう)、自由に行き来することができた(外にトイレがあった)。
 (13) レフは、営舎の一方の端の窓側にある下段の寝台棚に場所を占めた。その営舎は、第二入植地区の最も古い建物だった。
 隣人の一人は、西ウクライナのルヴォフ(Lvov)出身の若い「政治犯」だった。彼は小さくて痩せていて、表情豊かな顔と生き生きとした瞳をもっていて、リュボミール(Liubomir)(または「リュブカ」(Liubka))と呼ばれていた。
 彼は、レフのきわめて貴重な友人になることになる。優れた知性、詩的な感性、英知と繊細さで、大いに親しまれた。
 テレツキー(Terletsky)は、ペチョラにすでに6年おり、レフが入営する際にいろいろと助けてくれた。
 彼は、ソヴィエトがルヴォフに侵攻した直後、18歳だった1939年に逮捕された。
 NKVDの部員が彼の家で、地図、磁石、リュックザックを見つけ(テレツキーは大の散歩好きだった)、それらをドイツ軍のための諜報活動の証拠だとしたのだった。
 自白に追い込まれ、彼は銃殺刑の判決を受けた。
 キエフの刑務所で2ヶ月間、処刑を待っていたが、収容所での10年の重労働に判決が変更された。
<中略>
 (14) レフのとなりの寝台棚にいたのは、A・アニシモフ(Aleksei Anisimov)だった(「リョーサ」(Lyosha))。レフとは同じモスクワ仲間で、モスクワ運送技師研究所の学生だった。
 無口で静かな人物で、レフはとても好きだった。レフは彼のことを「とてもよい仲間」(wonderful fellow)だと、スヴェータ宛の手紙でのちに表現した。
 アニシモフは、1937年に逮捕され、「反ソヴィエト活動」の罪で15年の判決を受けていた。
 第二入植地区の受刑者たちのほとんどは、レフ、テレツキ、アニシモフのような「政治犯」だった。
 多数の者(正確には83人)は、ドイツ占領地域で捕らえられ、ソヴィエト同盟に帰還する途中で「スパイ」または「協力者」だとして逮捕された。または、その地域をソヴィエトが1944-45年に再侵攻した際の大量逮捕によつてこぞって摘発された。//
 (15) 木材工場群の他の入植地区には、異なる範疇の受刑者たちがいた。
 第一入植地区(産業区域の外の別の部門に位置していた)は、「特別追放者」(<spetspereselensky>)、行政指令によってグラクに送られた労働者たち、で構成されていた。そこには1946年に、そうした労働者たちのうち約500人がいた。
 第三入植地区(河のそばにあった)は、一般の犯罪者および制裁すべく選び抜かれたその他の受刑者たちで成っていた。
 <以下略>
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 第3章②へとづく。

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