レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊本, 2008)。
第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
第3節「経験批判論」は主としてまたはほとんどがアヴェナリウス(Avenarius)とマッハ(Mach)の経験批判論に関する論述、第4節「ボグダノフとロシア経験批判論」および第5節「プロレタリアートの哲学」は、主としてまたはほとんどボグダノフ(Bogdanov)の議論に関する論述だ。そして、この直前の二節に比べると短いが、第6節「<神の建設者>」はルナチャルスキー(Lunacharsky)の議論に関する論述だ。後二者がアヴェナリウスやマッハと区別されているのは、時期も含めると後二者はまだ「マルクス主義者」の範囲内と見られていたことによると思われる。L・コワコフスキが叙述するこの時期にはプレハノフやリュボフ・アクセルロートは「哲学的」にはまだレーニンと同派だったらしくあるが、この二人ものちには、レーニン主義(のちに言う)<正統派>から、政治運動的にも離れていく。
これら第3節~第6節の試訳は割愛し、第7節から再開する。なお、レーニン<唯物論と経験批判論>への論及があるのは、まだ先だ。
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第7節・レーニンの哲学への逍遙①。
ロシアの経験批判論者はたいてい、自分たちはマルクス主義者だと考えていたが、エンゲルスとプレハノフの素朴で無批判の『常識的な』哲学への軽蔑を隠さなかった。
1908年2月25日のゴールキあての手紙で、レーニンは、ボグダノフやその仲間たちとの論争の経過について述べた。
レーニンは、1903年にプレハノフがボグダノフの誤りについて語りかけたが、とくに危険だとは考えなかった、と書いた。
1905年革命の間、レーニンとボグダノフは、中立的分野として哲学を暗黙裡に無視していた。
しかしながら、1906年に、レーニンは〔ボグダノフの〕<経験批判論>の第三巻を読んで、激しく苛立った。
彼は、ボグダノフに長い批判的な論評を書き送った。これはしかし、残っていない。
1908年に<マルクス主義哲学に関する小論集>が公刊されたとき、レーニンの憤慨には際限がないほどだった。//
『どの論文も、私はひどく腹が立った。いや、いや、これはマルクス主義ではない!
我々の経験批判論者、経験一元論者そして経験象徴論者は、泥沼に入り込んでいる。
外部の世界の実在を「信じること」は「神秘主義」だ(バラゾフ)と読者を説得しようとしたり、きわめて下品なやり方で唯物論とカント主義を混同させたり(バラゾフとボグダノフ)、不可知論(agnosticism)の変種(経験批判論)や観念論の変種(経験一元論)を説いたり、「宗教的無神論」や最高度の人間の潜在能力への「崇拝」を労働者に教えたり(ルナチャルスキー)、弁証法に関するエンゲルスの教えは神秘主義だと宣言したり(ベルマン)、フランスの何人かの「実証主義者」あるいは不可知論者か形而上学者の-悪魔よこいつらを持って行け-悪臭を放つ物から「認識論の象徴的理論」をうまく抽出したりしている(ユシュケヴィチ)!
いや、本当に、ひどすぎる。
確かに、我々ふつうのマルクス主義者は、哲学に十分には通じていない。
しかし、なぜ、このようなしろものをマルクス主義の哲学だとして我々に提示することによって、我々を侮辱するのか!』(+)
(全集13巻p.450。〔=日本語版全集13巻「ア・エム・ゴーリキーへの手紙」463頁。〕)//
経験批判論者によって直接に攻撃されたプレハノフは、エンゲルスの唯物論を守って彼らと論争した、正統派内での最初の人物だった。
プレハノフは、彼らの哲学は『主観的観念論』だと、感知する主体の創出物と全世界を見なすものだと、強く非難した。
党に分裂が生じたとき、プレハノフは-ボルシェヴィキ知識人階層の状況からする何らかの理由で-、攻撃文の中で、彼が対抗しているボルシェヴィズムを観念論の教理と結びつけた。
ロシアの経験批判論は、ボルシェヴィキの『ブランキ主義』を正当化するための哲学的な試みだと、彼は主張した。それは、自然に生起するに任せないで暴力的手段によって社会発展をせき立てようとすることで、マルクス主義理論を踏みにじる政治なのだ、と。
ボルシェヴィキの主意主義は、主意主義的認識論の一部だ。知識を主体的機構の行為だと見なし、事物を人間の精神(mind)から独立に実存するものだと説明しないのだ。
プレハノフは、こう主張した。経験批判論は、ボルシェヴィキの政治がマルクス主義の歴史的決定論に反しているのと同じ様態で、マルクス主義の教理の実在論(realism)と決定論に反している、と。//
マッハ主義者(Machists)に対抗する実在論の立場を擁護して、プレハノフは、人間の知覚は客体の『写し』ではなくヒエログリフ文字の記号だということを承認するにまで至った。
レーニンは、この点で彼をすみやかに叱責し、『不可知論』への認容されざる譲歩だと述べた。//
リュボフ・アクセルロート(筆名『オーソドクス』)はまた、エンゲルスを擁護して、ボグダノフを批判する論文を1904年に発表した。そこで彼女は、レーニンが18カ月前に執筆するように奨めたと書いた。
自分の党への義務を自覚して(彼女が言うように)、彼女は、マッハとボグダノフは客体を諸印象の集合体だと見なし、かくして精神を自然の創出者にする、そしてこれはマルクス主義に真っ向から反している、と論じた。
意識によって社会を説明する主観主義的観念論は、『情け容赦なき一貫性』をもって、社会的な保守主義に至ることになるだろう。
マルクスが示していたように、有力な意識は支配階級のそれであり、したがって『主観主義』は、現存する社会を永続化すること、および将来の思想を無益のかつ夢想的な(utopian)ものとして放棄することを意味することになる。//
リュボフ・アクセルロートは、<哲学小論集>(1906年)で、ボグダノフのみならず、ベルジャエフ、ストルーヴェ、カント主義者、そして一般に哲学的観念論をも攻撃した。
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(+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
段落は終わっていないが、ここで区切る。
②へとつづく。
第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
第3節「経験批判論」は主としてまたはほとんどがアヴェナリウス(Avenarius)とマッハ(Mach)の経験批判論に関する論述、第4節「ボグダノフとロシア経験批判論」および第5節「プロレタリアートの哲学」は、主としてまたはほとんどボグダノフ(Bogdanov)の議論に関する論述だ。そして、この直前の二節に比べると短いが、第6節「<神の建設者>」はルナチャルスキー(Lunacharsky)の議論に関する論述だ。後二者がアヴェナリウスやマッハと区別されているのは、時期も含めると後二者はまだ「マルクス主義者」の範囲内と見られていたことによると思われる。L・コワコフスキが叙述するこの時期にはプレハノフやリュボフ・アクセルロートは「哲学的」にはまだレーニンと同派だったらしくあるが、この二人ものちには、レーニン主義(のちに言う)<正統派>から、政治運動的にも離れていく。
これら第3節~第6節の試訳は割愛し、第7節から再開する。なお、レーニン<唯物論と経験批判論>への論及があるのは、まだ先だ。
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第7節・レーニンの哲学への逍遙①。
ロシアの経験批判論者はたいてい、自分たちはマルクス主義者だと考えていたが、エンゲルスとプレハノフの素朴で無批判の『常識的な』哲学への軽蔑を隠さなかった。
1908年2月25日のゴールキあての手紙で、レーニンは、ボグダノフやその仲間たちとの論争の経過について述べた。
レーニンは、1903年にプレハノフがボグダノフの誤りについて語りかけたが、とくに危険だとは考えなかった、と書いた。
1905年革命の間、レーニンとボグダノフは、中立的分野として哲学を暗黙裡に無視していた。
しかしながら、1906年に、レーニンは〔ボグダノフの〕<経験批判論>の第三巻を読んで、激しく苛立った。
彼は、ボグダノフに長い批判的な論評を書き送った。これはしかし、残っていない。
1908年に<マルクス主義哲学に関する小論集>が公刊されたとき、レーニンの憤慨には際限がないほどだった。//
『どの論文も、私はひどく腹が立った。いや、いや、これはマルクス主義ではない!
我々の経験批判論者、経験一元論者そして経験象徴論者は、泥沼に入り込んでいる。
外部の世界の実在を「信じること」は「神秘主義」だ(バラゾフ)と読者を説得しようとしたり、きわめて下品なやり方で唯物論とカント主義を混同させたり(バラゾフとボグダノフ)、不可知論(agnosticism)の変種(経験批判論)や観念論の変種(経験一元論)を説いたり、「宗教的無神論」や最高度の人間の潜在能力への「崇拝」を労働者に教えたり(ルナチャルスキー)、弁証法に関するエンゲルスの教えは神秘主義だと宣言したり(ベルマン)、フランスの何人かの「実証主義者」あるいは不可知論者か形而上学者の-悪魔よこいつらを持って行け-悪臭を放つ物から「認識論の象徴的理論」をうまく抽出したりしている(ユシュケヴィチ)!
いや、本当に、ひどすぎる。
確かに、我々ふつうのマルクス主義者は、哲学に十分には通じていない。
しかし、なぜ、このようなしろものをマルクス主義の哲学だとして我々に提示することによって、我々を侮辱するのか!』(+)
(全集13巻p.450。〔=日本語版全集13巻「ア・エム・ゴーリキーへの手紙」463頁。〕)//
経験批判論者によって直接に攻撃されたプレハノフは、エンゲルスの唯物論を守って彼らと論争した、正統派内での最初の人物だった。
プレハノフは、彼らの哲学は『主観的観念論』だと、感知する主体の創出物と全世界を見なすものだと、強く非難した。
党に分裂が生じたとき、プレハノフは-ボルシェヴィキ知識人階層の状況からする何らかの理由で-、攻撃文の中で、彼が対抗しているボルシェヴィズムを観念論の教理と結びつけた。
ロシアの経験批判論は、ボルシェヴィキの『ブランキ主義』を正当化するための哲学的な試みだと、彼は主張した。それは、自然に生起するに任せないで暴力的手段によって社会発展をせき立てようとすることで、マルクス主義理論を踏みにじる政治なのだ、と。
ボルシェヴィキの主意主義は、主意主義的認識論の一部だ。知識を主体的機構の行為だと見なし、事物を人間の精神(mind)から独立に実存するものだと説明しないのだ。
プレハノフは、こう主張した。経験批判論は、ボルシェヴィキの政治がマルクス主義の歴史的決定論に反しているのと同じ様態で、マルクス主義の教理の実在論(realism)と決定論に反している、と。//
マッハ主義者(Machists)に対抗する実在論の立場を擁護して、プレハノフは、人間の知覚は客体の『写し』ではなくヒエログリフ文字の記号だということを承認するにまで至った。
レーニンは、この点で彼をすみやかに叱責し、『不可知論』への認容されざる譲歩だと述べた。//
リュボフ・アクセルロート(筆名『オーソドクス』)はまた、エンゲルスを擁護して、ボグダノフを批判する論文を1904年に発表した。そこで彼女は、レーニンが18カ月前に執筆するように奨めたと書いた。
自分の党への義務を自覚して(彼女が言うように)、彼女は、マッハとボグダノフは客体を諸印象の集合体だと見なし、かくして精神を自然の創出者にする、そしてこれはマルクス主義に真っ向から反している、と論じた。
意識によって社会を説明する主観主義的観念論は、『情け容赦なき一貫性』をもって、社会的な保守主義に至ることになるだろう。
マルクスが示していたように、有力な意識は支配階級のそれであり、したがって『主観主義』は、現存する社会を永続化すること、および将来の思想を無益のかつ夢想的な(utopian)ものとして放棄することを意味することになる。//
リュボフ・アクセルロートは、<哲学小論集>(1906年)で、ボグダノフのみならず、ベルジャエフ、ストルーヴェ、カント主義者、そして一般に哲学的観念論をも攻撃した。
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(+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
段落は終わっていないが、ここで区切る。
②へとつづく。