レフとスヴェータ。
これはフィクションまたは「小説」ではない。
***
第2章①。
(01) レフは3台のトラックとともにモスクワを出発した。その車は、クラスノプレスネンスカヤ義勇分隊に補給物品を運ぶものだった。
数日前に分隊と離れたとき、その分隊はモスクワとスモレンスクの間のヴャジマ〔Viazma〕近くの場所を占拠していた。しかし、レフが戻ったときは、もう去っていた。
〔ドイツの〕第三および第四装甲軍〔Panzer Group〕が戦車、銃砲と航空機でヴャジマを突然に包囲して北と南から攻撃したとき、前線は崩壊した。
驚愕してバニックに陥ったソヴィエト軍兵士たちは、森林の中に散り散りに逃げ込んだ。
レフは、無線通信機もなく、分隊を見つける方法が分からなかった。
何が進行しているのか、誰も知らなかった。
至るところに、混乱があった。
(02)レフの部下たちは、分隊指揮部がいる位置を探そうと、ヴャジマの方向に運転した。
暗くなり、地図もなかった。
トラックの一台が壊れたので、レフは歩いて進んだ。
深い森の中を通る道を歩いているうちに、前方に銃砲の音を聞くことができた。
朝の早い時間に、村落に着いた。そこでは、彼の分隊の残存兵たちがドイツの戦車と激しい銃撃戦を繰り広げていた。ドイツの戦車は森林から出て路上に現れていたのだ。
まもなくソヴィエトの砲兵たちは砲台を捨て(弾薬を残さなかった)、戦車がゆっくりと前へ進み、村落に入って、機関砲で家屋に向かって火を放った。
レフは戦車と村落の間の畑の中にいて、身を伏せて、戦車がそばを通り過ぎるのを待った。そして、森林の中へと突進した。
オー・デ・コロンの香りを嗅いだのは、まさにそのときだった。微小な傷の殺菌剤を彼のコートのポケットの瓶に入れていたのだが、その瓶が銃弾で壊れたのだ。幸いにも、彼には傷がなかった。
(03) レフは、森深く入り込んだ。
部隊を見失った数百のソヴィエト兵士たち全員が、樹木の中で同じ方向へと動いていた。
レフはどこへと向かっているのか、分からなかった。
持っていたのは、ピストル、シャベル鋤と自分用のナップザックだけだった。
昼間は、ドイツ軍から隠れるように、地上に横たわっていた。
夜になると、東へと、あるいは東だと思った方向へ、歩いた。ソヴィエト軍にもう一度加わろうと期待して。
(04) 10日3日、三度めの夜に、ドイツ軍に占拠された村落の端にいるのに気づいた。
暗闇になれば、すぐにそこから離れようと決めた。
森林の中に戻って、溝を掘って入り込み、枝で身体を覆って、寝入った。
膝の下の激しい痛みで、目が覚めた。
小枝を通して、ライフルを持つ一人のドイツ兵だと思った者が正面にいるのを見た。
レフは衝動的にピストルを出し、その男に向かって発射した。
弾を撃つや否や、レフは頭の後ろを激しく殴打された。
二人の兵士がいた。彼の頭を殴った男は銃剣で彼を刺して、生きているか死んでいるかを確かめていた。
レフは武装を解除され、村落へと連れて行かれた。//
(05) レフは一人ではなかった。
10月の第一週に、ドイツのヴャジマ包囲軍は数万人のソヴィエト兵士を捕らえていた。
レフは、スモレンスク外郊にある通過収容所、Dulag〔Durch-gangslager)-127に送り込まれた。そこには、数千人の収監者が、以前はソヴィエトの軍事貯蔵所だった暖房のない建物に詰め込まれていた。
他の者たちと同様に、そこでレフは、一日に200グラムだけのパンを与えられた。
数百人が寒さと飢え、あるいはチフスが原因で死んだ。チフスは11月から、伝染病的に蔓延していた。しかし、レフは生き延びた。//
(06) 12月初め、レフは、Dulag-127からカティン〔Katyn〕近くの特別監獄へと移される20人の収監者団の一人となった。
その一団はモスクワ出身の教育を受けた者で、ほとんどは科学者または技術者で、構成されていた。
彼らは、レフが戦争前は学校か病院だったに違いないと考えた建物に入れられた。
廊下の両側に大きな部屋があり-それぞれ40人まで収監できた-、監視者が生活する大きな部屋がその端にあった。
収監者たちは、好遇された。肉、スープ、パンが与えられた。そして、彼らの義務は、比較的に軽かった。
第三週めの終わりに、レフと仲間のモスクワ出身者は、身なりの良いロシア人のグループと一緒になった。ロシア人たちは、監視員がくれたウォッカを飲んでいた。
酔っ払ったときに彼らの一人が、スパイとして訓練されたと口をすべらした。
彼らはソヴィエトの戦線から戻ってきたばかりで、その仕事に対する報償を受けていたのだ。
数日後に、カティンへと出立した。//
(07) そのあとすぐ、レフと他の6人のモスクワ人は、カティンのスパイ学校に連れて行かれた。その学校で、ロシア語を話すドイツ人大尉が、スパイにして、ドイツ軍の利益となる情報を集めるためにモスクワに派遣する、と提案した。
その人物はこう言った。これを呑むことだけが、Dulag-127でのほとんど確実な死から救われることとができる。かりに拒めば、Dulag-127に送り還す。
レフは、ナツィスのためには働かないと決心していた。しかし、他の収監者の面前でそれを言えば、反ドイツ・プロパガンダだと非難されて最悪の制裁を受けるのではないかと怖れた。
それでレフは、学校と大学で勉強した言語であるドイツ語で、その大尉に言った。「私はその任務を履行することができない」。
ドイツ人が理由を尋ねたとき、彼はこう答えた。「後で説明します」。//
(08) その大尉に別室に連れて行かれたのち、レフはロシア語で説明した。
「私はロシア軍の将校です。その軍に、私の同僚たちに、反対の行為をすることはできません。」
大尉は何も言わなかった。
レフは、管理部屋(holding cell)に送られた。
そこで知ったのは、他の3人もスパイになるのを拒否した、ということだった。
かりにレフが最初に明言していれば、他の者たちの抵抗を勇気づけたとして非難されたかもしれない。//
(09) 4人の拒否者はトラックの覆いのない後部に押し込まれ、高速道路を使ってスモレンスクに連れて行かれた。
運転手に背を向けた監視者は、ずっとライフルを触っていた。
トラックは、曲がって森に入っていった。
レフは、射殺される、と思った。
彼は、思い出す。
「トラックはとても速いスピードで狭い森の中の道に入った。
我々は処刑地に連れて行かれるに違いない、と想った。
射撃隊の正面に立ってどう振る舞うか、を考えた。
十分に自己抑制できるだろうか?
自殺した方がよくはないか?
トラックから飛び降りて、望むらくは樹木にぶつかることができるだろう。もし兵士が砲撃しても、その方がましではないか。」
レフは飛び降りる準備をした。
だがそのとき、金属缶をきちんと積んである小屋が樹木を通して見えるのに気づいた。
ガソリンを入れるために停めようとしているのだ。射殺されるのではなかった。
大尉が脅かしたように、彼らは、Dulag-127に連れ戻された。
そこで彼らは、スパイ学校から帰っきたたと知っているに違いない別のソヴィエト収監者たちからの非難を免れようと、一緒になって努めた。
(10) 数週間後の1942年2月、レフは、別の将校グループと一緒に、POW キャンプ(捕虜収容所)へと送られた。その収容所は、ベルリンの80キロ北東にあるプロイセン型温泉町のフュルステンベルク・アム・オーデル近くにあった。
病気で汚染されたDulag-127からやって来た者であったために、彼らは隔離されて、木製の兵舎に収容された。その兵舎で、最初の数日間に、6人がチフスで死んだ。
死ななければ、待遇は良く、収容所の条件は一般的には良好だった。
レフは、所長と二人の将校から尋問を受けた。
ドイツ語を上手に話すことのできる理由を、彼らは知りたがった。また、レフの仲間がそう言っているからとの理由で、ユダヤ人かどうかを尋ねた。
レフが主の祈り(Lord's Prayer)を暗誦すると、ようやく彼らはユダヤ人ではないと納得した。//
(11) 4月、レフは小グループのソヴィエト将校とともにベルリン郊外の「教育収容所」〔Ausbildungslager〕へと送られた。
「教育」(training)の意味は、ナツィ・イデオロギーとヨーロッパのためのドイツ新秩序に関する講義を受けることだった。そうした思想を、他の強制収容所にいる彼らの仲間のソヴィエト人捕虜に伝えることが想定されていた。
6週間、教師たちの講義を聴いた。教師たちのほとんどはロシアからのエミグレで、授業用原稿に忠実にゆっくりと読んだ。
そして5月、将校たちは多様な収容所へと散って行った。
レフは、オーシャッツ(Oschatz)のコップ・ガーベルラント(Kopp and Gaberland)軍需工場に付属した作業旅団(work brigade)に組み入れられた。//
(12) オーシャッツは、ライプツィヒとドレスデンの間の、捕虜強制労働収容所(Stammlager、又は略してStalag)がある巨大な工業地域の中心地だった。
レフは、軍監察部隊の通訳として働かされ、そのあと8月に、ライプツィヒのHASAG(フーゴ・シュナイダー株式会社)工場に移された。
HASAGは、ドイツ陸空軍の兵器を製造している大きな金属工場群だった。
1942年夏頃には、このHASAGに、多様な民族(ユダヤ、ポーランド、ロシア、クロアチア、チェコ、ハンガリー、フランス)の約1万5000人の捕虜がいるいくつかの捕虜強制収容所があった。二つの地区があって、一つは「ロシア」、もう一つは「フランス」と名付けられていた。
レフはフランス地区に自分だけの箱部屋を与えられて住み、E・ラディク(Eduard Hladik)というチェコ人付きの通訳を割り当てられた。この人物の役目は、捕虜強制収容所内部での紛争を処理することだった。
ラディクの母親はドイツ人だったが、彼は自分をチェコ人だと思っていた。
彼は、ドイツによる1938年のチェコ併合の後に、HASAG 収容所の護衛兵としてドイツに徴用された。
ラディクは、捕虜強制収容所に対して気の毒さを感じた。そして、捕虜たちがドイツの勝利のために働いているとき、彼らをひどく扱うという感覚を理解することができなかった。
レフは収監者として、ライプツィヒの街路でラディクに付き添っているとき、落ち込みつつ歩かなければならなかった。
かりに通りすがりの者がレフを侮辱すれば、ラディクはこう言ってレフを守っただろう。「答え返すことのできない人間に悪態をつくのは簡単だよ」。//
(13) ラディクは、レフを信頼できる人物だと見ていた。
レフの性格には、彼について責任がある人々を魅惑する何かがあった。-彼の誠実さはたぶん又はきっと、同じ言語で人々と話すことができる、ということだけによって感じたのかもしれないが。
チェコ人のラディクはレフの助けとなり、彼にドイツの新聞を与えた。捕虜強制収容所の者へのこのような行為は、軍事情勢に関する正確な報告を示してしまうがゆえに禁じられていた。また、-強制収容所で見せられるプロパガンダ用の紙と異なり-スラヴ人は「二級人間だ(sub-human)」と書いてあったからだ。
感染防止を名目にしてラディクはレフを兵舎区域の外に連れ出して、自分の友人を訪れる際に連れて行きすらした。その友人はE・レーデル(Eric Rödel)という社会主義者で、ロシア語を少し話し、ソヴィエトの放送局を受信して聴くことのできるラジオを持っていた。
レーデルは元SA(突撃隊)将校の上の階に住んでいたので、そうした聴取はきわめて危険なことだった。
レーデルとその家族は、レフを貴重な客として受け入れた。
レフは、思い出す。
「我々は長い間歩いた。<中略>すると、エリック〔レーデル〕はラジオを合わせ、私はモスクワからの『最新ニース』を聴いた。それはソヴィエト情報局からの軍事速報だった。
今では番組の内容を記憶していない。しかし、-奇妙なことに十分に-放送上の一つの文章が私の心を捉えた。『ジョージアでは、茶葉の収穫が行われた。』」
(14) やがてドイツは、ラディクを疑うようになった。
別の護衛兵の一人が彼を非難して、反ドイツ活動をしていると追及した。ラディクは尋問を受けるために召喚された。
彼は、ノルウェイの前線へと送られた。
通訳として働き続けたくなくなって、レフは、収容所当局に対して、自分のドイツ語は不正確である可能性が十分にあるという理由で、義務を免じてくれるよう申し込んだ。
「プロパガンダの仕事をする能力がない。なぜなら、私には説得の技巧がない-科学者にすぎないのだから、とも私は述べた」。
11月〔1942年〕に、レフは、オーシャッツのコップ・ガーベルラント軍需工場に付属の作業旅団へと送り還された。//
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第2章②へとつづく。
これはフィクションまたは「小説」ではない。
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第2章①。
(01) レフは3台のトラックとともにモスクワを出発した。その車は、クラスノプレスネンスカヤ義勇分隊に補給物品を運ぶものだった。
数日前に分隊と離れたとき、その分隊はモスクワとスモレンスクの間のヴャジマ〔Viazma〕近くの場所を占拠していた。しかし、レフが戻ったときは、もう去っていた。
〔ドイツの〕第三および第四装甲軍〔Panzer Group〕が戦車、銃砲と航空機でヴャジマを突然に包囲して北と南から攻撃したとき、前線は崩壊した。
驚愕してバニックに陥ったソヴィエト軍兵士たちは、森林の中に散り散りに逃げ込んだ。
レフは、無線通信機もなく、分隊を見つける方法が分からなかった。
何が進行しているのか、誰も知らなかった。
至るところに、混乱があった。
(02)レフの部下たちは、分隊指揮部がいる位置を探そうと、ヴャジマの方向に運転した。
暗くなり、地図もなかった。
トラックの一台が壊れたので、レフは歩いて進んだ。
深い森の中を通る道を歩いているうちに、前方に銃砲の音を聞くことができた。
朝の早い時間に、村落に着いた。そこでは、彼の分隊の残存兵たちがドイツの戦車と激しい銃撃戦を繰り広げていた。ドイツの戦車は森林から出て路上に現れていたのだ。
まもなくソヴィエトの砲兵たちは砲台を捨て(弾薬を残さなかった)、戦車がゆっくりと前へ進み、村落に入って、機関砲で家屋に向かって火を放った。
レフは戦車と村落の間の畑の中にいて、身を伏せて、戦車がそばを通り過ぎるのを待った。そして、森林の中へと突進した。
オー・デ・コロンの香りを嗅いだのは、まさにそのときだった。微小な傷の殺菌剤を彼のコートのポケットの瓶に入れていたのだが、その瓶が銃弾で壊れたのだ。幸いにも、彼には傷がなかった。
(03) レフは、森深く入り込んだ。
部隊を見失った数百のソヴィエト兵士たち全員が、樹木の中で同じ方向へと動いていた。
レフはどこへと向かっているのか、分からなかった。
持っていたのは、ピストル、シャベル鋤と自分用のナップザックだけだった。
昼間は、ドイツ軍から隠れるように、地上に横たわっていた。
夜になると、東へと、あるいは東だと思った方向へ、歩いた。ソヴィエト軍にもう一度加わろうと期待して。
(04) 10日3日、三度めの夜に、ドイツ軍に占拠された村落の端にいるのに気づいた。
暗闇になれば、すぐにそこから離れようと決めた。
森林の中に戻って、溝を掘って入り込み、枝で身体を覆って、寝入った。
膝の下の激しい痛みで、目が覚めた。
小枝を通して、ライフルを持つ一人のドイツ兵だと思った者が正面にいるのを見た。
レフは衝動的にピストルを出し、その男に向かって発射した。
弾を撃つや否や、レフは頭の後ろを激しく殴打された。
二人の兵士がいた。彼の頭を殴った男は銃剣で彼を刺して、生きているか死んでいるかを確かめていた。
レフは武装を解除され、村落へと連れて行かれた。//
(05) レフは一人ではなかった。
10月の第一週に、ドイツのヴャジマ包囲軍は数万人のソヴィエト兵士を捕らえていた。
レフは、スモレンスク外郊にある通過収容所、Dulag〔Durch-gangslager)-127に送り込まれた。そこには、数千人の収監者が、以前はソヴィエトの軍事貯蔵所だった暖房のない建物に詰め込まれていた。
他の者たちと同様に、そこでレフは、一日に200グラムだけのパンを与えられた。
数百人が寒さと飢え、あるいはチフスが原因で死んだ。チフスは11月から、伝染病的に蔓延していた。しかし、レフは生き延びた。//
(06) 12月初め、レフは、Dulag-127からカティン〔Katyn〕近くの特別監獄へと移される20人の収監者団の一人となった。
その一団はモスクワ出身の教育を受けた者で、ほとんどは科学者または技術者で、構成されていた。
彼らは、レフが戦争前は学校か病院だったに違いないと考えた建物に入れられた。
廊下の両側に大きな部屋があり-それぞれ40人まで収監できた-、監視者が生活する大きな部屋がその端にあった。
収監者たちは、好遇された。肉、スープ、パンが与えられた。そして、彼らの義務は、比較的に軽かった。
第三週めの終わりに、レフと仲間のモスクワ出身者は、身なりの良いロシア人のグループと一緒になった。ロシア人たちは、監視員がくれたウォッカを飲んでいた。
酔っ払ったときに彼らの一人が、スパイとして訓練されたと口をすべらした。
彼らはソヴィエトの戦線から戻ってきたばかりで、その仕事に対する報償を受けていたのだ。
数日後に、カティンへと出立した。//
(07) そのあとすぐ、レフと他の6人のモスクワ人は、カティンのスパイ学校に連れて行かれた。その学校で、ロシア語を話すドイツ人大尉が、スパイにして、ドイツ軍の利益となる情報を集めるためにモスクワに派遣する、と提案した。
その人物はこう言った。これを呑むことだけが、Dulag-127でのほとんど確実な死から救われることとができる。かりに拒めば、Dulag-127に送り還す。
レフは、ナツィスのためには働かないと決心していた。しかし、他の収監者の面前でそれを言えば、反ドイツ・プロパガンダだと非難されて最悪の制裁を受けるのではないかと怖れた。
それでレフは、学校と大学で勉強した言語であるドイツ語で、その大尉に言った。「私はその任務を履行することができない」。
ドイツ人が理由を尋ねたとき、彼はこう答えた。「後で説明します」。//
(08) その大尉に別室に連れて行かれたのち、レフはロシア語で説明した。
「私はロシア軍の将校です。その軍に、私の同僚たちに、反対の行為をすることはできません。」
大尉は何も言わなかった。
レフは、管理部屋(holding cell)に送られた。
そこで知ったのは、他の3人もスパイになるのを拒否した、ということだった。
かりにレフが最初に明言していれば、他の者たちの抵抗を勇気づけたとして非難されたかもしれない。//
(09) 4人の拒否者はトラックの覆いのない後部に押し込まれ、高速道路を使ってスモレンスクに連れて行かれた。
運転手に背を向けた監視者は、ずっとライフルを触っていた。
トラックは、曲がって森に入っていった。
レフは、射殺される、と思った。
彼は、思い出す。
「トラックはとても速いスピードで狭い森の中の道に入った。
我々は処刑地に連れて行かれるに違いない、と想った。
射撃隊の正面に立ってどう振る舞うか、を考えた。
十分に自己抑制できるだろうか?
自殺した方がよくはないか?
トラックから飛び降りて、望むらくは樹木にぶつかることができるだろう。もし兵士が砲撃しても、その方がましではないか。」
レフは飛び降りる準備をした。
だがそのとき、金属缶をきちんと積んである小屋が樹木を通して見えるのに気づいた。
ガソリンを入れるために停めようとしているのだ。射殺されるのではなかった。
大尉が脅かしたように、彼らは、Dulag-127に連れ戻された。
そこで彼らは、スパイ学校から帰っきたたと知っているに違いない別のソヴィエト収監者たちからの非難を免れようと、一緒になって努めた。
(10) 数週間後の1942年2月、レフは、別の将校グループと一緒に、POW キャンプ(捕虜収容所)へと送られた。その収容所は、ベルリンの80キロ北東にあるプロイセン型温泉町のフュルステンベルク・アム・オーデル近くにあった。
病気で汚染されたDulag-127からやって来た者であったために、彼らは隔離されて、木製の兵舎に収容された。その兵舎で、最初の数日間に、6人がチフスで死んだ。
死ななければ、待遇は良く、収容所の条件は一般的には良好だった。
レフは、所長と二人の将校から尋問を受けた。
ドイツ語を上手に話すことのできる理由を、彼らは知りたがった。また、レフの仲間がそう言っているからとの理由で、ユダヤ人かどうかを尋ねた。
レフが主の祈り(Lord's Prayer)を暗誦すると、ようやく彼らはユダヤ人ではないと納得した。//
(11) 4月、レフは小グループのソヴィエト将校とともにベルリン郊外の「教育収容所」〔Ausbildungslager〕へと送られた。
「教育」(training)の意味は、ナツィ・イデオロギーとヨーロッパのためのドイツ新秩序に関する講義を受けることだった。そうした思想を、他の強制収容所にいる彼らの仲間のソヴィエト人捕虜に伝えることが想定されていた。
6週間、教師たちの講義を聴いた。教師たちのほとんどはロシアからのエミグレで、授業用原稿に忠実にゆっくりと読んだ。
そして5月、将校たちは多様な収容所へと散って行った。
レフは、オーシャッツ(Oschatz)のコップ・ガーベルラント(Kopp and Gaberland)軍需工場に付属した作業旅団(work brigade)に組み入れられた。//
(12) オーシャッツは、ライプツィヒとドレスデンの間の、捕虜強制労働収容所(Stammlager、又は略してStalag)がある巨大な工業地域の中心地だった。
レフは、軍監察部隊の通訳として働かされ、そのあと8月に、ライプツィヒのHASAG(フーゴ・シュナイダー株式会社)工場に移された。
HASAGは、ドイツ陸空軍の兵器を製造している大きな金属工場群だった。
1942年夏頃には、このHASAGに、多様な民族(ユダヤ、ポーランド、ロシア、クロアチア、チェコ、ハンガリー、フランス)の約1万5000人の捕虜がいるいくつかの捕虜強制収容所があった。二つの地区があって、一つは「ロシア」、もう一つは「フランス」と名付けられていた。
レフはフランス地区に自分だけの箱部屋を与えられて住み、E・ラディク(Eduard Hladik)というチェコ人付きの通訳を割り当てられた。この人物の役目は、捕虜強制収容所内部での紛争を処理することだった。
ラディクの母親はドイツ人だったが、彼は自分をチェコ人だと思っていた。
彼は、ドイツによる1938年のチェコ併合の後に、HASAG 収容所の護衛兵としてドイツに徴用された。
ラディクは、捕虜強制収容所に対して気の毒さを感じた。そして、捕虜たちがドイツの勝利のために働いているとき、彼らをひどく扱うという感覚を理解することができなかった。
レフは収監者として、ライプツィヒの街路でラディクに付き添っているとき、落ち込みつつ歩かなければならなかった。
かりに通りすがりの者がレフを侮辱すれば、ラディクはこう言ってレフを守っただろう。「答え返すことのできない人間に悪態をつくのは簡単だよ」。//
(13) ラディクは、レフを信頼できる人物だと見ていた。
レフの性格には、彼について責任がある人々を魅惑する何かがあった。-彼の誠実さはたぶん又はきっと、同じ言語で人々と話すことができる、ということだけによって感じたのかもしれないが。
チェコ人のラディクはレフの助けとなり、彼にドイツの新聞を与えた。捕虜強制収容所の者へのこのような行為は、軍事情勢に関する正確な報告を示してしまうがゆえに禁じられていた。また、-強制収容所で見せられるプロパガンダ用の紙と異なり-スラヴ人は「二級人間だ(sub-human)」と書いてあったからだ。
感染防止を名目にしてラディクはレフを兵舎区域の外に連れ出して、自分の友人を訪れる際に連れて行きすらした。その友人はE・レーデル(Eric Rödel)という社会主義者で、ロシア語を少し話し、ソヴィエトの放送局を受信して聴くことのできるラジオを持っていた。
レーデルは元SA(突撃隊)将校の上の階に住んでいたので、そうした聴取はきわめて危険なことだった。
レーデルとその家族は、レフを貴重な客として受け入れた。
レフは、思い出す。
「我々は長い間歩いた。<中略>すると、エリック〔レーデル〕はラジオを合わせ、私はモスクワからの『最新ニース』を聴いた。それはソヴィエト情報局からの軍事速報だった。
今では番組の内容を記憶していない。しかし、-奇妙なことに十分に-放送上の一つの文章が私の心を捉えた。『ジョージアでは、茶葉の収穫が行われた。』」
(14) やがてドイツは、ラディクを疑うようになった。
別の護衛兵の一人が彼を非難して、反ドイツ活動をしていると追及した。ラディクは尋問を受けるために召喚された。
彼は、ノルウェイの前線へと送られた。
通訳として働き続けたくなくなって、レフは、収容所当局に対して、自分のドイツ語は不正確である可能性が十分にあるという理由で、義務を免じてくれるよう申し込んだ。
「プロパガンダの仕事をする能力がない。なぜなら、私には説得の技巧がない-科学者にすぎないのだから、とも私は述べた」。
11月〔1942年〕に、レフは、オーシャッツのコップ・ガーベルラント軍需工場に付属の作業旅団へと送り還された。//
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第2章②へとつづく。