第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
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第三節・「労働者反対派」②。
(06) ロシアの労働組合の指導者たちは、彼らの国は「プロレタリアート独裁」だという主張を、真面目に受け取った。論法の微妙さに馴染みのない者たちだったので、彼らは、知識人で成り立っている党指導部がどのようにして労働者自身以上に労働者にとっての利益を知っているのか、理解できなかった。
彼らは、工業経営から労働者代表を排除することや、従前の工業指導者が「専門家」を装って権限ある地位に復帰することに反対した。
これらの者たちは旧体制下で行なってきたのと同じように自分たちを扱う、と不満を述べた。
はて、何が変わったのか? 革命とは何のためにあったのか?
彼らはさらに、赤軍に指揮階層を導入することや軍内の身分制の復活にも反対した。
党の官僚主義化と中央委員会への権限の集積にも、反対した。
彼らは、地方の党役職が中央によって任命されるという実務を、非難した。
党が労働大衆と直接に接触するように、党の命令機関の人員は頻繁に交替すべきだ、そうすれば本当の労働者たちに心を開いて近づけるだろう、と提案しもした。(注70)//
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(07) 労働者反対派の出現は、19世紀末に遡る敵愾心がまだ燻っていることを明るみに出した。すなわち、政治的に積極的な労働者たちの少数派と彼らを代表し、彼らのために語っていると主張する知識人たちの間の反目関係を。(注71)
マルクス主義よりも通常はサンディカリズムに傾斜した急進的な労働者たちは、社会主義知識人層と協力し、彼らに指導された。政治経験が不足していることを知っていたからだ。
しかし、彼らは、自分たちと相手の間にある溝を意識することをやめなかった。
そして、今や「労働者国家」が誕生したとすれば、「白い手」の権威に服従する理由はもうなかった。(*) //
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(脚注*) Krupskaiaは1925年に、Clara Zetkin に対して、「農民と労働者の広範な層は、知識人を大土地所有者やブルジョアジーと同一視している。人々のあいだでの知識人界への憎悪は強い」と書き送った(IzvTsK, No. 2/289, 1989.2, p.204.)。
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(08) 労働者反対派が表明した問題点は、1921年3月の第10回党大会の討議の中心になった。
開催される直前に。Kollontai は党内用に小冊子を発行し、体制の官僚主義化を攻撃した。(注72)
(党の規約は党内論争を公にするのを禁じていた。)
彼女は、もっぱら労働者男女から成る労働者反対派は党指導部は労働者の気分を喪失したと感じている、と論じた。昇っていく権限の階梯が高くなるほどに、労働者反対派への支持が少なくなっている、と。
こうしたことが起きているのは、ソヴィエト組織が共産主義を見下す階級敵に奪われているからだ。小ブルジョアジーが官僚機構の統制権を掌握し、一方で、「専門家」を偽装した「大ブルジョアジー」は産業経営と軍事指揮権を奪取したのだ。//
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(09) 労働者反対派は第10回党大会に、二つの決議を提出した。一つは党組織に関係し、もう一つは労働組合の役割に関係していた。
独立の決議—すなわち中央委員会が発議していない決議—が党大会で討議されるのは、これが最後となる。
第一の文書は、内戦中に採用された軍事指揮についての慣例が永続化したこと、および指導部が労働者大衆から疎遠になったことによって生じた、党の危機を語っていた。
党の事務は〈glasnost〉(公開性)も民主主義もないまま、労働者を信頼していない者たちによって官僚主義的に処理されている。それによって、労働者たちは党への信頼を失い、大挙として離党している。
この状況を是正するためには、党は全体的な粛清を行なって、日和見主義分子を除去し、労働者の参加を増大させるべきだ。
全ての共産党員に、少なくとも一年毎に三ヶ月の肉体労働が要求されなければならない。
全ての役職者は党員から選出され、党員に対して責任を負わなければならない。中央による任命は例外的な場合だけに限定されるべきだ。
中央諸機関の人員は、定期的に交替されるべきだ。役職の過半は、労働者のために留保されなければならない。
党の事務の焦点は、中心にではなく、細胞に当てられなければならない。(注73)//
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(10) 労働組合に関する決議案も、同様に過激だった。(注74)
これは、「事実上ゼロ」の状態にまで減じた労働組合の弱体化に抗議した。
国の経済の再建には、大衆の最大限度の参加が必要だ。「面倒な官僚主義機構にもとづく組織編成の制度と方法」は、生産者の「創造的な主導性や自立性を損なっている」。
党は、労働者とその組織への信頼を示さなければならない。
国家の経済は、生産者たち自身によって底辺から再組織されるべきだ。
やがては、大衆が経験を積むにつれて、経済の管理は、共産党が任命するのではなく労働組合と「生産者」団体が選出した、新しい組織の全ロシア生産者会議に移管されるべきだ。
(この決議に関する討論で、Shliapnikov は、「生産者」に農民が含まれることを否定した。)(注75)
このような組織編成のもとで、党は、経済の指揮を労働者に委ねて政治に集中することができるだろう。//
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(11) 労働者出身の老共産主義者たちによるこれらの提案は、ボルシェヴィキの理論と実務について明らかに無知だった。
レーニンは、最初の挨拶で、「明瞭なサンディカリスト的逸脱」を示すと明確に非難した。
彼は続けた、このような逸脱は、経済が危機にあり武装蛮族が国に蔓延している状況でないならば、危険ではないだろう、と。ここで武装蛮族という言葉で意味させたのは、農民反乱だった。
「小ブルジョア的」自発性の危険は、白軍が提起するそれよりも大きい。かつて以上に、党の統一がいっそう必要だ。(注76)
コロンタイについては、レーニンは冗談めいた雑談として明らかに彼女の労働者反対派の指導者との個人的関係に言及して、彼女の主張を斥けた。
(「ああ神よ、同志Kollontai と同志Shliapnikov は『階級的紐帯と階級意識』で結ばれている」。)(+)
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(脚注+) Lenin, PSS, XLIII, p.41. Angelica Balabanoff, My Life as a Rabel (1973), p.252 を参照。
レーニンは、Kollontai が労働者反対派に加わったことに激怒し、彼女に語りかけることも、彼女に関して語ることすらも、拒んだ。Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p.97-98.
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(12) 労働者反対派は、レーニンとその仲間に、一つの問題を突きつけた。
「プロレタリアート」が背を向けているときに、どのようにして「プロレタリアート」の名前で統治するのか?
一つの解決策は、ロシアの労働者階級を無視することだった。
今ではしばしば、「本当の」労働者は内戦に生命を捧げており、代わって存在するのは社会的残りかすだ、と語られた。
ブハーリンは、ロシアの労働者階級は「農民化」しており、「客観的に言って」労働者反対派は農民反対派だ、と主張した。またチェカの一人はメンシェヴィキのDan に、ペテログラードの労働者は本当のプロレタリアートが全て前線へ行ったあとに残った「滓」(〈svoloch〉)だ、と語った。(注77)
レーニンは、第11回党大会で、ソヴィエト・ロシアにマルクスの意味での「プロレタリアート」がいる、ということすら否定した。産業労働の階層は詐病者と「あらゆる種類の臨時要員」で充ちている、というのがその理由だった。(注78)
Shliapnikov は、このような主張に反駁して、労働者反対派を支持する第10回党大会の代議員41人のうち16人は1905年以前にボルシェヴィキ党に加入しており、全員が1914年以前に入党している、と特に言及した。(注79)//
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(13) (労働者反対派の)挑戦に対処するもう一つの方策は、「プロレタリアート」を抽象概念と解釈することだった。この見方では、党はその定義上「人民」(people)であり、生きている人民が何を望んでいると考えていようとも、人民のために行動する。(注80)
これは、トロツキーが採用した方途だった。
「党のいわば革命的で英雄的な優越性という意識を、持たなければならない。この優越性は、重要な勢力(〈stikhiia〉)が一時的に躊躇していても、必然的に党の独裁制を断固として主張する。労働者の中にすら一時的な動揺がある場合であっても、それにもかかわらずだ。…
この意識がなければ、党は、転換点の一つごとに目的を持たないまま衰亡するかもしれない。そのような転換点は多数ある。…
党は全体として、形式的要因の上に超えたところに党の独裁制があり、その独裁制は労働者階級の気分が動揺しているときでもその根本的な利益を擁護する、という理解のもとで、一緒になって統合している。」(注81) 」
言い換えると、党はそれ自体で当然に存在しているのであり、その存在が労働者階級の利益を反映しているというまさにその事実によって存在している。
生きている人民—〈stikhiia〉—の生きている意思は、たんなる「形式的」要因にすぎない。
トロツキーはShliapnokov を、「民主主義の物神崇拝(fetish)」だと批判した。
「労働者運動内部での選挙の原理が、言ってみれば、党の上に置かれている。まるで党は、その独裁制が労働者民主主義内部での刹那的な気分と一時的に衝突するという事態にすら、この独裁制を断固として主張する権利を有しないがごとくに。」(注82)
経済管理を労働者に委ねるのは不可能だ。彼らの中にはほとんど共産党員がいないという理由だけでも。
これとの関係で、トロツキーはつぎの趣旨のジノヴィエフを引用した。国の最大の工業中心地のペテログラードでは、労働者の99パーセントが共産党を選択していないか、または選好していてもメンシェヴィキや黒の百人組にもある程度は共感している。(注83)
換言すると、共産主義(「プロレタリアートの独裁」)と労働者支配のどちらも支持できるが、しかし、どちらもそうしないこともあり得る。民主主義は、共産主義を破滅させる宿命にある。
トロツキーまたは他の共産党指導者がこのような見方の馬鹿々々しさを理解していた、ということを示すものは何もない。
例えば、ブハーリンは、共産主義は民主主義と両立することはできない、ということを明示的に承認した。
1924年、非公開の中央委員会総会で、彼はこう言った。
「我々の任務は、二つの危険の存在を認めることだ。
第一は、我々の党機構の中央集権化から発生する危険だ。
第二は、政治的民主主義の危険だ。これは、民主主義が縁を超えて進めば発生し得る。
反対派は、第一の危険—官僚制—だけを見ている。
官僚主義の危険の背後には〈政治的民主主義の危険があることを、反対派は見ていない〉。…
プロレタリアートの独裁を維持するためには、我々は党の独裁を支持しなければならない。」(**)
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(脚注**) Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/1 (1989), p.197. 強調を追加した〔〈〉内の斜字体部分—試訳者〕。
ブハーリンは自分の考えをトロツキーに宛てて書いていた。トロツキーは、後述する理由で1924年までにその考え方を変え、労働者反対派が早くに主張していた考え方の強い擁護者になった。
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後注。
(70) Desiatyi S"ezd, p.240.
(71) これにつき、私〔R. Pipes〕のSocial Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897 (1963) を見よ。
(72) Rabochaia oppozitsiia(限定私家版). 英語版は、The Workers' Opposition in Russia (London, n.d.).
(73) Desiatyi S"ezd, p.651-6.
(74) Ibid., p.685-691.
(75) Ibid., p.359-360, p.362, p.530.
(76) Ibid., p.27-29.
(77) Ibid., p.223-4; F. Dan, Dva goda skitanii (1922), p.122.
(78) Odinadtsatzyi S"ezd, p.37-38.
(79) Desiatyi S"ezd, p.530.
(80) RR, p.131-2 を参照。
(81) Desiatyi S"ezd, p.351-2.
(82) Ibid., p.350.
(83) 上述、p.373 〔第8章第二節・農民反乱〕を見よ。
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③へと、つづく。