秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

プロレタリアート

2585/R・パイプス1994年著第9章第三節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第三節・「労働者反対派」②。
 (06) ロシアの労働組合の指導者たちは、彼らの国は「プロレタリアート独裁」だという主張を、真面目に受け取った。論法の微妙さに馴染みのない者たちだったので、彼らは、知識人で成り立っている党指導部がどのようにして労働者自身以上に労働者にとっての利益を知っているのか、理解できなかった。
 彼らは、工業経営から労働者代表を排除することや、従前の工業指導者が「専門家」を装って権限ある地位に復帰することに反対した。
 これらの者たちは旧体制下で行なってきたのと同じように自分たちを扱う、と不満を述べた。
 はて、何が変わったのか? 革命とは何のためにあったのか?
 彼らはさらに、赤軍に指揮階層を導入することや軍内の身分制の復活にも反対した。
 党の官僚主義化と中央委員会への権限の集積にも、反対した。
 彼らは、地方の党役職が中央によって任命されるという実務を、非難した。
 党が労働大衆と直接に接触するように、党の命令機関の人員は頻繁に交替すべきだ、そうすれば本当の労働者たちに心を開いて近づけるだろう、と提案しもした。(注70)//
 ----
 (07) 労働者反対派の出現は、19世紀末に遡る敵愾心がまだ燻っていることを明るみに出した。すなわち、政治的に積極的な労働者たちの少数派と彼らを代表し、彼らのために語っていると主張する知識人たちの間の反目関係を。(注71) 
 マルクス主義よりも通常はサンディカリズムに傾斜した急進的な労働者たちは、社会主義知識人層と協力し、彼らに指導された。政治経験が不足していることを知っていたからだ。
 しかし、彼らは、自分たちと相手の間にある溝を意識することをやめなかった。
 そして、今や「労働者国家」が誕生したとすれば、「白い手」の権威に服従する理由はもうなかった。(*) //
 ----
 (脚注*) Krupskaiaは1925年に、Clara Zetkin に対して、「農民と労働者の広範な層は、知識人を大土地所有者やブルジョアジーと同一視している。人々のあいだでの知識人界への憎悪は強い」と書き送った(IzvTsK, No. 2/289, 1989.2, p.204.)。
 ----
 (08) 労働者反対派が表明した問題点は、1921年3月の第10回党大会の討議の中心になった。
 開催される直前に。Kollontai は党内用に小冊子を発行し、体制の官僚主義化を攻撃した。(注72) 
 (党の規約は党内論争を公にするのを禁じていた。)
 彼女は、もっぱら労働者男女から成る労働者反対派は党指導部は労働者の気分を喪失したと感じている、と論じた。昇っていく権限の階梯が高くなるほどに、労働者反対派への支持が少なくなっている、と。
 こうしたことが起きているのは、ソヴィエト組織が共産主義を見下す階級敵に奪われているからだ。小ブルジョアジーが官僚機構の統制権を掌握し、一方で、「専門家」を偽装した「大ブルジョアジー」は産業経営と軍事指揮権を奪取したのだ。//
 ----
 (09) 労働者反対派は第10回党大会に、二つの決議を提出した。一つは党組織に関係し、もう一つは労働組合の役割に関係していた。
 独立の決議—すなわち中央委員会が発議していない決議—が党大会で討議されるのは、これが最後となる。
 第一の文書は、内戦中に採用された軍事指揮についての慣例が永続化したこと、および指導部が労働者大衆から疎遠になったことによって生じた、党の危機を語っていた。
 党の事務は〈glasnost〉(公開性)も民主主義もないまま、労働者を信頼していない者たちによって官僚主義的に処理されている。それによって、労働者たちは党への信頼を失い、大挙として離党している。
 この状況を是正するためには、党は全体的な粛清を行なって、日和見主義分子を除去し、労働者の参加を増大させるべきだ。
 全ての共産党員に、少なくとも一年毎に三ヶ月の肉体労働が要求されなければならない。 
 全ての役職者は党員から選出され、党員に対して責任を負わなければならない。中央による任命は例外的な場合だけに限定されるべきだ。
 中央諸機関の人員は、定期的に交替されるべきだ。役職の過半は、労働者のために留保されなければならない。
 党の事務の焦点は、中心にではなく、細胞に当てられなければならない。(注73)//
 ----
 (10) 労働組合に関する決議案も、同様に過激だった。(注74)
 これは、「事実上ゼロ」の状態にまで減じた労働組合の弱体化に抗議した。
 国の経済の再建には、大衆の最大限度の参加が必要だ。「面倒な官僚主義機構にもとづく組織編成の制度と方法」は、生産者の「創造的な主導性や自立性を損なっている」。
 党は、労働者とその組織への信頼を示さなければならない。
 国家の経済は、生産者たち自身によって底辺から再組織されるべきだ。
 やがては、大衆が経験を積むにつれて、経済の管理は、共産党が任命するのではなく労働組合と「生産者」団体が選出した、新しい組織の全ロシア生産者会議に移管されるべきだ。
 (この決議に関する討論で、Shliapnikov は、「生産者」に農民が含まれることを否定した。)(注75)
 このような組織編成のもとで、党は、経済の指揮を労働者に委ねて政治に集中することができるだろう。//
 ----
 (11) 労働者出身の老共産主義者たちによるこれらの提案は、ボルシェヴィキの理論と実務について明らかに無知だった。
 レーニンは、最初の挨拶で、「明瞭なサンディカリスト的逸脱」を示すと明確に非難した。
 彼は続けた、このような逸脱は、経済が危機にあり武装蛮族が国に蔓延している状況でないならば、危険ではないだろう、と。ここで武装蛮族という言葉で意味させたのは、農民反乱だった。
 「小ブルジョア的」自発性の危険は、白軍が提起するそれよりも大きい。かつて以上に、党の統一がいっそう必要だ。(注76)
 コロンタイについては、レーニンは冗談めいた雑談として明らかに彼女の労働者反対派の指導者との個人的関係に言及して、彼女の主張を斥けた。
 (「ああ神よ、同志Kollontai と同志Shliapnikov は『階級的紐帯と階級意識』で結ばれている」。)(+)
 ----
 (脚注+) Lenin, PSS, XLIII, p.41. Angelica Balabanoff, My Life as a Rabel (1973), p.252 を参照。
 レーニンは、Kollontai が労働者反対派に加わったことに激怒し、彼女に語りかけることも、彼女に関して語ることすらも、拒んだ。Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p.97-98.
 ----
 (12) 労働者反対派は、レーニンとその仲間に、一つの問題を突きつけた。
 「プロレタリアート」が背を向けているときに、どのようにして「プロレタリアート」の名前で統治するのか?
 一つの解決策は、ロシアの労働者階級を無視することだった。
 今ではしばしば、「本当の」労働者は内戦に生命を捧げており、代わって存在するのは社会的残りかすだ、と語られた。
 ブハーリンは、ロシアの労働者階級は「農民化」しており、「客観的に言って」労働者反対派は農民反対派だ、と主張した。またチェカの一人はメンシェヴィキのDan に、ペテログラードの労働者は本当のプロレタリアートが全て前線へ行ったあとに残った「滓」(〈svoloch〉)だ、と語った。(注77)  
 レーニンは、第11回党大会で、ソヴィエト・ロシアにマルクスの意味での「プロレタリアート」がいる、ということすら否定した。産業労働の階層は詐病者と「あらゆる種類の臨時要員」で充ちている、というのがその理由だった。(注78) 
 Shliapnikov は、このような主張に反駁して、労働者反対派を支持する第10回党大会の代議員41人のうち16人は1905年以前にボルシェヴィキ党に加入しており、全員が1914年以前に入党している、と特に言及した。(注79)//
 ----
 (13) (労働者反対派の)挑戦に対処するもう一つの方策は、「プロレタリアート」を抽象概念と解釈することだった。この見方では、党はその定義上「人民」(people)であり、生きている人民が何を望んでいると考えていようとも、人民のために行動する。(注80)
 これは、トロツキーが採用した方途だった。
 「党のいわば革命的で英雄的な優越性という意識を、持たなければならない。この優越性は、重要な勢力(〈stikhiia〉)が一時的に躊躇していても、必然的に党の独裁制を断固として主張する。労働者の中にすら一時的な動揺がある場合であっても、それにもかかわらずだ。…
 この意識がなければ、党は、転換点の一つごとに目的を持たないまま衰亡するかもしれない。そのような転換点は多数ある。…
 党は全体として、形式的要因の上に超えたところに党の独裁制があり、その独裁制は労働者階級の気分が動揺しているときでもその根本的な利益を擁護する、という理解のもとで、一緒になって統合している。」(注81) 」
 言い換えると、党はそれ自体で当然に存在しているのであり、その存在が労働者階級の利益を反映しているというまさにその事実によって存在している。
 生きている人民—〈stikhiia〉—の生きている意思は、たんなる「形式的」要因にすぎない。
 トロツキーはShliapnokov を、「民主主義の物神崇拝(fetish)」だと批判した。
 「労働者運動内部での選挙の原理が、言ってみれば、党の上に置かれている。まるで党は、その独裁制が労働者民主主義内部での刹那的な気分と一時的に衝突するという事態にすら、この独裁制を断固として主張する権利を有しないがごとくに。」(注82)
 経済管理を労働者に委ねるのは不可能だ。彼らの中にはほとんど共産党員がいないという理由だけでも。
 これとの関係で、トロツキーはつぎの趣旨のジノヴィエフを引用した。国の最大の工業中心地のペテログラードでは、労働者の99パーセントが共産党を選択していないか、または選好していてもメンシェヴィキや黒の百人組にもある程度は共感している。(注83)
 換言すると、共産主義(「プロレタリアートの独裁」)と労働者支配のどちらも支持できるが、しかし、どちらもそうしないこともあり得る。民主主義は、共産主義を破滅させる宿命にある。
 トロツキーまたは他の共産党指導者がこのような見方の馬鹿々々しさを理解していた、ということを示すものは何もない。
 例えば、ブハーリンは、共産主義は民主主義と両立することはできない、ということを明示的に承認した。
 1924年、非公開の中央委員会総会で、彼はこう言った。
 「我々の任務は、二つの危険の存在を認めることだ。
 第一は、我々の党機構の中央集権化から発生する危険だ。
 第二は、政治的民主主義の危険だ。これは、民主主義が縁を超えて進めば発生し得る。
 反対派は、第一の危険—官僚制—だけを見ている。
 官僚主義の危険の背後には〈政治的民主主義の危険があることを、反対派は見ていない〉。…
 プロレタリアートの独裁を維持するためには、我々は党の独裁を支持しなければならない。」(**)
 ----
 (脚注**) Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/1 (1989), p.197. 強調を追加した〔〈〉内の斜字体部分—試訳者〕。
 ブハーリンは自分の考えをトロツキーに宛てて書いていた。トロツキーは、後述する理由で1924年までにその考え方を変え、労働者反対派が早くに主張していた考え方の強い擁護者になった。
 ----
 後注
 (70) Desiatyi S"ezd, p.240.
 (71) これにつき、私〔R. Pipes〕のSocial Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897 (1963) を見よ。
 (72) Rabochaia oppozitsiia(限定私家版). 英語版は、The Workers' Opposition in Russia (London, n.d.).
 (73) Desiatyi S"ezd, p.651-6.
 (74) Ibid., p.685-691.
 (75) Ibid., p.359-360, p.362, p.530.
 (76) Ibid., p.27-29.
 (77) Ibid., p.223-4; F. Dan, Dva goda skitanii (1922), p.122.
 (78) Odinadtsatzyi S"ezd, p.37-38.
 (79) Desiatyi S"ezd, p.530.
 (80) RR, p.131-2 を参照。
 (81) Desiatyi S"ezd, p.351-2.
 (82) Ibid., p.350.
 (83) 上述、p.373 〔第8章第二節・農民反乱〕を見よ。
 ——
 ③へと、つづく。

2011/L・コワコフスキ著第三巻第10章第2節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。
 ----
 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第2節・批判理論の諸原理(principles)②。
 (7)分かるだろうように、「批判理論」の主要な原理はルカチ(Lukács)のマルクス主義だ。但し、プロレタリアートがない。
 この相違は、この理論をより柔軟でかつ教条的でないものにしているが、それを曖昧でかつ一貫していないものにもしている。
 ルカチは、理論をプロレタリアートの階級意識と同一視し、ついでそれを共産党の知見と同一視することによって、彼の真実に関する規準を明確に定めた。すなわち、社会を観察する際には、真理は自然科学にも有効な一般的科学の規準を適用すること以上に進んではならず、その発生源でもって明らかにされるものだ。
 共産党が誤謬に陥ることは、あり得ない。
 このような発生起源論は少なくとも、真理が一貫しており完全に明確だ、という長所をもつ。
 しかし、発生論的規準がどのようにして理論の知的自立性と結合されるのか、どこからその正しさを統御する規則が生じてくるのか、を批判理論から知ることはできない。なぜなら、批判理論は「実証主義」的規準を拒み、かつプロレタリアートとの自己一体視も拒否しているからだ。
 一方では、Horkheimer は、思考するのは人間であってエゴ(自我)や理性ではないというフォイエルバハ(Feurebach)の言明を繰り返す(「現在の哲学での合理性論争」1934年で)。
 そうすることで彼は、科学的手続に関する規準と科学で用いられる蓄積された観念はいずれも歴史の創造物であって実際的な必要性の所産だ、そして知識の内容はその発生起源と分離することができない-換言すれば、先験論的主体は存在しない-、ということを強調する。
 これにもとづけば、理論は「社会進歩」のためにあるならば「善」だまたは正しい、あるいは、知的な価値はその社会的機能によって明らかになる、ということになりそうに見える。
 他方で、しかし、この理論は現実<に対する>自立性を維持するものと想定されている。
 その理論の内容は、現存するある運動との何らかの一体視に由来するものであってはならず、社会階級は言うまでもなく、人間という種の観点からすらしても、実用主義的(pragmatistic)であってはならない。
 ゆえに、どのような意味で「真実だ」と主張しているのかは、明瞭ではない。現実をそのままに叙述するがゆえになのか、あるいは「人間の解放のために奉仕する」がゆえにか?
 Horkheimer が提示する最も明確な回答は、おそらく、つぎの文章のようなものだろう。
 「しかし、開かれた弁証法は真実の痕跡を失うことがない。
 人が自分の思考、あるいは他人の思考に限界や一方性のあることに気づくことは、知的な過程の重要な側面だ。
 ヘーゲルも唯物論者の彼の継承者も、批判的で相対主義的接近方法は知識の一部だということを正しく強調した。
 しかし、自分自身の確信は確かだとか肯定できるとか考えるためには、観念と客体の統合が達成された、あるいは思考は終点に到達することができる、と想定する必要はない。
 観察と推論、方法論的検討や歴史的出来事、全ての作業と政治的闘争、こうしたものから得られる結果は、我々が用いることのできる認識手法に耐えることができるならば〔この句のドイツ語原語は省略-試訳者〕、真実だ。」
 (「真実の問題について」同上、第一巻p.246.)
 この説明には不明瞭なところがない、というわけでは全くない。
 社会環境がどのようなものであれ、批判理論は最終的には経験的な正当性証明の規準に従うものであり、それに従ってその真偽が判断される、ということをかりに意味しているとすれば、認識論的には、この理論が「伝統的」と非難する諸理論と何ら異ならない。
 しかしながら、かりに何かそれ以上のことを、すなわち理論が真実であるためには経験上の吟味に耐え、かつ同様に「社会的に進歩的」でなければならない、ということを意味しているのだとすれば、Horkheimer は、二つの規準が衝突している場合にはどうすべきかを我々に語ることができない。
 彼はたんに、「前(supra)歴史的」なものではない真実や知識の社会的条件、あるいは観念とその客体の間の「社会的媒介項」と彼が称するもの、に関する一般論を繰り返しているにすぎない。 
 Horkheimer は、この理論は「静態的」でない、主体と客体のいずれも絶対化しない、等々と請け負う。
 全く明らかなのは、「批判理論」はルカチの党教条主義を拒み、正当性証明に関する経験的規準を承認することも一方では拒んで、理論としてのその地位を主張しようとしていることだ。
 言い換えると、批判理論は、それ自体の曖昧さのおかげで存立している。//
 (8)このように理解される批判理論は、明確なユートピアを構成することはない。
 Horkheimer の予言は、ありふれた一般論に限定されている。すなわち、普遍的な幸福と自由、自分の主人となる人間、利潤と搾取の廃棄、等々。
 「全てのもの」は変化しなければならない、社会改良ではなく社会変革の問題だ、と語るが、どのようにしてこれを行うのか、あるいは何が実際に生じるのだろうか、については語らない。
 プロレタリアートはもはや歴史の無謬の主体とは位置づけられない。その解放は依然として、この理論の目標であるけれども。
 しかしながら、この理論は一般的解放のための有効な梃子だと自らを主張しないがゆえに、思考の高次の様式であって人類の解放に寄与するだろうという確信だけを除いて、明瞭に残されているものは何もない。//
 (9)社会の選好と関心に関してHorkheimer が述べていることは、社会に関する多様な理論が用いる観念上の諸装置にすでに含まれていた。そして、確かに本当のことだが、彼の時代ですら新しくはなかった。
 しかし、社会科学は異なる利益と価値を反映する、ということは、Horkheimer がそう(ルカチ、コルシュおよびマルクスに従って)考えたと思われるように、経験的判断と評価的判断の相違は超越された(transcended)ということを意味していない。
 (10)「批判理論」は、このような意味で、プロレタリアートとの自己一体視を受け入れることなくして、真実に関する階級または党の規準を承認することなくして、マルクス主義を保持しようという一貫した試みだった。また、このようにマルクス主義を縮減すれば生じる困難さを、解消しようともしなかった。
 批判理論はマルクス主義の部分的な形態であり、それが無視したものを補充することがなかった。//
 ----
 第2節おわり。次節・第3節の表題は、<否定弁証法>。

2010/L・コワコフスキ著第三巻第10章第2節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.352-p.355.
 ----
 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第2節・批判理論の諸原理(principles)①。
 (1)「伝統的」理論に対する意味での「批判的」理論の規準は、Horkheimer の1937年の綱領的論考で定式化された。その主要なものは、以下のとおりだ。
 (2)現在までの社会現象の研究では、つぎのいずれかを前提として想定するのがふつうだった。第一は、社会現象研究は推論に関する通常の規則にもとづかなければならず、可能なかぎり量的に表現される、一般的観念や法則を公式化することを意図しなければならない、というものだ。第二は、現象主義者たちが考えるもので、経験的な結果から独立した「本質的」法則を発見するのは可能だ、というものだ。
 上のいずれの場合も、観察の対象となる事物の状態は、それに関する我々の知識から切り離されている。ちょうど、自然科学の研究主題が「外部から」与えられるように。
 知識(knowlege)の発展はそれ自体の内在的論理によって統御される、そして何らかの理論が他の理論のために無視されるとすれば、前者には論理的困難さがあるか、経験上の新しいデータと合致しないことが分かったからだ、とも想定されてきた。
 しかしながら、現実には、社会的変化は理論に変化を与える最も強力な要因だ。
 科学は、生産に関する社会過程の一部であり、その変化に応じて変化を受けざるを得なかった。
 ブルジョア哲学は、人々が知識の社会的由来や社会的機能を認識することを妨げる、そのような多様な先験論的(transcendentalist)諸教理でもって、科学とは別個に、誤りへと導く信念を表現してきた。
 ブルジョア哲学はまた、科学が与えることのできない評価的判断を要するがゆえに、凌いだり批判したりするのではなくて世界を叙述する、そのような活動だとして、知識に関する像を主張した。
 科学の世界は、観察者が一定の秩序へと切り縮めようとする、既製の事実の世界だった。まるで、そうした事実を感知すること(perception)は、その内部で生起する社会的外殻とは全く独立しているかのごとくに。//
 (3)しかしながら、批判理論にとって、そのような意味での「事実」は存在しない。
 感知を、その社会的発生源から切り離すことはできない。
 感知もその対象のいずれも、社会的で歴史的な産物だ。
 個々の観察者は客体<に対して>受動的だが、しかし、全体としての社会は過程のうちにある能動的な要素だ。無意識にそうであるかもしれないけれども。
 確定される事実は、考察者が用いる観念上の諸道具を修繕する人間たちの集団的な実践によって、部分的には決定される。
我々が知る対象たる客体は、部分的には諸観念と集団的諸実践の産物だ。そうした起源に気づいていない哲学者たちは、前個人的で先験論的な意識へと自らを間違って硬直化させている。//
 (4)批判理論は、社会観察者の一形態だと自らを見なし、そのような自分たちの機能と起源を自覚している。しかし、そうであっても、言葉の真の意味での理論ではない、と意味させているのではない。
 この理論の特有の機能は、つぎのことにある。すなわち、現存する社会-労働の分割、知的活動に割り当てられる場所、個人と社会の区別等々-にある規準は、自然で不可避のものだと、伝統的理論がそうするようには、単純に理解することを拒否すること。
 批判理論は、社会を全体として理解しようと追究する。そしてその目的のためには、ある意味では社会の外部の立場をとらなければならない。一方では、自らを社会の産物だと見なすのだけれども。
 現存社会は、その社会の構成員の意思とは別個の「自然の」所産のごとく行動する。そして、このことを理解することは、構成員たちが被っている「疎外」を認識することだ。
 「批判思考は、本当に緊張状態を超越し、かつ個人の合目的性、自発性および合理性と社会の基礎である労働の条件の間の対立を除去すべく努める、という動機をいまや有している。
 これは、人間はこの自己一体性(identity)を回復するまでは自分自身と対立する、という観念をもつことを、その意味に包含する。」
 (A. Schmidt 編, <批判理論>第二巻, p.159.)
 (5)批判理論は、知識に関する絶対的な主体は存在しないこと、その過程は実際には社会の自分に関する知識なのだが、主体と客体は社会に関するその思考の過程でまだ合致していないこと、を承認する。
 この合致は、将来のことだ。しかし、それは将来のたんなる知的な進歩の結果ではなくて、社会生活から擬似自然的な「外部」性を剥ぎ取ることによって人間を再びその運命を宰どる主人に変える、そのような唯一の社会過程の結果だ。
 この過程は、理論の性質に、また思考の機能およびその客体との関係に生じる変化を含んでいる。//
 (6)これから見るように、ここでのHorkheimer の見解は、ルカチ(Lukács)のそれに近い。すなわち、社会に関する思考はそれ自体が社会的事実であり、理論は不可避的にそれが叙述する過程の一部になる。
 しかし、重要な違いは、つぎのことにある。
 ルカチは、歴史に関する主体と客体の完全な統合は、したがってまた社会的実践とそれを「表現する」理論の統合は、プロレタリアートの階級意識の中で実現される、そのことからして、観察者のプロレタリアートの階級観(つまり共産党の方針)との自己一体化は理論的な正しさ(correctness)の保障となるということになる、と考えた。
 Horkheimer は、プロレタリアートの状態は知識の問題では何の保障をも提供しないと宣告して、これを明示的に拒否する。
 批判理論はプロレタリアートの解放に賛成だが、プロレタリアートが自立性を保持するのも望む。そして、プロレタリアートの見地を受動的に受容すると決することを拒む。
 そうでなければ、批判理論は社会心理学に、所与のときに労働者が考えたり感じたりすることをたんに記録することに、変質するだろう。
 正確にいえば「批判的」であるがゆえにこそ、理論は、全ての現存する社会意識の諸形態<に向かいあって>自立したままでなければならない。
 理論は、より良き社会を創造しようとする実践の一側面だ。
 理論は戦闘的性格をもつが、単純に現存の闘争によって作動するのではない。
 社会システムの「全体性」に対するそれの批判的態度は、理論上の発見物に重ねられた価値判断の問題ではなく、暗黙のうちにマルクスから継承されている、観念上の諸装置のうちにある。つまり、階級、搾取、剰余価値、利潤、貧困化のような諸範疇は、「その目的が社会を現状のままに再生産することではなく正しい(right)方向へと変革することである観念体系全体のうちの諸要素だ」(同上、p.167.)。
 理論はかくしてそれ自体の観念上の枠組みにおいて、能動的で破壊的な性格をもつ。しかし、現実のプロレタリアートの意識とは反対になり得るということを考慮しなければならない。
 批判理論は、マルクスに従って、抽象的諸範疇を用いて社会を分析する。しかし、いかなるときでも批判理論は、理論<として(qua)>、それが描写する世界の批判論であり、その知的行為は同時に社会的行為であり、かくしてマルクスの意味での「批判」である、ということを忘却していない。
 それの研究主題は、単一の歴史社会だ。すなわち、人間の発展を妨害し、世界を野蛮さへの回帰でもって脅かしている現在の形態での、資本主義世界だ。
 批判理論は、人間男女が自分自身の運命を決定し、外部的な必然性に服従しないもう一つの社会を展望する。
 そのようにして、批判理論は、そのような社会が出現する蓋然性を増大させるのであり、かつこのことに気づいている。
 将来の社会では、必然性と自由の間には何の違いも存在しなくなるだろう。
 この理論は人間の解放と幸福および人間の能力と必要に適応した世界の創造に奉仕する。そして、人類は現存する世界で他の者たちが表明している以上の潜在的能力をもつ、と宣言する。//
 ----
 第2節②につづく。

1503/ネップ期の政治的抑圧③-R・パイプス別著8章7節。

 前回のつづき。
 ---
 第7節・政治的かつ法的抑圧の増大③。
 1920年代の法実務について論じた共産主義法史学者は、法とは『ソヴェト国家の強化と社会主義経済の発展を助ける統制原理だ』と定義した。(*)
 この定義では、国家当局の判断で国家に有害だ又は新経済秩序を阻害するとされるいかなる個人や集団に対する抑圧も、正当化されてしまう。
 かくして、1928-31年にスターリンが行なった『富農(kulaks)』の絶滅は、つまり数百万の農民が土地を奪われて多くは死の強制収容所へと強制移住させられたのは、レーニン主義法学者の使う専門用語の範囲内で、厳格に実施されたことになった。(134)
 ソヴィエトの最初の民法典第1条の定めでは、国民の私法上の権利は、諸権利が『社会経済の目的と矛盾』しない範囲で法によって保護される(naznachenie)。(135)//
 レーニンは、履行すべき新しい仕事について予め理解しやすくしようと、慣習上の法廷手続をなくした。
 いくつかの工夫が、新たに導入された。
 犯罪か否かは形式的な規準(法を侵犯するか否か)によってではなく、感知できる潜在的な影響力、つまり『実質的』または『社会学的』規準によって決定される。この規準によれば、犯罪とは、『ソヴェト体制の基礎を脅かす、社会にとって危険な全ての作為または不作為』だと定義された。(136)
 したがって、『意図』を立証することによって有罪になりえた。制裁を科す対象は、『主観的な犯罪企図』にあった。(**)
 1923年の刑法典第57条の追加条項は、国家機関が同意しない全ての行為を包含するように広く、『反革命』活動を定義した。
 その条項は、統治機構の破壊や弱体化、あるいは『世界のブルジョアジー』への助力を明確に目的とする行為に追加して、つぎのような行為もまた『反革命』だと性質づけた。
 『目標の達成を直接には意図していないが、にもかかわらず、当該行為の実行人物に関するかぎりでは、プロレタリア国家の根本的な政治的経済的征圧物に対する意識的な攻撃(pokushenie)を再示〔represent〕する行為』。(137)
 このように定義すれば、例えば、儲けようとの願望も、反革命的だと解釈でき、重い制裁に値しうることになる。
 K・V・クリュイレンコは、この第57条の修正について、制裁手段のかかる『柔軟性』は、『隠された形態の反革命活動』、その最も一般的な形態を処理するためには必要だ、と注釈した。(138)
 『類推』という原理によって、直接に定義されていないが類似の性質をもつ犯罪についても国民を訴追することが可能になった(刑法典第10条)。(+)。
 このような規準は、際限なく融通がきくものだった。
 党の法思想をその論理的帰結まで押し上げた共産主義法律家のA・N・トライニンは、1929年、スターリンのテロルが進行する前に、『犯罪が存在しない場合でも刑事上の抑圧が適用される例』はある、と論じた。(139)
 法と法手続の破壊へと、これ以上進むことはほとんどできないところに到達した。//
 このような原理の上で演じられる舞台である裁判の目的は、犯罪の存在または不存在を主張し合うことではなく-これは関係党機関によって予め決定されていた-、政治的煽動や情報宣伝の新しい公共空間を、一般国民の教育のために提供することだった。
 党員である必要のあった弁護人は、被告人の有罪を当然視しておくことが要求され、情状酌量を弁論するだけに限定された。
 レーニンが生きている間は、別の被告人に対する偽証によって生じる気の毒に思う感情は無罪放免を勝ち取らせそうだったし、少なくとも、減刑判決につながった。
 その後は、そのような行動では満足させないことになる。//
 法に関するこのような衝撃的事実の第一の犠牲者は、もちろん、その運命が政治的なかつ情報宣伝の考慮でもって決せられる被告人だった。
 しかし、社会全体も高い対価を支払った。
 ロシアの大衆はつねに司法を低く評価していた。大衆がその態度を克服するように、1864年の裁判所改革は徐々に学ばせてきていた。
 しかし今や、この教訓は一瞬のうちに学ばれていないことになった。
 ボルシェヴィキの実務が確認した司法とは、強者を愉しませるものだった。
 そして、法への敬意は社会の適切な作動にとって基本的なことであるのにもかかわらず、レーニンが定式化した無法性(lawlessness)は、言葉の最も完全な意味において、反社会的なものだった。//
 ------ 
  (*) Sorek let ソヴィエト法, Ⅰ (1957), p.72。このような考え方は、用語ではなく精神的には帝制時代の伝統を継承している。革命前の主要な憲法学者によれば、ロシアでは法の機能は正義の確保というよりも公的秩序の維持にあった。N・M・コルクニノフ, ソヴィエトの現行法, Ⅰ (1909), p.215-222。
  (134) Sorek let ソヴィエト法, Ⅰ (1957), p.74-75。
  (135) ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦の民法典 (1923)〔露語〕, P.5。ハロルド・ベルマン, ロシアでの正義 (1950), p.27。
  (136) ロシア・ソヴェト社会主義共和国連邦の刑法典, 第2版 (1922)〔露語〕, 第6章, p.3。
  (**) ルドルフ・シュレジンガー, ソヴィエトの法理論 (1945), p.76。ここでも、ロシアの先哲者は継承されている。1649年の(刑事)法典によると、国家反逆罪が問題になっている事件では、意図と行為は明確には区別できない。リチャード・パイプス, 旧体制下のロシア (1974), p.109。
  (137) SUiR, No. 48 (1923年7月25日), 布令第479号p.877。
  (138) A・N・トライニン, 刑法-ロシア社会主義連邦 (1925), p.30n。
  (+) この原理は、つぎのように適用される。『(第57条と第74条は)反革命罪および国家行政制度に対する犯罪を一般的に定義している。この第57条と74条にもとづいて、かりに国家反逆罪の一般的概念に含まれる行為がなされたが<具体的に(specifically)>予知されていないとき、…最も適切な同じ章の条項を適用することは許されうる。』
 A・N・トライニン, 刑法-ロシア社会主義連邦 : Chast' Osobennaia (1925), p.7。
  (139) A・N・トライニン, 刑法: Chast' Osobennaia (1929), p.260-1。
 ---
 第7節・終わり。

1441/レーニンと社会民主主義②-R・パイプス著9章2節。

 前回のつづき。< >は原著のイタリック体の部分。これまでも同じ。
---
 レーニンは、ゆっくりとこの変化を進んだ。その理由の一つは、地方に住んでいたので社会民主主義の文献を入手できなかったこと、もう一つは、社会民主主義の親資本主義、親ブルジョアジー観が、ストルーヴが『重要な<気質>』と書いたものまたは彼の心性の態度と衝突することだ。
 レーニンは1892-93年にプレハーノフを読んで、人民の意思のイデオロギーと社会民主主義のそれとの間の中間地点に到達したとみられる。これは、彼の兄が5年前に到達していた地点と似ていないこともない。
 レーニンは『分離した途』という考えを放棄し、誰もが見ている現実を承認した。ロシアは、彼が1889年に読んだ<資本論>で描かれた途を歩むように運命づけられている。
 しかし彼は、革命を準備する前に不確定の期間、『ブルジョアジー』が国を覆う主人である資本主義の段階をロシアが甘受しなければならないことを認めたくなかった。// 
 この問題に関するレーニンの解決は、ロシアはすでに資本主義国だ、ということだった
 ロシア経済を研究する他のどの学生も支持したとは知られていないこの奇矯な見解は、農業の統計データの独特な解釈に依拠していた。 
 レーニンは、ロシアの農村は『階級分化』の苦悶のうちにある、少数派の農民は『プチ・ブルジョアジー』へと変質し、多数派は土地のない農村プロレタリアートへと変化している、と考えた。
 エンゲルスがドイツの農民に関して行ったものに由来するこのような計算は、ロシアの諸事実とはほとんど関係がなかった。しかし、レーニンにとってそれは、資本主義が十分に成熟するまでロシアは革命を永遠に延期する必要はない、という主張を擁護するために役立った。
 ロシアのいくつかの地方の農村人口の十分に20パーセントは『ブルジョアジー』と性質づけられると論じて、また当時に進行中の産業ブームにも言及して、レーニンは1893-94年に、つぎのように大胆に宣言できると考えた。すなわち、『現時点において、資本主義はすでにロシアの経済生活の根本的な基盤を構成しており』、『われわれの秩序は本質的には西側ヨーロッパと異ならない』。(16) // 
 人口の五分の四が農民で成り立っており、その多くは自己充足的な、小規模の農民である国家を『資本主義国』だと宣言することによって、レーニンは、革命の期は熟していると強く主張することができた。
 さらに、『ブルジョアジー』はすでに権力を握っているので、彼らは同盟者を代表せず、階級敵だった。
 レーニンは1894年夏に、その政治哲学を要約するつぎの文章を書いた。短い中間期(1895-1900)を除いて、彼の残りの人生はこの内容に忠実なままだっただろう。
 『すべての民主主義的構成分子を指導するロシアの<労働者>は、(世界のプロレタリアートとともに)栄光ある共産主義革命に向かう公然たる闘争という直接の途を通じて、絶対制を廃し、<ロシアのプロレタリアート>を指導するだろう。』(17)
 語彙はマルクス主義的だが、この文章に横たわる感性は、人民の意思のものだ。実際、かなりのちにカール・ラデックに打ち明けようとしたように、レーニンはマルクスを人民の意思と調和させようと試みた。(18) 
 人民の意思が革命の前衛の役割を与えるロシア労働者は、専制体制に対して『直接の』攻撃を開始し、それを没落させ、そしてその廃墟の上に共産主義社会を打ち立てるべきだとされた。
 旧体制の経済的かつ政治的基盤を破壊するに際しての、資本主義やブルジョアジーの役割については、何も語られていない。 
 これは時代錯誤的なイデオロギーだ。というのは、このようにレーニンが定式化したとき、ロシアには急速に増大する社会民主主義運動があり、それはマルクスの理論を旧式で適用することを拒んだのだ。//
 --- 
第3節につづく。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー