リチャード・パイプスの近著に、以下がある。
Richard Pipes, Alexander Yakovlev -The Man whose Ideas delivered Russia from Communism (2015) . <R・パイプス, アレクサンダー・ヤコブレフ-ロシアを共産主義から救い出した人物>。
これの2015年2月付の序言の一部は、つぎのとおり。
「2005年に、イタリア・トリノで開かれた会議に、ミハイル・ゴルバチョフから招かれた。その会議は、『世界を変えた20年』と題して、世界政治フォーラムが組織しており、1985年から始まったゴルバチョフの5年間の指導者在職中にソヴィエト同盟で生じた、諸変革を記念するのを目的としていた」。
さて、Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990), の第二部第10章の試訳。
前回からのつづき。
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第3節・レーニンの革命戦術①。
レーニンは、きわめて秘密主義の人間だった。
合わせて55巻の全集になるほどに多くを語り、書いたけれども、彼の演説や著作は圧倒的に虚偽宣伝や煽動で、潜在的な支持者を説得することか、または知られた対抗者の考えを暴露するというよりもそれを破壊することかを意図していた。
心に浮かんだことは、身近な仲間にすらほとんど明らかにしなかった。
階級間の世界戦争の最高司令官として、計画は個人的なままにした。
したがって、レーニンの思想を再述するためには、知られている行為から隠された意図へと遡って分析することが必要だ。//
一般的な諸論点-誰が敵でその敵に対して何がなされるべきか-については、レーニンは包み隠さなかった。
大まかに把握された目標-『綱領』(プログラム, programm)-を、彼は公にしていた。
そこからレーニンの意図を見抜くには、かなりの困難がある。
ムッソリーニについて言うと、彼自身はクー・デタ技術の専門家では全くなかったが、ジョバンニ・ジョリッティ(Giovanni Giolitti)に対して、『国家は革命の綱領に対してではなく、革命の戦術に対して防衛されなければならない』と打ち明けていた。//
レーニンはメンシェヴィキ・エスエルの二段階革命の原理およびその推論形である dvoevlastie 、つまり二重権力を拒否した。
彼は臨時政府を可能なかぎり実際にぐらつかせて、権力を奪取することを意図した。
レーニンの注目すべく鋭い政治的本能-どの成功した将軍も所持する才能-によって、これができると考えた。
彼は、リベラルなまたは社会主義的知識人がどういう存在なのかを知っていた。クレマンソー(Clemenceau)の言葉を借りれば、『菜食主義の虎』たちは、彼らの革命的な言辞にかかわらず、政治責任を死ぬほど怖れ、かりに手渡されても権力を行使できない。
この点で彼は、ニコライ二世のようなものだと判断した。
さらに、国民的な一体性の外観や臨時政府への一般的な支持の奥底には、煽り立てて適切に指揮すれば非効率な民主政体を打倒してレーニンに権力をもたらすような、力強い破壊力が煮え立っていると、気づいていた。都市での物資の不足、農民の社会的動揺、民族的な欲求。
ボルシェヴィキはその目標を達成するため、現況(status quo)に対する唯一の選択肢として、臨時政府や他の社会主義政党のいずれもからきっぱりと離れなければならなかった。
ロシアへの帰還後レーニンは、この主張を基本線として、支持者たちに臨時政府への融和的態度を放棄すること、メンシェヴィキとの統合を考えてはならないことを力強く説いた。//
民主主義的なスローガンがますます民衆性を獲得しているのを見たレーニンは、ボルシェヴィキ党への権力の要求を公然とは主張できなかった。
ボルシェヴィキ党の党員以外は誰も、そして党員ですらほとんど、権力要求が達成できる見通しを持たなかった。
この理由で短い幕間(中間休憩期間)として、レーニンは1917年の間は、権力のソヴェトへの移行を主張した。
1917年の秋までボルシェヴィキはソヴェトの中の少数派だったことを見ると、この戦術は当惑させるもののように思える。そして、表向きは、この綱領を達成するということは、権力のメンシェヴィキとエスエルへの移行を意味するはずだった。
しかし、ボルシェヴィキは、このような移行は決して生じないと確信していた。
メンシェヴィキの全指導者の中で対抗派に対する幻想を最ももっていなかったツェレテリ(Tsereteli)は、ボルシェヴィキはソヴェトの多数派から国民的権力を闘い取ることに何ら困らないと思っている、と書いた。
臨時政府にはいろいろな欠点があったけれども、レーニンの見地からすると、それは大きな軍事力をもちかつ農民層および中産階級からの確実な量の支持を受けているがゆえに、民主主義的社会主義者たちよりもはるかに危険な敵だった。
民族主義に訴えることで、臨時政府は力強い力を結集することができた。
名目上であろうと、臨時政府に権力がとどまっているかぎり、国家が右へと舵を切る危険はつねに存在した。
ソヴェトに権威の中心があったので、政治的雰囲気を急進化させ、『反革命』という妖怪でもって脅迫して優柔不断な社会主義者たちを引っ張り続けるのは、相対的には簡単なことだった。//
レーニンはその目標-権力の奪取-をめざし、軍事史や軍事学で学んだことにもとづく方法で追求した。
純粋な政治というのは、権威主義的な方法であっても、権力への競争者と自主的な主導性については抑えた展望をもつ民衆全体の両者との間の、何らかの種類の調整を含んでいる。
しかし、レーニンには政治とはつねに階級戦争であり、クラウセヴィッツの語法で思考をした。
軍事戦略としての目的は、対抗者との調整ではなくして、彼らを破壊することだった。
これは、先ず第一に、二つの意味での対抗者の武装解除を意味した。すなわち、(1) 軍事力の剥奪、(2) その諸機構の破壊。
しかしこれはまた、戦場と同じく、敵の肉体的な殲滅を意味しえた。
ヨーロッパの社会主義者はよく『階級戦争』と語ったが、それは主としては、バリケードを築くという頂点があるかもしれないとしても、工場ストライキや投票行動のような、非暴力的な手段によるものを意味した。
レーニンは、そして彼だけは、『階級戦争』を文字どおりに国内戦争(civil war)の意味で用いた-戦略的破壊を目的とする、必要ならば政治の戦場での再挑戦を不能にするほどの首尾での勝利につながる敵の殲滅を目的とする、使用可能な全ての武器を使っての、戦争だ。
このような見地での革命とは、別の手段によって遂行される戦争だった。違いは、国家間や民族間ではなくて、社会的階級の間で行われる戦闘だということにあった。
戦闘のラインは、水平ではなく垂直に〔横ではなく縦に〕走っていた。
このような政治の軍事化に、レーニンが成功する重要な根源があった。
成功するためにレーニンはこのように考えていたが、それは、彼の敵が、設定もされず予期もできない地域での戦闘だと政治を取り扱う者がいるなどとは想像できないほどのものだった。//
レーニンがその人格の内奥から導く政治に関する考え方は、彼の支配への渇望とレーニンが成長したアレクサンダー三世時代のロシアで形づくられた伝来的政治風土とが結びついたものだった。
だが、この心理的な衝動と文化的伝統とを、理論的に正当化するものがなければならない。レーニンは、これを、マルクスのパリ・コミューン(Paris Commune)に関する論評のうちに見出した。
この主題に関するマルクスの著作はレーニンに圧倒的な印象を与え、彼の行動の指針になった。
マルクスはコミューンの生成と崩壊を観察して、全ての革命家はそのときまで、既存の諸制度を破壊するのではなく奪い取ろうとするという重要な過ちを冒していたと結論づけた。
階級国家の政治的、文化的そして軍事的な諸構造を無傷なままに残して、たんに人員だけを置き換えることでは、反革命の生育地が残されてしまった。
これからの革命家は、違うやり方で前進しなければならないことになろう。
『これまでなされたように官僚・軍事機構を一塊としてある者から別の者に移行させるのではなく、それを破壊すべきだ』。(44)
これらの言葉は、レーニンの心に深く染みこんだ。
レーニンはあらゆる機会にこれを繰り返し、その重要な政治命題の中心に据えた-<国家と革命>。
それはレーニンの破壊本能を正当化するのに役立ち、新しい秩序を樹立するというその欲望に合理性を与えた。『全体主義』要求の中に全てを包括する、新しい秩序をだ。//
レーニンはつねに、革命を世界的な意味で捉えた。
彼にはロシア革命はたんなる偶然的事件であり、『帝国主義』の最も弱い環を偶発的に切断することだった。
レーニンはロシアを改革することにでは決してなく、ロシアを征圧して、産業諸国家とその植民地における革命への跳躍台にすることにだけ関心があった。
ロシアの独裁者となっても、1917年やその後の事態を世界的観点から見ることをやめなかった。
彼にとっては、『ロシア革命』であってはならず、ロシアで開始された、発生するはずの世界的革命なのだった。
ロシアへと出立する日の前に渡したスイスの社会主義者たちあての別れの文章の中で、レーニンはこの点を、つぎのように強調している。//
『一連の諸革命を<開始>したという大きな栄誉は、ロシア人に与えられた。<中略>
ロシアのプロレタリアートが<独特の、おそらく短期間のみの>全世界の革命的プロレタリアートの前衛になったのは、その特殊な属性にではなく、特殊な歴史的条件に原因がある。
ロシアは農民国家であって、ヨーロッパの最も遅れた国の一つだ。
そこで<直接に、現時点で>、社会主義が勝利するのは<不可能>だ。
しかし、国家の農民的性格は…、ロシアのブルジョア民主主義革命への巨大な一撃を導くことを、そして我々の革命を世界的社会主義革命の<序曲>にすること、それへの<一歩>とすること、を<可能に>する。』(45)
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(44) レーニン全集に引用される、1871年のクーゲルマン博士への手紙。
(45) 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)25頁「戦術に関する手紙」(1917年4日8-13日に執筆、のち単行小冊子)かと思われる。-注記・試訳者による〕
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②へとつづく。