この書(総計約590頁)のうち、章単位で試訳掲載を済ませているのは、数字番号のない結語のような末尾の「ロシア革命の省察」(約20頁)を除くと、つぎだけだ。原書で約40頁。これら三者(ロシア・イタリア・ドイツ)の共通性と差異を考察している。
第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
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この書物の第8章の節別構成は、つぎのとおり。
第8章・ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
第1節・テルミドールではないネップ。
第2節・1920-21年の農民大反乱。
第3節・アントーノフの登場。
第4節・クロンシュタットの暴乱。
第5節・タンボフでのテロル支配。
第6節・食糧徴発制の廃止とネップへの移行。
第7節・政治的かつ法的な抑圧の増大。
第8節・エスエル〔社会主義革命党〕の『裁判』。
第9節・ネップ制度のもとでの文化生活。
第10節・1921年飢饉。
第11節・外国共産党への支配の増大。
第12節・ラパッロ〔条約〕。
第13節・共産主義者とドイツのナショナリストとの同盟。
第14節・ドイツとソヴィエト連邦の軍事協力の開始。
以上のうち、この欄に試訳の掲載を済ませているのは、以下に限られる。
第6節〜第10節。5年前の2017.04.10〜2017.04.27 のこの欄に掲載した。
以下、第一節〜第五節の邦訳を試みる。
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第8章・ネップ(NEP)—偽りのテルミドール。
第一節・テルミドールではないネップ。
(01) 「テルミドール」(Thermidor)は、フランス革命暦の七月で、その月にジャコバンの支配が突如として終わり、より穏健な体制に譲った。
マルクス主義者にとって、この語は反革命の勝利を表象するものだった。その反革命は最後には、ブルボン王朝の復活に行き着いたからだ。
それは、彼らが何としてでも阻止すると決意している展開だった。
経済の破綻と大量の反乱に直面して、レーニンは1921年3月に、経済政策を急進的に変更させることを強いられていると感じた。その変更は、私的企業に重大な譲歩をする結果となるものであり、新経済政策(NEP)として知られるようになった路線だった。国の内外で、ロシア革命もまたその路線を辿り、テルミドール段階に入った、と考えられた。//
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(02) このような歴史的類推を用いることはできないことが、判明した。
1794年と1921年の最も顕著な違いは、フランスではジャコバン派がテルミドールに打倒され、指導者たちは処刑されたのに対して、ロシアでは、ジャコバン派に相当する者たちが新しくて穏健な路線を実施した、ということだった。
彼らは、変化は一時的なものだと理解したうえで、そうした。
1921年12月に、ジノヴィエフはこう言った。「同志たちよ、新しい経済政策は一時的な逸脱、戦術的な退却にすぎず、国際資本主義の前線に対する労働者の新しくて決定的な攻撃のための場所を掃き清めるものだ、ということを明瞭にしてほしい」。(注02)
レーニンは、NEP をブレスト=リトフスク条約になぞらえるのを好んだ。これは当時は誤ってドイツ「帝国主義」への屈服と見られたが、後退の一歩にすぎなかった。つまり、長くは続かず、「永遠に」ではなかったのだ。(注03)//
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(03) 第二に、NEP は、フランスのテルミドールとは異なり、経済の自由化に限定されていた。
トロツキーは、1922年にこう言った。「我々は、支配党として、経済分野での投機者を許容することができる。しかし、政治領域でこれを認めることはできない。」(注04)
実際に、NEP のもとで許容された限定的資本主義が全面的な資本主義の復活になることを阻止する努力を行ないつつ、体制は、政治的抑圧の強化をそれに伴わせた。
モスクワが対抗する社会主義諸政党を破壊し、検閲を系統化し、秘密警察の権限を拡大し、反教会の運動を立ち上げ、国内と外国の共産主義者への統制を厳しくしたのは、1921-23年のことだった。//
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(04) 退却の戦術的性格は、当時は広くは理解されていなかった。
共産主義純粋主義者たちは、十月革命への裏切りだと見て憤激し、一方では、体制への反対者たちは、恐ろしい実験は終わったと安心してため息をついた。
レーニンは、頭脳が働いた最後の二年間、繰り返してNEP を擁護しなければならず、革命はその行路上にあると強く主張した。
しかしながら、彼の心の奥深くでは、敗北の感覚に取り憑かれていた。
彼は、ロシアのような後進国で共産主義を建設する企ては時期尚早であって、不可欠の経済的、文化的基盤が確立されるまで延期されなければならない、と気がついていた。
計画どおりに進んだものは、何もなかった。
レーニンは一度、うっかり口をすべらした。「車は制御不能だ。運転してはいるが、車は操縦するようには進んでいない。だが、何か非合法なものに、何か違法なものに操縦されて、神だけが知る行方へと、向かっている。」(注05)
経済破綻の状況の中で行動する国内の「敵」は、白軍の連結した諸軍よりも大きな危険性をもって体制に立ちはだかっていた。
「共産主義への移行という企てをしている経済戦線では、我々は1921年春までに、Kolchak、Denikin、あるいはPilsudski が我々に与えたものよりも重大な敗北を喫した。はるかに重大で、はるかに根本的で危険な敗北だった。」(注06)
これは、レーニンは1890年代に早くも、ロシアは十分に資本主義的で、社会主義の用意ができている、と間違って主張した、ということを認めるものだった。(注07) //
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後注。
(02) A.L.P.Dennis, The Foreign Politics of Soviet Russia (1924), p,418. Ost-Information, No,191 (1922,01,11) から引用。
(03) Lenin, PSS, XLIII, p.61; XLIV, p.310-1.
(04) Odinadsatyi S"ezd RKP(b); Stenograficheskii Otchet (1961). p.137.
(05) Lenin, PSS, XLV. p.86.
(06) Ibid., XLIII. p.18, p.24; XLIV, p.159.
(07) R. Pipes, Struve: Liberal on the Left (1970), あちこちの頁に.
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第一節、終わり。