秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

フェミニズム

1212/東京大学文学部社会学科はなぜ上野千鶴子を東京大学教授にしたのか。

 日本の大学の人事において、とくに歴史学や社会学を含む「社会系」については、その人物の「思想」・「イデオロギー」(それらによる所属団体、それらについての指導教授の「傾向」)がかなりの影響をもっているかを、この欄で何度か触れたことがある。マイナスになることもあれば、「左翼」/マルクス主義者・親マルクス主義者/日本共産党員であることがむしろプラスに働いて、これらを大学または学界における「処世の手段」として利用している者も少なくないのではないか、等をかつて記したことがある。   2007.07.06「大学の歴史・社会系ではまだ共産主義系が多数派!?」   2009.02.06「<処世の手段>としての『左翼』/マルクス主義者/日本共産党員」。   2010.10.02「『共産党ではないが左翼』の社会・人文系学者たちの多さ」、など。

 長らく失念していたが、上野千鶴子の東京大学への招聘について、西尾幹二らが当時の東京大学文学部長と社会学科長に対して「公開質問状」を出していたことを思い出した。
 ネット上で、全文かどうかは不明だが見つけたので、再掲して紹介しておくことにする。なお、この質問状は西尾=八木・新・国民の油断(PHP、2005)に全文・経緯が掲載されているようだ。所持しているが、確認作業を節約させていただく。

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 「『上野千鶴子』問題については、東京大学の社会的責任を問う必要があると考えます。

 『女遊び』は、上野千鶴子氏が東京大学文学部教授会に迎え入れられる前、平安女学院短期大学教員の名で出された本で、東京大学の資格審査の際の参考文献に当然なっていたはずですから、同書と同書著者を受け入れた社会的責任が、東京大学文学部長と社会学科主任教授とにあると思います。もちろん、それに先立ち、文学部教授会全体にも社会的責任があります。

 憲法で『表現の自由』と『学問の自由』は保障されていますが、表現の『評価』は無差別ではありません。社会的影響力の大きい機関は『評価』に対し、当然、社会的責任を有しています。

 『女遊び』がどのような文献であるかは本書中で紹介したとおりで、必要なら古書でなお入手でき、再調査が可能でしょう。関係各位はご調査のうえ、判断や評価が適切であったか否かを、いまあらためてマスコミにおいて公表してほしい。

 もちろん機関としての判断決定の見直しは、いかに失敗であるとはいえ、もう時機を失しているでしょう。けれども、文学部所属の教授たち、ことに社会学科所属の関係者が上野千鶴子氏の『評価』の見直しを、己の学問的良心に照らして再度ここで行うことは可能です。私たちのこの提案に対し、開き直って彼女を礼賛するか、賛同して彼女を批判するか、いずれも自由ですが、沈黙するのは社会的無責任の表明と見なします。開き直って礼賛する人の論法は見物で、いまから楽しみにしています。

 なお、『女遊び』は学術的著作ではないので、審査対象からは外していたという見え透いた逃げ口上は慎んでいただきたい。業績の少ない若い学者の資格審査においては一般著作も参考にすべきで、それを怠ったとすれば、かえって問題です。

 まして『女遊び』は、上野氏のその後の反社会的思想と日本社会に及ぼしている悪魔的役割と切り離せない関係にあるだけに、見逃したという言い方は弁解としても成り立たないと思います。

 平成16年12月8日
  西尾幹二・八木秀次」

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 上野千鶴子は京都大学文学部・同大学院出身で上記の京都市内の女子短大や京都精華大学の教員だったが、突然に?東京大学文学部の助教授になった。
 上野の著「女遊び」とやらは読んだこともないが、上野のたった一つの学問的研究書と言えそうなのは同・家父長制と資本制-マルクス主義フェミニズムの地平-(岩波書店、1990)だろう。ここに見られるように、上野はたんなる「フェミニスト」またはフェミニズムの研究者ではない。「マルクス主義フェミニズムの地平」を目指して、ベルリンの壁崩壊・ソ連解体の頃以前に研究した文章をまとめて、1990年に、あの「岩波」から出版したのだった。<容日本共産党>の人物であることにもこの欄で言及したことがある。現在では東京大学を定年退官して優雅な「おひとりさまの老後」を過ごしているのだろうか。

 ところで、上の質問状からは不明だが、質問を受けた2004年度の東京大学文学部長ではなく、上野を採用することを決定した時点(1992年度と思われる)での東京大学文学部長は柴田翔であったと見られる。柴田翔とは、大学院学生だったとみられる1964年の芥川賞を「されどわれらが日々」で受けた人物。

 興味深いことに、西尾幹二と柴田翔(本名)はともに1935年の早生まれで(これは大江健三郎も同じ)、ともに東京大学独文学科で学んだ「学友」にあたる。そして、上野千鶴子問題を離れてさらに次のように思うのだ。

 失礼かもしれないが、西尾幹二は東京電気通信大学という理系の大学のドイツ語・ドイツ文学の教員だったのに対して、柴田翔は東京大学文学部教員として東京大学に残り、文学部長にまでなった。
 これまでの仕事・業績の全体を見ると、ドイツ関係に限ってすら、圧倒的に西尾幹二が柴田翔を凌駕しているのではないか。西尾幹二には「個人全集」すらある。柴田翔は芥川賞のおかげで世間的には著名かもしれないが、いったいいかほどのものを学界に残したのだろう。彼らの20歳代においても、東京電気通信大学と東京大学とでイメージされるような力量の差はなかったのではないかと思われる。しかるに、なぜ、柴田翔は東京大学に残り、その専任教員になれたのか。あくまで推測にはなるが、<思想傾向>がまったく無関係だったとは思われない。

 日本の大学というのは、「大学の自治」・「学問の自由」といった美名に隠れてはいるが、じつはかなり異様で奇妙な世界ではないかと感じている。  *後記(訂正)ー西尾幹二は1935年の「早生まれ」ではなく、同年7月生まれ。なお、大江はいわゆる<一浪>をしているので、結果として西尾と同年の入学のはずだ。

1162/男女平等(対等)主義は絶対的に正しいのか。

 妊娠中絶のための処置・手術が、ある種の医院・診療所にとっての重要な収入源になっている、という話がある(その数も含めてかつて読んだが、確認できない)。多くの寺院に見られる「水子地蔵」なるものの存在や一つの寺院の中でも見られることのあるその数の多さは、いったい何を意味しているのだろうか。
 不幸な流産等もむろんあるだろうが、親たち、とくに母親女性の意図による妊娠中絶の多さは、戦後日本の「公然たる秘密」なのではないか。そもそも妊娠しても出産にまで至らないのだとしたら、出産後の育児のための保育園の数的増大や男性社員・従業員の育児休暇の取得の容易化等の政策の実現にいくら努力しても、根本的なところでの問題解決にはならないだろう。
 生まれる前の将来の子ども(・人間)の「抹殺」の多さはマスメディアによって報じられたり、検討されたりする様子はまるでないが、これは(マスコミを含む)戦後日本の偽善と欺瞞の大きな一つではないかと思われる。
 望まない妊娠の原因の一つは、妊娠に至る行為を若い男女が安易にしてしまうという「性道徳」にもあるのだろう。もちろん、そのような若い男女の「個人主義」と「自由主義」をはぐくんできた戦後日本の、家庭や学校での教育にも問題があるに違いない。
 また、妊娠し(受胎し)出産することは、男と女の中で女性にしかできない、子孫をつないでいくための不可欠の高貴な行為にほかならないだろうが、そのような妊娠・出産を、男性とは異なる女性のハンディキャップであり、男性にはない女性の労苦であると若い女性に意識させてしまうような雰囲気が戦後日本には少なからず形成されてきたかにみえる。
 家庭において、学校において、そのような女性にしかなしえない貴重な営為について、その尊さについて、十分に教えてきただろうか。教えているだろうか。そのような教育を受けない若い女性が、とりわけ「少しだけは賢い」と思っている女性が、そのような労苦を<男女差別>的に理解しはじめたとしても不思議ではない。なぜ女だけが、男はしない<面倒な>ことをしなければならないのかと、とりわけ学校教育の過程で男子と対等にまたはそれ以上に「よい成績」をあげてきた(上野千鶴子のような?)女性が感じるようになっても不思議ではない。
 晩婚・非婚の背景には種々のものがあるだろうが、戦後の<男女平等(対等)主義>が背景にはあり、そして、それこそが、今日みられる<少子化>の背景でもある、と考えられる。
 まるで疑いもなく<善>とされているかに見える<男女平等(対等)主義>は、その理解の仕方・応用の仕方によっては、社会全体にとって致命的な<害毒>を撒き散らすことがありうることを、知るべきだろう。
 こんなことを感じ、考えているのは私だけではないはずで、確かめないが、林道義・フェミニズムの害悪(草思社、1999)に書かれていたかもしれないし、タイトルを思い出せないが中川八洋の本の叙述の中にもあったように記憶する。
 日本の国家と社会にとって<少子化>が問題であり、それが日本の「衰退」の重要な原因になるだろうというのは、かなり常識化しているようでもある。そうだとすれば、その解決策は表面的な(ポストの数ほどの保育所を、といった)対応だけでは無理で、より基本的な論点に立ち戻るべきだろう。
 妊娠と出産は女性にしかできない。その点で、男女は決して対等でも平等でもない。そしてそのような違いはまさに人間の本質・本性による自然なもので、善悪の問題ではまったくない。むろん「差別」でも、非難されるべき「不平等」でもない。
 このあたりまえの(と私には思われる)ことの認識に欠けている人々や、こうした認識を妨げる言論・風潮があること自体が、戦後日本社会を奇妙なものにしてきた一因だと私には思われる。

1092/佐伯啓思は「的確な処方箋を提示」しているか。

 隔月刊・表現者39号(ジョルダン、2011.11)に、佐伯啓思・現代文明論講義(ちくま新書)の書評が載っている。
 この本を概読したかもしれないが、きちんと憶えていない(憶えられるはずがない)。それはともかく、先崎彰容という1975年生まれの人物は書評の冒頭で、佐伯啓思の「作品の魅力」を次の二つにまとめている。
 一つに「『近代文明』が抱える問題を、その根本にまで遡り解明しようとすること」、二つに「その原理的・根本的な問題意識を携え、現代日本の政治・経済・文化にたいして的確な処方箋を提示しようとする姿勢」(p.175)。
 上の第一点にはほとんど異論はない。そのとおりで、「近代(文明)」を懐疑して、批判的に分析した諸業績(「反西洋」かつ「反左翼」の主張を含んでいるはずだ)は大いに参考になると思われる。
 だが、上の第二は「仲間褒め」の類で、いかに年配者への敬老?精神によるとしても、とても納得できない。
 なるほど「提示しようとする姿勢」が全くないとは言えないが、「現代日本の政治・経済・文化にたいして的確な処方箋を提示」してきたとはとても思えない。
 佐伯啓思は所詮は(といっても侮蔑しているわけではない)「思想家」なのであり、多様な「現代日本の政治・経済・文化」の諸問題を論じているわけではないし、ごく一部を除いて、「的確な処方箋を提示」などはしていない、と思われる。
 憲法改正の方向を論じたことはないだろうし、そもそもが現在の改憲論議に言及することさえほとんどないだろう。<少子化問題>への処方箋を示してはいないし、これと無関係とは思われない<フェミニズム>に論及したことも、ほとんどなかったと思われる。
 「現代日本の政治・経済・文化にたいして的確な処方箋を提示しようとする姿勢」がそもそもあるのかどうか自体を、私は疑問視している。そして、お得意の経済(政策・思想)問題を除けば、佐伯啓思が「現代」について「的確な処方箋を提示」しているとは言えないのではなかろうか。橋下徹警戒論もその一つだ。
 一人の人間にできることには限界がある。怜悧な「思想家」に多様な現代問題を的確に論じることは期待しない方がよいだろう。
 但し、「思想家」としての佐伯啓思に完全に満足し、その主張内容にすべて納得しているわけではない。別の回に、いずれ書くだろう。

0994/日本の「保守」は生き延びられるか-中川八洋・民主党大不況へのコメント2。

 中川八洋は刺激的な書物を多数刊行しているが、さすがに、全面的または基本的に支持する、とも言い難い。

 細かな紹介は省くが、中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)の、例えばp.287の安倍晋三、大前研一、江口克彦、平山郁夫、山内昌之、川勝平太、中西輝政に対する罵倒または特定の党派性の決めつけは、詳しく具体的な根拠が示されているならばともかく、私がこれらの人々を基本的に信頼しているわけでは全くないにしても、にわかには信じ難い。

 つづくp.288には、安倍晋三が「マルキスト中西輝政をブレーンにしたのは、安部の思想軸に、(無意識にであれ)マルクス主義が根強く浸透しているから」だとの叙述もあるが、これに同感できるのはきわめて少数の者に限られるのではないか。もっとも、例えば、戦後<左翼>的「個人主義」・「自由主義」等々が(渡部昇一を含む)いわゆる<保守派>の面々に「無意識にであれ」浸透していないかどうかは、つねに自省・自己批判的克服が必要かと思われるが。

 より基本的な疑問は、中川の「保守主義」観にある。中川の、反共主義(・反極左・反フェミニズム等)、共産主義と闘争することこそ「保守」だとする議論には全面的と言っていいほど賛同する。そして、この点で曖昧さや弱さが日本の現在の<保守>にあるという指摘にも共感を覚えるところがある。この点は、のちにも具体的に論及していきたい。

 しかし、中川八洋の「保守主義」は、マルクス主義が外国産の思想(・イデオロギー)であるように、「英米」のバークやハミルトン等々を範とするやはり外国産のそれをモデルとしている。それを基準として日本の「保守」を論じるまたは批判するのは、自由ではあるものの、唯一の正しいまたは適切な立脚点だとはなおも思えない。

 日本には日本的な「保守主義」があってもよいのではないか。

 中川八洋によると、「保守主義の四哲人」はコーク→ハミルトン・バーク・ハイエクだ(p.310の図)。そして、レーガンはハミルトンとバークの、サッチャーはバークとハイエクの系譜上にある(同)。また、「八名の偉大な哲人や政治家」についても語り、コーク、バーク、ハミルトン、マンネルハイム、チャーチル、昭和天皇、レーガン、サッチャーの八人を挙げる(p.351)。

 昭和天皇は別として、中川の思考・思想の淵源が外国(英米)にあることは明らかであり、なぜ<英米の保守主義>を基礎または基準にしなければならないのかはじつは(私には)よく分からない。学ぶ必要はあるのは確かだろう。だが、中川のいう<英米の保守主義>をモデルにして日本で議論すべきことの不可避性は絶対的なものなのだろうか。

 外国人の名前を挙げてそれらに依拠することなく、中川八洋自身の独自の思想・考え方を展開することで十分ではないのか。その意味では明治期以来の<西洋かぶれ>の弊は中川にもあるように感じられる。

 また、以上と無関係でないだろうが、中川八洋が「保守」はつねに(必ず)「親米」で、「反米」は「(極左・)左翼」の特性だ、と断じる(p.361-2)のも、釈然としない。「親米」の意味の理解にもよるのかもしれないが、<保守>としても(論者によっては<保守>だからこそ?)「反米」的主張をせざるをえないこともあるのではあるまいか。

 このあたりは小泉構造改革の評価にも関連して、じつは現在のいわゆる<保守派>でも曖昧なところがある。また、「反米」よりも<反共>をこそ優先させるべきことは、中川八洋の主張のとおりだが。

 以上のような疑問はあるが、しかし、日本の<保守派>とされる論客、<保守派>とされる新聞や雑誌等は、中川八洋の議論・指摘をもう少しきちんととり上げて、批判を含む議論の俎上に乗せるべきだろう。さもないと、似たようなことをステレオタイプ的に言う、あるいはこう言っておけば(閉鎖的な日本の)<保守>論壇では安心だ、との風潮が、いっそう蔓延しそうに見える(かかる雰囲気があると私には感じられる)。

 中川八洋の主張・指摘の中には貴重な「玉」も多く含まれていて、「石」ばかりではないと思われる。<保守>派だと自認する者たちは、中川八洋とも真摯に向かい合うべきだろう。

0971/中川八洋・民主党大不況―ハイパーインフレと大増税の到来(2010)を4割読む。

 中川八洋・近衛文麿の戦争責任―大東亜戦争のたった一つの真実(PHP、2010.08。原書1995)を先日に全読了。
 つづけて、中川八洋・民主党大不況―ハイパーインフレと大増税の到来(清流出版、2010)のp.146まで、序+全九章+附記のうち第四章まで、読了。タイトルからの印象のような、経済・財政政策のみに関する本ではない。
 第一章は「子ども手当」批判(家族(・母親)から切り離した国家による子育て→共産主義社会)、第二章は現代日本の民主政(衆愚政治)批判、第三章のタイトルは、「夫婦別姓、ラブ&ボディ、フェミニズム―『日本人絶滅』への三大スーパー高速道路」。
 その第三章の各節の表題は次のとおり。内容の概略は分かる。第二節以外には「款」もある。
 第一節・「ラブ&ボディ」―日教組が子供たちを”セックス・サイボーグ”に改造する隠語
 1.厚労省母子保健課の「大犯罪」
 2.「フーコー人類絶滅教」を頭に注入させられる日本の中学生
 第二節・「産んであげない」―国を脅迫する赤いフェミニストたち
 第三節・”レーニン教徒の狂信”「夫婦別姓」
 1.「ルソー→マルクス/エンゲルス→レーニン→”赤の巣窟”法務省民事局
 2.少年少女犯罪の急増、出生率のさらなる激減、民族文化の消滅―「夫婦別姓」後の、日本の荒涼と殺伐
 この第三章で中川八洋が批判している学者等の論者の個人名は以下のとおり(外国人、団体・組織を除く。注記を含む)。
 手塚治虫、福沢恵子、福島瑞穂、星野英一、鍛冶千鶴子、葉石かおり、井上治代、星野澄子、榊原富士子、二宮周平、吉岡睦子、我妻栄、中川善之助
 立ち入らないし、これ以上の紹介もしない。ただ、<少子化>(中川によると→日本人絶滅)の原因が<子育てしにくい社会>にあるのではない、ということだけは間違いなく、戦後日本の歪んだ男女「対等」主義(誤った<ジェンダー・フリー>とも関係)、将来世代への<責務>を放棄させる(とくに女性の)「個人」優先主義、自然的な「母性」を否定するフェミニズム等々にある、とだけコメントしておく。大筋、基本的なところでは中川は誤ってはいないだろう。

0884/「女は母親になるべきだ」は「保守的」な考え方か。

 産経新聞5/13の社会部「風」欄(テーマ「女の生き方」の一つらしい)に、次の文章がある。署名は「(佳)」。
 「男性と女性の意見を比べると、総じて男性は『女は母親になるべきだ』という保守的な考えを持っている人が依然として多いと感じさせられた」。
 前後の脈絡にも触れるべきだろうが割愛する。
 上の文章には違和感をもった。週刊金曜日朝日新聞
あたりに書かれてあると注目もしなかったかもしれないが、諸新聞の中で「保守的」とされる産経新聞紙上だからこそおやっと思った、とも言える。
 第一。上では、「保守的(な考え)」とは、消極的あるいは悪い意味で用いられていることが明らかだ。これを書いた記者(女性?)は明らかに、戦後「進歩」教育の影響を受けて、「進歩」的=善(または新しい、積極的に評価される)、「保守」的=悪(または古くさい、消極的に評価される)という考え方および言葉の用い方を採用している。
 産経新聞もまた、<戦後体制>の中で生きていること、その中で育った<戦後教育>の体現者たる少なくない記者たちで構成されている、と感じざるをえない。
 第二。「女は母親になるべきだ」という考えは(「保守的」と表現するかどうかはともかくとしても)消極的に評価されるものなのか。私には異論がある。
 「女は母親になるべき」か否か、という問題設定自体が奇妙というべきだ。つまり、<女性は、母親となる肉体を、生まれつき用意されている>。これは「べき」か否かという問題ではなく、<自然>の叙述だ。
 むろん、先天的または後天的に受胎・妊娠・出産できない女性もいるだろうことを否定はしない。だが割合的に見て多くの女性は、受胎・妊娠・出産をして「母親」になれるはずだ。
 いったい何のために女性には排卵があり、肉体の中に子宮があるのか。自然は(あるいは「神」は?)、母親となる性として、女性を造形しているのだと思われる。
 「女は母親になるべき」か否かなどと問題設定すること自体が、<自然>に反している。理屈ではない、理屈を超えた<自然>そのものだ。
 新しい生命を孕み産み出せる肉体をもつ(=母親になれる)のは女性に限られる。その崇高な役割を、「個人主義」や男女「平等・対等」主義や「生殖に関する自己決定権(リプロダクティブ・ライツ)」論、総じて<左翼>フェミニズムは忘れさせようとし、そして<少子化>は進む。
 むろん出産・子育て等にかかわる<社会的>等の障壁がありうることを否定はしない。
 だが、再び書いておく。いったい何のために女性には排卵があり、肉体の中に子宮があるのか。自然は母親となる性として女性を造形している。「女は母親になるべき」か否かなどと問題設定すること自体が、<自然>に反している。理屈ではない、理屈を超えた<自然>そのものだ。

0574/憲法デマゴーグ・樋口陽一-その3・個人主義と「家族解体」論。

 一 産経新聞7/05山田慎二「週末に読む」の中に、<家族>に関する次のような短い文章がある。
 「人類は、家族というものを発明した。とりわけ仲間といっしょに食事をしたり、育児を共同でするのは、人間だけである。/こうした人類だけの能力の深い意味を現代人は見失っている」。
 子どもが自立して生きていけるまで母親又は両親(つまり家族)が<育児>をする動物は「人類だけ」かとは思うが、人間の子どもの健全な成長にとって<家族>が重要であることは論を俟たないように思える(もちろんフェミニスト等による異なる議論はある)。
 今年の秋葉原通り魔連続殺害事件やかつての「酒鬼薔薇事件」の犯人は同じ年で、その両親たちも同世代であるに違いない。秋葉原事件のあとで<専門家>らしき者たちのいろいろなコメントが出ていたが、彼ら犯罪者を生んだ<家族>(や学校教育)環境にまで立ち入らないと、原因も解決策も適切には論じられないのではないか。
 二 林道義・母性崩壊(PHP研究所、1999)を一気に殆ど読んでしまったが、この本は酒鬼薔薇事件やこの事件の犯人ととくに母親の関係にも言及しており、幼児期(とくに3歳まで)の(父親ではなく―父親は2・3割程度重要だという―)母親の役割(<母性>)の重要性を強調しつつ、この犯人の母親(・両親)の手記の中に書かれてあることの中から具体的に問題点を指摘している。
 重要なテーマなので別の回に余裕があれば書きたいが、<母性崩壊>による(非婚化や晩婚化も経由しての)少子化という明瞭な現象は、林道義が指摘するような国家・社会を自壊させる<危険性>どころか、すでに国家・社会の活力を奪い、老年者福祉の財政問題等をも発生させて、日本を<自壊>させ始めている、と思える。明瞭にその過程に入っている、という感想を持たざるをえない。中国・北朝鮮による<侵略>によらずして、日本は自ら崩れていっている、ように見える。
 <母性崩壊>は、ではなぜ生じたのか。むろん簡単には論じられない。
 留意されてよい一つは、マルクス主義は<家族>を解体・消滅させようとする理論だった、ということだ。ウソのようだが、いつか引用したことがあるように、エンゲルスはその著の家族・私有財産及び国家の起源の中で、家族(家庭)内のブルジョアジーは男でプロレタリアートは女だ、と本当に書いている。いうまでもなく、「私有財産及び国家」とともに「家族」もまた、マルクス主義者(・共産主義者)の怨嗟の対象であり、将来は解体される・消滅するはずのものだった。
 もう一つは、<西欧近代>に発する<個人主義>だ。個人主義の強調は<家族>の安定的維持と矛盾・衝突しうる。<家族>の中で、親が子が、男が女がそれぞれの<個人>としての尊重などを口にし始めたら<家族>は維持できない。協力、譲り合い(ある意味では応分の負担と「犠牲」の分け合い)なくして<家族>のまとまりが継続してゆける筈がない。
 マルクス主義によるのであれ、西欧近代的<個人主義>によるのであれ、日本における<家族解体>化現象は進んでいる、と思われる。そしてそれは、一定の年齢以下の者たちによる近親者に向けられた、又は気持ち悪い犯罪の発生と無関係だとは思われない。
 (宮崎哲弥は何かの本―たぶん宮崎=藤井誠二・少年をいかに罰するか(講談社α文庫、2007)―で「少年」犯罪は統計上は増えていないと書いていたが、自分より弱者を攻撃したり、祖父母を含む肉親を攻撃したりする、若しくは殺害・傷害等の方法が<気味の悪い>犯罪に限っていえば、数量的にも増えているのではないか、と思われる。単純に何らかの犯罪者が「少年」である場合の統計だけを見ても大した意味はないだろう。)
 三 さて、憲法学者・樋口陽一の<個人主義>の問題性についてはあらためて何度でも触れたいが、彼も指摘するように、樋口の好きな<個人主義>又は<個人の尊厳>については、日本国憲法上の明文規定があるのは、13条と24条に限られる。24条2項は次のように定める。
 「……婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」。
 樋口陽一はこれを含む24条の素案を作ったベアーテ・シロタについて、同・個人と国家(集英社新書、2000)p.139で「なんと公募で選ばれた若い女性」としか書いていないが、日本語ができたことがメンバーになれた最大の理由だったと思われる、かつソ連と同憲法に憧れていた親コミュニストだった(コミンテルン又はアメリカ共産党から実質的に派遣されていた可能性もあり、何らかの資料も出てきているのかもしれないが、今回はこの程度で止める)。
 婚姻と家族に関する憲法条項の中に「個人の尊厳と両性の本質的平等」をふまえて婚姻や家族に関する法律は制定されるべし、との条文が入ったのは、「社会主義」ソ連では アメリカなどよりもはるかに又は徹底的に男女対等(平等)が実現されている(又は実現されようとしている)という、シロタの対ソ連又は対「社会主義」幻想が大いに影響したものと考えられる。
 樋口陽一のいくつかの本を見ていて印象に残った一つは、この人は日本国憲法24条の中に「家族解体の論理」が含まれている(少なくとも)可能性がある、と指摘し、かつそのことを疑問視・問題視はしていない、ということだ。
 ①樋口陽一・憲法と国家(岩波新書、1999)p.110-13条以外の個別条項では24条だけが「個人の尊厳」を謳っているのは、「家族」が近代「個人」主義が「貫徹しない飛び地」だったことへの「批判的見地」を示しているのではないか。「家族にかかわる領域で『個人』を本気でつらぬこうとする見地からすれば、憲法二四条は…家族解体の論理をも―もちろん必然的にではないが―含意したものとして、読むことができるだろう」。
 ②樋口陽一・「日本国憲法」-まっとうに議論するために(みすず書房、2006)p.70-「憲法二四条…がいちはやく『個人』を掲げたということは、…『個人』を徹底的につらぬくことによって、場合によっては家族を解体させる論理につながってゆく可能性をも、内に含んでいるのではないでしょうか」。
 ベアーテ・シロタが「家族」内に<個人主義>・<個人の尊厳>を(憲法条文上も)もち込もうとしたとき、<家族解体>論まで意識していたかどうかは(少なくとも現時点での私には)分からない。だが、コミュニズムの実際が育児(子育て)の0歳児の時点からの早期の<社会化>、幼児に対する早期の<洗脳>教育等を内容としていたことを考え合わせると、樋口の言うとおり「法の論理が含んでいる可能性」としてであれ、24条2項は客観的には、<家族解体>の方向に親近的な条項である、と言えるだろう。
 そのかぎりで、樋口陽一は、憲法制定者の意図を<正しく>把握(解釈)している、と言えなくもない。
 だが、上のような「法の論理が含んでいる可能性」を語るだけで、それに対する警戒的・批判的な(憲法政策論にも関係する)言辞が全く出てこない、というところに樋口陽一らしさがある。
 家族解体論者・フェミニストが喜びそうなこと(そのような憲法条項があること)を指摘し紹介することによって、客観的・結果的には家族解体論者・フェミニストに手を貸している。そういう意味のかぎりで、樋口陽一の<デマゴーグ>としての面目躍如たるところがある、と言えるだろう。
 なお、樋口はソ連等の欧州的「社会主義」の終焉後は明らかに、近代的「人権」論に対する批判的視覚を提起している一つがフェミニズムだと語り、それに関連する事柄に言及することが多くなっている。そして、憲法改正ではなく法律改正で済むのに夫婦別姓法案に「改憲」論者は反対している等とも述べて、この夫婦別姓法案に明確に賛成している(樋口陽一・個人と国家(上掲)p.194等)。
 あえて簡単に再言又は概括すれば、樋口陽一のいう<個人主義>は<家族>と対抗しうるものであり、<家族>を、そして<母性>を含む<子に対する親の役割>を軽んじるものだ。少なくともそのような<風潮>の形成に役立つ議論を、<左翼>樋口陽一はしてきている。
 少なくない若年者(10歳代・20歳代)の犯罪の犠牲者は、戦後日本を覆い続けた<左翼・個人主義>の被害者ではないのか。ごく簡単には、直感的にせよ、そういう想い・感慨をもつ。長々と書かないだけで、もう少しは論理的にかつ長く論旨展開できるつもりだ。そして、この感覚はたぶん基本的なところでは間違ってはいないだろう、と思っている。

0462/山下悦子はよく、荷宮和子はヒドい。上野千鶴子は勿論ヒドい。

 一昨年に(少なくとも一部を)読み、感想もすでにメモしたことがあるが、この欄にも若干の修正を加えて掲載しておく。
 山下悦子・女を幸せにしない「男女共同参画社会」(洋泉社新書、2006.07)は、一章まで(~p.72)を読んだだけだが、なかなか面白かった。上野千鶴子や大沢真理等の「フェミニスト」の議論は大多数のより「ふつうの」女性の利益に反する<エリート女性シングル>のための議論だとして、強く批判しているからだ。大沢真理が関係法律(男女共同参画法)の成立に審議会委員として貢献したという知識を得たのはこの本によってが初めてだった。また、「ジェンダー・フリー」とは誤読にもとづく和製英語で、「性別にかかわりなく」という意味を本来は持っていないとされていることも初めて知った。東京大学教授の二人の英語の知識が問われている(但し、上野千鶴子が<戦略的に>作った概念だとの話もあることはいつぞや触れた)。
 上野は明確な「団塊」世代で大沢は下だがほぼ準じる。そして、上野や大沢を代表とするような女性と彼女たちのような議論を生み出したのも、戦後の-とりわけ1970年以降の?-教育を含む日本社会に他ならないだろう。
 それにしても、繰り言の反復になるが、東京大学は、正確には又は実質的には文学部及び文学研究科・社会学専攻にたぶんなるが、上野・大沢をよくも採用したものだ。
 荷宮和子・若者はなぜ怒らなくなったのか(中公新書ラクレ、2003)は「団塊と団塊ジュニアの溝」との副題が気を引いて、読んだ。だが、「あとがき」を先ず読んで、この人自身の表現を借りると、この人は「アホである」(p.245)と感じた。
 多少中身を見ても概念定義・論理構成が全く不十分だ。同・なぜフェミニズムは没落したのか(同前、2004)も既所持で第一章まで読んでいたが、この人自身の表現を借りると、やはり、この人は「アホである」(p.277)。活字文化のレベルはここまで落ちている。
 何の学問的基礎・専門知識もなく、喫茶店のダベリを少し体系化しただけのような本が出ている。そんな傾向を全否定はしないが、中公ラクレ編集部の黒田剛司は自社の名誉・伝統のためにも執筆者の再検討をした方がよい。
 2冊ともたぶん100~300円で買った古書なので大した打撃ではないが、読んだ多少の時間が惜しい。小浜逸郎・やっぱりバカが増えている(洋泉社、2003)というタイトルどおりの証左かもしれない。が、その本人が「バカがこれ以上増えませんように」(荷宮の前者最末尾)と書いてあるから、ひっくり返った。

0443/読書メモ2008年3/30(日)-その2。

 先週のいつだったか、西尾幹二・日本人は何に躓いていたのか(青春出版社、2004)の第五章・社会(p.232-266)、実質的には「ジェンダー・フリー」主義・同教育批判、だけを読んだ。
 「ジェンダー・フリー」教育のおぞましさ・異様さ、そして<男女共同参画社会>推進政策の狡猾さ、は既に知っていることなので驚きはしない(最初に知ったときは驚愕した)。
 西尾幹二は、しかし、いくつか記憶に残る言葉・文章を記している。
 ・「過激なフリーセックスは、レーニンの指導する共産主義社会で実際に行われて、既に失敗だったと結論が出て、スターリンが是正した歴史が残っています…」(p.241)。
 こんなことは知らなかった。
 ・「フランクフルト学派とか、ポストモダンとかいう思想」は、欧州では「たいてい」、「大都会の片隅の深夜の酒場にたむろするタイプの一群の特定な思想の持ち主たち」に支持されている「思想」だ(p.243)。
 なるほど。きっと反論する人がいるだろうが、イメージは湧く。
 ・(上と基本的に同旨を含む)「男女は平等」だが「別個の違う存在」なのに「意図的に混在させ、区別なしに扱うのは反自然な思想」でないか。かかる考え方は「いわゆるフランクフルト学派や、ポストモダン、とりわけ自ら同性愛者であるような思想家、ミシェル・フーコーのような人たちによって推進されました」(p.256)。
 そういえば、思い出したが、評論家?の武田徹はミシェル・フーコーの
「言説を引用」することがある、と石井英之が称賛するが如く書いていた。
 ・中川八洋の『これがジェンダーフリーの正体だ』との本によると、上野千鶴子は、名詞の性の違い(女性名詞・中性名詞・男性名詞)を示す「文法用語」にすぎなかった「ジェンダー」(性差)を「フェミニスト運動の都合にあわせて」作った(引用されている上野の原文では「…を主張するために生まれました」)と「告白」している。
 セックスとジェンダーの違いは、なんて勉強?したのはいったい何だったのだ、と言いたくなる。
 ・上野千鶴子を教員として招いたのは、「東大の判断がおかしい」。昔は別だが「今はそもそも東大というのは左翼の集団です…」(p.265-6)。
 (なお、西尾が上野千鶴子を「左翼フェミニスト」と形容していた記憶があるが、再発見できなかった。)
 東京大学という最高?学府に<左翼的な>教員・研究者が<多い>印象があるのは確かだ。東京大学所属だから目立つ面はあるのだが、-「左翼」という語の定義に立ち入らないが-憲法学の樋口陽一(前)、長谷部恭男蟻川恒正は<左翼>又は少なくとも<左翼的>だろう。さらに遡れば、小林直樹芦部信喜だって…。靖国問題(ちくま新書)を書いた高橋哲哉も東京大学(教養学部?)だ。もっと古くは、GHQに協力して一時期は<左翼的>だった横田喜三郎(のち、最高裁長官)は法学部で国際法担当、<進歩的知識人>の御大・丸山真男は法学部の政治学(政治思想史)担当、といった具合。過去および現在に、他にも気のつく人物は多い。東京大学出身の上級官僚や法曹は、こういう人たちの「教育」を受けて生まれてくる(きた)のだ…。
 この最後のテーマ(東京大学と「左翼」、そして一般社会)は別の機会にも言及する。

0226/朝日新聞の「戦後」責任-「南京大虐殺は存在せず」。

 片岡正巳(1930-)・朝日新聞の「戦後」責任(展転社、1998)という本がある。タイトル通りの内容だが、16の章のうち第15章は「グロテスクな従軍慰安婦報道」で(p.287-)、「トリッキーな記事で火をつける」、「威力を発揮した「軍の関与」報道」、「「通牒案」の意味を逆立ちさせて煽る」、「詐話師の話を持ち上げた論説委員」、「政治的になされた強制の認定」、「実態を歪める偽善のキャンペーン」が各節の見出しだ。
 同書はあとがきで言う―「朝日は、戦後50有余年の歩みの中の非は非と率直に認めて、身を飾った「左翼」の古い衣を脱ぐがよい己を無謬と思い込む傲慢のプライドを捨てるがよい」。その通りだが、朝日が<ハイ、わかりました>と答える筈はないだろう。
 慰安婦問題で知られておくべき一つは、朝鮮半島出身の女性よりも日本(いわゆる内地の)女性の方が多かったのに、訴訟や運動で日本政府の責任を追及している人たちの中に日本人女性はいない、ということだ。日本人女性のした「慰安婦」の選択が政府の責任とは考えていない、と理解するのが常識的だろう。但し、秦郁彦・慰安婦と戦場の性(新潮社)p.222によると、日本人原告がいないことについて、上野千鶴子は「日本のフェミニズムの非力さの証し」と書いているらしい。
 ということは、上野さんに尋ねてみたい。韓国のフェミニズムは日本のそれより強力なのですか? 韓国は日本よりも男尊女卑だとも聞いたことがあるが?
 西尾幹二責任編集・新地球日本史2(扶桑社、2005)という本もあり、その中の第5章は東中野修道執筆の「南京大虐殺は存在せず」。20頁で簡潔にまとめられていて(前提資料もかなり新しい)、各節の見出しは順に「世界を駆けめぐった米紙の特ダネ」、「米国人特派員は目撃していなかった」、「毛沢東は「虐殺」を否定していた」、「人口と同じ人数が殺害された?」、「告発の書は中国国民党の宣伝本だった」、「極秘文書にも「虐殺」の記述はない」。
 <南京事件>の被害者数には、39万、30万、20万、10万、4万(各説又は各主張あり)等の説がある。1000人あるいは2-300人でも「虐殺」だろうが、しかし、それすらなかったのではないか、とする説も存在している。争点は秦郁彦氏の4万人説を支えていると思われるベイツ証言の信憑性、(戦闘による、又は兵士に対する殺人は合法なので)国際法上違法と言えるような「捕虜」の扱いがあったか否かだろう。例えば捕虜として連行中に逃亡しようとした者を射殺するのは適法か、といった問題に行き着くのではないか、と素人ながら感じている(兵服を脱いで一般市民に紛れ込んでも戦意がある限りは殺人も違法ではない)。とすると、一番最後の「(大)虐殺はなかった」説も十分に成り立つ可能性があるだろう。
 それに南京「事件」の決定的な原因は、蒋介石等の国民党政府(軍)首脳部が南京市に戦闘員を残したまま南京から「逃亡」したことにある、と私は理解している。全兵士に南京残留を禁止していたらこの「事件」は生じていなかった。

0191/夫婦別姓・家族-宮崎哲弥・石坂啓。

 フェミニズムは「家」における男による「女」の搾取を糾弾し子どもの利益よりも母親という「女」個人のそれを優先するもので、女性の立場からの戦後的「個人主義」の一つと見てよいだろう。
 宮崎哲弥・正義の見方(新潮OH文庫)p.25-26等は「父母のどっち側であれ、親の姓が終生つきまとう合理的な根拠とはいったい何か」と問いかけ、福島瑞穂を批判して夫婦別姓ではなく「家」と結びついた「姓氏全廃を叫ぶべき」と説いてる。
 「個人主義」を貫くならば、宮崎の言うとおり、なぜ「姓氏」又は「苗字」が必要なのか、という疑問が生じる筈だ。宮崎はさらに「個人主義の原則に立つ限り、人は、自ら決したただ一つの「名」で生きるべきではないか」とも書くが、この指摘は、とても鋭い。
 私は若かりし頃、親から引き継いだ又は与えられた氏名を18歳くらいで本人が変更する自由又は権利を認めることを「夢想」し、何かに書いたこともあった。「個人の尊厳」(憲法13条)というなら、個人の名前くらいは自分で選び又は決定できるべきだ、親が決めたものを一生名乗るべき合理的理由はない、と考えたからだ。いま再び構想すれば、18歳~20歳と期間を限って姓名の変更を認め、その旨を戸籍や住民基本台帳に反映させることとなる(中学卒業後の就職者は16歳まで下げてもよい)。
 だが、上のような主張は大勢の支持をおそらく得られないだろう。「個人主義」とは別に「家」又は「家族」という観念は-「戸主」を伴う戦前的家族制度と結合していなくとも-やはり残り続けているのだ(欧米でも、いやたぶんほぼ全世界でそうだ)。それは親-子という人間関係がある限り、永続する(すべき)ように思われる。
 話を変えるが、改正教育基本法は「家庭教育」にも言及している。昨年11月の某番組で、週刊金曜日編集者・九条の会賛同者の石坂啓(女性)は教育基本法改正前のタウンミーティング問題に関連して「家庭教育が大事だと思うと女性に言わせてましたね。これね、それもありだよなと一見異を唱える人はいらっしゃらないと思います。家も大事だし親御さんたちにも参加してもらって子供の教育を一生懸命にやりますよと見せかけていますが、私はその場にいると異を唱えると思います。というのは、そのように巧妙に(不明)ますが、結局は国が都合のよいように女性であったりお母さんであったり子供への役割というのをもっと色々と強いてくる法律なんです非常に危険だというか、根本から変わるんです、教育内容が。」とコメントしていた。  こんなことを平然とテレビでのたまうフェミニストがいるからこそ、日本の「教育」はおかしくなったのでないか、と思っている。

0139/島根県教育委員会、日本教育再生機構主催集会の後援を拒否。

 産経5/11によれば(izaなし)、島根県教育委員会は、八木秀次が理事長の日本教育再生機構が主催の島根県内での3月のタウンミーティングの後援依頼を拒否した、という。
 同記事によると主催者側は、島根県教委はジェンダーフリー等の講演は後援しているのにと判断基準を問題にしている。県教委は、八木氏の「主義主張」や日本教育再生機構のパンフの記述内容を問題にしており、一方、八木氏は「思想差別」と憤っているようだ。
 この記事だけからすると、フェミニズムに立つジェンダーフリー関係集会についての後援例があるのだとすると、島根県教委の後援する・しないの基準は合理的ではない。それに今回は主催団体の冊子(パンフ)までチェックしているようだが、従来の全ての後援例について主催団体の冊子(パンフ)を事前にチェックしてきたのだろうか。そうでない事例があるとすれば、「平等」・「公平」な行政とはいえない。
 なお、島根県教委は日本教育再生機構のパンフが日本を「国の中心に一系の天皇をいただいてきた伝統の国」としていることを問題視したようだが、象徴天皇制であっても、「国の中心」という表現は誤りではないだろう。また、八木らの団体は政府が進めている教育改革を民間の立場から「応援」するものの筈だ。
 島根県教委はいったい何を考えているのか。島根県教組(組合)の意向を気にしているのだとすれば、この県の教育委員会事務局も心理的に教員組合の「不当な支配」の下にあるのではないか。
 島根県議会の中にいるだろう「まっとうな」議員たちは、県教委の「後援」の運用についてもしっかりと監視し、問題があれば注文をつけるべきだ。

0126/林香里とは本当に「研究者」なのか-文春新書の最低。

 目を通したことのある文春新書の中で最低の本は、かつ種々の新書類の中でも最低の部類に入る本は、あえて明記するが、林香里・「冬ソナ」にハマった私たち(2005)だ。
 最低だと考える理由の大きな一つは、このタイトルの本の中で、日韓関係に関する自らの「歴史認識」を―多数の、対立しもする議論があるにもかかわらず―、単純素朴に曝し出していることだ。
 例えば、「日本は20世紀初頭に海外を侵略した歴史にきちんとした清算をしていないため、…近隣諸国に心から称賛されるようにはなっていない。これに対して、ドイツは、…
(p.173)。
 日本(前小泉首相等)は「国内においては韓国をはじめとする近隣諸国との歴史認識に対する無知と無関心を先延ばしにし、対外的には日本のアジアでの孤立を招いてきた」(p.209)。
 本来のテーマと直接の関係はないかかる断定的文章を歴史や外交の専門家ではない著者が平然と書いているのだ。
 いま一つは、明らかにフェミニズムの立場でこの本のテーマを扱っており、かつそのテーマとは直接の関係はないフェミニズムの主張を紛れ込ませていることだ。
 例えば、「子どもを生み育てること…などなど、女性として…当然のこととして寄せられる社会的役割」、そういう「期待をしている社会の思想的源泉」は「やっかいな「国家」という社会的そして政治的機能である」(p.196。「子どもを生」むことも、女性差別、「社会的」に期待された「役割」かね?、林くん!ω)。
 このような二つの類の主張を―上野千鶴子鶴見俊輔の名前だけをなぜか出しつつ―しているため、極めて読みにくい本でもある。
 これで著者が助教授として属するという「東京大学大学院情報学環」の修士論文審査に合格するだろうか。
 いま一つ、一文を引用しよう。「韓国は、韓流というパワーでもって、日本の男性が築き、守るべき国家と、それに従属した主婦という女たちを切り崩しつつある…」(p.198)。
 こんな文章を読んでいると頭がヘンになる。
 この本はタイトル等からすると、日本のとくに女性が
「冬ソナ」にハマった原因・背景を分析することが目的だった筈だ。そして、私が要約するが、「冬ソナ」にハマったのは、良妻賢母型教育を受け「古きよき時代」への郷愁と外国(韓国)に関する教養主義的心性をもつ中高年女性だ、というのが結論だ(たぶん。ちなみにタイトルの「私たち」の中に著者は含まれない)。
 しかし、何故か、主題と直接には無関係の上のような文章が<混入>しているのだ。
 私は林氏の文章執筆者・論文執筆者としての資格・能力を疑う。だが、と最近気づいたのだが、過剰とも思える、根拠づけ・理由づけなしの言いっ放しの贅言は、この人の、読者に対するというよりも、仲間に対する<信仰告白>なのではないだろうか。新書を書く機会があったから、ついでにアレコレとちゃんと書いておいたよ、安心して!という類のものではないだろうか(原田敬一・岩波新書についても同旨のことを書いたが、この林の方がヒドい)。

0124/上野千鶴子らのフェミニズムを批判する本を読む。

 昨秋、小浜逸郎・ニッポン思想の首領たち(1994、宝島社)の上野千鶴子の部分を読んだ。詳しく感想を述べないが、第一に、小浜が酷評している上野の唯一の?研究書(1990)でマルクスが使われているということが印象的だ。マルクス主義やその概念等の悪弊が上野そしてたぶんフェミニズム全般に及んでいる。今日ではマルクス主義は学問的にも本当はほぼ無効に近い筈だ。1990年の本の執筆時点ではまだソ連もチェコスロバキアもあったのかもしれないが。
 第二は、戦後のいわば<男女平等教育>の影響だ。小浜は触れていないが、男らしさ・女らしさや男女の違いに触れない公教育の結果として、社会に出る段階で(又は大学院で)「女だから差別されている」と初めて感じる優秀な女子学生が生じることはよく分かる。フェミニズムなるものも「戦後民主主義」教育・「戦後平等」教育の不可避の所産だろう。
 さらに、渡部昇一=林道義=八木秀次・国を売る人びと(PHP、2000)を読了し、西尾幹二=八木秀次・新国民の油断(PHP、2005)を通読して、フェミニズム・ジェンダーフリー論の帰結のヒドさに愕然とした。前者で八木秀次がエンゲルスの一部を引用しており、マルクス主義とフェミニズムの直接的関係が解る。
 すなわち、エンゲルスは『家族、私有財産および国家の起源』で、家庭内で夫は支配者でブルジョアジー、近代家族は「プロレタリアート」たる妻の「家内奴隷制」で成立とまで書いていたのだ。
 なるほど、マルクス主義とフェミニズムは「個人」のために「家族」を崩壊させる理論なのだ。そして、男女平等といった表向き反対しにくいテーゼが利用されて、「家族」の解体がある程度進行してしまっていることも感じる。その結果が、親の権威の欠如( =親子対等論)等々である。つい先日の5/06の朝のテレビ番組(フジ/関西)でも、藤原正彦は、戦後の「子ども中心主義」、親が子どもに「阿(おもね)る」傾向を嘆いていた。
 さらに、「家族」の崩壊は オウム事件、悪質少年犯罪等と、さらに晩婚化・少子化とも決して無関係でないと考えられる。結局はマルクス主義の影響によってこそ、日本社会は大切なものを喪失してきたのだ。まさに「悪魔の理論」といえる。
 ずばりのタイトルの林道義・フェミニズムの害悪(草思社、1999)では、田中喜美子森陽子鈴木由美子らフェミニストの名が挙げられている。論理的に整然とした批判や反論はそれだけでも読んでいて快い。
 p.262-「フェミニズムの理論は、「働きつづける女性」たちの利害に奉仕するために真理を歪めた理論であり、客観的な根拠を少しももたない党派的なものである。「働く母親」の利益は考えるが、子どものことは考えていない理論である」。
 上にも書いたように、男らしさ・女らしさを否定し、個人を優位に置いて「家族」を崩壊させようとする考え方が、晩婚化、非婚化、小子化と無関係と思われない。また、少年によるかつてはなかったような類型の犯罪の増加はフェミニズムの影響を受けた母親(・父親)の「しつけ」・「家庭内教育」の仕方とも関係があると思える。
 近年までほとんどフェミニズムには関心がなかったが、「亡国」の理論といえなくもない。明瞭な形をとらないで、自治体等の行政施策・教育施策に影響を与えているようだ。
 男女混合名簿くらいはいいが、中学校以上での男女混合健康診断、男女混合体育教育(運動会での混合の騎馬戦等)、男女同室での着替えなどを推進する議論や実践する教師がいるらしい。「気が狂っている」のでないか。男女の区別を無視するフェミニズムは「正気を失わせる」理論だ。
 林道義・家族を蔑む人々(PHP、2005)はまた、フェミニズムの理論的基礎が共産主義にあるのみならず、フェミニズム運動が(日本)共産党等との協力関係にあることも明らかにしている。
 「クリスチャンと共産党と朝鮮勢力とフェミニストは相互にダブっており、密接に協力し合っている」(p.137)。また、フェミニズム運動の「方式」につき、「本当は価値逆転と権力転覆を狙いながら、表向きは誰もが反対できないスローガンを掲げて大衆獲得を画策するというのが、スターリニズム =コミンテルンの一貫して取ってきた戦略であった。この方式を、フェミニストはそのまま踏襲している」(p.152)。
 従って、批判は日本共産党にも向けられている。林の上の本はいう-
階級闘争史観も暴力革命路線も捨てたわけではなかったが、それを表に出さない「大衆組織」を作り上げることによって、一方では党内の原則論者をなだめつつ、他方ではソフトなイメージを前面に出して党勢拡大を図ってきた…。つまり硬軟併用作戦によって「共産党は恐ろしい」というイメージを緩和し、ダメージを少なくすることができた…。換言すれば、本心と表向きの スローガンを違えることによって国民を騙そうとした…」(p.154)。
 近年はかかる批判も新鮮に感じるほど共産党への正面からの批判は少ないが、綱領の「少年少女」読み物化は「ソフトなイメージ」作りのためのものだ。また、民青や新婦人の会等々が「大衆」団体というよりも「党員」拡大の「場」に、「党員」リクルートのための団体に実質的になっていることは広く知られているだろう-「赤旗」読者拡大よりも「党員」数拡大こそ「党勢拡大」の中心的意味なのだ。
 余談だが、宮本顕治は戦前の長年の収監に懲りて、また50年の実質分裂・武装闘争による逮捕者数の増大・党勢(国会議席数)激減に懲りて、二度と多数の逮捕者・収監者を出さない共産党づくりを目指したのではなかろうか。「敵の出方」による暴力(実力)行使の余地を語りつつも実質的にはほとんど「人民的議会主義」とやらの穏健路線をとったのだ。
 
林道義の本では、男性フェミニスト、北田暁大伊藤公雄細谷実小熊英二汐見稔幸各氏も槍玉に挙げられている。
 女性フェミニスト・菅原ますみに至っては「エセ研究」者、「研究者としては完全に落第」と厳しい。
 フェミニスト女性官僚が簡単に?大学に職を得ているのも奇妙又は不思議だが(「女性学」担当なのか)、そもそもジェンダー・フリー、性差否定の立場からすると「女子大」なるものは存在すべきでないのではないか。しかるに、菅原ますみの国立精神神経センタ精神保健研究所→お茶の水女子大、板東真理子の内閣府男女共同参画局長→埼玉県副知事→昭和女子大、橋本ヒロ子の国立婦人教育会館情報交流課長→十文字女子大、といった経歴は自らの「思想」と矛盾しているように思える。「女性学」会は学会ではなく「変革」のための運動体という指摘(p.242)もなるほどと思うし、岩波の宣伝冊子は表向きの「美辞麗句を弄んでいるだけの、空虚な言葉の羅列」との批判は日本共産党やかつての日本社会党の宣伝パンフ・政党ビラを思い出させた。
 ついでに書けば、諸君!11月号(文藝春秋)の秦郁彦「…ジェンダー女帝たちの相関図」も面白く、情報としても意味がある。秦郁彦は「歴史」だけでなく現在のフェミニストたち・「男女共同参画」論にも造詣が深いことにも感心した。
 はじめの1/3では岩男寿美子国費発行英文誌編集長)の失態とその取り繕い方が紹介されている。彼女は「皇室典範に関する有識者会議」の委員の一人だったようだが、女系天皇促進の方向の同会議の報告書は今やただの紙屑になった。三笠宮寛仁親王の発言を歪曲までして外国に伝えた岩男としては残念だったに違いない。
 秦は、上野千鶴子大沢真理猪口邦子科研費不正流用の松本和子等を話題にしつつ、「女性行政」 ?にも論及している。市によっては多数林立?している公立「女性会館(センター)」類の意味・利用のされ方を監視する必要があるが、かかる問題意識の報道は殆どないのでないか。フェミニズムは現実的成果を挙げているのだ…。
 さらについでに、自民党新総裁決定前に、上野千鶴子がjanjanという「左翼」系サイトで総裁候補・安倍晋三等について語っていた。
 それによると、1.「国家主義と家族主義を強化する…最悪の選択だ」、2.安倍政権になると「日本の進路は危うい」、3.「民主党…に期待せざるをえない」、4.「共産党を含む野党共闘」を野党各党はめざすべき。
 フェミニストたちの安倍晋三への考え方について、おおよそ推測しえたことの正しさをきちんと証明してくれていて楽しい。
 朝日新聞とともに彼女たちとも反対の方向の立場を採っていれば、相対的に日本は大丈夫だ。従って、安倍総裁は「最良の選択」だったし、浅野史郎を都知事にしなくてよかつた。
 また、上の4.のように民主党が多くの場合は?否定している「共産党を含む野党共闘」を主張していることが興味深い。やはり彼女(たち)は反・非コミュニズムではなく、つまりは親マルクス主義者なのだ。
 フェミニストたちには尋ねてみたい。「搾取」・「抑圧」をなくし人間を「解放」しようとしている筈の中国・ベトナムで(又は旧ソ連等で)女性は「解放」へ近づいている(いた)のか、と。

0114/なぜ共産主義は大量殺人に至った(至る)のか?

 ステファヌ・クルトワ等(外川継男訳)・共産主義白書<ソ連篇>(恵雅堂出版、2001)の序p.12は、「共産主義」体制による死者(銃殺・絞首等の死刑、事故や飢餓、放置による餓死、強制収容所送りの際、抵抗した際、強制労働による衰弱・病気等々によるものを含む)の数を次のように書いている。
 ソ連2000万、中国6500万、ヴェトナム100万、北朝鮮200万、カンボジア200万、東欧100万、ラテンアメリカ15万、アフリカ170万、アフガニスタン150万、国際共産主義運動・政権党でない共産党約1万。
 「殺された合計は一億人に近い」。上の数字の合計は、正確には、9436万。
 また、ナチスによる死者数は、占領国市民1500万、ユダヤ人510万、ソ連軍捕虜330万、強制移住による者110万、ジプシー数10万。これらの合計は、2450万+数十万(p.23)。
 訳者解題によると、上の本が1997年に刊行された際、一億人に近い大量殺戮を生んだ共産主義を信奉する政党(共産党)がフランスでなお活動していることに強い抗議が挙がるという反響があった、という。
 また、著者は、ナチズムが断罪されたのに共産主義の「罪」が問われることなく、なぜ共産党政権が中国やキューバになおあるのかとも問いかけているが、序の最後にある「なぜ」の問いかけはこうだ。
 「なぜレーニン、トロツキー、スターリンその他の人々は、自分たちが「敵」と判断したすべての人々を絶滅することが必要だと考えたのだろうか?
 20世紀の最大の問題はナチズム(あるいはドイツ・ファシズム)でも日本軍国主義でもなく、共産主義だった。それは21世紀に入っても続いている。
 ナチズムや日本軍国主義の分析・研究よりも共産主義の分析・研究の方が重要で、かつ現実的(現代的)意味がなおあるのではないか。
 ついでに、上の本の序から1点だけさらに抜粋しておく。ロシアで1825~1917年の92年間に、死刑判決が実際に執行されたのは3932人だが、この数は政権を握ったボルシェビキ(ロシア共産党)によって1917年11月からわずか4ケ月間に処刑された人数よりも少ない(p.22)。
 1億人(共産主義)、2500万(ナチス)という数の大きさは、第二次大戦中の日本人の軍民合わせての戦死者数が約350万とされているのと比べてもよくわかる。
 ところで、中川八洋・保守主義の哲学(PHP)p.256は、ソルジェニーツィンの収容所群島に依ってレーニン、スターリンの殺戮者数を(上の本の2000万ではなく)6600万としている。また、根拠は不明だがp.293には「二十世紀に二億人の人類を殺害した共産主義…」という叙述もある。上の本の一億人近くの2倍だ。
 かかる人殺しの思想・共産主義(マルクス主義)がどうやって生まれたのかを知ることは重要だろう。
 簡単な紹介に馴染まないが、中川八洋によると、(プラトン)→デカルト→ルソー→ヘーゲル→マルクス→レーニン→スターリン→毛沢東・金日成が最も単純な系譜になる(p.242等)。私の不十分な理解によれば、内容的には、社会を完全に合理的に認識でき、人間も含めて変革(改造)できる筈だとする傲慢な「近代合理主義」、現状不満の狂人・ルソーの夢想的「平等主義」(→資産家からの財産没収等)は少なくとも挙げられるべきものだ。
 なお、別の本で知ったのだが、フェミニズムもマルクス主義を淵源にしているようだ。エンゲルスに家族・私有財産及び国家の起源という著があるが、上野千鶴子らの研究書はこれに大いに依拠しているらしい。マルクスやエンゲルスによれば、「家族」・「私有財産」・「国家」はいずれも消滅すべき(又は消滅する筈の)ものだ。フェミニズムが当面は「家族」の解体を志向しているのも納得できる。

0033/掛谷英紀・日本の「リベラル」-自由を謳い自由を脅かす勢力(新風舎、2002)を全読了。

 先日、掛谷英紀・学者のバカ(ソフトバンク新書)に肯定的に言及した。著者に興味をもったので、続いて同・日本の「リベラル」-自由を謳い自由を脅かす勢力(新風舎、2002)という計79頁の、冊子のような本を29-30日の一晩で読み終えた。
 「リベラル」とは何か。大きなテーマだが、掛谷氏は「リベラル」を1.人権尊重+法の下の平等、2.他者の権利を侵害しないかぎりでの個人の諸選択の自由の尊重、3.これらの保障のため相応の責任分担、を要素とするものと捉える(私の簡略化あり)。
 また、a個人的(・政治的)問題とb経済的問題のうち、「リベラル」は、aへの国家介入をゼロに近づけること、bへの国家介入が100%へ接近することを容認するもので、逆にaへの国家介入を期待しbへの国家介入を最小にしたいのが「保守」と位置づける。さらに、aとbともに100%に近い国家介入を認めるのが「権威主義」(リベラルに振れれば「社会主義」、保守に振れれば「ファシズム」、一方、その対極にあってaとbともに国家介入を最小又はゼロにしたいのが「リバタリアン(無政府主義)」と位置づけている。
 もともと欧州と米国とで「リベラル」の意味は違うのだが、掛谷の概念用法は米国的だろうと思われる。それはともかく、かなり参考になる一つの分類の仕方で、「社会主義」と「ファシズム」の近似性の指摘も納得がいく。もう一つ、c軍事・平和軸(憲法九条や日米安保同盟の評価)を加えれば、(「思想」は大袈裟だとすれば)「基本的な考え方」の分岐が整理できるのではないか。また、リベラルと社会民主主義(社民主義)の違いも、この本を読んでに限らず、従来から気になっているところだ。(私は自らの立つ位置をなおも模索しているところがある。つまり、経済的自由への国家介入・政策的介入については基本的には「自由」優先だが、介入の程度、介入の態様、介入する場面・論点等の問題は、永遠の課題で、他の点はともかく、簡単には答えられないように感じているのだ…。)
 具体的には、仔細には立ち入らないが、介護・保育制度、薬害エイズ報道、夫婦別姓論等について、「リベラル」派と自己認識していると思われる知識人やマスコミ等がじつは上のような意味での正しい「リベラル」的主張をしておらず、むしろ「(選択の)自由」を制限する矛盾を冒しているとして、(「合理的」かつ「客観的」なリベラリズムを目指すというのが主観的意向のようだが)批判している。ここでのリベラル派マスコミの中には朝日新聞も入ると思われ、とすると、朝日新聞批判の著でもありうることになる。
 頭の体操的にも、前に読んだ著と同様に面白い。公的資金を投入した保育サービスの提供は自分で育児をしたい母親に不利に働き、子どもを保育所に預けて外で働くという選択肢を強要する傾向を持たざるをえず、選択の自由というリベラルの理念に反する、とか、ほぼ同じ意味だが、自分で育児したいとの女性(母親)の「自由」を抑圧・制限する方向に働く制度設計は誤りだなど、本格的なフェミニズム批判又は男女共同参画的施策批判につながりそうな指摘もある。
 新風舎刊ということは原稿持ち込みの半分自費出版的なものだろうか。掛谷英紀氏、32歳になる年の書物である。

0027/掛谷英紀・学者のウソ(2007.02)を3月半ばに読む-フェミニズム批判。

 ソフトバンク新書というのが新発行されたものの関心を惹くテーマ・執筆者のものが僅かだった。しかし、掛谷英紀・学者のウソ(2007.02)は、3月半ばに一部を読み終わっただけだが、なかなか良い本だ。読んだ順に記すと、第一に、脱税企業に関する新聞記事の量と当該新聞紙上の広告主との関係につき、仔細は省略するが、「朝日新聞についてはスポンサーへの配慮が記事にまで影響を及ぼしている可能性がきわめて高いことがわかる。一方、読売新聞にはスポンサー・非スポンサー間で有意な差は見られなかった。私は個人的には読売新聞をよく思っていないが、脱税事件の報道に限ると、同新聞の報道姿勢は評価に値する」(p.139)との結論が興味深い。朝日がスポンサーを配慮せざるを得なくなっているとすれば、それは経営的には必ずしも順調でないことを意味する、とつながれば、私にはますます好ましい情報なのだが。
 第二に、知る人ぞ知るの話かもしれないが、私は知らなかった。p.144-5によると、上野千鶴子は自閉症は母子密着が原因と主張したが生まれつきとの説が有力で、自閉症児の親たちから差別助長と抗議を受け、最初主張した本と同じ出版社の「「マザコン少年の末路」の記述をめぐって」の一部に謝罪文を掲載した。これを読んだ某「自閉症児の親の会」の会員いわく-上野からは自閉症に無知識だったのでうっかりしていた、ごめんなさいと素直に謝って貰ったらすっきりしたが、また彼女には「弱者の味方」のイメージもあり期待したが、謝罪文を読んで「「二度と自閉症にかかわるものか」という上野さんの姿勢が感じられ、その落差が激しくて…」。
 著者・掛谷は、次のように書く。「上野氏は弱者の味方のふりをするだけで、…持論を補強するために弱者を利用しているにすぎない」ことにこの母親は気づいてなかったのだろう。「上野氏がなくしたいのは、差別でも性差別でもなく、性差の存在(性の区別)そのものである」。著者は自信をもって断定している。
 上の第二で言及した「事件」はありうることだと納得できるが、第三に、つぎの諸指摘は断定的・明瞭でありすぎるために、その内容に驚きとじわりとした恐怖を感じる。掛谷いわく-フェミニストの殆どは「学歴エリート」だが、人間を男女の二つに分け、「女性全体を弱者と見立て」た上で、「弱者集団である女性への援助を名目に、女性集団の中の強者であるエリート女性のみに手厚い政策的援助が行くように誘導する」。「男女共同参画では強者の女性を援助して弱者の女性への福祉は切り捨てている」。フェミニストは専業主婦を「税金泥棒呼ばわりする」が、「現行の税・社会保障制度で一番得をするのは、…夫婦とも中・高収入を得ているエリートカップルの世帯」だ。「男女共同参画社会は、…高学歴夫婦世帯に対して集中的に福祉を施している。これでは格差がさらに拡大される」(p.155-p.160)。
 私が挟めば、フェミニスト、弱者のふりをし、「女性という人権」を振りかざして、少数の高学歴(かつとくに配偶者のいない)女性の利益のために政府にゆすり・たかりをしている圧力集団の参謀ではないか。その中の参謀長クラスが上野千鶴子だと思われる。
 第四に、少子化の原因としての妊娠・出産の減少は、女性の社会進出と無関係ではない、外での仕事が魅力的だと、又は外で働く必要があれば、女性が出産・育児を厭う場合もあれば、希望してもできない場合もあるだろう、だからある程度はやむを得ない、時代の流れなのかな、と何となく思ってきたのだが、この本を読んでかなり変わった。フェミニズムこそが少子化、人口減を招き、将来の日本を危うくしている根本的思想なのではないか、と。
 不勉強を曝すが、現在の政府の少子化対策は、働く女性の支援、つまり働きながらでも安心して子育てできる、同じことだが子育てしながらも安心して働ける環境の整備らしい。つまりはゼロ歳児から預けられる保育所も含めての、保育所の増設だ。これは、子育てしながら安心して働ける環境を整備すれば出生率は回復する、又は増加するとの「理論」又は「予想」にもとづく。そのために10年間、毎年2-3000億円の公金を厚生労働省は使った。しかるに、現実は出生率が増加していない。政策効果は出ていない。
 掛谷の本p.56以下によれば、上の「理論」・「予想」は誤りで、赤川学・信州大学教授が、同・子どもが減って何が悪い(ちくま新書)で、1.男女共同参画が進めば=女性が働きやすい環境が整備されれば出生率が上昇するとの「理論」の根拠とされるデータには「捏造」があり、OECD加盟国全27国の統計では「女性の社会進出が進むほど出生率は低下する」こと、2.28-39歳の有配偶者女性ではaフルタイム従業、b本人の収入、c都市居住、の三変数が「出生率の低下に有意に寄与している」、つまり「都市でフルタイムで働く高所得女性ほど出産しない」こと、を示した。男女共同参画は少子化を促進しても抑制することはない、ということだ。こちらの方に説得力があると、私には感覚的に思える。だが、フェミニスト又は女性学者等はなお、男女共同参画推進こそが少子化対策になると主張している、という。
 政府の少子化対策施策は昨年の猪口邦子大臣提言等で子育て家庭への経済的支援(育児手当、児童扶養手当類)の増大へと少し舵取り方向を変えるようだが、従来の男女共同参画社会論者はその見解=「男女共同参画を進めれば子どもが増える」を変えようとせず、「開き直っている」というわけだ。
 掛谷は上の赤川学の理解を支持しつつ、そのような学者ら=上野千鶴子、田嶋陽子、白波瀬佐和子、樋口美雄等を批判し、故意の、確信犯的な「学者のウソ」と断じる(p.73等)。また、女性学会とその周辺学会は「間違った情報を発信し続けて」おり、「日本女性学会のホームページをみると、…学会ではなく政治団体なのではないかと思うような情報発信が多い」としている(p.69)。
 男女平等も男女共同参画も基本的なところでは概念・理念として誤っているわけではないだろう(但し、男女平等は男女の差異の無視・否定と同義ではない)。だが、具体的な政策・施策の次元では、どうやら誤りのジェンダー・フリー論が幅を利かせ、政府の審議会類を乗っ取
ってきた気配がある。掛谷によると、フェミニストは「日本女性学会」等に巣くって政治的主張を展開しているようだ。
 p.66-67に紹介の上野千鶴子の、人口現象の原因を突き止めることは「できない」、少子化対策は「極端に言えば、やってもやらなくても同じ、とも言える」との発言は、掛谷の言葉どおり、「よく考えると、ものすごい」。関係学問の力を否定し、政策効果のなさを自認しているのだ。学問とは何かを、政策・政治との関係を考えてしまう。一般論的すぎるが、政策・政治に「悪い」影響を与える学問はなくてよい。あるいは、そのようなものは政治的主張ではなく社会系の「学問」と本当に言えるのかどうか。
 掛谷はまだ30歳代で、分かりやすい、しっかりした文章も書く。今後の活躍に期待したい学者だ。マルクス主義学者の「ウソ」に殆ど言及がないのは残念だが、年齢・世代、理系出身等からしてやむをえないだろう。それと、「学者のバカ」というタイトルは折角の好著には少し軽すぎだ。もっといい表題だったら、より売れるのでないか。

0012/石原慎太郎候補の圧勝を願う。

 東京都民ではないが、石原氏が再選してもらわないと困る。
 年齢を考えると、適当な別の候補を育てていれば、と感じなくもないが、今となってはそんなこと言っておれない。それに、健康面での問題はなさそうだ。
 浅野史郎には、思想も哲学もない。あるのは、情報公開制度の利用のさせ方も含む「行政技術」だけだ。
 それに何より、上野千鶴子、吉田康彦ら、有象無象の反体制派・所謂「左翼」が日本共産党の吉田某よりは当選可能性があるというだけで支持、応援している候補を都知事にしていいわけがない。
 確認はしていないが、佐高信・筑紫哲也・石坂啓ら週刊金曜日関係者・同読者は(都民であれば)浅野に投票するだろう。
 上野千鶴子、佐高信、筑紫哲也、石坂啓らが喜ぶ顔を想像するとぞっとする。
 千葉県知事・堂本暁子が浅野候補を応援したいというのは、同知事・堂本暁子がれっきとしたフェミニストなのだから当然だろう。
 東京都の有権者の方々は、都庁をフェミニズム、アナーキズム、残存マルクス主義、似非「市民主義」、親北朝鮮等々の牙城にしないように、断固として賢明な結果を示していただきたい。

-0040/若宮啓文、有田芳生はいい名前だ。

 これまた古いが朝日の「いっそ…夢想する」で有名な若宮啓文が同紙8月28日のコラムで加藤紘一自宅放火という「テロ」に対する小泉首相等の反応の遅さを詰っている。拉致という明確な国家「テロ」の問題をとりあげるのは日朝国交正常化の「障害」と明記して横田滋氏等から総スカンを食った朝日が、再述すれば、国家「テロ」問題よりも国交正常化優先すべきとの見解だった朝日が、「テロとの戦いはどうした」という見出しのコラムを掲載する資格は全くない。
 何げなく有田芳生のサイトを見ていたら0912付の最後に「安倍の改憲を含む戦後の枠組み解体路線には断固として与しない」とあった。改憲問題は別として、「戦後の枠組み」とは一体何を意味しているのかが問題だ。常識的にみて、「戦後」の全てが良かったか悪かったかという問いは、従って「解体」に一括賛成か反対かの選択は無意味だろう。むろん、「進歩」があったことを否定しないが、しかし、有田の詳しいオウム事件・サリン事件や悪質少年犯罪事件はまさに「戦後」が生み出した現象でないか。「解体」との結論にならないとしても憲法・教育も含めた「枠組み」の妥当性を疑ってみること自体は大切だろう。
 渡部昇一=林道義=八木秀次・国を売る人びと(PHP、2000)を読了し、西尾幹二=八木秀次・新国民の油断(PHP、2005)を通読した。
 フェミニズム・ジェンダーフリー論の帰結のヒドさに愕然とした。有田は後者で紹介されている「自由な」教育も「解体」しないで維持したいのか。また、後者によると、エンゲルスは『…起源』で家庭内で夫は支配者でブルジョアジ-、近代家族は「プロレタリア-ト」たる妻の「家内奴隷制」で成立とまで書いていた。なるほど、マルクス主義とフェミニズムは「個人」のために「家族」を崩壊させる理論なのだ。そして、男女平等といった表向き反対しにくいテ-ゼが利用されて、「家族」の解体がある程度進行してしまっていることも感じる。その結果が、親の権威の欠如(=親子対等論)等々であり、「家族」の崩壊はオウム事件、悪質少年犯罪等と、さらに晩婚化・少子化とも決して無関係でないと考えられる。結局はマルクス主義の影響によってこそ、日本社会は大切なものを喪失してきたのだ。まさに「悪魔の理論」といえる。

-0029/「国内の左翼の策動」。あてはまるのは朝日新聞と誰々?

 米国は1日に模擬弾道ミサイル迎撃実験をして成功し、2日に北朝鮮は自国攻撃目的等と非難した。北朝鮮が核実験に成功し日本に向けて4、5発を誤りなく発射すれば、迎撃しないかぎり、日本と日本人はなくなる。かかる情勢への関心を全く示さず、「平和ボケ」の、ありきたり議論を展開していたのが、立花隆だった。
 読売1-2面の岡崎久彦寄稿は立花や大江とは違う「リアル」な認識が背景にある。靖国「問題」は「国内の左翼反体制運動から端を発し」た、消えた問題が再燃した「発端は例外なくすべて国内の左翼の策動である」とズバリ指摘している。朝日新聞社等の、と具体例を挙げないと意味不明の読者がいるのではと心配するが、朝日新聞等の「策動」者、高橋哲哉氏等の「策動」加担者はどう読んだだろう。
 かつては新聞社は報道機関と考えていたが、安倍晋三総裁・総理阻止の明瞭な姿勢とそのための布石等々を見ても(教科書、従軍慰安婦、NHKへの政治家圧力「問題」もそうだが)、少なくとも朝日新聞だけは「策動」団体(「謀略」団体と言う人もいる)と言ってよいと思う。正面から「安倍総裁の実現に反対する」、「福田総裁の実現を希望する」とかの見出しの社説を堂々と書けばまだましだが、皮肉・あて擦り・暗示が多いのが「卑劣」でもある。言い古されたことかもしれないが。
 荷宮和子・若者はなぜ怒らなくなったのか(中公新書ラクレ、2003)は「団塊と団塊ジュニアの溝」との副題が気を引いたが、「あとがき」を先ず読んで、この人自身の表現を借りると、この人は「アホである」(p.245)

 多少中身を見ても概念定義・論理構成不十分。
 同・なぜフェミニズムは没落したのか(同前、2004)を既所持で第一章まで読んでいたが、この人自身の表現を借りると、この人は「アホである」(p.277)。活字文化のレベルはここまで落ちている。何の学問的基礎・専門知識もなく、喫茶店のダベリを少し体系化しただけのような本が出ている。
 そんな傾向を全否定はしないが、中公ラクレ編集部の黒田剛司氏は自社の名誉・伝統のためにも執筆者の再検討を。2冊ともたぶん100~300円で買った古書なので大した打撃ではないが、読んだ多少の時間が惜しい。小浜逸郎・やっぱりバカが増えている(洋泉社、2003)の証左かも。が、「バカがこれ以上増えませんように」(前者最末尾)だとさ。

-0023/上野千鶴子にとって日本社会は居心地がいいはず。

 26日付朝日の続き。保阪正康は「無機質なファシズム体制」が今年8月に宿っていたとは思われたくない、「ひたすらそう叫びたい」との情緒的表現で終えているが、「無機質なファシズム体制」の説明はまるでない。解らない読者は放っておけというつもりか。編集者もこの部分を「…を憂う」と見出しに使っている。執筆者・編集者ともに、良くない方向に日本は向かってる(私たちは懸命に警告しているのに)旨をサブリミナル効果的に伝えたいのか? 訳のわからぬ概念を使うな。使うなら少しくらい説明したまえ。
 今年のいつか、喫茶店で朝日新聞をめくりながら今日は何もないなと思っていたら、後半にちゃんと?大江健三郎登場の記事があったことがあった。26日付も期待に背かない。別冊e5面の「虫食い川柳」なるクイズの一つは、「産んだ子に〇紙来ないならば産む」(〇を答えさせる)。
 月刊WiLL10月号で勝谷誠彦が朝日新聞の投書欄に言及し、同様の傾向は一般の歌壇にもあるらしいが、「築地をどり」の所作は周到にクイズにも目配りしているのだ。
 小浜逸郎・ニッポン思想の首領たち(1994、宝島社)の上野千鶴子の部分を読了。小浜の別の複数の本も含めて、関心の乏しかったフェミニズムに関する知見が増えた。
 詳しく感想を述べないが、一つは上野の唯一?の、小浜が酷評する理論書(1990)でマルクスが使われていることが印象的だ。マルクス主義(この欄ではコミュニズムとも言っている)やその概念等の悪弊が上野そしてたぶんフェミニズム全般に及んでいる。今日ではマルクス主義は学問的にもほぼ無効に近いことを悟るべきだ。
 1990年本の執筆時点ではまだソ連もチェコスロバキアもあったのかもしれないが。
 二つは戦後のいわば男女平等教育の影響だ。小浜は触れていないが、男らしさ・女らしさや男女の違いに触れない公教育の結果として、社会に出る段階で(又は大学院で)「女だから差別されている」と初めて感じる優秀な女子学生が生じることはよく分かる。
 フェミニズムなるものも「戦後民主主義」教育の不可避の所産でないか。一般人の支持は少ないだろうが、現実政治・行政への影響は残存していそうなので注意要。フェミニストたちには尋ねてみたい。「搾取」・「抑圧」をなくし人間を「解放」しようとしているはずの中国・ベトナムで(又は旧ソ連等で)女性は「解放」へ近づいている(いた)のか、と。

-0002 /「男女共同参画社会」で日本はどうなる?

 私にとって散歩というのは、自転車による散策の場合も同様だが、書店=本屋又は/及び喫茶店に入ることをたいてい伴っている。昨日、散歩のほぼ最終地点の小さな書店で1冊だけ買った山下悦子『女を幸せにしない「男女共同参画社会」』(洋泉社新書、2006.07)は、一章まで(~p.72)を読んだだけだが、なかなか面白い。上野千鶴子や(この本で名前を憶えた)大沢真理等の「フェミニスト」の議論を大多数のより「ふつうの」女性の利益に反する<エリート女性シングル>のための議論として、強く批判しているからだ。大沢真理が関係法律の成立に審議会委員として貢献?したという知識を得たし、「ジェンダー・フリー」とは誤読にもとづく和製英語で、「性別にかかわりなく」という意味を本来は持っていないとされていることを知って苦笑してもしまった(東京大学教授の英語の知識が問われておる。上の二人はこの大学に在籍だ)。
 1970年代に結婚し、子どもを生み、育てていった者たちが多いはずのわが(若干広義の)「団塊」世代は男女平等を一つの理念とする「戦後民主主義」教育を受けていたのだったが、それは「子育て」・「しつけ」の仕方にも影響を与えただろうことはおそらく疑いなく、そして「団塊」ジュニアと呼ばれる世代の意識にも影響を与えたはずだ。上野は明確な「団塊」世代で大沢は下だがほぼ準じる。そして、上野・大沢二人を代表とするような女性と彼女たちのような議論を生み出したのも、戦後の-とりわけ1970年以降の?-教育を含む日本社会に他ならない。
 「団塊」世代に責任がないとはいえない、日本社会のとりわけ1970年以降の変化は、国民にとって、あるいは日本に住む者にとって、はたして「よかった」のかどうか。来し方を振り返り、行く末を想って、多少は懸念と憂いを感じる。
 それにしても、東京大学は、正確には又は実質的には文学部及び社会科学研究所になるが、上野・大沢をよくも採用したものだ。学問の客観的評価が困難であるのはわかるが、珍しいから・威勢がいいからでは困る(まさかとは思うが)。それに、この二人に限らず、東京大学の中に「左翼」的な教授が多いのはなぜだろう。この大学だからこそ目立っているのだろうが、京都大学の方がまだマシのようにも見える。もっとも、大学は特別な、「左翼」がヌクヌクと安住できる世界のようなので、一部の大学を除いて似たような状況かもしれない。

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