「第18章・赤色テロル」の試訳。
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第18章・「赤色テロル」。
「大部分のテロルは、恐怖を抱いた人々が自分を安心させるために行なう無意味な残虐行為だ」。
F·エンゲルスからK·マルクスへ(注01)。
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第一節/レーニンとテロル①。
(01) 国家による体系的なテロルはボルシェヴィキが発明したものだ、とは言い難い。その先例は、Jacobins に遡る。
そうであったとしても、この点でのJacobins とボルシェヴィキが実際に行なったことの差異は大きいので、ボルシェヴィキがテロルを発明した、と考えてよい。
フランス革命はテロルで頂点に達したが、ロシア革命はテロルとともに始まった、と言うにとどめよう。
前者は「短い幕間」、「逆流」と称されてきた(注02)。
赤色テロルは最初から体制の本質的要素であり、強くなったり弱くなったりしつつも、決して消失しなかった。そして、ソヴィエト・ロシアの上に永遠の暗雲のごとく掛かっている。
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(02) 戦時共産主義や内戦その他のボルシェヴィズムの評判が悪い問題についてと同様に、ボルシェヴィキの代弁者や擁護者は、テロルの責任の所在を反対派に求めるのを好む。
遺憾なことだったが、反革命に対する避けられない反応だった、と言われる。言い換えると、機会が別に与えられれば、避けただろう、と言うのだ。
典型的であるのは、レーニンの友人だったAngelica Barbanoff の見解だ。
「不幸なことかもしれないとしても、ボルシェヴィキが開始したテロルと抑圧は、外国による干渉や、特権を維持して旧体制を再建しようと決意したロシアの反動活動家によって強いられたものだった」(注03)
このような釈明は、いくつかの理由で却下することができる。
かりにテロルが実際に「外国の干渉主義者」や「ロシアの反動家」によってボルシェヴィキに「強いられた」ものだったとすれば、ボルシェヴィキがこれらの敵を決定的に打ち破るとすぐに—すなわち1920年に—、テロルを放棄しただろう。
ボルシェヴィキは、そんなことを何もしなかった。
内戦が終了するとともにボルシェヴィキは1918-19年の無差別の大虐殺をやめたけれども、彼らは、それまでの法令や制度を無傷で残した。
スターリンがソヴィエト・ロシアの紛うことなき主人になると、彼が比類のない巨大な規模でテロルを再開するのに必要な手段は、すぐ手の届く所にあった。
このことだけでも、ボルシェヴィキにとってテロルは防衛的武器ではなく、統治の道具だった、ということが分かる。
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(03) ボルシェヴィキによるテロルの主要な装置であるチェカは、1917年12月早くに設立された。それは、ボルシェヴィキに対する組織的な反対派が出現する機会を得る前で、「外国の干渉主義者」がまだせっせとボルシェヴィキに言い寄っていたときだった。これらのことも、上述のような解釈の適切さを確認している。
チェカの最も残酷な活動家の一人、ラトビア人のKh. Peters がこう言ったことに、我々は依拠することができる。すなわち、1918年の前半にチェカがテロルを開始したとき、「これほどの反革命の組織は、…かつて観察されなかった」(脚注1)。
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(脚注1) PR, No. 10/33(1924), p.10. Peters は、副長官として勤務した。1918年7-8月には、チェカの長官代理として。
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(04) 証拠資料によると、最も決然たる煽動者のレーニンは、テロルを革命政府の不可欠の手段だと見なした。
彼はテロルを予防的に—すなわち彼の支配に対する積極的な反対行為が存在しなくとも—行使するつもりでいた。
彼がテロルを用いたのは、自分の教条の正しさと真白か真黒か以外に多彩に政治を見ることができないことについての、深い所にある自信に根ざしていた。
それは、Robespierre を駆り立てたのと本質的には同じ考えだった。トロツキーは1904年に早くも、レーニンをRobespierre と比較した(04)。
フランスのJacobin のように、レーニンは、もっぱら「良い市民」が住む世界を建設しようとした。
こういう目標があったので、Robespierre のように、「悪い市民」を肉体的に排除することを道徳的に正当化することができた。
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(05) レーニンが「Jacobin」という名を冠するのを誇るボルシェヴィキ組織を作ったときから、彼は、革命的なテロルの必要について語った。
1908年の小論「コミューンの教訓」で、この主題に関する意味深い観察を行なった。
この最初の「プロレタリア革命」の成果と失敗を挙げたあとで、その重大な弱点をレーニンは指摘した。すなわち、プロレタリアートの「行き過ぎた寛容さ」—「道徳的影響力を行使」しようとするのではなく、「敵を絶滅させておくべきだった」(注05)。
この言明は、政治上の文献で、通常は害虫に対して使われる「絶滅」(extermination)という言葉を人間に対して用いた、最も早い例の一つであるに違いない。
これまでに叙述してきたように、レーニンは、自分の体制の「階級敵」と定めた者たちを、有害動物の駆除に関する語彙から借りてきて、叙述した。クラクを例えば、「吸血虫」、「蜘蛛」、「蛭」と呼んだ。
1918年1月に彼は、民衆が組織的虐殺(pogrom)を実行する気になるよう、感情を掻き立てる言葉遣いを用いた。
「コミューン、村落や都市の小さな細胞は、金持ち、詐欺師、寄生虫を実際的に評価し支配する数千の形態と方法を実行し、試さなければならない。ここでの多様性こそが、成功と唯一の目標の実現を保障する。唯一の目標—ロシアの土壌から、全ての有害な虫を、悪辣なノミを、南京虫を—金持ち等々を—一掃すること。」(注06)
ヒトラーならば、ドイツの社会民主党の指導者に関して、このような例に倣うだろう。彼はこの党の指導者たちは主としてユダヤ人だと考えていて、その著<Mein Kampf>で、絶滅させることだけがふさわしい<Ungeziefer>あるいは害虫と呼んだ。(注07)
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(06) 国家の長になった最初の日に起きた出来事ほど、レーニンの心理にテロルへの狂熱が深く組み込まれていることを示すものはない。
ボルシェヴィキが権力奪取していたとき、カーメネフは第二回全国ソヴェト大会に対して、ケレンスキーが1917年半ばに再導入した前線での脱走兵への死刑の廃止を求めた。
大会はこの提案を採択し、前線での死刑を廃止した。(注08)
レーニンは他のことに忙しくて、この出来事を見逃した。
トロツキーによると、レーニンがこれを知ったとき、「完全に激怒した」。そして、こう言った。
「馬鹿げている。死刑なしで、どうやって革命ができるのか?
自分を武装解除して、きみの敵を処理できると思っているのか?
他に弾圧のためのどんな手段があるのか?
監獄か?
両方ともが勝とうとしている内戦のあいだに、誰が監獄に意味を認めるのか? …
彼は繰り返した。間違いだ、容赦できない弱さだ、平和主義者の幻想だ。」(注09)
こう語られた時期は、ボルシェヴィキの独裁が辛うじて始まった頃、ボルシェヴィキが継続するとは誰も思わなかったために組織的反対運動が起きていなかった頃、まだ僅かにでも「内戦」の兆候がなかった頃だった。
レーニンの強い主張に従って、ボルシェヴィキは死刑に関するソヴェト大会の行動を無視し、次の6月に死刑を再導入した。
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(07) レーニンは舞台の背後でテロルを指揮するのを好んだけれども、チェカの「無実の」犠牲者についての苦情には我慢できないことをときたま知らしめた。
無実の市民の逮捕を批判したメンシェヴィキの労働者に対して、1919年に、こう答えた。
「有罪であれ無罪であれ、意識的であれ無意識であれ、数十人または数百人の煽動者を収監するのと、数千人の赤軍兵士や労働者を失なうのと、どちらがよいのか?
前者の方がよい。」(注10)
このような理由づけによって、無差別の迫害は正当化された(脚注2)。
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(脚注2) これを、Poznan での1943年の一演説でのSSに対するHeinrich Himmler の訓戒と比較せよ。
「戦車障害濠の建設中に1万人のロシア女性が消耗して死ぬかどうかは、ドイツのための戦車障害濠が建設されているかぎりで、私の関心外だ。…
誰か私のところにやって来てこう言う。『女性や子どもたちで戦車障害濠を建設することはできない。非人間的で、彼らは死ぬだろう』。
私はこう言ってやる。『戦車障害濠が建設されなければドイツの兵士は間違いなく死ぬのだから、きみは自分の血縁の殺害者だ』」。
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第一節②へとつづく。





























































