秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

パイプス

2896/R.Pipes1990年著—第16章⑥。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓②。
 (07) ブレスト=リトフスク条約の結果として、ロシアは、従前は穀物類の三分の一以上を国に供給していたウクライナを失った。また、1918年6月にはチェコスロヴァキア軍団の反乱がシベリアへの途を切断した。これらをさらに認めるならば、1918年半ばに中央および北部ロシアの住民を襲った悲劇的な状況が、明確になる。
 全ての都市と工業中心地、および生産が少ない、あるいは成長途上の家内工業のある多数の村落は、飢えに苦しみ、かりに天候が悪化すれば厄災的な飢饉の可能性がほとんど確実に見込まれる事態に直面した。
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 (08) ボルシェヴィキにとって、この状況は、危険であるとともに、好機だった。
 都市部と工業地域での飢餓は不満を掻き立て、ボルシェヴィキの政治基盤を奪った。
 1918年、ロシアの都市部では、食料不足を原因とする騒擾が恒常的に起きた。
 状況はペテログラードではとくに破壊的で、1918年1月後半には、毎日の配給は、麦藁の粉を混ぜた4オンスのパンだった(注33)。
 これだけの配給では生活を維持できなかったので、住民は自由市場に頼らなければならなかった。そこでの価格は、食料行商人に対するチェカの嫌がらせによって、人為的に高くされていた。
 自由市場では、パンの価格は1ポンド当たり2ルーブルと5ルーブル超の間で揺れ動いた。この価格では、かりに幸運に雇用されていても、一月に多くて300-400ルーブルを稼ぐにすぎない労働者の手には届かなかった(注34)。
 1918年の1年間、ペテログラードでのパン配給量は、数日ごとに上下した。武装した逃亡者や待ち伏せる農民の攻撃を受ける列車の供給量に依存していたからだ。攻撃者が警護者の力を上回れば、彼らはすぐに列車の内部を剥ぎ取った。そして、列車は空でペテログラードに到着した。
 3月にペテログラードでのパン配給は、僅かに上がって6オンスになり、4月末には2オンスまで落ちた。
 地方の諸都市でも、状況は変わらなかった。
 例えばKalugaでは、1918年初頭の毎日の配給割当量は、5オンスに設定されていた(注35)。
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 (09) 飢えを回避するために、住民は群れをなして都市部から逃亡した。逃亡者の中には、戦時中は防衛産業で働き、軍を除隊された者もいた。
 当時の統計資料は、ペテログラードの人口の劇的な減少を示している。すなわち、1917年1月にペテログラードで雇用されていた工業労働者の60パーセント(36.5万人のうち22.1万人)が、1918年4月までに村落地域へと逃亡した(注36)。
 ほとんど同じ割合の逃亡が、モスクワでも起きた。
 革命と内戦のあいだに、モスクワは人口の二分の一を失い、ペテログラードは三分の二を失った(注37)。これは、ロシアの都市化傾向を劇的に逆転させ、その田園的性格を強めた(脚注)。
 ロシアの統計学者は、こう推算している。1917年と1920年の間に、88万4000世帯の家庭、あるいは500万人が、地方に向かって都市部を捨てた(注38)。
 この数は、戦争中に都市部へと移住した農民の数(600万人)にほとんど匹敵している。
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 (10) 残った者たちは、食料不足について、不満を言い、示威活動をし、ときには騒動を起こした。
 下層の男女は、飢餓に狂乱し、食料倉庫や店舗から略奪した。
 新聞紙は、「パンをよこせ!」と叫びながら街頭を駆け抜ける主婦たちに関する報告を掲載した。
 並み外れた価額を要求する行商者たちは、リンチに遭う危険があった。
 多くの都市は、外部者を排除する条例を制定した。
 ペテログラードは、厳格に封印された。レーニンは、1918年2月に、非居住者が首都やロシア北部の一定の地域に入ることを禁止する布令に署名した。
 その他の諸都市も、同様の命令を採択した(注39)。
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 (11) 飢餓と無法の雰囲気の中で、都市部では犯罪が増加した。
 警察の記録は、ペテログラードの住民による報告数についてこう示している。ボルシェヴィキによる支配の三ヶ月め、住居侵入1万5600件、店舗略奪9370件、スリ20万3801件、殺人125件(注40)。
 どの程度の犯罪数が報告されなかったのかは、定かでない。だが、きわめて多数だったはずだ。当時は、通常の強盗犯罪が「収用」を実施するとの言い分のもとで行なわれるのは普通だったからだ。そうした犯罪の犠牲者は、恐怖に怯えて報告できなかった。
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 (12) 村落地域もまた、無法で覆われていた。
 若干の地方(Voronezh等)では、食料は豊富だった。その他の地方(Riazan等)では、絶望的に不足していた。ある地区には十分な余剰があるが、その近傍の諸地区は飢餓に瀕している、ということは珍しくなかった。
 通常は、余剰をもつ者は、自由市場で売却するか、穀物の国家独占は終わるだろうと期待して貯蔵するかのどちらかだった。
 慈善活動は、知られていなかった。十分な食料のある農民は、飢えた者に与えるのを拒んだ。乞い求める者がやってくれば、追い払った(注41)。
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 ③へとつづく。

2893/R.Pipes1990年著—第16章④。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第二節/農民が1917-1918年に得たもの·失ったもの③。
 (13) レーニンの土地布令は、「ふつうの農民およびふつうのコサック」の所持物を収用から除外した。
 しかし、中央ロシアの多数の区域で、共同体の農民はこの条項を無視して、地主の持つ土地とともに仲間の農民に帰属する土地を奪うにまで進んだ。そして、それらを配分のための村落共同体の貯え地にした。
 <khutora>と<otruba>のいずれも、農民によるこの奪取の中に含まれた。また、Stolypin の立法を利用して村落共同体から離脱した耕作者の、かつての共同体の土地も含んでいた(脚注1)
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 (脚注1) <otruba>は、共同体用の細片土地と混ぜられた割当土地のことだった。<khutora>は、分離した農場をいう。いずれも、私的財産として所持された。
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 結果として、すぐさま、農民たちはStolypin の農業改革の成果の多くを消滅させた。村落共同体の原理が、それ以前の全てを一掃したのだ。
 共同体の農民は、その構成員が共同体の外部から購入した土地を同じように取り扱った。このような土地も、村落共同体の留保分に追加された。
 あちこちで、村落共同体は、その割当土地の大きさまで狭くするという条件で、その財産を農民たちに委ねた。集団化の直前の1927年1月、ロシア共和国(RSFSR)にある農地の2億3300万<desiatiny>のうち、2億2200万、あるいは95.3パーセントは、共同体が所持していた。そして、800万、あるいは3.4パーセントだけが、<otr uba>または<khutora>として、つまり、私的財産として所持されていた(注24)。
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 (14) このような事実を見ると、ロシアの農民層は、無償で、大量の農地を革命から獲得した、と言うのは、誤解を招くものだ。
 得たものは、寛容でも、無料でもなかった。
 ロシアの農民層を同質のものとして扱うことはできない。「ロシアの農民層」という言葉は、数百万の個人を覆い隠す抽象的なものだ。
 個々の農民の中には、勤勉、節約、事業感覚の力で資本を蓄積するのに成功した者もいた。この資本は現金で所持されるか、または土地に投資された。
 この全ての現金とほとんど全ての土地を、彼らは今や失った。
 こうした要因を考慮すると、共産党が支援するduvan のもとで獲得した財産のために、muzhik は過大な支払いをした、ということが明らかだ。
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 (15) 農業革命は、農民をより平等にした。
 1917-18年にロシアで行なわれた大分配で、村落共同体は、標準よりも大きかった保有物を減らした。割当土地を分配するため共同体の主要な規準は、家族ごとの edoki または「食べる者」の数だったので。
 このような方法を採ることによって、広い割当土地(4 desiatiny 以上)をもつ家族の数は、ほとんど三分の一にまで(30.9から21.2パーセントへと)減った。一方で、4 desiatiny 未満だけを保有する家族の数は顕著に増加した(57.6から72.2パーセントへ)(脚注2)
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 (脚注2) Gerasimiuk, ISSSR, No. 1(1965), p.100; O zemle: sbornik statei, I(1921), p.25 は、若干異なる数字を示す。大規模な所持の減少は、ある程度は、核家族が増えたことによる、共同家族の解体の加速によった。核家族は19世紀遅くにすでに始まっていたが、ボルシェヴィキの土地政策がそれを促進した。農民は没収された資産の配分に加わりたいと考えるが、家族の長であれば最善を尽くすことができるからだ。
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 この数字が示すのは、「中間農民」の数のかなりの上昇が起きた、ということだ。この層の数の上昇は、土地の豊かな農民の数の減少と、従前は土地を持たなかった農民に割当土地が与えられたことによって、生じた。土地を持たない農民の数は、ほとんど半分に減った(注25)。
 このような平準化の結果として、ロシアは、かつて以上に、小農民たち、自己充足的農民たちの国になった。
 当時のある者は、革命後のロシアを、「小さな商品生産者が…分割された土地を平等に管理し、規模がおおよそ同等の小区画の網を形成することを成し遂げた、ハチの巣」になぞらえた(注26)。
 マルクス主義の専門用語での「中間農民(中農)」—労働力を雇用せず、自らのそれを売りもしない者—が、農業革命の最大の受益者として出現した。これは、ボルシェヴィキが承認するには時間を要した事実だ。
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 (16) もちろん、誰もが黒の大分配から利益を得たのではなかった。それの主要な受益者は、1917年にすでに共同体の割当土地を持ち、村落共同体の集会を支配した者たちだった。
 1917年と1918年に割当土地を求めて都市部から村落へと流れるように戻っていた農民の多数は、再配分から排除されなかったし、標準以下の土地を受け入れるのを強いられることもなかった。同じことは、無収入を終わらせた土地を持たない農民(batraki)の半数についても言えた。
 暮らし向きのよい農民たちは、ボルシェヴィキ当局の意向を、無視した(注27)。当局は、土地社会化布令によって、村落ソヴェトに対して土地を持たないまたは土地の少ない農民への特別の配慮を示すよう指示したのだったが。
 ロシアには要するに、「社会化」という名のもとで要求する全員に標準的な規模の土地を与える、十分な農地がなかった。
 その結果として、土地を持たないまたは土地の乏しい村落共同体の農民は、せいぜい小さな割当土地しか得られなかった(注28)。
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 (17) ロシア革命は、村落共同体を歴史的な遠い地点まで運んだ。逆説的に言えば、ボルシェヴィキが農民を軽蔑していたとしても、村落共同体に黄金時代をもたらしたのは、ボルシェヴィキだった。
 「この数十年のあいだ削り取られてきた共同体は、国の事実上は全ての農業用地の上で花咲いた」(注29)。
 これは、ボルシェヴィキがただちには反対しなかった自然発生的な過程だった。反対しなかったのは、村落共同体はボルシェヴィキのために帝制時代と同じ機能を果たしたからだ。—すなわち、国家への義務を遂行するのを保障すること。
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 ③終わり。つぎの第三節へ。

2892/R.Pipes1990年著—第16章③。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき、
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 第二節/農民が1917-18年に得たもの·失ったもの②。
 (08) しかし、この少ない数字ですら、配分からの利益を過大評価していた。
農民が1917-18年に得た土地のかなりの部分(3分の2)は、彼らは以前から賃借りしていたからだ。
 したがって、土地の「社会化」は、地代の支払いを免除したほどには、利用できる耕作可能地を増加させなかった(注17)。
 一年で7億ルーブルと推算されている地代支払いの免除に加えて、共産党体制によって、農民土地銀行への債務も農民たちは取消された。それで得た利益は、140万ルーブルに昇った(注18)。
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 (09) 農民たちは土地への新しい権利を懐疑的に見ていた。新政府はいずれ集団制を導入するつもりだ、と聞いていたからだ。1918年4月に発せられた土地の社会化に関する布令は、村落共同体への土地の移行は「暫定的」または「一時的」(vremennoe)だと述べていた。
 農民たちはいつまで所持し続けることができるかと懸念し、まるで翌年の収穫が終わるまでのように行動することに決めた。
 そのゆえに、村落共同体が獲得した土地を一括するのではなく、別々に維持した。新しい土地の引き渡しが要求されても、彼ら自身の古くからの割当土地を保持できるようにするためだった(脚注1)
 その結果として、嘆かわれもした細片農業(strip farming, cherespolositsa)は増大した。
 多くの農民たちが、新しい割当土地に行くために、15、30、そして60キロメーターも、移動しなければならなった。その距離があまりに大きすぎれば、彼らは単直にその割当土地を放棄した。
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 (脚注1) 1918年10月から1920年11月までTambov 地方の村落に住んだある知識人によると、農民たちは、皇帝によって与えられたのではないがゆえに、獲得した土地が本当に彼らのものであるかを疑っていた。A. L. Okni nskii, Dva goda sredi krest’ian(Riga, 1936), p.27. 得た土地を分け与えることが強要された場合、貧しい農民に割当てられた土地がそれに使われた。
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 (10) ロシアの農民が革命に由来して得た経済的利益について、述べた。
 彼らは、決して自由ではなかった。
 歴史家たちは、農業革命が農民にもたらした代価を、通常は無視する。それは相当に大きかったと言えるにもかかわらず。
 この代価には、二つの性格があった。第一は、インフレによる貯えの喪失。第二は、農民に(村落共同体のではなく)私的所有権があるとして所持していた土地の喪失。
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 (11) ロシアの農民層は、革命以前に、相当の貯えを蓄積してきた。そのいくぶんかを家で所持し、残りを国立貯蓄銀行(sberegatel’nye kassy)に預けた。
 こうした貯蓄は、農民が高騰する食糧価格から利益を得た幸運な戦時と革命の第一年のあいだに、相当に大きくなった。
 十月のクーのときに農民の貯蓄がいかほどだったかを正確に計算することは不可能だ。
 だが、伝えられる推算を補完するものとしての公式の資料から、若干の考えが生じる。
 1914年の初めに、国立貯蓄銀行は、15億5000万ルーブルを預かっていた(注21)。
 1914年7月と1917年十月の間に、50億ルーブルを追加した、と推計され、かつ、これのうち60-75パーセントは村落の預金者に由来すると考えられている(注22)。
 十月のクーの時点で、農民は、貯蓄銀行におよそ50億ルーブルを預けていたと推計し得る。これに、家庭で所持していた金銭が加えられなければならない。
 ボルシェヴィキは、民間銀行を国有化する布令の対象から貯蓄銀行を除外した。そのために理論上は、農民その他の小預金者は、自分たちの金銭を出し入れすることができた。
 しかし、ほどなくして、インフレが預金を無価値にした。まるで完全な没収があったごとくに。
 前の章で述べたように、ボルシェヴィキは、貨幣の価値を下げることを意図的にかつ体系的に進めた。彼らが支配した最初の5年間で、ルーブルの購買力は、100万分の1に下落した。このことで、紙幣はただの色が付いた紙になった。
 この結果として、ロシアの農民たちは、地主の土地を無料で受け取った以上にはるかに、犠牲を払った。
 農民たちは、使用することが認められた2100万<desiatiny>の代わりに、銀行預金だけで推計で50億ルーブルを失った(脚注2)
 現金を家の中に隠したり、地中に埋めたりして加えて70-80億を持っていた、との当時の推計を受け入れるとしても、1エーカーの耕作可能地(0.4 desiatiny)という平均的な割当土地の代わりに、農民たちは、1918年以前の64.4ルーブルを支払っていた。
 革命前、この土地の平均的価格は、64.4ルーブルだっただろう(脚注3)
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 (脚注2) 戦前のルーブルは金0.87グラムの価値があったので、この貯蓄で3900トンの金塊を購入できただろう。
 (脚注3) 1906年〜1915年に土地銀行が地主から購入した資産には、平均して、1 desiatina 当たり161ルーブルを要した。P. I. Liashchenko, Istoriia narodnogo khoziaistva SSSR, II, 3rd ed.(Leningrad, 1952), p.270. 農民家庭内の貯蓄の推計は、つぎによる。NZh, No. 56/271(1918年3月31日), p.2.
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 (12) 農民たちが新しい割当土地を得るためには、もうひとつの態様の犠牲を払わなければならなかった。
 ロシアでの私的に所有された土地について語るとき、土地布令が没収と配分の対象として指定した地主(landlord,pomeshchiki)、帝室、商人の土地を思い浮かべがちだ。
 しかし、革命前のロシアでの私的な農業用地(耕作地、森林、牧草地)の多く(三分の一以上)は、農民層の財産だった。それらは個人によって、またはより通常は団体によって、所持されていた。
 実際に、革命の直前には、農民とコサックたちが「地主」とほとんど同じ広さの土地を保有していた。
 1915年1月のヨーロッパ・ロシアでの土地(耕作地、森林地、牧場)である9770万<desiatiny>のうち、3900万、あるいは39.5パーセントは地主(貴族、官僚、将校)が、3400万(34.8パーセント)は農民とコサックたちが所持していた(注23)。
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 ③へとつづく。

2889/R.Pipes1990年著—第15章㉑。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第10節/戦時共産主義の結果。
 (01) のちに戦時共産主義と名づけられた政策は、かつてない頂上にまで経済力を高めるために企図された。それは、市場の力を排除して、生産と分配を完全に合理化しようとする、そのときまで存在しなかったきわめて野心的な試みだった。
 はたしてそれは、想定した結果を生み出したのか?
 明らかに、そうでなかった。
 この政策の最も狂信的な擁護者ですら、実験の3年後には ソヴィエト経済は滅茶苦茶になったと、認めざるを得なかった。
 体制が感知し得る全てを急速に国有化するにつれて、違法な自由市場は膨張し、ロシアの富として残っていたものを吸収してしまいそうだった。
 そしてまた、吸収できるものは大して多く残っていなかった。
 1920年のロシアの国民総収入は、1913年のそれの33〜40パーセントだった。
 その頃までに労働者の生活水準は、戦前のそれの三分の一へと劣悪化した(注152)。
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 (02) 事実は、争う余地のないものだ。しかし、その解釈は異なる。
 左翼共産主義者や他の即時の社会主義化を支持する者たちは、自分たちが生んだ破綻のど真ん中で、切迫している飢餓の見通しに直面しながら、失敗を認めるのを拒んだ。
 1920年に公表した論文で、ブハーリンは、ソヴィエト経済の崩壊を、勝ち誇って語った。
 彼の見方では、破壊されているのは「資本主義」の遺産だ。彼は誇ってこう語る。「このような大災害はかつては起きなかった」。それは全て、「歴史的に不可避で、歴史的に必要だった」。
 マルクス主義の術語で満ちた彼の書物には、ソヴィエト・ロシアの経済の実際の状態に関する、いかなる事実も、いかなる統計その他の資料も含まれていなかった。
 事実は、元凶は「資本主義」ではなく「ボルシェヴィズム」だということを、示していただろう(脚注)
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 (脚注) N. Bukharin, Ekonomika Perekhodnogo perioda, Pt. 1(Moscow, 1920), p.5-6, p.48. 経験的データを提示するとされた第二部は、出版されなかった。
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 (03) その他の共産主義者たちは、経済の厄災的状態の原因を、私的部門の残存に見た。
 彼らは決まって、部分的な国有化の条件では社会主義は達成させられない、と主張してきた。そして今でも正当だと感じていた。問題は、政府があまりに急速に社会主義を押し進めたことにあるのではなく、押し進め方が不十分だったことにある。
 このような考え方で戦時共産主義を擁護する典型的な主張は、まさにそれが放棄されようとしている1921年初頭に<prauda>に現れた。
 著者のV. Frumkin は、ソヴィエト経済の欠陥を、「その機構全体が、我々の階級敵であるブルジョアとプチ・ブルジョアの手にある」ことに求めた。
 この欠陥は「経済の前線にいる赤色司令官たちの、十分に大きな隊列」の形成によってのみ克服することができる。
 彼はこの任務は「多少とも遠い将来にある」ものと見ていた(注153)。
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 (04) もっと真っ当な頭脳のもち主は、1918-20年の社会主義の実験の失敗についての責任は全く別として、「資本主義」がこのような実験をもともと可能にしたのだ、と認識していた。
 本質的には、戦時共産主義のもとでのボルシェヴィキは、ブルジョア・ロシアが蓄積していた人的および物質的な資産で何とか生きてきた。
 しかし、これらには限界があった。
 1920年の夏に主導的なロシアの経済新聞紙に発表された分析は、こう結論づけた。
 「我々は、資本主義ロシアから遺贈された重要な資源や原料を完全に消費し尽くした。
 したがって今後は、我々自身の現在の生産から、全ての経済的利益を獲得なければならない。」(注154)
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 (05) この課題は、1921年の春に、新経済政策のもとで採用されることになる。すなわち、レーニンの元来の「国家資本主義」という観念に範をとった、継続期間は不確定の移行期。
 この期間に、政府は政治権力を維持しつつも、国の経済力を回復させる中で私的企業に限定的な役割を認めることになる。
 この期間に、「経済の前線にいる赤色司令官たち」の隊列が用意されることになった。
 生産力が十分に回復し、人員も利用可能な状態になると、新しい攻撃が着手されることになった。階級敵である「ブルジョア」と「プチ・ブルジョア」を廃絶し、真剣に社会主義の建設へと進むための新しい攻撃だ。
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 第15章、終わり。第16章は、<村落への戦争>。

2801/R.パイプス1990年著—第14章⑧。

 Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達②。
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 (10) モスクワでの一ヶ月後、Milbach は、ボルシェヴィキ体制の存続可能性、およびロシア政策全般の基礎になっている自国ドイツのロシアに関する知識、について、不安を感じ始めた。
 ボルシェヴィキは存続しそうだと、信じ続けはした。すなわち、5月24日に、ソヴィエト体制の崩壊は切迫していると予言するBothmer その他の軍人たちに反対する見解を書いて、外務省に警告した(36)。
 しかし、ロシアでの連合諸国の外交官や軍人たちの活動や彼らの反対少数派集団との接触を知って、レーニンは権力を失うのではないか、そしてドイツはロシアでの援助の根拠を全て失って孤立するのではないか、と懸念した。
 したがって、彼は、ボルシェヴィキへの信頼に加えて反ボルシェヴィキ少数派との会話を開始するという政治的保険をかける、という柔軟な政策を主張した。
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 (11) 5月20日、Milbach は、ソヴィエト・ロシアの状況とドイツのロシア政策にある危険性について、最初の悲観的な報告書を、本国に送った。
 彼はこう書いた。体制に対する民衆の支持はこの数週間で大きく減少した。トロツキーはボルシェヴィキ党は「生きている死体」だと語ったと言われている。
 連合諸国は泥水の中で魚釣りをしており、エスエルやメンシェヴィキの国際主義者、セルビアの戦争捕虜やバルトの海兵たちに対して寛大に資金を配っている。
 「いま以上に腐敗した賄賂のロシアは絶対にない」。
 トロツキーが共感しているため、連合諸国はボルシェヴィキに対する影響力を増している。
 トロツキーは、事態が悪化するのを阻止するために、ドイツ政府が一月に終わらせたボルシェヴィキに対する助成金を更新する金を必要とした(37)。
 ボルシェヴィキを連合国の方へ向ける、親連合国のエスエルが権力を奪取する、この二つをいずれも阻止するために、資金が必要だ(38)。
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 (12) この報告書には、より明確に悲観的な調子の報告が続いた。そしてこれらは、ベルリンで顧みられなかったのではなかった。
 6月初め、Kuhlmann は見方を変えて、ロシアの反対派との会話を開始する権限をMilbach に与えた(39)。
 彼はまた、Milbach に、裁量性のある資金を割り振った。
 6月3日、Milbach はベルリンに電報を打って、ボルシェヴィキに権力を持たせつづけるに毎月300万マルクが必要だと、伝えた。外務省は、総計で4000万マルクの意味だとこれを解釈した(40)。
 Kuhlmann は、ボルシェヴィキが連合国側へと転換するのを阻止するには「金が、おそらくは大量の金が」かかることに同意見だった。そして、ロシアでの秘密工作のために在モスクワ大使館に上記の金額を送ることを承認した(41)。
 この金がどう使われたのかを、正確に叙述することはできない。
 約900万マルクだけは、特定目的のために使われた。総額の半分はボルシェヴィキ政府に、残りは反対派に支払われたように思われる。後者の相手は主に、Omsk を中心地としたシベリアの反ボルシェヴィキ臨時政府、親皇帝派の反ボルシェヴィキ集団、Don コサックの首長、P. N. Krasnov だった(脚注)
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 (脚注) ボルシェヴィキ政府は、6月、7月、8月の毎月、ドイツから300万マルクの援助金を受け取った。Z. A. B. Zeman, ed., Germany and the Revolution in Russia, 1915-1918 (London-New York, 1958), p.130.
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 (13) ドイツが反ボルシェヴィキ少数派と接触するのを妨げたのは、ブレスト条約だった。
 ボルシェヴィキ以外の全ての政治的党派は、この条約を受容しようとしなかった。ボルシェヴィキにすら、分裂があった。
 Milbach が観察していたように、ソヴィエト・ロシアの状況は厄災的であり、かりに代償がブレスト条約を受容することだったとすれば、非ボルシェヴィキのどのロシア人も、ボルシェヴィキに対抗するドイツによる援助を受け入れようとしなかっただろう。
 言い換えると、反ボルシェヴィキ集団からの支持を得ようとすれば、ドイツは条約の実質的な改正に同意しなければならなかった。
 Milbach の意見では、反対派集団はポーランド、リトアニア、Courland の喪失を黙認する可能性があった。しかし、ウクライナ、エストニア、そしてたぶんLyvonia の割譲を容認することはなかった(42)。
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 (14) Milbach は、Rietzler に、チェカと連合諸国工作員の鼻先でロシアの反対派集団と交渉するという微妙な任務を与えた。
 Rietzler は主として、いわゆる右翼中心派(Right Center)と接触した。これは、ボルシェヴィズムはドイツ以上に悪辣なロシアの国益に対する脅威だと結論づける、そしてボルシェヴィキを排除するためにドイツと合意する心づもりのある、信望ある政治家や将軍によって、6月半ばに結成された小さな保守的グループだった。
 この集団は、財政、産業、軍事上のしっかりした交渉を要求はした。しかし、現実には顕著と言えるほどの支持者がなかった。なぜなら、ロシアの積極的な活動家の圧倒的多数は、ボルシェヴィキはドイツが生んだものだと考えていたからだ。
 右翼中心派の中心人物は、Alexander Krivoshein だった。この人物はかつてStolypin 改革の指導者で、上品な愛国者であって、かりにドイツがロシア政府を打ち立てるならば受け入れやすい首班候補だったかもしれなかった。しかし、彼は旧体制の典型的な官僚だったので、命令を下すというよりも命令に服従してきた人物だった。
 他に、1916年攻勢の英雄だったAleksei Brusilov もいた。
 Krivoshein は、媒介者を通じて、Rietzler につぎのことを知らせた。すなわち、彼のグループはボルシェヴィキを打倒する用意がある、そのための軍事的手段もある、しかし、実行するにはドイツの積極的な協力が必要だ(43)。
 このような協力を実現するには、ドイツはブレスト条約の改訂に同意しなければならなかった。
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 (15) 接触はしたけれども、ドイツは、ロシアの反対派への敬意をほとんど示さなかった。
 Milbach は君主主義者を「怠け者」と見なし、Rietzler は、ドイツの援助と命令を求める[ロシアの]ブルジョアジーについて、侮蔑的に「嘆いて愚痴を言う者たち」と語った(44)。
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 第四節、終わり。つづく。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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