〇「ハイエキアン」と自称し、「マルクス主義憲法学者」は反省すべきだ、と指摘したことのある稀有の(現役の)憲法学者が、阪本昌成(1945-)だ。
政治的・現実的な運動に関与することに積極的ではない人物なのだろうが、このような人を取り込み、論者の一人のできないところに、現在のわが国の<保守>論壇の非力・限界を見る思いがする。
阪本の憲法理論Ⅰ・Ⅱ(前者の第二版は1997、後者は1993が各第一刷)は、多くの憲法学概説書と異なっているので司法試験受験者は読まないのだろうが、憲法学・法学を超えて、広く読まれてよい文献だろう。
Ⅰ(第一版)の「序」で阪本昌成は次のようにも書く-「なかでも、H・ハートの法体系理論、F・ハイエクの自由と法の見方、L・ウィトゲンシュタインのルールの見方は、わたしに決定的な知的影響を与えた。本書の知的基盤となっているのは、彼らの思考である」。
Ⅱの「序」では、こうも書いている-「F・ハイエクは、人びとの嫉妬心を『社会的正義』の名のもとで正当化し、かきたてる学問を嫌ったという。本書の執筆にあたっての基本姿勢は、ハイエクに学んだつもりである」。
阪本昌成・憲法理論Ⅰ〔第二版〕(成文堂、1997)の特徴の一つは、ふつうの憲法学者・研究者がどのように考え、説明しているのかが明瞭ではないと思われる「国家」そのものへの言及が見られることだ。
この書の第一部は「国家と憲法の基礎理論」で、その第一章は「国家とその法的把握」、第二章は「国家と法の理論」だ。こういう部分は、ほとんどの憲法学者による書物において見られないものだと思われる。
〇上の第一章のうち、「第四節・国家の正当化論(なにゆえ各人が国家を承認し、国家に服従するのか)」(p.21-)から、さらに、「国家の正当化を問う理論」に関する部分のみを、要約的に紹介しておく(p.23-26)。
歴史上、「国家正当化論」として、以下の諸説があった。
①「宗教的・神学的基礎づけ」 (典型的には王権神授説)。
②「実力説」。近くは国家を「本質的に被抑圧階級、被搾取階級を抑圧するための機関」と見るマルクスやエンゲルスの論に典型が見られ、G・イェリネックは、この説の実際的帰結は国家の基礎づけではなく、国家の破壊だと批判的に言及した。
③「家父長説」。G・ヘーゲルが理想とした「人倫国家」論はこれにあたるが、絶対君主制を正当化する特殊な目的をもつものだった。
④「契約説」。国家形成への各人の「合意」のゆえに「その国家は正当」だとする「意思中心の理論」。ブラトンにも見られ、ホッブズははじめて「原子論的個人」を「国家」と対峙させた。これ以降の契約論は、「個々人の自由意思による合理的国家の成立」を説明すべく登場した。
J・ロックは「意思の一致」→契約は遵守されるべき(規範)→「正当な服従義務」という公式を援用したが、曖昧さがあった。
J・ルソーの「社会契約論」は、「政治的統一体の一般意思に各人の意思が含まれるがゆえに正当であり、各人は自己を強制するだけ」、「一般意思を脅威と感じる必要もない」、とする「楽観論」でもあり、「集団意思中心主義の理論」でもある。
ルソーの議論は「正当な国家の成立」・「自由保障の必然性」を見事に説いたかのごとくだが、この「社会契約」は「服従契約」でもあった、すなわち市民(個人)は、「契約によって、共同体意思に参加するものの、同時に、臣民として共同体意思に服従する」。ルソーはこれをディレンマとは考えなかった。現実の統治は「一般意思」にではなく「多数」者によって決せられるが、彼は、個々の個人のそれと異なる見解の勝利につき、「わたしが一般意思と思っていたものが、実はそうではなかった、ということを、証明しているにすぎない」と答えるだけ(p.25)。実体のない「集団的意思」・「集団精神」の類の概念の使用は避けるべきなのだ。
以上の諸説のうち今日まで影響力を持つのは「社会契約論」。この論は「合理的な国家のあり方」を説いた。
しかし、「一度の同意でなぜ人々を恒久的に拘束できるのか、という決定的な疑問が残されている」。
といった欠陥・疑問はあるが、「契約の主体が、主体であることをやめないで、さらに自らを客体となる、と説く」一見、見事な論理で、法思想史上の大きな貢献をした。「契約説は、新しい国民主権論と密接に結合することによって、国家存在の正当化理由、統治権限の淵源、その統治権限を制約する自然権等を、一つの仮説体系のなかで明らかにした」(p.26)。
これはノージックやロールズにも深い影響を与えている。「社会契約論」的思考は、「方法的個人主義」に依りつつ「個々人の意思を超えるルールや秩序」の生成淵源を解明しようとする。
但し、これまでの「国家正当化論」は「抽象的形而上学的思索の産物」で、これによってしては「現実に存在する、または歴史的に存在してきた国家を全面的に正当化することは不可能である」。現実の国家が果たす「目的」によってのみ国家の存在は正当化される。かくして、「国家目的論」へと考察対象は移行する(p.26)。
以下の叙述には機会があれば言及する。ともあれ、ルソー(らの)「社会契約論」によって(のみでは)「国家」成立・形成・存在を正当化しようとしていないことは間違いない。
〇翻って考えるに、日本「国家」は、何ゆえに、何を根拠として、そもそもいつの時点で、形成されたのか?
かりに大戦後に新しい日本「国家」が形成されたとして(いわゆる「非連続説」に立つとして)、そこにいかなる「社会契約」があったのか? この問題に1947年日本国憲法はどう関係してくるのか?
外国(とくに欧米)産の種々の「理論」のみを参照して、日本に固有の問題の解決または説明を行うことはできないだろう、という至極当然と思われる感慨に再びたどり着く。
ノージック
阪本昌成・法の支配(勁草書房、2006)をメモしつつ読む。今年1/13以来の2回め(p.7~10)。とっくに読んでいた部分だが。以下の数字は原書どおり。
--------------
第1章・何が問われるべきか―現代国家の病理
第1節・政治哲学上の原理を欠いていた「福祉国家」
社会科学の課題は人の行為の原因ではなく理由=当該行為の障害は何かを問うこと。障害には自然的、心理的・性格的なものもあるが、対象とすべきは「他者が意識的に作りだした障害」、とくに「国家が意識的に作りだした」それだ。憲法哲学上の「自由」論はこれに焦点を当てる。
1 安寧か福祉か
(1)安寧 自由は国家が作る障害から防御する基礎だったが、「人々のwell-being」(安寧)を配慮することも国家の正当な役割だった。ヘーゲルにおいても。もっとも、その配慮は国家の一般的責務で個々人の「自由や権利と対等の利益」ではなかった。
(2)福祉 だが、well-beingはwelfareとの違いが明確にされることなく「人並みの生活」と理解され始め、主観的利益のごとき様相を呈しだした。さらにwelfare(福祉)は正義や自由、権利と結合され、「福祉国家」論の原型となった。
「福祉国家」における「分配的正義」・「実質的正義」はwell-beingの微妙かつ重大な意味変化の表れだったが、この変化を支える「政治哲学上の原理(理論体系)」は十分用意されなかった。
「福祉国家」論は一種の「功利主義」を基礎とする。/古典的哲学は「善」を「徳」と関連づけたが、これは「善」を「効用」と関連づけた。
ベンサム的功利主義は<最大幸福をもたらす国家・法制度が正義に適う>とする傾向にあるが、この思考は「幸福の中身」に国家が関与しないという点で「リベラリズム」と「一時的に共鳴」はしたが、次第にそれから離脱する。功利主義は根本的に批判されるべきだった。以下はその理由。
(2)福祉国家の理論的問題点 第一に、功利主義は私的な善の最大化をめざす点で古典的「善」観念からずれている。<功利主義は正義を善に、それも「私的な善」に依存させている>と批判されて当然だった。
第二に、国家が個人の「自然的または私的な生への配慮」を担えば国家権力は「人びとの心身に浸透する権力」に変質する。現代人の国家依存性はこれと関連。
第三に、某人の効用を大にすることは他の某人を「犠牲」にする可能性がある。福祉国家とは「ある人の私的所有よりも、別の人のニーズを上位におくことで」、「公正でない」・<税財源による市場外からの社会保障システムの提供は「所得再配分政策」となること必定で、それだけ「自由を削減」する>という批判が可能だ。
「国家が善き生活を万人に保障しようとすることは、ある立場からみれば、正義にもとるのである」。
福祉国家には実務的難点もある。/「社会的正義」の到達度に関する「客観的基準」がない。「最低限の」所得保障→「適正な」所得保障への歯止めがない。
R・ノージックは、福祉国家を「功利主義に依拠する目的論的国家」と批判し、ハイエクは「福祉国家は結果の平等という目的のために人を手段として用いている」と批判し続けた。/「福祉国家論と批判論、どちらが現実を客観的に捉えて」いるか?
現代国家は福祉国家のみならず「総需要の管理というマクロ経済政策に従事する国家」でもある。憲法学のいう「積極国家」・「行政国家」、さらには「現代立憲主義国家」だ。/この国家は我々のwell-beingにいかなる作用を及ぼしているか。/これは今日の社会科学の新たな課題だ。
(以上、第1章の第1節の1まで。p.7~p.10)
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第1章・何が問われるべきか―現代国家の病理
第1節・政治哲学上の原理を欠いていた「福祉国家」
社会科学の課題は人の行為の原因ではなく理由=当該行為の障害は何かを問うこと。障害には自然的、心理的・性格的なものもあるが、対象とすべきは「他者が意識的に作りだした障害」、とくに「国家が意識的に作りだした」それだ。憲法哲学上の「自由」論はこれに焦点を当てる。
1 安寧か福祉か
(1)安寧 自由は国家が作る障害から防御する基礎だったが、「人々のwell-being」(安寧)を配慮することも国家の正当な役割だった。ヘーゲルにおいても。もっとも、その配慮は国家の一般的責務で個々人の「自由や権利と対等の利益」ではなかった。
(2)福祉 だが、well-beingはwelfareとの違いが明確にされることなく「人並みの生活」と理解され始め、主観的利益のごとき様相を呈しだした。さらにwelfare(福祉)は正義や自由、権利と結合され、「福祉国家」論の原型となった。
「福祉国家」における「分配的正義」・「実質的正義」はwell-beingの微妙かつ重大な意味変化の表れだったが、この変化を支える「政治哲学上の原理(理論体系)」は十分用意されなかった。
「福祉国家」論は一種の「功利主義」を基礎とする。/古典的哲学は「善」を「徳」と関連づけたが、これは「善」を「効用」と関連づけた。
ベンサム的功利主義は<最大幸福をもたらす国家・法制度が正義に適う>とする傾向にあるが、この思考は「幸福の中身」に国家が関与しないという点で「リベラリズム」と「一時的に共鳴」はしたが、次第にそれから離脱する。功利主義は根本的に批判されるべきだった。以下はその理由。
(2)福祉国家の理論的問題点 第一に、功利主義は私的な善の最大化をめざす点で古典的「善」観念からずれている。<功利主義は正義を善に、それも「私的な善」に依存させている>と批判されて当然だった。
第二に、国家が個人の「自然的または私的な生への配慮」を担えば国家権力は「人びとの心身に浸透する権力」に変質する。現代人の国家依存性はこれと関連。
第三に、某人の効用を大にすることは他の某人を「犠牲」にする可能性がある。福祉国家とは「ある人の私的所有よりも、別の人のニーズを上位におくことで」、「公正でない」・<税財源による市場外からの社会保障システムの提供は「所得再配分政策」となること必定で、それだけ「自由を削減」する>という批判が可能だ。
「国家が善き生活を万人に保障しようとすることは、ある立場からみれば、正義にもとるのである」。
福祉国家には実務的難点もある。/「社会的正義」の到達度に関する「客観的基準」がない。「最低限の」所得保障→「適正な」所得保障への歯止めがない。
R・ノージックは、福祉国家を「功利主義に依拠する目的論的国家」と批判し、ハイエクは「福祉国家は結果の平等という目的のために人を手段として用いている」と批判し続けた。/「福祉国家論と批判論、どちらが現実を客観的に捉えて」いるか?
現代国家は福祉国家のみならず「総需要の管理というマクロ経済政策に従事する国家」でもある。憲法学のいう「積極国家」・「行政国家」、さらには「現代立憲主義国家」だ。/この国家は我々のwell-beingにいかなる作用を及ぼしているか。/これは今日の社会科学の新たな課題だ。
(以上、第1章の第1節の1まで。p.7~p.10)
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