やや古いが、月刊Will4月号(ワック)の那須陽一「保守陣営のネット戦闘力を高めよ」(p.210~)は、あまり扱われないが、しかし重要な問題を提起している。私に責任の一端があろう筈もないことなのだが…。
 この那須論稿は、「保守陣営」のコンセンサスを形成して「ネット上での『戦闘力』を高め」る必要性を、かなりの切迫感をもって主張している。
 例として「集団自決」・「南京大虐殺」をネット検索して見ると上位に<左翼>のサイト等がずらりと並ぶ、保守系学者(人名)を検索すると批判的・揶揄的サイトが上位に出てくる、保守系学者の本に関する某通信販売大手サイトの書評欄には「人格批判」も含む批判的・消極的評価が書き込まれている……、という状況を憂いているわけだ。
 私も同様の経験をしたことがある。
 Wikipediaだって、信用が置けるとは限らない。ついさっき覗いてみたら、かつてと違って大幅に削除されていたが、かつて見たときは、長谷川正安らとともに「マルクス主義法学講座」(日本評論社)の編者でほぼ間違いなく日本共産党員と見られる<渡辺洋三>について、「リベラルな学風…」とか書いてあった。何が「リベラル」だ、マルクス主義者そのものではないか!、と感じたものだった。
 また、某通信販売大手サイトの書評欄についてはつい先日も、上に書かれてあるのと同様のことを経験した。
 書き込みばかりとは限らない。具体的に何の事項だったか忘れたが、ネット上でも閲覧可能な「Microsoft エンカルタ総合大百科」で調べていて、どうも<左翼的>な記述だと感じたことがあった。いや正確には、Microsoftの出自からして<アメリカ史観>にもとづく記述だったかもしれない。つまり、アメリカに都合が悪いような叙述・説明はしていない、と考えられるのだ。
 広げれば、何気なく使われている国語・日本語辞典類だって、歴史的又は政治的な言葉については何らかの<偏向>がある可能性がある。
 また、現在隔週刊行中の、デアゴスティーニ・ジャパンによる『昭和タイムズ』だってそうだ。細かい事実の確認には役立つと思えるが、個々の事件の位置づけや評価には首を傾げることがある。
 例えば、①1970年(昭和45年)号の11/25<三島由紀夫自殺>の項。上の隔週ムック?は「奇行か英雄的行為か…クーデター失敗で天才作家自決!」という見出しを立て、防衛庁長官のほか「新聞も『時代錯誤のピエロ役』と一様に冷静な反応」、米紙は「…『ハラキリをする』と一面で掲載し」、ソ連紙は「『日本は軍国主義の道を歩みつつある』と強い懸念を表明した」、で終えている。
 三島由紀夫自決事件について種々の見方はあるだろうが、これは些かヒドいのではないか。三島の当日の<檄>の内容は全く無視し、「新聞も『時代錯誤のピエロ役』と一様に冷静」、等とは。また、扱う分量も写真を含めて1頁の1/3程度にすぎない(他に表紙を除く第1頁に頁の1/6ほどの当日の三島由紀夫の写真)。
 ②1949年(昭和24年)の号。詳しくは書かないが、この年の事件・事象のうち日本共産党に関係があるものについて、同党に<優しすぎる>。例、6/27「労働者の誇りを胸に・『赤い引揚者』がシベリアから帰国」(1頁の1/4)は見出しからして好意的、4/04「レッドパージ」については日本共産党に同情的又は同党は被害者的ニュアンス、国鉄関係三大鉄道怪事件について、少なくとも日本共産党に批判的ではない4頁分の長い記述。
 デアゴスティーニの母国法人はどの国なのか知らないが、こういう一般国民向けの「歴史」関係冊子においても、当然ながら<無国籍>ぶりは顕著で、戦後日本又は「戦後民主主義・平和主義」を反映してか、ときに<左翼的>・<反・保守的>だ。それに、文章の最終責任者の個人名、個々の記述の文責者名が明らかにされていないのは、いささか<気味が悪い>。
 ネット関連に戻ると、那須陽一いわく-「サヨク勢力・反日勢力は日夜必死でマスメディア戦略やネット戦略を展開している」(p.216)。夜な夜な、保守系論壇人の新刊本の悪口を(ロクに読みもしないで)書き込んでいる様子を想像すると気味が悪い。<左翼>というのは気味が悪く、執拗なものだ。もっとも、気味が悪い、又は恫喝的なのは、<右翼>にもいるようだが。