秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ニーチェ

2245/西尾幹二批判001。

 小分けすると面倒くさいので、まとめる。
 
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018.10)は比較的最近の西尾の<哲学・思想>畑の本だ。
 この書名は編集者(湯原法史)の発案によるらしいとしても、この書名から「自由」が種々に論じられているという期待または幻想は、はかなくも瞬時に破れる。
 既述のように、A・スミスは「経済学者」だから、そこでの「自由」はfreedom ではなくliberty だ、などというとんでもない叙述が最初の方にある。「経済学とはそういう学問です」(p.36)という珍句?まであるのだが、A・スミスもF・ハイエクも(フリードマンも)、「たんなる経済学者」ではなく「哲学者」、少なくとも「経済哲学(思想)」、「社会哲学(思想)」、「歴史哲学(思想)」等にまたがる人物だったことは、むしろ常識に属するだろう。
 西尾幹二が『自由』を問題にしながら、古今東西の「自由」に関する多数の哲学者・思想家・歴史家等々の文献を渉猟して執筆しているわけではないことは、すぐ分かる。
 世に「哲学者」として知られている者の著書のうち、参照しているのはほとんどF・ニーチェだけだろう。後半にルター、エラスムスが出てきているが、「自由」論とのかかわりは未読なのでよく分からない。
 きりがないが、ロックも、ホッブズも、ルソーも、カントもヘーゲルもマルクスも、ベルクソンもフッサールもサルトルも、ハーバマス等々々も、ついでにトニー・ジャットもジョン・グレイもL・コワコフスキも、西尾幹二の頭の中にはない。きっとまともに読書したことがないのだ。また、日本で現在もよく使われる<リベラリズム>も、liberal 系とはいえ、「自由主義」とも訳されて、当然に「自由」に関係するが、この言葉自体が西尾著にはたぶん全く出てこない。
 そんなだからこそ「深み」はまるでなく、「自由」と「平等」との関係をけっこう長々と叙述したあと、こんなふうに締めくくられる(p.154)。
 オバマは「平等」にこだわり、トランプは「自由」にこだわり続けるだろう。二人のページェントが「これから先、何処に赴くかは今のところ誰にも分かりません」。
 ?? 何だ、これは。
 
 西尾幹二は若いときはニーチェ研究者だったようで、おそらくは、ドイツ語・ドイツ文学・ドイツ哲学あたりの<アカデミズム>をこれで通り抜け、あとは<アカデミズム(学界)>にとどまってはいない。
 この<アカデミズム(学界)>からの離脱は多少の痛みは伴いつつも、彼にとっては<自慢>だったかにも見える。自分は狭いアカデミズムの世界の中にいる人間ではない、広く<世間>、<社会>を相手にしているのだ。
 「論壇」に登場する「評論家」というのは、たんなる「~(助)教授」よりは魅力的で<えらい>存在だと彼には思えたのではないか。
 余計な方向に滑りかけたが、ともかく、西尾幹二はニーチェ研究者だった。
 そして、ニーチェを良く知っていること、反面ではそれ以外の哲学者についてはろくに知らないことは、のちのちにまで影響を与えているようだ。
 その証拠資料たる文章があるので、以下に書き写す。表題がむしろ重要だが、次回以降に言及する。
 西尾幹二(聞き手・遠藤浩一)「私の書くものは全て自己物語です」月刊WiLL2011年12月号(ワック、編集長・花田紀凱)p.242以下。
 ・遠藤「先生のニーチェ論を読んでいると、ご自身の自画像をなぞっておられるのでは、との印象を受けることがあるのですが」。
 西尾「実は私を知るある校正者からも『これは先生自身のことを書いているのではないですか』と告げられました(笑)」。
 ・遠藤「『江戸〔のダイナミズム〕』がニーチェの続篇?」
 西尾「私の心のなかではそうです」。
 西尾「『神は死んだ』とニーチェは言いましたが、日本の儒学、シナの清朝考証学は、まさに神の廃絶と神の復権という壮絶なことを試みた学問であると『江戸のダイナミズム』で論じたのです」。
 この直後に「明治以後の日本の思想は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません」という一文が続く。なんというニーチェ傾倒だろうか。
 おそらくは現在にまで続くニーチェの影響の大きさと、その反面として、その他の種々の「哲学・思想」に、「日本の思想」も含めて取り組んだことがこの人はなかった、ということも、この一文は示していそうだ。
 なお、遠藤浩一はこの欄で論及したこともあったが、故人となった。1958~2014。

2221/J・グレイ・わらの犬(2002)⑪-第4章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.136-9。
 第4章・救われざる者(The Unsaved)
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 第5節・ホメロスのハゲタカ(Homer's Vultures)。
 ・「ニーチェの超人は、人類が…奈落の底に落ちこむのを見る。絶大な意志の行使によって、超人は人間をニヒリズムから救い出す。」
 「ニヒリズム」が掲げる理念は「人間が無意味の深淵から救われる」ことだが、「キリスト教が登場する以前、世にニヒリストはいなかった」。
 ・ホメロス・イーリアスには「ニヒリズム」はない。そこでの神々は、「ハゲタカ」になっても「人間を救わない」。「もとより救うべきほどの何もない」。
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 第6節。死すべき運命(In Search of Mortality)
 ・「仏陀は自己の滅却(extinction of the self)に救いを求めた」が、「自己のないところ」での「救い」とは何か。
 「涅槃(Nirvana)は煩悩を離れた悟りの境地」だが、「自然に任せておけばだれもが…手にする以上のもの」を約束しない。
 「死は、生涯の苦行の後に仏陀が約束した平穏を万人にもたらす」。
 ・「動物はなぜ、煩悩から解脱する」のを願わないのか。「輪廻転生」(the round of rebirth)を知らないからか。「考えるまでもなく、生死をくり返すことはないと知っているからか」。
 ・「仏教は、死すべき運命の模索」で、仏陀は「輪廻転生の迷いから脱する悟りの道」を説く。
 「死すべき運命を知っている人間」は、仏陀が追求した道に「すぐ手の届く」ところにいる。「救いが約束されている以上、人生の快楽を否定することはない」。
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 第7節・死にゆく動物(Dying Animals)
 ・「自分の死を思い描ける」ことで人間は動物と異なるとされる。だが、「死んでどうなるか」を動物以上に知らない。「生命活動の停止」と理解しても、「それが何を意味するか」を知らない。
 「時の経過」を人間が恐れないのは、「いずれ死が訪れる」ことを知っているからだ。「時間に抵抗」するのは「死を恐れて」いるからだ。
 「動物が人間ほどには死を恐れない」のは、「時間に縛られていない」からだ。
 ・「自殺」は「人間の特権」だと言うのは、「人間と動物の死に方になんの違いもない」ことを理解していない。肺炎、麻酔薬、…、ほんの少し前まで人間は「進んで死に向かい合っ」て、「多くは猫が静かな場所を捜して息を引き取るのと同じ本能で死を願った」。
 ・「道徳」が生まれて、「そのような死に方は忌避される」に至った。「選択の自由が一種の信仰」である現代では「死を選ぶことは許されない」。
 人間と動物の違いは、「人間が異様なほど生に執着する」に至ったことだ。
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 第8節・クリシュナムルティの重荷(Krishnamurti's Burden)
 ・19世紀末以降のカルト集団が「現代の救世主」に祭り上げたクリシュナムルティは、「重荷を一身に引き受け」られないとしてその役割を否定した。彼の教えは「古来の神秘主義」と多々共通する。
 ・「人間は動物と共有している生き方を捨てきれず、また、捨てようと努めるほど賢くもない。
 不安や苦悩は、静穏や歓喜と同じ人間本来(natural)の心情である。
 自身のうちにある獣性を脱却したと確信すると、そこで人間は偏執、自己欺瞞、絶えざる動揺といった固有の特質をさらけ出す。」
 ・クリシュナムルティの生涯は「並はずれたエゴイズムの貫徹」で、他人には「無私無欲を説き」、自分は「神秘的な陶酔」を「ありきたりの癒やし」と結びつけた。
 ・彼の生き方は何ら不思議ではない。「獣性を排斥する者は人間をやめるわけではなく、ただ自分を人間の戯画に仕立てる」だけだ。
 「よくしたもので」、「大衆は聖人君子(the saints)を崇める反面、同じ程度に忌み嫌う」。
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 第9節以降につづく。

2123/J・グレイ・わらの犬(2002)⑨-第3章03。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)〔=わらの犬-人間とその他の動物に関する考察〕。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。「」引用は原則として邦訳書。太字化は紹介者。本文全p.209までのうち、p.122までが今回で済む。
 第3章・道徳の害〔The Vices of Morality〕③。
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 第13節・選択信仰〔The Fetish of Choice〕。
 「人生の幸福は自分の選択にかかっている」と考えるがゆえに、人は誰もが「自由意志で生きる」ことが最重要だとする。しかし、「人間は必ず死ぬ〔a mortal〕。いつ、どこで生まれるか、強いか弱いか、足が速いか遅いか、美貌か醜貌か、悲劇に泣くか苦難を免れるか」は全て「所与の条件」であって選択できない。古代ギリシア人が人間は「制限の枠内」にあると言ったことの方が正しい。
 「人は人生の作者ではなく」、「要因の共作者ですらない」。重要と思えるほとんど全ては選択不可能だ。出生の時期・場所、両親、母語、「みな偶然〔chance〕で、選択〔choice〕の結果ではない」。「人生は筋書きのない即興の一幕である」。
 「個人の自立は想像の産物」だ。何もかも急速に変化し、この先の見通しもつかない。「人間は、術もなく野放しで生きているようなものだ」。
 「選択」が「宗教」に接近するのは、人間の「出たとこ勝負」〔unfreedom〕を現す。「選択は信仰になったが、信仰の原則は選択を許さない」。
 第14節・動物の美質〔Animal Virtues〕。
 「道徳の美質」は動物に遡り、「動物と共有する徳性なくして人類は豊かに生きられない」。ニーチェは「道徳が生み出す全ての現象は動物の本能に由来する」と言った。
 「西欧の支配的な考え方」はこれに同調しない。なぜなら、「人間は自身の動機や衝動を分析し、理由を知って行動する。絶えず自己認識に努め、やがて行動は選択の結果だと言えるまでになる。意識に一点の曇りもない状態で、行動は全て理由を了解した上のことである。人間は人生という作品の著者になるだろう」。
 これは「事実」ではない「夢想の論」だが、ソクラテス・プラトン・アリストテレス・デカルト・スピノザ、さらにはマルクスもそう考えた。「意識〔conciousness〕が人間の本質であって、豊かな人生とは自覚ある個人〔fully concious individual〕として生きることだ」と言った。
 「倫理、道徳」は、「人間は自律した主体〔autonomous subject〕ではない」という事実から出発するほかない。人間が「断片の寄せ集め」でないとすれば、「自己欺瞞」〔self-deception〕への逃避も、「薄弱な意志」のへの嘆きもない。「選択」が決定するなら、「自然な寛容」は不必要だ。人間に「融通」性がなければ「全てに脈絡を欠く世界」では生きられない。人間が「相互作用を拒む閉鎖的実体」であれば、「道徳の根源」である他者への「つかのまの感情移入」もない。
 「西欧思想は現実と理想の狭間にのめり込んで身動きがとれない」。しかし、人はただ「当面の用を足す」のであり、先を見越した「最善の選択」をするのではない。
 「古代中国の道教〔Taoists〕は現実と理想〔is & ought〕の間に隔たりがあるとは考えなかった」。「正しい行動の原点は透徹した目で〔from a clear view〕情況を見極めることだ」。道教は「とかく人間を原理原則で縛りたがる儒教〔Confucians〕」とは違う。「無為自然のまま人生を軽快に生きる」ことがよく、人生に「目的」はない。「意志」と無関係で「理想」追求をしない。「豊かに満ち足りた人生とは、持って生まれた本性と置かれた情況に逆らわずに生きる」ことだ。「道徳と合致」などと「思いつめる」必要はない。
 「無為」は「ただ思いつきで行動する」のではない。西欧思想、例えば「ロマン主義」では「無為自然」は個々の「主観に直結」するが、道教では「情況の客観的把握」にもとづく冷静な行動だ。西欧の道徳家はこうした行動の「目的」を問うが、「そもそも人生の充足に目的はない」。
 荘子からすると「倫理」は「実用の技術」、各時点を凌ぐ「勘」〔knack〕にすぎず、その本質は「選択する意志や鮮明な自覚」ではない。グレアム〔A. C. Graham〕は述べる。-道家は「思考の流れに分化と融合の自由を与え」、「善悪の基準」で判断することなく、「意識に強く作用する指向の明瞭な自然の衝動」を最善の、「『道』〔the Way〕に適った」ものと考える。
 道教は動物に「豊かな生き方の指針」を仰いだ。動物には選択や選択の必要がない。「人間に束縛されて、動物は自然に生きる術を失う」。
 「道徳」に執着する人間には「よく生きる」=「たゆまず努力すること〔perpetual striving〕」だ。道教では「本性に従って楽に生きること〔living effortlessly〕」だ。
 「真に自由な人間は自分から行動の理由を選択しない。選択を必要としないのが自由の本意だ」。「自身の選択によらず、必然の指さすところに従って生きる」。これが「野生動物」あるいは「順調に作動する機械」の「完全な自由」だ。
 「動物」や「機械」のごとくとは、「西欧の信仰とヒューマニストの偏見に染まった神経を逆撫でする」。しかし、グレアム〔A. C. Graham〕は、「最先端の科学知識と矛盾しない」と言う。-「道教は、キリスト教信仰に根ざすヨーロッパ人の精神構造に疑問符を突きつける点で科学的な世界観と合致する」。両者において、人間は「無辺の宇宙で塵のように小さな存在〔the littleness〕でしかない」。「生命は儚く、人は死んでどうなるかを知る由もない。流転は果てしなく、空しい進歩の可能性を考えても始まらない」。
 「認知科学」〔cognitive science〕は「選択を働かせる自己〔self〕は存在しない」と教える。「人間は想像以上に野生動物や機械に近い」。とはいえ、「野生動物の無我」は遠く、「自動機械」にもなり得ない。
 人間と「動物」に差違があるとすれば、その一因は「対立する本能」だ。平和-暴虐の疼き、思索-思索による惑乱への不安、矛盾する要求を「同時に満たす」生き方はないが、幸いにも「哲学史」は、「人間が自己欺瞞の才に長け、自分の本性〔natures〕を知らずに発展すること」を明らかにした
 「道徳は人間に特有の病弊」であって、「動物の美質に洗練を加える」方がよいのだが。「道徳は人間の、矛盾する希求〔conflicts of our needs〕の狭間で暗礁に乗り上げる」。
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 第3章終わり。第4章以降へ。

2122/J・グレイ・わらの犬(2002)⑧-第3章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。「」引用は原則として邦訳書。太字化は紹介者。
 第3章・道徳の害〔The Vices of Morality〕。
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 第6節・正義と流行〔Justice and Fashion〕。
 「ソクラテスの哲学とキリスト教信仰」は「正義は永遠だ」と説くが、極まりない「浅見」だ。
 ジョン・ロールズ〔John Bordley Rawls〕<正義論>は一時期の英米哲学界を風靡した。だが、「一般の道徳観念に根ざす公平意識〔moral intuitions of fairness & relies〕の枠」だけで正義を説明する趣意で、「倫理学」〔ethics〕の足場がない。その理由は控えめな態度なのか、その結果は「ありきたりの道徳論〔conventional moral beliefs〕を神妙〔pious〕に述べる」にとどまる。
 ロールズ追随者たちは「道徳」に関する「自分の直観〔intuitions〕」の厳密な検証をしない。それでよいとしても、精査をすれば「歴史」、しかも古くない歴史に気づくはずだ。誰もが「偏見の害」を知っていよう。「道徳」を敏感に意識しても、思考は「ひどく浅薄で、この上なく気紛れ〔shallow & transient to the last degree〕」だ。
 ロールズ<正義論>の基礎にある「平等主義」〔egalitarian beliefs〕は、かつての道徳論の核心の「性習慣」〔sexual mores〕に通じる。「きわめて地方的でかつ変遷が早い」ものでも人々は「道徳の要」として尊重するからだ。「時代の流れ」で今は「衆目の一致する平等主義」も、いずれ別の考えに取って代わられて「不変の真理」〔unchangeable moral truth〕の体現ではなくなるだろう。
 「正義は習慣〔custom〕の産物である」。習慣が変われば、「帽子の流行」と同じく「正義の観念〔ideas〕」も変化する。
 第7節・育ちのいいイギリス人のだれもが知っていること〔What Every Well-bred Englishman Knows〕。
 G・B・ショーが言った「育ちのいいイギリス人は善悪の区別を除いて世の中のことを何も知らない」は、「道徳哲学者」〔moral philosophers〕にも当てはまる。「哲学者は自分の無知を美徳と考えている」。
 第8節・精神分析と時の運〔Psychoanalysis and Moral Luck〕。
 「啓蒙運動〔the Enlightenment〕の思想家」から「人間は誰でも善良になれる」という確信・結論は出てこない。フロイトの主張は要するに、「善良になれるかどうかは時の運〔good luck〕」ということだ。
 性格・正義感は「幼児の境遇による」とのフロイトの見方を承認しつつ、誰もが「努力次第で」善人になれると執着する。「さもないと、優れた容姿や頭脳と同様、善良な人柄も時の運と認めなければならない」からだ。「自分の心情」は捨て難くとも、「自由意志は幻想だ」と割り切るべきだ。「善良な人物は幸運なのだ」という「厄介な事実を突きつける」ことで、フロイトはニーチェ以上に大きく「道徳〔morality〕の概念」を揺るがした。
 第9節・道徳は媚薬〔Morality as an Aphrodisiac〕。
 「道徳」は人類をほとんど「善導」せず、「罪悪」を増幅した。キリスト教は「罪の喜び」〔pleasures of guilt〕を否定するが、「信者崩れ」には、「不道徳なふるまいをする興奮」で「快楽」を増す例がある。
 第10節・分別を徳とする弱み〔A Weakness for Prudence〕。
 ソクラテス以来の哲学者たちは「道徳」や「分別」の必要を説いたが、「利己心」〔self-interest〕を語った方がよかった。「当面する課題」の方が「将来」のそれよりも重要だ。後者は「遠い先」のことで、かつ「仮定の域を出ない」。
 「自分の将来を案じたところで、今の自分を考える以上の深い意味はない。案じることのない将来だとしたらなおさらだ」。
 第11節・道徳の創始者ソクラテス〔Socrates, Inventor of Morality〕。
 たぶんソクラテスは「合理主義者」ではなく「諧謔を好む詭弁家」で、「哲学」を遊戯と見なしたが、ホメロスにとっての「危険に満ちた世界を巧みに生きる心得」としての「道徳」が、彼の影響で「最高善を追求する営為」に変わった。
 ホメロスのギリシア世界とは違って、ソクラテスは「善と幸福」を一体視した。諸福利・価値の彼方に「至善」がある。これがプラトンにより、「全価値が調和して精神の総体〔spiritual whole〕をなす神秘的融合」=「善の実相」となる。これをのちのキリスト教が「神」概念に同化した。かくして、ソクラテスこそが、「『道徳』の元祖」だ。
 「道徳」が全てに優先するというのは、「キリスト教と古典ギリシア哲学の折衷から生じた偏見に他ならない」。ホメロス時代に「道徳」も「至善」もなかった。
 人はとかく「究極的には道徳が勝ち残ると信じる顔で生きたがる。だが、本心からそう思ってはいない。意識の底で、運命と偶然には抵抗できないことを知っている」。この点、現代人は「古典ギリシア哲学」ではなくソクラテス以前の「古代ギリシア人」に近い。
 第12節・道徳の不徳〔Immoral Morality〕。
 「ある世代の平和と繁栄は、前世代の不正の上に築かれる」。「自由社会のひ弱な感性は戦争と帝国主義の落とし子」だ。個人についても同じで、「優しさは、安全が約束された波静かな社会でもてはやされる」。だが、「価値」が高いと口では認める特性も「日常生活には役立たない」。世間が褒める多くは「不正」・「罪悪」から湧いてくるのであり、「道徳」についても同じ。
 マキアヴェッリ・<君主論>は「不道徳のすすめ」だとされ、権力維持には「豪放な気組みと偽善が必要」との発言は今では尚更嫌われる。ホッブズ・<リヴァイアサン>は、「力と策略は乱世の徳」だと言い、マンデヴィル・<蜂の寓話>は、「強欲、虚栄、羨望など、悪弊が繁栄の原動力」だとした。ニーチェが今なお意味をもつとすれば、「非情や遺恨」といった「忌むべき動機」を昇華したものが「道徳」だという暴露にある。この人々は「禁断の真実」を喝破した。「道徳」は役立たず、「悪徳」だけが栄華をもたらす。
 「道徳哲学」は以上を認めない。アリストテレス・<中庸>が問題を回避するように、「中間」に本質がある。「勇気は無鉄砲と逃げ腰の中間」で、「分別、正義、共感」はみな極端のいずれかに偏しないことに価値がある。但し、彼もまた「複数の徳目」の非並立性には困った。「美徳」はときに「悪徳」に依拠する。人間は「一筋縄ではいかない」。
 「道徳哲学は、喩えてみれば、まず大体が小説だ。ともかくも、哲学者は一大長編を書かなくてはならない。だからと言って、驚くには値しない。人の世の真実は、哲学の関心外だ。
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 第13節以降へ。

2077/J・グレイ・わらの犬(2002)④-第2章01。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。<ー人間と他の諸動物に関する考察>。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。
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 第2章・欺瞞〔The Deception〕①。邦訳書、p.37~p.54。
 第1節・仮面舞踏会。
 カントが仮面舞踏会で恋慕した仮面の麗人は実妻だったというショーペンハウワーの寓話での妻はカント時代のキリスト教信仰で、ヒューマニズムが現代の信仰だ。哲学は200年の間にキリスト教を捨てたが、「人間は他の生き物と根本的に違うと考える教理の根幹をなす誤謬は温存した」。仮面を剥ぎ取るはずの哲学者の仕事は本格的には開始されていない。
 「動物はみな、この世に生まれ、番(つがい)の相手を求め、餌を漁り、死に果てる。それだけのことだ」。人間は「意識、自我、自由意思」があるから違うと言うが、誤りだ。
 「人の一生は意識の命じる主体的な行動よりも断片的な夢想の堆積である」。
 「死命を分ける重大な決断の多くを知らず知らずのうちに下す」。
 「自身の存在を意志の力で統御することはできない相談であるにもかかわらず、…できると考えるのは神に対する非合理な信仰を棄てて、非合理な人類信仰に乗り換えた思想家の教条主義である」。
 第2節・ショーペンハウアーの難題〔Crux〕。
 ショーペンハウワーは19世紀半ばの人間「全的解放」を批判し、「革命運動には恐怖と侮蔑」を抱き、主流哲学に「猛然と反発し」、「後にマルクスにも強い影響を与えたヘーゲルを国家権力の代弁人風情と扱き下ろした」。
 彼は規則正しく生活し、「人間存在の根底にある盲目的な意志」に従った。哲学は「キリスト教の偏見に毒されている」とし、18世紀の「啓蒙」の主潮だったカント哲学を「キリスト教信仰の世俗版」だと批判した。
 彼にとって「人間は本質において動物と何ら選ぶところがない」。人間も同じく「世界の根底にあって苦悩し、忍従しながらすべてを誘起する生命衝動-盲目的な意志の現れ」だ。
 カントはイギリス(スコットランド)のヒュームの「底知れぬ懐疑主義」に衝撃を受けた。ヒュームによれば「人間は外界の存在を知り得ず、…自分自身の存在すら知っていない」、「何も知らない以上、自然と慣習を標に生きるほかはない」。
 ヒューム説の「人間は事物をそれ自体として知ることはできず、ただ経験のかたちであたえられる現象を知るだけ」によると「経験の背後にあるリアリティ、カントのいわゆる物自体は不可知」だが、カントは「高鼾の熟睡」に再び戻り、ヒューム・懐疑論を拒否した。
 ショーペンハウワーは「世界は不可知」とのヒューム・カントを受容しつつ、「世界も、世界を知ったつもりでいる個別の主観も、リアリティの根拠を欠いた幻影だと論じた」。彼は「ベーダンタ哲学と仏教思想に共鳴している」。そして、カントを進めて、「表象」世界に生きる人間を捉え直した。
 ショーペンハウワーによると「欲情は種の保存を約束するが、個人の福祉や自律にはなんのかかわりもない。体験が人間に自由行為者たる確信を押しつけると考えるのはまちがいである」。また、「独立した個体は存在せず、数多性も差異もない」、ただ「<意志>と名付けた絶えざる衝動だけ」がある。「理知は否応もなく意志にしたがう下僕でしかない」。
 ショーペンハウワーは、「カント哲学を否定し、返す刀でキリスト教信仰とヒューマニズムの根底にある人間の唯我論を切り捨てた」。
 第3節・ニーチェの「楽天主義」〔Optimism〕。
 ニーチェはショーペンハウワーの「ペシミズム」を批判したが、後者は前者の「神の死」という結論をすでに道破していた。
 ニーチェは「キリスト教とその価値観を論難してやまなかった」が、それ自体が「信仰から脱しえなかったことの何よりの証拠」だ。父母に「キリスト教の血筋」もある。
 彼はショーペンハウワーを意識しかつ敬愛しつつも後者の「哀憐」は「至高の徳目ではなく、…生命力の減退の徴」だと弁じた。後者は<意志>に背いて=「自身の幸福や生存に対する執着を断って、はじめて他者を憐れむ心になる」と説いたのだが、ニーチェにとって、「憐れみ」は「反生命主義」で、<意志>を賛美する方が理に叶う。「苛酷な生をそっくりそのまま是認する」のが、ショーペンハウワー・悲観主義に対するニーチェの回答だった。
 しかし、ショーペンハウワーは「哀憐ゆえに蹉跌する」ことはなく、ニーチェの方が「錯乱」して「身を滅ぼした」。
 ニーチェと異ってショーペンハウワーは、キリスト教信仰・その根幹の「人類の歴史を重視する思想」を放棄した。
 「ほんとうにキリスト教と絶縁する気なら、人類は歴史に意味があるとする考えを棄てなければならない」。古来の異教世界と文化ではかかる認識の例はない。「ギリシア、ローマでは、歴史は栄枯盛衰の自然な循環であり、インドでは、ただ果てしなくくり返される共同幻想だった」。
 「人間は生き物で、他の動物と変わらないとわかってみれば、人類の歴史などというものはありえず、ただ個体の一生があるだけである。
 かりに種の歴史を語るとすれば、そうした個体の一生の、知りようもない総和に意味をさぐることでしかない。
 動物と同じで、幸せな生活もあれば、惨めな暮らしもある。
 だが、個体を超えたところに存在の意味はない。」
 ニーチェは「人類の歴史」の無意味を「知っていながら承服できなかった」。「最後まで信仰に囚われて」いたので「動物である人間もどうかなるという迷妄を断ち切れず」、「笑止千万な超人の思想を生み出した」。
 彼は「支離滅裂な人類の夢に、…悪夢を加えるだけで終わった」。
 第4節・ハイデガーのヒューマニズム〔Humanism〕。
 ハイデガーは西欧哲学を支配してきた「人間中心の思想」への決別を宣した。しかし、「人類は必然の存在だが、動物に正当な存在理由はないという」偏見をもち、「存在」に目を向けて「人類の特異な立場を肯定」した。ニーチェと同じく、「キリスト教の希望」を棄てきれなかった「不信仰者」だ。
 ハイデガーは「宗教に依存しない人間存在」を語るが、「現在性」・「無気味さ」・「罪」のいずれも「キリスト教の理念の世俗版」だ。キリスト教の「堕落」・「原罪」等に「実存主義的なひねりを加え」た「焼き直し」にすぎない。
 「存在」の意味は不明で「定義を拒むもの」と考えている節があるが、明らかに「独我論の根拠」になっている。
 ハイデガーは世界を「ただ人間との関係においてしか」見ない。「旧来の人間中心主義」と変わらず、「秘教的知恵」が救うとする「古代思想」や「グノーシス主義」の世俗化した「蒸し返し」だ。
 ニーチェは「放浪者」のために書いたが、ハイデガーは「終生、身の置きどころを求め」た。後者は次第にヒューマニズムから遠ざかったと公言したが、人間中心でない「古来の思想」への関心はなかった。「ギリシア語とドイツ語だけが真の哲学の言葉」だと断じて、「荘子、道元」等々の「深遠な思想も哲学ではありえない」と無視した。
 ハイデガーのごとく「哲学者がかくまで自己を主張し、妄想に取り憑かれることはきわめて稀である」
 晩年に「静謐」を語るが、ショーペンハウワーの「意志からの解放」にとどまるだろう。後者によると芸術・音楽への耽溺で「意志」形成の労苦を忘れて「没我の境」に入り、「無私無欲の観察者の視点」で世界を観察する。ハイデガーは晩年に「迂路をたどってショーペンハウアーに回帰した」。
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 つづける。

2023/L・コワコフスキ著第三巻第10章第5節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.372-p.376.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第5節・「啓蒙主義」(enlightenment)批判①。

 (1)ホルクハイマーとアドルノの<啓蒙の弁証法>(Dialectic of Enlightenment)はばらばらでまとまりのない考察から成っているが、一種のシステムに還元することのできる若干の基礎的な思想を含んでいる。
 この書物は第二次大戦の末期に書かれ、ナツィズムの問題を中心にしている。著者たちの見方では、ナツィズムはたんなる悪魔的奇形物ではなく、人類が落ち込んでいる普遍的な野蛮状態を劇的に表現するものだった。
 彼らは、この頽廃状態の原因をまさに同一の価値、理想が恒常的に機能したことに求めた。また、人類をかつて野蛮さから脱出させた、「啓蒙主義」(enlightenment)という概念で要約される規準のそれにも。
 彼らはこれによって、この概念が通常は用いられる18世紀に特有の運動を意味させなかった。そうではなく、「人間の恐怖からの解放と人間の主権性の確立を意図する…進歩的思考という一般的意味」で用いた(<啓蒙の弁証法>p.3.)。
 「弁証法」は、ここではつぎのことに存した。すなわち、自然を制圧して神話の足枷から理性を解放する運動は、その内在的な論理によって、その反対物に転化する、ということ。
 それは実証主義、実用主義および功利主義のイデオロギーを生み、世界を純粋に量的な側面にのみ帰することによって意味を絶滅させ、芸術と科学を野蛮化させ、人類をますます「商品フェティシズム」に従属させてきた。
 <啓蒙の弁証法>は、歴史に関する論述書ではなく、多様な形態での「啓蒙的」理想の失墜を証明するための、手当たり次第に集められたかつ説明のない諸例の収集物だ。
 啓蒙主義に関する若干の序論的論及のあと、この書物には、オデッセイ、マルキ・ド・サド、娯楽産業および反ユダヤ主義に関する諸章が続いている。
 (2)啓蒙主義は世界にある神秘的なものからの人間の解放を追求し、神秘的なものは存在しないと宣言したにすぎない。
 それは、人間が自然を支配することを可能にする知識の形態を追い求め、そのために知識から意味を剥奪し、実質、性質、因果律といった観念を投げ棄て、事物を弄ぶという目的に役立つかもしれないもののみを維持した。
 啓蒙主義は、知識と文化の全体を統合し、全ての性質を共通の測量基準に貶めることを意図した。 
 そうして、その責任によって、科学に対する数学的基準の賦課や交換価値にもとづく経済、すなわち全種類の商品の抽象的な労働時間の総量への変形、の創出が生じた。
 自然に対する支配の増大は自然からの疎外を意味した。そして同様に、人間存在に対する支配の増大を意味した。
 啓蒙主義が生んだ知識の理論は、事物を支配しているかぎりで我々はその事物を知る、このことは物理の世界と社会の世界のいずれについてもあてはまる、ということを意味した。
 啓蒙主義が意味したのはまた、現実はそれ自体では意味を持たず、主体によってのみその意味を取り出すことができる、そして同時に、主体と客体は互いに完全に別々のものだ、ということだった。
 科学は、現実が生じる原因を-まるで神話的思考を掌る「反復の原理」を模倣するがごとく-一度ならず頻繁に発生する可能性をもつものに帰する。
 科学は、範疇のシステムの内部に世界を包み込み、個々の事物と人間を抽象物に転化させ、そうして全体主義のイデオロギー上の基礎を産み出す。
 思考の抽象性は、人間による人間の支配と手を携えて歩んだ。
「散漫な論理、観念領域での支配、が発展させた思想の普遍性は、現実的な支配にもとづいて打ち立てられている」(p.14.)。
 啓蒙主義はその発展形態では、全ての客体は自己認識できる(self-identical)と考える。 ある事物がまだそれではないものの可能性があるとの考えは、神話の痕跡だとして却下される。
 (3)世界を単一の観念システムで、そして生来の演繹的思考で包み込もうとする強い意欲は、啓蒙主義の最も有害な側面であり、自由に対する脅威だ。
 「なぜならば、啓蒙主義は他のシステムと同じく全体主義的(totalitarian)だからだ。
 それが真実ではないことは、ロマン派の対敵たちがつねに非難してきた点にあるのではない。分析的方法、要素への回帰、反射的思考による解体。
 そうではなく、啓蒙主義にとっては最初から過程(<Prozess>)がつねに決まっているということにある。
 数学的過程では未知のものがある等号上の未知の量になるとき、何らかの価値が差し挿まれる前ですら、そのことは未知のものをよく知られたものにしてしまう。
 自然は、量子論の前も後も、数学的に把握することができるものだ。<中略>
 全体として把握されかつ数式化された世界を予期されるように真実と同一視して、啓蒙主義は、神話に回帰することに対抗して身を守ろうと意図する。
 啓蒙主義は、思考と数学を混同している。<中略>
 思考はそれ自体を客観化して、自動的な、自己活性力のある(self-activating)過程になる。<中略>
 数学的過程は、いわば、思考の儀礼になる。<中略> そして、思考を事物、道具に変える。」
 (<啓蒙の弁証法>,p.24-p.25.)
 要するに、啓蒙主義は、新しいものを把握するつもりがないし、そうすることもできない。
 現在にあり、すでに知られているものについてのみ関心をもつ。
 しかし、啓蒙主義の思考規準とは反対に、思考とは、感知、分類および計算という実体のものではない。
 思考は、「連続的な即時物のそれぞれを決定的に否定すること」にある(<そのつどの即時的なものの明確な否定〔独語-試訳者〕>)(同上、p.27.)。-これを換言すれば、推察するに、存在するものを超えて存在する可能性があるものへと進むことに、ある。
 啓蒙主義は、世界を同義反復のものに変える。そうして、もともと破壊しようとしていた神話へと転換させる。
 思考を抽象的「システム」に編成されなければならない「事実」に関するものに限定することによって、啓蒙主義は現在あるものを、つまりは社会的不公正を、神聖化する。
 産業主義は人間的主体を「物象化」し、商品フェティシズムが全ての生活分野を覆っている。//
 (4)啓蒙主義の合理主義は、自然に対する人間の力を増大させる一方で、一定の人間の他者に対する力をも増大させた。そしてさらには、その有用性を長続きさせてきた。
 悪の根源は労働の分割で、それに伴った人間の自然からの疎外だった。
 支配することが思考の一つの目的になった。そして思考それ自体は、そのことによって破壊された。
 社会主義は、自然を完全に外部のものと見なすブルジョア的思考様式を採用し、それを全体主義的なものにした。
 このようにして、啓蒙主義は自殺的行路へと乗り出した。そして、救済の唯一の希望は、理論のうちにあるように見える。すなわち、「真の革命的実践<独語略-試訳者>は、社会が思考に対して許容する無意識状態(<Bewusstlosigkeit>)を物ともしない非妥協性にかかっている」(p.41)という考え方。//
 (5)<啓蒙の弁証法>によれば、オデッセイ伝説は、正確には完全に社会化されるがゆえに個人が孤立することの原型または象徴だ。
 主人公は自分を「Noman」と称することでCyclops から逃げ出す。すなわち、自分を殺すことで、その存在を維持する。
 著者たちは述べるのだが、「こうした死への言葉上の適応は、現代数学の図式を包含している」(p.60.)。
 一般的に言って、この伝説が示すのは、人間が自分自身を肯定しようとする文明は自己否定と抑圧によってのみ可能なものになる、ということだ。
 かくして、弁証法は、啓蒙主義のうちにフロイト主義の側面を持つようになる。//
 (6)18世紀の啓蒙主義の完全な縮図は、マルキ・ド・サド(the marquis de Sade)だった。この人物は、支配のイデオロギーを最高度の論理的帰結とした。
 啓蒙主義は人間を、抽象的「システム」の中にある反復可能で代替可能な(それによって「物象化」された)要素だとして扱う。これはまた、Sade の生き方が意味するところだ。
 啓蒙主義哲学のうちに潜在している全体主義思想は、人間の特性を交換可能な商品と同質化させる。
 理性と感情は、非人格的な次元にまでと貶められる。
合理主義的計画化は、全体主義のテロルへと退廃する。
 道徳性は、弱者が強者に対して自らを守るために、弱者によって策略(manoeuvre)だとして嘲弄され、侮蔑される(これはニーチェが予想したことだ)。
 伝統的価値は、理性と反目している、幻想だ、と宣告される。これは、デカルト(Descarte)による延長された実在と思考する実在への人間の二分にすでに暗示されている見方だ。//
 (7)理性、感情、主体性、性質および自然自体を数学、論理および交換価値という罪深い結合でもって破壊することは、文化の頽廃のうちにとくに看取される。その甚だしい例は、現代娯楽産業だ。
 商業的価値が支配する単一のシステムは、大衆文化の全ての分野を奪取してきた。
 全てのものが、資本の力を永続化することに奉仕している。-労働者が公平で高い生活水準を達成したり、人々が清潔な住居を見出すことができる、といったことですら。
 大量に生み出される文化は、創造性を殺している。
 そのことはそれへの需要によって正当化されはしない。需要それ自体が、システムの一部なのだから。
 ある時期のドイツでは、国家は少なくとも市場の作用に対する高度の文化形態を保護した。しかし、その時代は過ぎ去り、芸術家たちは消費者の奴隷になっている。
 目新しいもの(novelty)は呪いの対象だ。
 芸術作品の製作も享受も、あらかじめ計画されている。芸術が市場競争を生き延びるためには、そうされなければならないかのごとくに。
 このようにして芸術それ自体が、それがもつ生来の機能とは逆に、個人性を破壊したり、人間存在を個性を欠く画一的なもの(stereotype)へと変化させるのに、役立っている。
 著者たちは、慨嘆する。芸術はきわめて安価で入手しやすいものになった、その不可避性が意味するのは、芸術の頽廃だ、と。//
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 ②へとつづく。

1848/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流。
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 前回とほぼ同様に、英語版から始めてドイツ語版に最終的には依った。段落の区切りも後者がやはり一つ多いが、段落数字も後者の区切りによる。
 (注1) はドイツ語版にのみある。そこでのThomas Mann の原文引用部分は、以下では割愛した。
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 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)
 (7) 我々がイデーの歴史研究者としてイデオロギーの外側に立つとしても、そのことは、我々がその中で生きる文化の外側にいることを意味しない。
 全く逆だ。すなわち、諸イデーの歴史、とくに影響力がありかつ最も影響力をもち続けているイデーの歴史は、一定の程度で、自分たち自身の文化を自己批判する試みだ。
 私はこの書物で、Thomas Mannがナツィズムとドイツ文化との関係に向かいあって<ファウスト博士>で採用した立脚点から、マルクス主義を研究することを提案する。
 Thomas Mann は、ナツィズムはドイツ文化とは全く関係がない、そしてナツィズムはドイツ文化を恥知らずに否定して戯画化したものだ、と述べることができただろうし、そう述べる正当な資格ももっていただろう。
 彼はそう語ってよかった。だが実際には、彼はそう語らなかった。
 Thomas Mann はその代わりに、いかにしてヒトラーの運動やナツィのイデオロギーのような現象がドイツで発生したのか、そしてドイツ文化のうちの何がそれを可能にしたのか、という問題を設定した。
 彼は、こう書いた。ドイツ人は誰でも驚愕しつつ、ナツィズムの残忍さのうちに、最良の(これが重要な点だが、最良の)代表者たちが感知することのできた、グロテスクに歪曲された文化の特質を再認識するだろう、と (注1)。
 彼はまた、ナツィズムの精神的な起源に関する問題を簡単に回避してしまうことに反対し、ナツィズムはドイツ文化が生んだ何かに正当性を求める資格がない、とする説明に満足しなかった。
 Thomas Mann は、彼自身がその一部であり共作者である文化を、率直に自己批判した。
 実際に、ナツィ・イデオロギーはNietzsche を「戯画化したもの」だとする定式を語るだけでは十分ではない。戯画(caricature)の本質は、我々が原物を理解するのを助けることにあるのだから。
 ナツィスは彼らの超人たちに、<権力への意思>を読むように命じた。そして、彼らはこの本の代わりに<実践的理性批判>をも推薦することができたかのごとく、そのことは有らずもがなの偶然だった、とは言い難い。
 自明のことだが、ここで問題になっているのは、Nietzscheの「罪責(Schuld, guilt)」ではない。彼の書物が利用されたことについて個人として責任があるか否か、という問題ではない。
 だが、それでもなお、彼の著作が利用されたことは、不穏な気持ちの理由になければならならず、Nietzsche のテキストを理解するに際して、些末な偶然だとして単純に無視してしまうことはできない。
 聖パウロは個人的には、15世紀末のローマ教会や異端審問(Inquisition)について、責任はなかった。
 しかし、キリスト教徒も非キリスト教徒も、下劣な法王や司教たちの行為によってキリスト教が堕落して歪められた、という申述に満足することはできなかった。
 審問者はむしろ、犯罪や悪行だとする根拠として役立ったものを聖パウロの書簡は一切何も含んでいなかったのか否か、そして個々に見てそれはいったい何だったのか、を問うべきだっただろう。
 マルクスとマルクス主義の問題に対する我々の態度は、これと同じでなければならない。そして、この意味で、この著作での叙述は、たんに歴史的な記述をするものだけではなく、プロメテウス的人間中心主義(Humanismus, humanism)で始まり、スターリン専制の奇怪さで最高潮に達した、一つのイデーの稀有の歴史に関する省察を試みることでもある。
 -<原著、一行あけ>-
 (8) マルクス主義の年代記的叙述は、とりわけ次の理由によって錯綜している。すなわち、今日では最も重要だと考えられているマルクスの多数の文献は今世紀の20年代又は30年代またはその後でようやく印刷され、出版された。
 (例えば、<ドイツ・イデオロギー>、学位論文の<デモクリタンとエピキュリタンの自然哲学の違い>の全文、<ヘーゲル法哲学批判>、<1844年の経済哲学草稿>、<政治哲学批判綱要>。加えて、エンゲルスの<自然弁証法>も入る。)
 これらのテキストはまた、それらが執筆された時代には影響を与えることがなかった。しかし今日では、マルクス自身の精神的伝記の記述に寄与しているだけではない。それらは歴史的意味があるのみならず、それらのテキストなくしては理解することのできない教理の本質的な構成要素だという観点から、重要なものとして分析されている。
 とりわけ<資本論>に示されているマルクスのいわゆる成熟した思考は、内容的に見て、彼の青年時代の哲学的散策が自然に進展したものだったのか否か、およびどの程度にそうだったのかは、長らく議論され続けている。
 あるいはまた、若干の批判的解釈者が考えているように、それらは精神的な激変の結果であるのか否か、よってさらに、マルクスは1850年代や60年代に、主としてはヘーゲル主義と若きヘーゲル哲学に影響を受けた従前の思考や考究の様式を放棄したのか否か。
 ある者は、<資本論>の社会哲学は初期の著作物でいわば予め塑形されており、それらを発展させたもの又は詳論したものだ、とする。
 別の者は反対の見解で、資本主義社会の分析はマルクスの初期段階の夢想家的かつ規範的な修辞技法(レトリック)からの離脱を意味する、と主張する。
 これら二つの対立する見方は、マルクスの思想全体に関する異なる解釈と相互に関連している。
 (9) 私はこの著作で、哲学的人類学は年代学的にのみならず、論理的にも、マルクス主義の出発点だ、ということを前提とする。
 同時に、マルクスの哲学的思考から哲学の内容を独自の領域として切り分けるのはほとんど不可能だ、ということも意識しておかなければならない。。
 マルクスは学術分野での著作者ではなく、ルネサンスの言葉の意味での人間中心主義者だった。そして、彼の思考は人間がかかわる事象の全体を包括するものだった。このことは、社会の自由化という彼の展望が、人間が苦闘している重要な諸問題の総体に対する相関関係の中にある、ということと同様だった。
 (10) マルクス主義を三つの思考領域に分けるのが慣例になってきている。-哲学的人類学という基礎、社会主義の教理、および経済分析だ。
 そして、これらに対応させて、マルクスの教理が由来する三つの主要な源泉が注目されている。すなわち、ドイツ哲学(弁証法)、フランス社会主義思想、イギリス政治経済学。
 しかしながら、マルクス主義をこのように重要な構成部分へと画然と区別するのはマルクス自身の意図には反している、という強い主張も、広がってきている。マルクスの意図とは、人間の行動様式とその歴史に関して包括的な解釈を提示し、かつ、全体との関係でのみ個別の諸問題が意味をもち得る、そのような人間に関する包括的な理論を再構築しようとする、というものだ。
 マルクス主義の全ての構成要素の相互関連性やその内的な論理一貫性の態様をより詳しく性格づけるのは、ただ一つの文章で解答できるような容易な問題ではない。
 しかし、あたかも歴史過程の諸性質を把握しようとマルクスは実際に努めたかのように見える。その性質に関係して、認識論および経済の諸問題も、また最後に社会的理想も、初めて共通する意義をもち得る。
 すなわち、マルクスは、人間の全現象を理解可能なものするために十分に高い程度の一般性をもつ思考上の手段または認識の諸範疇を創出しようと考究した。高い程度の一般性をもつために、人間世界の全ての現象は、その助けを借りて理解できるものになる、そのようなものとして。
 これらの範疇とマルクスの思考の叙述とを彼の範疇構造に従って再構成し、マルクスの思想をそれらに合致させて提示しようと試みるのは、しかし、思想家自身の発展を無視する、という効果をもち得るだろう。そしてさらに、彼のテキストの全体が同質の、一度だけ組み立てられたブロックとして扱われてしまう危険を胚胎している。
 したがって、マルクス主義思考の展開の主要な軸を追求し、そのあとで、どのような主題が黙示的にであれこの発展の中で残存しているかという疑問を設定するのが望ましいように思われる。
 (11) この著作でのマルクス主義の歴史に関する概観では、マルクスの自立した思考の最初から考察の中心的な位置をずっとつねに占めてきたと思われる諸問題に焦点を当てことにする。
 すなわち、夢想郷論(utopianism)と歴史的運命論のディレンマを、いかにすれば回避することができるのか?
 換言すれば、想起された観念を恣意的に宣告するのでも、人間がかかわる物事が、全員が関与しているが誰も統御できない特徴なき歴史過程に従属しているという前提を諦念にみちて受容するのでもない観点を、いかにすれば明瞭にし、防衛することができるのか?
 マルクスのいわゆる歴史的決定論に関してマルクス主義者によって表明された驚くべき多様性は、20世紀のマルクス主義の動向を精確に提示し、図式化することを可能にする一つの要因だ。
 人間の意識と意思がもつ歴史過程での位置に関する問題に対する答え方は、社会主義諸観念が本来的にもつ、かつ革命と危機の理論と直接に連結する意味を少なからず明確にしている、ということも明らかだ。
 (12) しかしながら、マルクスの思考の出発空間を規定したのは、ヘーゲルから相続した資産の中に見出される哲学上の諸問題だった。
 そして、そのヘーゲルの遺産の解体は、マルクスの思考を叙述するいかなる試みも必ずそれから始めなければならない、当然の出発地点になっている。
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 (注1) vgl. Thomas Mann, "Doktor Faustus", in: Gesamte Werke, 6. Bd., Berlin-Ost 1956, S.652.
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 以上。

1846/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳①。


 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の大著の第一巻の「緒言」と内容構成(目次)の後にあり、かつ<第一章・弁証法の生成>の前に置かれている「序説」を試訳しておく。
 1978年の英語版(ハードカバー)で下訳をしたうえで、最終的には結局、1977年刊行とされている独語版(ハードカバー)によることになった。
 それは、この部分に限ってかもしれないが、ドイツ語版の方が(ポーランド語原文がそれぞれで異なるとまでは思えないが)、やや言葉数、説明が豊富であるように思われ、読解がまだ少しは容易だと感じたからだ。
 とりあえず訳してみたが、以下のとおり、難解だ。レーニンやスターリン等に関して背景事件等を叙述している、既に試訳した部分とは異なる。必ずしも、試訳者の能力によるのではないと思っている。
 それは、カント、ヘーゲル等々(ルソーもある)から始めて大半をマルクス(とエンゲルス)に関する論述で占めている第一巻の最初に、観念、イデオロギーといったものの歴史研究の姿勢または観点を示しておきたかったのだろうと、試訳者なりに想像する。事件、事実に関する叙述はない。
 なお、「イデー(Idee)」とあるのはドイツ語版であり、英語ではこれは全て「観念(idea)」だ。「イデオロギー」と訳している部分は、両者ともに同じ。一文ごとに改行し(どこまでが一文かは日本語文よりも判然としない)、段落に、原文にはない番号を付した。段落数も一つだけドイツ語版の方が多いが、この点もドイツ語版に従って番号を付けた。
 青太字化は、秋月による。「観念」(・概念・言葉)と「現実」(・経験・政治運動)の関係。
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 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 (ポーランド語1976年、独語1977年、英語1978年)
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)①。
 (1) カール・マルクスは、ドイツの哲学者だった。
 この言述に特別の意味があるようには見えない。しかし、少し厳密に考えると、一見そう思えるほどには陳腐で常識なことでない、ということが判るだろう。
 私の上の言述は、Jules Michelet を真似たものだ。彼は、イギリス史に関する講義を「諸君、イングランドは一つの島だ!」という言葉で始めた、と言われる。
 自明のことだが、イングランドは一つの島だという事実をたんに知っているのか、それとも、その事実に照らしてこの国の歴史を解釈するのか、との間には大きな違いがある。
 後者であれば、上のような単純な言述にも、特定の歴史的選択肢が含まれている。
 マルクスはドイツの哲学者だったという言述は、類似の哲学的または歴史的な選択肢をもち得る。我々がそれによって、彼の思索に関する特定の解釈が提示されている、と理解するとすれば。
 このような解釈の一つが基礎にする理解は、マルクス主義は経済的分析と政治的教義を特徴とする哲学上の構想だ、というものだ。
 このような叙述の仕方は、些細なことではないし、論争の対象にならないわけでもない。
 さらに加えて、マルクスはドイツの哲学者だったことは今日の我々には明白だとしても、半世紀前には、事情は全く異なっていた。
 第二インターナショナルの時代には、マルクス主義者の大半はマルクスを、特定の経済かつ社会理論の著者だと考えていた。そのうちの一人によれば、多様な形而上のまたは認識論上の立場を結合させる理論であり、別の者によれば、エンゲルスによって哲学的基盤は補完されており、本来のマルクス主義とはマルクスとエンゲルスの二人がそれぞれに二つまたは三つの部分から組み立てた、体系的な理論のブロックだという見解だった。
 (2) 我々はみな、マルクス主義に対する今日的関心の政治的背景をよく知っている。
すなわち、今日の共産主義の基礎にあるイデオロギー的伝統だと考えられているマルクス主義に対する関心だ。
 自らをマルクス主義者だと考えている者は、その反対者だと考えている者はもちろんだが、つぎの問題を普通のことだと見なしている。すなわち、現在の共産主義はそのイデオロギーと諸制度のいずれに関するかぎりでも、マルクスを正統に継承しているものなのか否か?
 この問題に関して最もよくなされている三つの回答は、単純化すれば、以下のとおりだ。
 ① そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、共産主義の教義は奴隷化、専制および罪悪の原因であることも証明している。
 ② そのとおり。現在の共産主義はマルクス主義を完全に具現化したもので、人類は解放と至福の希望についてそれに感謝する必要があることも証明している。
 ③ ちがう。我々が知る共産主義は、マルクスの独創的な福音的教義をひどく醜悪化したもので、マルクスの社会主義の基礎的諸前提を裏切るものだ。
 第一の回答は、伝統的な反共産主義正統派に、第二のそれは伝統的な共産主義正統派にそれぞれ由来する。第三のそれは、全ての多様な形態での批判的、修正主義的、または「開かれた」、マルクス主義者に由来する。
 (3) この私の著作の議論の出発点は、しかしながら、これら三つの考え方が回答している問題は誤って設定されており、それに回答しようとする試みには意味が全くない、というものだ。
 より正確に言えば、「どのようにすれば、現在の世界の多様な諸問題をマルクス主義に合致して解決することができるのか?」、あるいは「のちの信仰告白者たちがしたことをマルクスが見ることができれば、彼は何と言うだろうか?」、といった疑問に答えることはできない。
 これらの疑問はいずれも不毛であり、これらの一つであっても、合理的な回答の方法は存在しない。
マルクス主義は、諸疑問を解消するする詳細な方法を提示していない。それをマルクス自身も用意しなかったし、また、彼の時代には存在していなかった。
 かりにマルクスの人生が実際にそうだったよりも90年長かったとすれば、彼は、我々が思いつくことのできないやり方で、その見解を変更しなければならなっただろう。
 (4) 共産主義はマルクス主義の「裏切り」でありまたは「歪曲」だと考える者は、言ってみれば、マルクスの精神的な相続人だと思っている者の行為に対する責任から彼をある程度は免除しようと意欲している。
 同様に、16世紀や17世紀の異端派や分離主義者は本来の使命を裏切ったとローマ教会を責め立てたが、聖パウロをローマの腐敗との結びつきから切り離そうと追求した。
 ドイツ・ナツィズムのイデオロギーや実践との間の暗い関係にまみれたニーチェの名前を祓い清めようとした人々も、同様の議論をした。
 このような試みのイデオロギー的な動機は、十分に明瞭だ。しかし、これらの認識上の価値は、きわめて少ない。
 我々はつぎのことを知る十分に豊かな経験をしてきた。それは、全ての社会運動は、多様な事情によって解明されなければならないこと、それらの運動が援用し、忠実なままでいたいとするイデオロギー的源泉は、それらの形態や行動かつ思考の様式が影響を受ける要因の一つにすぎない、ということだ。
 したがって、我々は確実に、いかなる政治運動も宗教運動も、それらが聖典として承認している文献が示すそれらの運動の想定し得る「本質」を、完璧に具現化したものではない、ということを前提とすることができる。
 また我々は、これらの文献は決して無条件に可塑的な資料ではなく、一定の独自の影響を運動の様相に対して与える、ということも確実に前提にすることができる。。
 したがって、通常に生起するのは、つぎのようなことだろう。つまり、特定のイデオロギーを担う社会的勢力はそのイデオロギーよりも強力であるが、しかし同時に、ある範囲では、そのイデオロギー自体の伝統の制約に服している
 (5) 観念に関する歴史家が直面する問題は、ゆえに、社会運動の観点から、特定のイデーの「本質」をそれの実際上の「存在」と対比させることにあるのではない。
 そうではなくて、いかにして、またいかなる事情の結果として、当初のイデーは多数のかつ異なる、相互に敵対的な諸勢力の支援者として寄与することができたのか、を我々はむしろ問わなければならない。
 最初の元来のイデーのうちに、それ自体にある曖昧さのうちに、何か矛盾に充ちた性向があるのだとすれば-そしてどの段階で、どの点に?-、それがまさにのちの展開を可能にしたのか?
 全ての重要なイデーが、その影響がのちに広がり続けていくにつれて、分化と特殊化を被るのは、通常のことであり、文明の歴史での例外的現象ではない。
 かくして、現在では誰が「真正の」マルクス主義者なのかと問うのも無益だろう。なぜなら、そのような疑問は、一定のイデオロギーに関する概観的展望を見通したうえで初めての発することができるからだ。そのような概観的展望を行う前提にあるのは、正規の(kanonisch)文献は権威をもって真実を語る源泉であり、ゆえにそれを最善に解釈する者は同時に、誰のもとに真実があるかに関しても決定する、ということだ。
 現実にはしかし、多様な運動と多様なイデオロギーが、相互に対立し合っている場合ですら、それらはともにマルクスの名前を引き合いに出す「権利を付与されている」(この著が関与しないいくつかの極端なケースを除いて)、というとを承認するのを妨げるものは何もない。
 同じように、「誰が真のアリストテレス主義者か、Averroes、Thomas von Aquin か、それともPonponazziか」、あるいは「誰が真のキリスト者なのか、Calvin, Erasmus, Bellarmine、それともIgnatius von Loyolaか」といった疑問を提起するのも、非生産的だ。
 キリスト教信者にはこうした問題はきわめて重要かもしれないが、観念に関する歴史家にとっては、無意味だ。
 これに対して、Calvin, Erasmus, Bellarmine、そしてIgnatius von Loyola のような多様な人々が全く同一の源(Quelle、典拠・原典)を持ち出すことの原因になっているのはキリスト教の元来の姿のうちのいったい何なのか、という疑問の方がむしろ興味深い。
 言い換えると、つぎのとおりだ。イデーに関する歴史家はイデーを真剣に取り扱う。そして、諸イデーは諸状況に完全に従属しており、それぞれの独自の力を欠くものだとは見なさない(そうでないと、それらを研究する根拠がないだろう)。しかし、歴史家は、諸イデーが意味を変えることなく諸世代を超えて生命を保ちつづけることができる、とも考えない
 (6) マルクスのマルクス主義とマルクス主義者のマルクス主義の間の関係を論述するのは正当なことだ。しかし、それは誰が「より真正な」マルクス主義者なのか、という疑問であってはならない。
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 (7)以降の②へとつづく。

1625/知識人の新傾向②-L・コワコフスキ著17章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。
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 第2節・ロシア知識人の新傾向②。
 <観念論の諸問題>〔の1903年の刊行〕は、ロシア精神文化史上の重要な事件だった。
 その考えが特別に新しかった、からではない。そうではなく、進歩的知識人階層が19世紀の進化主義や功利主義から得た全ての知的かつ道徳的な固定観念(stereotypes)に対する、一致した攻撃だったからだ。また、人民主義(Populist)の見地からではなく、ましてや保守的な正統派のそれからでもなく、最も先端的な新カント派またはニーチェの見地から、マルクス主義を批判したからだ。
 あらゆる陰影をもつ革命主義者によって受容されていた中心観念(key concept)および『進歩的』知識人の主要な歴史哲学上のドグマが、つい最近まで少なくとも一定の範囲では自分たちの仲間だと見なしていた者たちからの、挑戦を受けた。
 無神論、合理主義、進化主義、進歩と因果関係という範疇、および『集産主義的』道徳性という前提-これら全ては、迷信に対する理性の勝利を示すものではなく、知性の貧困の兆候だ、と主張された。
 マルクス主義および社会主義の全てについて、自由や人格的価値と対立するものだとして、新しい危機が明るみにされた。全ての教理上の図式は、将来および集産的理想への自己認識のために現在を奴隷化するものだ、と主張された。
 同時に、十分には気づかれることなく、個人の絶対的価値やその発展と社会変革への願望の間の矛盾、に光が当てられた-とくに個人がニーチェ思想(lines)によって高く評価されるときに、明らかになる矛盾。
 <観念論の諸問題>をブルジョア的リベラル主義者の宣言書にすぎないと見なしたマルクス主義者は、すぐに、この新しい運動の基本要素について強調することになった。すなわち、自己中心主義または大衆の苦痛や熱望を侮蔑する<君主的人間(Herrenmensch)>の道徳性を示すものだ、と強調した。
 プレハノフとともに当時に最も熱心な伝統的マルクス主義哲学の擁護者だったリュボフ・アクセルロート(Lyubov Akselrod)は、雑誌< Zaray >に『オーソドクス』と称する筆名を用いて、新しい考え方に対する、この観点からする徹底的な批判論考を発表した。
 彼女は、レーニンは一般的にはそうでなかったが、真面目に事実にもとづくやり方で、反対する論拠を概括する能力があった。
 彼女の解答は、しかしながら、主として、神聖化された定式を反復すること、ベルジャエフ、フランクおよびブルガコフが説くごとき人格的価値のカルトは利己主義および社会的責任の解体を賞賛するものだと述べること、だった。
 彼女は、マルクス主義は宗教を抑圧や不平等の道具だとして攻撃すると繰り返し述べて、史的唯物論と哲学的唯物論の間の関連性を強調した。この点で、他の全てと同じく、プレハノフの信奉者だった。
 この問題は、マルクス主義者の中で生々しいものだった。
 マクス・ツェターバウム(Max Zetterbaum)は、<新時代(Die Neue Zeit)> に連載の論文を最近に発表して、史的唯物論はいかなる存在論(ontological)的立場をも含んでおらず、カントの先験哲学(transcendentalism)と両立するものだと主張した。
 ドイツとオーストリアのマルクス主義者に一般的だったこの見方は、プレハノフと『正統派』には当然に相容れないものだった。
 リュボフ・アクセルロートが書くように(こう表現する責任をとるが)、『機構的な見解』は、人類の歴史とともに人類出現以前の歴史を含む世界を統合的に解釈するものだ。
 進歩という合理的な想念(concept)が存在する余地はない。歴史的に進歩的なものは、何であれ社会と個人の維持に向かうものだ。
 (彼女は、この定式の複雑な問題を解きほぐそうとはしていない。)
 人間の歴史の研究と自然科学との間には、根本的な違いはない。
 社会科学は、物理学のようにのみ『客観的』であり、かつ物理学のように法則と反復しうる現象にかかわっている程度でのみ『客観的』だ。//
 このような概括および簡素化しすぎの解答は、批判された著作の執筆者たちがマルクス主義者だと公言せず、自分たちの名のもとで観念論を擁護したということで、気易いものになった。
 新しい異説に迷わされてマルクス主義の伝統を、『主観主義』傾向にもとづく、とくに認識論(epistemology)の経験批判論的な種類にもとづく社会哲学と結合させようとする社会民主主義者に対処するのは、より困難だった。//
 経験批判論をマルクス主義と融合させようとする試みは、西側でもまた(とくにヴィクトル・アドラー(Viktor Adler)の息子のフリートリヒ(Friedrich)により)なされた。だが、こうした思考方法をする哲学者の一派全体について語ることができるのはロシアについてだけだ、というのは特筆に値する。彼らは、短い間だけだが、かなり大きい影響力をもった。
 多くの西側『修正主義者』と違って、この一派は、マルクス主義は哲学的に中立で、いかなる認識論上の理論とも結合され得るということを争わなかった。しかし他方で、マルクス主義の社会理論や革命戦術と調和する哲学を採用しようと探求した。
 正統派による批判と同じように、彼らは、つぎのような世界に関する統合的な像を創り出そうと努めた。その中で、特定の哲学上の教理が他の何よりも、史的唯物論の基盤と革命理論を与えることになるような世界についての。
 この点で、彼らは、ロシアの社会民主主義者の間に広がっていた教条的(doctrinaire)な精神を共有していた。
 経験主義批判の哲学で彼らが魅惑されたのは、その科学的で反形而上学的な厳格主義であり、認識論への『活動家的(activistic)』な接近方法だった。
 この二つの特徴はいずれも、継承した哲学の『体系(systems)』についてのマルクス主義の聖像破壊主義的な態度と、ロシア社会民主党のボルシェヴィキ派がもつ革命的な志向と、十分に一致するように見えた。//
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 第2節、終わり。第3節は<経験批判論>。

1622/知識人の新傾向①-L・コワコフスキ著17章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。試訳をつづけて、第2節に移る。
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 第2節・ロシア知識人の新傾向①。
 ロシアの知識階層は、世紀の変わり目に、長い間、支配的な思想の様式だった実証主義、科学主義、および唯物論を放棄する目覚ましい傾向を見せた。
 同じ傾向は、詩歌、絵画、戯曲にある哲学や社会思想において、ヨーロッパ全体で見られた。
 最後の四半世紀の、自由に思考する典型的なロシア知識人は、つぎのように、考えた。
 科学は、社会生活および個人生活に関する全ての問題への解答を用意する。
 宗教は、無知と欺瞞により維持される迷信の集合体だ。
 生物学者の解剖メスは、神と霊魂を消滅させた。
 人間の歴史は、抗しがたく、『進歩』へと強いられている。
 専政体制、宗教およびそのような全ての抑圧に反対して進歩を支援するのは、知識人階層の任務だ。
 歴史的楽観主義、合理主義、および科学のカルト(the cult)はスペンサー(Spencer)流の進化論的実証主義の主眼で、19世紀の唯物論の伝統によって強固なものになった。
 その初期の段階でのロシア・マルクス主義は、継承した世界観のこれらの要素に誇りの場所を譲った。
 確かに、19世紀の後半はチェルニュイシェフスキー(Chernyshevsky)およびドブロリュボフ(Dobrolyubov)の時代のみならず、ドストエフスキー(Dostoevsky)やソロヴィヨフ(Solovyov)の時代でもあった。
 しかし、知識人階層の最も活力に満ちた影響力のある部分、そして人民主義者(Populist)であれマルクス主義者であれ、大多数の革命家たちは、合理主義的かつ進化主義的な公教要理(catechism)を、ツァーリ体制や教会に反対する彼らの闘いの自然な付随物だと受け容れた。//
 しかしながら、このような見方は、1900年代初めには、前世紀の科学的、楽観的および集産主義(collectivist)的な理想を拒絶するという以外に共通する特質を見分けるのが困難な、多様な知的態度へと途を譲り始めた。
 カント(A. I. Vvedensky)あるいはヘーゲル(B. N. Chicherin)の様式の講壇哲学に加えて、非講壇哲学者による新しい著作が、宗教的、人格主義(personalist)的、非科学的な雰囲気を伝えた。
 多数の西側の哲学者が翻訳された。ヴント(Wund)やヴィンデルバント(Windelband)のみならず、ニーチェ(Nietzsche)、ベルクソン(Bergson)、ジェイムズ(James)、アヴェナリウス(Avenarius)、マッハ(Mach)、そして自己中心的無政府主義者のマックス・スティルナー(Max Stirner)とともに、フッサール(Husserl)ですら。
 詩歌の世界では象徴主義や『退廃』が花盛りで、ロシア文学は、メレジュコフスキー(Merezhkovsky)、ジナイダ・ギピウス(Zinaida Gippius)、ブロク(Blok)、ブリュソフ(Bryusov)、ブーニン(Bunin)、ヴャチェスラフ・イワノフ(Vyacheslav)およびビェリー(Byely)といった名前で豊かになった。。
 宗教、神秘主義、東方カルトおよび秘術信仰主義(occultism)は、ほとんど一般的になった。
 ソロヴィヨフ(Solovyov)の宗教哲学は、再生した。
 悲観主義、悪魔主義、終末論的予言、神秘や形而上的深さの探求、奇想天外嗜好、色情主義、心理学および自己分析-これら全てが一つの現代的な文化へと融合した。
 メレジュコフスキーは、ベルジャエフフ(Berdyaev)やロザノフ(Rozanov)とともに、性に関する隠喩で思い耽った。
 N・ミンスキー(Minsky)はニーチェを絶賛し、宗教的な詩歌を書き、そしてボルシェヴィキに協力した。
 元マルクス主義者は、彼らの祖であるキリスト教信仰へと戻った。宗教への関心を反啓蒙主義や政治的反動と同一視していた世代が、科学的無神論を純真で頑固な楽観主義の象徴だと見なす世代に、途を譲った。//
 1903年に、小論文を集めた、<観念論の諸問題(Problems of Idealism)>が出現した。執筆者の多くは、かつてマルクス主義者だったが、マルクス主義と唯物論を、道徳的虚無主義、人格軽視、決定主義、社会を作り上げる個人を無視する社会的価値の狂信的な追求だと、非難した。
 彼らはまた、マルクス主義を、進歩を崇拝しており、将来のために現在を犠牲にしていると攻撃した。
 ベルジャエフは、倫理的な制度は唯物論者の世界観にもとづいては設定することができない、倫理はカント的なあるものとあるべきものの区別を前提にしているのだから、と主張した。
 道徳規範は経験から演繹することができず、ゆえに経験科学は倫理に対して有用ではない。
 この規範が有効であるためには、経験の世界以外に、そうであることを知覚できる世界が存在しなければならない。その有効性はまた、人の自由な、『本態(noumeal)』的性質を前提とする。  
 かくして、道徳意識は自由、神の存在および霊魂の不滅性を前提とする。
 実証主義や功利主義(utilitarianism)は、価値に関する絶対的な規準を人に与えることができない。
 ブルガコフ(Bulgakov)は、唯物論と実証主義を、形而上の謎を解くことができない、世界と人間存在を偶然の働きだと見なす、自由を否定する、道徳価値に関する規準を提供しない、という理由で攻撃した。
 世界とそこでの人間存在は、神の和合への忠誠に照らしてのみ、知覚することができる。そして、社会への関与は、宗教上の義務の意識に他ならないものにもとづいてこそ行うことができる。
 我々の行為が聖なるものとの関係によって意味を持つときにのみ、我々は、真の自己認識と、至高の人の価値である人格の統合とについて語ることができる。//
 <観念論の諸問題>のほとんどは、つぎのことで合意していた。すなわち、法規範または道徳規範の有効性は、非経験的世界を前提とするということ。そして、人格は本来固有の絶対的価値であるがゆえに、自己認識は社会からの要求の犠牲になってはならないということ。
 ノヴゴロツェフ(Novgorodtsev)は、<先験的にある>正義の規範に法が基礎づけられる必要性を強調した。
 ストルーヴェ(Struve)は、世界的な水平化や人格の差違の除去という意味での平等性という理想を批判した。
 執筆者のほとんど、とくにS・L・フランク(Frank)は、彼ら人格主義者(personalist)の見方を支持するために、ニーチェを援用した。その際にニーチェの哲学を検討して、それは道徳的功利主義、幸福追求主義、奴隷道徳を批判している、かつ『大衆の福祉』のために人格的な創造性を犠牲にすることを批判している、とした。
 ストルーヴェ、ベルジャエフ、フランクおよびアスコルドフ(Askoldov)は全てが、ニーチェが社会主義を凡人の哲学であり群衆の価値だとして攻撃していることを支援して宣伝した。
 全ての者が社会主義の理想を、抽象観念としての人(Man)のために人格的価値を抑圧することを企図するものだと見なした。
 全ての者は、歴史的法則や、<先験的な>道徳規範の恩恵のない経験上の歴史に由来する進歩の規準について、懐疑的だった。そして、社会主義のうちに、人格に対して暴威を奮う、抽象的な『集産的な(collectiv)』価値への可能性を見た。//
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 ②へとつづく。

1475/ムッソリーニとレーニン①-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源①。
 第一次大戦前の著名な社会主義者の中で、ムッソリーニほどレーニンに似ている人物はいない。
 レーニンのように、ムッソリーニは、自国の社会主義政党の反修正主義派を率いた。
 レーニンのように彼は、労働者は生まれながらに革命的なのではなく、知識人エリートによって革命的行動へと突つかれなければならない、と考えた。
 しかし、ムッソリーニの考えにはより適した環境の中で仕事をした間、添え木となる党を形成する必要が彼にはなかった。
 少数党派の指導者だったレーニンは分離しなければならなかったが、一方のムッソリーニは、イタリア社会党(PSI)の多数派を獲得して、改良主義者を排除した。
 1914年にムッソリーニの戦争に関する考え方の転回が起こらなかったならば、彼は十分に、イタリアのレーニンになっているかもしれなかった。彼は、連合国側へのイタリアの参戦に賛成することを明らかにして、イタリア社会党から除名されたのだった。
 社会主義歴史家は、ムッソリーニの初期の伝記にあるこのような事実を恥ずかしく感じて、それらを抑えて公表しなかったか、社会主義との一時的な戯れとして叙述した。その戯れをした人物の知性の師は、マルクスではなく、ニーチェとソレルだとされた。(*)
 しかしながら、このような主張は、つぎの事実と一致させることが困難だ。すなわち、イタリアの社会主義者たちは、十分に将来のファシズム指導者について考慮して、1912年に党機関である新聞 <前へ!(Avanti !)>の編集長に指名した、ということだ。(14)
 社会主義との一時的なロマンスとは全く違って、ムッソリーニは熱烈に社会主義に傾倒していた。
 1914年の10月まで、いくつかの点では初期の1920年まで、労働者階級の性質、党の構造と活動、社会主義革命の戦略に関する彼の考え方は、レーニンのそれに著しく似ていた。//
 ムッソリーニは、無政府主義的サンディカリストとマルクス主義者の信条をもつ、貧しい伝統工芸家の息子として、イタリアの最も過激な地方であるロマーニャ地方で生まれた。
 父親は彼に、人間は二つの階級に、被搾取者と搾取者とに分けられる、と教えた。(これは社会主義指導者としてムッソリーニが用いた定式だった。『世界には二つの祖国がある。被搾取者の国と搾取者の国だ』。-sfruttatiと sfruttatori。)(15)
 ムッソリーニはボルシェヴィズムの創設者と比べれば低層の出自で、その過激主義はより多くプロレタリアの性質を帯びていた。
 彼は理論家ではなく、戦術家だった。暴力の重要視とともに無政府主義とマルクス主義の混合物である彼の知識人エリート主義は、ロシアの社会主義革命党のイデオロギーと似ていた。
 19歳のときの1902年に、ムッソリーニはスイスに移り、一時雇い労働者として働き、余暇には勉強して、きわめて貧乏な二年間をすごした。(*)
 彼はこの期間に、過激派知識人と交際した。
 確実ではないけれども、ムッソリーニがレーニンと会った、ということはありうる。(++)
 この期間に頻繁にムッソリーニを見たアンジェリカ・バラバノッフによれば、彼は虚栄心をもち自己中心的で、異様な興奮をしがちだった。また、その過激主義は、貧困と金持ちへの憎悪に根ざしていた。(16)
 この時期にムッソリーニは、長く続く改良主義者や進化論的社会主義に対する敵意を形成していった。
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  (+) ソレル(Sorel)はムッソリーニに対して大きな影響を与えたというのは、反ファシスト文献上の長く続く神話だ。彼の影響は小さく一時的なものであることを、証拠資料は示す。以下を見よ。Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938), p.228. ;エルンスト・ノルテ(Ernst Nolte), ファシズムとその時代 (1963), p.203。
 ムッソリーニの暴力カルトは、ソレルではなくて、マルクスに由来する。ソレルはたまたま、1919年9月に、レーニンへの賛辞を書いた(「レーニンのために」in :暴力に関する考察, 10版, (1946), p.437-54.〔仏語〕)。
 ソレルはそこで、「マルクス以後の社会主義の偉大な理論家であるとともにその天才ぶりはピエール大帝のそれを想起させる」ムッソリーニの知的発展に自分が寄与した、というのが、噂になっているように本当であれば、きわめて誇らしい、と書いた。
  (14) ムッソリーニの初期の社会主義やレーニンのボルシェヴィズムへの親近感についてきちんと取り扱った書物の中に、以下がある。Renzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965) ;Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938)。A. James Gregor のつぎの二つ, 若きムッソリーニとファシズムの知的淵源 (1979), ファシストの政治信念 (1974)。および、Domenico Settenbrini の二つの論文, 「ムッソリーニとレーニン」in :George R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.146-178, 「ムッソリーニと革命的社会主義の遺産」in :George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.91-123。
  (15) ベニート・ムッソリーニ, オペラ・オムニア (1952), p.137。   
  (*) この移動は、徴兵を避けたい気持ちからだったと、ふつうは説明されている。しかし、James Gregor は、ムッソリーニは1904年にイタリアに戻ってきて翌二年間を軍役ですごしたので、原因とはなりえなかった、と指摘した。James Gregor, 若きムッソリーニとファシズムの知的起源 (1979), p.37。
  (++) Benzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965), p.35n は、この遭遇はあった、と考えている。
 ムッソリーニはレーニン(「ロシア移民は絶えず名前を変えていた」)と会ったか否かの質問に決して明確には答えなかったが、一度、謎めかしてつぎのように語った。『私が彼〔レーニン〕を知っているのより遙かに多く、彼は私について知っていた』、と。
 彼はいずれにせよ、この期間に、翻訳されたレーニンの著作物のいくつかを読んだ。そして、『レーニンに捕まった』と言った。Palazzo Venezia, ある体制の歴史 (1950), p.360。
  (16) アンジェリカ・バラバノッフ(Angelica Balabanoff), 反逆者としてのわが人生 (1938), p.44-52。
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 ②につづく。

1430/西尾幹二全集第15巻(国書刊行会、2016)。

 西尾幹二全集第15巻(2016)の内容のほとんどは「わたしの昭和史」で(全集では「少年記」)、二冊の新潮選書(1998)で読んだことがある。
 いつか忘れたが読んだあとは、こんな記憶力とそれを呼び覚ます資料は自分にはない、したがって自分には書けない、という思いと同時に、1935年生まれの、私のいう<特殊な世代>、あるいは国民学校・小国民世代の人物が、よくぞ「左翼(的)」にならなかったものだ、という感想が生じた。
 もしあらためて読めば何かのヒントがあったのかもしれず、著者がこの問題に触れているのかもしれないが、読み返す余裕はたぶんない。
 1960年の時点、著者がちょうど25歳の頃に「左翼」でなかったことは上記単行本のp.505でも記述されている。
 すなわち、同年に樺美智子が死亡したのちの東京大学での演説会で日本社会党国会議員が「虐殺」うんぬんを述べていたとき、「私〔西尾幹二〕があれは虐殺ではない、圧死だと口走った」とある。
 このあと「口走ったとたん、巨漢の柏原〔柏原兵三、のち芥川賞作家-秋月〕の大きな掌が私の口をふさいだ」、彼は「私が殺されるのを恐れたからだった」、と続いて、生々しい。
 ともあれ、「虐殺抗議」のプラカートを先頭に掲げたデモの写真を見たこともあり、当時の各大学での(樺美智子もその一員だったが)「左翼」的雰囲気を想像することもできる。だが、西尾は明らかに「左翼」ではなかったようだ(なお、同じ文学部の同期入学生に、大江健三郎がいたはずだ)。
 そして、それはなぜ ?、いかにして<保守>論客に ?という感想が生じるが、それは全集をよくよく読み込めば判るのかもしれない。
 ところで、上の柏原某も出てくる文章はこの全集版で初めて読んだのではない。だが、示されている月刊正論1995年2月号で読んだのでもないとも記憶していて、やや不思議だ。
 この上の文章は<少年記>とは別の「付録/もう一つの青春」の一部で、私は上の部分のみを憶えていたかに見えるが、今回に(といっても昨2016年の刊行直後に)読んで印象に残ったのは、一つに、大学院学生の西尾は、当然ではあるのだろうが、研究の対象等の自らの将来に思い悩んでいた、ということだ。
 「私は相変わらず何を書くべきなのか、あるいは何が書けるのかも分らず、学校と自宅の間を往復し、文学と思想の広大な海を漂流していた」。(余計だが、「美しい」文章だ。p.504)
 もう一つは、大学院に進学したのちの「指導教官」を、当時にすでに故人ではあるものの、氏名を明示して、「私はその思想、研究業績を軽蔑していた」と明記していることだ。この「指導教官」は「日本の典型的な『進歩派』文学者」だったらしい。
 それで西尾は「ニーチェを師として選んだ」ようだ。
 さて、個々の人間の人生にはいろいろな偶然的な出逢いがあるものだ。西尾幹二にとっても、若き学生時代のいくつかの偶然はのちのちの西尾幹二が生まれる原因の一つだったことには違いなく、「指定された」という「指導教官」もまた、その一つだっただろう。
 さらに発展させれば、西尾は拒否したようだが、「指導教官」が日本共産党の党員学者だったり、明確な親共産党の者だったりすれば(そんなことは大学院の学生レベルでは通常はあらかじめ判っているものではないだろう)、西尾のように実質的に離れれば別として、その「指導」を受ける学生は、どのような学者・研究者に育っていくのだろうか、と想像して、暗然とする。
 そういう特定の教師・学生の特殊な「身分関係」は-それは学生にとって「就職」という生活・生存にかかわる-、今日まで、容共・「左翼」的な人文社会系学者・研究者たち(大学教授たち)の誕生に、大きく寄与してきたのではないか、と推測される。
 -と、かなり西尾の全集それ自体からは離れたことまで書いてしまった。

1384/試訳-共産主義とファシズム・「敵対的近接」03。

  F・フュレ=E・ノルテ・<敵対的近接>-20世紀の共産主義(=コミュニズム)とファシズム/交換書簡(1998)の試訳03
 Francoir Furet=Ernst Nolte, "Feindliche Naehe " Kommunismus und Faschismus im 20. Jahrhundert - Ein Briefwechsel(Herbig, Muenchen, 1998)の「試訳」の3回目。
 この往復書簡には、英語版もある。Francoir Furet = Ernst Nolte, Fascism & Communism (Uni. of Nebraska Press、2004/Katherine Golsan 英訳)だ。
 この英語訳書は計8通の二人の書簡を収載している点ではドイツ語版と同じだが、Tzvetan Todorovによる序言(「英語版へのPreface」)および雑誌Commentaire編集者によるはしがき(Foreword)が付いていること、および「ノルテのファシズム解釈について」と題するフュレの文章が第1節にあること(したがって、書簡を含めて第9節までの数字が振られている)で異なる。但し、この第1節のフュレの文章は、フュレの大著〔幻想の終わり-〕の中のノルテに関する「長い注釈」の前に1頁余りを追加したものだ。雑誌編集者による上記は、フュレの突然の死についても触れている。
 また、英語訳書には、ドイツ語版とは違って、各節に表題と中見出しがある。
 番号数字すらなく素っ気ないドイツ語版と比べて分かりやすいとは言えるが、そうした表題をつけて手紙は書かれたわけではないと思われるので、ドイツ語版のシンプルさも捨て難い。だが、せっかくの表題、中見出しなので、以下では、その部分だけは英語版から和訳しておく。
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p.17-p.25.
 イデオロギーの障壁を超えて
 エルンスト・ノルテ <第一信> 1996年02月20日  
 敬愛する同僚氏へ
 貴方の著書、Le passe d'une illusion につい若干の感想をお伝えしたい。ピエール・ノラの申し出により雑誌 Debate で述べた意見よりも個人的で、かつ詳細ではありませんが。
 この本のことを、私はほぼ一年前にフランクフルト・アルゲマイネ新聞の記事で知りました。その記事は貴著の意義を述べているほか、貴方が私の本に論及していた195-6頁の長い注釈にもはっきりと言及していました。ふつうの〔健康〕状態であれば、もっと早く気づいていたでしょう。 
 私は貴方の本のすべてを、一行、一行と、強い関心と、さらには魅惑される愉しみとともに、読みました。
 貴方の本は二つの障害または妨害から自由だ、とすぐに分かりました。
 この障害または妨害によって、ドイツの〔歴史家の〕20世紀に関するすべての考察は狭い空間に閉じ込められており、個々には優れた業績はあっても無力です。
 ドイツではこの20世紀に関する考察は、最初からもっぱら国家社会主義に向けられました。また、その破滅的な結末は明白でしたので、思索の代わりをしたのは、「妄想」、「ドイツの特別の途」あるいは「犯罪国民」のごとき公式的言辞でした。
 ドイツの歴史を概観する、二つの思考方法がありました。
 一つは、全体主義理論です。これは、1960年代半ば以降、すべての「進歩主義者」にとっては旧くなっているか、あるいは冷戦を闘うための手段だと考えられました。
 もう一つは、マルクス主義思考方法です。これの結論は、第三帝国は、偉大でかつそのゆえに罪責ある全体のたんなる一部だ、例えば西洋帝国主義あるいは資本主義的世界市場経済の一部だ、というものでした。
 ドイツとフランスの左翼
ドイツの左翼は、彼ら自身の歴史についての一義的に明白な観点を持ちませんでした。その歴史自体が一義的ではなかったのですから。ナポレオン・フランスに対する自由主義戦争は「反動的な」動機を持ったとされ、1848年の革命は「挫折」でしたから、彼らが何らの留保を付けることなく自らを一体化できるような事象は存在しなかったのです。
 ドイツ左翼の小さな一派のみは、ロシア革命と自らを一体化したでしょう。大部分の左翼は、つまり多数派の社会民主主義者は、実際にも理論的にも〔ロシア革命を〕ドイツへと拡張する試みに断固として反対しました。
 左翼内部の狂熱と忠誠心を定量化できるとすれば、ドイツ共産党は十分に過半に達していたでしょう。なぜなら、社会民主主義者は、いわば「拙劣な社会主義者の確信」でもって共産主義者と闘い、国家社会主義者が大きな敗北を喫した1932年10月の選挙においてすら、ドイツ共産党は選挙のたびに勢力を増大させていたドイツでの唯一の政党でした。
 しかし、1970年代の初期のネオ・マルクス主義においてすら、1932-33年での共産主義者の勝利は可能だったと考えたり、社会民主主義者を「裏切り者」と非難したりする見解は、さほど多数ではありませんでした。
 反対意見もありましたが、まさにこのような見解が、「右派」反共産主義のテーゼ、すなわち、共産主義は現実的危険であり、「そのゆえにこそ」国家社会主義は多数派を獲得したのだ、というテーゼだったのです。
 だが、1945年以降にボンで再興された「ヴァイマール民主主義」の諸大政党にとっても、このような見解は誤りでありかつ危険であると思えたに違いありません。なぜなら、その見解は「ボルシェヴィズムからドイツを救う」という国家社会主義のテーゼときわめて似ていましたので。また、アメリカ合衆国との同盟によって「全体主義的スターリニズム」や東ベルリンにいるそのドイツ人支持者による攻撃を排斥する、というつもりでしたので。
 全体主義理論はたしかに、「全体的」反共産主義と区別される「民主主義的」反共産主義を際立たせる逃げ道を示しました。
 しかし、全体主義理論が優勢だった時期は長くは続かず、のちには右から左まで、かつ出版界から学界まで、ほとんど全ての発言者はつぎの点で一致しました。
 すなわち、注目のすべてを国家社会主義(ナツィス)に集中させなければならない。「スターリニズム」については副次的に言及するので足り、かつ決して「国際共産主義運動」について語ってはならない。
 まさにこの点にこそ、私が先に語った二つの「障壁」があったのです。
 貴方は著書において、「共産主義という理想」から出発し、それに今世紀の最大のイデオロギー的現実を見ています。急速に実際上の外交政策にとって重要になったロシアに限定しないで、フランスでもかつそこでこそ多くの知識人を熱狂させた「10月革命の普遍的な魅力(charme universal d'Octobre)」を語っています。
 貴方がそれをできるのは、ドイツの相手方[私=ノルテ]とは違って、フランス左翼の出身だからです。フランスの左翼は、つねに参照される大きな事象、すなわちフランス革命を国民の歴史としてもっています。フランスの左翼はさらに、ロシア革命を徹底したものおよび相応したものと理解することができ、つねに熱狂的に同一視することなく、ロシア革命に、何らのやましさなく少なくとも共感を覚えることができるからです。
 したがって、つぎのことは全くの偶然ではありませんでした。社会党のほとんどが1920年のトゥールズでの党大会で第三インターナショナルに移行したこと、Aulard やMathies のようなフランス革命についての著名な歴史家がこの世界運動に共感を示し、支持者にすらなったこと。
 貴方が特記している他の人たち、 Pierre Pascal、Boris Souvarine、あるいはGeorge Lukas のような人たちもまた、狂信者であり確信者でした。そして、貴方自身も明らかに、この熱狂に対する関心と共感を否定していません。
 歴史の現実はたしかに、Pierre Pascal、Boris Souvarine およびその他の多くの人々の信仰を打ち砕きました。貴方自身もこの離宗の流れに従っています。しかし、距離を置いたにもかかわらず、貴方は依然として、20世紀の基礎的な政治事象を、ロシア10月革命およびその世界中への拡張に見ています。
 貴方はこの拡張を検証し、それが多様な現実との格闘に消耗して内的な力を喪失し、ついには最初からユートピアたる性格をもつもの、つまり「幻想」であったことが今や決定的になるまでを、追跡しています。
 私から見ると重要でなくはないさらなる一歩を、貴方は進みました。
 今世紀の基礎的事象が結局は幻想だったことが判明してしまったとすれば、それが惹起した好戦的な反応は全く理解できませんし、完全に歴史的な正当性を欠いたものでしょう。また、「犯罪にすぎないものとしてのみ今世紀のもう一つの魅惑的な力」を認識するのは、共産主義者の見解の不当な残滓でなければなりません。
 「今世紀のもう一つの大きな神話」、すなわちファシズムという神話をこのように評価することによって、貴方はフランスですら多くの異論に出くわすでしょう。今日のドイツでは、すぐに「人でなし」になってしまうでしょう。
 しかしながら、私の意見では、貴方は完全に正しい。共産主義思想とファシズムという抵抗思想の対立は、1917年から1989-91年までの今世紀の歴史の「唯一の」内容だった、そして「その」ファシズムは、歴史的現実と共産主義運動の現実とを決定した雑多な差違や前提条件を無視して言えば、一種のプラトン思想だと考えられるべきだ、という貴方の考察を、誰も合理的には疑問視することができないのですから。
 私は貴方とは全く別の途を通って、先の二つの「障壁」を乗り越え、イデオロギーの世界内戦という(概略はずっと以前にあった)考え方に辿り着きました。
 若きムッソリーニ、彼の社会主義思想に対するマルクスやニーチェの影響に偶然の事情によって遭遇していなかったならば、国家社会主義やその「ドイツ的根源」に集中する思考は、私にも付着したままだったでしょう。
 そのゆえにこそ、「ファシズム」は私の1963年の本の対象になりえたのであり、反マルクス主義の好戦的な形態だとする一般的なファシズムの規定や、「過激なファシズム」だとする国家社会主義の特殊な定義は、私がそれ以降に思考し記述したすべてのものを潜在的に含んでいます。
 貴方の出発点である「共産主義思想」は、私には長い間顕在化していない背景のようなものでした。しかし、その状況は、1983年の「マルクス主義と産業革命」によって初めて、1987年の「1917-1945の欧州内戦」でもって顕著に、変わりました。
 全体主義の発生学的・歴史的範型
 そうして我々は、私に誤解がなければ、異なる出発点と異なる途を経て、同じ考え方に到達しています。それは、全体主義理論の歴史・発生学的範型(Version)と私が名づけたもので、ハンナ・アレントやカール・F・フリートリヒの政治・構造的範型とは、マルクス主義・共産主義理論と区別されるのとほとんど同じように区別されます。
 我々の間にはきわめて重大な違いがあるかのように見える可能性があります。貴方は上記の注釈で、私が解釈をおし進めすぎてヒトラーの「反ユダヤ人パラノイア」に「一種の理性的な根拠」を与えたのは遺憾だ、と書いています。
 つぎのことを貴方に強調する必要はないでしょう。すなわち、「ユダヤ人問題の最終解決」としてなされた大量虐殺の個別事象に、ドイツ人〔の歴史家〕が国家社会主義に集中した重大な理由があります。
 歴史において個別性は「絶対性」ではなく、そのように論じられてはならないことに、貴方もきっと同意するでしょう。
 付記します。個別の大量犯罪は、それに理性的で理解可能な根拠を与えうるということでもって悪質でなくなったり非難すべきものでなくなったりはしません。むしろ、逆です。
 貴方は1978年の論文でフランス左翼によるほとんど素朴なシオニズムの解釈を批判し、現象の本質はユダヤ人のメシア主義〔救世主信仰〕と分離されるべきではないと述べた、ということを思い出して下さい。貴方は引用記号を用いていません。そして、当然に、「ロシア的」とか「シーア派メシア主義的」とかと述べることができることをよく知っているにもかかわらず、そのような用語法を正当なものと見なしています。
 「ユダヤ人のメシア主義」なるもの自体への言及なくして、またアドルフ・ヒトラーや少なくはない彼の支持者たちが作り上げた観念にもとづいては、「最終解決」なるものも、-「了解できる(verstaendlich)」とは異なる意味で-理解できる(verstehbar)ものにはならない、と考えます。
 したがって、我々の間にある差違は除去できないものではない、と思います。むろん、引用された、フランスに出自をもつドイツの作家、テオドア・フォンターニュの言葉によれば、「広い畑」があります。
 適切な方法で耕すためには、多くの言葉と熟慮が必要でしょう。
 推測するに、ドイツでは、私が貴方の書物の出版について祝辞を述べると言えば、蔑視されるか、あるいは犯罪視すらされるでしょう。だが、貴方の国は、予断や神経過敏症の程度が、私の国よりも大きくない、と信じます。
  エルンスト・ノルテ
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0434/佐伯啓思・<現代文明論・下>(PHP新書)における「世論」。

 佐伯啓思・<現代文明論・下>-20世紀とは何だったのか・「西欧近代」の帰結(PHP新書、2004)をp.149(第五章の途中)くらいまで読んだ(半分を超えた)。
 第二章はニーチェ、第三章はハイデガー、第四章はファシズム、第五章は「大衆社会」が主テーマ。論旨は連続して展開していっているが、省略。
 前回書いたことにかかわり、「大衆社会」における、又は大衆民主主義のもとでの「世論」なるものを佐伯が次のように表現・説明しているので書き記しておく。
 「世論」とは「国民の意思」=「民意」と言い換えてもよいだろう。昨年の参院選後に<ミンイ、ミンイ>と叫んでいた者たちに読んで貰いたい。佐伯の本を聖典の如く扱っているわけでは全くないが。
 ①「世論」は、「人々の個性的な判断や討議の結果というよりも、もともとはひとつの情報源から発したものが多量に複製された結果というべきもの」(p.140-1)。
 ②「世論」は、「人々のさまざまな独自の意見の結集ではなく、人々がお互いに相手を模倣しているうちに、ひとつの平均的な意見に収斂してしまったものにすぎない」(追-「発信源になるものは多くの場合、新聞やラジオといったメディアでしょう」)(p.145)。
 ③「世論」は、「人間がある集団のなかで、その集団に合わせるために、その集団の平均的見方で物事を考えているだけだ」(p.148)。
 以上。なお、佐伯は、これらを現代日本を念頭に置いて書いてはいない。20世紀に入って生成した「大衆社会」(大衆民主主義)の時代における「世論」について一般論として(欧米の議論を参照しつつ)書いている。だが、むろん、現代日本もまた「大衆民主主義社会」だ。

0425/佐伯啓思・人間は進歩してきたのか(PHP新書、2003)全読了。

 このサイトに参加して以来一年が経過した。
 昨夜、佐伯啓思・人間は進歩してきたのか-「西欧近代」再考(PHP新書、2003)を最後まで一気に読了。面白かった。(前夜読んだ範囲内では)ウェーバー、フロイト、フーコー、ニーチェ等を登場させてこのように「西欧近代」という「物語」(p.265)を「描き出」せる人は日本にはなかなか存在しないのではないか。
 部分的にでも引用したい文章は多くありすぎる。別の機会におりに触れて、適当に使ってみよう。
 ニーチェ死去のちょうど1900年辺りを区切りにしているためか、ロシア革命への言及はない。この本の続編にあたる同・20世紀とは何だったのか-「西欧近代」の帰結<現代文明論・下>(PHP新書、2004)の目次を見たかぎりでも、ロシア革命への論及は少ない。
 それにマルクスらの『共産党宣言』は1848年刊だから、「西欧近代」再考の前著でマルクス主義・社会主義(「空想的社会主義」も場合によっては含めて)叙述してもよかった筈だが、言及がいっさいない。
 このことは、佐伯がマルクス主義を<相手にしていない>、マルクス主義に<関心自体をよせていない>(つまり、これらに値するものとは考えていない)ということを意味するのだろうか。
 この点、マルクス主義やロシア革命との関係で各思想家(哲学者)を位置づけていたと見られる中川八洋とは異なるようだ。
 だが、マルクス主義(→ロシア革命)もまた「西欧近代」の所産(それが「鬼殆」・「鬼子」であろうとも)だとすれば、少しは言及があってもよかったように思える。このブログ欄が、明確に反コミュニズム(共産主義>日本共産党)を謳っている(つもり)だからかもしれないが。
 さて、次は上記の<現代文明論・下>にしようか。中途で停止中の佐伯・隠された思考(筑摩)にしようか。それとも、しばらく忘れている阪本昌成・法の支配(勁草)にしようか。自由な時間が欲しい。

0413/佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社)を読みつぎ、樋口陽一の本も。

 佐伯啓思・現代日本のイデオロギー(講談社、1998)の内容の一部に今年の1/12と1/30に言及していて、自らの記載を辿ってみると、言及部分は、後者ではp.95以下、前者ではp.181以下と明記されていた。その後しばらく放念していたが、先週に思い出して、第Ⅱ章のp.260まで読了(あと40頁で最後)。p.70までの序章は読了しているか不明だが、少なくとも半分には読んだ形跡がある(傍線を付している)。
 同・自由とは何か(講談社現代新書)と同様にやはり面白い。読書停止?中の同・隠された思考(筑摩、1985)よりも読み易く、問題意識がより現実関係的だ。但し、筆者は隠された思考の方に、時間と思索をより大きく傾注しただろう。
 紹介したい文章(主張、分析、指摘等々)は多すぎる。
 p.212以下は第Ⅱ章の3・「『歴史の終わり』への懐疑」で、F・フクシマのソ連崩壊による「歴史の終わり」論を批判して、そこでの「歴史」とはヨーロッパ近代の「リベラル・デモクラシー」のことで、それは20世紀末にではなく「実際には19世紀で終わっていた」(p.219)と佐伯が主張しているのが目を惹いた。
 その論旨の紹介は厭うが、その前の2・「進歩主義の崩壊」からの叙述も含めて、意味は理解できる。
 一部引用する。①欧州思想界の主流派?の「進歩主義」(→戦後日本の「進歩的」知識人)に対して、19世紀のーチェ、キルケゴール、ドストエフスキー、20世紀のベルグソン、シュペングラー、ホイジンガー、オルテガ、ハイデッガーらは「近代を特権化しようとする啓蒙以来のヨーロッパ思想、合理と理性への強い信頼に支えられたヨーロッパ思想がもはやたちゆかないというペシミズムの中で思想を繰り広げ」た。「もはや進歩などという観念は維持できるものではなくなっていた」(p.219~220)。
 ②「歴史の進歩の観念」=「個人の自由と民主主義からなる近代市民社会を無条件で肯定する思考」は「実際には…二十世紀には神通力を失っていた」。「近代、進歩、市民社会、といった一連の歴史的観念は、一度は破産している」(p.222-223)。
 これらのあと、(戦後)日本の<進歩主義>又は「進歩的」知識人に対する<批判>らしきものがある。
 ③欧州の「進歩」観念を「安易」に日本に「置き換えた」ため、「進歩の意味は、…検証されたり、…論議の対象となることなく、進歩派という特権的知識人集団の知的影響力の中に回収されてしまった」。「進歩は、…進歩的知識人の頭の中にあるとされた。彼らが進歩だとするものが進歩なのであり、これは多くの場合、ヨーロッパ思想の中から適当に切り取られたもの」だった(p.224)。
 ④「普遍的理念としての進歩の観念(近代社会、市民社会、自由、民主主義、個人主義、人権など)は、戦後のわが国では、ただ進歩派知識人という社会集団の頭を占拠したにすぎない」(p.225)。
 このあとの展開は省略。
 「進歩的知識人の頭の中」だけ、というのはやや誇張と思われる。「進歩的知識人の頭の中」だけならいいが、書物や教育を通じて、「進歩的知識人」が撒き散らす概念や論理は<空気の如く>日本を支配してきたし、現在でもなお有力なままではないか、と思われるからだ(この旨を佐伯自身もこの本か別の著に書いていた筈だ)。
 但し、別の所(p.200)で「大塚久雄、丸山真男、川島武宜」の三人で代表させている戦後日本の<進歩的>知識人たちが、欧州<近代>を丸ごと、歴史的・総合的に<学んだ>のではなく、ルソー、ケルゼンらの<主流派>の思想、現実ないし制度へと採用されたことが多かったような「通説的」?思想のみを「適当に」摘み食いしてきた(そして日本に<輸入>してきた)という指摘はおそらく適切だろうと思われる。
 上の本に併行して、樋口陽一・「日本国憲法」まっとうに議論するために(みすず書房、2006)を先週に読み始め、2/3以上になるp.114まで一気に読んだ(最後まであと40頁)。とくにむつかしくはない。「まっとうな」憲法論議の役にどれほど立つのかという疑問はあるが、いろいろと思考はし、問題設定もしている(但し、本の長さ・性格のためかほとんど具体的な回答は示されていない)ということは分かる。
 <個人主義>(個人の尊重)との関係で佐伯と樋口の両者の本に同じ回に言及したことがあった。
 上で<ヨーロッパ近代>や「進歩的知識人」に関する佐伯の叙述の一部を引用した動機の一つは、次の樋口の、上の本の冒頭の文章を読んだからでもある。
 <自己決定原則は「自分は自分自身でありたい」との「人間像」を前提に成立していたはず。実際には、「教会やお寺」・「地元の有力者」・「世間の風向き」などの他の「だれかに決めてもらった」方が「気楽だ」という人の方が「多かったでしょう」。しかし、「そんなことではいけない」というのが「近代という社会のあり方を準備した啓蒙思想以来の、約束ごとだったはず」だ。この「約束ごと」に対する「公然とした挑戦が…思想の世界でも」説かれはじめた、「『近代を疑う』という傾向」だ。>(p.10)。
 樋口陽一は丸山真男らの先代「進歩的知識人」たちを嗣ぐ、重要な「進歩的知識人」なのだろう。上の文のように、「近代」の「約束ごと」を墨守すべきことを説き、「『近代を疑う』という傾向」に批判的に言及している。
 樋口のいう「近代」とは<ヨーロッパ近代>であり、かつ欧州ですら-佐伯啓思によると-19世紀末には激しい批判にさらされていたものだ。樋口はまるで人類に「普遍的な」<進歩的>思想の如く見なしている。
 樋口に限らず多数の憲法学者もきっと同様なのだろう。特定の<考え方>への「思い込み」があり、特定の<考え方>に「取り憑かれて」いる気がする。
 日本国憲法がそのルーツを<ヨーロッパ近代>に持ち、「人類」に普遍的な旨の宣明(前文、97条)もあるとあっては憲法学者としてはやむをえないことなのかもしれない。しかし、憲法学者だから日本国憲法が示している(とされる)価値をそのまま<自分自身のものにする>必要は全くなく、むしろそれは学問的態度とは言えないのではないか。憲法学者は、日本国憲法自体を<客観的に・歴史的に>把握すべきではないのか。<よりよい憲法を>という発想あるいは研究態度が殆どないかに見える多くの憲法学者たちは、やはり少しおかしいのではないか。
 筆が滑りかけたが、単純に上の二著のみで比較できないにせよ、参照・言及している外国の思想家等の数は樋口よりも佐伯啓思の方がはるかに多く、思索はより深い。憲法規範学に特有の問題があるかもしれないことについては別の機会に(も)触れる。

0376/佐伯啓思・イデオロギー/脱イデオロギー(岩波、1995)の序言より。

 佐伯啓思・イデオロギー/脱イデオロギー1995.11)は「21世紀問題群ブックス」5巻として岩波書店から刊行されている。
 佐伯46歳の年の本だが、岩波は、あるいは企画者・編集者は、佐伯啓思が2007年に産経「正論大賞」を受賞するような執筆者(研究者)だとその<思想傾向>を理解していたならば、佐伯を執筆者には選ばなかったように思える。
 偏見の可能性を一切否定はしないが、岩波は(そして朝日新聞も)そのような(「思想」傾向による)「パージ」くらいは平気でやっている出版社(新聞社)だと思っている。
 上の本の計200頁のうちp.60くらいまでしか読んでいないのだが、「はじめに」のp.2-p.4にこんな文章がある。やや印象的なので、メモしておく。
 「事実を評価する」ために不可欠な「理念」は「思想とか、観念、そうしたものをゆわえたりほどいたりする思索」によって作られるが、「思索をするなどという手間のかかることを軽蔑し、思想という重苦しいおまけに青臭い主観に縁取られたものを排除してきたのが、この二〇ほどのわれわれの同時代であった」。その結果、「われわれは、ただ事実の前にひざを屈し、とまどうだけ」だ。ニーチェは「人間は評価する動物だ」と述べたが、現代人は「人間をやめようとしているのかもしれない」。
 「思想はイデオロギーと地続き」で、社会主義・共産主義という「イデオロギーから解放」されたわれわれは「イデオロギーの時代は終わった」と「晴れ晴れと」言いたくなるやもしれぬが、それにしても現代を「マーケット・エコノミーとリベラル・デモクラシー」〔市場経済と自由・民主主義〕の時代というだけでは「心情に響かないし」、「この言葉で指し示される現実」の方に「問題が多すぎる」。
 「イデオロギーの終焉」でなく「イデオロギーの衰弱」の方が現代に似つかわしい。それが「思想や人間の思索の習慣そのもの」を「脆弱でつかの間のもの」にしていくとしたら、「やはり危険な事態と言わざるをえない」。
 以上。現在の日本の政治は、あるいは<生活>重視うんぬんと恥ずかし気もなく主張している各政党は、あるいは現在の日本国民の大多数は、「思索」し「思想」をもち、不健全ではない明確な<イデオロギー>をもっているだろうか、それをめぐる議論を真摯にしているだろうか。そうでないとすれば、上の佐伯の十数年前の文章は2008年にもあてはまっていて、日本は依然として「危険な事態」にあるだろう。
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