一 池田信夫の昨秋あたり以降のブログマガジンは、興味深いまたは刺激的な内容が多かった。
逐一の言及はしていない。Richard Dawkins の書物を使った又は基礎にした<利己的遺伝子>や<文化的遺伝子>等を扱っていた頃に比べて、むしろinnovate され、verbessern されていると思われるので、感心している。
大きな流れからすると些末な主題だが、つぎの論定はそのとおりだと感じた。
「リベラルアーツは、インターネットでも学べる陳腐化した知識にすぎない。
実験や研究設備の必要な理系の一部を別にすると、現在の多メディア環境で『大学』という入れ物でしかできないことはほとんどない。」
池田信夫ブログマガジン/2023年12月11日号—「近代システムの中枢としての大学の終焉」。
「別にすると」をそのまま生かして、最後の「ほとんどない」は「ない」でもよいと思える。
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だが、今の日本で「大学」信仰はまだ強く残っているようだ。
なぜか。どうすれば、打開できるか。これが、問題だ。
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残っている理由の大きな一つは、戦前・戦後と基本的には連続するところのある日本の「学校教育」制度、「大学」制度によってそこそこに、あるいはそれなりに「利益を受けてきた」と意識的・無意識的に感じている者たちが、今の日本の諸「改革」論議を支えているからだ、と考えられる。
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二 さて、適菜収、早稲田大学第一文学部卒。この適菜収を月刊誌デビューさせたと見られる元月刊正論編集代表・桑原聡、早稲田大学第一文学部卒。この桑原聡は同編集代表としての最後の文章の中で、「天皇をいただく国のありようを何より尊い」と感じる旨書いた。だが、一貫しているのかどうか、産経新聞社退職後は母校・早稲田大学で非常勤として「村上春樹」について講じているらしい。
そして、西尾幹二、東京大学文学部「ドイツ文学」科卒。「哲学」科卒ですらない。
ほんの例示にすぎないが、この人たちが何となく?身につけた「リベラルアーツ」は日本にとって、日本社会と日本国民のために、必要だったのか。
しかし、「実験や研究設備の必要」でない、文学部の中での「文学」や「哲学」の専攻者と彼らの前提として必要な肝心の「文学」・「哲学」の大学教員は、何も「研究」していなくとも、当面は存在し続けるのだろう。
おかしい、とは思う。だが、「おかしい」ことでも「現実」であり続ける。
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逐一の言及はしていない。Richard Dawkins の書物を使った又は基礎にした<利己的遺伝子>や<文化的遺伝子>等を扱っていた頃に比べて、むしろinnovate され、verbessern されていると思われるので、感心している。
大きな流れからすると些末な主題だが、つぎの論定はそのとおりだと感じた。
「リベラルアーツは、インターネットでも学べる陳腐化した知識にすぎない。
実験や研究設備の必要な理系の一部を別にすると、現在の多メディア環境で『大学』という入れ物でしかできないことはほとんどない。」
池田信夫ブログマガジン/2023年12月11日号—「近代システムの中枢としての大学の終焉」。
「別にすると」をそのまま生かして、最後の「ほとんどない」は「ない」でもよいと思える。
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だが、今の日本で「大学」信仰はまだ強く残っているようだ。
なぜか。どうすれば、打開できるか。これが、問題だ。
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残っている理由の大きな一つは、戦前・戦後と基本的には連続するところのある日本の「学校教育」制度、「大学」制度によってそこそこに、あるいはそれなりに「利益を受けてきた」と意識的・無意識的に感じている者たちが、今の日本の諸「改革」論議を支えているからだ、と考えられる。
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二 さて、適菜収、早稲田大学第一文学部卒。この適菜収を月刊誌デビューさせたと見られる元月刊正論編集代表・桑原聡、早稲田大学第一文学部卒。この桑原聡は同編集代表としての最後の文章の中で、「天皇をいただく国のありようを何より尊い」と感じる旨書いた。だが、一貫しているのかどうか、産経新聞社退職後は母校・早稲田大学で非常勤として「村上春樹」について講じているらしい。
そして、西尾幹二、東京大学文学部「ドイツ文学」科卒。「哲学」科卒ですらない。
ほんの例示にすぎないが、この人たちが何となく?身につけた「リベラルアーツ」は日本にとって、日本社会と日本国民のために、必要だったのか。
しかし、「実験や研究設備の必要」でない、文学部の中での「文学」や「哲学」の専攻者と彼らの前提として必要な肝心の「文学」・「哲学」の大学教員は、何も「研究」していなくとも、当面は存在し続けるのだろう。
おかしい、とは思う。だが、「おかしい」ことでも「現実」であり続ける。
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