秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ニーチェ

2703/池田信夫のブログ031—大学・リベラルアーツ。

 一 池田信夫の昨秋あたり以降のブログマガジンは、興味深いまたは刺激的な内容が多かった。
 逐一の言及はしていない。Richard Dawkins の書物を使った又は基礎にした<利己的遺伝子>や<文化的遺伝子>等を扱っていた頃に比べて、むしろinnovate され、verbessern されていると思われるので、感心している。
 大きな流れからすると些末な主題だが、つぎの論定はそのとおりだと感じた。
 「リベラルアーツは、インターネットでも学べる陳腐化した知識にすぎない。
 実験や研究設備の必要な理系の一部を別にすると、現在の多メディア環境で『大学』という入れ物でしかできないことはほとんどない。」
 池田信夫ブログマガジン/2023年12月11日号—「近代システムの中枢としての大学の終焉」
 「別にすると」をそのまま生かして、最後の「ほとんどない」は「ない」でもよいと思える。
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 だが、今の日本で「大学」信仰はまだ強く残っているようだ。
 なぜか。どうすれば、打開できるか。これが、問題だ。
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 残っている理由の大きな一つは、戦前・戦後と基本的には連続するところのある日本の「学校教育」制度、「大学」制度によってそこそこに、あるいはそれなりに「利益を受けてきた」と意識的・無意識的に感じている者たちが、今の日本の諸「改革」論議を支えているからだ、と考えられる。
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  さて、適菜収、早稲田大学第一文学部卒。この適菜収を月刊誌デビューさせたと見られる元月刊正論編集代表・桑原聡、早稲田大学第一文学部卒。この桑原聡は同編集代表としての最後の文章の中で、「天皇をいただく国のありようを何より尊い」と感じる旨書いた。だが、一貫しているのかどうか、産経新聞社退職後は母校・早稲田大学で非常勤として「村上春樹」について講じているらしい。
 そして、西尾幹二、東京大学文学部「ドイツ文学」科卒。「哲学」科卒ですらない。
 ほんの例示にすぎないが、この人たちが何となく?身につけた「リベラルアーツ」は日本にとって、日本社会と日本国民のために、必要だったのか。
 しかし、「実験や研究設備の必要」でない、文学部の中での「文学」や「哲学」の専攻者と彼らの前提として必要な肝心の「文学」・「哲学」の大学教員は、何も「研究」していなくとも、当面は存在し続けるのだろう。
 おかしい、とは思う。だが、「おかしい」ことでも「現実」であり続ける。
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2621/B. ローゼンタール・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編第7章第一節①。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。  
 「第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927」の「序」の試訳を昨年12月に終えている。
 つづく第三編のいわば「本文」はつぎの二つの章で成っている。
 第7章・神話の具体化—新しいカルト・新しい人間・新しい道徳。
 第8章・新しい様式・新しい言語・新しい政治。
 前者の第7章は、つぎのように構成されている。
 序、第一節・レーニン崇拝(カルト)第二節・新しいソヴィエト人間第三節・プロレタリア道徳
 以上のうち、第7章の序と第一節だけ試訳し、その余の部分、および第8章全体は、さしあたり割愛する。
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 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
 第7章・神話の具体化—新しいカルト・新しい人間・新しい道徳。
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 序。
 ボルシェヴィキは、十月革命と内戦を単一の「叙事詩的出来事」として描いた。それを彼らは神話化し、人類史上の重要性があるものと考えた。
 地獄は過去のもので、貧困と抑圧の支配もそうだった。
 地上の天国はまだ将来のものだったが、創造されつつあった。
 新しい人間も、創造されつつあった。だが、その性質については争いがあった。
 提示されたモデルには、ニーチェ的特徴(traits)があった。—その特徴がそのモデルに依拠していた。
 新しいプロレタリア道徳は社会主義を目ざす仮借なさ、激しい労働、闘争を、そしてまた、「ブルジョア」的慰安と便宜に対する侮蔑心を要求した。
 レーニン個人崇拝(the Lenin Cult)は、ボルシェヴィキの神話に対して、「闘う英雄」、新しい儀礼、寺院—レーニンの霊廟—を与えた。(注1) //
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 第一節・レーニン・カルト(the Lenin Cult)①。
 (01) (レーニン暗殺が企てられた)1918年のその始まりから、レーニン死後の綿密な努力と体系化へと至るレーニン個人崇拝の物語は、Nina Tumarkin によって書かれている。ここで繰り返すつもりはない。(注2)
 その聖典となったものはよく知られており、その機能についても同様だ。すなわち、レーニンは死んだが、その教条は生きている、との意図を打ち込むことによって、レーニンの正統な後継者としての党の周りに大衆を結集させること。
 私のここでの目的は、そのニーチェ的根源を明らかにすることだ。ニーチェ的根源の中には、聖典と混じり合っているものがある。
 レーニン個人崇拝は、ボルシェヴィキの神話創造における新しい段階を画した。
 一つには、神の建設にはアポロ的聖像、キリスト教的意味での偶像(icon)が欠けていた。
 そして、レーニンの人格像(persona)が、この隙間を埋めた。//
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 (02) レーニンに超人を演じさせることで、彼に関するあらゆる種類の誇張が成立した。
 レニングラード・ソヴェトの副議長だったGrigory Evdokimov は、賛辞の中でこう書いた。
 「世界の最も偉大な天才が逝った。
 思想、意思、仕事の巨人が死んだ。
 数億万の労働者、農民、植民地奴隷たちが、力強い指導者の死を哀悼している。 
 その墓場から、レーニンは、その完全な姿でもって、世界の前に立ちあがる。」(注3)
 検死作業は、あたかもレーニンの超人間的な地位を明白に証明しているがごとくに、彼の巨大な脳について報告した。
 Lunacharsky の言葉では、「共産主義世界の聖人、…その創造者、その闘士、その殉難者は…、過度の、超人間的な、膨大な仕事でもってその巨大な脳を破壊した」。
 我々はレーニンのうちに、「大文字のMan を見た」(Gorky の1903年の小論の引用)。
 彼へと「熱線と光線が集中している」。(注4)
 レーニンは、共産主義普遍世界の太陽だった。//
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 (03) 葬礼は、劇場化された儀式だった。
 スターリンの賛辞にある正教に類似の調子には、馴染みのある礼拝の形態でのボルシェヴィキ神話の雰囲気があった。
 別の挨拶の中で、スターリンは、のちには彼のものとされた資質(謙虚さ、論理力)がレーニンにあったと述べた(SW,6,p.54-56)。
 葬礼およびその直後の代表者だったジノヴィエフは、「レーニンの天才性」が「翼をもって」彼自身の葬礼の上を飛んでいる、と語った。
 さらに、「レーニンの思想に激励された一般庶民は、我々と一緒にこの葬礼を即時に催した」と、言った。(注5)
 言い換えると、葬礼は、集団的創造性の産物だった。
 同様の儀式が、国土全体で繰り広げられた。
 トロツキーは葬礼に欠席したが、レーニンに関する彼の論文はしばしば、のちのもっと従順な世代による聖人の伝記の語調に近いものだった。(注6)//
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 (04) Gorkyが書き、外国で出版されたレーニンへの賛辞は、まるで「神は死んだ」と発表するかのごとく、「ウラジミール・レーニンは死んだ」で始まっていた。
 Gorky は、レーニンをこう叙述した。
 「自分で実践に移すことを以前の誰も考えなかった目標に向かって闘う意思をもつ、驚くほど完璧な化身。
 そしてそれ以上に、彼は私には正義の人間の、怪物的人間の、伝説的人間の一人だった。またロシアの歴史で予期されれなかったほどに、ピョートル大帝、Mikhail Lomonosov、レフ・トルストイ等のような意思と才能の人間の一人だった。…
 レーニンは私にとって、伝説上の英雄であり、我々の時代の恥ずべき混沌から、汚辱の『国家主義』の腐朽した血まみれの沼地から民衆が脱する方途を、灯りで照らすために、燃えさかる心で胸を張り裂いている人物だった。」(注7)/
 Gorky は、「老女Izergel」(1895年)での「燃えさかる心」や「沼地」という隠喩を用いていた。これは、彼のロシアでの超人探索の始まりを画する短い小説だった。
 ピョートル大帝は、(20世紀での)ニーチェ的像型だと広く考えられていた。そして、ある範囲の人々によっては、怪物だと。
 Gorky は、レーニンを「怪物」と称することによって、ニーチェがナポレオンを「非人間と超人の統合体」(GM,54)と称したように、レーニンをナポレオンと結びつけていた。
 Gorky の全集では(GSS,17,5-46)、Gorky がレーニンの残虐さを正当化するものとして、「怪物」の語は削除された。
 「レーニンのもとで、おそらくは(Wat·)Tyler、Thomas Müntzer、Garibaldi のもとで以上の多くの人々が殺された。…
 だが、レーニンへの抵抗は、より広くかつより力強く組織されていた。」
 また、レーニンのつぎの釈明も削除された。
 「我々の世代は、歴史的重要性で仰天させるほどの任務を達成した。
 状況によって迫られた我々の残虐さは、理解され、許容されるだろう。
 全てが理解されるだろう。全てだ!」(注8)
 Gorky の無条件の英雄崇拝は、1917-18年の彼の立場(第6章を見よ)からする、彼方からの叫びだった。また、1920年に書いてレーニンを「勇者がもつ聖なる狂気」の模範者だと称賛した論考ですらそうだった。
 勇者の中で、「ウラジミール・レーニンは、第一の人物であり、かつ最も狂気の人物だ」。(注9)
 レーニンはこれを、褒め言葉だとは見なさなかった。//
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 (05) Mayakovsky は、不死の超人/キリストを暗示する言葉を用いて、レーニンを「人間の中で最大の人物」と称賛した。それは彼の長い詩「ウラジミール・イリイチ・レーニン」(1924年)の中でだった。
 「レーニンは、生者以上に生きている」、「レーニンは—生きた。レーニンは—生きている。レーニンは—生きつづけるだろう」という行の部分は、レーニン教(カルト)のマントラ(呪文)になった。
 三連の構成は、「キリストは死んだ、キリストは起きた、キリストは再び現れるだろう」という礼拝文を反映していた。 
 Mayakovsky はこの詩を、ロシア共産党に捧げた。党とレーニンは「双生児」だったからだ。
 「我々が一つを語るとき、別のもう一つを意味させている」。(注10)
 Mayakovsky は同じ詩で、未来主義者の激しい言葉遣いに集団主義の調子を加えた。
 「個人主義者に憐憫を!/団結して爆砕を!/党でもって叩け!/労働者たちは一つの大きな拳に溶け合った。」(p.272)
 党は「百万の指をもつ拳で/一つの巨大な拳で、握られる。/個人—無意味だ。/個人—虚無だ。」(p.283)
 Mayakovsky は、かつて小さな酒神礼賛的合唱でそうしたように、莫大な人民大衆を導こうとした。
 レーニン・カルトは、完璧な目標地点だった。
 アヴァン・ギャルドの雑誌「Lef」は、ある号の全体をレーニンの言葉で埋めた(第8章を見よ)。//
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 ②へとつづく。

2620/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編序⑥。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.180-。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
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 第四節②。
 (05) Dmitry Furmanov の小説の〈Chapaev〉(1923年)、内戦期の伝説的農民指揮官に関する彼の「日記」では、「意識」(アポロ)は政治行政官(小説上のKlychkov、現実のFurmanov)でもって象徴された。
 Chapaev は、Klychkovによって、「抗いがたく自然発生的なもの全てを、…農民層のあいだに鬱積していた忿懣や不信の全てを、意味させている」。
 「だが、この自然発生的要素がどのように発現するかは、悪魔には分かっている」。
 そうしてKlychkov は、「[Chapaev を]知性的な感覚の虜にして、…啓発する」ことを決意する」。(注20)
 Furmanov は、本当は神話創造(ニーチェの曖昧な考え方のもう一つ)であるものに客観的な報告だとの印象を与えるために、その「日記」に事実と虚偽とを混ぜ合わせた。
 彼は、ボルシェヴィキの行政官の反神話(countermyth)を創り出すために、Chapaev から神話の要素を除去した。//
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 (06) 西側の芸術と思考は、ニーチェの思想のためのもう一つの導管だった。
 政治的および文化的な結びつきは、ソヴィエト同盟を最初に承認した国家であるワイマール・ドイツとのあいだにとくに密接だった。
 表現主義(expressionism)、ニーチェが染み込んだ美学運動は、その影響力が頂点にあった。(注21)
 戦争、革命(1918-19年)、そして経済の崩壊によって政治化したドイツの表現主義には、ソヴィエトの未来主義と多くの共通性があった。
 劇作家のBertolt Brecht(1898-1956)とSergei Tretiakov(1892-1939)の二人は、親友関係と職業的関心で結びついていた。
 Meyerhold は、都市的な扇動的見せ物として、Ernst Toller の〈大衆的人間〉(Masse Mensch)を上演した。その際に、群衆の場面や彼がソヴィエトの観衆にふさわしいと考えたその他の場面を付け加えた。
 ソヴィエトの素人劇場のTRAM の監督たちは、ドイツの監督であるErwin Piscator(1896-1966)やMax Reinhardt(1873-1943)と接触した。
 Lissitzky(Lazar Markovich, 1891-1941)とニーチェの影響を受けた建築家のBruno Taut(1880-1938)は親友だった。
 1921-23年に帰国したエミグレたちは、最新のヨーロッパ思想に馴染んでいた。 
 政治的および文化的な結びつきは、ソヴィエト同盟を承認した第二の国家であるファシスト・イタリアとも密接だった。
 イタリアの文化エリートたちの中には、ニーチェに影響された者もいた。
 Jack London(ニーチェアンかつマルクス主義者だと思い出す)は、きわめて著名だった。
 ロシア人たちは容易に、凍った北部での彼の英雄たちの経験に共感することができた。//
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 (07) Oswald Spengler の〈西洋の没落〉(1922年に〈Zakat Evropy〉(ヨーロッパの衰退)としてロシア語に翻訳された)は、ゲーテ/ニーチェ的原型を発展させた。 
 Spengler は「ファウスト的文化」は「意思の文化」だと、「アポロ的文化」は「古典的文化」だと叙述した。—時代が両者を分かつ。
 Spengler の書物はソヴィエト同盟では発禁となったけれども、ソヴィエトの新聞にはこれに関する記事が掲載され、その内容はロシア語版が出版される前に知識人層に知られていた。 
 Berdiaev とFrank は(ロシアから追放される前に)、〈Oswald Spengler とヨーロッパの衰退〉と題するシンポジウムの開催に寄与した。この会合に対して、Bazarov その他のマルクス主義者たちは、〈Red Virgin Soil(Krasnaia nov')—マルクス主義の旗のもとに〉や〈プレスと革命〉(Pechat' i revoliutsiia)で反応した。//
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 (08) Spengler はボルシェヴィキ革命をディオニュソス的激変と解釈し、将来の神話がロシアで生まれるだろうと予言した。
 「この田舎びた人々が切望しているのは、自分たち自身の生活様式、宗教、歴史だ。
 トルストイのキリスト教は、誤解だった。
 彼はキリストについて語って、マルクスを意味させていた。
 だが、つぎの一千年はトルストイのキリスト教のものになるだろう。」(注22) 
 Spengler の予言は革命についてのボルシェヴィキの想定像と矛盾していたけれども、「腐りつつあるヨーロッパ」に対峙する彼らの自信を強め、自分たちは新しい文明を建設しているのだという確信を強固にした。
 彼らは自分たちを初期のキリスト教信者たちに喩え、ヒトラーが権力を掌握するまでは、決まって「一千年の支配」という語句を用いて、自分たちの支配は一千年続くだろう、と予言した。(注23)//
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 (09) こうした全ての導管を通じてソヴィエト社会に入り込んだニーチェ思想の累積的な効果は、甚大だった。
 ニーチェ思想は、党エリートたちを「文化」の重要性に敏感にさせた。また、人間の改造、階級にもとづく残虐な道徳性、ボルシェヴィキの神話創造、レーニン崇拝へと結実したカルトへの意思、といった途方もない望みを促進するのを助けた。
 新しい美学理論へと体現化されて、ニーチェ思想は、新しい芸術様式と言葉上の実験を触発した。
 新しい理論は最初から政治的なものだった。あるいは、対抗諸集団が国家に支援される文化を目指して争っていたので、政治化されるものになった。
 つぎの二つの章では、ネップ期におけるニーチェの影響を全般的に扱うことはしない。
 全体を叙述すれば、別の一冊の書物が必要になるだろう。
 繰り返すが、この書物では、スターリン主義の一部となったニーチェ思想だけを対象とする。//
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 第三編の序、終わり。
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 試訳者追記。
 最後に出てきているOswald Spengler の著には、つぎの邦訳書がある。
 O·シュペングラー・西洋の没落/第一巻・第二巻(村松正俊訳、1989、五月書房)。
 原題、Der Untergang des Abendlandes。ゲーテ/ニーチェを継承・発展させたと自認しているらしいが、例えば第一巻第五章II<仏教、ストア主義、社会主義>の中には、ニーチェについての、批判的とみえる言及が多くある。若干の例を以下に引用する。
 「ニーチェ哲学の様式、響き、態度は、ニーチェのなかにある時代遅れのロマン主義者が決定したものである。それ以外においてはニーチェはあらゆる点で、数十年にわたる唯物論の弟子となっていた。
 ニーチェをショーペンハウエルに熱情的に引きつけたものは、ショーペンハウエルが大様式の形而上学を破壊し、その師カントを心ならずも戯画化したその学説中の要素であり、バロックのあらゆる深い概念を、具体的なもの、機械的なものに変じたことである。」(上掲第一巻訳書、p.340)
 「ニーチェとヴァーグナーとの決裂のなかに潜んでいるものは、ニーチェのその師の変更であり、ショーペンハウエルからダーウィンへ、同一世界感情の形而上学的法式化からその生理学的法式化へ、ショーペンハウエルとダーウィンとともに承認した相(すなわち生きんとする意志は生存競争と同一である)の否定から肯定への、無意識な一歩である。」(同、p.342)
 「ニーチェは自分でもそうとは知らないで、社会主義者でもあった。彼の本能は、その標語に反して、社会主義的で、実際的であって、ゲーテとカントの夢にさえも考えなかったところの『人類の救済』に向けられたものである。」(同、p.342)
 なお、より広い全体的視点からの、以下もある。
 →松岡正剛の千夜千冊・2005/04/13

2619/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編序⑤。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.179-。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
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 第四節①。
 (01) ニーチェの思想は、いくつかの導管を通ってNEP 文化に入った。
 Lunacharsky、トロツキー、ブハーリン、Kerzhentsev、およびIaroslavsky (1918年に左翼共産主義者の一人)は、自分たちの文化戦略のためにニーチェを利用した。
 啓蒙人民委員としてのLunacharsky の権力は、1920-21年に減少した。だがなおも、重要ではあった。
 Gorky が執筆したものは広く知られたままで、彼はソヴィエトの仲間たちとの交際を維持した。
 Mayakovsky の詩の朗読は、多数の聴衆を引き寄せた。
 新しい美学理論の支持者は、ニーチェ主義の要素をもつ前革命期の「isms(主義)」に反応し、お互いにも反応し合った。まだ残っているニーチェ的課題(Nietzschean agenda)の諸問題を新たに解決しようとしていたので。
 1917年以降に成人になった世代にとっては、ニーチェを読んでいる者、ニーチェ思想を間接的または間々接的に知っている者、広まっているニーチェ思想をたんに取り上げているにすぎない者が誰々なのか、を知るのは困難だった。
 ニーチェの書物は人民図書館から排除されていたが、全ての図書館からではなかった。そして個人的に所持されていた本は、手渡しされた。
 新しい、または再発行されたニーチェに関する書物は、私的事業者によって出版されていた。//
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 (02) 文学は、ニーチェ思想の主要な導管だった。
 Merezhkovsky の歴史小説、Artybashev の〈Sanin〉、Verbitskaia の〈幸福への鍵〉は新しい世代の読者を魅了した。
 Merezhkovsky の〈Peter とAleksis〉は、1919年に映画化された。
 Verbitskaia の〈幸福への鍵〉の映画版(1913年)は1920年代半ばに再発表され、大人気を博した。
 表象主義は、若い文筆家に有益な影響を与え、夢想的神話学に対する刺激となった。(注14)
 労働者劇場で生まれていた風刺文は、表象主義の著作から文章を具体化したものだった。
 Ilia Ehrenderg の小説〈Julio Jurenito〉(1922年)の主人公は、大まかにはツァラトゥストラ(Zarathustra)をモデルにしており、Merezhkovsky やBerdiav に倣ってモデル化された登場人物もいた。
 作家のIury Olesha(1899-1960)は、超人、重力に勝つ飛行士、張綱上の歩行者を描いた(Z, p.41,43,48)。(注15)
 歴史小説家たちは、Stenka Razin その他のコサック指導者たちを、合唱団にとどまりつつそこからはみ出し、そして言ってみれば、理性よりも本能に導かれているような、非個人的な神話的人物として叙述した。
 酔っ払いの大騒ぎや指導者と大衆の間の合唱に似た対話の情景は、反乱がディオニュソス的性格を持つことを強調した。
 Stenka Razin は、未来主義者の詩人のKamensky が好んで取り上げた主題だった。//
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 (03) 初期のソヴィエトの作家たちが好んだ主題である内戦は、動物的行動、残虐性、非道徳主義を強調する、俗悪なニーチェ的、またはニーチェ・ダーウィン的接近方法に適応したものだった。
 Boris Pilniaks の〈引き剥れた年〉(1922年、1919年刊)の中の一人物は、「強者だけを生き延びさせよ、…人間性と倫理感をもつ悪魔(devil)だけを」と宣言する。
 Isaac Babel の〈赤い騎兵隊〉は、ニーチェ的意味を読みとる文芸批評家たちに対して、力の美しさを提示した。Babel は権力に関して曖昧で、留保なしで権力を称賛することはやめたけれども。(注16)
 その書物はひどく残酷な情景を、例えば、養豚者が過去の悪事に復讐するために以前の主人の顔を踏みつける場面を、含んでいた。
 Vsevolod Ivanov の〈装甲列車 14-19〉(1922年)は、ソヴィエトの古典になった。
 当時の人々は彼を「革命+Gorky」だと見なし、Gorky はIvanov の「自然(elemental)の人間」の描写を支持した。
 Ivanov を称賛すべく使われた言葉—「愉快な」、「活力のある」かつ「新しい創造的エネルギー」—は、著者と批評者を結びつけるニーチェ的糸筋を示唆していた。
 Ivanov はニーチェの主要作品の全てを読んでおり、それらの書物のほとんどを所持していた。(注17)
 少ししか名を挙げないが、Iury Libedinsky の〈一週〉(1923年)、Ilia Selvinsky の〈鉄の氾濫〉(1924年)のようなその他の内戦小説は、(ディオニュソス的)動乱または鉄の男、またはこれら両者を描いた。//
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 (04) Katherina Clark は、自然発生性と意識性の弁証法はソヴィエトの小説にある「大筋」の構造的焦点だと見る。(注18)
 この弁証法は、アポロ的なものととディオニュソス的なものとしても叙述することができる。レーニンにおける対極性がこれらに対応しているがゆえにだけではなく。
 「アポロ的」と「ディオニュソス的」は語彙の中にきちんとした位置を占め、新しい出版物はこれらに関してソヴィエトの読者たちに説明した。
 Evgeny Braudo は〈ニーチェ、哲学者と音楽家〉(1922年)で、ニーチェの「悲劇」はニーチェの科学的関心(アポロ)とその芸術的霊魂(ディオニュソス)を均衡させようとした過ちだった、と書いた。そして、苦痛を甘受するディオニュソスの能力を強調した。これは、長く苦しんでいるロシアの民衆の最近の試練を婉曲に指摘していた。(注19)
 このBraudo の書物は、何回も再版された。
 Evreinov (芸術監督)はその書物の〈アザゼルとディオニュソス〉(Azazel i Dionis、1924年)で、ディオニュソスをイエスと微妙に関連づけた。悲劇はユダヤ人の間から生まれた、ディオニュソスはユダヤ出自だ、と論じることによって。
 Veresaev は〈アポロとディオニュソス〉で、ディオニュソスを悲観主義や頽廃主義と同一視し、彼自身の「生きる人生」(Dostoevsky の言葉)の哲学を発展させた。 
 Veresaev は、表象主義者とニーチェはアポロについて忘却したとし、「かくして我々は死ぬ」と主張した。ホメロスはギリシャ文化の頂点を代表しており、それはアポロによって象徴化されている、と。//
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 序・第四節①、終わり。

2617/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編序④。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.177-8。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927
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 第三節。
 (01) 既述の状況だったにもかかわらず、NEP はソヴィエト文化の黄金時代だった。
 包括的な文化政策を党がもっていなかったために、ソヴィエトのアヴァン-ギャルドを世界的に有名にした諸実験の余地が生まれた。
 NEP 文化の特徴は、機能的合理性と、強いプロメテウス主義の構成要素としての千年紀的狂熱の共存だった。
 後者は、叛乱、神との闘い、科学と技術による自然の克服、および「〈nous〉(知性または意識)による現実の支配」をその意味に含んでいた。(注11)
 マルクス主義に内在するプロメテウス主義は、ニーチェ主義、Federova 主義、神秘(オカルト)思想と接合した(Soloviev はボルシェヴィキ的な意味での十分なプロメテウス主義者でなかった)。
 広報宣伝者たちは、魔術や宗教への崇拝を、科学技術がもつ驚異作動力への崇拝に転換させようとした。
 科学の周縁にある準オカルト理論の支持者である宇宙主義者たち(cosmists)は、死の廃棄、宇宙旅行、何でも行なうことができる不死の超人を心に夢見た。(注12)
 心理学の支配的学派は、反射論とフロイト主義だった。
 Ivan Pavlov(1849-1936)は、条件反射を強調した。一方で、Vladimir Bekhterev(1857-1927) は、連想的反射を強く主張した。
 Bekhterev はとくに、「心理感染」(psychic contagion)と社会生活における示唆(suggestion)(〈unushenie〉)の役割に関心をもった。
 トロツキーは、説明し難い霊魂やプシュケー(psyche)にではなく肉体的欲求を基礎にしているとの理由で、フロイト理論は一種の唯物論だと考えた。
 多数のフロイト主義者はニーチェに関心をもってきていたし、おそらく依然としてそうだった。(注13)
 私は思うのだが、フロイトは彼らに、(ディオニュソス的)無意識や「権力への意思」に関する「科学的」議論という外装を与えた。//
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 (02) ソヴィエト・マルクス主義は、まだ完成するほどに編纂されてはいなかった、
 知識人たちは、マルクス主義を広範囲の諸々の問題や論点に適用した。その際に、関係があると見なした、ニーチェのものを含む非マルクス主義の諸思想も利用した。
 全体として言えば、知識人たちは、破壊よりも建設を、狂喜よりも理性を、芸術よりも科学や技術を、熱情よりは神経生理学的または精神心理学的な感情を重視した。そして、「社会主義の建設」のために必要な特質—自己紀律、目的志向性、純粋性—を、付加すれば、もちろん党意識を、高く評価した。
 このような方向づけの中には、ニーチェのAppolo 的利用も含まれていた。
 芸術は社会を「組織」し、「階級意思」を強化する、というBogdanov の基本的主張は、当然のこととされていた。
 彼の〈赤い星〉(1907年)は、1918年、1922年、1928年に再出版された。
 〈技術者Menni〉(1912年)は、少なくとも7回の再版となった。
 〈Tektology〉は、技術者、専門家たちに、そしてアヴァン-ギャルドに対して特別の訴求力があった。
 革命前のように、個々人はニーチェ思想やその普及者たちの考え方のこうした側面を取り上げた(または再作動させた)。その諸側面は、重要なまたは有用なものとして強い印象を彼らに与え、残りの部分は無視させた。
 ——
 序の第四節へとつづく。

2616/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002)第三編序③。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
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 第二節②。
 (07) 他の積極的手段には、LEF(芸術の左翼戦線、avan-garde 連合)、VAPP(全ロシア・プロレタリア作家同盟)のような組織やこれらが刊行する雑誌に対する資金援助があった。
 Agitprop の長は1924年に、党が考える様式に添って書かれた、そして「広範な大衆に社会主義の精神についてイデオロギー教育をする」のに適した文学を擁護した。
 党は関連する動きとして、ボルシェヴィキの英雄たちと、革命前の探偵物語の英雄的主人公であるNat Pinkerton に因んだ「赤いPinkerton」に関する冒険物語の執筆を励ました。
 Marietta Shaginian(1888-1982、Merezhkovsky たちのかつての同僚)の小説である〈Mass-Mend〉(1924年)は、民衆が神秘的なもの(オカルト、occult)に嵌っていることを利用していた。
 この小説では、プロレタリアの「白い魔術」が資本主義陰謀家の「黒い魔術」を打ち負かす。(注8)
 党は特定の様式または語法を命令しなかった。そうする気は実際になかった。しかし、遅かれ早かれ単一の社会主義的芸術様式が支配するだろうと、広く想定されていた。
 文筆家や芸術家の競い合う諸組織は、それは自分たちだということを確実にしようとした。//
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 (08) 党はまた、大衆や党員たちがNEPは社会主義の放棄であるとか、ボルシェヴィキ幹部による意欲の減退または方向性の喪失であるとかと解釈しないように保障しなければならなかった。
 〈Pravda〉で最も頻繁に使われた隠喩—「任務」、「途」、そして「社会主義建設」におけるがごとき「建設」—は、上からの統制、目的志向性、指導性を含意していた。
 〈Pravda〉上の隠喩は、管下にある他の新聞類でも同じように使われた。
 「任務」(task)は通常、上級の当局によって与えられた。
 「途」(path)は、「任務」の意味を補強した。
 レーニンは、この「途」を、物事を行なう唯一の方策があるという確信を表現するために用いた。「一つの戦略、一つのイデオロギー、一つの方向」だ。
 1920年代の半ばまでには、「レーニン主義の途で」とか「社会主義への途」とかの語句は、至るところで見られた。そして、「途」は「線(路線)」へと狭まった。スターリンの「線(路線)」(line)というように。
 ときには、「途」と「路線」は一緒に用いられた。1926年に、ある編集者が「一般的路線」を社会主義への「高速道」と同一視したように。(注9)
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 (09) 「途」という隠喩は、マルクスやエンゲルスに由来しなかった。
 これは直線的な歴史の動きを想定していたが、曖昧な隠喩として使われた。
 ボルシェヴィキは、Merezhkovsky からこの「途」という隠喩を取り上げたのかもしれない。
 「途」(the path)は、キリスト教的神秘主義の中心的表象だ。
 ボルシェヴィキたちが、そしてLunacharsky やかつて神学生だったスターリンがこのことを知っていたかはともかく、「途」という隠喩は、世俗的な救済のためのイデオロギーであるボルシェヴィズムの宗教的性格を示していた。
 「途」という隠喩はまた、ある保証の感覚も伝えていた。実際に、党指導者たちは、大衆が困惑しているとしても方向を失ってはいない、と言われた。
 また別の次元では、「途」という隠喩は、党の将来の方位を映し出していた。共産主義の社会は、まだ遠く離れたところにあった。//
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 (10) 上級党学校は、党意識(〈partiinost'〉)、プロレタリア化、実践性を教え込んだ。
 知識のための知識は、「スコラ哲学」または「ブルジョア・アカデミズム」だとして蔑まれた。
 Sverdlovsk大学には、神学校の雰囲気があった。
 狂熱的な生活様式は、政治的な忠誠心と関連していた。
 「ブルジョア的」ソヴィエト科学アカデミーと対抗すると自認した社会主義アカデミーは、学術計画(高等教育の組織化と統制)と集団的な学術研究を擁護した。
 それに加盟した学者たちは、広範な聴衆が入手しやすい辞典、教科書、編集書を執筆して送り出した。また、マルクス主義の観点から社会科学についての再作業(再評価)を行なった。
 党は1923年に、アカデミーに対して物理科学を含めることを認めた。
 赤色教授研究所は、若い党政治家、学者、広報者たちをマルクス主義でもって訓練した。
 上級党学校との間の、そして各々の内部での競争は、部門や学生たちが味方する党内闘争によって、加速された。//
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 (11) 1924年の「社会主義」アカデミーから「共産主義」アカデミーへの変化は、1925年頃の大きな転換の予兆だった。1925年には、作家や芸術家たちの対立組織間の闘いが激化し、外国の出版物の輸入や外国旅行に対する規制が厳しくなった、
 第14回党大会(1925年)は、ソヴィエト同盟を自己充足の産業国家にすると決議し(「一国社会主義」)、GOSPLAN(国家計画局)に、総合的な経済計画のための統括数字(予想)をまとめるよう指示した。
 最初の案は、均衡ある発展を強調し、それにはBogdnov とBayarov の見方が生かされていた。(注10)
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 第三節へとつづく。

2615/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002年)第三編序②。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.174〜。
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927
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 序 第二節①。
 (01) ボルシェヴィキの指導者たちは、前例のない状況下を歩んでいると感じていた。
 驚くことではないが、彼らの政策方針はときには矛盾し合っていた。
 生産の奨励は農民や「ブルジョア専門家たち」の作業場や物質的刺激で階級融和を促進する契機を含んでいたが、階級を基礎にした雇用や昇格は、人員の最適な利用を妨げていた。
 ネップマンたち(NEPmen)(小事業家)はよそ者だった。そして、政府に支援された芸術家や文筆家たちの組織は、階級憎悪へと転化するだろうプロレタリア的戦闘性の必要を説いた。
 ブハーリンは1925年に、農民たちに豊かになるよう激励し、階級闘争を「弱める」ことを擁護した。しかし、彼は共産党員たちには、階級間の戦争は終わっておらず、形態を変えているにすぎない、と保障した。//
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 (02) ボルシェヴィキ指導者たちは、「文化戦線」を進んでいるとも感じていた。
 マルクスとエンゲルスは、社会主義的文化はどのようなもので、それをどのようにして創り出すかについて、指針を与えていなかった。
 ニーチェの思想は、この隙間を埋めるのに役立った。
 レーニン、トロツキー、ブハーリンは、「文化革命」の必要性について合致していたが、「文化」とは何か、「文化革命」はどう進められるべきかに関しては異なっていた。
 スターリンは、この問題については沈黙していた。彼は1928-29年に、ブハーリンの戦略を採用し、かつ過激化させた(第9章を見よ)。//
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 (03) マルクスとエンゲルスは、文化は経済的基盤の変化に伴って多かれ少なかれ自動的に変わっていく、と想定していた。
 そのゆえに、ボルシェヴィキ指導者たちが恐れたのは、資本主義の部分的復活は「ブルジョア・イデオロギー」が回復して「ブルジョアの復古」にすらつながることを意味するのではないか、ということだった。
 敵対階級が生む文学と芸術はソヴィエト権力を掘り崩すかもしれない。知識人層がツァーリズムを破壊したのと全く同じように。
 ボルシェヴィキの困惑を増大させることに、プロレタリアートは農民の大海の中の孤島にすぎなかった。
 「意識的」労働者の数は微細なもので、また、新しく加入した党員たちはほとんどが教養のない労働者や農民たちだった。(注3)
 加えて、経済は「ブルジョア専門家たち」に依存しており、ソヴィエト同盟は資本主義諸国に包囲されており、かつまたNEP の商業文化の影響による汚染もあった。
 Eisenstein の映画〈戦艦ポチョムキン〉(1925年)は世界的な喝采を浴びたが、ロシアの観衆たちはMary Pickford やDouglas Fairbanks をむしろ好んだ。//
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 (04) ボルシェヴィキ指導者たちは先ず、エスエルやメンシェヴィキからの「イデオロギー感染」と闘うことに力を注いだ。
 エスエルたち(1921年夏に逮捕されていた)の見せもの裁判は数ヶ月続いた。それには、プレスの全頁を覆う憎悪キャンペーンが伴なっていた。
 Lunacharsky は、訴追者の一人だった。
 彼は被告人たちを(民衆全体に伝染する)「病原菌」、「害虫」(〈vrediteli〉、つまり根絶されるべきもの)と呼び、後者の語を彼らに関する自分の小冊子「かつての人々」(〈byvshie liudi〉)で頻繁に用いた。(注4)
 この言葉の由来はGorky の小説「〈Byvshie liudi〉」(1903年)にあった。この小説は、「かつて人間だった生物たち」として英語に翻訳された。
 法廷には敵意をもった観衆が詰めかけ、被告人たちを嘲り死刑を要求する、あらかじめ選抜された群衆によってしばしば煽り立てられた。—この群衆は、公衆を「教育」し、現実的であれ潜在的であれ危機を喧伝することを意図する劇場となった裁判での、一種の「合唱隊」だった。(注5)
 被告人たちは有罪とされ死刑判決を受けたが、Gorky を含む外国からの抗議に応えて、そのうち何人かは、執行される代わりに国外に行くことが許された。//
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 (05) ボルシェヴィキ指導者たちはすみやかに、「ブルジョア」的思想と価値に民衆が「感染」するのを阻止するために(「感染」(infection)という考えはTolstoy に由来する)、積極的に行動しなければならないと気づいた。
 Tolstoy は芸術は人々をキリスト教に「感染」させるべきだと考え、この「感染」という語を病気の蔓延ではなく、霊感的(inspirational)な意味で用いた。
 ボルシェヴィキ指導者たちは、部分的には資本主義の経済基盤があっても、社会主義の意識を吹き込み、社会主義の文化を建設することによって「自然発生性」と闘わなければならなかった。
 言い換えると、彼らは「全ての[ブルジョア的]価値の再評価」を行なおうとしていた。
 広く承認されてはいないBogdanov の見方では、〈Pravda〉は1922年8月に、プロレタリア文化に関する議論を再開した。
 文化のこのような強調は、ブハーリンが〈プロレタリア革命と文化〉(1922年)を、トロツキーが〈日常生活の諸問題〉(1923年のPravda 上の連載)や〈文学と革命〉(1924年)を執筆することにつながった。//
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 (06) 最も危険な「イデオロギー感染」の一つである宗教が、実際に復活しようとしていた。1922年遅くに、Berdiaev、Frank、その他の非マルクス主義知識人たちがロシアから追放されて以降に。
 古参ボルシェヴィキのEmilian Iaroslavsky(Gubelmann、1878-1943)が、〈無神〉(〈Bezbozhnik〉)という雑誌を創刊したのも、1922年だった。
 彼は1923年に、その著〈神はいかに産まれ、生き、死ぬか〉で、宗教と文化の神秘性の「仮面を剥ぎ」、キリスト教を含む全ての宗派の世俗的な起源を「暴露し」た。
 この表題は、まだ知られていた歴史小説三部作のMerezhkovsky の様式にもとづく戯曲だった。
 これはまた、直接にではないが、最新の神であるキリスト教の神は死んだ、ということも意味していた。
 Iaroslavsky は1925年に、無神論者同盟を創立した(のちに「戦闘的」が追加された)。
 その組織員たちは聖職者に対していやがらせを行ない、教会の事業を著しく妨害し、クリスマスやイースターの日に、共産党の祭典を組織した。そして(積極的に)、「赤い婚礼」、(洗礼に代わる)「Oktoberings」、「赤い葬礼」を促進した。 
 「赤い」儀礼の考案者の中には、Kerzhentsev、Iaroslavsky の他に、〈アポロとディオニュソス〉(1915年、再刊1934年)や〈新旧の儀礼について〉(1926年)の著者であるVikenty Veresaev もいた。(注6)//
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 第二節②へとつづく。

2614/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002年)第三編序①。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 一部の試訳のつづき。p.173〜。
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 第三編/新経済政策(NEP) の時期のニーチェ思想—1921-1927。
 
 第一節。
 (01) 新経済政策(NEP)のもとで、政府は「管制高地」(大工場と工場群、信用、外国通商)を支配したが、農民たちは納税後の余剰を売ることができた。私的な取引も許容された。
 1927年の末までに、生産はほとんどの分野で1913年の水準を回復した。
 しかしながら、労働者たちの生活は、ひどく悪い状態のままだった。農民たちの穀物を売ろうという意欲は売って得られる対価に左右され、消費用製品の価格とも関係があった。//
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 (02) 1921年の夏、レーニンの健康が悪くなり始めた。
 彼は、1924年1月24日に死亡した。
 レーニンの4回めの発作のあとの1923年3月に、後継者争いが始まっていた。レーニンは、無能となって取り残された。
 スターリンは、トロツキーを孤立させるために、Grigory Zinoviev(Radomysky, 1883-1936)およびLev Kamenev(Rozenfeld, 1883-1936)と同盟した。
 1924年半ばに、スターリンは方針を変えて、Bukharin、Aleksei Rykov(1881-1938)およびMikhail Tomsky(1880-1936)と手を組んだ。
 スターリンとブハーリンは、1924年から1928年まで、共同支配者だった。
 第5回党大会(1927年2月)で、スターリンは政治局の全権を握り、トロツキーは党を除名され、スターリンはNEPに逆行し始めた。
 レーニンが生きていたならばNEP はどのくらい長く継続したか、を判断するのは不可能だ。この問題についてのレーニンの言明は、矛盾を孕んでいた。//
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 (03) NEP の時期は、それ以前やそれ以降と比較してのみ、リベラル(liberal)だった。
 私的な活字出版業や劇場が始まった(または再開した)。
 検閲は緩和されたが、消滅はしなかった。ニーチェのものを含む危険な書物は、1920年に始まる人民図書館から排除されていた。
 党のAgitprop(煽動と宣伝)部門は、膨らんだ。
 チェカはGPU に替わった。そして、エスエルの指導者たちや「協力者たち」の見せしめ裁判が、1922年に繰り広げられた。
 Ivanov-Razumnik は、被告人の一人だった。
 その頃までに、拡大した文化機構が出現した。これには、「文化に関する党員起業家」(Christopher Read の用語)、文学や芸術を高く評価しているとしても元来の忠誠心は革命に向けられていた者たち、が配属された。
 彼らの任務は、大衆の意識を鋳造(mold)することだった。//
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 第二節へとつづく。

2613/B. Rosenthal・ニーチェからスターリン主義へ(2002年)第三章序。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
 /B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
 「第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917」の「第3章・ニーチェ的マルクス主義者」の「序」の試訳。邦訳書は、ない。
 以下に名が出てくるA. Lunacharsky は、1917年「十月革命」後の初代の<啓蒙(=文化·教育)人民委員(=大臣)>。
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  第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
  第3章・ニーチェ的マルクス主義者。
  序。
  (01) George I. Kline は、「ニーチェ的マルクス主義」という用語を作って、その中に、Aleksandr Bogdanov(出生名はAleksandr Malinovsky、1873-1938)、その義弟のAnatoly Lunacharsky(1875-1933)、Maxim Gorky(Aleksei Peshkov、1868-1936)、V. A. Bazarov(V. Rudnev、1874-1939 )、Stanilav Volsky(Andrei Solokov、1880-1936)を包摂した。(注1)
 私は、Aleksandra Kollontai(1872-1952)も含める。
 これらのマルクス主義者たちは、マルクスとエンゲルスが軽視した問題—倫理、認識論、美学、心理学、文化、その他の諸価値—を強調した。そして、神話がもつ政治心理的(psychopolitical)有用性を承認した。//
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 (02) 彼らは全てが芸術的文化的創造性の問題に敏感で、自由な発意と意欲を強調した。しかし、意欲や創造性がとる形態は個人なのか集団なのかに関しては一致していなかった。
 彼らにおける集団性は、義務的なものを意味してはいなかった。
 彼らは、人々が義務の意識から集団に従属するのではなく、自分たちを集団と一体視することを望んだ。
 ニーチェが助けたのは、Plekhanov がほとんど抹消して革命的人民主義の精神の中に含めてしまった、マルクス主義の「英雄的」で主意主義的(voluntaristic)な側面を取り出すことだった。//
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 (03) ニーチェが〈平等への意思は、権力への意思だ〉と言ったとき、論理(logic)について語っていたが、彼の観察は、政治と社会に適用することができるものだった。「平等への意思」が既存の権威を廃して代わりに新しい権威を就かせる、という意味を含んでいる場合には。
 ニーチェ的マルクス主義者は、プロレタリアートを権威に就かせることを望んだ。
 彼らは、「ロマン派革命家たち」、「ボルシェヴィキ左派」としても知られている。Gorky が公式にはボルシェヴィキではなく、Kollontai は1915年まではメンシェヴィキだったとしても。
 レーニンは、Bogdanov の「マッハ主義」認識論に因んで、彼らを「Machians」(ときどき「マッハ主義者」(Machists)と翻訳される)と称した。//
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 (04) ニーチェ的マルクス主義者は、第一章と第二章で叙述した表象主義者や哲学者たちと議論した。
 思想についてBerdiaev が意欲の重要性を強調したこと(意欲は人間の行動を喚起する)は、Bogdanov の認識論への関心を掻き立てた。
 Bogdanov とLunacharsky は、新観念論者の雑誌〈哲学と心理学の諸問題〉にいくつかの初期の論考を発表した。
 Bogdanov は〈観念論の諸問題〉を論評し、〈実在論的世界観に関する小考〉(1904)という対抗シンポジウムを組織した。(注2)
 Gorky とLunacharsky は、宗教哲学学会の会合やIvanov の社交的集まりに出席した。
 他に多くの交流の例を挙げることができる。//
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 (04) Bogdanov は、Gorky とLunacharsky が行ったほどに頻繁には、ニーチェに言及しなかった。そして、無味な「科学的」語彙を用いた。そのために、彼に対するニーチェの影響はより分かりづらい。
 しかしながら、芸術と神話がもつ意識を変革する力についての彼の信念、神話創造の自分自身の試み、そして文化革命の呼びかけには、プロレタリアートの立場からする「全ての価値の再評価」が含まれていることが明らかだ。
 最もよく分かるのは、Bogdanov は「イデオロギー」という語を肯定的に用いており、「イデオロギー」は虚偽の意識であって支配階級の利益のための現実の神秘化または歪曲を意味したマルクスやエンゲルス(MER,p.154-5.)とは大きく違っていた、ということだ。 
 Bogdanov は、「社会におけるイデオロギーの客観的役割、イデオロギーがもつ不可欠の社会的機能を不明瞭な」ままにした、「イデオロギーは組織する形態だ、同じことだが、全ての社会的実践のための組織的手段だ」として、マルクスとエンゲルスを批判した。(注3)
 イデオロギーはたんに社会経済的構造を反映するのではなく、社会を「組織する」、ゆえに創造するに際してきわめて重大な役割を果たす。
 イデオロギーは、正当化する形態であるだけではない。それは構築的な現象だ。
 Bogdanov の著作においては、イデオロギーは神話とほとんど同義だ—合理的に構成された神話。
 彼はときおり、Ivanov の語である「神話創造」(myth-creation)を用いた。しかし、理性的な意識の役割を強調した。//
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 (05) Bogdanov の小論である「人間の集結」(〈Sobiranie cheloveka〉,1904)は、つぎの三つの標語でもって始まる。
 「社会的存在が意識を規定する」(マルクス)。「神は自ら自身の像で人間を創造した」(創世記I、27)。「人間は橋渡しであって、目標ではない」(ニーチェ)。(注5)
 〈Sobiranie〉は、「集団」または「集合」と翻訳することもできる。そして、認識論的には〈Sobornost〉という観念と結びついている。
 考え得る他の訳語の「統合」を用いると、〈Sobiranie〉はスラヴ人好みの全体(wholeness)という観念をその意味に含んでいる。
 Bogdanov にとって、進歩とは「意識的な人間生活の全体と調和」を意味した。(注6)
 彼は、職業上の専門化と労働の区別がそうしているように、個人主義は、個人と社会の調和を破壊する、と考えた。
 とくに、精神労働と身体労働の分離に反対した。—これは、青年マルクス、Mikhailovsky、そしてFedorov が思考した主題だった。
 彼が疎外の克服を強調したのは、まだ知られていなかった1844年のマルクスの草稿を先取りしていた。 
 Bogdanov がとくに好んだ言葉の中に、「調和」があった(ニーチェの語彙の一部ではなく、Fourier その他の夢想的社会主義者たちによって多くは使われた)。また、「支配」や「支配すること」(mastery, to master)(〈ovladenie〉,〈ovladet〉)もあった(これは、「把握(すること)」または「所有(すること)」とも翻訳することができる)。
 彼の用語法での「支配」およびこれに関連する言葉は、複数の意味を含んでいた。知識や技術をmasterしている労働者、自然をmaster している専門家(〈chelovechestvo〉)、奴隷がmaster になる、地上の新しい主人としてのプロレタリアート。
 彼が最も好んだ言葉である「組織化」はLavrov の戦略に立ち戻るものだったが、Bogdanov の用語法では、Apollo 的側面があった。
 Apollo は統合し、構造化する。
 Bogdanov は、「組織化への意思」によって駆り立てられていた、と言っても誇張ではないだろう。
 ——
 第一編第1章「序」、終わり。

2612/Rosenthal2002年著の構成内容の再掲。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002). 単著、総計約460頁。
 =B. G. ローゼンタール, 新しい神話・新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ
 この著は、No.2436に記載したように、つぎのような内容構成(目次)を持つ。
 目次掲載内容以外に、中身の本文を見て、一部についてだけ、さらに細分化して「節」にあたるものも記した
 邦訳書はない。
 を付した箇所だけが、すでにこの欄に「試訳」を掲載したものだ。No.2454・2470・2472・2475・2476・2478・2480(2021年12月〜2022年1月)。赤文字部分は、次回以降に試訳予定。
 著者の認識・主張の根幹は、<ボルシェヴィズムとはマルクス主義とニーチェを融合したものだ>、にあるだろう。
 ——
 緒言 *p.1〜.
  第一節・ニーチェの課題。
   1/新しい神話。
   2/新しい世界。
   3/新しい男(と女)。
   4/新しい道徳性。
   5/新しい政治。
   6/新しい科学。
  第二節・ニーチェの主張にある文化特有の要素。
  第三節・この書の予定。
 第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。*p.27〜.
   序。
   第1章・象徴主義者。
   第2章・哲学者。
   第3章・ニーチェ的マルクス主義者。
    。*p.68〜.
    第一節・ボグダノフの「マッハ主義」認識論。
    第二節・新しい道徳。
    第三節・マルクス主義の神話創造者と1905年革命。
    第四節・ボグダノフの文化革命への綱領。
   第4章・未来主義者。
  ◎要約
 第二編/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。 *p.117〜.
   序
   第5章・現在の黙示録—マルクス・エンゲルス・ニーチェのボルシェヴィキへの融合。
   ◎序
   ◎第一節・レーニン—正体を隠したニーチェアン?
    第二節・ブハーリンのニーチェ的な政治的想像。
    第三節・レオン·トロツキーのニーチェ的無意識。
   第6章・ボルシェヴィズムを超えて—魂の革命の展望
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。 *p.173〜.
   
   第7章・神話の具体化—新しいカルト・新しい人間・新しい道徳。
    序。
    第一節・レーニン個人崇拝。
    第二節・新しいソヴィエト人間。
    第三節・新しいプロレタリア道徳。
   第8章・新しい様式・新しい言語・新しい政治。
    序。
    第一節・アヴァン-ギャルド。
    第二節・リアリズムの作家と画家。
    第三節・文化革命が前進する。 
 第四編/ スターリン時代におけるニーチェの反響(Echoes)—1928-1953。 *p.233〜.
  第一部/縄を解かれたディオニュソス(Dionysos)、文化革命と第一次五カ年計画—1928-1932。
   第9章・「偉大な政治」のスターリン型。
   第10章・芸術と科学における文化革命。  
  第二部/ウソとしての芸術、ニーチェと社会主義リアリズム。
   第11章・社会主義リアリズム理論へのニーチェの貢献。
    序。
    第一回ソヴィエト作家同盟会議でのニーチェ的課題。
     1/新しい神話。
     2/新しい男(と女)。
     3/新しい世界。
   第12章・実施される理論。
    序。
    第一節・文学。
    第二節・劇場。
    第三節・映画。
    第四節・絵画·写真·彫刻。   
  第三部/勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化。
   序。
   第13章・スターリン個人崇拝とその補完。
   第14章・力への意思(Will to Power)の文化的表現。
 エピローグ/脱スターリン化とニーチェの再出現。 *p.423〜.
    序。
    第一節・消極的表象としてのニーチェ。
    第二節・異なるニーチェの発見。
    第三節・ニーチェ的課題。
     1/新しい神話。
     2/新しい芸術様式。
     3/新しい世界。
     4/新しい道徳。
     5/新しい科学。
 ——
 以上。

2542/Turner によるNietzsche ⑪。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 〈第15章・ニーチェ〉第10節の試訳のつづきで、最終回。
 ——
 第10節③。
 (03) 生を肯定する道徳を受容することのできる生物は、〈Übermensch〉、超人(Overman)だった。
 この言葉は、今世紀の初めには「Superman」と呼ばれるようになった。
 この語はもともとは〈ツァラトゥストラはこう語った〉に出ており、明瞭な意味をほとんど持っていなかった。 
 〈Übermensch〉は生を肯定する。
 愉快で、無邪気で、本能的で、自分の本能による衝動を持っている。
 将来に存在する生物のように見える。というのは、ニーチェはある箇所で、人類を野獣と〈超人〉の間を架橋するものとして描いているからだ。
 この生物は、人類がキリスト教や近代自由主義の禁欲的理想からつき離されたときにどのようなものになるかの、ニーチェの理想の類型のように思われるだろう。//
 (04) 近年の論評者はこの概念を相当に中立化している。しかし、種々のことが語られていても、全てがおそらくは間違った接近方法をとっている。
 疑いなく、ニーチェはその言う〈超人〉としてヒトラーのような人物を想定していなかった。そして〈超人〉は、彼の心の裡でははるかにGoethe のような人物だった。
 それにもかかわらず、〈超人〉は明らかにリベラルな諸価値とは相容れないように見える。そして、ニーチェ哲学の多くとともにこの概念を擁護しようとする近年の試みは、19世紀のさらに別の大きな危機と融合しようとするブルジョア文化の試みにすぎないと、私には思える。//
 (05) この時代のヨーロッパの知的世界の考察を、本書はRousseau から始めた。
 ニーチェでもって終えるのは、偶然ではない。
 彼は、Rousseau 的見方に対する最も厳しい批判者の一人だ。
 貴族制とブルジョア社会の両方を非難したのは、Rousseau だった。だが、彼の解決策は急進的に平等主義的なものだった。
 古代世界で彼が好んだのは、古代の市民的美德であり、この美德は急進的に平等主義ではない社会に宿っていた。 
 Rousseau が将来に投影したのは、平等主義の展望だった。
 彼は、聖書が失墜した世俗的見方から帰結するものとして社会を描いた。
 そして、あけすけの意欲の力でもって、道徳的にも経済的にも他の人間に優越する地位を築いた者たちを非難した。
 彼の見方では、このような状況が近代社会の虚偽(falseness)につながった。 
 Rousseau は、急進的な平等主義にもとづいてこれを批判したかった。
 また、人間がそのために生命を捧げるべき力として一般意思と市民宗教(Civil Religion)を樹立したかった。//
 (06) ニーチェは、このような見方に関する全てを憎悪した。
 彼は、優越者たる地位を築いた古代の人物たちを尊敬した。 
 Rousseau が書いたもの全てに、プラトンとユダヤ・キリスト教の伝統の両方の香りを嗅ぎ取った。
 彼はその急進主義にもかかわらず、本当の知的勇気を持たない、とニーチェは考えた。 
 Rousseau は、確定的ではない生物という自然状態から生まれ来たるものだと、人間を描いた。そのような生物は、自分たちの基本的な性格を作り上げていく必要があるのだ。だが彼は、自分自身の見方の根本的なニヒリズムから離れていた。
 ニーチェが提示し、次の世紀のヨーロッパの知的世界の中心に持ち込んだのが、ニヒリズムだった。
 人間の本性は、彼にとって、本当に確定的ではない。
 人間は、それを確定しなければならない。そして、ニーチェは、彼の世代の者たちが主張する全てのイデオロギーはその任務を果たすには不適切だ、と考えた。//
 ——
 第10節、終わり。〈第15章・ニーチェ〉も、終わり。

2541/Turner によるニーチェ⑩。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 〈第15章・ニーチェ〉第9節の試訳のつづき。
 ——
 第9節②。
 (07) ニーチェの見方では、貴族的な価値の再検討が始まったのは、古代イスラエルでの道徳的経験によってだった。
 キリスト教が顕著に促進したこの再評価は、「道徳に関する奴隷の反乱」を引き起こした。
 この反乱の中心に位置したのは、ニーチェが〈ルサンチマン〉(Ressentiment)と称したものだった。
 高貴な者たち(the noble)が世界の上から見渡して肯定したのに対して、奴隷たちは、まさにその状況のゆえに、外部世界を否認しなければならない。
 奴隷たちは、肯定できない自分たちの無能力を正当化しなければならず、否認を正当化して称賛することによって、そうするのだ。
 このキリスト教道徳は力への意思を否定し、そうして、生を否定し、生を制限する。
 こうしたキリスト教道徳の勝利によって、奴隷の道徳がヨーロッパを奪い取った。
 奴隷の道徳は高貴さを否定し、卑しい者、弱い者、臆病な者を称賛した。
 結果として、人間の本性を否定したのだ。//
 (08) ニーチェによる批判に関して重要なのは、その重要性を説明する彼の決断だ。
 従前の哲学者たちのほとんどは、普遍的な価値の存在を前提にしていた。
 厳密にどのような価値がそうであるかに関しては異論があっただろう。しかし、普遍的な価値の存在については、一致があった。
 ニーチェは、価値それ自体の独立した存在を否定した。
 彼は強くこう主張した。キリスト教の諸価値は元々は無力の者や階層が自分たちの力を最大にする必要に由来する、と。そしてこの者たちは、自分たちの奴隷的存在の価値を高貴な者のそれよりも高位で立派だと設定することによってそうしたのだ。
 さらに加えて、奴隷たちのこの叛乱は、終わらなかった。
 19世紀における革命、自由主義(liberalism)、社会主義の波は、奴隷たちの叛乱を延命させた。
 ニーチェは、こう明言した。
 「かつてよりもさらに決定的で深遠な意味において、ユダヤ(Judea)はもう一度、フランス革命の古典的理想に対して勝利した。ヨーロッパの最後の政治貴族、フランスの17世紀と18世紀の政治貴族は、〈ルサンチマン〉—一般大衆の本能—のもとで崩壊した。かくも歓喜した、喧騒の中の狂熱の声を、これまでの世界は聞いたことがなかった!。」(注19)
 ニーチェは〈道徳の系譜学〉の別の箇所で、近代の自由主義はキリスト教が残した場所でそれをたんに継続しているにすぎない、と論じた。
 近代自由主義にもキリスト教にも、人間の本性を否定したという罪責がああった。//
 (09) ニーチェは、禁欲という理想はきわめて重要な機能を果たした、と考えた。
 禁欲は人間に、意味を、とりわけ苦難がもつ意味を提示した。
 禁欲によって人間は、存在の根本的な無意味さという荒涼たる現実に立ち向かうことができなくなった。
 だがなお、禁欲という理想はきわめて高くつくものも呼び起こした。
 「禁欲の理想によってその方向が示された意欲の全体が実際には何を表現しているかを我々が隠蔽するのは、絶対に不可能だ。表現するのは、人間的なものへの憎悪、さらに動物的なものへの憎悪、さらに物質的なものへの憎悪であり、官能や理性そのものへの恐怖、幸福や美への恐怖だ。そして、仮象、無常、成長、死、願望、そして熱望それ自体から逃れたいという熱望だ。
—これら全てが意味しているのは、あえて把握しようとするなら、〈無(nothingness)への意思〉であり、生への反感であり、生の基礎的な諸前提のほとんどに対する反抗だ。しかし、これは一つの〈意思〉であることに変わりはない。
 最初に言ったことをもう一度言って、終わりにする。人間は、意欲を何らもたないよりは〈無を意欲する〉ことをなおも望む。」(注20)//
 ---------
 第10節①。
 (01) 道徳に関する総括的な検討が最後に示すのは、生を拒否する道徳にすらある主意主義的(voluntaristic)な基盤だ。
 否定的な禁欲主義は、それ自体は禁欲的ではない。 
 否定的禁欲主義は、全ての意識ある存在の特徴だとニーチェが考える、力への意思のもう一つの様式にすぎない。//
 (02) そのゆえに、人間にとっての問題は、生を否定するのではなく肯定するのを認めることになる価値を意欲する、または想定する、そのような方法を見い出すことだった。
 ニーチェにとって、その方法には本質的にエリート主義的で貴族的な道徳が必要だった。
 高貴な人間は、畜群(herd)に打ち勝たなければならない。
 このことはキリスト教の排撃だけではなく、当時のブルジョア・イデオロギーの全ての排斥をも意味した。—自由主義、功利主義、民族主義、人種主義、菜食主義、等々の全て。
 これらは全て、結果を計算することに関心をもつ道徳的立場にあり、その定義上、全てが奴隷の道徳の態様だ。//
 ——
 第10節②へと、つづく。

2540/Turner によるニーチェ⑨。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 〈第15章・ニーチェ〉の試訳のつづき(再開)。
 ——
 第9節①。
 (01) ニーチェはある意味では、人間が本質的に美学的な見地から生に立ち向かうことを要求した。
 人間は生の現象を見つめて、そして自分たち自身の内的存在から、外部が誘導する権威にもとづかず、判断するようにならなければならない。
 (02) ニーチェは、世界は根本的に形をもたないと確信して、人間が形を作り上げなければならない、と考えた。
 世界は、我々がこうあるべきだとするものだった。
 我々がComte やDarwin が考えたような知識をいずれ獲得する、そのような客観的世界は存在しない。
 (03) ニーチェにとっては、科学は本当(genuine)の知識ではない。
 科学は、伝来的な、または有用な知識だ。
 世界で我々を成功させてくれる場合のみ、科学は真実(true)になる。
 科学は、世界を理解しようとする一つの方法にすぎない。
 科学は、最終的な知識へと帰着しなかったし、そうできなかった。
 彼はその明瞭さと有用性のゆえに科学を称賛したが、科学それ自体は、最終的叡智またはその他の価値の源泉ではあり得ない。
 〈陽気な科学(The Gay Science)〉でこう書いたとおりだ。
 「生は、論拠ではない。
 我々は生きることができるように世界を整序した。—物体、線、面、原因と効果、運動と休止、形式と内容、こうしたものを配置することによって。
 こうした信仰(faith)の対象がなければ、誰も生きることに耐えられないだろう!
 しかし、このことは信仰対象の正しさを証明しはしない。
 生は、論拠ではない。
 生の諸条件は誤りを含んでいるかもしれない。」(注17)
 実際にニーチェは、ほとんど真実は道具(instrumental)だと言うに等しい所まで来ていた。
 この点では、初期プラグマティストたちの哲学者陣営にきわめて近い立場にあった。
 彼にとっては、真実は決して永遠のものでも、無限のものでもない。
 真実は、世界に入り込み、そこを通り抜ける方法なのだ。//
 (04) ニーチェは、こうした急進的な懐疑主義を抑圧的とも悲観的とも見なさなかった。
 多数の人々はとても恐いと感じるだろうとしても、彼は、解放の基盤だとそれを見なした。
 最初の段階では、真実に関する彼の考えによって、自分をキリスト教から解放することができた。
 Ipsen やその他の同世代者のように、ニーチェは、現今の道徳を愚かなものだと考えており、その道徳は基本的にはキリスト教に由来するものと見ていた。
 今の道徳は、キリスト教であれ功利主義であれ、禁欲的で、生に対して拒否的だった。
 彼のキリスト教に対する、そしてキリスト教道徳に対する批判は、ヨーロッパでかつて道徳であり道徳的経験だと見なされたものの核心部分へと及んだ。
 彼はキリスト教道徳の起源を、プラトンとユダイズム(Judaism)へと跡づけた。
 キリスト教は2000年前に、これら両者の最悪の部分を結合させ、人類を凡庸へと向かわせたのだ。//
 (05) この主題に関する彼の完全な議論は、〈道徳の系譜〉(The Genealogy of Morals)となった。
 ニーチェはこの書物で、何が善かの判断の起源はどうだったかを問題にした。
 彼はこう主張する。「善」の判断は確実に、善が最初に示されたものを起源とはしていない。
 最初の時代の何が善であるかの決定はむしろ、強くて高貴な人々に由来した。彼らは、自分たち自身に役立つように何が善かの判断を行ってきたのだ。
 彼はこう説明する。
 「こう起源を理解する理由は、『善』という言葉は必ずしも『非利己的』な行動と結びついていなかった、ということだ。『非利己的』な行動というのは、道徳の系譜学者が伝えてきた迷信だ。
 反対に、『利己主義』と『非利己主義』の対置が人々の良心の中にますます大きくなったがゆえに、貴族的な価値判断が衰亡している。
 —そうなのだ。私の用語法によれば、そうして最終的にこの言葉を掴み取るのは、〈畜群(herd)の本能〉なのだ。」(注18)//
 (06) 善という語の貴族的な理解が衰亡したことは、ニーチェが古代ギリシャに発見した強い古代の貴族の本能に対する、畜群の本能の勝利を象徴した。
 その貴族的な価値判断は、健全で力強い、肉体的に活発でつねに戦いや強さ試験に備えている人々を想定していた。
 その価値判断は、生と力を肯定することで成立していた。
 時代の推移とともに、畜群、聖職者、そして世界を否定する者たちの道徳に、入れ替わってしまった。//
 ——
 第9節②へと、つづく。

2525/西尾幹二批判062。

 (つづき)
  西尾幹二は上記の引用文の中で、「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と書いた。
 こう2020年に書いたことと、「明白に」矛盾することを、西尾幹二は主張していたことがある。
 すなわち、西尾自身が「あれほど明白になっている」「現実」に、「新しい時代の自由」をいう「平和主義的、現状維持的イデオロギー」と「旧習墨守」をいう「古風な、がちがちに硬直した、皇室至上主義的なイデオロギー」に立つ論者は、いずれも「目を閉ざして」いる、と厳しく非難したことがある。
 月刊諸君!2008年12月号、p.36-37。
 西尾幹二は「あれほど明白になっている東宮家の危機」を上の両派ともに「いっさい考慮にいれ」ず、「目を閉ざして」いると論じる。
 そして、こうも書く。
 「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。
 自分たちの観念や信条の方が大切なのです。」
 そして上の危機、「東宮家の異常事態」、の中心にある「現実」だと西尾が「認識」しているらしきものは、つぎだ。
 「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて、すでに五年がたっている」。
 この危機・異常事態を西尾は「日本に迫る最大の危機」とも表現するのだが、その点はともかく、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくない」、「明瞭に拒否されて」いるという「事実」は、どうやって認定、あるいは認識されたのだろうか。 
 テレビ番組での西尾発言を加えると、<病気ではないのにそれを装って(「仮病」を使って)>雅子妃は宮中祭祀を「明確に拒否」している、との「現実」認識を、西尾はどうして「あれほど明白になっている」とする危機の根拠にすることができたのだろうか。
 こういう「認識」の仕方は、西尾自身が2008年に非難していた、「現実はいっさい見ない、現実はどうでもいいのです。自分たちの観念や信条の方が大切なのです」とか、「イデオロギーに頼って…日本に迫る最大の危機すら曖昧にしてしまう」とかにむしろ該当するのではないか。
 さらに西尾が2020年著で批判する、「…をつい疎かにして、ひとつの情報を『事実』として観念的に決めてしまうというようなこと」を自分自身が行っていたことになるのではないか。
 首尾一貫性がない、と評すれば、それまでだ。西尾幹二という人物は、いいかげんだ、で済ませてもよい。 
 「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」と言いつつ、これと矛盾して、「あれほど明白になっている」現実を無視していると、多くの論者を糾弾することのできる<神経>が、この人にはあるのだ。
 なお、「過去の事実」と「現実」(=「現在の事実」?)は異なる、と言うことはできない。西尾は「五年」前からの「現実」を問題視しているのであり、一般論としても、「現在の事実」は瞬時に、あっという間に「過去の事実」(=「歴史」?)になってしまうからだ。「事実」という点において、本質は異ならない。
 --------
 
 2020年著の冒頭頁の「事実を知ることは不可能」だ、「事実そのものは、把握できない」という表現は、<事実それ自体は存在しない>というF・ニーチェの有名な一節を想起させる。そして、西尾は、単純に、アフォリズム的に、これの影響を受けているのではないか、とも推察することができる。
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 その部分は、現在は実妹のElisabeth が編集した「偽書」 の一部だとされていると思われる、『権力への意志(意思)』の一部だった。だが、この書自体は存在していなくとも、上の旨を含む一節・短文は現実に存在した、と一般に考えられていると思われる。 
 M・ガブリエル(Markus Gabriel)は、そのいう「構築主義」を批判する中で、ニーチェのつぎの文章を引用している。
 Markus Gabriel, Warum es die Welt nicht gibt (Taschenbuch), S.186,
 =清水一浩訳/なぜ世界は存在しないのか(講談社、2018年)p.61。
 (0) 「いや、まさに事実は存在せず、解釈だけが存在するのだ。
 我々は事実『それ自体』を確認することができない
 そのようなことを望むのは、おそらく無意味である。
 『そのような意見はどれも主観的だ』と君たちは言うだろう。
 しかし、それがすでに解釈なのだ。
 『主観』は所与のものではなく、捏造して付け加えられたもの、背後に挿し込まれたものである。」
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 上の前後を含む短文全体の邦訳を、以下に二つ示しておく。この欄でのみ便宜的に前者にだけ、対応する原語・ドイツ語を付す。//は本来の改行箇所。
 (1) 三島憲一訳/ニーチェ全集第九巻(第II期)・遺された断想(白水社、1984年)、397頁。
 「『存在するのは事実(Tatsachen)だけだ』として現象(Phänomenen)のところで立ちどまってしまう実証主義(Positivismus)に対してわたしは言いたい。
 違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈(Interpretation)だけなのだ、と。
 われわれは事実(Faktum)『それ自体』は認識(feststellen)できないのだ。
 おそらくは、そんなことを望むのは、愚行であろう。
 『すべては主観的(subjektiv)だ』とお前たちは言う。
 だがすでにそれからして解釈(Auslegung)なのだ。
 『主観』(Subjekt)ははじめから与えられているものではない。
 捏造して添加されたもの、裏側に入れ込まれたものなのだ。
 とどのつまりは、解釈(Interpretation)の裏に解釈者を設定して考える必要があるのだろうか?
 すでにこれからして虚構(Dichtung)であり、仮説(Hypothese)である。//
 『認識』(Erkenntniß)という言葉に意味がある程度に応じて、世界は認識しうる(erkennbar)ものとなる。
 だが世界は他にも解釈しうる(anders deutbar)のだ。
 世界は背後にひとつの意味(Sinn)を携えているのではなく、無数の意味を従えているのだ。
 『遠近法主義』(Perspektivismus)。//
 世界を解釈(die Welt auslegen)するのは、われわれの持っているもろもろの欲求(Bedürfnisse)なのである。
 われわれの衝動(Triebe)と、それによる肯定と否定なのである。
 いっさいの衝動はそのどれもが一種の支配欲であり、それぞれの遠近法を持っていて、他のすべての衝動にそれを押しつけようとしているのだ。」
 ----
 (2) 原佑訳/ニーチェ・権力への意志(下)(ちくま学芸文庫・ニーチェ全集13、1993年)、27頁。
 「現象に立ちどまって『あるのはただ事実のみ』と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、
 否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。
 私たちはいかなる事実『自体』をも確かめることはできない
 おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。//
 『すべてのものは主観的である』と君たちは言う。
 しかし、このことがすでに解釈なのである。
 『主観』は、なんらあたえられたものではなく、何か仮構し加えられたもの、背後へと挿入されたものである。
 —解釈の背後になお解釈者を立てることが、結局は必要なのであろうか?
 すでにこのことが、仮構であり、仮説である。//
 総じて『認識』という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。
 しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももっておらず、かえって無数の意味をもっている
 —『遠近法主義』。//
 世界を解釈するもの、それは私たちの欲求である、私たちの衝動とこのものの賛否である。
 いずれの衝動も一種の支配欲であり、いずれもがその遠近法をもっており、このおのれの遠近法を規範としてその他すべての衝動に強制したがっているのである。」
 --------
 注記—上に出てくる「遠近法主義」とは、M・ガブリエル=清水一浩によると、「現実(Wirklichkeit)についてはさまざまな見方(Perspektiven)があるというテーゼ」とされ〔一部修正した〕、邦訳者・清水は「遠近法主義」ではなく、そのまま「パースペクティヴィズム」としている。
 このような言葉・概念の意味は、Nietzscheにおけるそれでもある(少なくとも、大きく異なるものではない)と見られる。
 ——

2507/M・ガブリエル2018年著の一部。

 Markus Gabriel, Der Sinn des Denken(2018年)。
 =Markus Gabriel, The Meaning of Thought (2020年)。
 久しぶりに、ドイツ語から試訳する。邦訳書はないように見える。
 ——
 第五章/現実とシミュレーション。
 第17節・きのこ(Champignons)、シャンパン(Champagner)と思考の思考との区別。
 <省略>
 (20) ここまで読んできた読者ならば、とっくに思考に関して思考することを学んだだろう。
 アリストテレスの文章に貴方たちは、ひょっとすれば多少とも直接に納得するだろう。
 そしてまた、明らかになってきているはずなのは、全ての思考が思考されなかったことを対象としているわけではなく、ゆえに全ての思考が無意識の過程を説明しているわけではない、ということだ。
 我々は、…思考の諸理論を発展させる力をもつことを認めなければならない。そうでなければ、真(echt)の認識物と知的に昇華された権力闘争を区別する規準をもはや持たないだろうから。
 (21) このことは、フーコー(Foucault)やその師匠(Meister)のニーチェ(Nietzsche)についても言える。この二人は、どのようにして力への無意識の意思や隠された専門化の方法に関する彼らの考察に立ち至ったかを、説明することができない。これらは、我々の意識的な思考の全体を組み立てるはずのものであるのだが。
 貴方たちは自分たちは例外たる地位に置かれていると不満に思う。ちなみにそれは、ニーチェが恥知らずにも奴隷状態を正当化するために用いたものだ。(注247, Nietzsche)
 (22) 我々にはゆえに、二つの選択肢がある。
 我々は、たびたび真実と事実を我々の利己的利益よりも優先する、理性的で精神的な生物(Lebenwesen)であることができるという観念から完全に決別するか、それとも、純粋な思考(reines Denken)がある、ということを受け容れるか。
 (23) むろん、純粋な思考は生物が行うことだ。
 人間は、理性または純粋な思考だけではない。そうではなく、生の営為がしばしば我々の思考過程に関する省察のかたちをとる生物だ。
 「なぜなら、純粋な思考の現実は、生であるからだ」。(注248, Aristoteles)
 ——
 第18節へ続いている。

2499/R・パイプスの自伝(2003年)⑧。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第三章の試訳のつづき。
 「ニーチェ」への言及がある。
 著者が16歳、1939年秋の「思春期」または「青春期」にニーチェの『権力への意思』を手にして読んでいたらしい(No.2486/自伝②参照)ことの背景も分かる。だが遅くとも1945年にはニーチェ哲学には「幻滅」していたようで、この著執筆時点では①ニーチェの一定の言葉は「無責任で煽動的な無駄話」(irresponsible & infllamatory prattle)だと明記し、②別の言葉(『道徳の系譜』内)は「ぞっとさせる」(appalls me)と明記している。また、それより前に③『ツァラストゥラ』のYiddish 語訳によりその作品の「尊大さ・仰々しさ」(pomposity
は消失した旨も書いている(今回の(*脚注)参照)。
 ——
 第三章・知と美への萌芽 ②。
 (13) 私は、その言語〔音楽〕を学び直そうと決めた。
 ふつうは日曜の午前中に、音楽協会での演奏会に足繁く通うようになった。そこで、J ・ホフマン(Joseph Hoffman)やW・バックハウス(Wilhelm Backhaus)といったピアニストの秀れた単独演奏を聴いた。
 私は、ピアノの練習を始めた。
 1938年11月に、ある音楽家と親しくする個人教育に登録した。その人の名は、それにふさわしく、Joachim Mendelssohn だった。
 背の低い彼は私にとても親切に接して、私は作曲家になる運命にあると感じさせた。
 戦争が勃発したとき、私は副教本の準備をしていた。
 私はまた、ポーランドの指導的な伴奏者のピアノ・レッスンも受けていた。その人の名はRosenbaum だった、と思う。
 彼は嫉妬の言葉を出すくせがあり、私の演奏は全く柔らかくならなかった。
 父親は私の音楽への関心を励ましてくれ、オペラや私の最初の演奏会に連れて行った。私がワーグナーの管弦楽を称賛し始めたとき、その音楽は彼が理解できないままで衝撃を与えたにすぎなかったけれども。
 総じて父親には、私のかつての子ども時代の成長を理解するのが困難だった。そして、私が思春期に入るまでには、私を深く理解するのを諦めていた。//
 (14) 若い人たちは自分たち自身について全く現実主義的であり得る。かりに何かがあると、過剰な自己嫌悪の陥りがちでもある。
 私はすみやかに、音楽は好きだけれども、ピアノ弾きでも作曲でも、自分の才能は良くても平凡なものだと、気づいた。
 私は悔しい思いをもって、同じ世代の者たちが簡単にピアノ演奏を学び、しかもその演奏は上手であることを観察した。
 残念だが、音楽の神秘的な言語を理解できても、それを語ることは学べない、との結論に至った。
 戦争勃発まで個人指導を受けつづけたが、その頃までには、私は音楽家になる運命にはないと分かり、ワルシャワを去った後ではそれに関する努力を全くしなくなった。//
 (15) だが、私は美術に、代わりのものを見出した。デッサン、彫刻、絵画にではなく、美術史にだった。
 1937-38年の冬(このとき14歳だった)のいつかの午後に、私はワルシャワ公共図書館にいて、中世の美術に関する図付きのドイツの歴史書を捲っていた。そのとき、ビザンチン時代の繊細な伝統的絵画を過ぎて、Padua のArena 礼拝堂からの、Giotto の〈Descent from the Cross〉が目に留まった。
 この14世紀初頭のフレスコ画は、ヨーロッパ美術に新時代を築いた一連のイェスの生涯を描いた絵の一つで、Beethoven の交響曲第7番と同じく、私の心を動かした。
 空にいる小さな天使たちの泣き声でさらに強まる傍観者たちの悲しみは、私が実際にほとんど悲嘆の声を聴くことができるほどに、とても納得できるものだった。
 それは、圧倒的な美的経験だった。Kenneth Clark ならば、私の美術への熱情を掻き立てたものを、「Vision の瞬間」と称しただろう。 
 私はまじめに、視覚芸術の全ての分野—絵画、建築、彫刻—の歴史書を勉強し始め、ノートに写し取った。
 O・Keller の音楽史の半分をドイツ語から翻訳した。
 1938年の夏、西部ポーランドの私有地で過ごしていたとき、毎朝早く起床して、昔からの公園のテーブルに座り、ヨーロッパ美術史の手引書の数頁を読み通した。
 私にはその問題についての指導はなく、種々の流派の芸術家の名前、彼らの時代、主要作品に勉強は集中しており、歴史的および美学的な背景には及んでいなかった。
 この主題への関心は、音楽への志向が弱まったときにも続いた。そして、1940年の大学(college)に入ったとき、これに人生を捧げることを考えていた。
 この熱情が、我々がポーランドを脱出するときに、なぜ私がミュンヘンのピナコテークを訪れると強く主張したのかの理由だった。//
 (16) Beethoven、Giotto のつぎに、ニーチェがやって来た。
 私はこのドイツの哲学者を、全く偶然に1938年の秋に発見した。そのとき、私が図書館で借りようと思っていた本は貸し出されていて、その代わりに、名前だけは馴染みがあったが何も知らないこの人物についての、Henri Lichterberger の伝記本を借りた。
 家に帰り、本を開いて、私は釘付けになった。強いがぼんやりした自分の感情が、その文章の中に表現されているのを読んだからだ。
 私は、「ニーチェの哲学は厳格に個人主義的だ」と読んだ。
 彼は「きみの良心はきみに何と語るか?」と問う。「きみは、自分でそうありたいと思うものにならなければならない」。
 ニーチェは、こう続ける。
 「そして人はとりわけ、自分自身を、自分の本能を、能力を、完全に知らなければならない。
 そして人は、自分の生活規範を自分の個性にふさわしいように整序しなければならない。…。
 自分自身を見出す一般的で普遍的な規範など存在しない。…。
 誰もが、自分自身で、自分の真実と自分の道徳を創造すべきだ。
 ある人にとって何が善か悪か、何が有用か有害かは、他者にとってと同じである必要は全くない。」
 (17) こうした言葉は、自己の独自性を模索する思春期には、麻薬のごとく作用した。つまり、他の誰もが私に順応するよう告げるのに対して、ニーチェは、私に反抗せよと促す。
 今では、彼の助言は無責任で煽動的な無駄話だと思う。
 「自由な精神」のためのニーチェの道徳—「何も真実ではなく、全てが許される」—は、私をぞっとさせるものだ。(後注3)
 ---- 
 (後注3) 「Nichts ist wahr, Alles ist erlaubt.」ニーチェ・道徳の系譜,Ⅲ-No.24.
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 これはヴィクトリア時代には賢い名文句(bon mot)のように聞こえるかもしれないが、20世紀には、大量虐殺のための根拠(rationale)を与えた。
 このような思想への幻滅は、第二次大戦とホロコーストの経験の結果だった。
 1945年8月の日記に、私はつぎのように書いた。
 「私にはつねに、自分が最もふつうではないと考える対象や思想に魅惑される傾向があった。
 もっと若くてもっと無邪気だったとき、この傾向によって、ニーチェの哲学の熱心な支持者になった。「善」、「共感」、「幸福」といったふつうの観念に対するニーチェの攻撃は、私に訴えた。なぜなら、私は(後者の諸観念は)支配的でかつ俗悪だと考えたからだ。
 私はそれ以降に、それらはこの世界できわめて稀にしか遭遇し得ないものだということを、学んできた。
 私はそれらを称賛して広く受容されている思考へと導く書物によって誤導された。—それらは、さらに加えて、とても論理的で、自明のことなのだ!
 今では、それらを見つけるのはきわめてむつかしいことだと、知っている。」(*脚注)
 ----
 (*脚注) だが、ニーチェに対する疑念は、もっと早くに経験した。それは、友人のOlek が〈ツァラトゥストラはこう言った〉をYiddish〔ユダヤ人の言語の一つ〕 に翻訳したときで、たちまちにニーチェのこの作品は骨抜きにされていた。Yiddish は、全ての尊大さ・仰々しさ(pomposity)を消失させてしまう。
 ----
 追記すれば、ニーチェは最初の知的影響を私に与えた。そして、私は私自身である資格をもつという考えは、ずっと私にとどまり続けている。
 (18) 私はHoly Cross 通りの古本屋を探し回った。そして、数ペニーで、Shopenhauer、Kant その他の哲学者のドイツ原語かポーランド語訳かの書物を買うことになる。
 私には哲学の素養がなかったので、読んだものをぼんやりとだけ理解した。
 だが、何かが残り、知りたいという情熱は消えることなく燃えつづけた。
 父親は、私の哲学への関心を必ずしも喜んでいなかった。
 あるとき、Kant の〈Prolegomena〉を私が読んでいるのを見て、父親は、心を「重たくする」、もっと実際的な物事を勉強すべきだ、と言った。//
 ——
 第三章③へとつづく。

2489/西尾幹二批判049—根本的間違い(4-3)。

 六 3 00 <反共よりもむしろ反米を>という、政治状況または国際情勢についての西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景を述べてきている。
 この人の、より本質的な部分には論及していない。先走りはするが、この人にとって、「反米」でも「親米」でも、本質的にはどうでもよかったのではないか。
 --------
 01 とは言え、叙述の流れというものがある。
 既述の誤りの指摘の追記でもあるが、西尾幹二の政治状況・国際情勢にかかる認識の間違いは、つぎの文章でも明瞭だ。
 2005年/月刊諸君!2月号、p.222。
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました。
 おかしくなったのは、西側諸国で革命の恐怖が去って、余裕が生じたからで、さらに一段とおかしくなったのは西側が最終的に勝利を収め、反共ではもう国家目標を維持できなくなって以来です。
 日本が壊れ始めたのは冷戦の終結以降です。」
 西尾が1999年『国民の歴史』で、私たちは「共産主義体制と張り合っていた時代を、なつかしく思い出すときが来るかもしれない」、「否定すべきいかなる対象さえもはや持たない」と書いた線上に、上の文章もある。そして、現在まで、この基本的認識・主張は継続しているようだ。
 これは、グローバリズムからナショナリズムへという、〈日本会議〉公認の、日本の「保守」(の主流派:多数派)を覆った考え方でもあった。
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 02 その点はここではもう論及しないこととして、上の文章には若干の基本的な疑問がある。
 第一に、西尾のいう「冷戦の終結」以前の日本の「国家目標」は「反共」だったのか?
 「全面講和」ではなく単独(または多数)講和を選択してアメリカ・西欧陣営に入った(1951年)こと自体が「反共」だった、とは言える。継続的な「国家目標」性はうたがわしいとしても。
 かりにそうだとしても、関連して第二に、つぎの認識は適確か?
 「米ソの対立が激化していた時代はある意味で安定し、日本の国家権力は堅実で、戦前からの伝統的な生活意識も社会の中に守られつづけました」。
 「反共」という国家目標のもとで、日本は「ある意味で安定し」、「国家権力は堅実」だったのか。
 秋月瑛二は、全くそう思わない。
 例えば、ベトナム戦争があり沖縄の基地から米軍機は飛び立っていった。カンボジアに中国に援助された数年間の「共産主義」的支配があった(ポル・ポト、赤いクメール)。後年に明らかになったが、1977年に「めぐみ」ちゃんは北朝鮮の国家的「人さらい」の犠牲者となった(他にも多数いる)。国内では社会党・共産党が「統一」して推す候補が京都に続いて東京や大阪でも知事になった(横浜市でも。その他省略)。また、日本共産党も国会での議席を増やして<70年代の遅くないうちに民主連合政府を!>とか呼号していた。田中角栄元首相の収賄事件もあった。ソ連空軍兵士が函館空港に着陸して亡命したのは、1976年だった。ソ連軍機による「大韓航空機撃墜事件」が日本近海で起きたのは、1983年だった。小中学校での<学級崩壊>は1980年頃には語られ始めていた。以上は、例。
 いったいどこに、日本は「ある意味で安定し」ていたとする根拠があるのか。
 じつは西尾幹二の「主観的」状況は「安定」していたのかもしれない。西尾は2000年にこう言っている。
 1970年の<三島事件>の後、私は「三島について論じることをやめ、政治論からも離れました。そして、 ニーチェとショーペンハウアーの研究に打ち込むことになります」。
 三島没後30周年記念講演、西尾・日本の根本問題(新潮社(編集担当は冨澤祥郎)、2003)、p.285。
 根拠文献をいちいち記さないが、以下も参照。
 1966年、ニーチェ『悲劇の誕生』翻訳書(中央公論社)。
 1969年、「文芸評論」を書き始める。
 1977年、ニーチェの(よく言って前半期だけの「評伝文学」の)『ニーチェ』(第一部・第二部)刊行。北朝鮮による「拉致」が始まった年。
 1979年、上記書により文学博士号(審査委員の一人は、同学年で当時は東京大学助教授だった柴田翔)。
 1987年、ニーチェ『この人を見よ』・『偶像の黄昏』・『反キリスト』翻訳書(白水社)。
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 03 1990年近くまでこんな調子だと、文芸評論や、政治評論家ではない「文芸評論家」としての遊覧視察旅行にもとづくソ連関係本や「古巣」の感覚に依拠したドイツ関係本の刊行をしていても、日本の政治状況や国際情勢、日米関係に強い関心が向かわなかったとしても、やむをえないだろう。
 主観的・心理的・精神的に、西尾幹二個人は1989-91年以降よりも「安定」していたのだ。
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 04 「安定」したままでなく、状況が変化した(と西尾は感じた)のは、1996.12/1997.01の〈新しい歴史教科書をつくる会〉発足と会長就任だっただろう。それまでよりも「著名人」となり、社会・政治に関する発言も求められるようになった。
 そして、橋本龍太郎(1996-98)、小渕恵三(1998-2000)、森喜郎(2000)の各首相時代には特段の政治的発言をしていないようだが(自社さ連立での村山富市首相と同内閣(1994-96)・戦後50年談話についても同じ)、小泉純一郎内閣が誕生して(2001年)以降、突如として?<政治評論家>をも兼ねるようになる。小泉を「狂人」、「左翼ファシスト」と称し、いわゆる郵政解散選挙では反対(元)自民党候補を応援するという「政治的実践活動」まで行なった
 政治状況、国際情勢の把握も必要だから、大急ぎで、付け焼き刃的に?「勉強」したのだろう。ニーチェやドイツに関する素養、観念的「自由の悲劇」論では足りない。
 そして、今回の冒頭で言及したのは、1999年と2005年の文章だ(「つくる会」設立後、分裂前)。
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 05 さて、日本の政治状況、国際的状況を把握しようとした際、容易に参照し得たのは、〈日本会議〉史観だっただろう。つまり、グローバリズムからナショナリズムへ、「反共」だけでなく「日本」重視と「反米」がむしろ重要だ、という時代感覚だ。
 その際に、どの程度強くかは不明だが、西尾幹二が潜在的に意識したのは、ニーチェが生きた時代、そして従来の価値観はもはや通じず、「新しい」価値・哲学等が必要だ、というニーチェの基本的主張だったと思われる。
 西尾幹二は、自分をある程度は、ニーチェに擬(なぞら)えていたのだ。
 ニーチェの一部しか知らないままで、ニーチェを「ドイツ文学」的にではなく、構造的・歴史的・「哲学」的に理解することのないままで。
 誰でも、あるいは多くのとくに政治活動家や政治評論家たちは、自分の生きている時代は将来にとってきわめて重要な、分岐点にある時代だ、と思いたがるものだ。
 ニーチェにもおそらく、そういう意識・感覚があっただろう。
 西尾幹二にとっても、1989-1991年の前と後は、質的に異ならなければならなかった。「新しい」時代なのだ、「反共」だけを唱えてはいけないのだ。
 2010年に、こう書いた。
 1990年頃の「冷戦の終焉」までの「日本の保守の概念」は日本の「歴史や伝統に根差したものではなく、『共産主義の防波堤』にすぎなかった」
 月刊正論2010年10月号「左翼ファシズムに奪われた日本」、p.45。
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 06 これで、政治・国際情勢に関する西尾幹二の「根本的間違い」の原因・背景の叙述を終える。今回書いたのが、その第三点だ。
 その他、西尾幹二に関して指摘ておきたいことは、ニーチェに関係することも含めて、「山ほど」ある。
 ——

2484/Turner によるニーチェ ⑧。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第8節。
 (01) ニーチェは、ワーグナーと決別することで、ある意味ではロマン主義の継承物とも別れていた。彼の思想にはその要素の多くが維持されることになるけれども。
 彼は、より多く啓蒙思想と結びついた。
 しかし、ニーチェは、理性とその行使に対して批判する姿勢を明確に維持した。1870年代半ばまでにはワーグナー現象を批判したように。//
 (02) 1870年代半ばまでにニーチェは、後年の彼の著作の全てに影響を与えた結論に達していた。
 歴史上初めて、人間は最も過激な態様で、神なき世界に住むという事実に直面しなければならないだろう。
 これまでの文筆家は神の存在または非存在を否定し、疑問視し、あるいは公然と肯定を主張してきた。
 しかし、ニーチェは、哲学的思索の対象の一つとしてはこの疑問に接近しなかった。
 彼にとって、神なき世界という見通しは、人間の道徳史上の重大な転換点を意味した。
 人間は、高次のまたは超越した何物かとの関係をもたない価値を設定するのを余儀なくされるだろう、ということを意味した。//
 (03) 彼の見方と従来の科学的または理性的な自由思想家のそれとの違いは、年上のDavid Friedrich Strauss の書物に対するニーチェの批判に見ることができる。Strauss は、知識人たちの中にあるキリスト教信仰の解体に貢献していた。
 ニーチェは、こう書く。
 「彼は見事な率直さで、もうクリスチャンではないと公言する。だが、彼は、誰の心の平穏も乱そうとはしていない。
 一つの結社を壊すために一つの結社を設立するのは矛盾すると、彼は思っているのだろう。—これは実際にはさほどに矛盾してはいないのだが。
 確実に粗雑に満足して、彼は我々の猿の系統主義者の汚れた外套の中に身を隠し、ダーウィンを人類の最大の恩人だとして称賛する。
 しかし、彼の倫理が全体として、『何が世界についての我々の観念なのか』という疑問に依存することなく構成されていることが分かると、我々は混乱する。…/ 
 Strauss は、かつていかなる思想も人間をより善良で、より道徳的にし得ていない、ということすらまだ知らない。道徳を説くことはその根拠を見い出すのは困難であるのと同程度に易しい、ということも学んでいない。
 彼の課題の多くはむしろ、現実には存在する善良さ、思いやりの心、愛情、自己犠牲の精神を人間から取り去ることだった。そしてそれらをダーウィン主義者の仮説から導き、それで説明することだった。だが一方で、彼は命令(the imperative)に跳び込むことで〈説明〉という課題から逃げ出そうとしている。」(注15)//
 (04) Strauss の過ちは実際には、同時代のその他の著名な思想家全てのそれだった。
 どの思想家も安易に、キリスト教が存在しない中で、科学、人間性、リベラルな国家、あるいはナショナリズムのごとき他のものが、倫理の基盤を提供することができるだろう、と想定した。
 ニーチェは対照的に、安易な楽観主義のない自然主義(naturalism)を選んだ。
 ニーチェは、どの価値体系が支配すべきかを問題にしなかった。そうではなく、何が人間の社会的実在にある事実としての価値の根源なのか、を問うた。//
 (05) ニーチェの過激な道徳懐疑主義は、同様に過激な形而上学的懐疑主義に根ざしていた。
 言葉のかなり狭い定義をかりに用いるとすると、彼は適切にニヒリスト(nuhilist)だと見なされてよい。
 ニーチェの哲学的ニヒリズムは、世界には何らかの本源的な価値の何らかの形態がある、ということを否定するという形をとった。
 自然とその一部としての人間は、善や悪なくして、たんに存在している。
 世界(the universe)は、たんに、ある。
 それを超えては、またはその中には、いかなる高次の価値も存在しない。
 存在するという現象の中には、別の道徳を越える一組みの諸道徳を正当化するものはいっさい存在しない。
 彼がかつて、こう宣言したようにだ。
 「道徳的現象なるものは存在しない。現象の道徳的解釈だけがある。」(注16)//
 (06) ニーチェはこの哲学的立場によって、認識論の特定の様式へと至った。キリスト教に対する攻撃へと、当時のリベラルな政治の批判へと。
 そしてこれら全てが、彼の道徳に関する問題にかかわっていた。
 ニーチェが敢然と突きつけようとしたのは、世界の全体的に自然主義的な解釈の可能性と必要性だった。
 このことが含み得るものは、ある意味では、彼の三つの著作のタイトルに認めることができる。//
 1. 〈善悪の彼岸〉(1886)—世界と生への接近方法は、かつては道徳的または善または悪と考えられたものを超越したものでなければならない、と示唆する。
 2. 〈道徳の系譜〉(1887)—諸道徳は永遠に存在するのではなく、歴史と発展がある、と示唆する。
 3. 〈偶像の黄昏、あるいは金槌でいかに哲学するか〉(1888)—現存の偶像または哲学、道徳、宗教を、新しい出発のために破壊することの必要性を示唆する。//
 ——
 第9節へとつづく。

2483/Turner によるニーチェ ⑦。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。下線は試訳者。
 ——
 第7節。
 (01)  言うまでもなく、ワーグナーは〈悲劇の誕生〉に喜んだ。
 ある意味ではそれは、ワーグナー自身の1850年代の理論的著作を遡ってたどったものだった。
 当時の標準からすると、ワーグナーとニーチェのいずれも、非正統派であり、アカデミズムの標準を軽侮していた。
 ニーチェは、脚注をいっさい付けなかった。
 ワーグナーが把握できなかったのは、かくも立派に執筆することのできる者が、家族用のクリスマスの買い物をする子分または追従者にとどまることに満足していなかっただろう、ということだった。
 実際に、ワーグナーとの破局の理由の一部は、青年がその知的成熟期に入ったということでもあった。
 〈悲劇の誕生〉の後でさらに、もう一冊の書物をワーグナーに捧げなかったという理由でワーグナーから批判を受けるようなことになるとは、ほとんど誰も予見できなかった。
 (02)  しかしながら、ワーグナーとの決裂には、もっと根本的な別の理由があった。
 第一は、ワーグナーは、新しいドイツの中産階層エリートたちにもてはやされるにつれて彼自身の芸術的かつ文化的目標を裏切った、ということだった。
 ニーチェはまた、バイロイトでの〈The Ring of Niebelung(ニーベルングの指輪)〉の初演に深く動揺した。なぜなら、彼が期待したのはドイツ・ナショナリズムの賞賛にほとんど似たもの以上に、ヨーロッパでの悲劇の再生の瞬間だったからだ。
 その上演の年の1876年、彼は〈Richard Wagner at Bayreuth〉を出版していた。
 これは、親ワーグナーの最後の著作になった。//
 (03) 第二はワーグナーとの決裂の主な理由で、ニーチェがワーグナーの音楽や芸術の理論の多くを拒否するようになった、ということだ。
 拒絶する理由の核心にあったのは、病的なキリスト教や公然たる人種主義を伴ってのパルツィバル(Parsifal,アーサー王伝説)の登場だった。
 このときまでに彼は、初期のショーペンハウアー支持者からヴォルテール(Voltaire)や啓蒙思想の価値の支持者へと変わった。
 彼はまた、音楽の好みを変え始めて、ビゼー(Bizet)の〈カルメン〉が好きになった。その掻き立てる旋律の音楽はワーグナーに代わる救済になる、と感じた。
 1888年に彼は、最も激しいワーグナー批判書を出版した。その年にワーグナー自身は死んだが、その寡婦はワーグナー崇拝者たち(cult)を作っていた。
 〈ワーグナーへの論告〉でニーチェは、こう論述した。//
 「ワーグナーの芸術は、病んでいる。
 彼が舞台へと持ち込む問題は—全くのヒステリー患者の問題だが—、彼の感情の発作的痙攣、強すぎる感受性、より刺激的な香味を求める嗜好、原理として装っているが、英雄やヒロインを彼が選んでいるという不安定さ、だ。彼は英雄やヒロインを生理学的類型として見ている(病理学の回廊だ!)。
 まとめるならば、これらは、疑う余地のない病気の状態だ。
 〈Wagner est une névrose. 〉(ワーグナーは神経症患者だ。)」(注14)//
 ——
 第8節へとつづく。

2481/Turner によるニーチェ ⑥。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。第5節→No.2459/2021.12.23.
 ——
 第6節。
 (01)  ニーチェには、全てを破壊するソクラテスの知性主義を説明する悪役がある。
 それは、ソクラテスの声または悪霊だ。
 本能はほとんどの人々にとって、創造性の根源であり、自分たちを掻き立てる力だ。
 意識それ自体は合理的で、かつ後方にある。
 しかし、ソクラテスの場合は、全く逆だ。
 ソクラテスの内部的自己は前方にあり、つねに議論をして、本能的自己を妨害している。
 「全ての生産的人々の場合、本能はまさに創造的で肯定的な力であり、意識は批判的かつ警告的に振舞う。しかし、それとは対照的にソクラテスの場合は、本能は批判者になり、意識が創造者になる。—これこそが、〈欠陥による〉(per defectum)本当の畸形だ!」(注7)
 (02)  ソクラテスの本能が彼の知性を克服するならいつでも、彼の内的で知性的な声は働きを止める。
 この点では、ソクラテスは、行動に向かえば内部的な本能によって止められる、巨大で創造的な機械だ。
 そして、彼が死を選んだことは、ギリシャの青年たちには英雄主義の模範ではなく、哲学上の生の新しい模範となった。
 それと同時に、本来の合理性と知性への自信において、彼は、悲劇を不可能にする楽観主義の一種を人格化した。//
 (03)  芸術家は対象または問題を覆い隠して愉快になるものだが、ニーチェがソクラテスに原因を求める「理論的人間」は、覆いを剥ぎ取って対象を説明することで愉快になる。
 ニーチェがつぎのように称するものを生み出したのは、この理論的な外貌だ。
 「ソクラテスという人物のうちに初めて出現した深遠な〈妄想〉(delusion)。すなわち、思考とは、因果律がつながる糸として、存在の最も深い淵へと辿りつき、実在をたんに認識するのみならず、それを是正することすらできるという、揺るぎなき確信。」(注8)//
 (04)  この点で、ソクラテスは、将来の全ての科学の父だった。
 死ぬことを世俗世界で受容できるものにしたのは、まさに彼だ。
 これに関して、ニーチェは、「我々は、ソクラテスのうちに世界史の一つの転換点を見ざるをえない」(注9)、と書いた。
 ソクラテスにとっては全ての邪悪は過ちであり、人間の仕事で最も高貴なのは、過ちから本当の知識を切り離すことだ。//
 (05)  精神(mind)を探究し是正することは、理解して是正する新しい言葉をつねに探すことになるだろう。しかしそれは究極的には、通過することのできない境界に出くわだろう。
 その境界が、悲劇が再び出現し、回答不能のことや非論理的なものが再び自己主張をする場所だ。
 この境界線に、偉大な神、Dionysus が再び現れるだろう。//
 (06)  私はこう言いたいのではない。ニーチェがソクラテスについて言ったことの多くは、George Grote の全く単調な分析に実際に直接的に由来している、と。
 本当にニーチェがしているのは、合理性と科学の声というGrote の見解のほとんどを受容しつつ、さらに、裁きの法廷に合理性と科学を持ち込む人物像を作るために用いる、ということだ。
 Grote は、改革に導くものとして、合理性を称賛した。
 ニーチェは、生がもつ本能を抑制するものとして、合理性を嫌悪した。
 また、イギリスの功利主義も嫌悪し、Grote のソクラテスを攻撃することで、近代功利主義、近代科学、およびJ. S. Mill が支持した近代の批判的個人主義を攻撃した。
 (07)  ニーチェは誰を、合理的ソクラテス、古代の悲劇を破壊した古代の理論家に、対峙させたのか?
 ソクラテス、科学、批判的合理主義を融解させる力についての解答は、R・ワーグナーとその音楽だった。
 ニーチェはショーペンハウワーの美学を論じて、音楽は悲劇についての古代のDionysus 的世界の基礎的な鍵だったこと、音楽は新しい象徴主義が出現するのを認めたことを、強調した。
 最も重要なことは、音楽が悲劇的神話を誕生させることができた、ということだ。「この(音楽の)精神のみが、悲劇を誕生させることができる」(注10)//
 (08)  音楽は、個人主義を消滅させる愉しみを生み出すことができた。
 しかしながら、ニーチェによると、ほとんどの現代音楽ではこの目標が達成されていない。
 とくに、大歌劇は、この点で失敗した。
 ニーチェはさらに進んで、こう宣言した。
 「我々は、このソクラテス文化の内奥にある近代的内容を〈オペラ文化〉と称するならば、最もよく表現することができる」。(注11)
 これはもちろん、オペラと音楽に関するワーグナーの理論を直接に参照したものだった。
 ニーチェは、しかし、Dionysus 的経験の深さをドイツとヨーロッパで再び取り戻すことができるという希望を見た。そして、こう宣言した。
 「ドイツ精神のDionysus 的根底から、一つの力が蘇った。この力はソクラテス的文化の根本的制約とは何の共通性もない。
 むしろそのソクラテス的文化はその力を、恐ろしくて説明不可能で、威圧的で敵対的なものだ、と感じさせる。その力とは、すなわち〈ドイツ音楽〉だ。
 この音楽の、Bach からBeethoven 、Beethoven からワーグナーへと経てきた力強くて輝かしい過程を知る。」(注12)
 (09) ワーグナーの音楽によって、Dionysus 的明察の深さが再びApollon 的様式と結びつき、新しい美と道徳の時代が始まろうとしていた。
 「そのとおり。友人たちよ、私のようにDionysus 的な生と悲劇の再生を信じよ。
 ソクラテス的人間の時代は終わった。
 ツタの冠を頭に乗せ、テュルソス〔酒神バッカスの杖〕を手に取れ。
 虎やヒョウがきみたちの膝の周りでじゃれてまとわりつきながら、下に横たわっていても、驚くな。
 今こそ勇気を持って悲劇的人間にならなければならない。
 なぜなら、きみたちは解放されて救済されるだろうからだ。」(注13)
 ——
 第6節、終わり。

2480/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ⑦。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
 ——
 第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?③。
 (17) レーニンは、1917年の晩夏に〈国家と革命〉を書いた。いつ実行するか、成功するかどうか分からないままで、(Jacobin 派やブランキストと区別される)マルクス主義者の権力奪取ための神話を正当化するためだった。
 彼のモデルは、マルクスのパリ・コミューンに関する〈フランスにおける内乱〉(1871年)だった。この書物をマルクスは、労働者に「英雄的伝説」(彼の言葉)を与えるために書いた。
 マルクスはこの書物で、資本主義から共産主義への移行を指揮するプロレタリアート独裁という観念を展開した。
 彼はさらに、「ゴータ綱領批判」での考えを発展させて、共産主義の低い段階と高い段階を区別し、国家が「プロレタリアートの革命的独裁」にすぎなくなる政治的な過渡的移行期間に論及した。(MER,p.538.)
 マルクスは、革命的独裁と完全な共産主義の間に、相当に長い移行期間を想定していた。
 「労働者階級は、コミューンから奇跡を期待しなかった。
 彼らは、(人民の布令によって)導入する既製のユートピア像を持たない。
 彼らは、連続する歴史的過程を通じて、環境と人間を変革する、長い闘いを経由しなければならないだろう。
 彼らは実現する理想像を持たないが、崩壊している古いブルジョア社会それ自体が胚胎する新しい社会の諸要素を解き放つ理想像は持っている。」(注16)//
 (18) 対照的に、レーニンは、移行期間は短いものと想定した。
 資本主義は「会計(accounting)と検査(controll)」と単純化されたので、ボルシェヴィキは、必要としないものを「切り落として」、既にある機構を奪い取るだけでよかった。
 武装労働者たちは「生産と分配を〈検査〉し、労働と生産物を記帳(account)しつづけ、受領書を発行する、等々」をするだろう。
 検査はもちろん権力だ。
 技術者、農学者その他の専門家たちは今は資本家のために働いているが、「明日にでも武装した労働者たちの望みに服従して」仕事をするのがよいだろう。(LA,p.382)
 〈全ての〉市民が、武装労働者で成る国家の被用者となる。 
 〈全ての〉市民が、〈単一の〉全国的な国家「連合」(syndicate)の被用者かつ労働者となり、労働の平等と賃金の平等が保障される。
 「それからの離反はないだろう。どこにも『行く場所はない』だろう。」
 全員が、管理すること、習慣から「共同体の単純で基礎的なルール」を遵守することを学習すれば、完全な共産主義への移行が始まるだろう。(LA,p.383)
 (19)  マルクスとエンゲルスの著作にある残虐で暴力的な文章部分に注目して、それは豊富にあったのだが、レーニンは、いかなる法にも制約されないプロレタリアート独裁、純粋な実力(pure force)の王国、を提唱した。
 「プロレタリアートは、国家権力、中央集権的な実力の組織、暴力の組織を必要とする。搾取者の抵抗を粉砕するために、また、莫大な人民大衆—農民、小ブルジョア、準プロレタリアート—を社会主義経済の組織化という仕事に導くために。」(LA,p.328.)
 コミューンは、敵を粉砕しなかったがゆえに失敗した。
 勝利するプロレタリアートは、強制力とテロルによってその支配を維持しなければならない。
 そう考えない者は、空想者(utopian)だ。
 レーニンは、アナキストや、ブハーリンを含めて、革命のすぐ後に国家の廃絶を望まない「左翼」ボルシェヴィキに対抗して、こう反論した。
 「我々は空想者ではない。我々は〈ただちに〉全ての管理と全ての服従化を行うことをしないで済ますなどと夢見ることをしない。…。
 違う、我々は、現在にある人民とともに社会主義革命を欲する。彼らは、服従化、統制、監督者と会計者なしで済ますことができない。」(LA,p.344.)
 この書物は全体が権力への讃歌で、それと結びついていたのは、権力でのみ達成することができるものへの幼稚な信仰と、国家や経済を作動させるものに関する驚くべきべき無知だった。
 当時はプロレタリアートが人口の3パーセントだけを占めていた。これは、「ブルジョア民主主義」と多数派による支配を無視する、もう一つの理由だった。//
 (20)  共産主義の初期段階についてのレーニンの考え方は、ニーチェによる意思の称賛を、ニーチェのアリストテレス的エリート主義とは何ら共通性がない原始的平等という基本方針と結びつけた。
 しかしながら、平等主義と権力への意思は、相互に矛盾してはいない。ニーチェがこう考察したとおりだ。
 「平等への意思は、権力への意思だ」。(WP=「権力への意思」, p.277)
 レーニンの平等主義は、大衆のアナーキーで平準化したい本能に訴えた。そして、ブハーリンや、コロンタイのような「左翼ボルシェヴィキ」への一種の譲歩だった。
 (党外から、Bogdanov は「劣った者による平準化」と非難した。)(注17)
 労働者は社会主義への用意ができていない、ソヴェトは計画する有効な仕組みではない、とのBazarov の主張に反論する追加の論文を、レーニンは書いた。そこで彼は、1905年にソヴェトを生んだ革命的階級の「創造的情熱」を称賛し、再び国家を動かすことの容易さを強調した。(LA,p.399-p.406.)(注18)
 <一行あけ>
 (21)  1917年のほとんど、レーニンのスローガンは「全ての権力をソヴェトへ」だった。
 権力掌握後はすぐにこのスローガンを下ろし、数世紀にわたる奴隷状態で荒廃した、「修正」されなければならない「人間的素材」について語り、組織、紀律、革命的意思の必要を呼び起こした。
 1918年1月、彼は個人と諸階級全体に対する強制力とテロルの行使を擁護し、「決断力のなさ」、略式の逮捕、処刑や非ボルシェヴィキの新聞と雑誌の閉刊に不平を言う「意気消沈している知識人」に対する多大なる軽蔑心を表明した。(LA,p.424-6.)
 1918年3月には、こう宣告した。
 「ドイツ人から紀律を学べ。そうしなければ、一民族としての我々は破滅する。我々は永遠の奴隷状態のままで生きなければならなくなる。」(LA,p.549.)
 また、ロシアはブレスト=リトフスク条約を受諾しなければならないと主張し、それに反対する「知的な超人たち」をこき下ろした。(LA,p.543.)
 この言葉は、ブハーリン、コロンタイ、および1792-3年のジャコバン派のように防衛戦争を革命戦争に転化しようとするその他の「左翼ボルシェヴィキ」を指していた。
 レーニンは、別の論文で(同じく1918年3月)、条約は我々の解放への意思を固くし、鍛える、と言った。(LA,p.434.)//
 (22)  「ソヴィエト政府の差し迫った任務」(1918年4月)では、「意思」への言及が同じ頁に4回も現れた。すなわち、「絶対的で厳格な意思の統一」、「一つの意思へと彼らの意思を従属させる数千人」、「単一の意思への<疑いなき服従>」、「労働者の指導者の意思に<疑問を持つことなく従う>」。(LA,p.455.)
 「いかにして競争を組織するか」(1918年1月、1929年に出版)では、「ぞんざいさ、不注意、だらしなさ、神経質な焦り、行動しないで議論する傾向、仕事代わりの会話」を嘆き、「肉体労働から精神労働を分離する異様さ」を非難し(Bognanov が好んだ主題)、「寄生虫を排除する残酷な手段」を説明した。(LA,p.426-p.432.)//
 (23) レーニンは「偉大な始まり」(1919年7月)で、日常生活での英雄主義と意思を呼び求めた(戦士気分の新しい配置)。
 その機会は、〈subbotnik〉運動(賃金なしの土曜日労働)で、前の5月に鉄道労働者の何人かによって始められた。
 彼らの英雄主義は、習慣の革命の始まりであり、我々自身にある保守主義、紀律のなさ、小ブルジョア・エゴイズムに対する勝利、過去の(奴隷的)慣習に対する勝利だった。
 英雄熱による一つの行動だけでは、社会主義を建設しないだろう。必要なのは、〈ふつうの毎日の仕事〉での最も永続する、最も粘り強い、最も困難な、大衆の英雄主義だった。(LA,p.480.)
 社会主義の建設も、純化を必要とした。
 「自由恋愛の要求は、プロレタリア的ではなくブルジョア的なものだ。
(LA,p.685.)
 「革命は集団と個人による全ての神経の集中と結集を求める。
 D'Annunzio の頽廃した英雄たちにはふつうの乱痴気騒ぎの状態に耐えることはできない。」[D'Annunzio のニーチェ主義はよく知られていた。]…。
 プロレタリアートに必要なのは、明瞭さ、明瞭さ、さらに明瞭さだ。
 ゆえに私は繰り返す。弱くなること、活力の無駄使いや消失があってはならない。
 自己抑制と自己紀律は奴隷的ではない。」(LA,p.694)
 レーニンは「青年同盟の任務」(1920年10月)で、「人間を超える、階級を越える考えにもとづくいかなる道徳」をも拒絶した。
 「我々の道徳は、プロレタリアートの階級闘争の利益に全て従属する。
 階級闘争は継続している。その形態を変えただけだ。」(LA,668-9.) //
 (24) 〈「左翼」共産主義、左翼小児病〉(1920年4月)でレーニンは、ヨーロッパでの連立政権への参加に反対する純粋主義者を攻撃した。そして、内戦はほとんど終わっているとしても、闘争は継続しているがゆえにプロレタリアート独裁は存続しなければならないと強く主張した。
 党の内部では、「最も厳格な中央集権制と紀律が、プロレタリアートの〈組織上の〉役割(そしてこれが主要な役割だ)が正しく、成功裡に、かつ勝利を得るべく履行されるために、要求される。
 プロレタリアート独裁は、血を流しても流さずとも、暴力的であれ平和的であれ、教育的であれ管理的であれ、古い社会の実力と伝統に対する粘り強い闘いを意味する。」(LA,p.569,)
 1920年の末にかけて、レーニンは、純粋な実力の王国としてのプロレタリアート独裁の考え方を繰り返した。(全集31巻p.353.)//
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 (注16) Marx, The Civil War in France.
 (注17) Bogdanov, Teketology, p.25. 
 (注18) Francis King, The Political & Economic Thought of Vladimir Aleksandrovich Bazarov (1874-1904) , 1994, dis., p.104.
 ——
 第一節・レーニン、終わり。

2478/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ⑥。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 「Nietzschean」は、ニーチェ的、ニーチェ主義的(・ニーチェ主義者)、またはそのまま「ニーチェアン」と訳す。
 第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。 
 参照されているレーニン全集(LCW)の巻数は日本語版(大月書店)と同じ。該当箇所を確認したものは頁を追記したが、訳文をそのまま模写してはいない。
——
 第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?②。
 (09) レーニンは「党組織と党文化」(1905年)で、「文学上の超人」や「ブルジョア的なアナーキー個人主義」(ニーチェと関連していた)を非難した。
 党の文学は「プロレタリアートの共通する信条の〈一部〉、プロレタリアートの前衛が作動させる単一の偉大な社会民主党機構のネジと歯車、でなければならない。」(LA,p.148-152.)
 換言すれば、党の文筆家は、レーニンが指揮する革命的合唱団の一部になるだろう。//
 (10) レーニンは1906年のあと、その神話を、英雄的なプロレタリアートへと注目させるよう修正した(〈何をなすべきか〉からの変化〉、また、ソヴェト(労働者評議会)やパリ・コミューンに対しても。(全集9巻p.141,8巻p.206-8.)
 こうした変化によって、神の建設(God-building)のような「精神的大酒飲み」には汚染されていないマルクス主義の系譜に連なるものに、彼の神話はなった。
 マルクスやエンゲルスにとって、革命的暴力は助産婦だった(マルクスには実際の出生の血と痛みは生々しかった)。
 レーニンにとっては、バクーニンやソレル(Sorel)にもそうだったように、暴力は心理を変革する体験だった。
 「ロシアの人民は、1905年より前とは同じではない。
 革命は彼らに闘うことを教えた。
 プロレタリアートは彼らに、勝利をもたらすだろう。」(全集16巻p.304.)=(日本語版全集16巻「革命の教訓」,p.321.)
 大衆自身による武装闘争だけが、彼らの解放を実現することができる。
 1905年の革命は、プロレタリアの革命だった(漸進主義のマルクス主義者たちが主張するブルジョア民主主義的なそれではない)。特殊プロレタリア的な「闘争形態」—ストライキ—でもって、プロレタリアートの前衛が指導したものだからだ。
 闘争は、大衆に新しい精神を吹き込んだ。
 それ以降、彼らは止まりはしないし、誰をも期待しない。彼らが選ぶのは、勝利か死か、だ。
 漸進主義のマルクス主義者は臆病な日和見主義者であり、「停滞し、気後れし、無力の、そして崩壊寸前のブルジョア社会の心理と決裂する能力のない」人間たちだ。(全集16巻p.307-9,p.311-2.)
 ニーチェ的な用語では、彼らは、「奴隷の道徳」の持ち主だ。//
 <一行あけ>
 (11) Bogdanov 派と論戦するための理論的情報を求めて、レーニンは、彼が読書会に所属するGeneva 〔スイス〕やSorbonne 〔パリ〕の図書館で、当時の西洋哲学書を読んだ。
 ニーチェの著作のフランス語訳は、Geneva 図書館の一般には流通していない収集物の中にあった。
 レーニンはニーチェ、モーパッサン(Maupassant)その他を読むために、約二週間、毎日そこへ通った。(注12)
 なぜ、Maupassant だったのか?
 おそらくレーニンは、ショーペンハウアーの底流を拾い上げたのだ。そのSchopenhauer 的底流は、Lunacharsky、August Strindberg、Joseph Conrad、Gabriele D'Annunzio、Isaac Babel のようなニーチェにも魅惑されている知識人たちを惹き付けていた。
 Lunacharsky はとくに、Maupassant をニーチェと関連させていた。//
 (12) レーニンの〈哲学草稿〉でニーチェへの言及がほとんど隠されているのは、少なくとも表面的には、ニーチェの思想にすでに通じていたことを示している。
 Ludwig Stein の〈現代哲学の潮流〉(1908年)を概約してレーニンが一覧表にしている10の範疇のうち7番目は、「個人主義(ニーチェ)」だった。(全集38巻p.54.)=(日本語版全集38巻・哲学ノートp.37.)
 ついで参照したものはレーニンのノートにあり、「道徳の問題」という表題が付けられていた。//
 「ゆえに、新しい哲学は、まずは道徳の諸原理だ。
 その諸原理は、〈行動の神秘主義(mysticism)〉と定義できるように思われる。
 〈この考え方(attitude)は新しいものではない。
 ソフィストたち(Sophists)が採用した考え方であり、彼らには真実も過ちもなく、ただ成功(success)だけがあった。〉 …。
 Stirner やニーチェのような知的アナキストの諸原理は、これと同じ前提に立っている。…。/
 〈LeRoy のようなある種の近代主義者が実用主義(pragmatism)からカトリシズムの正当化を導くとき〉、彼らはたぶん、一定の哲学者たち—実用主義の創設者たち—が得ようとしたものを実用主義から導かない。
 〈しかし彼らは、正当に引き出し得る結論を、それから導いた。〉 …。/
 〈実用主義の特徴は、成功するものは全て正しい(true)ということであり、どんな方法であれその瞬間に適合しているものは全て正しいのだ。すなわち、科学、宗教、道徳、習慣、決まり事。〉
 全ての事物が、真摯に受け取られなければならない。そして、目標を達成し、行動を可能にしてくれるものを、真摯に受け取らなければならない。」(全集38巻p.454-5.)=(日本語版全集38巻・哲学ノート421-2頁)。//
 言い換えると、真実(truth)とは実用主義的観念であり、組織化する原理だ。
 レーニン は、William James について多数のメモを書いた。
 モスクワのたいていの神探求者たち(Godseekers)は、James の実用主義をニーチェの反道徳主義と結びつけた。(注13)
 レーニンも、そうしたかもしれない。
 しかしながら、公式には、James をBogdanov やマッハ(Mach)に関連づけた。彼らは全て、真実を仮説にしていたからだ。(注14)//
 (13) レーニンは〈唯物論と経験批判論〉(1909年)で、政治でと同じく、哲学には中立の地点は存在しない、と主張した。
 全ての哲学が、階級利益に奉仕する。
 客観的現実と客観的真実の存在を否認することによって、「マッハ主義者たち」(Machians)はマルクス主義の敵のための道を掃き清めていた。 
 Bogdanov 派は、(現実とマルクス主義に対峙する)不可知論(agnosticism)と信仰主義(fideism)(「神の建設」への暗示)であるために有罪だった。
 レーニンは、マルクスはFeuerbach を新しい宗教を作ろうとしているとして非難した、と記した。 
 Bogdanov 派は、Dietzgen が唯物論者である以上に、彼の「錯乱」に従っていた。(p.254.)
 さらに、かりに「組織」が問題となる唯一のことならば、一つの「真実」は別のものと同じく有効だ。
 「真実が人間の経験を組織する唯一の形態であるならば、言ってみれば、カトリシズムの教えもまた、真実だ。
 カトリシズムが『人間の経験を組織する形態』であることに、微塵の疑いもないからだ。」(p.122)
 さらに加えて、Bogdanov の「認知(cognitive)社会主義」は、「正気ではない。…。」
 「社会主義がそのように見なされるのならば、イェズス会修道士は『認知社会主義』の熱狂的な支持者だ。彼らの認識論上の基礎にあるのは、『社会的に組織された経験』としての神学(divinity)だからだ。
 それだけでは客観的真実を反映しない(Bogdanov はこれを否定するが、科学が反映する)。そうではなく、特定の社会諸階級による大衆の無知の利用を反映している。」(p.234)//
 (14) 〈唯物論と経験批判論〉にはニーチェへの言及がない。しかし、「マッハ」が「ニーチェ」の代わりに用いられているなら、レーニンの論述の基本的趣旨は、見事に変わらないままだ。
 では、レーニンはなぜ、ニーチェを語らなかったのか?
 推測するに、論述を「科学的」次元に保つことで、検閲を免れ、争点になっている権力政治上の問題をごまかそうとしたのだろう。
 レーニンにとって、「真実」とは、ボルシェヴィキが勝利するのを可能にするものだ。—〈成功するものは全て正しい。〉
 要するに、マルクス主義はニュートンの法則のごとく絶対に不変の真実だ、とレーニンは論じていた。
 心理学的には、彼は正し(right)かった。
 活性化するイデオロギーは、確実性を必要とする。
 民衆は、仮定の真実のために収監されたり死んだりする危険を冒そうとはしない。//
 (15) レーニンは追加の論文で、「神秘主義の流行」はもちろん〈Landmark〉や「マッハ主義」という従来のマルクス主義者によって伝えられた「従順」と「後悔」のイデオロギーについて論じた。そしてこの現象の原因は、社会的政治的状況の異様で強く突然の変化に対する無思考の(つまり自然発生的な、ゆえに非合理的で非科学的な)反応にあるとした。
 「『全ての価値の再評価』、根本的諸問題の新しい研究、理論、基礎的原理や政治のABCへの新しい関心が生じるのは、当然のことで、避けられない」。
 このことの理由は正確には、「マルクス主義は生命のないドグマではなく、行動のための生きている指針」だからだ。
 あるマルクス主義者たちは、マルクス主義の規準を理解することなく「決まりきった一定の『スローガン』」を学んできた。
 彼らの「全ての価値の再評価」(この句をレーニンは繰り返す)は、「マルクス主義の最も抽象的で哲学的な根本部分の修正」へと、「空虚な文句の頒布」へと、そして党内での「マッハ主義の蔓延」へと、導いた。(全集17巻p.39,p.42-43.)=(日本語版全集17巻「マルクス主義の歴史的発展の若干の特質について」p.26-p.30.)//
 (16) レーニンは1917年4月に、ボルシェヴィキ党に対して名称を(「ブルジョア的」社会民主党と区別するために)共産党に変更するよう迫った。これは翌1918年の3月に行われた。
 レーニンはまた1917年に、新しいスローガンを作った。—「全ての権力をソヴェトへ」、「搾取者を搾取せよ」。これは再び、彼の言葉への敏感さを示していた。
 ボルシェヴィキ政権の存続が危機にあった内戦の真只中に、レーニンは新しい<ロシア言語辞典>四巻本の発行を支援した。革命がもたらした社会的変化は「言語の前線」での直接的行動を要求する、と考えたからだった。(注15)//
 --
 (注12) Venturelli, Nietzsche Studien 1993, p.321-4. レーニンが調べた書物の一覧がp.322 にある。
 (注13) Rosenthal.
 (注14) Lenin,唯物論と経験批判論,p.355n.
 (注15) Michael G. Smith, Language & Power in the Creation of the USSR (1998), p,42.
 ——
 第一節③へとつづく。
  

2477/西尾幹二批判048—根本的間違い(4-2-2)。

 西尾幹二の思考はじつは単純なので、思い込みまたは「固定観念」がある。
 その大きな一つは「共産主義=グローバリズム」で<悪>、というものだ。
 典型的には、まだ比較的近年の以下。この書の書き下ろし部分だ。引用等はしない。
 西尾・保守の真贋(徳間書店、2017)、p.16。
 そして、その反対の「ナショナリズム」は<善>ということになる。日本会議(1997年設立)と根本的には差異はないことになる。
 この点を重視すると、西尾の「反米」主張も当然の帰結だ(「反中国」主張とも矛盾しない)。
 さらに、EU(欧州同盟)も「グローバリズム」の一種とされ、批判の対象となる(英国の離脱は単純に正当視される)。
 ①2010年/月刊正論4月号。同・日本をここまで壊したのは誰か(草思社、2010年)所収。
 項の見出しは「EUとアメリカとソ連が手を結んだ『歴史の終わり』の祝祭劇」。
 「フクヤマの『歴史の終わり』…。これをそのままそっくり受けてEUの理念が生まれ、1992年に…EUが発足します」。
 ②2017年/月刊Hanada2月号。同・保守の真贋(上掲)、所収。
 「EUは失敗でした。
 共産主義の代替わり、コミンテルン主導のインターナショナリズムが名前を変えてグローバリズムとなりました。
 それがEUで、国家や国境の観念を薄くし、ナショナリズムを敵視することでした。」
 何と、西尾幹二によると(ほとんど)、「コミンテルン主導のインターナショナリズム」=「グローバリズム」=「EU」なのだ。
 それに、1992年のEU発足以前に、EEC(欧州経済共同体)とかEC(欧州共同体)とか称されたものが既にあったことを、西尾は知って上のように書いているのだろうか。
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 前回にいう後者Bについて。
 さて、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ、という西尾幹二の基本的論調の間違いの原因・背景の第二の二つ目(B)と考えられるのは、こうだ。
 独特な、または奇抜な主張をして、または論調を張って、「保守」の評論者世界の中での<差別化>を図っていた(いる)と見られる、ということ。
 既出の言葉を使うと、文章執筆請負業の個人経営者として、「目立つ」・「特徴」を出す・「角を立てる」必要があった、ということだ。
 ソ連圏の崩壊は「第三次世界大戦」の終結だったとか、EUの理念はコミンテルン以来のものだ旨(今回の上記)の叙述とか、すでに「特色のある」、あるいは「奇抜な」叙述に何度か触れてきている。
 西尾幹二は<保守派内部での野党>的な立場を採りたかった、あるいはそれを「売り」=セールスポイントにしたかったようで、古くは小泉純一郎首相を「狂気の首相」、「左翼ファシスト」と称した。
 前者は書名にも使われた。2005年/西尾・狂気の首相で日本は大丈夫か(PHP研究所)。
 後者は、以下に出てくる。個別の表題(タイトル)は、その下。
 2010年/月刊正論4月号。同・日本をここまで壊したのは誰か(上掲)、所収。
 「左翼ファシスト小泉純一郎と小沢一郎による日本政治の終わり」。
 また、安倍晋三首相に対しても厳しい立場をとった。
 同・保守の真贋(2017年)の表紙にある、これの副題はこうだ。書物全体で安倍晋三批判を意図している、と評してもよいだろう。
 『保守の立場から安倍政権を批判する』
 さらに、つぎの点でも多くの、または普通の「保守」とは一線を画していた。<反原発>。この点では、竹田恒泰と一致したようだ。
 (もっとも、ついでながら、天皇位の男系男子限定継承論だけは、頑固に守ろうとしている。
 何度かこの欄で言及した岩田温との対談で、西尾はこう発言している。月刊WiLL2019年4月号=歴史通同年11月号。
 「びっくりしたのは、長谷川三千子さんがあなたとの対談で女系を容認するような発言をしたことです。あんなことを、長谷川さんが言うべきではない。」)
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 上のような調子だから、西尾の「反米」論が多くのまたは普通の「保守」派と異なる、「奇抜」なものになるのもやむを得ないかもしれない。
 既に引用・紹介したうち、「奇抜」・「珍妙」ではないかと秋月は思う部分は、例えば、つぎのとおり。
 ①2008年12月/日本が「一つだけナショナリズムの本気で目覚める契機」になるのは、「アメリカが、尖閣諸島や竹島、北方領土などをめぐって、中国、韓国そしてロシアの味方」をして「日本を押さえ込もうとしたとき」だ。
 ②2009年6月/「中国の経済的協力を得るためには、日本の安全でも何でも見境なく売り渡すのが今のアメリカ」だ。中国が「米国の最大の同盟国になっている」。アメリカは韓国・台湾・日本から「手を引くでしょう」が、「その前に静かにゆっくりと敵になるのです」。
 ③同/「日米安保は、北朝鮮や中国やアセアン諸国の対して日本に勝手な行動をさせないための拘束の罠になりつつあ」る。「ある段階から北朝鮮を泳がせ、日本へのその脅威を、日本を封じ込むための道具として利用するようにさえなってきている」。
 ④2009年8月/安倍首相がかつて村山・河野両談話を認めたのは「敗戦国」だと言い続けないと国が持たないと「勝手に怯えたから」で、「そういう轍のような構造に、おそらく中国とアメリカの話し合いで押し込められたのだろう」。
 ⑤2013年/やがてアメリカが「牙を剥き、従属国の国民を襲撃する事態に直面し、後悔してももう間に合うまい。わが国の十年後の悲劇的破局の光景である。」
 以上、かなり、ふつうではない、のではなかろうか。上の⑤によると、今年か来年あたりにはアメリカが「襲撃」してきて、日本には「悲劇的破局の光景」がある
 どれほど「正気」なのか、レトリックなのか、極端なことを言って「特色」を出したいという気分だけなのか、不思議ではある。
 しかし、2020年のつぎの書物のオビには、こうある。
 西尾・国家の行方(産経新聞出版、編集責任者は瀬尾友子)
 「不確定の時代を切り拓く洞察と予言、西尾評論の集大成」。
 上に一部示したような「洞察」が適正で、「予言」が的中するとなると(皮肉だが)大変なことだ。
 上の2020年書の緒言は、国家「意志」を固めないとして日本および日本人を散々に罵倒し、最後にこう言う。どこまで「正気」で、レトリックで、どこまでが<文筆業者>としての商売の文章なのだろうか
 「一番恐れているのは…」だ。「加えて、米中露に囲まれた朝鮮半島と日本列島が一括して『非核地帯』と決せられ」、「敗北平和主義に侵されている日本の保守政権が批准し、調印の上、国会で承認してしまうこと」だ。
 「しかし、事はそれだけでは決して終わるまい。そのうえ万が一半島に核が残れば、日本だけが永遠の無力国家になる」。「いったん決まれば国際社会の見方は固定化し、民族国家としての日本はどんなに努力しても消滅と衰亡への道をひた走ることになる」だろう。
 「憲法九条にこだわったたった一つの日本人の認識上の誤ち、国際社会を感傷的に美化することを道徳の一種と見なした余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義の行き着くところは、生きんとする意志を捨てた単純な自殺行為にすぎなかったことをついに証拠立てている」。
 以上。
 「生きる意志」を持ち出したり「感傷」的美化を嫌悪している点は、今回の最初の方にある「祝祭劇」という語とともに、ニーチェ的だ。これは第三点に関係するのでさて措く。
 さて、西尾の「洞察と予言」が適切だとすると、将来の日本は真っ暗だ。というよりも、「民族国家」としては存在していないことになりそうだ。
 どんなに努力しても「消滅と衰亡への道をひた走る」のであり、「余りにも愚かで閉ざされた日本型平和主義」は「単純な自殺行為」に行き着くのだ。
 日本が「消滅と衰亡への道」を進んで「自殺」をすれば、さすがに西尾幹二は「洞察と予言」がスゴい人物だったと、将来の日本人(いるのかな?)は振り返ることになるのだろう。これはむろん皮肉だ、念のため。
 ——
 第三点へとつづける。

2476/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ⑤。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 第二部の最初の章の「序」のあとの本文へと進む。
 なお、「Nietzschean」は、ニーチェ的、ニーチェ主義的(・ニーチェ主義者)、またはそのまま「ニーチェアン」と訳す。
 ——
 第二部・第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
 第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?
 (01) 疑問符を付しているのは、意図的だ。レーニンの「ニーチェ主義」(Nietzscheanism)の証拠は間接的だから。
 レーニンのレトリックには、確かにニーチェ的な響きがある。
 「意思」、「権力」および「紀律」(これはニーチェに関するApollo的解釈と符合する)は、彼の好みの言葉だ。
 レーニンは政治における「感傷」を嫌い、ほとんど生活様式のごとく闘争に喜びを感じた。
 このような嗜好に加えて革命的人民主義の「英雄的」伝統の称賛、1904年から1907年までのBogdanov との連携、Gorky との友人関係、ニーチェが染み込んだ一般的文化状況があったので、ニーチェがレーニンのマルクス主義解釈に影響を与えた(inform)、という高度の蓋然性はある。
 レーニンは自分のノートでニーチェに言及しており、クレムリンの執務室に一冊の〈ツァラストゥラ〉を置いていた。(注5)
 Gorky は、解放を目ざす大衆の闘いを指導するロシアの超人(Superman)を探していた。
 レーニンは自分がその役割を果たすと、または少なくとも「世界的な歴史的個人」(ヘーゲルの観念)だと考えたかもしれない。
 彼はブハーリンの、ニーチェ的要素のある帝国主義に関する書物に自分のその主題の本で回答し、プロレタリア国家の描写をして左翼ボルシェヴィキの「アナーキズム」に反論した。
 もちろん、レーニンはニーチェを読んで彼の権力への意思を得たのではなかった。しかし、ニーチェはおそらくそれを強めた。//
 (02) レーニンの全集は決して完全なものではない。
 彼または彼の信条を当惑させそうな文書は、排除されていた。
 彼自身がいくつかを破棄し、または手紙の場合には、破棄するよう受取人に指示した。(注6)
 レーニンの公刊著作にはマルクス、エンゲルス、プレハノフおよびカウツキーへの言及が豊富にあり、より少ない程度で、Chernyshevsky、Herzen、Belinsky、および彼がマルクス主義の先駆者と見做した「70年代の輝かしい星座のごとき革命家たち」(Tucker 編,レーニン選集=LA,p.20)への言及がある。
 彼は、自分の思想に対する非マルクス主義の影響については寡黙だった。
 そのノートから明らかであるのは、ヘーゲル、クラウセヴィッツ、アリストテレスがレーニンのマルクス主義解釈と革命戦略を磨くのを助けた、ということだ。
 ダーウィンとマキアヴェリ(Machiavelli)も、そうだった。
 レーニンは執務机の上にダーウィン像を置いていた。しかし、マキアヴェリについては名前を出してはほとんど言及しなかった。だが、私的な連絡文書でもそうだったのではない(注7)
 政治局の指導者たちに対する(読後に破棄すべきものとされた)手紙で、レーニンはこう書いた。
 「政治手腕(statecraft)の問題に関するある賢人[マキアヴェリ]は正しく、一定の政治目標を実現するのと同じことのためには一定の残虐さに訴えることが必要であるならば、最も激しいやり方でかつ可能なかぎり短時間のうちに、実行されなければならない、なぜならば、大衆は長期間の残酷さの利用に耐えることができない、と言った。」(注8)//
 (03) マキアヴェリもそうだがニーチェもおそらく、レーニンのエリート主義と革命的反道徳主義を促進した。
 レーニンは、プロレタリアートは自分たちで解放する力を持たないというTkachev の見方を共有しており、革命は「タフな事業だ」と叙述した。
 「白い手袋をはめた、きれいな手では革命をすることができない。…。
 党は女学校ではない。…。
 悪人はまさに悪人であるがゆえに、我々が必要とするかもしれない。」
 彼は、Nechaev の同時代人は「組織者、陰謀家としての特殊な才能を持ち、衝撃的な明瞭さでまとめ上げる技巧を持つことを忘れていた」と観察した。(注9)
 レーニンの世代の最大原理主義者たちは、Nechaev は「ニーチェより前のニーチェアンだ」と見なした。
 おそらくレーニンも、そうした。//
 (04) レーニンは、ボルシェヴィズムの基礎的文献である〈何をなすべきか〉(1902年)で、前衛政党に関するマルクスの考えを超える、革命的エリート主義を提示した。
 「階級的政治意識は労働者に対して〈外からのみ〉、すなわち経済的闘争の外部からのみ、もたらすことができる」(LA,p.50)
 プロレタリアートは自分たちでは、労働組合主義の意識だけを持つことができる。
 潜在的には、プロレタリアートは間違った方向へと慌てて逃げることになる大きな群れだ。
 この書物でレーニンは、「Tkachev の説示が用意し、現実に威嚇する『威嚇的な』テロルの手段により実行された『壮大な』権力奪取の企てと、たんに滑稽なだけの、とくに平均的な人々の組織化という考えで補完された場合には滑稽な、小Tkachev の『刺激的な』テロル」とを区別した。(LA,p.107.)
 彼は、マルクス主義者は革命的人民主義者の過ちを繰り返さないということに関係して、職業的革命家、意識が高くて自己紀律をもつ革命的エリートの組織を強く主張した。//
 (05) レーニンの「意識性」(〈soznatel'nost〉)と「自然発生性」(〈stikhinost'〉)という両範疇は、ニーチェのApollon 的衝動とDionysus 的衝動に対応している。
 これは偶然ではないかもしれない。〈悲劇の誕生〉の1901年のドイツ語版は、レーニンの個人的蔵書の中にあった。(注10)
 〈Stikhinost'〉は〈stikhinyi〉、「自然的」(elemental)という形容詞に由来しており、思考のない(mindless)過程を含意している。
 レーニンは「自然発生性」の危険に警告を発し、それを奴隷性や原始性と結びつけた(LA,p.27,32,46,63)
 彼が術語を用いるとき、「意識」はたんに知覚だけではなく、権力を獲得するための戦略でもあった。
 レーニンは、Bogdanov のように、マルクス主義を活性化するイデオロギー、あるいは動かす神話(mobilizing myth)だと見なした。
 そのいずれも、組織のApollon 的原理を強調するものだった。//
 (06) ニーチェ的マルクス主義者たちとの論争で、レーニンはニーチェ的用語を使い、自分の動的神話を発展させた。
 1905年の革命の間、彼とBogdanov は(フィンランドの)同じ建物に住んだ。そこで彼らは、政治理論、文化、哲学、革命の戦略と戦術を論じ合った。(注11)
 確実に、ニーチェはその討論に入ってきていた。
 レーニンの動的神話は、新しい目標、新しい道徳、新しい政治形態を伴っていた。新しい政治形態—職業的革命家で構成される前衛政党、訓練されて意識が高い陰謀家的エリート、そして資本主義から共産主義の第一段階への直接的移行を指揮するプロレタリアート独裁。
 マルクスは、どの時代にも特有の幻想(あるいは神話)がある、と書いた(Tucker 編,マルクス.エンゲルス読本=MER,p.165)
 レーニンは科学的であれと主張したが、社会主義という対抗神話を生み出していた。
 「『唯一の』選択肢は、ブルジョア・イデオロギーか社会主義イデオロギーか、のどちらかだ。
 中間の経路はない。…。
 非階級の、または階級を超えたイデオロギーなど決して存在し得ない。」(LA,p.29.)//
 (07) レーニンは「社会民主党の二つの戦術」(1905年6-7月)で、〈革命的民主主義的なプロレタリアートと農民の独裁〉を提起した。プロレタリアートだけでは権力を奪取するのに十分でなかったからだ。
 この戦術変更を正当化するために、彼は弁証法的形態で論拠を言い表した。
 「全ての事物は相対的だ。全てのものは流動する。全てのものは変化する。…。
 抽象的な真実なるものは存在しない。
 真実は、つねに具体的だ。」(LA,p.135.)
 Bogdanov も、同じ言葉遣いをすることができただろう。//
 (08) レーニンは同じ論文で、「革命は被抑圧者たちの祭典だ」と宣告した。
 ボルシェヴィキは、「大衆の祭典のための活力、および直接の決定的行路を目ざす仮借なき自己犠牲的闘いを繰り広げる彼らの革命的熱情」を利用しなければならない」(LA,p.140-1)
 「熱情」(ardor)や「活力」(energy)という言葉は、ニーチェ的マルクス主義者たちに好まれた。
 彼はまた、ボルシェヴィキには新しいスローガンが必要だ、と言った(「新しい言葉」のレーニン版)。
 「言葉も、行動だ」。
 「行動に移す必要のある〈直接的スローガン〉に進むことなくして、〈古いやり方で〉「言葉」に閉じ込める」のは裏切りだ(LA,p.134)
 言葉遣いに対するレーニンの繊細さは、ニーチェやそのロシアでの崇拝者たちと共通している、もう一つの分野だった。
 ボルシェヴィキ指導者は、終生にわたって古典文献学に関心をもった。//
 (09) 現実的にであれ潜在的にであれ、反抗に関するレーニンの定番の言葉は、「粉砕せよ」、「麻痺させよ」、「壊滅せよ」、「破壊せよ」だった。
 彼は、このような乱暴な言葉は「憎悪、反感、そして侮蔑心、…を読者に掻き立てるように、納得させるのではなく敵の隊列を破壊するように、敵の誤りを訂正するのではなく破滅させて敵を地球の表面から一掃するように、計算されている」と語った(レーニン全集第12巻p.424-5)=(日本語版全集12巻「ロシア社会民主労働党第5回大会にたいする報告」433頁.)
 Bogdanov の好きな言葉の一つである「調和」は、レーニンの語彙の中にはなかった。
 Gorky は、レーニンの言葉を「鉄斧の言語」と呼んだ。//
 --------
 (注5) Robert Service, Lenin -A Biography, p.203.
 (注6) Ricard Pipes, ed, The Unknown Lenin, p.4.
 (注7) Service, p.203-4, p.376.
 (注8) In Pipes, p.153.
 (注9) Dmitri Volkogonov, Lenin, p.22 から引用。
 (注10) Aldo Venturelli, in "Nietzsche Studien" 1993, p.324.
 (注11) Service, p.183.
 ——
 第一節②へとつづく。

2475/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ④。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 第二部全体の「前記」の後の、最初の章である第5章の「序」へと進む。
 ——
 第5章・現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
 (序)
 「資本主義的私有財産の弔鐘が響く。搾取者は搾取される。」
 —〈Tucker 編・マルクス・エンゲルス読本=MER>、p.438.
 「小さい政治の時代は終わった。次の世紀には、地球の支配を目ざす闘いが生じるだろう。—大規模な政治への衝動。」
 —ニーチェ〈善悪の彼岸〉、p.131.
 「しかしながら、本当の哲学者は司令者であり、立法者だ。彼らは言う、かくして、こうあるべきだ。…。彼らは創造的な手で、未来を掴みとろうとし、かつてあり今あるものは全て、彼らの手段になる。道具であり、金槌だ。彼らが『知ること』は創造することであり、『創造すること』とは立法することだ。真実に向かう彼らの意思は—権力への意思。」
 —ニーチェ〈善悪の彼岸〉、p.136.
 <一行あけ>
 (01) 戦争と革命の苦難の中で、新しいイデオロギー上の金属が鋳造された。その中には、マルクス、エンゲルスおよびニーチェの最も暴力的で最も権威主義的な要素が凝固しており、マルクス主義の人間的要素やニーチェのリバタリアン的(libertarian)要素は捨て去られていた。
 この金属鋳造に貢献したのは、革命的知識人たちによる意思の神格化、戦争(第一次大戦と内戦)が持った残虐化する効果、最適者の生き残りというダーウィン主義の考えだった。
 どちらの側にとっても、内戦は生き残りを賭けた闘いだった。//
 (02) ボルシェヴィズムとはマルクス主義を夢想主義的かつ黙示録的に解釈したもので、必然性の王国から自由の王国への飛躍だけを意図していた。
 この解釈が含んだのは、民主主義的社会主義の「柔らかい」価値とは反対の英雄的で「硬い」価値を選好する、ということだった。
 もちろん、ボルシェヴィキたちはニーチェを経てマルクス主義に到達したわけではなかった。しかし、ニーチェはマルクス主義についての彼らの「硬い」解釈を促進し、彼らの権力への意思を強化した。
 権力なくしては、社会主義という約束した土地へと大衆を導くことはできない。
 ニーチェはまた、マルクス主義、救済のドラマと歴史を捉えるその見方の神話的な浸入を促進し、人間を改造するという永続的で過激な夢想に対して新しい駆動力を与えた。//
 (03) この章で論述されるボルシェヴィキ—レーニン(Vladimir Ilich Ulianov、1870〜1924)、N・ブハーリン(Nikolai Bukharin、1888〜1938)、L・トロツキー(Lev Davidovich Bronsthein。1879〜1940)—にとって重要なのは、マルクス、エンゲルスおよびニーチェの著作に見出される思想だった。すなわち、ブルジョアの道徳性に対する侮蔑、闘争の強調、血と暴力のレトリック、プロメテウス主義、「未来志向」、そのコロラリーである「道具的」残虐性。後者はヘーゲル=マルクス主義の歴史主義の用語で正当化された。
 エンゲルスはかつて、歴史は全ての女神たちのうちの最も無慈悲なものだと述べた。
 「歴史は堆積した死体の上へと勝利の歯車を進める。戦争のときだけではなく、『平和的な』経済発展の時代でも。」
 これらのボルシェヴィキたちは、大戦は「歴史の法則」の歩みを加速し、後進国ロシアに社会主義を生み出すよい機会だと考えた。
 大戦はプロレタリアートを鍛え、活発な闘いへと追い込むだろう。
 トロツキーは戦争を「学校」に譬えた。それを通じた「恐ろしい」現実によって、新しいタイプの人間が作り上げられるのだ。
 レーニンとブハーリンも、同様の気分を表現した。//
 (04) レーニンは、権力への意思と自らの方法での神話創造を具現化した人物だった。
 ブハーリンはニーチェ思想に慣れ親しんでおり、Bogdanov を崇敬していた。
 トロツキーが初めて公にした論文の表題は、「超人(Superman)に関する若干のこと」だった。
 彼らは全員が、権威主義的で、暴力的で冷酷な文章節を拡大し、漸進主義的な文章部分を抹消するレンズを通じて、マルクスやエンゲルスを読んだ。
 彼らが好んだ言葉—「奴隷」、「隷属」、「主人」、「権力」および「意思」—は、マルクス主義やニーチェ、および革命的知識人たちの気分(ethos)と共振していた。
 レーニンは「我々の奴隷的部分」への憎悪を明確に語り(Tucker 編・レーニン選集、p.197-8)、Chernyshevsky がかつてロシアを「奴隷たちの国」と呼んだことを思い起こさせた。
 ブハーリンは、「奴隷の心理と慣習がいまだに深く染み込んでいる」と不満を語った。
 労働者たちは新しい主人になるように再生産されなければならない。
 トロツキーは、こう宣言した。「きみたちはもう奴隷ではない。もっと高く立ち上がり、人生の主人となれ。上からの命令を待つな。」
 一定程度のボルシェヴィキたちが採用した美名—スターリン(Josef Djugashvili)、モロトフ(Viacheslav Skriabin)、カーメネフ(Lev Rosenfeld)—は、それぞれロシア語の鋼鉄、金槌、硬石に由来していた。
 彼らは、プロレタリアートが用いる素材または道具を含意せていた。そしてまた、ニーチェの命令である「頑強(hard)であれ」にも反応していた。
 革命の後、ボルシェヴィキたちは「司令者かつ立法者」になり、大衆は彼らの「道具」となった。
 ——
 第二部・第5章の「序」が終わり。

2472/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ③。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 「前記」の試訳のつづき。
 ——
 (前記)②
 (08) Proletkult の指導者の一人のPavel Kerzhentsev(P.M.Lebedev、1881〜1940)は、プロレタリア文化の理論家だと自負し、1904年以降はボルシェヴィキ党員だった。彼は、その書物と同名の「創造的劇場」(〈Tvorcheskii teatr〉)を提案したが、これは、「創造的自己活動」(〈samodeiatel'nost'〉)と階級意識を特徴とするニーチェ/ワーグナー/Ivanov 症候群のプロレタリア版だった。
 Kerzhentsev のような活動家たちにとって、中心となるニーチェ思想は、「権力への意思」だった。
 彼らの何人かは戯曲を書いたが、それらでは革命は独りの強い個人によって推進され、どの場合でも最も有効な影響力をもったのは〈ツァラトゥストラ〉だった。
 「自己活動」(Self-activity)は決まり文句になったが、それが何を意味し、どうやってそれを促進するかについては、一致がなかった。
 Kerzhentsev が求めたのは、プロレタリア演劇は全日働く労働者が書いた戯曲によるものに限られ、労働者の役者と労働者の演出家と労働者の音楽家(職業人ではない者)だけを用いることだった。
 彼は、オペラやバレェは時代遅れになったと主張して、明確なプロレタリア芸術の一様相として新しい劇場の形態を労働者たちが発展させるのを期待した。//
 (09) Lunacharsky とIvanov は、芸術家とApplo やDionysus の人々が一つになったものが大衆祭典だと考えた。 
 Lunacharsky は大衆祭典は扇動のための力強い手段だと見なし、扇動を「聴衆と読者の感情を掻き立て、彼らの意思に直接に影響を与えること」と定義した。プロパガンダの全内容を「真白い心に」運び、「全ての色で輝かせる」ものだ。
 彼は党に対して、ポスター、写真、彫像、「音楽の魔力」で「党を装飾する」こと、映画やリズムの新しい芸術様式を用いること、を強く要求した。
 資金を利用できるようになったとき、彼は、「社会の霊魂(soul)」に影響を与えるべく大きな教会寺院を建設するのを望んだ。
 彼は1919年に、心理的には単純な分野でのプロパガンダ作品を生むために、メロドラマ・コンテストを行うことを発表した。//
 (10) Evreinov は、最も多くの大衆祭典を監督した。そのうち「冬宮への突撃」は革命三周年記念のものだった。これには6000人の「配役」があり、ペテログラード軍事地区(PUR)の政治局の後援を受けていた。
 その他の大衆祭典もあった。それらは、祝ったあとで、「解放された労働の神秘」、「第三インターナショナル」、「専制政打倒」、および「プロメテウスの炎」と冠された。
 祝典のいくつかは、世界じゅうの諸国に示すために新しいテープに録音された。
 大衆祭典は「自己活動」を特徴とするものと想定されていた。しかし、演技者の役割は演出者によって削ぎ落とされ、大量の厳しい統制があった。
 Lunacharsky は、こう呟いた。「一般的軍事指令の方法で、数千、数万の人民がリズム正しく動く大衆祭典を我々は創る。そのときに、どんな人物が祝祭儀礼を引き受けるかをまさに考えよ。—大衆は群衆ではなく、一つの明確な思想(idea)を真摯に有する、厳格に統制された、集団的で平和的な軍隊だ」。//
 (11) 政治的演劇と宣伝列車、宣伝船は、国じゅうに革命のメッセージを運んだ。
 赤軍の演劇団が、一つの特殊単位として構成された。
 役者が、前線での上演のために派遣された。
 演劇化された模擬裁判または「扇動裁判」が、赤軍で始まった。
 それらは1920年までに、定期的な政治的儀式になった。
 「弁護人」、「訴追官」と「証人」は、各自の文章を朗読するというよりも、即興で歌った。
 Julie Cassiday によると、「扇動裁判」は劇場に関するIvanov の考えを適用したものだった。
 熱心な赤軍劇場組織者のAdrian Piotrovsky(1898〜1938)はTadeuz Zelinski の非嫡出の息子で、いく人かのニーチェの学問的崇拝者の一人だった(Zelinski はモスクワ大学の古典文献学の教授だった)。
 Meyerhold は、政治教育のために新聞の切り抜き、ラジオ速報および特定の政治的英雄や悪役の仮面を用いた。
 政治的演劇が求めたのは、極端な光と暗闇、自由と隷属、善と悪、救世主と悪魔だった。//
 (12) 政治的活動家たちは、芸術と科学の民衆化や労働者の創造性の奨励によって創出される「プロレタリアのアテネ」について語った。
 ポスター、詩、戯曲は、典型的に省略したニーチェの観念であるプロレタリアの超人(superman)を称賛した。この観念は、民俗伝承上の巨人(giant)のような大きさや力の強さではなく、偉大な文化的創造性をもつ人物を指していた。
 以前は〈Miriskusnik〉(芸術の世界運動の会員)だったBoris Kustodiev の「ボルシェヴィキ」(1918年)は、よく知られている例だ。
 Vladimir Lebedev の「ロシア前線を防衛する赤軍と艦隊」(1920年)の特徴のない顔は、〈太陽に対する勝利〉の強人たち(strongmen)のそれを思い出させる。
 Lazar el Lissitzky は、彼のポスター「赤の楔で白をやっつけろ」(1919年)で、政治的プロパガンダに幾何学的様式を採用した。//
 (13) 赤軍の学校の研修講師の中には、銀の時代(the Silver Age)に広がった知識人たちがいた。
 カリキュラムの特徴は、政治的用語(闘争術)、文学、演劇、音楽、身体文化(競技)にあった。
 カリキュラム開発者のNikolai Podvoisky(1880〜1948)は、啓蒙人民委員部およびProletkult と緊密に連携した。
 大衆祭典や大衆競技の熱狂者であるPodvoisky は、子ども用の居住区画を経営することもした。そこでは、「思弁家に死を」という彼の非難が連呼された。
 新時代の全ての文筆関係者と同じく彼は言語に敏感で、「我々の言葉は我々の最良の武器だ」と公然と述べた。
 「言葉は敵の隊列を爆破し、追い散らす。敵の気分を解体し、神経を麻痺させ、敵の戦陣に追い込んで、階級の内部争いへと分解させる。」
 共産主義青年同盟(Komsomol)の同盟員たちは自分たちを前衛の前衛だ、新しい文化の勇敢な創造者だ、と見なした。
 ニーチェの戦士の気風(ethos)は共産主義青年同盟の詩や散文に充満しており、それらには、ニーチェ的な因習破壊主義や若者崇拝(cult)が伴っていた。
 赤軍の学校と共産主義青年同盟は、青年たちに対して重要な知識情報上の影響力を持った。//
 (14) レーニンは、ワーグナー好き(Wagnerophile)だった。
 1920年に彼は、倒れた革命の英雄たちのための花輪置き儀式を主宰した。そのときには、Peter & Paul 要塞からの礼砲を背景にして、Siegfried の葬送行進曲(〈神々の黄昏〉より)が演奏された。
 レーニンはそのように劇化して、第8回ソヴェト大会(1920年12月)でロシアの電化を発表した。
 その大会は寒くて薄暗いBolshoi 劇場で催されたのだが、陰影の中にまばゆい光が舞台をこうこうと照らし、代議員たちの視線を巨大な地図に向けさせていた。その地図には、10年後までに電化されるロシアが描かれていた。
 モスクワの発電能力は、表示装置がどこかで切れてしまうほどに小さかった。
 紙が不足していたにもかかわらず、GOELRO(ロシアの電化に関する国家委員会)の50頁の梗概文書が、代議員に対して5万部、配布された。
 レーニンが、しばしば引用される「共産主義とは(=)ソヴェト権力プラス(+)全国土の電化だ」という声明を発したのは、このときだった。
 彼は、電化によってロシアが経済的、政治的、そして文化的に変革されることを期待した。 
 GOELROの電化(electrification)の計画はあまりに壮大なものだったので、反対派は「電気作り話」(electrofiction,〈elektrofiktsiia〉)と称した。//
 <一行あけ>
 (15) ソヴィエト史の「英雄の時代」(革命と内戦)が終わるまでに、文化は完全に政治的なものになった。
 「前線」、「司令」その他の軍事用語が、言葉の世界を覆った。
 文筆家や芸術家たちは、政府の資金援助を求めて、国有化された印刷媒体の利用を求めて、紙の配給を求めて、競い合った。
 対抗する全ての芸術学校が、プロレタリアートのために発言した。
 未来主義者たちは芸術への政府介入の廃止を要求したが、自分たちが動かす「芸術に対する独裁」を欲していた。
 Proletkult の熱狂者たちもまた、同じだった。
 Lunacharsky は、異なる諸グループの調整を試みた。それを理由として、Kerzhentsev は彼を「右翼主義」だとして非難した。
 政治への無関心は、受け入れらることではなかった。//
 (16) 論者たちは、ボルシェヴィキ革命は根源的な力だと叙述した。そしてしばしば、Blok が「根源と文化」(1908年)でそうしたように、「根源的」なものをDionysus 的なものと関連づけた。
 頑強さ、大胆さおよび意思が、寛容性、人格的統合、自己発展および侮辱を忘れる能力といったその他のニーチェ的美徳を表現した。
 敵に対する残忍さは、神聖な義務となった。
 レーニン、ブハーリン、トロツキーは、マルクス主義とニーチェの新しい融合形態を生み出した。
 ボルシェヴィズムを超えて進むことを望む芸術家や知識人たちは、「精神」革命や「文化」革命の必要性を説いた。これら二つの言葉は、相互交換が可能だった。//
 ——
 第二部・「前記」終わり。前記(見出しなし)は、p.117〜p.124。
 

2470/ニーチェとロシア革命—Rosenthal ②。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 第二部の最初から試訳する。
 第一部「要約」は、→No.2454
 ——
 第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
 (前記)①
 (01) 戦争での損失が増大し、前線での被害者が増加し、政府の醜聞が次から次へとつづいた。これに伴い、革命が予期されるようになった。
 しかしながら、ツァーリ体制の終焉は、突然にやって来た。
 二月革命(東方暦1917年2月26-29日、西暦同年3月8-11日)は、「二重権力」を生み出して終わった。立憲議会が選出されて招集されるまで支配するとされた臨時政府と、ペテログラード・労働者農民代表者ソヴェトだ。
 秋までに兵士たちはぞろぞろと戦線離脱しており、農民たちは大土地所有者の土地を奪っており、労働者たちは諸工場を掌握していた。
 ボルシェヴィキ革命(東方暦1917年10月26-27日、西暦同年11月7-8日)はプロレタリアートの独裁を打ち立て、ボルシェヴィキの権力を強化し、戦争から離脱しようとしていた。
 1918年3月、ロシア政府はドイツの条件を受諾した。
 ブレスト=リトフスク条約によって、ロシアは、バルト諸国、ウクライナの大部分(穀物地帯)、ベラルーシ、ポーランド、およびトランス・コーカサスの一部を失い、金での賠償金を課せられた。
 ドイツ軍はつぎの11月に撤退し(西部戦線での停戦で要求されていた)、空白が生まれ、「赤」軍と「白」軍が内戦を繰り広げた。
 それが過ぎ去るまで、経済は止まったままで、1300万人が死んだ。その原因のほとんどは、飢餓と伝染病蔓延だった。
 数百万の孤児や遺棄された子どもたちが田園地帯を徘徊し、生き延びるために犯罪に手を染めた。//
 (02) 遡及して「戦時共産主義」と呼ばれた政策は、全面的な内戦の開始の前に部分的には始められており、内戦が終焉するまで続いた。
 いわゆる「戦時共産主義」は、私的な経済取引を禁止した。そして、テロル、強制労働、階級憎悪の煽り立て、階級に従った配給、強制的な穀物徴発を特徴とした。
 「赤」の勝利が間近になるや、反対派が党内に現れ、ロシアじゅうで農民反乱が勃発した。そして、ペテログラードの労働者たちは叛乱する瀬戸際のいるように見えた。
 1921年3月、クロンシュタット海軍基地の兵士たちは「第三革命」を呼号し、「共産主義者のいないソヴェト」や「人民委員制」廃止を要求した。
 クロンシュタット叛乱は鎮圧されたが、レーニンが新経済政策(NEP)を発表するのを早めた。
 穀物の強制徴発に代わる最も重要な手段になったのは、生産を促すための現物税だった。
 徴税後の余剰は全て、地方の市場で販売することができるようになった。
 この変更を理論的に正当化するために(レーニンは数週間にわたってこれを馬鹿にしていたのだが)、彼は失敗した政策を「戦時共産主義」と名づけた。
 NEPを採択した同じ(第10回)党大会は、全ての党内分派を解散するか、さもなくば追放されるべきことを命じた。//
 (03) Bogdanov はどうやら、1917年11月に早くも「戦時共産主義」という語を、侮蔑的な意味で作ったようだ。
 彼はボルシェヴィキ政権をプロレタリアートの独裁と呼ぶのを拒み、新しい〈Arakcheevshchina〉(アレクサンダー一世の統治の間にArakcheev により樹立された悪名高い軍事植民区の喩え)を警告した。
 彼は、党への再加入のいくつかの誘いと、Lunacharsky による、Namprokoms との頭文字語で知られる啓蒙(〈Prosveshchenie〉)人民委員部の職の提示を固辞し、人民委員になる義兄弟〔Lunacharsky〕を批判した。
 Prosveshchenie は「教育(education)」をも意味したが、「啓蒙(enlightenment)」がボルシェヴィキの使命的考えをより伝えていた。 
 Lunacharsky は1905年にレーニンと和解し、1917年8月に再入党していた。
 ボルシェヴィキ革命の1週間前、Lunacharsky はペテログラードに最初のProletkult(プロレタリア文化)会議を招集した。
 Bogdanov は翌年3月にモスクワで同様の会議を組織した。そして9月にそこで、第一回の全国プロレタリア文化会議が開催された。
 Proletkult は党と国家に対して自主的団体だったが(形式的には分離していた)、啓蒙人民委員部によって設立されていた。
 Lunacharsky は一度も党の中央委員会に選出されず、内部者が有する権力を持たなかった。しかし、所管の範囲内で、啓蒙人民委員部による資金の拠出に関して、相当の裁量権を持った。
 ヨーロッパが大戦という野蛮行為へと向かったことは、啓蒙思想への批判が正しかったことを証明していると思われた。
 すなわち、人間は「自然ながらに」理性的でも、善なるものでもない。
 ロシア、ドイツ、イタリアでは、古い秩序の崩壊によって、全ての確立された価値と制度に対するニーチェの挑戦が切実な重要性をもち、完全に新しい秩序の渇望へと至り、それは大胆で勇敢な「新しい人間」によって創出されると考えられた。//
 (04) ニーチェは、ボルシェヴィキたちのマルクスやエンゲルスの読書を彩り、権力を掌握するというボルシェヴィキの決意を補強し、維持させた。そして、一方では「戦時共産主義」、他方では精神的革命の筋書という、全体的な変革を目ざすユートピア的展望をはぐくんだ。
 芸術家や文筆家たちは、ニーチェやワーグナーから拾い集めた技巧を用いて、ボルシェヴィキの扇動や情報宣伝に利用した。
 A・ワリッキ(Andrzei Walicki)は、「戦時共産主義」はエンゲルスの考えから直接に喚起された「偉大な社会的実験」だったと、考察する。その考えとは、必然の王国から自由の王国への跳躍は市場の「無政府状態」を中央集権的計画の「奇跡的な力」に変え、そのことで「人間を自ら自身の主人に」する、というものだった。
 ニーチェは、ボルシェヴィキにこの「跳躍」をする意思を吹き込むのを助けた。
 「戦時共産主義」は、経済問題に限定されなかった。すなわち、新しい人間と新しい文化を生み出すことが想定されていた。
 ニーチェ的な言葉を用いると、「戦時共産主義」は「偉大な文化事業の計画」だった。ボルシェヴィキは数千年ではなく数年以内に完了させようとした、という点を除いては。//
 (05) 初期のソヴィエトの教育や文化の制度は、ニーチェの思想のための導管だった。 
 Lunacharsky は、政府でともに仕事をする芸術家や文筆家を招聘した。
 初めは、Blok、Mayakovsky、Meyerhold、彫刻家のNatan Altman(1889〜1981)、および詩人のRiurik Ivnev(Mikhail Kovalev、1891〜1981)だけが受け入れた。
 他の者たちは、納得して、または政府が唯一の雇い主であるために、あるいは両方の理由で、後からボルシェヴィキへやって来た。
 Meyerhold は、啓蒙人民委員部の劇場部門(TEO)の長になった。
 Ivanov、Bely とBlok は、そこと文学部門(LITO)で仕事をした。
 絵画部門(IZO)は未来主義者たちの仕事領域で、〈コミューンの芸術〉という自分たち用の新聞を持った。
 〈コミューンの芸術〉の編集人でIZO のペテルブルク支部長だったNikolai Punin(1888〜1953) の日記は、ニーチェとの「愛憎」(love-hate affair)を晒け出している。
 象徴主義者と未来主義者たちは、Proletkult の学校やスタジオで教育した。//
 (06) 1918年4月、レーニンは、帝政時代の記念碑を解体する「記念碑プロパガンダ」運動を布令し、革命の英雄、偉人や五月の大衆祭典の記念碑を立て、公共広場を装飾した。
 レーニンはLunacharsky に、Tommaso Campanella の〈太陽の街〉(1602年)から着想を得た、と語った。
 Gorky はその本をイタリアで読み、レーニンとLunacharsky にそれに関して伝えていた。
 最初の記念碑は粘土その他の安価な材料で作られた(レーニンの狙いはプロパガンダであり、永久化することではなかった)。しかし、雨がそれらを洗い流してしまった。
 「鉄の巨像計画」は長持ちする素材を求め、その規模自体で驚愕させることを意図した。
 Tatlin の塔は、その司令部を指示する機能をもつことはもとより、第三インターナショナル(1919年3月結成のコミンテルン)のための巨大な規模の記念碑になるものとされた。
 その大きさ(塔は建設されなかった)は窓から重々しさを放つモデルとなり、バベルの塔を想起させることを意識したものだった。
 その他の神を拒絶する塔も、計画された。
 Proletkult の劇の登場人物は、古い神が死んだことを知ろうと望む者ならば我々の塔に昇らなければならない、と語る。//
 (07) 劇場に関するIvanov の考えは、大衆祭典や政治演劇のかたちで「ブーメランのように返って」きた。
 大衆祭典のための着想には他に、祝典としての劇場というGaideburov のもの、未来主義者の路上演劇、遊戯としての演劇観というEvreinov のもの、Zarathustra(ツァラトストラ)の〈新しい祭典が必要だ〉との言明、ワーグナー好きのR・ローラン(Romain Rolland)やJulian Tiersot がドレフュス事件後にフランスを再統合する方法として再生させようとしたフランス革命時の大衆祭典、などがあった。
 Lunacharsky は〈人民の劇場〉(1903年)というローランの書物を翻訳し、Gorky の会社がそれを1910年に出版した。
 その本は、1919年に、Ivanov の序文付きで再発行された。 
 Tiersot の〈フランス革命の祝祭と歌〉という書物(1908年)も、翻訳された。
 レーニンは、元のフランス語でそれを読んだ。//
 ——
 第二部・前記②へとつづく。

2466/西尾幹二批判042—ニーチェ「研究」。

 一 西尾幹二全集第4巻・ニーチェ(国書刊行会、2012)を一瞥して驚くのは、これがニーチェの「思想」を直接に対象にしたものではなく、いわば詳細な「評伝」にすぎない、ということではない。
 そうではなく、その「評伝」も、『悲劇の誕生』の成立の頃までで、「未完の作品」(p.763)だ、ということだ。R・ワーグナーとの決別とワーグナー批判も出てこない。
 西尾はせめて『ツァラトゥストラ』の直前までは進めたく、準備をしていたが、果たせなかった、と書く。そうだとすると、『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』、『偶像の黄昏』、『反キリスト』は視野に入っておらず、読解不可欠の作品ともされる『力(権力)への意志』に関する「評伝」的研究も、全くされていないことになる。
 なお、この巻の書以前の最初の紀要論文(静岡大学)は第2巻に収載されており、第5巻・光と断崖—最晩年のニーチェ(2011)では表題に即した文章も収められて「権力への意志」を表題の一部とするものもある。しかし、後者でも、「権力への意志」とは何を意味するか等々の内容には全く触れていない。
 --------
  西尾幹二がニーチェの専門家ではなく、ニーチェ全体の研究者でもないことは、以上のことからも明らかだ。
 また、一部の著作を対象にしてすら、ニーチェの「思想」または「哲学」そのものを研究した者でもなかった。
 西尾は自分を肯定的に評価する文章を全集内に残しておくことが好みのようで、上の第4巻の「後記」には同巻所収の書(1977年、42歳の年)を対象とする論文博士の学位授与(東京大学)にかかる審査報告の要旨(1978年)を、他人の文章ながらそのまま掲載している(p.770-。末尾のp.778にも、1977年著のオビの斎藤忍随による推薦の言葉をそのまま掲載している)。
 興味深いのは記載されている審査員だった5名の教員の構成で、独文学科3名(うち一人は、東京大学に残った、西尾と同学年だった柴田翔)、仏文学科1名、哲学科から1名だ。
 これからも明瞭であるように、西尾のニーチェの一部に関する(未完の)書物は、「文学」であり、少しは関連していても、「哲学」研究書ではない。
 また、西尾には『悲劇の誕生』以外にもニーチェの作品の翻訳書がかなりあるが(第5巻参照)、「翻訳」することとニーチェの「思想」を「研究」することとは大きく異なる。
 むしろ、ニーチェの「文学」的研究や「翻訳」に相当に没頭していた人物が(例えば、『悲劇の誕生』翻訳は1966年(31歳)、『この人を見よ』翻訳は1990年(55歳))が何故、いかにして日本史、天皇・皇室、日本の政治、そして国際情勢にまで「口を出す」評論家または<物書き>になっていったのか、に関心が持たれる。アカデミズムからの離反(退走?)でもあるのだが、この点は、別にも触れる。
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  西尾幹二はニーチェ『悲劇の誕生』はのちにまで自分の考え方に影響を与えた旨書いている(全集のいずれかの巻の後記のどこか。よくあることだがその箇所を失念した)。
 下記の対談書で長谷川三千子は、西尾・国民の歴史(1999)の最後は「ニヒリズムで終わっている」という批判があったとして、それを「的はずれ」だとする。
 的確でないのはそのとおりだろうが、そもそもニヒリズムなる高尚な?考えを西尾が示すはずがない。
 「人間の悲劇の前で立ち尽くしている」との自覚をもって本書を閉じるのは遺憾だ。
 この最後の文は、要するに、「悲劇」という語句を西尾が使いたかった、というだけのことだろう。
 ニーチェ『悲劇の誕生』成立までの評伝を最初の書物として42歳の年に刊行した西尾にとって、「悲劇」は20歳代、30歳代を通じて最も目にし、原稿用紙に書いた言葉だったかもしれない。
 そしてまた、<悲劇の前で立ち尽くす>ということの意味を理解してもらおうという意思など全くなく、「文学」的に?、何やら余韻を残して終わっているだけのことなのだ。
 なお、『悲劇の誕生』は、ギリシャ悲劇の消失を嘆き、ワーグナーがその楽曲と歌劇でもってそれを再生(再誕生)させたとしてワーグナーを賛美した著作だ。
 この書の影響は国民の歴史(1999)刊行の翌年にもまだあるようで、同著にはニーチェの名は出ていないはずだが、つぎの本の一部で、ギリシャに関しては、ニーチェにいわせれば」として、長々と1頁余を使って紹介する発言をしている。
 西尾=長谷川・あなたも今日から日本人—『国民の歴史』をめぐって(致知出版社、2000年7月)、90-91頁。
 この部分は、明言はないが、『悲劇の誕生』の一部を要約したものだろう。
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  西尾幹二がどれほどニーチェを読み、理解しているかを疑わせる、ニーチェ関連のこの人の文章は数多いと推察される。但し、この人は、唐突に「ニーチェは神は死んだと言いましたが」と、日本に関する文章の中で挿入する大胆さと勇気だけは、持っているようだ。この点はこの欄ですでに触れた。
 ニーチェは初期にはワーグナーを称賛していて、「年下の友人」のつもりでいたが、のちには決裂し、批判すらするようになる。
 まだこの欄に掲載していないが、F. M. Turner の書物ではワーグナーとのbreak やsplit という単語が使われている。
 このワーグナーとの分裂を、西尾はまさか知らないことはないだろう。
 しかし、小林よしのりによると、彼の『戦争論』〔1〕に関する「つくる会」のシンポジウムはこうだった、という(2002年の小林の離会=脱退より前)。
 新宿・厚生年金会館での「つくる会」シンポジウムは2000人超が詰めかける「熱気」となった。「しかも調子に乗りすぎた西尾幹二が、オープニングのBGMに…ワーグナーの『ワルキューレの騎行』をかけたものだから、異様な雰囲気である」。
 西尾幹二は最近にも、ニーチェは自分にとって特別の意味を持つと明記している。ニーチェとワーグナーの関係くらいは知っているはずの人物が、上のようなことをしたというのは、不思議なことだ。
 小林よしのり・ゴーマニズム戦歴(ベスト新書、2016)、p.220。「西尾幹二」の名はないが、同、p.270 でも触れている。
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2465/西尾幹二批判041—ニーチェの時代。

 一 F・ニーチェ、1844〜1900
 但し、1889年には「精神」に異常をきたして隔離され、それ以降の文章執筆はない。この1889年には、日本では大日本帝国憲法が発布された。むろん、明治時代。
 いずれにせよ、ニーチェは19世紀後半または19世紀の「世紀末」に生きた人間だ。
 G・マーラー(Gustav Mahler)、1860〜1911
 音楽またはクラシックの世界では、今のチェコで生まれて当時のオーストリア帝国を中心に活躍したG・マーラーが、ニーチェの世代にかなり近い。
 三Bと言われるBach, Beethoven, Brahms よりも新しい世代で、ニーチェが一時期に尊敬したR・ワーグナー(1813〜1883)よりも、かなり若い。
 G・Mahler は交響曲の「革命」者ともされる。たしかに、トランペット独奏で始まったり、弦楽器の低いガガガッで始まったりして新奇さを感じさせ、旋律全体も当時としては新鮮だったかもしれない。だが、同時代のSibelius やDebussy 、さらにRachmaninov 、もっと後のShostakovich 等々を聴いてしまっていると、Mahler の交響曲の途中からは意外に単調で退屈だ。より前のR. Schumann やJ. Brahms の方が、俗物の秋月の好みにはまだ合う。
 G・クリムト(Gustav Klimt)、1862〜1918
 絵画の世界では、ウィーンで活躍したクリムトが、ニーチェの世代にかなり近い。
 Mahler 以上に、「革新」性が明確だ。ウィーンの三つの美術館・博物館と「分離派」会館で、この人の絵(額付きでなく、壁面に直接に描いたものを含む)を実際に観たことがある。
 風景画や穏和な人物画には好感をもつが、「分離派」会館地下の「Beethoven Frieze」(ベートーヴェン・フリーズ)となると、俗人には意味不明で、また少し気味が悪い。
 この建物(Secession会館)の入口の上部には、試訳だが、二行のドイツ語でこう書かれている。
 「時代には、それに合った芸術を/芸術には、それに合った自由を」。
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  ニーチェは、19世紀後半または「世紀末」に中部ヨーロッパで生きた人物だった。120年以上前の、ドイツの人だ。
 この時代的・地理的な制約または環境をふまえないと、いくら彼の著作の表面をなぞっても、その意味や、影響力の不思議さを理解することはできないだろう。そもそも、「理解」することのできる内容と文体の著作を残したのか、という問題もありそうだが。
 上に続けると、どの時代でも新しいもの、または「新しいと感じられる」ものは人を魅惑するものだと感じられる。とくに、「(ヨーロッパ)近代」における自然科学の進化、産業や科学技術の発展に伴う、反面としての不安感や閉塞感が増大する中では。
 世紀末または世紀転換期の<芸術>運動として知られるのは、フランスではアール・ヌーヴォー(art nouveau、「新しい芸術」)と呼ばれた。上に挙げなかったが、チェコに生まれてフランス・パリで人気を博したA・ムシャ(Alfons Mucha、ムハ。1860〜1939)の絵画・ポスターは、これの最たるものかもしれない。生地プラハの旧市街地区に、小さなムハ美術館がある。
 アール・ヌーヴォー様式の建築物・装飾物は現在のパリにも多く残っているが、ウィーンの地下鉄カールスプラッツ(Karlsplatz、カール広場)駅の駅舎も、保存されている(はずだ。新しい模造物の傍に、かつての本物を観た)。
 ドイツでは、同時期の同様の芸術運動はユーゲント・シュティル(Jugendstil、「若者(青春)様式」)と呼ばれた。
 三島憲一は下掲書で、これへのニーチェの影響の例として、雑誌『ユーゲント』1895年号のつぎの文章を引用している。そこからさらに抜粋する。
 「ユーゲントは、…永遠回帰の法則にしたがい、…のうちにある。〈いまだ輝かざる多くの曙光がある〉とニーチェは語っている。ニーチェとともに我々は上昇する生のラインに立っているのだ。」
 三島ら・現代思想の源流(講談社、新装版2003)、p.104。
 オーストリアでも上の語は使われたかもしれないが、とくに絵画分野では、在来の美術家組合から離れた「分離派」(Sezession)が1897年に結成され、G・クリムトが代表した。上記のBeethoven F. は1902年の作。
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  これらの芸術運動への参加者がいかほどニーチェを読み、「理解」していたかは、疑わしい。時代の雰囲気、「空気」があったのであり、ニーチェの著作はその形成・促進をある程度助けたのだろう。古い、伝統的なものを疑問視または破壊して、「新しい」哲学・思想を示している(らしき)ものとして。
 また、上に挙げた人物のうちには長生きした人もいるが、ニーチェをはじめとする19世紀後半や、世紀転換期までを生きた人々は、第一次大戦の勃発と「総力戦」、ボルシェヴィキによるロシア「革命」、ナツィスによるユダヤ人ホロコースト、第二次大戦、原爆の開発と投下による惨害等々を、全く知らないままだった、ということには、格別の注意を払っておく必要がある、と考えられる。
 これらを知らずして、「人間」の所業・本質、社会や国家をどれほど適確に論じることができるだろうか。
 西尾幹二は「哲学」を知らない旨書いたことがあるが、西尾が自らを「思想家」で「哲学」の素養もあるかのごとく装っていることの奇妙さを指摘するためで、元来は、上のような20世紀の事件・事態をまるで知らない「哲学」は、歴史学と「教養」の対象にはなっても、現代を論じるためには無効のものだ、役に立たないものだ、と秋月瑛二は思っている。
 かりに何らかの素養があったとしても、西尾幹二にあるのは、「歴史学」や「哲学」の基礎的訓練を受けていない、「独文学」的なニーチェに関する一部だけだ。西尾の書いたものですぐに判明するが、この人は、ニーチェと同じドイツ語圏に属していても、<フランクフルト学派>について、便宜的にハーバマスも含めておくが、何一つ知らないと推察される。
 ニーチェもマルクスも母国語として読解したこの派のドイツの哲学者または思想家の主張、議論に、西尾幹二は「独文学」的にすら、全く言及することができていない。
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  西尾幹二は、せいぜいニーチェ止まりだ。これは大きな欠点だ。
 これは哲学・思想についてのみ指摘しているのはではなく、「発想」や「思考」の方法自体が、せいぜいニーチェ止まりだ、という意味でもある。
 ニーチェの名を出していなくとも、西尾の文章のこの部分はニーチェのこの部分、あるいは別の部分に依拠している、参照している、と感じることがある。
 さらに、そのニーチェ理解にしても、どの程度、正確で適確なものかは疑わしい、と考えられる。西尾幹二を通じて、ニーチェをどの程度「理解」することができるのか。より具体的には、今後触れるだろう。
 ところで、かつてL・コワコフスキフランクフルト学派(アドルノ、ベンヤミン等々、『啓蒙の弁証法』、『否定弁証法』等々)に関する叙述を読んで、ふと、反科学技術(・反文明)、反大衆の点で西尾幹二と似ている(ところがある)と感じたことがある。
 三島憲一の上記引用部分あたりのつぎの表現からも、思わず?西尾幹二を思い出してしまった。あくまで三島の言葉であって私自身の論評ではない。
 ①『ユーゲント』の文章には、「全体として優美で繊細な神経とともに、力んだ内容空疎な誇示がある」。p.104。
 ②ニーチェ支持の〜は、「精神的であると同時に、居丈高なだけで、内容空疎な力み返り」も宿していた。p.109。
 なお、三島は最初の方でニーチェは政治的には「右」にも「左」にも利用され得た旨を書きつつ、最後の文にはこうある。難解だ。三島の政治的立場が反映されているのかどうか。
 「ニーチェの言語の政治的セマンティクスも、政治的な左右の区別に回収されないポテンシャルを捉えて読む必要があろう」。これはベンヤミンの場合より遥かに困難だ。「なぜなら、ニーチェは、共同性と経験の強度の関係の問題を充分に捉えきれず、本人によるものも含めて長期間にわたり、政治的右派によって回収されていたからである」。p.157。
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2460/西尾幹二批判039—「客観」と「主観」。

  西尾幹二について「真顔で論ずるのは、所詮、愚か者の所行」かもしれないが(批判038参照)、秋月瑛二には、西尾の著作と人間を真面目に論じる十分な理由がある。
 二項対立思考で単純に「反共産主義」=「保守」と理解したのは一般論として間違いではなかったかもしれないが、2007-8年頃に日本で「保守」を標榜していた雑誌や論者が上の意味での本当の「保守」だったかは極めて疑わしい。
 今日の<いわゆる保守>は日本共産党と180度の真反対に対峙しているのではなく、多分に共通性もあり、30〜20度しか開いていないのではないか旨を、すでに一年以上前に秋月はこの欄に書いた。
 保守派の中でもすぐにこの人物は信用できないと感じた者はいるが、西尾幹二は相対的にはまだマシな論者だと—じっくりと読むことなく—判断してしまっていた。2015年の安倍内閣戦後70年談話の歴史理解の基本的趣旨は村山談話と、翌2016年の安倍首相・岸田外相による日韓・慰安婦問題の「最終決着」文書の趣旨はいわゆる河野談話と、基本的には何ら変わりがないことを、櫻井よしこや渡部昇一らと違って、西尾は気づいていたと思われる。
 月刊正論(産経新聞社)のとくに桑原聡編集代表のもとでの異様さはかなり早くに気づいていたが、江崎道朗のヒドさを知って<いわゆる保守>そのものに疑問を持ち、ようやく決定的・最終的に西尾幹二から離反したのは、まさに2018年末の同全集17巻・歴史教科書問題(国書刊行会)を見てからだ。
 約10年間も、西尾の「レトリック」に惑わされ、じっくりと読解することなく、肯定的にこの人物を評価していたことを、極めて強く、恥じている。
 何と馬鹿な判断をしてしまったことか。痛恨の思いだ。
 すでにある程度は書いたし、これからも書くが(999回まで番号がある)、個々の文章の紹介や分析等を通じて、この人の「本性」・「本質」を指摘して、秋月瑛二自身の自己批判の文章としなければならない。
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  前回の批判038の最後に、個人全集第17巻には「自分史の一種の『捏造』、『改竄』が見られる」と書いた。
 具体的にその点に言及する前に、「自分史」という言葉にも含まれている「歴史」というものの捉え方自体にも、西尾には独特なところがある。
 別に論及するが、近年の単著の冒頭で、歴史は「文献」から明らかになる旨を書いて、遺跡や埋蔵物等々の「物」自体も史料になり得ることを完全に無視している。ニーチェ的「古典文献学」によると、「文献」だけが歴史叙述の素材なのだろうか。
 小林秀雄の『本居宣長』や『古事記伝』を読んで本居宣長を理解したつもりになったり、本居の「古事記伝」を読んで古事記を読んだつもりになった人がいるかもしれないが、西尾幹二もその手の一人ではないだろうか。
 こんなことを書くのも、西尾幹二・国民の歴史(原書1999)の最初の方で日本の「神話」に言及していながら、古事記や日本書紀という言葉は出てこず、この人はこの両書をきちんと読まないままで、日本の「神話」と中国の「歴史」書の同等性等を抽象的に論述するという大胆不敵なことをしている、と考えられるからだ。
 また、上の全集第17巻(2018)の「後記」の最後の方に、つぎの部分がある。
 この巻に収載した三つの文章には「ごく初歩的な歴史哲学上の概念が提示」されていると自ら書いたあと、こう続ける。
 「歴史は果たして客観たり得るのか、主観の反映であらざるを得ないのか」。
 80歳を過ぎて、このような「ごく初歩的な」問いを発していること自体に、また何やら深遠な「歴史哲学上の」?問題を提示しているつもりであるようなことにも、西尾幹二という人物の決定的な「幼稚さ」が表れている。
 何冊もの歴史叙述書を書いてきた研究者が、絶えずこのような問題に直面しつつ、苦悩しつつ執筆しているだろうことは、容易に推察できる。
 外国のものだが、R・Pipes のロシアに関する歴史書や、L・Kolakowski の「思想史」の書物でも、それを感じることがある。
 では、西尾幹二は、第一次的な史料・資料を用いた歴史書をいったい何冊書いてきたのか。歴史叙述書自体の執筆をしたことがないのだから(同・国民の歴史は歴史散文または歴史随筆、よくて歴史評論だ)、第一次史資料を豊富に用いた歴史書を一冊でも書いているはずがない。
 にもかかわらず、西尾幹二は何故、上のような「大口を叩ける」のだろうか。不思議でしようがない。
 ————
  秋月瑛二が15-16歳のころ、つぎのような問題を友人の一人に語ったことがある。
 上にある青空はそれを見て、意識して初めて「ある」=「存在している」ことになるのであって、それなくして「ある」=「存在している」とは言えないのではないか?
 とりあえず「青空」には拘泥しないことにしよう。
 素朴に、または単純幼稚に問うていたのは、今または後年になって振り返ると、「存在」するから「意識」するのか、「意識」して初めて「存在」するのか、という問題だ。
 別の概念を使うと、「客体」が先か「主体」が先か、という問題だ。
 あるいは「客観的事実」と「主観的意識」の関係の問題だ。
 「歴史」とは「過去」に関する一定の態様・様相だ、と差し当たり言っておくことにしよう。
 西尾幹二が上で何やら深遠な問いであるかのごとく「大口を叩いて」いるのは、「過去」の様相・態様は「客観的」な事実として認識・理解(これら二語の意味も問題にはなる)できるのか、それとも「主観」の反映にすぎないのか、だ。要するに、結局は、「存在」と「意識」の関係、「客体」と「主体」の関係の問題がある、というだけのことだ。
 これを人類または人間は古くから思考し、または「哲学し」てきたのであり、単純素朴には、15-16歳の秋月瑛二ですら抱いた疑問・問題だったのだ。
 それを、80歳を超えた西尾幹二が未だ設定されていない問題であるかのごとく、少なくとも西尾には未だ不分明の「歴史哲学」!!上の問題として、書いている。
 さすがに、歴史書を執筆したことがない、「哲学」書をろくに読まないで「物書き」になってしまった人物だけのことはある。
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  最近に試訳したフランスの歴史学者のF・フュレの文章(英訳書)に、唐突につぎが出てきた。
 <ニーチェにあるのは、事実ではなく、解釈だけだ。
 三島憲一は下掲書のニーチェ部分を担当し、小見出しの一つに「『解釈』だけが存在する」と掲げ、最小限の一部だけ再引用すると、ニーチェはこう書いた、とする。141頁。
 「…実証主義に対してわたしは言いたい。違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈だけなのだ。」。
 今村仁司.三島ほか・現代思想の冒険者たち—00現代思想の源流/マルクス.ニーチェ.フロイト.フッサール(講談社、新装版2003)
 この言明はもちろん、「客観的事実」と「主観的解釈」の問題にかかわる。
 西尾幹二は、このようなニーチェの考えの影響を、今でもかなり受けたままではないだろうか。
 ついでに、つぎのことも書いておこう。
 西尾幹二はナショナリストであり、「日本」主義者だ、と書いて、おそらく本人も異議を唱えないだろう。
 しかして、ニーチェは(19世紀後半の)ドイツの、少し広くして西欧の、もっと広く言えば欧米の「思想家」(とされる人物)だ
 そのようなニーチェについて、日本ナショナリストの西尾幹二は、いったいどういう精神・神経でもって、2020年に、堂々とつぎのように書けるのか。
 恥ずかしくないのだろうか。矛盾をいっさい感じないのだろうか。
 2020年刊行、『歴史の真贋』あとがき(新潮社)。
 私は「ニーチェの影響を受けた」。
 「ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
 ———
 追記/ なお、根本的には、客観的「存在」が先にあり、それを人間は諸器官を通じて「意識」する、と現在の秋月は考える。意識、認識する「主体」が消滅しても、過去の事実も含めて、「存在」は消滅しない。かかる<素朴実在論>?で、少なくとも一般的な平凡人には何ら差し支えないだろう。
 かつての同じ15-16歳の時代を思い出すと、じっと自分の左の手のひらを見ながら、この手、この掌は「自己」の一部なのか、と思い巡らしたことがあった。「自己」、「自我」はこの手、この掌にはない、と感じていたからだ。また、世界をこう三分していた。①自分の自己、②他人の自己、③これら以外の外界。
 <私小説的自我>でもって生きてきたらしい西尾幹二は、80歳を過ぎた現在、こうしたことを、どう考えているだろうか。
 ——

2459/Turner によるNietzsche ⑤。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第5節。
 (01)  さて、ニーチェのソクラテスへと辿りついた。
 ニーチェが〈悲劇の誕生〉でソクラテスについて書いたとき、Hegel とGrote の著作と見解を十分に知っていた。
 ニーチェが攻撃したのは、Hegel のソクラテスとGrote のソクラテスだった(厳密には同じでなかったが、多くの点で共通性があった)。
 言い換えれば、彼は、ソクラテスを攻撃することによって、つぎの像型を攻撃していた。すなわち、半世紀前に、古代世界の科学を推進した主観的かつ批判的合理性や哲学的表象を用いる象徴になった者たち。//
 (02)  ニーチェは、19世紀の者たちの中で最も、Grote の解釈の多くを受容し、承認した。
 宣教師というソクラテスについての比喩を受容し、ソクラテスは自らの死をもたらすように積極的に協力したとの見方を受容した。
 彼はまた、ソクラテスは古代ギリシャの批判的で科学的な精神性を具現化していた、と考えた。
 だが、これらをGrote に依っているにもかかわらず、ソクラテスについてのニーチェの見方は、自分のものでなければならなかった。
 ソクラテスを近代思想の中心的人物、近代文明批判について参照されるべき中心地点にしたのは、他の誰よりも、ニーチェだった。//
 (03)  既述のように、ニーチェは、ギリシャの最大の惨禍はDionysus 的のものを排除しようとしたことだと叙述した。
 これについて罪責がある劇作者は、エウリピデスだった。しかし、ニーチェによると、エウリピデスはソクラテスの声に他ならない。
 Aeschylus やSophocles の悲劇を破壊し、ギリシャ文化を合理的頽廃への途へと歩ませたのは、これら二人の連携だった。
 ニーチェは、こう宣言した。
 「我々は、エウリピデスはApollon の基礎の上でのみ劇作をすることに全く成功しなかった、彼の非Dionysus 的な傾向は自然主義的で非芸術的なものの中に落ち込んだ、と見るに至った。
 我々はゆえに今や、その至高の法則は、大まかにはつぎの審美的ソクラテス主義の本質に接近することができる。すなわち、その本質とは『美しくあるためには、全てが合理的でなければならない』。—これは、『知る者のみが有徳である』というソクラテスの格言と並立するものとして形成された宣告だ。」(注4)//
 (04)  ソクラテスの影響を受けて、エウリピデスとその後のギリシャ文化の問題は、ニーチェが「あの徹底的な批判過程」、「あの大胆な理性の応用」(注5)と称したものになった。
 悲劇を不可能にしたのは、この合理性だった。//
 (05)  こうした解釈においては、ソクラテスはギリシャ文化におけるDionysus の大きな敵、対立者として現れる。
 しかし、ニーチェにとっては、ソクラテスが行ったことはもっとはるかに急進的だった。
 彼は、こう書いた。
 「ソクラテスは、同じ尺度でもって現存の芸術と現存の倫理を非難する。
 検討の凝視をどこに向けようとも、洞察の欠如と妄想の力を見ているのであり、現存するものには内部に間違いと不快なものがあると、その欠如から推断する。
 ソクラテスは、この一地点から出発して、自分は現存するものを是正する義務があると考えた。
 個人である彼が、完全に異なる文化、芸術および道徳性の先駆者として、我々がその套いに畏敬をもって触れるならば最高に幸福だと感じるだろう、そのような世界に、傲岸さと優越意識の面貌をもって踏み込んでいる。」
 ニーチェは、つづける。
 「Homer、Pindar、Aeschylus として、またPhidias、Pericles、Pythia、および Dionysus として、あるいは最も深い深淵または最も高い絶頂としてのいずれであれ、驚愕する崇敬対象であることが確実な、そのようなギリシャの本性を、あえて否定しようとするこの個人は、いったい誰なのか?」 (注6)//
 ——
 第5節、終わり。

2456/Turner によるNietzsche ③。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第3節。
 (01)  Hegel のソクラテスに関する主要な解釈は、死後の1832年に出版された、彼の〈哲学史講義〉に見られる。
 彼の哲学書の多くと対照的に、ソクラテスの扱いは比較的に明瞭で率直だった。だが、それは莫大な数の反応を惹き起こした。
 (02)  Hegel にとって、ソクラテスとthe Sophists はいずれも、ギリシャ思想の大きな転回地点を代表した。 
 彼は、the Sophists は詩人や文化を組織する力としての伝統的知識の主張者に替えてギリシャにその思考を組織する新しい方法を与えた最初の集団だ、と考えた。 
 また、18世紀の哲学者たちに似ていて、その影響は一種の古代の啓蒙思想にまで昇るに至った、とも考えた。
 Hegel によると、the Sophists が獲得した報償は、悪(evil)に対する一般的に不当な評価だった。
 しかし彼は、the Sophists は本当は何も悪いことをしなかった、と考察した。
 The Sophists はギリシャ人に推論と思索(reflective)の方法を教えた。
 このような思考は不可避的に、伝統的な信念や道徳を疑問視することへと導いた。
 換言すると、彼らは懐疑主義(scepticism)を推奨したのだ。
 これは実際に、彼らの誤りではなかった。
 当時の思考や精神(mind)の発展状態の結果にすぎなかった。
 Hegel によると、the Sophists は、懐疑主義に限界はないと判断していた。//
 (03)  Hegel にとって、ソクラテスはthe Sophists が始めた運動のつぎの一歩を進めた人物だった。
 ソクラテスが行ったのは、伝統的価値と伝統的宗教を超えて発展する思索的(reflective)な道徳を生み出すことだった。
 Hegel はこう書いた。
 「精神の思索的動き、精神それ自体の転換にもとづく道徳は、まだ存在していなかった。
 その存在は、ソクラテスの時期からのみ始まる。
 しかし、思索が発生し、個人が自分自身の中へと隠退し、自分の望みに従って自分自身の生活をする確立した習慣から離反するやただちに、頽廃と矛盾が生起した。
 しかし、精神は対立の状態にとどまることができない。
 統合を探し求めるのであり、この統合のうちに、より高次の原理があるのだ。」(注3)//
 (04)  ソクラテスはこの過程を通じて、ギリシャ人が彼ら自身の主観性の中に道徳的指令を見出そうとするように導いた。
 ソクラテスとプラトンは、the Sophists とは違って、この主観的性を通じて、伝統的道徳と結びつくだろう客観的な道徳的真実を発見し得るだろう、と考えた。
 しかし、Hegel は、ソクラテスはこの移行に困惑さを与えており、彼自身に出現する主観性を彼の声または悪魔(daemon)が再現する、と考えた。
 彼の声または悪魔に語りかけることで、ソクラテスは誘導と道徳的指令を求めて、本当は自分自身に語りかけ、自分自身を見つめているのだ。
 ソクラテスが仲間のアテネの人々と対立するようになったのは、この強烈な主観性のゆえにだった。
 彼の悪魔は事実の点では新しい神だった。—主観性という神であり、これに執着すれば、4世紀の〈都市(polis)〉は解体する。//
 (05)  したがって、Hegel にとって、ソクラテスは彼に向けられる責任について実際に罪状があった。
 だが、その罪責は、ソクラテスの死の理由ではなかった。
 アテネの陪審員の決定は、必ずしも処刑を要求しなかった。
 ソクラテスが妥協を拒み、道理ある別の選択肢を提示できなかったあとではじめて、死刑判決が下された。
 彼による妥協の拒否は、集団的道徳心とアテネの伝統よりも上に彼自身の良心—彼自身の主観性—を置くということになった。
 これは、彼の基礎的な主観性への訴えの、論理的な帰結だった。//
 (06)  ゆえにHegel にとって、ソクラテスの死は、彼がこう書いたような理由で、本質的に悲劇的だった。「真に悲劇的なものには、衝突するに至った両者のいずれにも、根拠のある道徳的な力が存在しなければならない。これは、ソクラテスの場合にも言えた。」
 ソクラテスとアテネの人々には、それぞれの側の道徳性があった。だが、その道徳性は異なるものだった。
 Hegel の解釈に隠されている—但し、さほど隠されていない—のは、道徳の相対性を暗黙に承認していることだ。
 だがなお、Hegel は、ソクラテスの究極的な目的は、そしてプラトンや結局はキリスト教のそれは、安定した(settled)道徳性を見出し、the Sophists が開けた人間の心の懐疑主義に限界を付すことだった、と主張することによって、そのような相対性とは距離を置いた。//
 ——
 第3節、終わり。

2455/Turner によるNietzsche ②。

 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
 ——
 第2節。
 (01)  1860年代のおよそ7年間、R・ワーグナー(Richard Wagner)とニーチェは友人だった。
 この友人関係とその解消の物語は、それ自体で興味深い。そして、この世紀の後半の知的展開を示すものだ。
 ニーチェは青年として、音楽に強い関心をもった。作曲家になろうと望んだかもしれない。
 彼はとくに、ドイツ・ロマン派時代の音楽に魅了された。
 1860年代初めに大学生のとき、ワーグナーだけではなくショーペンハウワー(Shoupenhauer)も賛美した。
 彼は、ワーグナーはショーペンハウワーが叙述したような芸術上の天才だ、と見た。
 ニーチェは1868年に、ワーグナーと初めて逢った。//
 (02)  翌年、彼はバーゼル大学で文献学の教授になった。バーゼルはスイスのTribschen のワーグナーの家から遠くはなかった。
 ニーチェがこの作曲家に多大の敬意をもつことを知らせたので、出会いはさらに続いた。
 ワーグナーは、言いなりになる若い学者を持って、喜んだ。
 対等な友人関係では全くなかったが、それは特に驚くべきことではなかった。
 だが、明らかに、友人関係ではあった。 
 Richard とCosima は、クリスマスの贈り物を買うためにニーチェを送り出したり、二人のための用足しに彼を走らせることになる。
 ニーチェは自分をワーグナーの年下の友人だと思っていた。彼は、その友人はドイツとじつにヨーロッパ全体の芸術と音楽をいずれも活気づかせている、と思っていた。
 彼は23回も、Tribschen を訪れた。そして妹のElizabeth も、ワーグナーの仲間と友人になった。
 ニーチェはまた、当初はバイロイト思想の強い支持者だった。//
 (03)  ニーチェは1872年に、〈悲劇の誕生(The Birth of Tragedy)〉、ワーグナーと共有した原稿と初期の草稿を出版した。
 その書物は、ワーグナーに捧げられた。
 実際に彼は、ワーグナーを愉快にさせるために、その本に多数の修正を加えていた。
 その書物はもともとは、悲劇の研究書だった。少なくとも、そのようなものとして書き始められた。
 しかし結局は、ギリシャ人以降はヨーロッパが知らなかったまたは経験しなかった新しい芸術の誕生だとして、ワーグナーの芸術を賛美する書物になった。
 この書物は、理性に対する神話の勝利を賞賛し、ソクラテスとエウリピデスから始まったギリシャ文化の頽廃を描いた。//
 (04)  〈悲劇の誕生〉には、最初の書物に見られる多くの痕跡がある。
 大胆に、のちに受容された著作者たちよりももっと極端な立場を、明らかにしている。
 しかし、ニーチェがのちに採る近代文明に対する批判の前兆も示している。
 ニーチェは、学歴上は古典学者であり、文献学者だった。
 総じて言って、19世紀半ばには、ギリシャ生活で最も強調されたのは、古代的な禁欲と5世紀のアテネとの均衡ある連携という理想だった。
 ギリシャ生活の非合理的な側面は知られていたが、大部分は無視された。
 アテネが文化的に達成したものは、合理的生活の出現と、Matthew Arnord とJonathan Swift の語句を使って表現した「甘美さと明るさ」の獲得だった。//
 (05)  ニーチェはこのようなギリシャ解釈に、そして西側の合理性の父祖という、長く続くソクラテスに対する尊敬の念に、闘いを挑んだ。
 (06)  ニーチェはまた、Dionysus の儀礼へとギリシャ悲劇の歴史をたどった。
 彼は、ギリシャ悲劇はDionysus 的狂気とApollon 的様式との一種の結合から出現した、と見た。
 ニーチェは決して、Dionysian—Apollonian という二元論を説いた最初の人物ではなかった。
 それは実際には、ドイツの文学や音楽の世界内部では相当程度に一致して知られていた。
 しかしながら、彼の書物は、西側ヨーロッパ人の心に拭いきれないほどに、この二元論を刻み込んだ。
 ニーチェはこう言った。「我々は、〈Apollon 的文化〉という精巧な建造物をいわば一石ごとに分解して、それが依って立つ基盤を見つけるにまでに至る必要がある」。(注1)
 Apollon 的様式の禁欲は、思想と現象的外観についてのショーペンハワー的世界と同等のものだった。
 その世界の下には、Dionysus 的狂気が横たわっていた。
 ニーチェは、こう宣言した。
 「人間と人間のあいだの紐帯がDionysus 的な魔術によって再び復活する、というだけではない。
 有害だとして遠ざけられ、従属させられた自然が、その失った息子である人類とのあいだの和解の祭典をもう一度、祝福しもするのだ。<中略>
 今や、宇宙的調和の福音を聴きながら、各人はみんな、たんに自分が隣人と結合し、和解し、融合していると感じるだけではなく、その隣人とまさに文字通りに一つであると感じるのだ。まるで、maya のベールが引きちぎられて、その切れ端だけが神秘的な始原的一体(根源的一つ(das Ur-Eine))の前ではためいているがごとくに。」(注2)//
 (07)  芸術と悲劇に関して、ニーチェは、Dionysus 的なものとApollon 的なもののいずれも必要だと考えた。
 彼の書物は、Dionysus 的なものを賞賛するだけの、無条件の著作ではない。
 そうではなく、彼が論じたのは、ギリシャの最高度の芸術が感動的であるのは、外観についてのApollon 的世界の下に横たわっているのは精神(the psyche)の内的深さであることを証明している、ということだった。//
 (08)  ニーチェはショーペンハウワーを使ったけれども、十分に彼を超えて進んでいた。
 ショーペンハウワーが悲観主義と生の否認へと駆り立てたのに対して、ニーチェは、芸術は生を肯定するものだと見た。
 劇場における悲劇を通じて、ギリシャ人はその生を見出し、その共同体を肯定した。
 芸術にとっての、とくにギリシャ悲劇にとっての問題は、Apollon 的なものが支配したときに発生した。
 Dionysus 的なものが放棄されたとき、芸術はその様式だけではなく内容も、当時の道徳性から採用した。
 ギリシャの場合にこれが意味したのは、悲劇がソクラテス的知識と分析の浅瀬に乗りあげて座礁するに至った、ということだった。//
 (09)  なぜニーチェがソクラテスに対する批判と侮蔑へと飛躍したのかを理解するためには、19世紀におけるソクラテスについて、少しばかり知らなければならない。
 ニーチェは、ソクラテスを論評する中で、19世紀の多数の関係文献を5世紀のアテネでの議論へと符号化(encode)していた。//
 (10)  19世紀の初期および半ばには、ソクラテスに関する二つの主要な解釈があった。G. W. F. ヘーゲルの解釈と、George Grote の解釈だ。//
 ——
 第2節、終わり。

2454/Rosenthal によるNietzsche ①。

 Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
 =B.G.ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
 No.2436に上掲書の目次を掲載している。全体がニーチェに関係しているが、表題から見て関心を惹くのは、とくに以下だ。原書での総頁数も示す。
 第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
  第3章・ニーチェ的マルクス主義者。…計27頁。
  要約・1917年のニーチェ的課題…計4頁。
 第二編/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
  (前記)…計8頁。
  第5章・現在の黙示録—マルクス・エンゲルス・ニーチェのボルシェヴィキへの融合。…計25頁。
 第四編第二部/ウソとしての芸術—ニーチェと社会主義リアリズム。
  第11章・社会主義リアリズム理論に対するニーチェの寄与。…計24頁。
 第四編第三部/勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化。
  第14章・力への意思(Will to Power)の文化的表現。…計28頁。
 第一編第3章(ニーチェアン・マルキスト)等々も興味深そうだが、長さからして試訳しやすそうな、かつ第一編全体の「要約」とされる第一編の最後の「要約」を、以下に試訳してみる。節名の番号数字はない。
 ——
 第一編/要約・1917年におけるニーチェ的課題(Nietzschean Agenda)。
 前記(見出しなし)
 1917年までに、Nietzsche はロシア化され、象徴主義、宗教哲学、「左翼」ボルシェヴィスム、および未来主義へと吸収されていた。
 これらの間で、またそれぞれの内部で重要な違いがあったにもかかわらず、これらの運動、これらによるNietzsche 的課題の「解決」、は多くの点で共通していた。取り上げてすでに論じた人物たちは全て、人間の心理におけるDionysian 要素に関心を持ち、彼ら自身の価値が浸透した新しい文化、新しい社会を創ることを望んだからだ。
 --------
 第1節・新しい神話(Myth)。
 彼らの神話の特徴は、終末論的な(eshatological)、必然から自由への跳躍、人間や世界の改造(transfiguration)だった。
 神話創造に際しての最も重要な試み、神話的アナキズムと神の建設(God-building)、は大衆を結集させることができなかったが、彼らの定式者たちは、経験からつぎのことを学んだ。
 すなわち、新しい神話は馴染みのある用語で語られなければならない。それは明瞭に理解されなければならない(「新しい宗教統合体」または「集団的人間性」はあまりにも漠然としている)。そしてそれは、Apollonian 心象、偶像または崇拝人物像を必要とする。
 Bogdanov は、世界を変革する主要な力は技術だと考えたが、神話がもつ心理政策的(psychopolitical)な有用性を肯定的に評価した。
 Berdiaev の創造性の宗教は、新しい崇拝人物像を含んでいた。
 Florensky の神話は、教会性(ecclesiality)と(抽象的観念よりも)具体的経験を強調する、再生された正教だった。
 未来主義者の神話である太陽に対する勝利(Victory over the Sun)は、人間の創造性のための無限の地平を持っていた。
 この者たちの聖像破壊主義は、崇拝人物像の発生を許さなかった。//
 --------
 第2節・新しい世界。
 Nietzsche の諸用語—「Apollonian」、「Dionysian」、「全ての価値の再評価」、「超人」、「権力への意思」—は、知識人界によってのみならず、大衆読者層に向けた出版物でも、引用符なしで、頻繁に用いられた。
 Nietzsche の影響を受けた知識人のほとんどは、正しい(right)言葉は意識を変革し、無意識の感情と衝動を活気づけることができる、と考えていた。
 象徴主義者たちは、潜在意識下(subliminal)の意思疎通(communication)を強調した。
 未来主義者たちは音を知性よりも重視したが、また、書いた言葉の視覚上の効果にも大きな関心を寄せた。
 Kruchenykh とKhlebnikov は、人々に衝撃を与えて古い思考様式から抜け出させようとした。
 未来主義者と象徴主義者のいずれも、言葉と神話を結びつけ、新しい言葉は新しい世界を発生させることができると信じた。
 Bogdanov は、言語は実際に現実を変化させると結論づけ、神秘的ではない態様で言葉と神話を結びつけた。//
 --------
 第3節・新しい芸術様式。 
 象徴主義者たちは、芸術は「より高い真実」へと、「現実的なものからより現実的なもの」へと導くと信じ、美学的創造性は世界を変革(改造)する儀礼的(theurgic)活動だと見なした。
 Ivanov は、ロシア社会を再統合し、演技者と観客の分離をなくして受動的な観衆を能動的な上演者にし、そして芸術と生活を一つにする方法として、Dionysian 演劇、神話創造の崇拝演劇を提唱し、「集団的創造性」を主張した。 
 Ivanov 理論を緩和した見方は劇場監督たちに採用され、それはBriusov、Meyerhold、Sologub によって擁護された「在来的劇場」のような純粋な劇場性〈劇それ自体のための劇場)に対する対抗理論を生んだ。
 「生の創造」という、ほとんどの象徴主義者が主張するに至った大きな拝礼計画は、部分的には、自由、美と愛の新しい世界を創造するための、政治的革命の失敗(1905年の革命)に対する反応だった。
 未来主義者たちは、直接的感知の詩論についての象徴主義者のPlatonic な側面を拒絶した。
 彼らは、劇場と美術館を街頭と公共広場に取り出して芸術を民主主義化し、文化的遺産を放擲することを望んだ。そして、新しい展望をもち、例えば、世界は退化していると見た。
 Bogdanov の観点主義は、階級に基礎があった。
 心理的に解放されるためには、プロレタリアートは自分たち自身の芸術様式を創造し、文化的遺産を(放擲するのではなく)自分たちの価値と必要性に照らして再評価しなければならないだろう。
 彼は、芸術、道徳および科学の〈階級〉的性格を強調した。
 Florensky は、ルネサンス以降のヨーロッパの芸術と思想を支配している個人主義的な観点主義を拒否した。//
 --------
 第4節・新しい男と女。
 新しい男は美しく、英雄的で、勇敢で、創造的で、努力をするということ、そして、高貴な理想のための戦士であること、は当然視されていた。
 新しい女については、合意がなかった。
 Kollontai、Bogdanov、Gorky は女性に、勇敢さ、自立性、理性のような「男性的」特質を認める一方で、女性の母性的な役割を承認し、強く主張すらした。
 象徴主義者たちは、ソフィアと「永遠の女性的なもの」を賛美し、家族や性別に関する伝統的意識を非難した。
 彼らの理想の人間、かつBerdiaev のそれは、親ではなく中性(androgyne)だった。
 Florensky は、男性と女性を存在論的かつ社会的に区別した。
 彼の〈教会儀礼(ecclesia)〉は、男性二人で構成されていた。
 未来主義者もまた、家族と性別に関する伝統的考えを批判したが、彼らの公的立場は攻撃的な男性主義だった。//
 --------
 第5節・新しい道徳。
 四つの運動全てが、感情の解放、自由な発意、熱烈な確信を擁護すべく、義務というキリスト教的・カント的・人民主義的な道徳性を、カントの命令も含めて、拒否した。
 美しさ、創造性、そして(一定の場合の)困難さは、美徳だと見なされた。
 憐れみ(pity)は弱さの兆しであり、「最も遠いものへの愛」が隣人愛や実際的改良よりも優先した。
 「Nietzsche 的」個人主義は、自己超越という精神を随伴し、犠牲と苦痛を理想とするキリスト・Dionysus の原型が表象する、「個人性」への賛美にとって代わられた。
 Berdiaev、Florensky およびほとんどの象徴主義者は、愛を法に置き換え得る、キリスト教的・ユートピア的な幻想を伴うNietzsche 的な不道徳主義と結びついた。
 政治的な最大原理主義者たちは、革命的人民主義の「英雄的」伝統(テロル)を復活させ、目的は手段を正当化するとの革命的不道徳主義を実践した。
 全ての新しい道徳から欠落したのは、日常生活の規範(ethic)だった。
 この欠落は、意図的なものだった。
 宗教的であれ世俗的であれ、終末論者たちは、ありふれた生活(〈byt〉)の諸側面は改造されるだろう、と想定していた。//
 --------
 第6節・新しい政治。
 これまでに論じた人物のほとんどは、政治を超越することを望んだ。
 彼らの理想は、自己利益や社会契約とは反対の、情熱的紐帯と共通の理想によって強固となる社会だった。
 彼らは、右側寄りのリベラリズムや議会主義的政府を侮蔑した。または、侮蔑するに至った(Frank の見解は微妙に異なる)。
 裕福さはペリシテ人(philistine)の価値だと見なされ、(貧困の廃絶とは別の)大衆の裕福さは、彼らの目標の一つではなかった。
 象徴主義者、未来主義者、および宗教哲学者は、経済を無視した。Berdiaev とFrank はマルクス主義者から出発し、Shestov の学位論文は工場法に関するもので、Frank は〈Landmarks〉で富を商品として扱ったのだったけれども。
 Gorky、Lunacharsky、Kollontai は貧困は社会主義のもとでは消滅すると想定していた。しかし、経済学そのものにはほとんど注意を払わなかった。
 Bogdanov、Bazarov、およびVolsky は、経済学に関して執筆した。しかし、彼らが公刊した大量の著作は、哲学に関するものだった。
 しかしながら、つぎのことは、記しておくに値する。
 第一に、Bogdanov は労働者向けの一般的な経済学の教科書を執筆し(1897年、初版)、その書物はソヴィエト時代に入っても用いられた。(I. I. Skvortsov とともに)〈資本論〉を再翻訳しもした。
 彼はまた、1917年までに経済学者としての声価を確立していた。
 第二に、Volsky は、Capri 学校で、農業問題を講義した。
 新しい文化的アイデンティテイを明確にしようとする試みは、新スラヴ主義または文化的ナショナリズムへと次第に変化してゆき、そして政治的ナショナリズムになった。
 Nietzsche に影響を受けたち知識人のほとんどは、第一次大戦の勃発を歓迎するか、それを終末論的用語法で見るようになるか、のいずれかだった。//
 --------
 第7節・新しい科学。
 Bogdanov だけが明示的に、新しい科学の誕生を呼びかけた。
 科学的「真実」を含む「真実」は特定の階級に奉仕するので、プロレタリアートは集団主義的方法と実践的な目標でもって、自分たちの科学を発展させなければならなかった。
 認識論をめぐるBogdanov とレーニンの間の争論には、科学にとっての示唆があった。論点は客観的真実は存在するか否か、誰がそれを明らかにするに至るのか、だったからだ(第5章を見よ)。
 Bely とFlorensky は、象徴主義が新しい非実証主義的科学を導くのを期待した。これは、Florensky が1920年代に発展させた主題だった。//
 --------
 後記(見出しなし)
 影響の「萌芽期」に文化に植え込まれたNietzsche の思想は、すでに論じた人物や新しく登場する人物によって、ボルシェヴィキ革命後に再循環し、再作動した。
 レーニン、ブハーリン、トロツキーによる革命のシナリオは、承認されていないNietzsche の思想を含んでいた。//
 ——
 以上。

2453/Turner によるNietzsche ①。

 日本語でのニーチェに関する文献は邦訳書も含めて少なくないが、いろいろなニーチェ論、ニーチェ解説を知っておこう、という趣旨で、以下の英語著の最後の章(第15章)のニーチェに関する部分を試訳してみる。
 Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 区切りの見出しも数字もないが、一行空白の箇所がいくつかあるので、それによって便宜的に「節」の区切りとみなし、連番数字をつけた。
 一文ごとに改行し、段落の冒頭に(01)等の番号を付した。
 ——
 第15章・ニーチェ。
 第1節
 (01) ブルジョアジーは、19世紀半ばから後半のヨーロッパの知的、文芸的、芸術的文化を支配した。
 ドイツの統一の頃までに、永続すると考えられた世界を構築していた。
 鉄道は大陸に網を張り、人々は電信ケーブルを使って大陸間で通信した。新たに設計された都市が田園風景の中に点在し、大きな蒸気船が、ヨーロッパで製造された商品を世界中に運んだ。
 (02) 国民国家が、政治生活を支配した。
 科学は自然の大きな秘密を解明し、自然を人類の財産の協力者にしたように見えた。
 実際に、ヨーロッパ人は、T・H・ハクスリーが「事実の上にある科学が生んだ新しい自然」と呼んだものの中で生活していた。
 (03)  だが、このような生活様式の表面的快適さは、幻想だった。
 ヨーロッパじゅうのブルジョアジーは不安をもち、怖れすらしていた。
 Peter Gay がかつて指摘したように、「神経質病」が人々の挙措の一般的な病気と兆候として現れ始めた。
 中間階層は、社会主義者を恐れた。
 彼らはまた、貴族政体の健全な側面を維持した。 
 自分たちの国民国家の内外に、人種的な敵を探し求めた。
 中間階層の快適さを生んでいた同じ産業革命が、軍隊のための新しい破壊力をも生んでいた。
 中間階層の重要な与件だったキリスト教は、科学と歴史研究の包囲攻撃を受けていた。
 リベラルな政治家たちは、想定されたようには全く働いていなかった。
 有権者数の膨張は、社会主義者を助けたのみならず、政治的国民の保守的勢力の利益となったように見えた。
 教会、貴族層、のちには反ユダヤ主義者は、民主政体の諸制度を彼らの目的のために用いることができた。
 (04)  しかし、少なくとも後から振り返れば、おそらく最も当惑させるもので、最も印象的だったのは、世紀の後半に顕著になった、ブルジョア世界に対する知識人の批判だった。
 とくに重要なのは、半世紀前にJ・シュンペーターが指摘したように、この批判の多くがブルジョア文化それ自体から発生した、ということだ。
 西側文明は、自己批判を好む傾向をつねに示した。そして、その文化の内部では、中間階層ほどにその傾向を示した集団は存在しなかった。
 (05)  例えば、科学の方法を文学に適用せよとしばしば要求されたリアリズム小説の作家たちは、中間階層の文化を批評するために、科学に対するブルジョアの信仰を用いた。
 さらに加えて、この批判の媒介手段—文学分野では小説—は、全ての人文形態の中で、おそらく最もブルジョア的だった。
 伝統的な制度を拒むリベラルなブルジョアジーの志向は、サロンの伝統的権威を拒む芸術家たちとよく似ていたことだろう。また、そうした志向は、彼ら自身が選ぶ芸術展示会や画廊を始めることになった。—これはしばしば、裕福な中間階層を称賛し財政支援をすることとなった。
 (06)  自分たち自身に向けたブルジョアジーの文化の最も顕著な例は、世紀の後半での理性(reason)の利用であり、これは、合理的なもの(the rational)を疑うか、非合理的なものを探すかのいずれかだった。
 これらは、二つの全く異なる傾向だった。
 前者は非合理的のものの賞賛へと至るもので、おそらくは人種的思考に見ることができる。
 後者は、もっとはるかに複雑だった。
 合理的方法を用いて非合理的なものを探すことは、非合理的なものの賞賛に至るかもしれないが、至らないかもしれない。
 たんに合理的でないものの重要性を認識し、合理的なものの範囲内でそれを維持する試みに、つながり得るだろう。
 あるいは、非合理的なものの発見と合理的なものとのその併存の許容へと至り得るだろう。
 あるいは、ある場合には、合理性それ自体がほとんど無用だという考えに至り得るだろう。
 これらのいずれも、ブルジョア文化に、より特定して言えば啓蒙思想(the Enlightenment)に、挑戦するものだ。
 (07)  実証主義に対するこの反抗を主張した最も重要な人物であり、ブルジョア文化に対する過激な批判者だと考えられるに至ったのは、F・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)だ。
 今日では、この点でニーチェほどの広汎な声価(reputation)を得ている哲学者はほとんどいない。
 このような意味で、モダニズムの主唱者や中間階層文化を批判した他の者たちと同様に、ニーチェもまた、この文化に捉われており、取り込まれている。
 (08)  ニーチェの今日での声価が得られるまでには、かなりの困難さがあった。
 彼が生きていた間、その書物は著名ではなく、広く受容されたのでもなかった。
 ニーチェが出版社を見つけるのは、しばしば困難だった。
 出版社があっても今度は、彼の本を売るという困難さがあった。
 彼の声価が高まったのは、ようやく1880年代遅くに、デンマークの評論家のGeorge Brandes がニーチェの著作を論じ始めてからだった。
 そうして、ニーチェは、多様な諸国の当時の他の文筆家に評価され始めた。
 しかし、初期のこの声価と敬意は、欠陥のある、間違って編集された、半ば捏造された(quasi-forged)彼の著作にもとづいていた。その出版物は、ニーチェの実際の思想とはまさに正反対の鋳型へとその思想の多くを入れ込んだものだった。
 (09)  Brandes は1888年にコペンハーゲンで、ニーチェについて講演した。
 その翌年早くに、ニーチェは精神障害(insanity)の時期に入った。それは1900年の彼の死まで続くことになる。
 1880年代の彼の著作に関する代理人かつ執行者は、妹の Elizabeth Förster-Nietzsche だった。
 彼女はBernard Förster の妻で、この夫は、ドイツの最も過激な人種主義者かつ反ユダヤ主義者の一人だった。
 1880年代にその夫は死亡し、兄は狂人(mad)となった。そして彼女は、夫の考え方と政策を支持して促進すべく、兄の諸著作の編集をし始めた。 
 Förster-Nietzsche 夫人は、彼女の兄の著作物に対して排他的権利を持った。そして、出版したいと思うものだけを出版した。
 (彼女は、1930年代まで生きた。)
 彼女は、完全では決してないニーチェの選集のいくつかの版を出版した。
 (10)  彼女はとくに、1908年まで、〈この人を見よ(Ecce Homo)〉の出版を遅らせた。
 これはニーチェの最後の著作の一つで、反ユダヤ主義、ナショナリズム、人種主義、菜食主義、軍国主義、および権勢政治に対する批判を述べていた。
 そして彼女は、この書物をきわめて高価にして出版した。
 それより前に出版した諸著作は、兄にとってきわめて悪意のある声価を確立する鍵になっていた。
 ニーチェの文章の中には、数百頁になる断章やアフォリズムがあった。
 彼女は、これらの一部を1901年に、その他の多くをのちに〈権力への意思(The Will to Power)〉という挑発的な表題を付けて、出版した。
 これらは、初期の諸著作のための覚え書だった。
 彼女はこれらをでたらめにつなぎ合わせ、兄の最後の体系的な作品で構成されていると示唆した。
 このような編集の操作によって、ニーチェは絶望的に理解し難く、曖昧で、非体系的で、反ユダヤ主義で、猛烈に民族主義的で、かつ親ナツィだ、という考えが広がるに至った。
 ドイツの学界にいくぶんか歪曲の少ないニーチェの見解が現れたのは、ようやく第一次大戦の後だった。また、アメリカの学者たちが系統的にニーチェを検証して教育し始めたのは、まさにようやく、第二次大戦の後だった。
 (11)  ニーチェの思想は、少なくとも二つの発展段階を通っていた。
 第一の時期には、逆のことへの多数の異論があったにもかかわらず、ニーチェは、ロマンチシズムの伝統と緊密に歩調を合わせ、非合理的なものをしばしば称賛しているように見えた。
 彼はこの時期に、ワーグナー(Wagner)と親しく交際した。
 (12)  ニーチェの思想の第二期には、批判主義、コスモポリタン主義、良きヨーロッパ人を擁護し、民族主義を批判して、啓蒙思想(the Enligtenment)に接近した。
 二つの時期を通じて、ニーチェは一般に、リベラリズムや、自分が中間階層の文化の俗物性だと見なしたものに対して、批判的だった。
 ドイツの多くの哲学者たちのように、彼は、理性を用いて、理性の領域に挑戦し、あるいはそれを限界づけた。
 ——
 第1節、終わり。

2452/西尾幹二批判037。

 西尾幹二の個人全集第17巻(2018年)の特徴は、前回に書いたことのほか、いくつかある。
  一つは、この巻が対象としている自分の文章等についての、読者が恥ずかしくなるほどの自画自賛ぶりだ。「後記」から、例を挙げる。なお、別巻収載の同『国民の歴史』にも言及がある。
 ①「それよりも今一番見逃せないのは、私の最大の長所が、日本史のトータルを歪曲した勢力との思想的格闘にあったことだ」。p.748。
 ②「(この巻の)第一部は従来の歴史思想を挑発し、徹底的に論破しようとしている。
 第二部は学問的に内省し、自分の立場を固めようとしている。」p.749。
 ③「ことに第三部の最後の三篇」は「…全国規模のドキュメントで、推理小説のようにスリリングであり、最後に思いもかけない『犯人』が暴露されるいきさつをお楽しみいただきたい」。
 ④「『国民の歴史』『地球日本史』その他によって遺産として遺された著作群は、同運動の継承者を末長く動かす唯一の成果であろう」。
 この点を除けばつくる会運動の意義はない、と言えば「運動の具体的関与者」は不満だろうが、「歴史哲学の存在感は大きい」。p.751。
 (『国民の歴史』等は「歴史哲学」書だと西尾本人が言っている!—秋月)
 ⑤「『国民の歴史』の前半」を…に力点を置いて「読まれるようお願いしておきたい」。「これからの時代にその必要度は増してくると思われるからである」。p.752。
 ⑥上の理由はつぎのとおり。「中国を先進文明とみなす」病理が巣食っているが、「この点を克服しようとしている『国民の歴史』はグローバルな文明的視野を備えていて、もうひとつの私の主著『江戸のダイナミズム』と共に、これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」。
 以上。
 ④での「歴史哲学」という言葉の使い方にも驚くが、この⑥は、呆れかえる、「精神・神経」の健全さすら疑う、というレベルのものだ。
 本当に喫驚する。
 仮に万が一適切だったとしても、自分の著について、「グローバルな文明的視野を備えてい」る、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命」がある、と書くことのできる日本人文筆者は他にいるだろうか。
 そして、その内容、自己主張に適切さは全くないとなると、いったいこの人はどういう「精神・神経」の状態にあるのだろうか。
 --------
  日本人ではない、「哲学者」とされるニーチェ『この人を見よ』は、その傲岸さを感じつつ(各文献を知らないままで)戯れに読むと、面白い作品だ。
 あくまで一部の紹介だが、「なぜわたしはこんなに賢明なのか」等の他に「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」と題する章があり、さらにその中に、つぎの文章がある。
 「『悪意』のある批評を書かれた事例」はほとんどないのに反して、「まるでわたしの著書がわからないという純なる愚かさの実例となると、これは多すぎるくらいにある!」
 ドイツ以外には「至るところに読者」があり、「選り抜きのインテリゲンチアで、高い地位と義務の中で教育された信頼すべき人物ばかりだ」。
 「要するに、わたしの著書を読み出すと、ほかの本にはもうがまんできなくなるのだ。哲学書などはその筆頭である。」
 「およそ書物のうちで、これ以上に誇り高い、同時に洗練されたものは絶対にない。」
 長くなるから、これくらいにする。訳は、手塚富雄:岩波文庫(1969年)によった。
 西尾幹二は、ニーチェを基準とすると、まだ可愛いのかもしれない。
 --------
  もう一点、西尾個人全集第17巻については、指摘しておくべき重要な点がある。つぎの機会に回す。
 ——
 

2449/ニーチェ研究者・適菜収の奇矯①。

  適菜収は「反橋下徹」で目立つ風変わりな物書きで、橋下徹(・日本維新の会)と組んだ憲法改正には断固反対すると安倍晋三政権のときに書いていたし、同じく「反橋下徹」で、工学部教授でありながらH・アレントに依拠してと虚言を吐いて「ファシズム」に関する本を出版した、やはり風変わりな藤井聡(京都大学)と対談などもしていた。
 その(私から見ての)奇矯さが強く印象に残っていたが、最近、適菜収は「ニーチェ研究者」だとか「ニーチェを専攻」だとかを自書等に自ら記していることを思い出した。または、それに気づいた。
 但し、ニーチェに関する新書類を複数出しながら、学界・アカデミズム内で「ニーチェ研究者」と認知されているわけでは、間違いなくない。大学文学部卒とだけ経歴にあるので、せいぜい卒業論文の主題をニーチェにした程度で、大学院に進学してニーチェに関する研究論文を執筆したのでは全くないと推察される。取得していればすすんで明記するだろう、「文学博士」との記載もない。
 一般的に学界・アカデミズムの優先・優越を前提としているのでは全くないが、上のことは、適菜収の理解や主張を少なくとも「うのみ」にしてはならないことの理由にはなるだろう。
 下にも出ているが、私の知る限りでは、月刊雑誌(のしかも実質的巻頭)に初めて登場したのは、桑原聡・代表、川瀬弘至・編集部員時代の月刊正論(産経新聞社)2012年5月号だった。
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  月刊正論や産経新聞の本紙自体に適菜収が登場したことを契機としてだろう、産経新聞社に対して、愛読者から、つぎのような助言または警告が発せられた。
 それは「産経新聞愛読者倶楽部」というサイトに投稿されたもののようで、実際の執筆者の氏名等は不明だ。但し、無署名であることが内容の虚偽や不誠実性の根拠にただちになるわけではない。
 適切だと感じる点も多く、また初めて知ることもあった。以下に出てくるベンジャミン・フルフォードという人物は、カナダ生まれだが日本の大学を卒業し、のちに日本に帰化した。外国人だから世界的な権威がある程度はあるのだろうと感じる人がいないとも限らないので、あえて記しておいた。
 以下のは、引用符を付けないが。投稿文のほぼ全文で(もともと本欄による一部省略あり〉、この欄にすでに2012年4月に掲載していたものの再掲だ。改行箇所を増やす等の変更だけは行なっている。
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 産経新聞社発行の月刊『正論』5月号(3月31日発売)は『【徹底検証】大阪維新の会は本物か/理念なきB層政治家/橋下徹は『保守』ではない!』と題した論文をメーン記事として掲載しました。
 筆者は適菜収という37歳の聞いたことのない哲学者です。この中で適菜は『B層』について『近代的理念を盲信する馬鹿』と定義して、橋下市長を『アナーキスト』『デマゴーグ』などと非難しています。
 巻末の編集長コラム『操舵室から』でも桑原聡編集長が『編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う』と表明しています。//

 雑誌を売るためにインパクトのある記事を載せているのなら仕方ないなと思っていたら、なんときのう(6日)の産経新聞1面左上(東京本社版)にも適菜収が登場して<【賢者に学ぶ】哲学者・適菜収/「B層」グルメに群がる人>というコラムを書いていました。B級グルメをもじって「B層グルメ」という言葉を紹介しています。
 『≪B層≫とは、平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で『マスメディアに踊らされやすい知的弱者』を指す。彼らがこよなく愛し、行列をつくる店が≪B層グルメ≫だ』そうです。
 締めくくりは『こうした社会では素人が暴走する。≪B層グルメ≫に行列をつくるような人々が『行列ができるタレント弁護士』を政界に送り込んだのもその一例ではないか』です。橋下叩きを書くために、延々と食い物と『B層』の話をしているだけの駄文です。//

 われわれ保守派としては、橋下徹氏が今後どのような方向に進んでいくかはもちろん分かりません。
 しかし、職員組合に牛耳られた役所、教職員組合に支配された教育現場を正常化する試みは橋下氏が登場しなければできませんでした。自民党は組合との癒着構造に加わってきたのです。私は少なくとも現段階では橋下氏を圧倒的に支持します。//
 そもそも『B層』という言葉には非常に嫌な響きがあります。適菜がいみじくも『馬鹿』と書いているように、いろいろな連想をさせる言葉です。//

 ちなみに適菜収はサイモン・ウィーゼンタール・センターから抗議を受けたこともあります。
 読売新聞平成19年2月22日付夕刊「徳間書店新刊書の販売中止を要請/米人権団体『反ユダヤ的』/【ロサンゼルス=古沢由紀子】ユダヤ人人権団体の「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は21日、徳間書店の新刊書『ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ』について、『反ユダヤ主義をあおる内容だ』として、同書の販売を取りやめるよう要請したことを明らかにした。同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、『広告掲載の経緯を調査してほしい』と求めたという。
 同書は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家の適菜収氏の共著で、今月発刊された。サイモン・ウィーゼンタール・センターは反ユダヤ的な著作物などの監視活動で知られている。
 徳間書店は、『現段階では、コメントできない。申し入れの内容を確認したうえで、対応を検討することになるだろう』と話している。//

 産経新聞平成19年2月23日付朝刊「米人権団体『反ユダヤ的陰謀論あおる』本出版、徳間に抗議/【サンフランシスコ=松尾理也】米ユダヤ系人権団体のサイモン・ウィーゼンタール・センター(ロサンゼルス)は21日、日本で発売中の書籍ニーチェは見抜いていた—ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ』(徳間書店)について、『反ユダヤ的な陰謀論の新しい流行を示すもの』と批判する声明を発表した。同センターは同時に、同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、掲載の理由を調査するよう求めている。
 問題となった書籍は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長、ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家、適菜収氏の共著。2月の新刊で、朝日新聞はこの本の広告を18日付朝刊に掲載した。
 同センターは、同書の中に『米軍は実はイスラエル軍だ』『ユダヤ系マフィアは反ユダヤ主義がタブーとなっている現実を利用してマスコミを操縦している』などとする内容の記載があり、米国人とイスラエル人が共同で世界を支配しているという陰謀論をあおっているとしている。」//
 産経新聞1面左上のコラム(東京本社版)は約30人の『有識者』が日替わりで執筆しています。適菜収がここに登場したのは初めてです。
 つまり適菜は執筆メンバーになったわけですが、いったい誰が登用したのでしょうか。
 産経新聞は適菜を今後も使うかどうか、よく身体検査したほうがいいでしょう
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 以上。

2437/ニーチェとロシア革命③。

  西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020). p.354-5。
 私は「ニーチェの影響を受けた日本の一知識人に過ぎない」。
 「それでも、ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
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  ニーチェとロシア革命・ボルシェヴィキでないが、<ロシア文学>への影響を考察する、以下の研究書もある。概要を目次等に基づいて紹介する。むろん、<文学>は人間観、政治と無関係ではなく、多少捲っただけでも、Lunacharsky やGorky の名がしばしば出ている。
 章・節の表題に出てくる、ディオニュソス(Dionysos)とは、ニーチェが『悲劇の誕生』(Die Geburt der Tragödie)でアポロン(Apollon)と対比させているギリシア神話上の「神」。
 西尾幹二には、30歳を超えての仕事だったと見られる、同訳『悲劇の誕生』(中公クラシックス、2004年/原訳書、1966年)がある。
 以下の「章」・「節」の語は原英語書にはなく、「節」には数字番号すらない。
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 Edith W. Clowes, The Revolution of Moral Consciousness -Nietzsche in Russian Literature,1890-1914 (Northern Illinois University Press、1988/Paperback 2018).
 (表題試訳/道徳意識の革命—ロシア文学におけるニーチェ、1890-1914。)
 第1章/ロシア文学へのニーチェの影響という問題。
 第2章/先駆者たち。
  第1節/道徳に関するニーチェ哲学。
  第2節/ニーチェを読む前提条件。  
 第3章/初期のニーチェ受容。
  第1節/検閲官・独裁者・普及者。
  第2節/大衆的ニーチェ主義。
 第4章/人民主義者(Populist)から人民芸術へ。—超人と自己決定という神話。
  第1節/神話を生かす。
  第2節/神話を教える。
 第5章/神話的象徴主義者(The Mystical Symbolists)。—ディオニュソス的(Dionysian)キリスト教文化の形成。
  第1節/D.メレシュコフスキー(Dmitry Merezhkovsky)の新しいキリスト。—「魂」と「肉体」の統合。
  第2節/地下のキリスト。—キリスト・ディオニュソスの神話。
  第3節/ベリュイ(Belyi)と磔にされたディオニュソス。
 第6章/革命的ロマン主義(The R.- Romantics)。
  第1節/創造的意思のゴーリキ(Gorky)による神格化。
  第2節/人民主義的(Populist)神話の再活用。
 第7章/結語。
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2436/ニーチェとロシア革命・スターリン②。

  西尾幹二・歴史の真贋(新潮社、2020)p.354-5。
 「私はニーチェ研究者ということにされているが、それは正しくない。
 ニーチェの影響を受けた日本の一知識人に過ぎない。
 それでよいという考え方である、
 専門家でありたくない、あってはならないという私の原則が働いている。//
 それでも、ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
 なお、ニーチェの生没は、1844年〜1900年。第一次大戦もロシア「革命」も知らない。
 以下は、秋月瑛二。
 西尾幹二はニーチェ研究者でないことは、間違いない。
 かりにニーチェの文学的<評伝>の一部の著述者であったとしても、<ニーチェの哲学>の研究者だとは、到底言えない。
 但し、<評伝>を書いている過程でニーチェの哲学的?文章そのものを読むことはあっただろう。
 そして、そのことがあって、西尾幹二は85歳の年に、「ニーチェの影響を受けた」、「ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」と明記しているわけだ。
 若いときにレーニンの文献ばかり読んでいたらどうなるかの見本は白井聡だろう旨、この欄に書いたことがある。
 「哲学」科的ではない「ドイツ文学」科的な研究であれ、若いときに(とくに20歳代に)ニーチェばかりに集中していると、どういう日本人が生まれるか。西尾幹二のその後の著作・主張・経歴は、その意味で、興味深い素材を提供していると感じられる。
 素人として書くが、<ニーチェ哲学(思想)>は、①フランスの実存主義、さらに構造主義、②ドイツの〈フランクフルト学派〉に何がしかの影響を与えており、これらと関係がある。後者につき、機会があれば、ハーバマス(Habermas)の文章を紹介する。
 さらに、③ロシアの思想・ロシア革命・スターリン主義へも一つの潮流として影響を与えたらしいことを今年(2021年)に入ってから知った。
 幼稚に想像し、単純にこう連想する。ニーチェの<反西洋文明・反キリスト教>(「神は死んだ」)は変革または新しい「哲学」を目指す「左翼」と親和的であり、<権力への意思>・<超人(Supermann,Übermensch)>は、権力への「強い意思」をもつ「超人」による政治・文化の全面的な(全体主義的な?)支配という理想と現実に親和的だ(かつてはニーチェとナツィスの関係だけはしばしば言及された)。
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  ニーチェがロシアの文化、ロシア革命後のロシア(・ソ連)社会に与えた影響について、一部によってであれ、関心をもって研究されているようだ。
 その例証になり得る三つの文献とそれらの内容の概略を「2424/ニーチェとロシア革命・スターリン」で紹介した。
 以下は、第三に挙げたつぎのBernice Glatzer Rosenthal の単著(副題/ニーチェからスターリニズムへ)の概要の、より詳細なものだ。
 前回では、以下でいう「編」と「部」しか記載していないが、以下ではさらに「章」題まで含める。
「編」=Section、「部」=Part で、これらの英語の前回の訳とは異なる。太字化部分と適当に引いた下線は、掲載者。
 なお、著者は現在、Fordham大学名誉教授(Prof. Emeritus/歴史学部)。
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 Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002). 単著、総計約460頁。
 第一編/萌芽期・ニーチェのロシア化—1890-1917。
   第1章・象徴主義者。
   第2章・哲学者。
   第3章・ニーチェ的マルクス主義者。
   第4章・未来主義者。
   要約。
 第二編/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
   第5章・現在の黙示録—マルクス・エンゲルス・ニーチェのボルシェヴィキへの融合。
   第6章・ボルシェヴィズムを超えて—魂の革命の展望
 第三編/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
   第7章・神話の具体化—新しいカルト・新しい人間・新しい道徳。
   第8章・新しい様式・新しい言語・新しい政治。 
 第四編/ スターリン時代におけるニーチェの反響(Echoes)—1928-1953。
  第一部/縄を解かれたディオニュソス(Dionysos)、文化革命と第一次五カ年計画—1928-1932。
   第9章・「偉大な政治」のスターリン型。
   第10章・芸術と科学における文化革命。  
  第二部/ウソとしての芸術、ニーチェと社会主義リアリズム
   第11章・社会主義リアリズム理論へのニーチェの貢献。
   第12章・実施される理論。
  第三部/勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化
   第13章・スターリン個人崇拝とその補完。
   第14章・力への意思(Will to Power)の文化的表現。
  エピローグ/脱スターリン化とニーチェの再出現。
 以上。

 ——

2432/F・フュレ、うそ・熱情・幻想⑪。

 試訳、つづき。下線は試訳者。
 ——
 第6章・歴史家が追求した仕事②。
 (4)私が執筆したのは、—カントの言葉を使えば—「批判的」歴史だ。この書物の最初の部分で、私は、概念上の図式を提示する。そして、肉づきや実態(flesh & substance)を示すものなのか否かを判断して、私が再構成して集めた事実を検証する。
 私は思想と事実のあいだを操縦して進む。こちらからあちらへと、そしてその逆方向へもあり得る。
 私は哲学者ではない。
 歴史家はあまりに哲学的になるのを避けるべきだ、と考えている。
 歴史家がもつ知識の正当性や限界の問題に絡み取られてしまうと、執筆することができない。
 実証主義的な素朴な事実と虚無主義的な相対性の間には、見出されるべき中間の地点がある。今日では、必要不可欠の中間地点だ。我々は、ニーチェ的な漂流の中にいるのだから。
 ニーチェによると、事実は存在せず、ただ解釈だけがある
 どこでも、そういう声を聞く。
 出現してくる最初の学生は、この近視眼的相対主義を身につけている。
 相対主義の一要素は解釈を構成するために重要なのだとかりにしても、煩わしいことだ。
 しかし、事実の説明を試みようとする目的があって事実を発掘しないなら、どのようにすれば歴史家であり得るだろうか?//
 (5)アメリカ合衆国では、1930年代の共産主義または共産主義的反ファシズムは、〈Partisan Review〉で代表された。これは、パリの知識人とよく似た、ニューヨークの共産主義者かトロツキストである小集団の知識人が編集していた。
 ソヴィエト連邦では反ファシズムへと結集していた知識人たちは、そこではソヴィエトの裁判やドイツ・ソヴィエト協定に反発していた。
 アメリカ人2000人の旅団が、国際旅団の中でスペイン内戦を闘った。
 これは全く印象的だ。
 アメリカ人や、とくにイギリス人が今日言うのとは反対に、共産主義思想は、イギリスやアメリカ合衆国の大衆の心をほとんど掴まなかったけれども、知識人界の中には影響をもった。その規模は、大きなものだった。
 多数のイギリスの知識人が、体験に影響を受けることなく、生涯ずっと共産主義者のままだった。//
 (6)私の書物の目的からすると、知識人たちは主に目撃者として有用だった。
 私は知識人の歴史を書きたくはなかった。
 その作業は、すでになされている。
 私は、明らかな例だと思うサルトル(Sartre)について、語りはしない。
 サルトルについて、10ページ以上も書く必要はない。
 彼について語りたくないからではなく、すでに多くのことが言われているからだ。そして、何度も行われたことを再点検する価値はない。
 私は、分析するのがたぶんもっと面白いBataille、Simone Weil、そしてDrieuから—〈幻想の終わり〉第8章の「反ファシズム文化」で行うように—新しく開始したい。
 しかし、 知識人たちは、固有の分野として研究するよりも、特定の時代に流通した世論や思想の再構成者として研究する方が有益だ。
 今日では奇妙なことに、共産主義の神秘的教義は大部分は知識人に影響を与えた、と思われている。
 これは、全く正しくない。
 フランスでは、1945-46年頃、有権者の25パーセントが共産党に投票した。
 かりに共産主義は知識人のみを揺り動かすのだとすれば、共産主義は一つの国でこの集団的なメシア(救済主,messianic)的希望を獲得することができなかっただろう。//
 ——
 第6章、終わり。
 

2424/ニーチェとロシア革命・スターリン。

  西尾幹二は、2020年にこう明記した。
 私はニーチェの「専門家でありたくない、あってはならない」。
 「それでも、ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
 以上、同・歴史の真贋(新潮社、2020)p.354-5。
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  かつてのソ連および現在のロシアで、ニーチェ(Friedrich Nietzsche)がロシアの文化、ロシア革命後のロシア(・ソ連)社会に与えた影響について、一部によってであれ、関心をもって研究されているようだ。
 例えば、ロシア10月革命直後のレーニン政権の初代啓蒙(=文部科学)大臣=人民委員だったLunacharskyはニーチェを読んでおり、影響をうけていた、という実証的研究もある。
 以下は、現在の時点で入手し得た、ニーチェとロシア・ソ連の関係(主としては哲学、文化、人間観についてだろう)に関する、英語文献だ。
 資料として、中身の構成も紹介して(直訳)、掲載しておく。
 (1) Bernice Glatzer Rosenthal(ed.), Nietzsche in Russia(Princeton Univ. Press, 1986). 総計約430頁、計16論考。
  ・第一部/ロシアの宗教思想に対するニーチェの影響。
  ・第二部/ロシアの象徴主義者(Symbolists)と彼らのサークルに対するニーチェの影響。
  ・第三部/ロシアのマルクス主義に対するニーチェの影響。
  ・第四部/ロシアでのニーチェの影響のその他の諸相。
 (2) Bernice Glatzer Rosenthal(ed.), Nietzsche and Soviet Culture -Ally and Adversary(Cambridge Univ. Press, 1994/Paperback 2002). 総計約420頁、計15論考。
  ・第一部/ニーチェとソヴィエト文化の革命前の根源。
  ・第二部/ニーチェと芸術分野でのソヴィエトの主導性。
  ・第三部/ソヴィエト・イデオロギーへのニーチェの適合。
  ・第四部/不満著述者・思索者のあいだでのニーチェ。
  ・第五部/ニーチェと民族性(Nationalities)—事例研究。
 (3) Bernice Glatzer Rosenthal, New Mith, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002). 単著、総計約460頁。
  ・第一部/萌芽期、ニーチェのロシア化—1890-1917。
  ・第二部/ボルシェヴィキ革命と内戦におけるニーチェ—1917-1921。
  ・第三部/新経済政策(NEP) の時期でのニーチェ思想—1921-1927。
  ・第四部/ スターリン時代におけるニーチェの反響(Echoes)—1928-1953。
   //第一章・縄を解かれたディオニュソス(Dionysos)、文化革命と第一次五カ年計画—1928-1932。
   //第二章・ウソとしての芸術、ニーチェと社会主義的リアリズム。
   //第三章・勝利したウソ、ニーチェとスターリン主義政治文化。
  ・エピローグ/脱スターリン化とニーチェの再出現。
 以上
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2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)
 試訳をつづける。邦訳書はないと見られる。
 西尾幹二が影響を受けたと2019年著でも明記しているニーチェに関する記述が興味深い。
 ——
 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・際限なく審判されるModernity ④。
 (16-02)ニーチェの破壊的熱情は、中産階級の上辺だけの精神的安全性に大恐慌をもたらし、神の死の目撃者となるのを拒否している者たちの虚偽の信仰だと彼が考えたものを粉砕した。
 ニーチェは、現実に起きていることに気づくことができない、そういう人々の偽りの精神的安定を情熱的に攻撃することに成功した。なぜなら、最後に至るまでの全てを語ったのは、彼だったからだ。すなわち、世界は意味も、善悪の区別も生み出さない。
 現実は無意味だ。そして、その背後に別の隠された現実があるのでもない。
 我々が現に見ている世界は最終通告(Ultimatum)だ。
 我々に対して伝えようとする言葉はない。何にも言及しない。
 自己を消滅させ、何も聴こえず、何も発声しない。
 これらは語られなければならなかった。そして、ニーチェは、この絶望状態での解決方法または救済策を発見した。解決するのは、狂気だ。
 大して多くのことは、ニーチェの後でその提示した方向では、言うことができなかっただろう。//
 (17)Modernity についての予言者になるのは、ニーチェの宿命だったように見えたかもしれない。
 実際には、彼は曖昧すぎて、その責務を果たせなかった。
 一方で、彼は監禁されながら、取り返しのつかない知的および道徳的なModernity の結末を断言し、古い伝統から何らかの救済を得ようと臆病に望んでいる者たちを嘲笑した。
 他方で彼は、Modernityへの、進歩の苦い収穫物への恐怖を非難した。
 彼は、自分が知って—かつ語って—怖れ慄いたものを受容した。
 彼は、キリスト教の「ウソ」に対する科学の精神を称揚した。しかし、同時に彼は、民主主義的平準化の悲惨さから逃れようと欲し、粗野な天才という理想に避難場所を見つけようとした。
 だが、Modernity が望んだのはその卓越性に満足されることであり、疑念と絶望によってバラバラに引き裂かれることではなかった。//
 (18)ゆえに、ニーチェは、我々の時代の明快な正統説(explicit orthodoxy)にはならなかった。
 明快な正統説は、なおもつぎはぎで成り立っている。
 我々のModernity を主張しようとしつつ、我々は多様な知的な仕掛けを用いてその努力から逃れようとしている。意味は人類の伝統的な宗教的遺産とは別個に復活し回復され得るのであり、Modernity によって生じた破壊にもかかわらずそうだ、と納得していたいがために。
 いくつかの判型のリベラルなポップ神学(pop-theology)が、この作業に寄与している。
 いくつかの多様なマルクス主義も、同様だ。
 どの程度長く、またどの範囲まで、妥協のためのこの作業が成功し得るのかは、誰も予見することができない。
 しかし、先に述べた、世俗性の危険に知識人層が覚醒することは、我々が置かれている現在の苦境から抜け出す、期待できる通路であるとは思えない。そのような考察が間違っているからではなく、我々人間は、一貫しない、操作可能な精神をもって生まれている、と疑ってよいからだ。
 知識人層にあるのは、人騒がせに絶望的になる何かだ。その知識人たちは、宗教的愛着心、信仰心、あるいは忠誠さそのものをもたないが、我々の世界における宗教のもつかけがえのない教育的、道徳的役割を執拗に主張し、自分たちがまさに代表的な目撃証人であるそれらの脆弱さを嘆き悲しんでいる。
 私は、無信仰であるとか、あるいはひどく苦しい宗教的経験の価値を擁護しているとか、いずれの理由でも、彼らを責めはしない。
 ただ、彼らの作業が彼ら自身が望ましいと考える変化を生み出し得るのかについて、納得することができないだけだ。なぜなら、信仰心を広めるために必要なのは信仰であり、信仰心の社会的効用という知識人たちの主張ではないからだ。
 人間生活における宗教的なものの位置に関するmodern な考察は、マキャベリ(Machiavelli)の意味での、あるいは慈悲は愚者に必要で懐疑的不信が啓蒙された者には似つかわしいと認める17世紀の自由思想家たち(libertines)の言う意味での操作的巧妙さをもつものであってほしくはない。
 ゆえに、このような考察方法は、いかに理解しやすいものであっても、我々を以前の状態に置いたままにするだけではなく、その考察自体が、限定しようとしているのと同じModernity の産物なのだ。そしてそれは、憂鬱にもModernityがそれ自身に満足していないことを表現している。//
 ——
 ⑤へとつづく。


 L・コワコフスキ

2399/L·コワコフスキ・Modernity—第一章③。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)。
 試訳をつづける。邦訳書はないと見られる。
 ——
 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・際限なく審判されるModernity ③。
 (10)Modernity の淵源をどの程度昔まで遡るべきかは、むろん、この観念で我々が何を意味させようと考えるかに依っている。
 かりに大事業、合理的計画、福祉国家、そして続いて起きている社会関係の官僚主義化がそれなのだとすると、Modernity の範囲は数世紀というよりも数十年の単位で測ることができるだろう。
 しかしながら、Modernity の基礎が科学にあると考えるとすれば、17世紀の前半に淵源があるとするのが適切だろう。その頃に、科学研究の基本的なルールが形成され、まとめられ、科学者たちは、—主としてガレリオと彼の継承者のおかげで—物理学は経験が伝えるものだと理解してはならず、決して完全には経験的状態に具現化されない抽象的なモデルを練り上げたものだと理解しなければならない、ということを認識した。
 だが、さらに過去へと遡って検証することは妨げられない。現代科学の最も重要な条件は、黙示録から世俗的な理性を解放しようとする運動だった。そして、人文学(art)の諸分野を中世の大学の神学のそれから自立させようという闘いは、その過程の重要な一部だった。 
 11世紀以降のキリスト教哲学から出てきた、自然の知識と神から得られる知識の区別こそが、その変わり目で、その闘いの観念上の基礎となった。
 そして、どちらが先だったかを決定するのは困難だろう。純粋に哲学上の知識の二つの領域の分離か、それとも知的な都市階層の者たちが自治の要求を獲得する手段となった社会的過程か。//
 (11)では、我々の「Modernity」は11世紀に投射させるべきで、聖Anselm とAbelard は(それぞれ無意識に、意図的に)その主唱者だったのか?
 このように拡張することに観念上の誤りは何もない。しかし、どちらもきわめて役立つというものではない。
 もちろん我々は、曖昧にしたままで、我々の文明の根源を跡づけようとすることができる。しかし、我々の多くが取り組んできた問題は、いつModernity は出発したかではなく、—明示的に表明されているかは別として—現代に蔓延する<文化のうちの不快感>(Unbegahen in der Kultur)の核にあるのは何か? だった。
 ともあれ、Modernity という言葉が有用なものであれば、前者の疑問の意味は、後者への回答に依存していなければならない。
 そして、自然に心の裡に浮かんでくる前者の答えは、もちろん、Weber 的な<暴露(脱魔法化)>(Entztäuberung)—魔力からの解放(disenchantment)—、あるいは同じ現象を大まかに表現する何らかの類似の言葉にある。//
 (12)我々は、いわゆる西洋文明の世俗化、表向きは宗教的遺産の進歩的な霧散、かつ神なき世界の悲しい光景、のもつ破壊的影響に関する今日の議論を追ったりそれに参加したりして、圧倒的でかつ同時に屈辱的な既視(deja vu)の感覚を経験する。
 我々はまるで突然に目覚めて、慎ましくて必ずしも高い教養をもっていない聖職者がこの3世紀の間に見ている—そして我々に警告している—事態を、そして彼らが毎日曜日の訓話で繰り返して非難してきた事態を、感知しているようだ。
 彼らは信者たちに、神を忘れた世界は善と悪の区別自体を忘れ、人間生活を意味のないものにし、虚無主義(nihilism)に陥った、と語りつづけた。
 今では、社会学的、歴史的、人類学的な知識をいっぱい身につけて、我々は、同じ単純な叡智を発見している。その叡智を我々は、僅かばかり洗練された語句を用いて表現しようとしているのだが。//
 (13)古くて単純であっても叡智は必ずしも真実ではなくなることはない、と私は認める。そして実際に私は、真実だと考える(いくつかの条件付きで)。 
 Decartes〔デカルト〕は最初の、かつ主要な元凶だったのか?
 たぶん、そうだ。彼は哲学的に、彼の以前から既に進んできていた文化的趨勢を集大成(codify)した、という仮定条件のもとであっても。
 彼は、明らかに—あるいはそう思えるのだが—、つぎのことを行うことで、Cosmos〔体系的宇宙〕という観念を、そして自然の目的ある秩序という観念を、排除した。物質を拡張物と同一視することで、したがって物理的な宇宙(universe)の現実の多様性を廃棄することで、この宇宙を若干の単純な、かつ全てを説明し得る力学法則に従わせることで、そして神を論理的に必要な創造主と支援へと変えることで—しかし、経常的で、そのためにどんな個別の事案も説明するという意味を奪われた支援。
 世界は魂のない(soulless)ものになった。そして、この前提条件のもとでのみ、modern 科学は進展することができた。
 奇蹟も、神秘も、事態の推移への神聖なまたは悪魔的な干渉も、もはや想定することができなくなった。
 古くからのキリスト教の叡智といわゆる科学的世界観の間の衝突を取り繕おうとする、のちの継続的な努力の全ては、この単純な理由で説得力がなくなるのを余儀なくされた。//
 (15)たしかに、この新しい宇宙(universe)の意味が明らかになっていくのには時間を要した。
 大量の自覚的な世俗主義は、比較的に近年の現象だ。
 しかしながら、我々の現在の見通しから言うと、容赦なく教養ある階層に進行している信仰心の風化は、避けることができないように見える。
 信仰心は残存し得ているかもしれないが、多数の論理的仕掛けによる合理主義の侵食から僅かにしか守られておらず、無害でかつ無意味だと思える片隅へと追いやられている。
 何世代もの間、多数の人々が、自分たちは二つの両立し難い世界の住人であることを認識しないで生きることができた。かつまた、一方では進歩、科学的真実およびmodern 技術を信頼しながら、薄い貝殻でもって信仰心という慰みを守っていくことができた。//
 (16-01)この貝殻は、やがて破壊されることとなった。最終的に破壊したのは、ニーチェ(Nietzche)の荒々しい哲学的ハンマーだった。
 ——
 ④へとつづく。

2358/古田博司·ヨーロッパ思想を読み解く(2014)②。

 一 古田博司・ヨーロッパ思想を読み解く—何が近代科学を生んだか(ちくま新書、2014)をまた読了していないが、同・使える哲学(Discover21、2015)とともに、重要な基礎概念または範疇は、つぎだ。
 「向こう側」と「こちら側」。そして、この区別と異なる、「この世」と「異界」等。
 そして、「向こう側」と「こちら側」の区別が厳密にはつき難いことは、古田も当然に意識しているだろう。
 それにしても、何とか意味をそれなりに理解してみたいところだ。
 歴史通2016年3月号(ワック出版)に、上の後者の2015年著の紹介らしき記事がある。p.134。この記事は、こう書く。
 <西洋の「向こう側」はあくまで「この世」に属し、「五感では感じられない」が「『こちら側』の根拠になるようなもの」。
 「化学式やDNAのらせん構造がそれにあたる」。
 「イデア」こそ、まさに「向こう側」のこと。
 「イギリス哲学的思考」はこの「向こう側」へと「超え出る」もので、「近代科学を生んだ」。
 「ドイツ哲学」はこれに何ら貢献せず、「近代の終焉とともに無用になった」。>
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  ①顕微鏡(・望遠鏡)、レントゲン検査、CT とかMRI とかは、「五感」を延長したもの、ということになるのだろうか。そうだとすると「こちら側」もその範囲は可変で、広くなっている。
 だが、これらの作製にも、結果の解析・分析にも、「向こう側」の研究成果がたぶん必要なのだろう。
 ②古田のドイツ哲学批判は、上の前者でも厳しい。
 おそらく、ニーチェなどは全く評価していないだろう。ニーチェはドイツの哲学者だが、そもそもカントもヘーゲルも幾分なりとも継承しているように見えない。よく言えば<屹立>している、悪く言えば、<独りで勝手に喚いている>(ようなイメージがある)。
 したがって、ニーチェから強い影響を受けたと自認している西尾幹二(+西尾が書いたもの)を、古田博司はほとんどか全く(積極的・肯定的には〕評価していないのではないか。
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  上の歴史通2016年3月号の記事は、「編集部のこの一冊」という表題が右上にあったりするので、編集部が書いたようでもある。
 だが、古田著やその基礎概念を簡単にまとめるのは容易ではないだろう。
 大胆に推測すれば、筆者である古田博司自身が、執筆している
 ところで、無署名で裁判例を理解するための解説文を判決そのものの文章より前に置くことは、民間の判決例掲載雑誌の<判例評論>や<判例タイムズ>でも見られる。いくつかのまたは重要な最高裁判決については、当該事件を担当した最高裁調査官が(アルバイトで?)執筆しているともいわれる(ほとんど同じまたは類似の文章が、のちに公式の最高裁調査官解説本に出ることもある)。
 最高裁判決ではないが、ある地裁判決の掲載時にその「解説」または「前置き」文を、無署名で執筆したことが、秋月瑛二にも一回だけある(報酬=原稿料は出た)。
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2340/古田博司・ヨーロッパ思想を読み解く(2014)①。

 古田博司・ヨーロッパ思想を読み解く—何が近代科学を生んだか(ちくま新書、2014)
  古田博司が東洋思想畑の研究者らしく韓国あたりの諸問題について発言していたことは知っていたが、韓国問題についてはもうほとんど関心がなくなっていたこともあって、この人の書物を読むこともなかった(但し、何冊かは所持していた)。
 たぶん昨年あたりに入手した上掲書は、面白い(正確には、面白そうだ)。
 思い切り簡略化して(つまり一部を勝手に削除して)、目次の一部を(体系構成を)紹介すると、こうなる。
 プロローグ/「向こう側の哲学」。
 第一部/「向こう側」をめぐる西洋哲学史。
  第一章・バークリ、第二章・フッサール、第三章・ハイデッガー、第四章・ニーチェ、第五章・デリダ。
 第二部/「向こう側」と「あの世」
  第六章・時間論、第七章・「生かされる生」、第八章・「あの世」と「向こう側」。以上。
 興味深いのは、たぶん「哲学」の基本問題に関係していることだ。それも、ある前提または枠の中で「認識」や「存在」を論じる、その態様の違いではなく、認識・知覚といったものの対象という前提そのものについて、「西洋」・「東洋」・「日本」には違いがある、と指摘していることだ(これをふまえて、バークリからデリダまでの叙述がある)。
 そうだとすると、日本人(または「日本」的思考・認識方法に馴染んだ者)がこの相違に気がつかないで「西洋哲学」に接近しても、根本的なところはほとんど何も理解できないことになるだろう。
 ——
  古田によると、「思考様式」には西洋・日本・東洋の三パターンがある。
 そのまた前提に古田がしているのは、ヒト・人間の「五感」(眼耳鼻舌身・ゲンニビゼッシン)による知覚・認識、ということだろう。問題は、それらと<外界>の関係だ。
 図表らしきものが付いているが、言葉で表現するとやや面倒になる。
 ①「すべて」を「この世」として対象とするのが、日本を除く「東洋」(単細胞型)。
 「あの世」のない儒教的世界観・「この世一元論」だ。
 ②日本は「この世」と「異界」を区別する(単純型)。
 「異界」にはギリギリまで接近するしかない。異界=「向こう側」を「探求」することはできず、「地道で職人的」に「接近」するしかない。
 ③ 西洋では、日本での「異界」の一部は「向こう側」であっても「この世」に属する。この「向こう側」は「この世にありながら見えない世界、我々の五感でとらえることのできない世界」だが、「直観や超越」でもってそれを「とらえ」ようとする(複雑型)。「直観」と「超越」の違いは省略。なお、「この世」に含まれる「向こう側」の奥に?日本では「異界」の一部である「神域」がある。
 「職人芸」によって「接近」するだけか、それとも何とかして「とらえる」のか。ここに日本と西洋の違いがあるようだ。
 そして、まだきちんと読んでいないが、この「とらえ」ようとする試行錯誤が、<西洋哲学史>だ、ということになるのだろう。
 ——
  哲学は森羅万象を対象とするとか、森羅万象の「万物」とかというが、視神経等によっては「見えない」世界(宇宙の深遠から体内のウイルス、電子・光子まで)、死後の世界、生前の世界(あるいは「歴史」)まで、哲学には、あるいはヒト・人間の「思考」には、ひょっとすれば、普遍的なものはなく、あるいは普遍的なものがあっても全部についてそうではなく、大まかには西洋・東洋(・日本)といった違いがあるのかもしれない。
 インドやイスラム世界を含めると、どうなるのだろうか。
 古田の上のような基本的主張・前提も、突っ込もうとすれば、ツッコミ所は多いだろう。
 しかし、「西洋哲学」を逍遥・渉猟して少なくともある程度は理解しているらしきことも含めて、古田には理性的・知性的な(あるいは「学者」らしい)<追求>の姿勢があると見られる。
 この点は、月刊正論(産経新聞社)の執筆者だとしても、渡部昇三、櫻井よしこらとは大きく異なるように見える。
 また、明らかに、西尾幹二よりも、はるかに深いところでの「思考」をしている、と見られる。
 ——
  西尾幹二は、「『哲・史・文』という全体によって初めて外の世界の全体が見える」と書いた(同・歴史の真贋(新潮社、2020))。
 「哲・史・文」の僅か三つだけでは「見えない」し、かつ西尾における「哲・史・文」はいずれも中途半端・表面だけ、ということはすでに書いた。問題は、そんなことよりも(これらも重要だが)、「外の世界の全体を見る」と西尾が記すときに、この人はその意味するところをどの程度深く「思考」したことがあるのか、だ。
 「外界を認識する」と書くことは簡単だが、自分の「外界」の中に、自分の手・足等は入るのか、自分の脳細胞は入るのか、といった問題がある。
 「認識」(見る)主体である自分=「私」とは何か、という問題もある。
 シロウトの秋月瑛二でも知っているような問題を、西尾幹二は思考したことすらないのではなかろうか。根本原因はおそらく、西尾における「自己」の異常肥大、「私」の絶対視にある。ずいぶんと日本的に?、「真実」などよりも絶対的に「私」が重要なのだ。
 これに比べれば、古田博司はずいぶんと冷静だし、深く物事を考えている。物事を、「言葉」の問題に、あるいは「解釈」の仕方だけに、矮小化することはないように(今のところは)感じられる。

2299/西尾幹二批判018—『国民の歴史』⑤。

  西尾幹二・国民の歴史(全集版、2017)の最後の章にあたるのは「34/人は自由に耐えられるか」だ。その最後の節にあたるものの表題は、数字番号を勝手に付せば、「04/ハイデッガーの三つの『退屈』」だ。
 前の節の最後には、西尾らしい、つぎの文章がある。全集18巻p.633。
 「自由というだけでは、人間は自由にはなれない存在だからである。
 言い換えれば、われわれは深く底抜けに『退屈』しているのである。」
 さすがだ。<自由だけでは、自由になれない>、<自由でも自由になれない>、<自由でも自由ではない>。これらにはきっと深遠な意味があるのに違いない。
 もっとも、西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)での「自由」概念や「自由」論からしても、ここでの、または章の表題にすら使われている西尾における「自由」という語・観念の意味は、さっぱり分からないのだが。
 上の点はともかく、表題のとおり、ハイデッガーに言及がある(ハイデッガーを使っている)。そして、この哲学者は「退屈」には三種類あると述べているとし、西尾は三番目のそれに着目しながら、「自由に耐えられない」「人間の悲劇」の前で立ち尽くしてるという「自覚」を記して、この節、この章、そしてこの書物の本文全体を終えている。
  この最終節でのハイデッガーの扱いを見て、ただちにつぎの疑問が生じる。
 ハイデッガーは、「退屈」について叙述した、論述しただけの哲学者なのか? なぜこの部分についてだけハイデッガーを取り上げるのか?
 『国民の歴史』全体を通じて、西尾はほかにハイデッガーには言及していないはずだ。
 上のことが示唆しているのは、西尾幹二はほとんどハイデッガーを読んでいない、ということだ。そして、「退屈」論だけを利用した、ということだ。
 L・コワコフスキの大著等々におけるハイデッガーに関する叙述やナツィスとの関連が問題とされることのあることを知ってはいるが、この欄での紹介等に再度言及はしない。池田信夫もブログで「反啓蒙」主義者として言及していたことがある(→No.2130/2020/01/24参照)。なお、この欄でこれまで言及していないものに、L・コワコフスキ=藤田祐訳・哲学は何を問うてきたか(みすず書房、2014 )p.217〜p.226の10頁にわたる、難解な内容の論述がある。
 ただ、英国の政治思想学者のジョン・グレイ〔John Gray〕は(反キリスト教・反啓蒙では共通性があるようにも思えるが)よほどハイデッガーをお気に召さないようで、こんなことを書いているので、再度紹介しておく。
 ハイデガーのごとく「哲学者がかくまで自己を主張し、妄想に取り憑かれることはきわめて稀である」。 →No.2077/2019/11/16参照。
 ついでに、グレイによる悪罵は(キリスト教的啓蒙批判ではやはり共通性もあると見られるが)ニーチェに対する方がより強いようで、例えばこう書いている。 
 ニーチェは「人類の歴史」の無意味を「知っていながら承服できなかった」。「最後まで信仰に囚われて」いたので「動物である人間もどうかなるという迷妄を断ち切れず」、「笑止千万な超人の思想を生み出した」。彼は「支離滅裂な人類の夢に、…悪夢を加えるだけで終わった」。同上、参照。
 回り道をしたが、指摘しておきたいのは、西尾幹二における<哲学>の欠如または希薄さだ。
 L・コワコフスキが<…のような意味での哲学者ではない>とニーチェを断じていたことと関係するだろうが、既述のように、西尾は、西欧哲学における、①<認識論>(epistemology, Erkenntnisstheorie) 、②<存在論>(ontology, Ontologie)に関する知識・素養がないのだと思われる。
 そうでなければ、最近にその2020年著の「あとがき」について紹介したような、<哲・史・文>全体によって初めて「外部の全体を見る」ことができる(No.2295/2021/02/19参照)、というような安易な文章は出てこないものと考えられる。
 すなわち、ヒト・人間という<主体>が「外部を見る」、<認識>する、ということの意味を哲学者たちは<思考>してきたのであり、「外部」現象や人間・「個人」・「私」が「ある」・「存在」するということの意味をあれこれと論じてきたのだ。カント、ヘーゲル、そしてマルクスも。
 ハイデッガーもこれらに否定的だとしても、例外ではないだろう。主著に『存在と時間』(1927)がある。
 (ついでながら、茂木健一郎・生きて死ぬ私(ちくま文庫、2006/原書1998第二章「存在と時間」の方が、西尾の文章内容よりもはるかに興味深く、刺激的だ)。)
  以上、多くはかつて指摘したことの反復だ。西尾『国民の歴史』がまるで(その挙げる書の全体を読んで理解したかのごとくして)<ハイデッガーの「退屈」論>だけを取り上げていることの異様さ(・大胆さ?)に刺激されて、記した。

2274/西尾幹二批判007。

 西尾幹二の<反大衆>性については、また別に記す。
  L・コワコフスキによるニーチェに関する小論考のうちで、関心を引いた文章群はつぎだった。邦訳書・藤田祐の訳に添って、つぎのように略述した(No.2259)。 
 ニーチェは諸論点を自信満々に語るが、批判者は相互矛盾を指摘する。「しかし、ニーチェの標的は明確だ。ヨーロッパ文明である」。彼はロックやカントが取り組んだ問題を扱わなかったという意味では「哲学者ではなかった」。彼の目的は、「ヨーロッパ文明が幻想で虚偽で自己欺瞞に満ちていて世界をありのままに見られない」ことを明確にさせて、「当時のヨーロッパ文明がいかに脆弱で軽蔑すべきで堕落しているのかを示す」ことだった。
 この部分の主要な意味は、ニーチェの<反科学・反ヨーロッパ文明・反近代文明>性の指摘だろう、と思われる。
 だが、併せて付随的に印象に残るのは、ニーチェは「ロックやカントが取り組んだ問題を扱わなかったという意味では『哲学者ではなかった』」、という部分だ。
 この部分の紹介は、邦訳書および英語原書をあらためて参考にしても、誤ってはいない。全体を「」で包んで引用しておこう。
 「ニーチェは、ロックやカントが提起した問題(the quetions posed by Locke or Kant)と格闘(wrestle)しなかったという意味で言うと哲学者(a philosopher)ではなかった」。
 換言すると、ニーチェはロックやカントのような哲学者ではなかった、という意味になるだろう。
 これは、いったいどういう意味だろうか。ニーチェもまた<哲学者>の一人ではないのか。少なくとも日本では、一般的にそう理解されているはずだが。
 あためたてニーチェの文献を読む気のないことは既述のとおりだが、L・コワコフスキによる紹介・分析等々と併せて考えると、ニーチェはつぎのような意味で、欧米の<ふつうの>哲学者とは異なる、のではないかと思われる。
 すなわち、L・コワコフスキ等々の哲学関係文献を読んでいてしばしば、またはときどき出てきて、意味不分明なままで、または立ち入った意味探索を省略して「試訳」として使ってきた言葉・概念だが、ニーチェには、つぎの二つが欠如している、またはほとんどないのだ、と思われる。
 ①<認識論>=epistemology, Erkenntnisstheorie 。
 ②<存在論>=ontology, Ontologie 。
 これらは古くから(西欧)哲学の重要な対象、または中核的に「哲学」された問題だった。安易な紹介は恥ずかしくなるので避けたいが、後者は「存在・不存在』の区別と各々の意味を問題にし、前者は「認識」するということの意味、つまり「主体」・「主観」と「客体」・「客観」の関係や各々の意味を問題にする。
 たしかに、ニーチェの諸主張・諸見解には、これらについての「哲学者らしい」考察はなさそうだ。
  さて、西尾幹二はニーチェの研究者であったらしく、ニーチェを中心として西欧(・欧州)の哲学・思想一般に造詣がある、という印象を与えてもいるが、この点は相当に疑わしいだろう。
 なるほど、欧州・世界の学問研究・「論壇」の市場でどの程度通用するかは別として、西尾は<日本では>、<日本人の中では>、ニーチェについて詳しい知識を持つ人物なのだろう。
 だが、ニーチェはロック、カント等の系列にはない、<ふつうの>哲学者ではない、という指摘があることを知ると、ニーチェが哲学者の一人だとしても、ニーチェについての知識が多いことは西欧(欧州)の哲学やその歴史について造詣があることの根拠にはまるでならないだろう。
 そして、西尾幹二の文章を読んでいると、ニーチェの名前が出てくることはあっても、アリストテレス、プラトンを初め、カント、ヘーゲル、ハイデッガー等々の名前が出ていることはまずない(かりにドイツ系に限っても)。ハンナ・アーレントの名を出していることがあったが、邦訳書自体ですでに大部なので、どの程度詳細に彼女を読んだかははなはだ疑わしい。
 以上が示唆するのは、西尾幹二は、①<認識論>、②<存在論>について、ほとんど何も知らない、ということだ。先走れば、西尾幹二のある書物の最終頁にこんな文章がある。
 これらは「ごく初歩的な歴史哲学上の概念」を提示している。すなわち、「歴史は果して客観たり得るのか。主観の反映であらざるを得ないのか」。
 こんな「ごく初歩的な」問題をあらためてくどく記していることにも、こうした問題についての初歩的・基礎的な思考・考察をしてこなかったことが現れているだろう。
 西尾幹二全集第17巻(2018)、p.760。
 こうした、「主体」・「主観」と歴史を含む「外界」の関係・区別にかかわる問題領域についてある程度は知っていないと、哲学・思想畑に関係する文章を書き、書物を出版することはできない。
 では、西尾幹二は、ニーチェについてだけは、正確に理解しているのだろうか。
 この欄ですでに紹介したことだが(No.2249)、西尾は、例えばつぎのようにニーチェに言及する。月刊WiLL2011年12月号。
 「『神は死んだ』とニーチェは言いましたが、西洋の古典文献学、日本の儒学、シナの清朝考証学は、まさに神の廃絶と神の復権という壮絶なことを試みた学問であると『江戸のダイナミズム』で論じたのです。
 明治以後の日本の思想は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません」 。
 このような文脈でニーチェの名前を出すことに、どういう意味があるのだろうか。
 すでに指摘したことだが、ニーチェはキリスト教上の「神」について、「神は死んだ」と書いた(はずだ)。しかし、そのことと、「日本の儒学、シナの清朝考証学」や「明治以後の日本の思想」とはどういう関係があるのか。
 また、新たに指摘すれば、ニーチェは「神の廃絶と神の復権」について、いったいどういう発言をしたのだろうか。
 要するに、「神」に触れる段になってニーチェの言葉を「思いついて」、あるいはその名前が「ひらめいて」挿入したにすぎないと思われる。ニーチェについてならば、自分は言及する資格がある(ニーチェ専門家なのだ)、と思ってのことだろう。
  ニーチェにおける<反大衆>性に関係するが、ニーチェは「弱い」、「劣った」民衆には無関心で、そのような人々を侮蔑し、<力への意思>をもつ「強い」人間になれ、自分はその「強い」人間だ、というようなことを言ったらしい。
 こうした気分は、西尾幹二にも見られる。<反大衆>性には別に言及するが、そのような<思い上がり>は、西尾の例えばつぎの文章に顕著だ。 
 西尾幹二全集第17巻・歴史教科書問題(2018)、p.751。
 「中国をを先進文明とみなす指標で歴史を組み立てる」のを「克服しようとしている『国民の歴史』はグローバルな文明史的視野を備えていて、もうひとつの私の主著『江戸のダイナミズム』と共に、これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」。
 何と、自分自身の著書を二つ挙げて、「グローバルな文明史的視野を備えていて、…と共に、これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」、だと‼︎。西尾、83歳のときの言葉。
  上の部分は、30歳のときから計算しても50年間の自分の「主著」は(ニーチェに関するもの以外に?)上の二つしかないことを自認しているようで、その意味では興味深い(現在の上皇后批判書、雅子妃は(当時の)皇太子と離婚せよ、小和田家が引き取れ、という内容の書物は「主著」ではないのだろう。きっと)。
 また、上は西尾幹二全集の(西尾自身が執筆した)「編集後記」の中にある文章なのだが、西尾幹二全集という「全集」の編集の仕方は異様であって、看過できないところが多々ある。この点は別にもっと詳しく書かなければなない。

2260/L・コワコフスキによるF・ニーチェ②―西尾幹二に関連して。

 前回のつづき。L・コワコフスキ=藤田祐訳・哲学は何を問うてきたか(みすず書房、2014)より。p.196〜。
 (9)ニーチェの言う「力への意思(意志)」には狭義と広義がある。狭義では、「周辺の軽蔑すべき弱者より高みに昇ろうとし、群衆から嫌われ孤立することを恐れない、高貴で勇敢な戦士にふさわしい精神」を示す。かかる戦士は「人間の高度な形態」を具現化し、人類の「目的」・「終着点」を実現する。この「目的」・「終着点」の意味は不明なままだが。
 広義では「宇宙に働くメカニズム」で、「形而上学的な原理」と称し得る。実際には無数の「力への意志の核」の集積体であり、「われわれ一人一人」である各核が「自分の力」の拡大を目ざして格闘する。方向性・目的・意味は不明なままで。
 (10)「力への意志」をもつ人間は自己の「私的利益に関心がない」が、同時に「思いやりや良心や罪」も知らない。これは「種の劣った個体に苦痛」を課したいからではなく、「単に劣った人々に無関心」だからだ。
 (11)「普通の人々」への「激しい軽蔑」は、偉大さを求める「主人の道徳」とニーチェが「群衆」と呼ぶ者たちの「奴隷の道徳」との対照から生じる。ニーチェには街角の「パン屋にも靴職人」も興味がなく、その嫌悪と軽蔑の対象は主に「自由主義や社会主義に染まった教養ある」「群衆」―作家・政治家・哲学家・「多数者の権利と人間の平等」への信念を広める人々―だ。ニーチェが非難するのは、「ヨーロッパ文明を腐敗させ堕落させて」現実に向き合っていない点にある。
 (12)B・ラッセルによると、ニーチェ哲学はつぎのリア王の言葉でまとめられる。―「復讐」を行う、してやる、地上の「恐るべきものに」。
 (13)ニーチェの「自負」からするとB・ラッセルの軽蔑にも根拠はある。しかし、ニーチェは「ある程度正しい」。なぜなら、「20世紀はポスト・ニーチェの時代」とされ、彼は「思いやりや友愛やその他キリスト教の徳を捨て去った」のちのニヒリズム・シニシズム・無神論の描出に「ある程度成功」している。
 ニーチェ像は彼を「先駆けとして持ち上げた」ナチスによって傷ついた。ニーチェは「ナチスでも反ユダヤ主義」でもないことは論証し得るが、大が小に勝つ「自然法則」にもとづき、「他民族の絶滅を伴うにしても第三帝国」の計画を是認しただろう。しかし彼は、孤独で高貴な戦士ではなく、「群衆の本能と感情」を具体化した「ナチスの群衆」を軽蔑したに違いない。その意味で、「ナチスのニーチェ主義」は半分は捏造だ。
 (14)だが、ニーチェが「生を称揚して高尚で力強く偉大なものすべてを神格化」する背後にあると感じられるのは、「制御できずに揺れ動いている」「絶望」だ。存在が無意味であることを悟った精神に生じる「癒しえない絶望」だ。
 我々は以下を問う。「ニーチェのレトリックによって刺激を受け人間の営みの一部で、ある種の完成を成し遂げた人」、「そうすることができないとわかりニーチェ哲学に殉じて自殺した人々」、「どちらが多数派なのか」?
 (15)以下は、ニーチェが設定する「問いかけ」のいくつかだ。
 ①無限に細部まで人生を反復するという「永劫回帰」の理念を支持することによる見通しは「喜ばしい」ものか、「恐るべき」ものか?
 ②ニーチェによれば「生と力に敵対する弱さと恐怖」の宗教であるキリスト教が「世界の大部分を支配する」という成功を収めたことは、ニーチェの主張の「反証」になり得るか否か?
 ③ニーチェによると、「伝統的道徳律」と伝来の「善悪に関する考え方」とは無関係に「力への意志を働かせて自分自身で人生の意味を創りださなければならない」。この見方によれば「偉大な芸術家」と「大犯罪者」はどう異なるのか? いずれも「人生において望んだ意味を創り出している」ので、ともに「同等に賛美すべきなのか」?
 ―――
 以上、邦訳書、訳者・藤田祐の訳に従っての、レシェク・コワコフスキによるF・ニーチェ「哲学」に関する簡潔な?論述。
 さて、こうした要約作業を行ってみたのは、著者がL・コワコフスキであることによるのは当然として、日本の西尾幹二についての「把握」作業の一環として、L・コワコフスキの一文に関心を持ったからだ。
 西尾幹二がたんなるニーチェ「研究者」であるだけではなく、ニーチェにかなり、又はある程度「傾倒している」、少なくとも「強い影響」を受けている、又は少なくともその基礎形成に影響を強く受けただろうことは明らかだ。
 西尾は1970年代に40歳を過ぎてもニーチェに関する(訳書でもない)研究書らしきものを出版しているので、ニーチェに馴染んだのは20〜30歳代の「若い」時代だけではない。
 西尾・全集第4巻(中身は多くは1972年。国書刊行会、2012)参照。
 また、1995年(60歳の年)以降になっても、しばしば、又はときに、「ニーチェ」又はその主張・見解に言及している。
 (かつまた、西尾が研究・分析の対象とした欧米「哲学者」はほぼニーチェに限られることも明らかだ。ついでながら、欧米の(その他世界に広げても同じだが)特定の「哲学者」の研究者は同時代に多くて十名もいないだろうから、日本では容易に〜に関する「専門家」、「第一人者」になれる。このことは外国(の人物・制度・理論)に関する日本の人文・社会系学問分野にほぼ一般に当てはまると思われる。)
 ニーチェの文献を読むことも西尾のニーチェに関する作業に目を通すこともしないが、当然に、近年もつづく西尾による言及の仕方がニーチェの主張・見解を適切に理解したうえのものであるかは。問題になりうるだろう。
 それは別としても、L・コワコフスキによるニーチェの紹介・概括は、西尾幹二を「理解」するうえでも、十分に参考になるところがある。別に書くことにしよう。

2259/L・コワコフスキによるF・ニーチェ①―西尾幹二批判に関連して。

 レシェク・コワコフスキ=藤田祐訳・哲学は何を問うてきたか(みすず書房、2014)。
 30人の(欧米の)哲学者に関する上の著のp.191-p.199.は、F・ニーチェを対象とする。
 むろんL・コワコフスキの読み方・解釈がニーチェに関して一般的なものだと主張するつもりはないし、その資格もないが、先ずはL・コワコフスキの論述をできるだけ忠実に、と言っても要約的にならざるを得ないが、邦訳書に即して段落ごとに追ってみよう。その際、藤田祐の訳しぶりを信頼することにする。
 以下の数字は何段落めかを示す。最終段落(15)だけは実際には4段落から成る(あくまで邦訳書による)。
 (1)ニーチェは①神、②世界の意味、③キリスト教による善悪の区別、を認めないことで「ニヒリスト」とも呼ばれる。しかし、彼は自己の思想を「ニヒリズム的」と説明しないし、生命や本能に「敵対するキリスト教の道徳律」を非難するために「ニヒリズム的」という形容を用意している。もっともこの表現に通常は値するのはキリスト教ではなく、彼自身だ。「しかし、このことは単なる言葉の問題で、取るに足らない」。
 (2)哲学者の著作はその人生の一部だとして、ニーチェの人生の中に「思想の源」を見つけんとする多数の研究者がいる。しかし、詩人や画家の場合とは異なり、「通常は明確でそれ自体で理解できるテクスト」を生もうとする哲学者に関しては人生での出来事・病気・特異な性格に言及する必要はない。そんな言及が必要ならば、哲学者の著作は研究するに値しない。よって、「ニーチェの著作はそれ自体テクストとして研究」でき、「体調不良と、精神病にかかって晩年は施設で過ごしたという事実」は「無視」してよい。
 ニーチェの人生は彼の「レトリックがもつ魅力に屈した」多くの著述家・思想家に何の影響も与えていない。彼の精神生活の有益性・有害性を議論できる。但し、「ドイツ語散文の名人だった」ことに疑問はない。
 (3)ニーチェは諸論点を自信満々に語るが、批判者は相互矛盾を指摘する。「しかし、ニーチェの標的は明確だ。ヨーロッパ文明である」。彼はロックやカントが取り組んだ問題を扱わなかったという意味では「哲学者ではなかった」。彼の目的は、「ヨーロッパ文明が幻想で虚偽で自己欺瞞に満ちていて世界をありのままに見られない」ことを明確にさせて、「当時のヨーロッパ文明がいかに脆弱で軽蔑すべきで堕落しているのかを示す」ことだった。
 どう世界を見るべきかのニーチェの答えは明確だ。「世界全体にも人類史にも、全く意味も合理的な秩序や目的もない。理性なきカオスがあるだけで、<摂理>によって監視されてもおらず、向かうべき目的も方向性もない。他の世界もない。この世界しかなく他のすべては幻想なのだ」。
 (4)ニーチェの時代までに無神論は新奇ではなくなっていたが、彼の有名な一文「神は死んだ」は瞠目すべき効果をもった。たんに神が存在しないことを意味しはせず、「ドイツとヨーロッパのブルジョワ文化の核心に届いた一撃」で、その目的は「キリスト教の伝統」による「ブルジョワ文化」の不存在を指摘し、存在を語るのは「自身を欺く」ことだと示すことだった。ニーチェの意図は、「世界は空虚だ」と人々に「認識」させることにあつた。
 (5)ニーチェによると、「科学」は神・目的・秩序なき世界を把握できない。彼には科学称賛の論考もあり、その時代にはまだ新奇だった「ダーウィニズムに魅了されてもいた」。彼は「自然選択と適者生存」の考え方を是認した。但し、ニーチェが感銘を受けたのは「種の中の弱く劣った個体は取り除かれ、…最も高貴で最善の個体だけが生き残る」という考えだった。この法則が「人間という種」でも働くべきであり、「他より弱々しい個人は死ぬべきで、他より強い個人は生き残って劣った個人が死ぬのを手助けする」のだとした。ニーチェがキリスト教を軽蔑したのは、不幸な者・弱者を自然・生の法則に反して「保護し生き延びさせる」という原理のゆえだった。彼によるとキリスト教は「単純に生に反している」。
 彼はまた、「人間は動物である」とのダーウィニズムも支持した。これはその哲学において「人間は単なる動物にすぎず、それ以上の存在ではない」ことを意味した。
 (6)ニーチェはまた、「ストア派の教説―永劫回帰の理論」を信奉した。これは「進歩や衰退という考え方を含まず、単に同じことが無味乾燥に繰り返されるだけなので、東洋の宗教にある輪廻に対する信仰とは異なる」。彼はこの教説を「科学的仮説」と見なして真剣に取組んだ。
 (7)だが全体としては、部分的に「科学への賛辞」を述べても、科学が<真理>を生み出すことを期待しない。ニーチェによれば、科学は全ての認識と同じく「偏った観点」から解放され得ず、科学のいう「事実」は存在せず、「存在するのは解釈のみ」だ。天国と神の空虚を知るために科学が必要であるのでない。
 (8)我々の「存在の意味」、生きるための「価値」、つまりは「人生の意味」を創出できる―ニーチェはこう言う。そのためには「迷信」を廃し「弱さや謙虚を強め生に反する」キリスト教道徳を廃棄する必要がある。キリスト教道徳とは「復讐を求める欲望とルサンチマンから生まれる道徳」、「奴隷の道徳、高貴な主人に対する復讐を夢見る無力な群衆の道徳」だ。この福音書道徳を「生を力強く肯定する」ものに置換え、「高貴で力強い人々の道徳」・「主人の道徳である力への意思」で武装しなければならない。この道徳には「奴隷道徳」上の「善悪の区別」はなく、「悪」evilではなく「有害」badの言葉に意味がある。生への敵対、「力強く勝利する生の拡大」への敵対が badだ。
 ――
 ほぼ半ばに達したので、ここでいったん区切る。

2249/西尾幹二批判002。

 
 前回に引用した、つぎの西尾幹二の発言もすでに奇妙だ。月刊WiLL2011年12月号。
 ①「『神は死んだ』とニーチェは言いましたが、」
 ②「西洋の古典文献学、日本の儒学、シナの清朝考証学は、まさに神の廃絶と神の復権という壮絶なことを試みた学問であると『江戸のダイナミズム』で論じたのです」。
 ③「明治以後の日本の思想は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません」 。
 上の①・②は一つの文、①・②と③は一続きの文章。
 第一に、前回に書き写し忘れていた「西洋の古典文献学」においては別として、ニーチェが「死んだ」という<神>と「日本の儒学、シナの清朝考証学」における<神>は同じなのか? 一括りにできるのか?
 ニーチェの思い描いた「神」はキリスト教上の「神」であって、それを、インド・中国・日本等における「神」と同一には論じられないのではないか。
 ①と②の間に何気なくある「が、」がクセモノで、いわゆる逆接詞として使われているのではない。
 このように西尾において、同じまたは類似の言葉・観念が、自由に、自由自在に、あるいは自由勝手に、連想され、関係づけられていく、のだと思われる。
 したがって、例えば1999年の『国民の歴史』での「歴史・神話」に関する論述もまた、元来は日本「神話」と中国の史書における「歴史」の差異に関係する主題であるにもかかわらず、「本質的」議論をしたいなどとのカケ声によって、ヨーロッパないし欧米も含めた、より一般的な「歴史・神話」論に傾斜しているところがある。
 そのような<発想>は、2019年(月刊WiLL別冊)の「神話」=「日本的な科学」論でも継承されているが、しかし、神話・歴史に関するその内容は1999年の叙述とは異なっている。西尾において、いかようにでも、その具体的「内容」は変化する。
 連想・観念結合の「自由自在」さと「速さ」は、<鋭い>という肯定的評価につながり得るものではあるが、しかし、「適正さ」・「論理的整合性」・「概念の一貫性」等を保障するものではない。
 ついでに、すでに触れたが、「神話」に論及する際に、「宗教」に触れないのもまた、西尾幹二の独特なところだ。日本「神話」が少なくとも今日、「神道」と切り離せないのは常識的なところだろう。しかし、1999年の『国民の歴史』で<日本>・<ナショナリズム>を示すものとして多数の仏像の「顔」等の表現を積極的・肯定的に取り上げた西尾幹二としては、仏教ではなく神道だ、とは2019年に発言できなかったに違いない。
 もともと1999年著を西尾は、神道と仏教(等)の区別あるいは異同(共通性を含む)に関心を持たないで執筆している。この当時は、神道-神社-神社本庁-神道政治連盟という「意識」はなかった可能性が高いが、これを意識しても何ら不思議ではない2019年の対談発言でも、日本「神話」の「日本の科学」性を肯定しつつも、<仏教ではなく神道だ>とは明言できないのだ。
 ここには、まさに西尾幹二の「評論」類の<政治>性の隠蔽がある。<政治評論>だからいけない、という趣旨ではない。その具体的「政治」性を意識的に隠蔽しようとしている欺瞞性を指摘している。
 第二に、西尾は「明治以後の日本の思想は貧弱で、ニーチェの問いに対応できる思想家はいません」と何げなく発言している。だが、上の第一の問題がそもそもあることのほか、「ニーチェの問い」を問題として設定する、あるいはそれに対して回答・解答する義務?が「明治以後の日本の思想」にあるわけでは全くないだろう。
 したがって、これは西尾の「思い」にすぎない。ニーチェに関心がない者、あるいはニーチェの「問い」を知ってはいても反応する必要がないと考える者にとって、そんなものは無視してまったく差し支えない。
 もともとはしかし、「神は死んだ」というのはニーチェの「問い」なのか?(上の西尾の書き方だと、そのように読める)、という疑問もある。
 
 上の部分を含む遠藤浩一との対談は『西尾幹二全集』の「刊行記念」とされていて、2011年10月の第一回配本の直後に行われたようだ。
 したがって、西尾幹二の個別の仕事についてというよりも、<全体>を視野に入れたかのごとき対談内容になっている。
 そのような観点からは、つぎの西尾幹二の自らの発言は、すこぶる興味深い。p.245。
 「(遠藤さんもご存知のように、)私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語でした。
 …を皮切りに、…まで、『私』が主題でないものはありません
 私小説的な自我のあり方で生きてきたのかもしれません。」
 自分が書いたものは全て①「自己物語」で、②「『私』を主題」にしており、③「『私小説的な自我のあり方』」を問題にしてきた。
 上の③の要約はやや正確さを欠くが、いずれも同じ、またはほとんど同じ趣旨だろう。
 西尾幹二の発言だから、多少の<てらい(衒い)>があることは、差し引いておくべきかもしれない。
 しかし、ここに、西尾幹二の<秘密>あるいは、西尾幹二の文章(論説であれ、評論であれ、研究的論述もどきであれ)を読む場合に読者としてはきちんと把握しておかなければならない<ツボ>がある。
 瞞されてはいけないのだ。
 つまり、西尾自身が明記するように「私の書くものは研究でも評論でもなく、自己物語」だ、というつもりで、読者は西尾幹二の文章を読む必要がある。
 この辺りの西尾自身の発言が興味深いのは、西尾の「論述」に、「自我=自己肥大」意識、その反面での厳密な「学術性・学問性」の希薄さをしばしば感じてきたからだ。
 少し飛躍してここで書いてしまえば-これからも書くだろうが-、政治や社会やあるいは「歴史」を<文学評論>的に、あるいは<文芸評論>的に論じてはならない。
 政治・社会・国家を<文学的・文芸的>に扱いたいならば、小説等の<創作>の世界で行っていただきたい。三島由紀夫のように、「戯曲」でもかまわない。
 「オレはオレは」、「オレがオレが」の気分で溢れていなくとも、それが強く感じ取れるような「評論」類は、気持ちが悪いし、見苦しいだろう。西尾幹二個人の「『私小説的な自我のあり方』」などに、日本や世界の政治・社会等の現状・行く末あるいはそれらの「歴史」に関心をもつ者は、関心を全く、またはほとんど、持っていない。
 
 レシェク・コワコフスキにつぎの書物があり、邦訳書もある。
 Leszek Kolakowski, Why Is There Something Rather Than Nothing - Quetions from Great Philosophers(Penguin Books, 2008/原著2004ー2008).
 =レシェク・コワコフスキ(藤田祐訳)・哲学は何を問うてきたか(みすず書房、2014.01)。本文p.244まで。
 後者の邦訳書の藤田祐「訳者あとがき」も参照して書くと、この書はつぎのような経緯をたどったようだ。
 まず、ポーランドで(ポーランド語で)2004年、2005年、2006年に一部が一巻ずつ計3巻刊行された。
 そして、2007年に1冊にまとめての英訳書が出版された。但し、この時点では23人の哲学者だけが対象とされていて、副題も含めて書くと、英訳書の表題はこうだった。
 Leszek Kolakowski, Why Is There Something Rather Than Nothing - 23 Quetions from Great Philosophers(Allen Lane/Basic Books, 2007)。
 2008年版では、扱っている哲学者の数が、30にふえている。2007年以降に著者がポーランド語で追加したものも含めて、2008年の英訳書にしたものと見られる。
 なお、英訳者は、2007年版も2008年版も、Agnieszka Kolakowska。父親のLeszek Kolakowski は2009年に満81歳で逝去した。
 2008年版と上記のその邦訳書は30人の哲学者を取り上げている。
 つぎの30名だ。横文字で、全てを列挙する。()内の7名は追記版で加えられた人物。
 01-Socrates, 02-Parmenides of Elea, 03-Heraclitus of Ephesus, 04-Plato, (05-Aristotle), 06-Epictetus of Hierapolis, 07-Sextus Empiricus, 08-St. Augustlne, 09-St. Anselm, (10-Meister Eckhard), 11-St. Thomas Aquinas, 12-William of Ockham, (13-Nicholas of Cusa), 14-Rene Descartes, 15-Benesict Spinoza, 16-Gottfried Wilhelm Leibniz, 17-Blaise Pascal, 18-John Locke,(19-Thomas Hobbes), 20-David Hume, 21-Immanuel Kant, 22-George Wilhelm Friedrich Hegel, 23-Arthur Schopenhauer, 24-Sören Aabye Kierkegaard, 25-Friedrich Nietzsche, 26-Henri Bergson, 27-Edmond Husserl, (28-Martin Heidegger, 29-Karl Jaspers, 30-Plotinus)
 原著・第一の英語版では23名で、つぎの7名が後で加えられた(この説明は日本語版「訳者あとがき」にはない)。再掲する。
 05-Aristotle, 10-Meister Eckhard, 13-Nicholas of Cusa, 19-Thomas Hobbes, 28-Martin Heidegger, 29-Karl Jaspers, 30-Plotinus.
 さて、西尾幹二と比べてL・コワコフスキは遥かによく知っているなどという当たり前のことを記したいのではない。
 上に(25-)Friedrich Nietzsche があるように、L・コワコフスキはニーチェも当然ながら?読んでいる。30人の哲学者を一冊で扱っているので(但し、簡易辞典類のものでは全くない)、ニーチェについても邦訳書で8頁しかない(文庫本のごとき2007年版英訳書では、計10頁)。
 それでも、L・コワコフスキのニーチェに関する記述を参考にして(幸いにもすでに邦訳書がある)、ニーチェが西尾幹二に対して与えた深い?影響は何かを、少しは探ってみたい、と思っている。
 つづける。
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