秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ニューロン

2737/西尾幹二批判076—「ひらめき」。

 「生命・細胞・遺伝—01」(2024/04/04)の最後にこう書いた。
 「文筆家、評論家、あるいは『もの書き』にそれぞれ独特に生じるのだろう、文章執筆の際の<ひらめき>は、多数のニューロン間の『つながり方』またはその変化によって生じている」。
 このときに思い浮かべていた「もの書き」の文章はつぎだった。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。p.37。
 (その問題は)「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域に入ります。それは各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定という問題です」。
 西尾におけるアダム·スミスの「自由」概念の理解は、既述のように、間違っている。それはともかく、西尾幹二は、生活条件の整備等の物質的・経済的問題ではなく各自の「ひとつひとつの瞬間の心の決定」の<自由>の問題が重要だ旨を力説する。
 「ひとつひとつの瞬間の心の決定」は、脳内の、神経細胞(ニューロン)の働き、多数のそれの複雑なつながり方によって生じる。
 そして、西尾は「各自における」と書いて「各個人」のそれの重要性を面向きは強調しているようだが、じつは、西尾幹二という「自分」の<自由>こそが重要であり、保護され、尊重されるべきものだと考えていることは明らかだ。
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 西尾幹二にとって、文章作成の際に言葉や語句が「ひらめき」出てきて、それを選定する場合の「ひとつひとつの瞬間の心の決定」がきわめて重要で、そこにこそ、<西尾幹二らしさ>、自分が高く評価されるべき根拠があるのだろう。
 物質的・経済的問題ではない、それと峻別されるべき<精神>の領域に属する問題なのだ。
 この部分にも、幼稚で単純な「物心(心身)二元論」が見え隠れしている。
 「物」よりも「精神」が大切、「精神」・「心」を表現する言葉・文章が大切。—さすがに「文学部的」または「文芸評論家的」なモノ書きの文章だ。
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 もっとも、西尾が語る趣旨を全く理解できないのではない。、またむしろ、陳腐な物言いでもある。
 西尾幹二がいっさい参照していないと間違いなく見られるのが「法学」または「憲法学」上の<自由>論なのだが、憲法(学)上は「経済的自由」よりも「精神的自由」が優先されるべきとされ、後者の中核は「内心の自由」にあるとされる。
 西尾は知らない単語・概念だろうが、この人が語っているのは要するに「内心の自由」の重要性に他ならない。特段に新しい深遠な考え方が示されているのでは全くない。
 (但し、「内心」の形成は<本当に自由に>行われているのか、という問題はある。この問題は「意識」・「こころ」の本質や<自由な意思>の存否という「ハードな」問題にかかわる)。
 上の()部分をあえて注記しておくが、「ひとつひとつの瞬間の心の決定」が重要だなどという言辞は、ある意味ではほとんど自明のことを、何やら勿体をつけて、長々と書いているものに過ぎない。
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 だがしかし、「生活条件の整備」等の個々の人間が生きていく上で重要な課題と仕事を、西尾幹二は一貫して<馬鹿にしてきた>、という面が、一方にはあると考えられる。
 旅行中にふと思ったことだが、急傾斜の地域に鉄道を通すために、またその鉄道の速度を早めて人や物質を運送・運搬する時間を短くするために、日本で100年以上のあいだ、多数の人々が努力し、また工事等を行なってきた。そんな、無名だろう人々を含む多数の人々の、「便利さ」を追求する懸命の努力など、西尾幹二の意識には、ほとんど昇ってきたことがないに違いない。
 「生活条件の整備」は「精神的自由」と比べて価値あるものではないとしつつも、前者が獲得された以上は、西尾はその利便性を平然と利用してきたのだろう。
 西尾幹二が住んだ住宅にも、電気・上水道等々の種々の利便性が及んでいただろう。西尾が杉並区から中央線・市谷駅に着くまでのあいだ、あるいはその反対の帰路のあいだ、間違いなく西尾も、都市の交通施設・制度の恩恵を享受してきたわけだ。
 にもかかわらず、「ひとつひとつの瞬間の心の決定」の問題が重要だ、その<自由>にこそ価値がある、とぬけぬけと書けるのは何故だろう。かつまたその<自由>は、西尾幹二という「自分」のそれで十分であって、この人は、日本国民一般、世界の人々のことなど全く考慮していない。
 いびつな、「観念」好きの、自分が良ければよい、と考えるもの書きの姿が、ここにはある。
 「科学は敵だ」とか、「神話は無条件に信じるべきものだ」とか等々の狂信じみた物言いが西尾幹二にはあることは、すでにこの欄で記した。
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2723/生命・細胞・遺伝—01。

 ①宇宙—②地球—③生命体(生物)—④細胞—⑤遺伝子・分子—⑥素粒子(電子、光子etc.)
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 個々の人間は③だ。しかし、上の全てが個々の人間「自身」に関係している。
 宇宙が生まれ、ビッグバンによって地球が生まれ、やがて深海から「生命体」(有機体)が誕生し、長い長い時間ののちに「ホモ・サピエンス」(人類)が誕生した。今地球上で生きているヒトはみなその子孫たちだ(人類みな兄弟)。
 生命体(生物)は「外界」と明確に区別される界壁(膜、皮膚等)をもつ統一体で、外部からエネルギーを取り込み代謝し、かつ自己増植または生殖による自己と同「種」の個体を産出し保存する力をもつ。これによって、無生物・非生物と区別される。
 全ての生命体(生物)は、基礎的単位である「細胞」によって成り立つ。生物は単細胞生物と多細胞生物に分けられるが、最初の生命体である前者は、約35〜40億年前に生まれた、とされている。「ウイルス」は自らの細胞を持たないので、「生物」ではないと言われる。これに対して、「細菌」類は生物=生命体だ。
 ヒトはむろん多細胞生物だ。ヒトには37兆余個の細胞がある、とされる。ついでながら、ヒトの体内には、大腸菌等々の、多数の「生物」が生息(・寄生)している。これらは、「微生物」に含まれる。
 ニューロン=神経細胞〔neuron〕も、当然ながら、細胞の一種だ。
 細胞は、細胞膜、(細胞)核のほか、リボソーム、ミトコンドリア等によって構成される。「遺伝子」は「(細胞)核」の中に<格納>されている。全ての細胞核の中に、そして全ての細胞の中に「遺伝子」がある。「遺伝子」は「ゲノム」という言葉につながっていく。
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 ニューロン(神経細胞)という細胞は、どうやら脳にのみ存在するようだ。光、音、振動等の外部からの刺激を受容する「感覚器官」にも神経細胞はあるのだろう、但し多数で重要なのは脳内のそれだ、と思っていたが、間違いだったようだ。
 なお、例えば視覚器官が何かを「見た」あとで脳内の視覚神経(感覚神経細胞の一つ)が「見る」までにはきわめて短いながらも厳密には時間の経過がある(大脳と眼球のあいだには物理的な距離がある)、それを感じないのは時間的近接性がきわめて高いからだ、と漠然と思っていた可能性がある。これも間違いだった。眼が「見る」のと脳が「見る」のは同時に行われるらしい。つまり、脳内の感覚神経が見ないと、「見た」ことにならない。
 ニューロンは独特の形状をしていて、情報の出力を担う一本の軸索〔axon〕、情報の受容(入力)を担う多数の樹状突起(dendrite)がある。他に「細胞体」があって、この中に「(細胞)核」がある。さらにその中に「遺伝子」(DNA等ーとりあえず省略)があることになる。
 ヒト(成人)のニューロンは1000億個ほどあるらしい。この多数の神経細胞どうしがつながりあって情報の交換がなされる。但し、「つながりあう」ためには一つのニューロンの軸索から別のニューロンの樹状突起へと「接続」しなければならない。また、直接に接触するのではなく、両者を隔てる(各々のニューロンを区別する)「シナプス」の中への化学物質(神経伝達物質、nuerotransmitter)の放出と受容が行われることによって「つながる」。
 約1000億個のニューロンが自ら以外のニューロンの全てとつながると仮りにすると、1000億✖️1000億の線が絡み合った「網」ができる。実際にはそうではなく、つながる場であるシナプス(シナプス空間、シナプス間隙)の数は、1000億ではなく、数千万であるらしい。
 だが、最も少なく見積もって1000万としても、1000億✖️1000万=100億✖️1億=100京(あるいは、1000億✖️1000万=1兆✖️100万=100兆✖️1万=100京)というとんでもなく厖大な数の「つながり方」があることになる。むろん、一つのつながり方が定型的な一つの情報交換をするわけでもないだろう。
 文筆家、評論家、あるいは「もの書き」にそれぞれ独特に生じるのだろう、文章執筆の際の<ひらめき>は、多数のニューロン間の「つながり方」またはその変化によって生じている。
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2720/人類の「感情」の発生—300万年前〜3万年前。

  アントニオ·R·ダマシオ=田中三彦訳・感じる脳—情動と感情の脳科学·よみがえるスピノザ(ダイヤモンド社、2005)。
 この著(原題、Looking for Spinoza)は冒頭で、<感情の科学>の未成立または不十分さを強調している(感覚、感情、情動、情緒、感性といった語との異同には留意する必要はある。但し、さしあたりはこの点を無視してよい)。
 だが、脳神経学者(?)ダマシオも、以下のような進化生物学(?)の叙述または説明を、大きくは批判しないのではないだろうか。
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  科学雑誌NEWTON-2016年6月号「脳とニューロンシリーズ第3回/喜怒哀楽が生まれるわけ」。
 以下、上の一部の引用。一文ずつで改行、本来の改行箇所に/の記号を付す。
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 「喜怒哀楽は基本的に、自分のおかれた環境に対して生じるものだといえる。
 一方で、感情には、自分と他人の関係において見られるものも数多くある。
 いとおしさや、嫉妬、うらみ、といったものだ。
 これらは、『社会的感情』とよばれる。/
 現代の人間の感情を生むしくみは、農耕時代以前の300万年前〜3万年前の生活や環境のもとで発達したと考えられている。
 とくに社会的感情の多くは、特定の仲間たちと長く関係をともにするようになったことでつくられてきたと考えられているという。/
 また私たちは、感情を自覚するだけでなく、ほかのだれかにおきた出来事をわがことのように怒ったり、悲しんだりすることがある。
 つまり、他人の感情に共感できる。
 共感のしくみに深くかかわっているかもしれないと考えられているニューロンに、『ミラーニューロン』というものがある。
 …… 」
 <以下、略> 
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  20万-30万年前というのは、アフリカ東部でホモ・サピエンスが誕生したとされている時期だ。そして、上のNEWTON編集者のいう300万年前〜3万年前に入っている。
 この叙述に従うと、人類はその「共通祖先」や「原人」たちの長い時代のあいだに、「感情」を形成しつつあった。あるいは、人類は、「感情」というものをほとんど備えて生まれてきた。「日本」や「日本人」の成立よりはるかに昔のことだ。
 ホモ・サピエンスが地球各地へ分散していっても、同じような状況では、<かなりの程度>、きわめてよく似た「感情」をもち、そしてきわめてよく似た「感情」表現をする、これらも当然のことだ、と言えるだろう。
 もちろん、人種や民族による、さらには各個体による、差異は完全にない、全く同じだ、などと言うことはできないとしても。
 そしてまた、他人の感情との<共感性の欠如>という一種の「心の病気」が人間のごく一部には生じている、ということを否定できないとしても。
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2712/池田信夫のブログ037—ニューロンとヒト・日本人。

  池田信夫ブログマガジン2024/01/22号の一部から。
 「では人間はどうやってフレームを設定しているのか。
 それは子供のとき、まわりの環境を見てニューロンをつなぎ替えて自己組織化しているらしい。
 言葉を覚えるときは、特定の発音に反応するニューロンが興奮し、同じ反応をするニューロンと結合する。/
 最初のフレームはニューロンの結合で遺伝的に決まっているが、それは人類の長い歴史の中で生存に適したものが選ばれているのであり、経験から帰納したものではない。
 そこからフレームが自己組織化されるが、その目的は個体と集団の生存である。」
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 この数文のうち、重要なのはつぎの二つだ。
 ①「最初のフレームはニューロンの結合で遺伝的に決まっているが、それは人類の長い歴史の中で生存に適したものが選ばれている」。
 ②「自己組織化」の「目的は個体と集団の生存である」。
 後者②は、<利己>と<利他(帰属集団)>のどちらがヒトにとって本質的かという、池田がいっときよく論及していた主題にかかわるだろう。
 以下では、前者①にだけ触れる。
 ——
  あらためて言うまでもないようなことだが、ホモ・サピエンス(人類)としての共通性を、どの人種も、民族も、もっている。
 上の言葉を利用すれば、「人類の長い歴史の中で生存に適したもの」として「選ばれ」た、「ニューロンの結合で遺伝的に決まっている」もの、ということになるだろう。
 胴体と頭と四肢(二本の腕と二本の脚)という肉体的・身体的なことのほか、〈快・不快〉とか〈喜び・悲しみ〉といった感覚・感情・感性も、「人類」としての共通性が<かなりの程度>あるようであることは、インバウンドとやらで日本に来ている多数の外国人を見ていても分かる。
 「笑い」にも苦笑から冷笑まで種々のものがあるが、爆笑・大笑いとまでいかない「ふつうの」笑いを示すとき、どの人種も、民族も、<かなりの程度>似たような表情を見せるようだ。
 これは、いったいなぜなのだろうか。
 「身体的」と「精神的」の二分自体がずいぶんと怪しいのだが(知性・感性を生み出す「脳」はどっちか)、とりあえずこの問題は無視しょう。
 「身体的」であれ「精神的」であれ、ホモ・サピエンス(人類)は<標準的な>装備品を身につけて生まれてきているようだ。それは、共通するまたは<標準的>な人類としての「生物的遺伝子」による、と言ってよいのだろう。
 こう述べて、済ますことはできない。
 ——
  一つの問題は、一つの(一人の)個体にとって、「生物的遺伝子」によって決定された部分と生後の「環境」によって決定または制約された部分は、どういう割合であるのか、あるいは両者はどういう関係に立つのか、だ。
 全てが「親ガチャ」によるのではない。また、全てが「自分」の「自由意志」と無関係な「遺伝」と「(生育)環境」によって決せられるのでもない。
 ともあれ、上で簡単に「生後」と書いたことも、厳密には問題がありそうだ。
 シロウト的叙述になる。受胎時からまたは「生命」の発生と言ってよい瞬間から、胎児は、母体=母親からすでに、母体を通じて種々の「外界」の影響を受けているのではないだろうか。
 直感的に書くと、例えば、母体=母親の心臓の拍動と血流の変化を胎児はすでに「感じ」ていて、その「速さ」=反復の頻度は、ヒトのとっての基礎的な「速さ」の感覚としてずっと残りつづけるような気がする。
 母親の「気分」や、例えばよく聴く音楽もまた、全く関係がない、とは断定できないだろう。
 だが、モーツァルトが「胎教」に良いとかの俗説にどのような実証的な根拠があるのか知らない。何らかの関係があるのだろうが、程度・内容等々を実証的に語るのは—現今のところは—不可能だろう。
 ——
  もう一つの問題はこうだ。ホモ・サピエンス(人類)としての共通性以外に、人種や民族等々によって異なる「多様性」があることも、常識的・経験的に知っている。この「多様性」をより正確にどのように理解し、またどのように〈評価〉すればいいのだろうか。
 その多様性は、生活する地域・圏域の地理や気候の差異によって形成されてきた、一定の「人類」集団ごとの「生物的遺伝子」によって生じてきたのだろう。毛髪や眼(虹彩)、皮膚の色等の違いは、よほどの長いあいだ、交流・交雑がなかったことを推測させる。
 ここで、とくに欧米またはヨーロッパとの対比で語られてきた「日本」論や「日本人」論が視野に入ってくる。
 だが、人種や民族ごとの特性にかかわる議論は、かなりの慎重さを必要とする。
 第一に、諸「人種」や諸「民族」それ自体を同じレベルで語れるのか、という問題がある。
 「日本」や「日本人」と対照されるべき他の「民族集団」は、例えば何(どれ)だろうか。
 第二に、どちらが「優れて」いるか、「劣って」いるか、という議論につながる可能性がある。しばしば優・劣を判断する基準を曖昧にしたままでの議論だ。
 下の著は「ヒトゲノム計画」を叙述する中で、全く付随的にだが、「人種や民族集団の遺伝的違いは知性や犯罪性などと結びついている」という過去の「幽霊」を、2000年頃の某研究所長の「人種と遺伝学に関する持論」は蘇らせた、と記している。
 W·アイザックソン/西村美佐子=野中香方子訳・コード·ブレーカー—生物科学革命と人類の未来(原書2022、邦訳書2022)
 第三に、例えば「日本」とか「日本人」について語るとき、「日本」という社会集団または国家・地域意識はいつ生まれたのか(「日本」という言葉の成立とは直接の関係はない)、現在につながる「日本人」はいつ頃、どのようにして誕生したのかについて、無知であるか、または幼稚な知識を前提としている場合があると見られる。
 いったいいつの頃の、またはいつ頃から現在につづく「日本」・「日本人」を念頭に置いて論じているのだろうか。
 下の年二回刊行の雑誌は実質的に最終号のようだが、<日本とは何か、日本人とは?>を特集内容としている。
 10名近い執筆者たちにおいて、上に述べたような「日本」・「日本人」の意味や時期は明確になっているのだろうか。この点にも興味をもっていくつかの論考を読んでみよう。
 佐伯啓思監修・ひらく(年二回刊)第10号(A &F、2024年1月)
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2706/池田信夫のブログ034—「ニューロン」。

  日本共産党の問題には、大した興味は持っていない。池田信夫が最近に論及している主題にの方がはるかに興味深く、かつ重要だと思われる。
 秋月による言い換えが入るが、<ヨーロッパ近代>とは何だったか、キリスト教はどういう役割を果たしたか、日本が明治以降に模倣・吸収しようとした<近代(ヨーロッパの)科学>の意味、そこでの「大学」の意義、「哲学」の諸相、等々。
 そしてまた、我々の世代はヨーロッパまたは西欧コンプレックスをもってきたものだが(明治以降の日本人からの継承だ。敗戦も関係する。マルクス主義もまた欧州産の「思想」体系だった)、<ヨーロッパ近代>を徹底的に相対化する思考または論調がむしろ支配的になっているのではないか、とも思わせる。
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 このような主題に関連する、この一ヶ月余の池田信夫の小論に、以下があった。タイトルだけ示す。日本共産党にかかわる小論は2024/01/22号に含まれているのだが、これよりも本来は、下記のものの方が面白い。
 2023/12/25号。
 「『実用的な知識』はなぜヨーロッパで『科学』になったのか」。
 「自己家畜化する日本人」。
 「『構造と力』とニューアカデミズム」。〔浅田彰〕
 「名著再読: ヨーロッパ精神史入門
 2024/01/15号。
 「『科学革命』はなぜ16世紀のヨーロッパで生まれたのか」。
 「名著再読: ウィトゲンシュタインはこう考えた」。
 2024/01/22号。
 「キリスト教は派閥を超える『階級社会』の秩序」。
 「名著再読: (ヒューム)人間知性研究」。
 2024/01/29号。
 「あなたが認識する前から世界は存在するのか」。
 「名著再読: (ショーペンハウエル)自殺について」。
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  「cat」・「猫」の「言葉」問題に触れ、池田にはたぶん珍しく「ニューロン」という語を使っていたのははたしていずれだったかと探索してみると、2024/01/22号の中の、「名著再読: (ヒューム)人間知性研究」だった。
 「ニューロン」も出てくるつぎの一連の文章は、なかなかに興味深く、いろいろな問題・論点の所在を刺激的に想起させてくれる。
 最初の「フレーム」について、「フレーム問題」を池田信夫のブログの検索窓に入力すると多数出てきた。何となく?意味は分かるので、ここでは、立ち入らない。
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  「では人間はどうやってフレームを設定しているのか。
 それは子供のとき、まわりの環境を見てニューロンをつなぎ替えて自己組織化しているらしい。
 言葉を覚えるときは、特定の発音に反応するニューロンが興奮し、同じ反応をするニューロンと結合する。/
 最初のフレームはニューロンの結合で遺伝的に決まっているが、それは人類の長い歴史の中で生存に適したものが選ばれているのであり、経験から帰納したものではない。
 そこからフレームが自己組織化されるが、その目的は個体と集団の生存である。」
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 この数文は、いろいろな問題に関係する。
 秋月の諸連想、あるいは常識的・通俗的な秋月の思考の連鎖を、今後に書いてみよう。
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2503/平野丈夫・何のための脳?-AI時代の行動選択と神経科学(2019年)より。

   <身分か才能か>、、<家柄(一族・世襲)か個人か>、<生まれか育ちか>、<遺伝か生育環境か>という興味深い重要な基本問題がある。
 平野丈夫・何のための脳?—AI時代の行動選択と神経科学(京都大学学術出版会、2019)。
 この中に、「生まれと育ち、経験による脳のプログラムの書き換え」という見出し(表題)の項がある。p.59〜。関心を惹いた部分を抜粋的に引用する。
 ・「外部からの刺激に応じて適切な行動選択を行う脳・神経系はどのように形成される」のかについて、「遺伝的に決定される過程と、動物が育つ時の外部からの刺激または経験に依存した過程の両者が関与することがわかっている」。
 ・「網膜の神経細胞が視床へ軸索を伸ばす過程は、遺伝的要因により定まっている」。
 ・「一方で、大脳皮質のニューロンの各種の刺激に対する応答性は、幼児期の体験によって変わる」。
 ・「このように、神経回路形成において感覚入力が重要な役割を担う時期は幼弱期に限定され、この時期は臨界期と呼ばれる。臨界期の存在は視覚情報処理に限られない。言語習得等にも臨界期がある」。
 「神経回路の形成には、遺伝的にプログラム化された過程と、外部からの刺激または入力に応じた神経回路の自己組織化過程が関与する。
 神経回路の自己組織化は入力に応じた神経機能調節であるが、情報処理過程が刺激依存的に持続的に変化する現象であり、学習の一タイプと見なせる。」
 以上、至極あたり前のことが叙述されているようでもある。遺伝的に定まった過程と「幼児期」にすでに臨界を迎える過程とがある。
 前者は生命の端緒のときか出生以前の間かという疑問も出てくるが、たぶん前者なのだろう(但し、その場合でも一定の時間的経過を要するのだろうと素人は考える)。
 また、個々人にとって後発的に出現する視覚神経系等の「個性」が「遺伝」によるのか「幼児期」の体験等によるのかは、実際には判別できないだろう。もっとも、いろいろな点で「親に似る」(あるいは祖父母に似る)ことがある、つまり「遺伝」している、ということを、我々は<経験的に>知ってはいる。もちろん。「全て」ではない。子どもは両親の(半分ずつの?)「コピー」ではない。
 なお、上の叙述の実例として「鳥類」と「ネコ」が使われている。上のことはヒトまたはホモ・サピエンスだけの特質では全くない(魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類は全て、大脳・間脳・中脳・小脳・延髄を有する。神経系もだろう。平野丈夫・自己とは何なのか? 2021年、p.31参照)。
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  西尾幹二は「自然科学の力とどう戦うか」が「現代の最大の問題で、根本的にあるテーマ」だと発言し、対談者の岩田温も「無味乾燥な『科学』」という表現を用いている。月刊WiLL2019年4月号。p,223, p225。
 こんな<ねごと>を言っていたのでは、現代における「思想家」にも「哲学者」にも、全くなれないだろう。
 ヒト・人間も(当然に「日本人」も)また生物であり、それとしての「本性」を持つということから出発することのできない者は、今日では、「思想」や「哲学」を語る資格は完全にないと考えられる。
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  上に最初に引用した平野丈夫の一文は「外部からの刺激に応じて適切な行動選択を行う…」と始まる。
 問題は「<適切な>行動選択」とは何か、どうやって決めるのか、だ。
 むろん平野も、困難さを承認し、それを前提としている。
 だが、上の著の「はじめに」にあるつぎのような文章を読むと、ヒト・人間を含む生物科学は(脳科学も脳神経科学も)、人間に関する、そして人間が形成する社会(・国家)に関する「思想」や「哲学」の基礎に置かれるべきものであるように感じられる。
 「動物の系統発生を考慮すると、脳・神経系のはたらきは動物が最適な行動をとるための情報伝達・処理・統合にあると考えられる。
 それでは、最適な行動とはどのようなものであろうか?
 それは個体の生存状況改善と子孫の繁栄に最も寄与する行動だと思う。
 なぜなら、現存動物種は進化過程における自然選択に耐えて生き残ってきたからである。
 しかし、ある生物個体が良好な状態であることと、その子孫・集団または種が繁栄することとは必ずしも両立しない。
 また、どのくらいの時間単位での利得と損失を考慮するかによっても、最適な行動は異なる。
 個体、グループまたは種にとって何が最適かは、実は正解のない難問である。
 ヒトを含む動物は各々の脳を使い、様々な戦略と行動の選択を行うことによって、個体の生存と血族または種の繁栄を図ってきた。」
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  緒言中の一般論的叙述だが、含蓄はかなり深い。
 「最適な行動」=「個体の生存状況改善と子孫の繁栄に最も寄与する行動」と言い換えても、後者が何かは「正解のない難問」だ。
 第一に、各個体と「子孫・集団または種」、あるいは「個体、グループまたは種」のいずれについて考えるかによって異なり、第二に、どのくらいの時間単位での「最適」性を想定するかによっても異なる。
 個体の「生存状況改善」と子孫の「繁栄」と言っても、具体的状況での判断はきわめて困難だ。
 それでも、大まかで基本的な思考・考察の出発点、視点または道筋は提示されているだろう。
 何のために生活しているのか? 何のために学問・研究をするのか?、何のために文筆活動をするのか?、何のために種々の仕事をするのか?。
 最低限または基礎的には<個体の生存>(食って生きていくこと)だったとして、それ以外に優先されるのはどのような集団の利益か。家族か一族か、帰属する団体・個別組織か、その団体・組織が属する「業界」か、それとも(アホだと思うが)「出身大学・学部」の利益・名誉か、あるいは「日本」・「国益」か、ヒトという「種」か、等々。
 生命・生存の他に、いかなる経済的または(名誉感覚を含む)精神的利益に「価値」を認めるのか。複数の「価値」が衝突する場合にはいずれを最優先にするのか。
 せいぜい1-2年先までを想定するのか、20年、50年、100年先までを時間の射程に含めるのか。
 自分自身(個体)の生存と自分自身の世俗的「名誉」にだけ関心を持つ者には、このような複雑で高次の問題は生じない。
 なお、上での表現を使うと、「最適な行動」の「選択」をする、複数の「選択可能性」の中から一つを選ぶ、これが可能である状態または力が「自由」であり、その基礎にあるのが「意思の自由」または「自由意思」だと考えられる。そのさらに基底には、脳内の「情報伝達・処理・統合」の過程があるのだけれども。

2264/「わたし」とは何か(2)。

  茂木健一郎はいつからなのかYouTube上に頻繁に「語り」をupしていて、きっと全て面白いだろうが、全部には従いていけない。最近にときどき話題にして指摘している、日本の学校教育や入試制度の欠陥・問題点には、歴史的、大雑把には「人間史」的に見ても、共感するところが大だ。
 その点も重大だが、「私」なるものとの関係でも、興味深い発言が目立つ。言うまでもなく、その<脳科学>という専門分野からきている。
 12月6日のタイトルは「自己意識のセントラルドグマは正しいのか?」。
 その下に、「「私」の自己意識は、宇宙の歴史でたった一回生まれ、死んだらその後は「無」であるという考え方は正しいのでしょうか? 私のコピー人間は私と同じ自己意識? 私と他人の意識の関係は? 生まれ変わりや前世は?」とある。
 茂木健一郎は、要約を試みると、こういうことを言う。
 ——
 僕を含む人間は生まれて、死ぬ。僕の「自己意識」も一度かぎりだ。前世も後世もない。「生まれ変わり」はなく、たった一度だけの「人生」だ。
 このような理解を<自己意識のセントラルドグマ>と言うことにしよう。セントラルドグマとはある分野で疑いないものとして絶対視されているもののこと。
 僕はこれに疑問をもつが、従来にいう<前世>・<生まれ変わり>を信じるからではなく、<私は私であるという自己意識の成り立ちに関する原理的考察>をしたとき、それが<正しい科学的・論理的立場>なのかを疑問視している。
 現在の脳科学によれば脳内の神経細胞の結合パターンによって<私の自己意識>も生まれる。<外部記憶装置>はなく、その(一個人の)結合パターンの中に全てが含まれる。これをコピーするとするとその瞬間に<コピー人間>ができるが、そのコピーもまた不断に変遷していく。その<コピー人間>によって「私」も抽象的には影響を受けるだろうが、<私の自己意識>に影響するとは思えない。
 私は私であるという秘私性・自己意識に関係はない。自己意識(Self Conciousness)とは脳内の前頭葉・大脳皮質?等によるメタ認知で閉じており、<情報的な同一性・類似性>により担保されたり、影響されたりはしない。<コピー>もまた別の「自己意識」をもっていく。
 情報論としては、いっときの<情報を他にコピー>しても、<私の自己意識>を変えない。
 人生の過程の分岐点、可能性は多数あり、実際とは別の「私」が生成した可能性があるが、その「私」は今の「私」とは異なる。
 <脳の自己意識の距離(非同一性)は絶対的>だ。「壁」を越えることはできない。
 <僕の自己意識を形成している情報内容>はつねに変わっていく。自然的か、他律的にかは別として。その(神経細胞の結合パターンの変化による)情報内容の変化、「意識状態」の変化は、かつての「私」との関係では連続していて、「自己意識」と言えるだろう。
 だが、そうすると、「コピー人間」の自己意識と現実の「私」の自己意識の関係は、一定時期の「私」の自己意識が連続的に変化したものだという点では共通する。「私」と全く無関係だ、とは言えない。
 とすると、極論すれば、その関係は、現実の「私」の自己意識と今いる数百億の「人間」の自己意識、かつて歴史上にいた無数の「人間」の自己意識の関係と、原理的には同じなのではないか。
 そうだとすると、元に戻ると、「死」によって私の自己意識が消滅するとは論理的には言えず、「意識」は一個なのではないか。時空・物質も「一個の電子」だという議論と同様に。
 世界中には「一つの意識しかない」。現れ方が異なるだけだ。とすると、<自己意識のセントラルドグマ>を疑問視することができる。
 ——
 茂木にとっては不満が残る要約かもしれないが、少なくともおおよそは、こんなことを語っている。
  茂木が言及している自著を(所持はしていても)読んでいないので、どこまで理解できているかは疑問だが、私には、茂木の言いたい趣旨は分かるような気がする。これを契機として、いくつかのことを述べる。
 第一。「私」、あるいは(それぞれの人間の)「自己意識」はつねに変化している。これは、茂木健一郎が当然の前提としていることだ。
 しかし、この点が一般にどの程度共有されているかは疑わしいようにも見える。つまり、いろいろと「変化」はしたが、「私の根本」は変わっていない、「自己」の同一性は保たれている、と何となく感じている人の方が多いのではないか。
 あるいはそのように観念しないと、現実に生きていくことはできない、とも言える。
 茂木が考えているのと比べると世俗的で卑近なことだが、秋月瑛二がときどき感じる疑問の一つに以下がある。
 ある人がある年に「殺人」をしたとして、その人は(公訴時効内の)10年後に逮捕され、起訴されて、死刑判決を受けた、とする。
 被告人は、こう主張することができないのだろうか ??
 10年前の自分は今の自分ではない。別の、とっくに消滅した「私」がしたことで、今の「私」と同一ではない。なぜ異なる「私」の<責任>をとらされ、今の「私」が制裁を受けなければならないのか。
 厳密に言えば、論理的には、茂木の理解するとおり、10年前の彼と今の彼とは同一ではない。「変化」しており、上の被告人の主張は正しいと考えられる。
 しかし、現実の世俗世界で通用しないだろうのは、立ち入らないが、<そういう約束事になっている>からだ、というしかないだろう。あるいは、<生まれてから死ぬまでの個人・個体の<同一性>>というドグマが、世俗世界では貫かれている、と言えるのかもしれない。
 第二。いや、YouTubeの聴き取りとその要約作業があって、疲れた。別の回にしよう。

2087/A・ダマシオ・デカルトの誤り(1994, 2005)④。

 アントニオ・R・ダマシオ/田中三彦訳・デカルトの誤り-情動・理性・人間の脳(ちくま学芸文庫、新訳2010・原版2000/原新版2005・原著1994)。
 =Antonio R. Damasio, Descartes' Error: Emotion, Reason and the Human Brain.
 第5章第2節以降の抜粋・一部引用等。引用は原則として邦訳書による。
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 第二部/第5章・説明を組み立てる〔Assembling an Explanation〕②。p.146-p.152。
 第2節・有機体、身体、脳。
 我々は、自分も、「一個の純身体〔body proper〕(『身体』と略す)と一つの神経システム(『脳』と略す)をもつ複雑な生ける有機体である」。
 「脳」は普通には「身体の一部」だが、本書での「身体」は、「有機体」から「神経組織(中枢神経系と末梢神経系)を除いたもの」を意味する。
 「有機体」は「一つの構造と無数の構成要素」をもつ。「一つの骨格構造」をもち、その「多数の部品」〔parts〕は「関節で連結され筋肉で動く」。「システム的に結合」する「多数の器官」ももつ。これは「外縁を形成する境界または膜」をもち、「おおむね皮膚」で成る。
 この「器官」、すなわち「血管〔blood vessels〕・頭・腹の中の器官〔chest and abdomen〕・皮膚」を、本書で「内臓」〔複数形viscera, 単数形viscus〕とも呼ぶ。「内臓」は普通には「脳」も含むが、ここでは除外される。
 有機体各部は「生物学的組織」〔biological tissues〕で、またこの組織は「細胞」で、構成される。
 各「細胞」は、「細胞骨格〔cytoskelton〕を作るための無数の分子、多数の器官とシステム(細胞核〔cell nuclei〕と多様な細胞器官)、境界」で構成される。
 「生きている細胞や身体器官を実際に見ると、その構造と機能の複雑さに圧倒される」。
 *
 第3節・有機体の状態〔state〕。
 「生ける有機体」は次々に「状態」を帯びつつ「絶え間なく変化」している。のちに「身体状態」や「心的状態」〔mind state〕を用いる。
 **
 第4節・身体と脳の相互作用-有機体の内部。
 「脳と身体は、これら両者をターゲットとする生化学的回路と神経回路〔biochemical and neural circuits〕によって、分割不可能なまでに統合されている」。
 この「相互結合」の「中心ルート」は二つ。①「感覚と運動の末梢神経」〔sensory and motor peripheral nerves〕。「身体各部から脳」、「脳から身体各部」へと「信号」を送る。②「血流」〔bloodstream〕。「ホルモン、神経伝達物質、調節物質といった化学的信号」を伝搬する。
 つぎの簡単な要約ですら、「脳と身体の関係性」の「複雑」さを示す。
 (1) 「身体のほとんど全ての部分、全ての筋肉、関節、内臓は、末梢神経を介して脳に信号を送る」。これら信号〔signals〕は「脊髄か脳幹のレベル」で脳に達する。そして、「いくつかの中継点」を通って「頭頂葉と島領域にある体性感覚皮質」〔somatosensory cortices in the parietal lobe and insular regions〕に入る。
 (2) 身体活動から生じる「化学物質は血流を介して脳に達し」、直接に又は「脳弓下器官」〔subfornical organ〕等の特殊部位を活性化して「脳の作用に影響を及ぼす」。
 (3) これと逆に、「脳は神経を介し、身体各部に働きかける」。仲介するのは「自律(内臓)神経系と筋骨格(随意)神経系」だ。前者への信号は「進化的に古い領域」=「扁桃体、帯状皮質、視床下部、脳幹」〔amygdala, cingulate, hypothalamus, brain stem〕で、後者への信号は「進化的には様々な時代の運動皮質と皮質下運動核」〔motor cortices, subcortical motor nuclei〕で発生する。
 (4) 「脳」はまた、血流中の「化学物質」、とくに「ホルモン、伝達物質、調整物質」の生産や生産指示をして「身体に働きかける」。
 実際にはこれら諸項よりもっと複雑で、「脳」の若干「部分」は、「脳部位からの信号」も受け取る。
 「脳-身体の緊密な協力関係」で構成される「有機体」は、一個のそれとして「環境〔environment〕全体と相互作用する」。しかし、「自発的、外的反応」ではない「内的反応」も行い、後者のいくつかは「視覚的、聴覚的、体性感覚的、等々のイメージ」を形成する。これが「心の基盤〔basis for mind〕ではないか」と私は考える。
 ***
 第5節・行動と心〔behavior and mind〕。
 「脳のない有機体」すら「自発的に」または「環境中の刺激に反応」して活動=「行動」する。これには、①「見えない」もの=例は「内部器官の収縮」、②「観察」できるもの=例は「筋肉の引きつり、手足の伸張」、③「環境に向けられた」もの=例は「這う、歩く、物をもつ」がある。
 これらは全て、自発的であれ反作用的であれ、「脳からの指令〔commands〕」による。
 だが、「脳に起因する活動」のほとんどは「反射作用」を一例とする「単純な反応」であり、「熟考」〔deliberation〕によるのではない。
 有機体の複雑化により「脳に起因する活動」は「中間的なプロセス」を必要とするようになり、「刺激」ニューロンと「反応」ニューロンの間に他ニューロンが介在し、「様々な並行回路」が形成された。
 こうした「複雑な脳」をもつ有機体が「必然的に心をもった」のではない。そのためには、つぎの「本質的要件」の充足が必要だ。すなわち、「内的にイメージを提示し、『思考』〔thought〕と呼ばれるプロセスの中でそれらのイメージを順序よく配列する能力」。イメージには「視覚的」のみならず、「音」、「嗅覚的」等もある。
 「行動する有機体」の全てが「心」・「心的現象」〔minds, mental phenomena〕をもつのではない。これは全てが「認知作用や認知的プロセス」をもつのではない、と同義だ。「行動と認知作用」の両者をもつ有機体」、「知的な行動」をもち「心」をもたない有機体もあるが、「心を有し」つつ「行動」をもたない有機体は一個たりとも存在しない。
 私見では、「心をもつ」とは、つぎのような「神経的表象〔neural representations〕を有機体が形成すること」を意味する。すなわち、「イメージ〔images〕になり得る、思考と称されるプロセスの中で操作し得る、かつ、将来を予測させ、それに従って計画させ、次の動作を選択することで最終的に行動に影響を及ぼすことのできる神経的表象」。
 このプロセスに「神経生物学〔neurobiology〕の中心」がある。つまり、「学習によってニューロン回路に生じた生物学的変化からなる神経的表象が我々の中でイメージに変わるプロセス」=「ニューロン回路(細胞体、樹状突起、軸索、シナプス〔cell bodies, dendrites, axons, synapses〕)の中の不可視のミクロ構造〔microstructural〕の変化が一つの神経的表象になり、次いでそれが我々が自分のものとして経験するイメージになるプロセス」。
 大まかに言って、「脳の全般的機能」は①脳以外の「身体」で「進行していること」、②「有機体を取り巻く環境」を、「熟知」〔be well informed〕していなければならない。この「熟知」によって、有機体と環境の間の「適切かつ生存可能な適応」が達成される。
 「進化的視点」からは、「身体」がなければ「脳」は存在しなかった。ちなみに、「身体も行動も」あるが「脳や心」のない「単純な有機体」、身体内の「大腸菌のような多くの幸福なバクテリア」の数は、人間よりもはるかに多い。
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 第6節以降につづける。

2050/鈴木光司・ループ(角川書店、1998)。

 鈴木光司・ループ(角川書店、1998/角川ホラー文庫、2000)。
 <リング>・<らせん>の物語世界がコンピータ内の「仮想空間」だったと暴露?されて、気が遠くなる感覚とともに、よくもこんなことを考えつくなという感想も、生じたものだった。
 適当にp.310から引用すると、こうある。
 「新しく生まれた細胞は細胞分裂を繰り返し、やがて親と同じような動きで、ディスプレイの中を這い回るようになっていった」。
 人工知能・人工生命・人工人間(ロボット?)を通り越した「人工世界」・「仮想空間」だということになっていた。プロジェクト名が「ループ」だ。
 現実?世界での「転移性ヒト・ガンウィルス」の発生・拡大を防止するため、「貞子」のいる元の世界へと(死んだはずの)高山竜司=二見馨は戻っていく。
 それを可能にするのがNSCS(Neutrino Scanning Capture System)というもので(と真面目に書くのも少しあほらしいが)、つぎのようなものだとされる。p.319-p.320。
 「ある物質にニュートリノを照射しその位相のズレを計測して再合成することにより、物質の微細な構造の三次元デジタル化が可能にな」る。
 「ニュートリノ振動を応用すれば、脳の活動状態から心の状態、記憶を含めた、生体がもつすべての情報を三次元情報として記述する画期的な技術が可能になる」。
 これによって再び仮想空間に送り込まれて高山竜司となる予定の二見馨は、作業?室・手術?室で、つぎのような「操作」を受ける。p.356-。
 「あらゆる方向からニュートリノは照射され、馨の身体を突き抜けて反対側の壁に達し、分子情報を逐一積み上げていく…。その量は徐々に増え、…、肉体の微細な構造の三次元デジタル化の精度は増していく」。
 「現実界での肉体は消滅し、ループ界での再生が…」。
 「解析がすべて終了すると、さっきまで馨が浮いていたはずの水槽に、人間の姿はなかった。水は…<中略>これまでと違った どろりとした液体に変じてしまった」。
 最終的?形態は、こう叙述される。p.358。
 「肉体の消滅にもかかわらず、馨の意識は存在した。
 ニュートリノは死の直前における馨の脳の状態、シノプスやニューロンの位置や化学反応に至るまで正確にデジタル化し、再現させていた。
 ---
 「ニュートリノ」なるものは今でも理解していないが、上にいう「脳の活動状態から心の状態、記憶を含めた、生体がもつすべての情報」の「三次元デジタル化」というものも、かつては、将来的にはいつかこういうことが可能になるのか、と幼稚に感じてしまった可能性がある。
 だが、人間の脳内での意識(覚醒)を超える「心」・「感情」・全ての「記憶」のデジタル化・記録・記述というものは、かりに一人の人間についてでも、不可能だろうと今では感じられる。
 人工知能の進化によって囲碁・将棋レベルのAIはさらに優秀?になるかもしれず、基礎的な「感情」を表現する動作のできる犬・猫ロボット(Sony-aiboのような)はできるかもしれず、クイズ解答大会で優秀する人工「頭脳」もできるかもしれない(これらはすでに現実になっているのかもしれない)。
 しかし、たとえ一人についてであれ「心」・「感情」・全ての「記憶」をコンピュータに<写し取る>のは不可能だろうと思われる。
 ましてや、生存する人間の全員について、これを行うのは不可能だろう。
 いや、かりに「理論的・技術的」には可能になる(可能である)としても、実際に人類がそれを行うことは、おそらく決してないのではないか。最大の理由は、種々の意味での<コスト(費用)>だ。
 G・トノーニら/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか-脳の謎に挑む情報統合理論(亜紀書房、2015)。
 これの原書は、2013年刊行。
 10年以上前よりも後でこの本に書かれているような関係学問分野の議論状態であるとすると(全体として面白くなかったという意味では全くないが)、上のような感想が生じ、かつ実際的・経済的にというよりも「理論的・技術的」にも不可能ではないか、という気がする。
 もちろん、「理論的・技術的」にも実際的・経済的にも可能で、かつそれが実践される人間社会というのは、一定の障害・病気の治療または防止のために対象はきわめて限られるとかりにしてすら、とてつもなく<恐ろしく、気持ちが悪い>のではないか。障害・病気ーこれらが何を意味するのか自体が曖昧なままであるに違いないが、この点を度外視するとしてもーの治療・防止のために使わない「人間」がきっと発生するに違いない、と想定される。

2037/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)①。

  茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 これを10章(+終章)まで、計p.313までのうち、第3章のp.112 まで読み終えている。他にも同人の著はあるようだが、これが最初に公刊した書物らしいので、読み了えるつもりでいる。この人の、30歳代半ばくらいまでの思考・研究を相当に「理論的」・体系的にまとめたもののようだ。出版担当者は、日本経済新聞社・松尾義之。
 なお、未読の第10章の表題は<私は「自由」なのか?>、第9章の表題は<生と死と私>。
 ついでに余計な記述をすると、西尾幹二・あなたは自由か (ちくま新書、2018)、という人文社会系の書物が、上の茂木の本より20年以上あとに出版されている。佐伯啓思・自由とは何か(講談社現代新書、2004)という書物もある。仲正昌樹・「不自由」論(ちくま新書、2003)も。
  上の著の、「認識におけるマッハの原理」の論述のあとのつぎを(叙述に沿って)おそらくはほとんど「理解する」ことができた、または、そのような気分になったので、メモしておく。
 この書には「心」の正確で厳密な定義は、施されていない。
 但し、「意識」については、G・トノーニとおそらくは同じ概念使用法によって、この概念を使っていると見られる。これを第一点としよう。詳細は、第6章<「意識」を定義する>で叙述する、とされる。
 第一。p.96(意識)。
 ・「覚醒」時には「十分な数のニューロンが発火している」から「『心』というシステムが成立する」。
 ・「一方、眠っている時(特に長波睡眠と呼ばれる深い眠りの状態)にも、低い頻度での自発的な発火は見られる。/しかし、…意識を支えるのに十分な数の相互作用連結なニューロンの発火は見られない。したがって、〔深い〕睡眠中には、システムとしての『心』が成立しないと考えられるのである」。
 これ以外に、以下の五点を挙げて、第一回のメモとする。
 第二。p.86〔第1章・2章のまとめ〕。
 ・「私たちの一部」である「認識」は、つまり「私たちの心の中で、どのような表象が生じるか」は、「私たちの脳の中のニューロンの発火の間の相互作用によってのみ説明されなければならない」。
 ・「ここにニューロンの間の相互作用」とは、「アクション・ポテンシャルの伝搬、シナプスにおける神経伝達物質の放出、その神経伝達物質とレセプターの結合、…シナプス後側ニューロンにおけるEPSP(興奮性シナプス後側膜電位)あるいはIPSP(抑制性シナプス後側膜電位)の発生である」。
 第三。p.100〔ニューロン相互作用連結・クラスター〕。
 ・「相互作用連結なニューロンの発火を『クラスター』と呼ぶことにしよう」。
 ・A(薔薇)の「像が網膜上に投影された時、網膜神経節細胞から、…を経てITに至る、一連の相互作用連結なニューロンの発火のクラスターが生じる」。
 ・「このITのニューロンの発火に至る、相互作用連結なニューロンの発火のクラスター全体」こそが、A(薔薇)という「認識を支えている」。すなわち、「最も高次の」「ニューロンの発火」が単独でA(薔薇)という「認識を支えている」のではない。
 第四。p.90-〔ニューロンの相互作用連結〕。
 ・二つのニューロンの「相互作用」とはニューロン間の「シナプス」の前後が「連結」することで発生し、これには、つぎの二つの態様がある。
 ・「シナプス後側ニューロンの膜電位が脱分解する場合(興奮性結合)と過分解する場合(抑制的結合)」である。
 ・「シナプスが興奮性の結合ならば、シナプス後側のニューロンは発火しやすくなるし、シナプスが抑制性の結合ならば、シナプス後側のニューロンは、発火しにくくなる」。
 ・簡単には、「興奮性結合=正の相互作用連結性、抑制的結合=負の正の相互作用連結性」。
 第五。p.102-〔「抑制性結合」の存在意味〕。
 ・「少し哲学的に言えば、不存在は存在しないことを通して存在に貢献するけれども、存在の一部にはならない」。
 ・「抑制性の投射をしているニューロンは、あまり発火しないという形で、いわば消極的に単純型細胞の発火に貢献」する。
 第六。p.104-〔クラスター全体による「認識」の意味=「末端」ニューロンと「最高次」ニューロンの発火の「時間」と「空間」、「相互作用同時性の原理」)。
 ・「物理的」な「時間」・「空間」は異なっていても、<認識>上の「時間」は「同時」で、「空間」は「局所」的である。
 ・「認識の準拠枠となる時間を『固有時』と呼ぶ」こととすると、「ある二つのニューロンが相互作用連結な時、相互作用の伝搬の間、固有時は経過しない。すなわち、相互作用連結なニューロンの発火は、…同時である」。
 ・「末端のニューロンから、ITのニューロンまで時間がかかるからといって」、私たちのA(薔薇)という「認識が、『じわじわ』と時間をかけて成立するわけではない」。
 ・「物理的空間の中で、離れた点に存在するニューロンの発火」が生じて「認識の内容が決まってくる」という意味では、「物理的空間の中では非局所的だ」。
 ・「物理的空間の中では…離れたところにあるニューロンの発火が、相互作用連結性によって一つに結びつきあって、…一つの認識の要素を構成する」。
 ・「つまり、相互作用連結によって結びあったニューロンの発火は、認識の時空の中では、局所的に表現されている」。
 ***
 注記ー秋月。
 ①「ニューロン」とは「神経細胞」のことで、細胞体、軸索、樹状突起の三つに分けられる。軸索,axon, の先端から「シナプス」,synapse, という空間を接して、別のニューロンと「連結する」ことがある。(化学的)電気信号が発生すると、軸索の先端に接するシナプス空間に「伝達化学物質」が生じて、別のニューロンと連結する=信号が伝達される(同時には単一方向)。
 ②ニューロンは「神経」のある人間の身体全身にあるが、脳内には約1000億個があり、それぞれの一つずつが約1000個のシナプス部分と接して、一定の場合に別のニューロンと「連結」するとされる。G・トノーニらの2013年著によると、約1000億個のうち「意識」を生み出す<視床-大脳皮質>部位には約200億個だけがあり、生存にとっては重要だが「意識」とは無関係の<小脳・基底核>等に残りの約800億個がある。なお、人間一人の「脳」は、重さ1.3-1.5kgだという。
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