秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ナツィス

2547/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor④。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第三節①。
 (01) 第二次大戦の終了は、元の状態への回帰を意味したのではなかった。
 ウクライナの内部では、戦争は体制の言語の意味を変更した。
 ソヴィエト連邦に対する批判はもはや「敵」を意味するだけではなく、「ファシスト」または「ナツィス」になった。
 飢饉に関するどんな会話も、「ヒトラーたちのプロパガンダ」だった。
 飢饉の記憶は、箪笥や引き出しの奥深くに閉じ込められ、それに関して議論することは、裏切りになった。
 1945年に、最も雄弁にホロドモールに関する日記をつけていた者の一人であるOleksabdra Radchenko は、まさにその私的な文章を理由として追及された。
 彼女のアパートが探索されているあいだに、秘密警察がその日記を没収した。
 彼女は、つづく6ヶ月間の尋問で、「反革命の内容の日記」を書いたとして責められた。
 裁判では、彼女は裁判官に、こう言った。
 「書いた主な理由は子どもたちに残すことでした。
 社会主義を建設するためにどんな暴力的方法が用いられたかを、20年後に子どもたちが信じないだろうがゆえに、書きました。
 ウクライナの人々は、1930-33年に恐怖で苦しめられました。…」
 その訴えは聞き入れられず、彼女は10年間、収容所に送られた。ウクライナに戻ったのは、ようやく1955年だった。(注32)
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 (02) 新しい恐怖の記憶も、1933年のそれを包み隠した。
 1941年には、Babi Yar 渓谷でのKyiv のユダヤ人の殺害があった。
 Kursk の戦い、Stalingrad の戦い、Berlin での戦い、これらはみな、ウクライナ人兵士がとともに闘ったものだった。
 戦争捕虜収容所、強制労働収容所、帰還者浄化収容所、大虐殺と大量逮捕、燃え落ちた村と破壊された田畑—これらが全て、今ではウクライナの物語の一部にもなった。 
 ソヴィエトの公式の歴史書では、第二次大戦がこう称されるようになった「大祖国戦争」が、研究と記念の中心になった。これに対して、1930年代の抑圧については決して語られなかった。
 1933年は、1941-44年および1945年の背後に隠された。//
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 (03) 戦後の混乱で1946年はすでに良くなかった。苛酷な食料徴発の復活、大旱魃—そして再び、今度はソヴィエトが占領した中央ヨーロッパに食糧を与えるためにだが、輸出の必要—は、食料の供給を崩壊させた。
 1946-47年に、250万トンのソヴィエトの穀物が、ブルガリア、ルーマニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアへ、そしてフランスへすら、輸出された。
 ウクライナ人は都市でも地方でももう一度飢餓へと向かい、ソ連全体でも同様だった。
 食料剥奪に関連した死者数はきわめて多く、また、数百万人が栄養失調になった。(注33)//
 ——
 (04) ウクライナ以外でも、状況は変わった。それは、きわめて異なる方向に向かってだった。
 1945年5月にヨーロッパでの戦争が終わったとき、数十万のウクライナ人は、他のソヴィエト市民と同様に、自分たちがソヴィエト連邦の境界の外側にいることに気づいた。
 多数の者たちが強制労働収容所におり、工場や農場で働くためにドイツに送られていた。
 ある人々はドイツ軍と一緒に退却し、あるいは赤軍に帰還する前にドイツへと逃亡した。その人々は、飢饉を体験していたので、ソヴィエト権力が再び課そうとする何物も持っていないことを知っていた。
 Odessa 出身の農学専門家で飢饉を目撃していたOlexa Woropay は、ドイツの都市のMünster 近傍の「離散者収容所」にいた。 そこで彼とその同僚たちは、「軍用車庫から転換した大きな小屋」で生活していた。
 1948年の冬、彼らがカナダかイギリスに送られるのを待っている間、「何もすることがなく、夜は長くて退屈だった。時間つぶしのために、自分たちが経験したことを話した」。
 Woropay がその物語を書き留めた。(注34)
 数年後に、それはThe Ninth Circle という表題の小さな書物となって出版された。//
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 (05) 当時には影響はほとんどなかったけれども、〈The Ninth Circle〉は今では魅力的な読み物だ。
 飢饉のときにすでに成人で、飢饉をまだ生々しく憶えていて、原因と帰結を考察する時間があった人々の考え方が、その書物には映されている。 
 Woropay は、数年前のSosnovyi と同様に、飢饉は意識的に組織された、スターリンは飢饉を慎重に計画した、飢饉は最初からウクライナを従属させて「ソヴィエト化する」ために意図された、と主張した。
 彼は、集団化のあとの反乱をこう叙述し、それが持った意味をこう説明した。
 「モスクワは、これがさらなるウクライナ戦争だと理解しており、1918-21年の解放闘争を思い出して怖れもしていた。
 モスクワはまた、経済的に自立したウクライナが共産主義に対していかに大きな脅威となるかを、知っていた。—とくに、民族意識が高くて道徳的にも強いために独立し統一したウクライナという考えを抱く、相当に大きい要素が、ウクライナの村落にはある、と。…
 赤色のモスクワはゆえに、3500万人の強固なウクライナnation が抵抗する力を破壊する、最も軽蔑すべき計画を採用した。
 ウクライナの強さは、飢饉でもって破壊されるべきものとされた。」(注35)
 Woropay と同じ離散者のその他の者も、こうした見方に同調していた。
 彼らは至るところで自発的に、ウクライナの歴史の転換点として飢饉に注目し、追悼するために、飢饉に関して論じるのを開始した。
 1948年、ドイツの、多くは離散者収容所にいたウクライナの人々は、飢饉の15周年を記念した。
 Hanover では、飢饉は「大量虐殺」だと叙述するビラを配布し、デモ行進を組織した。(注36)
 1950年、バイエルンにあるウクライナ語の新聞は、占領下のKharkiv で最初に公刊されたSosnovyi 論考を再掲載し、その結論を繰り返した。すなわち、「飢饉は、ソヴィエト体制によって組織された」。(注37)//
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 (06) 1953年、Semen Pidhainy という名のウクライナからのエミグレは、さらに一歩進めた。
 クバーニ(Kuban)のコサック家庭に生まれた彼は、長いあいだ収容所にいた。
 逮捕され、Solovetskii 島の強制収容所に収監されたのち、彼はナツィによる占領の前に解放され、戦争中はKharkiv の市役所で働いていた。
 1949年にトロントに移り、そこでウクライナの歴史の研究と普及に没頭した。
 ドイツにいるウクライナ人と同様に、彼の目標は道徳的であるとともに政治的だった。
 彼は、記憶し、哀悼したかった。しかしまた、ソヴィエト体制の残虐で抑圧的な本質へと西側の人々の注目を引きたかった。
 冷戦の初期の時点では、ヨーロッパと北アメリカの多くの部分にまだ、強い親ソヴィエト感情があった。 
 Pidhainy とウクライナからの離散者たちは、これと闘うことに専念した。//
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 第三節②へとつづく。

2544/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor②。

 Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第二節①
 (01) 1941年6月22日、ヒトラーがソヴィエト同盟に侵攻した。
 ドイツ軍は11月までに、ソヴィエト領ウクライナのほとんどを占領した。
 つぎにどうなるかが分からないまま、多くのウクライナ人は、ユダヤ系ウクライナ人ですら、最初はドイツ兵団を歓迎した。
 ある女性はこう思い出す。
 「少女たちはしばしば兵士に花を捧げ、人々はパンを与えたものだ。
 我々はみんな、彼らを見て嬉しかった。
 彼らは、我々から全てを奪って飢えさせた共産主義者から救ってくれようとしていたのだ。」(注7)
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 (02) バルト諸国も、同様にドイツ軍を歓迎した。これら諸国は、1939年から1941年まで、ソ連に占領されていた。
 コーカサスとクリミアも同様に、ドイツ兵団を熱烈に迎えた。これらの住民たちがナチスだったのが理由ではない。
 非クラク化、集団化、大量テロルと教会に対するボルシェヴィキの攻撃によって、ドイツ軍がもたらすものについて、幼稚で楽観的な見方が生まれていた。(注8)
 ウクライナの多くの地方で、ドイツ軍の到来とともに、自発的な非集団化が発生した。
 農民たちは後方地を奪ったのみならず、ラッダイト(Luddite)の憤激のようにトラクターや複式収穫機を破壊した。(注9) 
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 (03) 大騒ぎは、すぐに終わった。—そして、ドイツによる占領のもとでのよりましな生活を望んだ全ての者たちの期待は、すみやかに消滅した。
 つぎにどうなったかの十分な説明は、この書物の射程を超えている。ウクライナにナツィスがもたらした苦難は、広範囲で、暴力的で、ほとんど理解できないほどの規模で残虐なものだったからだ。
 ソ連に来るまでに、ドイツは他国を破壊する多数の経験をもっていた。そしてウクライナでは、自分たちがどうしたいのかを知っていた。
 ただちにホロコーストが始まり、遠く離れた収容所でのみならず、公然と繰り広げられた。
 ドイツ軍は、移送をするのではなく、隣人たちの面前で、村落の端や森の中で、ロマ人やユダヤ人の大量の処刑を敢行した。
 ウクライナのユダヤ人の三分の二が、戦争の全過程を通じて死んだ。—80万人と100万人の間。この割合は、大陸全体で死んだ数百万の現実的部分のそれよりも大きい。//
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 (04) ヒトラーによるソヴィエトの犠牲者の中には、200万人以上の戦争捕虜も含まれていた。彼らのほとんどは病気か飢餓のために死に、また、多くはウクライナの領域で死んだ。
 人肉喰いが、再びウクライナで発生した。
 Kirovohrad の第306捕虜収容所では、監視兵が収監者が死んだ仲間を食べていると報告した。
 Volodymyr Volynskyi の第365捕虜収容所での目撃者は、同じことを報告した。(注10)
 ナツィの兵士と警察官は、その他のウクライナ人を、とくに公職の役人たちから強奪し、打ちのめし、恣意的に殺害した。 
 ナツィの人種階層では、スラヴ人は下層人間(Untermenschen)『“で、おそらくはユダヤ人よりも一階位上だったが、偶発的な抹殺の候補になった。
 ドイツ軍を歓迎した者の多くには、ドイツは一つの独裁制を新しい独裁制に変更した、ということが分かった。とりわけ、ドイツが新たな移送の波を打ち寄せ始めたときに。
 戦争のあいだに、ナツィ兵団は、200万人以上のウクライナ人をドイツの強制労働収容所に送り込んだ。(注11)
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 (05) ウクライナを占領した全ての諸国と同じく、ナツィスも究極的にはただ一つの現実的な関心をもっていた。すなわち、穀物。
 ヒトラーは以前から、「ウクライナの占領は全ての経済的不安から我々を解放する」、ウクライナの領土は「誰も前の戦争のように我々をもう一度飢えさせることができなくなる」のを保障する、と主張していた。
 1930年代の遅く以降、ヒトラー政権はこの願望を現実に変えようとしてきた。
 Herbert Backe という食料と農業を担当した悪辣なナツィ官僚は「飢餓計画」を構想したが、その目標は率直だった。すなわち、「戦争の三年めに全軍がロシアで食べていけてはじめて、戦争に勝つことができる」。
 しかし、軍全体は、ドイツ自体もそうだが、ソヴィエト国民が食糧を奪われてはじめて、自分は食べていくことができる、とも結論づけていた。 
 1941年6月に1000名のドイツの官僚たちに回覧された覚書にもあるが、彼は5月に出版した「経済政策指針」でこう説明した。
 「信じ難い飢餓がまもなくロシア、ベラルーシおよびソヴィエト連邦の産業都市を襲うだろう。Kyiv 、Kharkiv はもちろんモスクワやレニングラードでも。
 この飢饉は偶発的なものではないだろう。目標は、およそ三千万の人々が『死に絶える』(die out)ことだ。」(注12)
 征服した領域の活用を所管する東方経済部員(Staff East)への指針は、厳としてつぎのように述べていた。
 「この領域の数千万もの多数の人々は不必要になり、死ぬかまたはシベリアへと移住しなければならないだろう。
 〈黒土地帯からの余剰分を使って飢餓による死から彼らを救う試みは、ヨーロッパへの供給を犠牲にしてのみ成り立ち得る。
 そのような試みは、ドイツが戦争に踏み出すのを妨げる。
 ドイツとヨーロッパが封鎖に対抗する妨げになる。
 このことは、絶対的に明瞭だ。〉」[強調〔=〈〉〕は原文のまま](注13)
 これは、何倍も大きくしたスターリンの政策だった。飢餓による民族(nations)全体の抹殺。//
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 (06) ナツィスには、この「飢餓計画」をウクライナで完全に実施する時間的余裕がなかった。
 しかし、その影響はその占領政策に感じ取ることができた。
 集団農場からの食料徴発の方が容易だという理由で、自発的な非集団化はすぐに停止された。
 Backe は、「ドイツ人は、ソヴィエトがすでに整えていないならば、集団農場を導入しなければなければならなかっただろう」と報告的に説明した。(注14)
 1941年には、農場は「協同組合」へと転換させることが意図されたが、それは起きなかった。(注15)//
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 (07) 飢餓も、戻ってきた。
 スターリンの「焦土」政策が意味したのは、ウクライナの経済的資産の多くが赤軍を退却させたことですでに破壊されている、ということだった。
 占領によって、状況はそこにとどまった人々にはさらに悪くなった。
 Kyiv が9月に陥落する直前に、帝国経済大臣のHermann Göring は、Backe と会談した。
 二人は、都市部の住民が食物を「むさぼる」(devour)のが許されてはならない、ということで一致した。「もし誰かが新たに占領した領域の住民全員に食を与えたいと望んだとしても、そうすることはできないだろう」。
 SSのHeinrich Himmler は数日後にヒトラーに対して、Kyiv の住民は人種的に劣っており、不要なものとして処分することができる、と言った。
 「彼らの80-90パーセントなしで、容易に済ませられる」。(注16)//
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 (08) 1941年冬、ドイツは都市部への食料供給を断ち切った。
 固定観念とは逆に、ドイツ当局はソヴィエトのそれよりも有能ではなかった。つまり、農民取引者たちは暫定的な非常線を通過した—1933年にそうするのは困難だと気づいていた。そして、数千人の人々が再び食料を求めて道路や鉄道を利用した。
 それにもかかわらず、食糧不足は、占領地帯で増大した。
 もう一度、人々は膨らみ、痩せ、遠くを見つめ、そして死に始めた。
 その冬、Kyiv で5万人が飢餓のために死んだ。
 ナツィの司令官が非常線で遮断していたKharkiv では、1942年5月の最初の二週間で、1202人が飢餓のために死んだ。
 占領期間中の飢餓による全死者数は、約2万人に達した。(注17)//
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 (09) こうした論脈の中で、ウクライナの1933年飢饉に関して公然と語るのが初めて可能になった。—残虐な占領のもとでの苦難と混沌、そして新たな飢饉の発現の中で。
 状況によって、物語の語られ方が形成された。
 占領のあいだ、議論の目的は生存者が嘆き悲しんだり、回復したり、正直な記録を生んだり、あるいは将来のための教訓を学んだりするのを助けることでは、なかった。
 過去を思い出すようなことを望んだ人々は、失望していた。
 飢饉についての秘密の日記類を守り続けた農民たちの多くは、日記類を地下から掘り出し、地方の新聞社へ持ち込んだ。
 しかし、「不幸なことに、編集者たちの多くは、今になっては過去の時代のことに興味がなかった。そして、こうした貴重な歴史的記録は公表されなかった」。(注18)
 その代わりに、この編集者たち—仕事と生活を新しい独裁制に依存していた—のほとんどが、ナツィのプロパガンダに奉仕する記事を掲載した。
 この者たちには、議論の目的は、新しい体制を正当化することだった。//
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 (10) ナツィスは実際には、ソヴィエトによる飢饉について多くのことを知っていた。
 その飢饉が起きているあいだ、ドイツの外交官はベルリンへの報告書で詳細に飢饉に関して叙述していた。
 Joseph Goebbels は、1935年のナツィ党大会の演説で、飢饉に言及した。彼はそこで、500万人が死んだと発言した。(注19)
 ドイツ軍が到着した瞬間から、ウクライナ占領者たちは、彼らの「イデオロギー的工作」のために飢饉を利用した。
 彼らが望んだのは、モスクワに対する憎悪が増幅すること、ボルシェヴィキによる支配の結果を人々が思い出すこと、だった。
 彼らがとくに熱心だったのは田園地帯のウクライナ人に達することで、ドイツ軍が必要とする食料の生産のためにはそうした努力が要求された。
 プロパガンダ用ポスター、壁新聞、時事漫画が、不幸で半ば飢えた農民たちを描いた。
 あるやせ細った母親とその子どもは、「これがスターリンがウクライナにしたことだ」というスローガンのある荒廃した都市を見た。
 別の貧しい一家は、「同志たちよ、生活はよくなった、愉快になった」というスローガンの下で、食物のないテーブルに座っていた。—このスローガンは、有名なスターリンからの引用句だった。(注20) //
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 第二節②へとつづく。

2498/R・パイプスの自伝(2003年)⑦。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部の試訳のつづき。
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 第三章・知と美への萌芽(Intellectual & Artistic Stirrings)①
 (01) 1935年は、私の青春時代の転換期だった。
 その年に、三つのことが起きた。Pilsudski 元帥が死んだ。ナツィスはニュルンベルク法を通過させた。これはドイツのユダヤ人の市民権を奪い、そして人間たる地位まで剥奪した。私は思春期の激動を経験した。//
 (02) 生涯の最後の10年間に軍事独裁を敷いたPilsudski には、社会主義の背景があった。
 彼は1887年に逮捕され、アレクサンダー三世暗殺の陰謀に加担したとしてシベリアへの流刑に遭った。その同じ陰謀がレーニンの兄の生命を奪ったのだったが。
 社会主義の不変の遺産の一つは、全ゆる様式の民族的かつ宗教的偏見に対する嫌悪だ。社会主義者たちはこれを、階級闘争から逸らすものだと見なした。 
 Pilsudski が支配的地位にあったとき、ポーランドは公然たる反ユダヤ主義を採用しなかった。
 しかし、彼の死後ほとんどすぐに、権力は、軍団で彼に仕えていた将軍や大佐たちに移った。
 世界的な趨勢は、権威主義的支配と単一の政治ブロックの生成だった。
 ポーランドは、ヨーロッパが陥った不況の運命をほとんど逃れられなかった。
 ユダヤ人の状況は急速に悪化した。ナツィスが外で反ユダヤ主義の炎を煽っただけに、いっそうそうなった。
 「ユダヤ問題の解決」が語られた(「解決」を必要としたのは反ユダヤのパラノイア〔偏執症者〕だけだったけれども)。
 ユダヤの企業は購買を拒否された。
 非ユダヤの店舗の中には、「キリスト教者」を明示する顕著な符号を掲示したものもあった。
 ポーランド人は「同じ仲間から買う」よう迫られた。
 従前は別々にかつ円満にカトリック教徒とユダヤ人が過ごしていた私の学校では、生徒たちが「ユダヤ問題」を討論した。この語で意味されていたのは、ポーランドの経済と文化に対するユダヤ人の、あるとされる有害な影響だった。
 〈zazydzenie〉、あるいはポーランドのユダヤ化という用語が、流行した。
 ユダヤ人大学生は身体的攻撃を受けた。1937年に教育大臣は、ファシストの民族民主党の要求に屈して、講義室の左側にある離れた長椅子に座るよう、彼らに命令した。
 こうして、耐え難い雰囲気が生み出された。//
 (03) Pilsudski の死後すみやかに、虐殺(pogroms)が始まった。
 1936年3月、Radom に近い小さな町のPrzytyk で、ユダヤ人が地方農民に強奪され、二人が殺された。
 そのような暴力的事件が続いた。
 当時わずか12歳だったけれども、当局が殺人者や強奪者を無罪放免した一方で自衛したユダヤ人を非難して収監したとき、私は燃えるような激しい怒りの感覚を経験した。//
 (04) これら全ては、ドイツの国家的支援を受けた反ユダヤ主義を背景にして起きていた。ドイツはヨーロッパじゅうで、この憎悪に充ちたイデオロギーを正当化し、奨励していた。
 父親は、ヒトラーの最新の狂乱をラジオで聴くために、家に急いで帰ったものだ。
 私のドイツ語はほとんどネイティブだったが、聴衆たちの非人間的な甲高い声で何度も中断するヒステリックな叫びを、ほとんど何も理解することができなかった。
 その叫び声は、恐ろしいというよりもむしろ当惑させるものだった。//
 (05) そのときまで事実として受け取ってきた私のユダヤ性は、今や一つの問題になった。
 我々は閉じ込められた。
 私は、シオニズムに共感した。
 イギリスの委任統治国は、ユダヤ人居留者に対する大量の暴力行使を1936年に犯したパレスチナ・アラブを宥めようとして、パレスチナへの移住を厳格に制限した。
 我々は、私をイギリスの、あるいはキューバですらの、船員学校に送ることを語り合った。だが、実現しなかった。理由の一つは惰性で、もう一つは資金不足だった。//
 (06) 同化したポーランド・ユダヤ人は、ポーランドのユダヤ人総数の5ないし10パーセントと見積もられ、個人数では15万人と30万人の間だった。
 これら同化ユダヤ人のほとんどと同じく、我々はユダヤ性とそれとの関係に誇りを持っていたにもかかわらず、我々はユダヤ的儀礼を遵守しなかった。
 稀なことだがかつて、父親が私をシナゴーグ〔ユダヤ教の教会〕へと連れて行ったとき、真似ることができないままで、私は信者たちが祈るのを眺めたものだ。
 驚いたのは、非公式のシナゴーグの数はカトリック教会よりも多いことだった。また、カトリック教徒は祈りの場所で客のように振る舞っているように見えたが、ユダヤ人はまるで自分の家にいるように行動していた。
 母親は、Burger 一家が行っていた楽しいクリスマスの祝日によって、私が宗教について当惑しているだろうと、気にかけた。
 それで、Hanukkah(ハヌカー)〔12月にあるユダヤ教の行事—試訳者〕のろうそくを一度か二度、私に点けさせた。だがそれは、きらめく常緑の木、積み重なるプレゼント、そして「聖夜」の歌のあるクリスマスと比べると、生彩を欠いた行事だった。//
 (07) 言うまでもなく、母親は、私の宗教的嗜好を心配した。
 13歳の年のいつか、Bar Mitzvah(バル・ミツワー)〔ユダヤ教上の成人男性またはその行事—試訳者)の準備をまだしていないことに私は気づいた。
 それをしたいと、私は両親に言った。そうして、私を個人指導する年配のユダヤ人を雇ってくれた。
 貧素なその人は、彼の考えでは私が6歳のときに学んでおくべきだったことを、彼が無駄な仕事だと考えたものは諦めて、教えてくれた。
 14歳のとき、近隣にあった母親一族のシナゴーグで、私はBar Mitzvah となった。
 のちにアメリカ合衆国で出席した豪華なBar Mitzvah 行事と比べて、私が体験したのは簡素なものだった。
 私はTorah〔ユダヤ教の聖書の一部—試訳者〕のその日の一節を読むように呼び出され、その後、他の信者たちと一緒に、母親がケーキとワインを用意していた部屋へと赴いた。
 それで全てだった。
 私へのプレゼントは、tefillin(聖なる小箱)、祖母からの贈り物である、祈りの間に額に付けるphylecteries だった。//
 (08) そのとき、そしてそれ以降、私は人前で祈るのを気まずく感じた。
 かくして、ユダヤ教の行事に出席して心易かったことはなかった。High Holidays の間の奉仕に出席し、Yom Kipper の断食を遵守し、Pass Over の8日間はパンを食べるのをやめたものだったけれども。
 Harvard 大学の著名なユダヤ人学者のHarry Wolfson と同じく、私は「遵守しない正統派ユダヤ人」だった。
 私は、理想主義と現実主義を結合しているがゆえに、ユダヤの信仰は卓越したものだと思ったし、今でもそう思っている。
 キリスト教の貧困と犠牲という理想は理論的により高貴だと認めるとしても、尋常ではない特別の個人による以外は、決して実践されなかったし、実践され得ないだろう。
 我々の宗教は、ユダヤ人に富を放棄するよう強いるのではなく、共同体に負担をかけないよう財産を取得し、その後で慈善を実践するよう助言する。
 私はこれは、イェスが説いたものよりもはるかに、現実的な道徳原理だと考える。//
 (09) ユダヤの信仰や民族との私の関係は、いくつかの基盤に依拠している。
 第一に、ユダイズムには、無神論の付着が完全にない。それは、妥協のない、精神的宗教だ。
 第二に、私はいつも、ユダヤの文化に支配的な、諦念した理想主義の雰囲気を好んでいる。すなわち、とくにユダヤ人にとっては過酷な世界で道徳的理想を維持し、ユーモアの感覚でもってそのような条件での生活を耐えられるものにしていること。
 私は、正統派ユダヤ人と同じく、人間の全ての行動を道徳の観点から観察してきた。日常生活でも、歴史家としての仕事でも。
 〈Sittlicher Ernst〉—道徳的誠実さ—は、私の明快な理想だったし、今でもそうだ。
 最後に、二千年にわたる敵対的世界の中で生き延び続け、信仰への忠誠心をずっと保ち続けた私の祖先たちの能力に、私は限りのない尊敬の気持ちを捧げる。//
 (10) Pilsudski の死後に支配的になった毒に充ちた雰囲気の中で、父親は、軍団の同僚だった一人のカトリック教徒を仲間として雇用しなければならなかった。彼は、書ける範囲内でのことだが、たんに表看板としてだけ役立った。
 父親は1936年に、ポーランドの主要な港のあるGdynia に事務所を開いた。
 その夏と翌年の夏に彼を訪れたが、それ以外には、父親との接触はなかった。
 父親が不在だった二年の間、父親が私に電話したり手紙を書き送ったりした記憶は、一度たりともない。//
 (11) 1935年以降の政治的社会的雰囲気の悪化は、私自身の身体と心理の両面での激動を伴う、子ども時代と思春期の境を越える変化と同時期に起きた。
 何も知らなかったことが起き始めた。それは言わばまるで異なる人間へと、私を変化させた。
 最初に現れたのは、女の子への関心ではなく、知的かつ美的な大変貌だった。//
 (12) それは音楽で始まった。
 母親の妹のRegina と一緒に夕方を過ごしていたときに、私はラジオ装置をいじくっていた。その装置はいわゆるsuperheterodyne のモデルで、ヨーロッパじゅうの放送局を選択できると見込まれていたが、実際にはほとんどガーガーという雑音だけを発していた。
 突然に、釘付けになるような音楽が流れた。
 それはBeethoven の交響曲第7番の最終楽章だった。
 演奏されているテンポの速さから判断して、おそらくはToscanini の指揮のものの録音だった。
 私はそのようなものを聴いたことがなかった。
 単純に「美しい」ものだったのではない。
 そうではなく、だいぶ昔に知っていたが忘れてしまっていた言語で、私に語りかけてきた。
 私の心の奥底を、貫いた。
 その夜、私は頭の中を走り抜ける音楽につれて揺さぶられ、眠れそうになかった。//
 ——
 第三章②へ、つづく。

2497/R・パイプスの自伝(2003年)⑥。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第二章の試訳のつづき。
 ——
 第二章・私の出自 ②。
 (13) 我々は、ワルシャワに移る途中で、ウィーン出身の女性が経営する小ホテルの一室に初めて落ち着いた。
 そこでウィーン人のOscar とEmmy Burger の夫婦と出逢った。彼らは、運命的に、我々の最も親しい終生の友人となることになる。
 Oscar Burger はオーストリアの自動車製造会社、Steyt-Daimler-Puch のポーランドの代表者で、この会社はVolkswagen に先んじて小型で安価な車を製造していた。
 彼らには一人の子息がいた。Hans といって、私より1歳、年下だった。
 我々はまもなく、町の別の所にある同じ家屋の別々の区画を賃借りした。だがそこを立ち退かなければならなかったとき、彼らと一緒に転居し、それから5年間、我々は同じ生活区画を共有した。
 両親たちは離れ難く、Hans は代わりの弟になった。//
 (14) トルストイは友人にこう書き送った。「子どもたちはいつも—若いほどそれだけもっと—、医師たちの言う催眠の状態にいる」。
 私は、自分の子ども時代はそうだったと思い出す。
 ときに「現実の」世界と接触して中断したが、私自身の世界の中で生きていた。
 青少年期に入るまで、自分自身の思いと感情以外で私が経験した全ては、私の外側にあって、完全には現実ではないように感じた。
 まるで夢うつつの催眠状態でいて、ときたま覚醒して、またすみやかに元に戻って行ったかのようだった。//
 (15) 8歳か9歳のとき、母親がドイツ語の短い祈り言葉を教えてくれた。
 のちに、作者はLuise Hensel という、ロマン派時代の詩人だと知った。
  Müde bin ich, geh' zur Ruh,/Schliesse beide Äugelein zu,/
  Vater, lass die Augen dein,/Über meinem Bette sein./(*脚注)
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 (*脚注) 大まかには、「疲れて休みに行き、目を瞑る。父よ、あなたの目が私のベットの上にとどまるように」。
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 そのときもそれ以降も、私は神の存在や慈悲深い導きに対するどんな疑いも経験しなかった。
 じつに、神の存在は私には絶対的に確かなものだ。神は全ゆるところに現存している。これとは別のことは全て、仮定のものか、疑わしいものだと思えたし、そう思われる。//
 (16) 上のことは、私が幸せな子ども時代を送ったことの理由だ。
 家族の写真を見ると、我々は戦争を生き延び、ともかくも思春期になるまでは、私はつねに微笑している。
 外部の世界をときに楽しむことはあったが、怖ろしくなったとき、私はいつも自分の内部世界へと引っ込むことができた。
 その感覚は子ども時代にずっと続き、ある程度は生涯を通じて私に同伴した。
 私の生命が危険だった第二次大戦という事件ですら、私の外部のもので、ゆえに現実には意味はないもののように感じた。
 私には、幸福な結末が来るという、全くの自信があった。//
 (17) それでもやはり、宗教に関しては問題を抱えていた。
 13歳か14歳の頃を思い出しているのだが、かりに存在する全てのものが神から生まれるのだとすれば、全てのものが—どんなに小さくとも全ての被創造物(生物)が、どんなに瑣末でも全ての出来事が—永遠に存在するはずだ。
 だが、存在した痕跡もなく事物は消滅している。
 顕微鏡で生物種を覗き込んで、神は本当にかつて生きた全てのアメーバについて説明することができるのだろうか、と思う。
 古い写真を見て、群衆の中のこの人を、あるいは荷車を引くあの馬を、みんな全て死んでいるが、神は憶えているのだろうか、と自問する。
 私はこの問題を、心の裡で決して解決しなかった。
 私が歴史を愛好したのは、何らかの意味で、この葛藤にもとづいていた。
 過去のものとなり死んだように見える諸事象を扱うことによって、私はある意味で、それらを生き還らせ、そうして時間から逃れた。//
 (18) 大戦間のポーランドについて、「ファシスト」とか「反ユダヤ国家」との評価がある。しかしこれは、ユダヤ人の若者はどうすれば絶望的な苦難のある国以外の国で生きることができたかと不思議がるようなものだ。
 「ファシズム」という用語は、1920年代からソヴィエトの共産主義者たちが行った言葉の操作に影響を受けて、本来の全ての意味を失った。
 イタリアのファシズム—言葉の元来の厳密な意味での「ファシズム」—は、1914年より前にB・ムッソリーニ(Benito Mussolini)が率いた極端に急進的な社会主義運動が大きく成長したものだ。 
 ムッソリーニは、第一次大戦勃発とともに、ヨーロッパを覆った愛国主義の狂熱と階級闘争を上回る民族への忠誠心に影響を受け、社会主義の上にナショナリズムを接ぎ木した。そして、現代世界での階級闘争は社会主義者が教えたように同一の国家内の市民対市民で闘われるのではなく、国や民族の間で、裕福で搾取するものと貧困で搾取されるものとの間で闘われる、と主張した。
 彼は徐々に対抗する諸政党を廃絶し、包括的な検閲制度を導入し、諸企業に対して、全面的な国家の監視の下にある労働組合と協力することを強いた。
 これは、のちにソヴィエト同盟で起こったことの、緩やかな範型だった。//
 (19) イタリアと似たようなことは、大戦前のポーランドでは起きなかった。
 1926年まで、ポーランドは民主主義の途を歩んだ。しかし、共産主義者と社会主義者がナショナリストと闘ったとき、そして人口の三分の一を占める少数民族の権利が侵害されたとき、苦境を克服できないことが分かった。
 1926年5月1日、政治の舞台から退いていたPilsudski がクー・デタを敢行した。
 しかし、その範囲は限られていた。
 共産主義政党を含む諸政党は公然と活動し続けていたし、プレスの自由も尊重された。そして、司法部も、その独立性を維持した。
 政府内では軍部が重要な役割を担い、Pilsudski は立法部を支配することができていたが、彼の独裁は穏和で、非暴力的だった。
 1935年に彼が死ぬまで、ポーランドには伝統的な権威主義的統治があったけれども、類似性がイタリアとはほとんどなく、ナツィ・ドイツとは全くなかった。//
 (20) ポーランドの反ユダヤ主義という一般的な印象も、一定の修正が必要だ。
 ポーランド人にとって疑いなく、ポーランド性の規準を明らかにするなら、それはカトリック教会の遵守だった。だからこそ、正統派のウクライナ人やユダヤ人は、いかにポーランドを文化や忠誠の対象としていても、本当のポーランド人とは見なされなかった。
 これが、カトリック教会が国全体を統合した、120年間の外国占領の結果だった。
 民衆全体がカトリック教会によって、ユダヤ人に対する敵意を吹き込まれ、教え込まれた。
 人種的な反ユダヤ主義ではなかった。だが、信仰の放棄によってのみ改宗でき、かつそうしてすら、ポーランド人からみると決して完全にはユダヤ性を除去することができなかったので、ほんのわずかに苦痛が少ないにすぎなかった。
 しかし、(政府や軍部内以外では)公然たる差別はなかったし、大虐殺(pogrom)もなかった。
 正統派ユダヤ人の大多数は、自分たちの意思で、狭い共同区画に住んだ。そこでの生活様式が宗教の遵守を容易にしたからだ。
 我々のような同化したユダヤ人は、こうした共同区画の外の仲介者的世界で生活した。だが、私はこう言わなければならない。我々を背教者のごとくに扱う正統派ユダヤ人によりも、教育を受けたポーランド人の方に共通性を感じた、と。//
 (21) ともあれこうした理由で、1935年以前には、ポーランド・ユダヤの中産階層の子どもたちは、全く幸せでいることができた。
 確かに、ひどい事件はあった。
 1930年代の初め、我々は明らかなユダヤ人だけの共同住宅に住んでいた。 
 そして、ときには名前を呼ぶことがあった。
 一度、改宗した家庭のユダヤ人少年が、私を「ユダヤ」と呼んだ。
 私は叫び返した。「ユダヤは、きみ自身だ!」
 それに反応して彼は、ペン・ナイフで私の頭を打ち、血が流れた。
 彼の両親は、丁重に詫びを言った。
 しかし、私の子ども時代はこのような稀な事件でとても不快だった、と言うことはできない。
 我々は、ふつうの生活を送った。冬にはスキーやスケートをし、夏には車で街を出てピクニックをし、大きい「Legia」プールで泳いだ。映画を観に行きもした。//
 (22) 私は、どの点でも傑出した子どもではなかった。
 どの方面についても、早熟の才能を示しはしなかった。
 たくさん読書することもなかった。
 でも、私はとても魅力的な男の子だと見なされていた。オリーブ色の肌、母親が前部を切り揃え続けたつややかな黒髪は、たびたび称賛された。そして、私はしばしば、ペルシャ人かインド人だと思われた。
 思春期に心が傷ついたことの一つは、この称賛が突然になくなったことだった。//
 (23) 職業的な文筆家に将来になる者にしては驚くべきことかもしれないが、若いときの私には、自分の考えを文書にして書き記すのがとても困難だった。
 しかしながら、きわめて流暢に、私は話した。
 十代のとき、英雄が登場人物となる即席の作り話を語って、クラス仲間を楽しませた。この才能のおかげで、後年になって私の子どもと孫たちのいずれも、ベッドでの寝物語でわくわくさせることができた。
 しかし、決まりきった学校の課題を執筆するのは、本当に苦痛だった。
 のちに、主題が自分に浮かんで来て、自分の感情を表現できてようやく、きちんと書くことを学んだ。//
 ——
 第一部第二章、終わり。

2420/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)③。

 フランソワ.フュレ、うそ・情熱・幻想。
 =François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ②。
 ——
 (6)この成功の理由を、どう説明することができるか?
 共産主義について明らかにすべきことは、大して多くは残っていなかった。
 反共産主義文学の偉大な伝統を支えた気持ちの悪い記録は、もう消え去ったように思われた。
 フュレの貢献は、弾劾にあるのではなかった。
 彼もまた、前の世代の共産主義経験はつぎの世代のためには何のためにもなっておらず、同じ幻想を抱かせることはないことを知っていたし、しばしば悔恨をもって肯定した。
 じつにこのことこそがその書物の目的だったのだから。目的は、歴史の叙述をすることではなく、20世紀の共産主義思想が作り出した革命的熱情の力強さを説明することにあった。
 非難することではなく、理解することだった。
 諸現象、というよりもむしろ共産主義の消失の「謎(enigma)」の対象化が、この書物を有用にしたものであり、結論を異にする人々にとってはひどく苛立たせるものだった。//
 (7)こうした視覚からの著作が好ましく受けとめられたことには、たしかに、20年前にSolzhenitsyn の〈The Gulag Archipelago(収容所群島)〉が華々しい成功を収めたのに似た状況が有利に働いていた。
 二つの書物には一世代の違いはあるが、同じイデオロギー上の潮流に属している。
 共産主義を捨て去っていく長い過程は1970年代半ばまでには始まっており、通常は知識人界に含まれるいくつかの個人の集団ばかりではなく広く「左翼(Left-Wingers)」階層全体に影響を与えていた。その過程は、世紀の終焉とともに終わった。
 フランソワ・フュレが関心を持ったのは、この最終的な段階だった。
 彼の書物は死亡確認書であるとともに、解剖診断書でもある。
 激情が彼の大胆さを正当化している。犯罪科学の外科医には、死体を無慈悲に扱うことが許されているように。
 ナツィズムと共産主義の比較、さらに悪いことにこれら二つに共通するように見える頑迷な思考方法こそが、フュレが最も挑発的に論争対象にしようとしたものだった。
 (8)この点で多くの者は、ファシズムに関する三巻の大著の著者であるドイツの歴史家のエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)との対話を行なったとして、フュレを非難した。
 ノルテがドイツの右翼(Right)と親近的だったことは、彼(ノルテ)をほとんど異端者にした。とくに、国家社会主義とファシズムについてのドイツの歴史家たちが対立した1980年代の〈歴史家論争〉以降のことだが。
 ナツィズム、ファシズム、および共産主義の比較可能性は、ノルテが最も論争主題としたもの一つだった。
 フュレは、この種の禁忌に煩わされるような人物ではなかった。彼にはつねに、その見解ではとくに左翼は安易すぎるとして、知識人の知的順応性を批判する用意があったのだ。
 〈歴史家論争〉はおそらく、彼自身のフランス革命解釈をめぐっての騒然とした歴史的かつ政治的な論争を、生々しく思い起こさせるものだったに違いない。//
 (9)彼は、〈幻想の終わり〉の長い脚注の中で初めて、ノルテに対する異論を明らかにした。それは、その書物にはほとんど脚注がないことからしても、驚くべきことだった。
 彼は、20世紀の二つの形態の全体主義を並置させるのを禁じる、歴史の「反ファシスト」解釈を打ち破ったことについてノルテを称賛しつつも、ノルテによる反ユダヤ主義(anti-Semitism)の解釈には同意できないと表明した。
 フュレによると、ナツィの反ユダヤ主義を「理性的」に正当視するのは、きわめて「衝撃的でかつ間違った」ものだった。//
 (10)イタリアの雑誌の〈Liberal〉が、遠く隔たっている二人の主唱者が手紙を交換したらどうかと提案した。
 二人の歴史家は、1995年の末から書簡交換を始め、1996年じゅうずっと続いた。
 各手紙は、フランスの〈Commentaire〉とイタリアの〈Liberal〉で、1997年のあいだに公表された。
 文通の全体はイタリアで同年に公刊されたのだが、二人はその数ヶ月前の1996年に、ナポリのFondazione Ugo Spirito で開かれた会合で初めて出会った。
 彼ら二人は、1997年6月にナポリで開催されたリベラリズムに関する会合で、もう一度だけ逢うことになる。それは、7月12日のフュレの突然の死の、わずか数週間前のことだった。//
 (11)フュレはおそらく、この議論の後半でしばしば文通の相手に対して、フランス革命の歴史家は動揺している、または最終的には保守的立場へと転じた、という印象を与えたことを後悔していただろう。
 いずれにせよ、(本書で)つづくインタビューを読むと、フュレがノルテと遭遇したことが影響を与えている部分をいくつか看取することができる。ちなみに、ポール・リクール(Paul Ricoeur)は、ノルテと書簡交換したことを、少しも咎めてはいない。
 このインタビューは、ノルテとの遭遇を正当化する最後の機会だったように見える。
 フュレは威嚇されたのではない。それにもかかわらず、自分の選択に責任を取っている。——死の数日前に彼がノルテに書き送った最後の手紙で、リベラリズムに関するノルテの歴史的分析の「幅広さと聡明な寛容さ」を称賛した。——彼はときおり、苦い味が残ったと感じていた。//
 ——
 「序文」第1節、終わり。

2313/J・グレイの解剖学(2015)⑦—Tismaneanu02。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)。
 試訳のつづき。
 この書には、第一版も新版も、邦訳書はない見られる。
 一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第7部/第41章・歴史の中の悪魔②。
 (05) 20世紀の歴史に関する野心的で挑戦的な書物である<歴史の中の悪魔>は、二つの全体主義の実験の間に最初から存在した類似性を明らかにしている点で、もっとも啓発的だ。 
 Tismaneanu は、「重要な知識人たちにいまだにある共産主義ユートピアへの驚くべき心酔」を述べることで当惑している、と告白する。
 彼は、こう書く。
 「相対的には穏和なレーニンを維持して防衛するのは、もはや不可能だ。
 レーニン思想は、精神病質者のスターリンによって不埒にも歪曲された。
 スターリンとは違ってレーニンは、精神病の兆候を示さなかった。」
 ボルシェヴィキの教理の総体的な特質は、パラノイア〔偏執症〕の発現ではなく、方法上の暴力と学者ぶったテロルだった。
 彼ら自身の説明では、レーニンとその支持者たちは、一定の人間集団を人間界の潜在的可能性を実現するために破滅しなければならない、という信念にもとづいて行動した。
 自分たちをリベラルと見なす多数の者は、このことを無視しつづけている。そして、それは何故か、と問うに値する。
 (06) Tismaneanu は、こう示唆する。全体主義という概念が理論的範疇として適切か否かの学界での議論の基礎になっているのは、政治における悪魔についての問題だ。
 彼は正しく、二つの全体主義の実験のうちどちらがより悪魔的かを問うていない。—この問いは、結論が出ない、かつ同時に道徳的に不快な数字に関する論争へと容易に退化する接近方法だ。
 彼は<歴史の中の悪魔>で、いくつかの点で重大な違いがあることを承認する。
 すなわち、社会からの排除の結果としての死亡、テロル運動の一部としての殺人、—ユダヤ人がナツィスおよび多くのヨーロッパ諸国やドイツが占領したソヴィエト・ロシアにいた協力者たちによって受けたように−無条件の廃絶運動において死につながる印をつけられること。
 数字の比較は、この重大な道徳的違いを見落とす。
 過去の人間だという汚名が家族じゅうへと拡張される一方で、社会に再び受け入れられることは可能だった。「再教育」を甘受することで、情報提供者になることで、そして一般に体制側に協力することで。
 スターリンは人為的な飢饉を作り出して数百万人を餓死へと追いやり、タタールやKalmyks のような人々を追放し死に向かわせた。そのときスターリンは、彼らの完全な消滅を意図してはいなかった。
 成人男性のおよそ5人に1人が、収容所に入れられたと概算されている。刑事責任能力のある年齢が20歳の者も含むように下げられた(死刑の可能性を含んだ)あとには数を計算できない多数の子どもたちもいた。また、1945年以降には、大量の「女泥棒」(戦争未亡人)が加わった。
 しかし、収容所にいた人々のたいていは、生き延びてふつうの生活に戻ることができた。
 ほとんど生きて戻れなかった収容所の部門があつたけれども—Varlam Shalamov が<コルィマ物語>(Kolyma Tales)〔*試訳者注1—下掲*〕で叙述するような収容所—、ソヴィエトにはTreblinka〔*試訳者注2—下掲*〕はなかった。//
 (07) 諸事情によって—民族的後進性、外国による包囲といったもの—失敗はしたが本質的には人間中心主義(humanistic)の構想だったと信じたい人々は、Tismaneanu の論述に抵抗するだろう。
 しかし、彼が明確に指摘しているように、ソヴィエト国家は、ある範囲の人間は完全には人間ではないとする意味をもつ政策にもとづいて構築された。
 レーニンは一つの型の人間中心主義(humanism)を保持していたかもしれないが、それは現実に生存している人類の多くを排除するものだった。
 聖職者、商人、過去の特権階層、旧秩序に奉仕した役人たちが公民権を剥奪された理由は、たんに新しい体制に対して敵対する可能性がある、というのではなかった。
 彼らは、かつて存在した人間性(humanity)の一類型を代表していた。
 ボルシェヴィキは過去の人々の運命は革命の悲劇的な代償だと考えた、ということを示唆するものは何も存在しない。
 こんな余計な人間たちは、歴史のごみ屑にすぎなかったのだ。
 かりに過激な悪魔とは人類の一部には道徳性の保護を与えるのを拒否することにあるのだとすれば、レーニンが創出した体制は、疑いなくその性質をもっている。
 (08) 多数のリベラルたちがこのような事実を無視するのは何故か、という問題が残されている。
 これを説明する一つは、明らかに、共産主義構想のユートピア的性格だ。
 政治学では、過激な悪魔の別の顔は、過激な善良さの非人間的な範型だ。
 レーニンは、権力諸関係が存在するのを止める、国家や市場のない世界を想像した。
 ヒトラーは、不変の人種的階層制を権力が反映する世界を想像した。
 おぞましいナツィの見方を受け容れているまともな人間がいるとは、想定し難い。—その見方は、継ぎ目なく続く<有機体的>文化の<民族の>(völkisch)というキメラ、詐欺的な<人種科学>、革命的反資本主義を混合したもの(mix)だ。
 しかし、ドイツ人の大部分に対して、対立のない均質の社会という幻想が魅力をもったことを、否定することはできない。
 レーニンのきわめて異なる見方は、ある意味では、同様に忌まわしいものだった。
 その最も本質的な特質をもつ真正のマルクス主義者は、人間の生活の意味を創出するために考案した活動に、多様な形態がある余地を残さなかった。
 宗教、科学の実践、芸術は、人間自身のために、置き去りにされることになるだろう。
 人間の相続物で残存する僅かのものには、集団的福利と共同的労働によって、軛がかけられるだろう。
 これはおそろしく不毛な見方だったが、幸いにも、現実化される見込みはない。//
 (09) リベラルたちは、共産主義とファシズムは元々対立し合うものだった—一方は啓蒙主義的普遍主義から、他方は人種の純粋性という反啓蒙主義から現れた—と、反論するだろう。
 違いはある。しかし、共通性も同様にある。
 ナツィズムが人間の平等と普遍的な解放を否認したとしても、人種の階層制というナツィの構想は、啓蒙主義的思考の影響力ある要素を継承している。
 ナツィの「科学的人種主義」に先行したのは、<実証主義哲学者>の生理学にもとづく社会という科学の構想だった。そして、レーニンの平等主義的構想もまた、Francis Galton や(より明確な言葉を用いた)Ernst Haeckel のような19世紀の啓蒙主義思想家によって促進された、人間の不平等と優生学の理論に、科学の—歴史的唯物論という代用科学の—基盤を求めたのだ。
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 (試訳者注1) Varlam Shalamov(1907-1982), Kolyma Tales(Penguin Books, 2015, John Glad 訳)を参照。シベリア北東部、むしろアラスカに近い極北・極東の地域に、Kolyma 強制労働収容所があった。
 なお、ここでは立ち入らないが、Olando Figes, Just Send Me Word (<レフとスヴェトラーナ>)に登場する、レフと親しいペチョラ収容所の実験室長のストレールコフ(Strelkov)は、このコリィマ収容所の受刑者たちを援助・救済しようとしたことが「犯罪」とされて、受刑者=収監者としてペチョラ収容所に入ったようだ。のちにOlando Figes 著の試訳の際に、再度言及される。
 (試訳者注2) ワルシャワ東北近傍のTreblinka 収容所では、アウシュヴィッツ強制収容所に次ぐ数のユダヤ人が大量殺害に遭った、とされる。
 ——
 ③へとつづく。

2167/折口信夫「宮廷生活の幻想」(1947年)。

 折口信夫全集第20巻-神道宗教篇(中公文庫、1976)より。
 p.41~。折口信夫「宮廷生活の幻想」(1947年)
 一文ごとに改行する。旧字体を原則として改める。青太字化は秋月。
 ***
 ・「神話という語は、数年来非常に、用語例をゆるやかに使われて来ている。
 戦争中はもとより、戦争前からで、すでに広漠とした、延長することの出来るだけ、広い意味に使われていた。
 それは、ナチス・ドイツの用語をそのまま直訳したものであろうが、-<中略>-この神話という語も、そうした象徴風な受けとり方がせられている。」
 ・「私ども、民俗学を研究する者の側から考えると、神話という語はすこぶる範囲を限って使うべき語となる。
 普通に使われているより、さらに狭い意義なのだから、それとはよほど違うのである。
 神話は神学の基礎である。
 雑然と統一のない神の物語が、系統づけられて、そこに神話があり、それを基礎として、神学ができる。
 神学のために、神話はあるのである。
 従って神学のない所に、神話はない訳である。
 言わば神学的神話が、学問上にいう神話なのである。」
 ・「神代の神話とか神話時代とか、普通称されているが、学問上から言う神話は、まだ我が国にはないと言うてよい。
 日本には、ただ神々の物語があるまでである。
 何故かと言えば、日本には神学がないからである。
 日本には、過去の素朴な宗教精神を組織立てて系統づけた神学がなく、さらに、神学を要求する日本的な宗教もない。
 それですなわち、神話もない訳である。
 統一のない、単なる神々の物語は、学問的には、神話とは言わないこととするのがよいのである。
 従って日本の過去の物語の中からは、神話の材料を見出すことは出来ても、神話そのものは存在しない訳である。」
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 折口信夫について、以下の著に接した。
 植村和秀・折口信夫-日本の保守主義者(中公新書、2017)。
 斎藤英喜・折口信夫-神性を拡張する復活の喜び (ミネルヴァ書房、2019)。


1776/諸全体主義の相違②完-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア。
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)
 試訳のつづき。第5章第6節。p.280-1。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違②。
 要するに、ロシアは社会構造が同質で民族的構造が異質だったので、熱望をもつ独裁者は階級間の敵意に訴えることが想定されえたのだが、状況が反対の西側では、訴えかけは民族主義(ナショナリズム)になったのだろう。//
 とは言え、今きちんと、つぎのことを記しておかなければならない。
 階級にもとづく全体主義と民族にもとづく(nation-based)全体主義は、一つに収斂しがちだ。
  スターリンはその政治的経歴の最初から、大ロシア民族主義と反ユダヤ主義を用心深く奨めていた。
 第二次大戦の間と後で彼は、おおっぴらに、明瞭な熱狂的愛国主義の言葉を使った。
  ヒトラーの側について言うと、彼はドイツ民族主義は制限的すぎると考えていた。
 彼は「私は世界革命を通じてのみ、自分の目的を達成することができる」とラウシュニンクに語り、ドイツ民族主義をより広い「アーリア人主義」へ解消するだろうと予言した。
 『民族(nation)という観念は無意味になってきた。…
 我々はこの偽りの観念から抜け出して、人種(race)の観念へと代えなければならない。…
 歴史的過去を帯びる人々の民族的区別の言葉遣いで新しい秩序を構想することはできない。だが、この区別を超える人種にかかる言葉遣いによってならそうすることができる。…
 科学的意味では人種というものは存在しないと、私は素晴らしく賢い知識人たちと全く同様に、完璧によく知っている。
 しかし、農民で牧畜者であるきみは、人種という観念なくしてはきみの生育の仕事をうまくは成し遂げられない。
 政治家である私は、今まで歴史の基盤の上に存在した秩序を廃棄して全般的で新しい反歴史的な秩序を実施し、そしてそれに知的な根拠を与える、そういうことを可能とする観念を必要としている。…
 そして、人種という観念は、私のこの目的のために役立つ。…
  フランス革命は、国民(民族、nation)という観念を国境を超えて伝播させた。
 国家社会主義は、人種という観念でもって広く革命をもたらし、世界を作り直すだろう。…
 民族主義(ナショナリズム)という常套句には多くのものは残らないだろう。我々ドイツ人には、ほとんど何も。
 その代わりに、善良な一つの支配する人種についての多様な言葉遣いが、理解されるようになるだろう。』(120)//
 共産主義と「ファシズム」は、異なる知的起源をもつ。一方は啓蒙哲学に、他方はロマン派時代の反啓蒙的文化に、根ざしている。
 理論については、共産主義は理性的、構築的で、「ファシズム」は非理性的、破壊的だ。このことは、共産主義がつねに知識人たちに対してきわめて大きい魅力を与えた理由だ。
 しかしながら、実際には、こうした区別もまた、不明瞭になっている。
 じつにここでは「存在」が「意識」を決定するのであり、全体主義諸制度はイデオロギーを従属させ、それを意のままに再形成するのだ。
 記したように、両者の運動は思想(ideas)を、際限のない融通性をもつ道具だと見なす。それは、服従を強制して一体性の見せかけを生み出すために、臣民たちに押しつけられる。
 結局のところ、レーニン主義-スターリン主義の全体主義とヒトラー体制は、いかに知的な起源が異なっていても、同じように虚無主義的(nihilistic)で、同じように破壊的なのだ。//
 おそらく最も語っておくべきなのは、全体主義独裁者たちがお互いに感じていた、称賛の気持ちだ。
 述べてきたように、ムッソリーニはレーニンに大きな敬意を払っていたし、「隠れたファシスト」に変わったことについてスターリンを惜しみなく賞賛した。
 ヒトラーはごく親しい仲間に、スターリンの「天才性」に対して尊敬の念を抱いていることを認めた。
 第二次大戦のただ中でヒトラーの兵団が赤軍との激しい戦いで阻止されていたとき、彼は両軍が一緒になって西側の民主主義諸国を攻撃し、破滅させることを瞑想した。
 このような両軍の協働に対する一つの重大な障害は、ソヴィエト政府の中のユダヤ人の存在だった。これは、ヒトラーの外務大臣のヨアヒム・リッベントロップ(Joachim Ribbentrop)にソヴィエト指導者が与えた、非ユダヤ系の適切な幹部の地位に就けば指導的部署から全てのユダヤ人を排除するとの保証、を考慮すれば解消できるように見えた。(121)
 そしてその代わりに、最も過激な共産主義者の毛沢東は、ヒトラーとその方法を称賛した。
 きわめて多くの同志の生命を犠牲にした文化革命のさ中に非難が加えられたとき、毛沢東は、「第二次大戦を、ヒトラーの残虐さを見よ。残虐さが強ければ強いほど、革命への熱狂はそれだけ大きくなる」、と答えた。(122)//
 根本のところで、左と右の様式がある全体主義体制は、類似した政治哲学と実践によってのみならず、それらの創設者の共通する心理によって結び合わされている。
 すなわち、搔き立てる動機は憎悪であり、それを表現したのが暴力だ。
 彼らの中で最も率直だったムッソリーニは、暴力は「道徳的な治癒療法」だ、人々を明白な関与に追い込むのだから、と述べた。(123)
 この点に、そして自分は疎外されていると感じている現存の世界を、どんな犠牲を払ってでも全ての手段を用いて徹底的に破壊しようとの彼らの決意のうちに、彼らの親近性(kinship)があった。//
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 (120) Rauschning, Hitler Speaks, p.113, p.229-230.
 (121) Henry Picker, ed., Hitlers Tischgespräche im Führerhauptquartier, 1941-1942 (Bonn, 1951), p.133. 
 (122) NYT(=New York Times), 1990年8月31日号, A2.
 (123) Gregor, Fascist Persuasion, p.148-9. 
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 第5章第6節、そして第5章全体が、これで終わり。

1774/諸全体主義の相違①-R・パイプス別著5章6節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 試訳のつづき。第5章第6節。p.278~p.230。
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 第5章・共産主義、ファシズム、国家社会主義。
 第6節・全体主義諸体制の間の相違①。

 共産主義者、ファシストおよび国家社会主義者の諸体制を分かつ、相違の問題に移る。
 これらが作動しなければならなかった社会的、経済的および文化的条件を対比させることで、我々はこれを説明することができる。
 換言すると、相違は、異なる哲学から生じたのではなく、同じ統治の哲学を地域的な情勢に戦術的に適応させたことから生じた帰結だ。//
 一方での共産主義、他方でのファシズムと国家社会主義の間の際立つ相違は、民族主義(ナショナリズム)に対するそれぞれの姿勢にある。
 すなわち、共産主義は国際的運動だが、ムッソリーニの言葉によると、ファシズムは「輸出」するためのものではなかった。
 1921年の国会下院での演説でムッソリーニは、共産党員たちにこう呼びかけた。
 『我々と共産党との間には政治的親近性はないが、知的な一体性はある。
 我々はきみたちのように、全ての者に鉄の紀律を課す中央志向の単一性国家が必要だと考える。違うのは、きみたちは階級という観念を通じてこの結果に到達するのに対して、我々は民族(nation)という観念を通じてだ、ということだ。』(116)
 のちにヒトラーの宣伝相になるヨゼフ・ゲッベルスは同様に、共産主義者をナツィスと区別する一つのものは前者の国際主義だ、と考えた。(117) //
 この相違は、いかほどに根本的なものなのか?
 厳密に検討すれば、この違いは大きくは三国の特殊に社会的かつ民族的な条件によって説明することができる。//
 1933年のドイツでは、成人人口の29パーセントが農地で、41パーセントが工場や手工業で、そして30パーセントがサービス部門で働いていた。(118)
 イタリアでのようにドイツでは、都市と農村の人口、賃金労働者と自営業者や使用者、そして財産所有者と所有しない者のそれぞれの割合は、ロシアでのよりもはるかによく均衡がとれていた。ロシアはこの点では、ヨーロッパよりもアジアに似ていた。
 かりに社会構成が複雑で、「プロレタリア-ト」にも「ブルジョアジー」にも属さない集団の意味が大きければ、一つの階級が別のそれと闘争するのは西側ヨーロッパではまったく非現実的なものだっただろう。
 熱望をもつ独裁者は、西側では、自分の政治的基盤を損なうことを真面目に考えないかぎり、自分を単一の階級と同一視することなどできなかっただろう。
 このような想定が正しいことは、社会革命を掻き立てようとする共産主義者たちが西側では何度も失敗したことで、実証された。
 共産主義者たちが反乱に巻き込むことに成功した知識人や労働者階級の一部は、-ハンガリー、ドイツ、イタリアの-どの場合でも、連合した別の社会集団によって粉砕された。
 第一次大戦のあと、最大数の支持者がいた国々、イタリアとフランス、ですら、共産主義者たちは、単一の階級にのみ依存したために、その孤独な状態を打破することができなかった。//
 熱望をもつ西側の独裁者は、階級ではなくて民族的な憎悪を利用しなければならなった。
 ムッソリーニと彼のファシスト理論家は、イタリアでは「階級闘争」は市民階級が別の者と闘うのではなくて「プロレタリア国民」全体が「資本主義」世界と闘うのだ、と主張して、二つのことを巧妙に融合させた。(119)
 ヒトラーは、「国際ユダヤ人」を「人種的」のみならずドイツ人の階級的な敵だとも称した。
 外部者-カール・シュミットの言う「敵」-に対する憤激に焦点を当てて、ヒトラーは、どちらかに明らかには偏することなく、中産階級と農民の利益の均衡を維持した。
 ムッソリーニとヒトラーの民族主義は、彼らの社会構造が外側へと憤激を逸らすのを必要としていたこと、および権力に到達する途は外国の者に対抗する多様な階級の協力を通じて存在しているということ、への譲歩だった。(*)
 多くの場合で-とくにドイツとハンガリーで-、共産主義者もまた、排外主義的感情で訴えるのを躊躇しなかった。//
 東側では、状況は大きく異なっていた。
 1917年のロシアは、圧倒的に一つの階級、つまり農民の国家だった。
 ロシアの産業労働者は比較的に小さく、かつたいていは、まだ村落を出身地にしていた。
 大ロシア諸地方では全体の90パーセントを占める相当に均質な労働者(toiler)である民衆は、社会経済的にのみならず文化的にも、残りの10パーセントとは明瞭に区別された。
 彼らは、幅広く西側化されている地主、公務員、専門職業人、事業者および知識人とは民族的一体性の意識を感じていなかった。
 ロシアの農民と労働者にとって、彼らは十分にまったくの外国人だった。
 革命的ロシアでの階級敵、burzhui (ブルジョア)は、少なくとも語り方、振舞い方や外観でもってその経済的地位によるのと同様に見分けられた。
 ゆえに、ロシアでの権力に到達する途は、農民大衆や労働者と西欧化されたエリートたちの間の内戦を通じて存在していた。//
 しかし、かりにロシアがイタリアやドイツよりも社会的に複雑でなかったとしても、ロシアは民族的構成の点では相当にこれらよりも複雑だった。
 イタリアやドイツは民族的には同質的だったが、ロシアは、最大の集団は人口の2分の1以下だと記録される、多民族帝国だった。
 公然とロシア民族主義に訴える政治家には、非ロシア人である半分を遠ざけてしまうリスクがあった。
 これは、大ロシア民族主義と明白に同一化するのを避けて、その代わりに民族的に中立的な「皇帝」という考えに依拠した、ツァーリ政府によって認識されていたことだ。
 この理由でもっても、レーニンは、ムッソリーニやヒトラーとは異なる路線を進み、民族的な色合いのないイデオロギーを促進しなければならなった。//
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 (116) Mussolini, Opera Omnie, XVII (Florence, 1955), p.295.
 (117) Kele, Nazis and Workers, p.92.
 (118) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.3.
 (119) Gregor, Fascist Persuation, p.176-7.
(*) コミンテルンの知識ある構成員は、このことを認識していた。
 1923年6月のコミンテルンの会議(Plenum)で、ラデックとジノヴィエフは、ドイツ共産党は、孤立状態を打破するには民族主義的な心性要素と繋がり合う必要があると強調した。
 ドイツにその一つがある「被抑圧」民族の民族主義的イデオロギーは革命的な性格を帯びる、ということでこのことは正当化された。 
ラデックはこの場合について言った。『国家に対する重い負荷は、革命的行為だ』、と。
 Luks, Entstehumg der kommunistischen Faschismustheorie, p. 62. 〔共産主義的ファシズム理論の生成〕
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 ②へとつづく。

1771/三全体主義の共通性⑧-R・パイプス別著5章5節。

 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア
 =Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。
 第5章第5節・三つの全体主義体制に共通する特質。試訳のつづき。p.274~p.276。
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 Ⅲ・党と社会②。
 ヒトラーは、教師、法律家、医師および航空士を含む全ての専門家や職業集団を受け容れるナツィが統御する団体の網を、ドイツに張り巡らせた。(97)
 社会民主党の影響が強かったために労働組合は解散させられ(1933年5月)、「労働フロント(戦線)」(Labor Front)に置き換えられた。これは、ムッソリーニの例に倣って、労働者や補助事務職員のみならず雇用主も含むもので、これら三集団はナツィ党の監督のもとで対立を調整することが期待された。(98)
 フロントに加入することは義務だったので、この組織は飛躍的に拡大し、結果として全国民の二分の一を登録することになった。
 労働フロントは、制度的には国家社会主義党の一支部だった。
 やがて、スターリンのロシアでのように、ドイツの労働者は業務に就かないことを禁止され、管理者は当局の許可なくしては労働者を解雇できなくなった。
 1935年6月にヒトラーは、ボルシェヴィキを摸倣して、強制的労働奉仕を導入した。(99)
 こうした政策の帰結は、ソヴィエト・ロシアでのように、国の組織化された生活を党が完全に支配することの受容だった。
 ヒトラーは1938年に、こう誇った。
 『共同体の組織は、巨大で独特なものだ。
 国家社会主義共同体の組織のいずれかに所属して働いていないドイツ人は、現時点でほとんどいない。
 それは全ての家、全ての職場、全ての工場に、そして全ての町と村に達している。』(100)//
 ファシスト党とナツィ党は、レーニンのロシアでのように、情報を政府に独占させた。
 ロシアでは全ての独立系新聞と定期刊行物が、1918年8月までに廃刊させられた。
 1922年の中央検閲機構、グラヴリト(Glavlit)、の設立によって、印刷される言葉に対する共産党の支配は完全になった。
 同じような統制が劇場、映画館その他の全ての表現形態で確立され、それはサーカスをもすら含んでいた。(*)//
 ムッソリーニは権力掌握後一年以内に、非友好的な新聞の編集部署や印刷工場を嵐のごとく暴力的に襲って、自立したプレスを攻撃した。
 マテオッティ(Matteotti)の殺害の後は、「ウソの」報道をする新聞に対して重い罰金が科された。
 ついに1925年、プレスの自由は公式に廃絶され、政府は報道内容や社説の画一性を要求した。
 そうであっても、出版物の所有権は私人にあり、外国の出版物は入ることが許され、教会は、決してファシストの政綱と接触しなかったその日刊紙、<Osservatore Romano(オッセルヴァトーレ・ロマーノ)>を刊行することができた。//
 ドイツではヒトラーが政権を獲得して数日以内に、緊急時諸立法によって、プレスの自由は制限された。
 1934年1月に、プレスが党の指令に従うのを確実にすべくライヒ(国家)「プレス指導官」が任命された。これは、非協力的な編集者や執筆者を馘首する権限をもった。//
 法に関するナツィの考え方は、ボルシェヴィキやファシストと同じだった。すなわち、法は正義を具体化したものではなく、支配のための道具にすぎない。
 超越的な倫理基準なるものの存在は否定された。道徳は主観的なもので、政治的な規準によって決定されるものだとされた。
 レーニンに同意しなかっただけの社会主義者を「裏切り者」だと誹謗したことをアンジェリカ・バラバノフ(Angelica Balabanoff)に咎められたとき、レーニンはこう語った。
 『プロレタリアの利益のために行われたことは全て、誠実な(honest)ものだ。』(101)
 ナツィスはこの偽りの道徳観を、アーリア人種の利益に役立つものが道徳だとする人種的語法へと、翻訳した。(**)
 一方は階級にもとづく、他方は人種にもとづく、倫理の定義でのこうした転化は、法と正義に関する類似の考え方を帰結させる。
 ナツィの理論家はいずれをも、功利主義の方法でもって取り扱った。
 「法とは、人民に利益となるものだ。」
 ここで「人民」とは、1934年7月に自分を「至高の裁判官」に任命した総統の人格と同一体だ。(+)
 ヒトラーはいずれは司法制度全体を廃棄する必要があるとしばしば語ったが、当分の間はそれを内部から破壊することを選んだ。
 ナツィス党はそれが定義する「人民に対する犯罪」を裁くために、ボルシェヴィキを摸倣して、二つの類型の裁判所を導入した。すなわち、レーニンの革命審判所の対応物である「特別裁判所」(Special Court, Sondergericht)と、ソヴェト・ロシアと同じ名の類似物である「人民裁判所」(People's Courts, Volksgerichtshofe)。
 前者では通常の法手続は、党による簡潔な評決によって除外された。
 ナツィの時代の間ずっと、犯罪が政治的性質があると宣告されるときはつねに、法的証拠の必要は免除された。(102)
 「健全な<人民>(Volk)の感覚」が、有罪か無罪かを決定する主要な手段になった。//
 そのような表面のもとで、一方での共産主義の実際と他方でのファシズムおよび国家社会主義のそれとの間には大きな相違が、私的財産に対するそれぞれの態度に存在した。
 多くの歴史家がムッソリーニとヒトラーの体制を「ブルジョア的」かつ「資本主義的」だと分類する理由になっているのは、この点の考察のゆえだ。
 しかし、これらの体制が私的財産を扱う態様をより正確に見るならば、これらは所有権を不可侵の権利ではなく、条件つきの特権だと考えていることが明瞭になる。//
 ソヴェト・ロシアではレーニンの死の頃までに、全ての資本と生産財は国有財産だった。
 農民たちから自分の生産物を処分する権利を剥奪した1920年代後半の農業の集団化によって、私有財産の廃絶は完成した。
 ソヴィエトの統計資料によれば、国家は1938年に、全国の国民所得の99.3パーセントを所有していた。(103)//
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 (97) Unger, Totaltarian Party, p.71-p.79. 
 (98) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.82-p.85.
 (99) 同上、p.79。
 (100) Unger, Totaltarian Party, p.78.
 (*) 以下の〔本書〕第6章を見よ。  
 (101) Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (Ann Arbor, Mich., 1964), p.7.
 (**) ヒトラーは正義を「支配の一手段」と定義した。彼は、「良心とはユダヤ人の発明物だ、それは割礼のごとく汚辱だ」と言った。Rauschning, Hitler Speaks, p.201, p.220.
 (+) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.235, p.394.
 法に関するナツィの観念と実際に関する詳しい議論のために、以下を見よ。
 Ernst Fraenkel, The Dual State (New York, 1969), p.107, p.149.
 道徳とはその人民の利益となるもの全てだという考え方は、「ユダヤ人の利益となる全てのものは、道徳的で神聖だ」と述べようとした、<シオン賢者の議定書(プロトコル)>から導かれたと言われる。Hannah Arendt, Origins, p.358.
 (102) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.395.
 (103) Strany mira: Ezhegodnyi Spravochik (Moscow, 1946), p.129.
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 党と社会③へとつづく。

1765/三全体主義の共通性⑤-R・パイプス別著5章5節。

 現在試訳を掲載しているのは、つぎの①の第5章第5節の一部だ。
 ①Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)。計976頁。
 リチャード・パイプスには、この①でもときに参照要求している、つぎの②もあり、この欄でもすでに一部は試訳を掲載している。
 ②Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919(1990, paperback; 1997)。計944頁。
 既述のことだが、これら二つの合冊版または簡潔版といえるのがつぎの③で、邦訳書もある。
 ③Richard Pipes, A Concise History of the Russian Revolution (1996)。計431頁。
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000)。計444頁。
 邦訳書ももちろん同じだが、この③には、現在試訳中の②の『共産主義・ファシズム・国家社会主義』の部分は、全て割愛されている(他にもあるが省略)。歴史書としての通常の歴史記述ではないからだと思われる。
 したがって、この部分の邦訳は存在しないと見られる。
 前回のつづき。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。-第5節/三つの全体主義に共通する特質。
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 Ⅱ・支配党と国家②。
 首相に指名された2カ月のちの1933年3月に、ヒトラーは国会(Reichstag)から「授権法律」(Enabling Act)を引き出した。それによって議会は4年の期間、立法する権能を自ら摘み取った。-のちに分かったように、実際は、永遠にだったが。
 そのときから12年後のその死まで、ヒトラーは、憲法を考慮することなく発せられた「非常時諸法律」(emergency laws)という手段によって、ドイツを支配した。
 彼は、バイエルン、プロイセンその他という歴史的存在の統治機構を解体することによって、ドイツ帝国およびワイマール・ドイツのいずれにおいても連邦国家制を享有していた権力を絶滅させ、そうして、ドイツで最初の単一国家を産み出した。
 1933年の春と夏には、自立した政党を非合法のものにした。
 1933年7月14日、ナツィス党は唯一の合法的な政治組織だと宣言された。そのときヒトラーは、全く不適切なのだが、「党は今や国家になった」と強く述べた。
 現実には、ソヴィエト・ロシアでと同じく、ナツィ・ドイツでは、党と国家は区別された(distinct)ままだった。(89)//
 ムッソリーニもヒトラーも、法令、裁判所および国民の公民的権利を、レーニンがしたようには、一掃することがなかった。法的な伝統は二人の国に、合法的に法なき状態にするには、深く根づいていたのだ。
 その代わりに、西側の二人の独裁者は、司法権の権能を制限し、その管轄範囲から「国家に対する犯罪」を除外して秘密警察に移すことで満足した。//
 ファシスト党は、効果的な司法外のやり方で政治的対抗者を処理するために、二つの警察組織を設立した。
 一つは1926年以降は反ファシズム抑圧自発的事業体(OVRA)として知られるもので、党ではなく国家の監督のもとで活動する点で、ロシアやドイツの対応組織とは異なっていた。
 加えて、ファシスト党は、政敵を審判し幽閉場所を管理する「特別法廷」をもつ、それ自身の秘密警察をもっていた。(90)
 ムッソリーニは暴力を愛好すると頻繁に公言したけれども、ソヴィエトやナツィの体制と比べると、彼の体制は全く穏和的で、決して大量テロルに頼らなかった。すなわち、1926年と1943年の間に、総数で26人を処刑した。(91)
 これは、スターリンやヒトラーのもとで殺戮された数百万の人々とは比べようもなく、レーニンのチェカ〔秘密政治警察〕がたった一日に要求した一片の犠牲者数だ。//
 ナツィスはまた、秘密警察を作り上げるにもロシア・共産主義者を見倣った。
 ナツィスが一つは政府を守り、もう一つは公共の秩序を維持する、という異なる二つの警察組織を創設するという(19世紀初頭のロシアに起源をもつ)実務を採用したのは、共産主義者を摸倣したものだ。
 これらは、それぞれ、「安全警察」(Sicherheitspolizei)および「秩序警察」(Ordnungspolizei)として知られるようになった。これらは、ソヴィエトのチェカやその後継組織(OGPU、 NKVD等々)および保安部隊(the Militia)に対応する。
 安全警察、またはゲシュタポ(Gestapo)は、党を一緒に防衛したエスエス(SS)と同様に、国家の統制には服さず、その信頼ある同僚のハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)を通じて、直接に総統のもとで活動した。
 このことはまた、レーニンがチェカについて設定した例に従っていた。
 いずれの組織も、司法の制度と手続によって制約されなかった。チェカやゲベウ(GPU)のように、それらは強制収容所(concentration camp)に市民を隔離することができた。そこでは、市民は全ての公民的権利を剥奪された。
 しかしながら、ロシアでの対応物とは違って、それらにはドイツ公民に対して死刑判決を下す権限はなかった。//
 公共生活の全てを私的な組織である党に従属させるこれらの手段は、西側の政治思想の標準的な範疇にはうまく適合しない、一種の統治機構(政府、government)を生み出した。
 アンジェロ・ロッシ(Angelo Rossi)がファシズムについて語ることは、もっと強い手段でなくとも同等に、共産主義および国家社会主義にあてはまるだろう。//
 『どこであってもファシズムが確立されれば、他のこと全てが依存する、最も重要な結果は、人々があらゆる政治的な活動領域から排除されることだ。
 「国制改革」、議会への抑圧、そして体制の全体主義的性格は、それら自体が評価することはできず、それらの狙いと結果の関係によってのみ評価することができる。
 <ファシズムとは、ある政治体制を別のものに置き換えるにすぎないのではない。
 ファシズムとは、政治生活自体の消滅だ。それは国家の作用と独占体になるのだから。>』(92)//
 このような理由づけにもとづいて、ブーフハイム(Buchheim)は、つぎの興味深い示唆を述べている。全体主義について、国家に過剰な権力を授けるものだと語るのは、適切ではないだろう、と。
 そのとおり、それは国家の否定なのだ。//
 『国家と全体主義的支配の多様な性質を見ると、まだなお一般的になされているように「全体主義国家」に関してこのような言葉遣いで語るのは矛盾している。…
 全体主義の支配を国家権力の過剰と見るのは、危険な過ちだ。
 現実には、政治生活と同様に国家も、適正に理解するならば、我々を全体主義の危険から防衛する、最も重要な前提的必要条件なのだ。』(93)
 --------
 (89) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.251, p.232.
 (90) Friedrich and Brzezinski, Totalitarian Dictatorship, p.145. 
 (91) De Felice in Urban, Euro-communism, p.107.
 (92) Rossi, The Rise, p.347-8. < >は強調を付けた。
 (93) Buchheim, Totaritarian Rule, p.96.
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 ⑥/③へとつづく。

1764/三全体主義の共通性④-R・パイプス別著5章5節。

 つぎの本の第5章第5節の試訳のつづき。
 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、p.266-7。
 第5章/共産主義・ファシズム・国家社会主義。
 第5節/三つの全体主義に共通する特質。

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 Ⅱ〔第二款〕・支配党と国家①。
 レーニンのように、ヒトラーとムッソリーニは、国家を奪い取るために彼らの組織を用いた。
 三つの国全てにおいて、支配党は私的な組織として機能した。
 イタリアでは、ファシスト党はたんに「国家の司令に服する公民と志願者の兵団」だという虚構が維持された。見かけ上のこととして、かりに政府の官僚(長官たち)が形式上はファシスト党の職員たちよりも優越していたとしても、真実(truth)は真逆だったけれども。(85)//
 ボルシェヴィキ、ファシストおよびナツィの各党が各国での統治を行っていく態様は、全ての実際的目的について、全く同一だった。すなわち、ひとたびレーニンの原理を取り込んでしまうと、その実行は比較的に容易な態様になった。
 いずれの場合も、党は、無制限の権力を求める途上にある諸制度を吸収するか骨抜きにするかのいずれかをした。
 第一に、国家の執行機構と立法機構、第二に、地方自治機関。
 これらの国家諸装置は、党の指令に直接に従うように設けられてはいなかった。
 国家は独立して行動しているとの印象を与えるために、注意深い方策が採られた。
 党は中心的な執行機構上の地位に党員を配置することによって、行政を動かした。
 このような欺瞞についての説明は、全体主義「運動」は、その名が示すようにダイナミックで流動的たが、行政は静態的なので固い構造と確かな規範を必要とする、ということだった。
 ナツィ・ドイツに関するつぎの観察は、同様に共産主義ロシアにもファシスト・イタリアにも当てはまる。//
 『運動それ自体は政治的決定を行い、機械的な実施は国家に委ねる。
 第三帝国の間に叙述されたように、運動は民衆の指導(Menschenfuehruug)を行い、対象物の管理(専門行政、Sachverwaltung)は国家に委ねる。
 (いかなる規範によっても指揮されない)政治的な基準と(技術的な理由で不可避である)規範との間の公然たる衝突を可能なかぎり回避するために、ナツィ体制は、表向きは、できるだけ合法的形態に近くなるようにその行動を取り繕った。
 しかしながら、この合法性は、決定的な意味を持たなかった。
 それは、二つの相容れない支配形式の溝に橋渡しをすることだけに役立った。』(86)//
 ある初期のファシズムの研究者が「近代史で知られる最も異常な国家の征服」だと見なした(87)「諸装置の征服」は、もちろん、ソヴィエト・ロシアで1917年10月の後で起きた同じ過程のたんなる模写物(copy)だ。//
 ボルシェヴィキは10週間の事態の中で、ロシア中央の執行機構と立法機構を服従させた。(88)
 彼らの任務は、1917年早くにツァーリ体制がその官僚制とともに消失していたことによって容易になっていた。臨時政府が充填することのできなかった権力の空白が残っていたのだ。
 ムッソリーニやヒトラーとは違って、レーニンは、作動している国家制度ではなく、アナーキー(無政府状態)と対向した。//
 ムッソリーニは、はるかに余裕をもった早さで、ことを進めた。
 彼は、ローマを占領したのち5年以上経って、1927-28年にだけ、事実上かつ法的に(de fact, de jure)、イタリアの独裁者だった。
 対照的にヒトラーは、ほとんどレーニンの早さで行動し、6カ月の間に国家の支配権を獲得した。//
 ムッソリーニは1922年11月16日に、下院(代議会、the Chamber of Deputies)に対して、「国民の名前で」彼が権力を掌握したということを知らせた。
 下院には、この事実を是認するか解体に直面するかの選択があった。そして、是認した。
 しかし、ムッソリーニはしばらくの間は立憲的に統治するふうを装い、ゆっくりと、熟慮しつつ一党体制を導入した。
 彼は、最初の一年半の間、いくつかの独立した政党の議員を、ファシスト党が支配する内閣の中に含み入れた。
 彼はこのような見せかけを、ジアコモ・マテオッティ(Giacomo Matteotti)の殺害に対する強い攻撃が始まったあとの1924年になってようやく、終わらせた。マテオッティは、ファシスト党の違法な行為を暴露していた社会党の代議員だった。 
 そうであってすら、彼は対抗政党の組織が作動するのを、しばらくの間は、許した。
 ファシスト党は、1928年12月に、唯一の合法的な政治団体だと明示された。このときに、イタリアでの一党国家の形成過程は完了したと言われている。
 諸州に対する統制は、ボルシェヴィキから借りた手段によって、つまり地方のファシスト党活動家に地方長官を監督させ、統領の指示を彼らに渡すことによって、確保された。//
 ナツィ・ドイツでは、政府と私的団体に対する党の支配の確立は、<画一化(Gleichschaltung)>あるいは<同期化(Synchronization)>(*)という名でもって行われた。
 --------
 (85) M. Manoilescu, Die Einzige Partei (Berlin, (1941)), p.93.
 (86) Buchheim, Totalitarian Rule, p.93.
 対象となっているのは、フレンケル(Fraenkel)の<二重国家>(Dual State)だ。
 (87) Beckerath, Wesen und Werden, p.141.
 (88) リチャード・パイプス・ロシア革命、第12章。
 (*) この言葉は元々は、ドイツの連邦国家性を中央集権的国民国家へと統合することのために用いられた。しかしやがて、より広い意味を持つに至り、従前の全ての独立した組織がナツィ党に従属することだと定義された。以上、Hans Buchheim, Totarian Rule (Middletown, Conn., 1968), p.11.
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 段落の途中だが、区切る。⑤/②へとつづく。

1762/三全体主義の共通性②-R・パイプス別著5章5節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995)、第5章の試訳のつづき。p.263-4.
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 (序説②)
 この問題は、ナツィスに近い理論家のカール・シュミット(Carl Schmitt)によって、理論的に説明され、正当化された。
 彼はヒトラーが政権に達する6年前にこう書いて、激しい憎しみ(enmity)は政治の質を明確にするものだと定義した。
 『政治的な行動と動機を下支えする特殊に政治的な区別は、<味方(friend)>と<敵(foe)>の区別だ。
 この区別は政治の世界上のもので、別の世界での相対的に自立した対照物に対応する。すなわち、倫理上の善と悪、美学上の美と醜、等々。
 味方と敵の区別は自己充足的なものだ。-すなわち、いずれもこれらの対照物の一つ又は多くから由来するものでもないし、これらに帰結するものでもない…。
 この区別は、理論上も実際上も、その他の区別-道徳、審美、経済等々-に同時に適用されることなくして、存在する。
 政治上の敵は、道徳的に悪である必要はないし、経済的な競争者として出現する必要もない。また、日常的仕事をする上ではきわめて利益になる者ですらあるかもしれない。
 しかし、敵は、他者であり、よそ者だ(the other, the stranger)。そして、敵であるためにはそれで十分なのであり、特殊にきわめて実存主義的意味では、異質で無縁な(different, alien)者なので、衝突が生じた場合には、その者は自分自身の存在を否定するものとして立ち現れる。そのゆえに、その者と、自分の存在に適した(self-like, seinmaessig)生活様式を守るために抵抗し、闘わなければならないのだ。』 (75)
 この複雑な文章の背後にあるメッセージは、政治過程では諸集団を区別する違いを強調することが必要だ、なぜなら、それは政治にはその存在が無視できない敵を手玉にとるための唯一の方法だから、ということだ。
 「他者」は実際に敵である必要はない。異質な者だと感受されるということで十分だ。//
 ヒトラーがその性分に合うと感じたのは、憎悪への共産主義者の執着だった。
 そしてこれは、なぜヒトラーは社会民主党を妨害する一方で、幻滅した共産主義者たちをナツィ党が歓迎するように指示したかの理由だ。
 憎悪は、ある対象から別の対象へと、容易に方向を変えたのだから。(76)
 そして、1920年代の初めに、イタリア・ファシスト党の支持者の最大多数は元共産党員だ、ということが起こった。(77) //
 我々は、三つの全体主義体制に共通する特質を、三つの項目のもとで考察しよう。すなわち、支配政党の構造、機能、権威だ。そして、党の国家との関係、そして党の民衆一般との関係だ。//
 --------
 (75) Carl Schmitt, in : Archive fuer Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Vol. 58, Pt. 1 (1927), p.4-5.
 (76) Rauschning, Hitler Speaks, p.134.
  (77) Angelica Balabanoff, Errinerungen und Erlebnisse (Berlin, 1927), p.260.
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③第Ⅰ款・「支配党」へとつづく。
ギャラリー
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  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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