杉原泰雄の指導を一橋大学で受けたと見られるのが、やはり若い頃はフランス革命期の憲法史を研究していた辻村みよ子(1949~、現東北大学教授)。
辻村は、日本国憲法の解釈論としても「プープル(人民)主権」の方向の解釈が望ましいとする。
浦部法穂=棟居快行=市川正人編・いま、憲法学を問う(日本評論社、2001)の中の棟居快行との対談「主権論の現代的展開」で、以下のように語る。見出しは秋月が付した。
①ナシオン(国民)主権論とプープル(人民)主権論―「ナシオン主権論」は「フランス革命当時に一握りのブルジョアジーが権力を独占するために抽象的・観念的な建前としての全国籍保持者を主権主体としつつ、実際には自分たちだけが国民代表となって主権を行使するために構築した理論」。「代表制と必然的に結合し」、「制限選挙とも結びついて非民主的に機能することができる」。
「プープル主権論」では「抽象的・観念存在としての国民」ではなく「具体的に主権行使できる主権主体、すなわち政治的意思決定ができる市民の全体をプープルと呼」ぶ。「ナシオン主権」の場合は「赤ん坊も主権者に入る」ために「代表制が不可欠」だが、「プープル主権論のもとでは、それぞれの主権主体の主権行使自体が前提で、これが尊重される制度が求められ」る。以上、p.58-59。
辻村において、「ナシオン主権」=<代表制>、「プープル主権」=<(半)直接制>のごとく理解されているようだ。
上の点よりも分かりにくいのは、「プープル主権論」について語られている中での「政治的意思決定ができる市民」という場合のそのような「市民」の意味、とりわけ国籍保持を要件としないのかどうか、だろう。ともあれ、最初から「国民」と「市民」という語が異なるものとして使い分けられていると見られる。
②日本国憲法と「ナシオン主権」・「プープル主権」―現憲法43条の「代表」という語、議員の免責特権(51条)・不逮捕特権(50条)、前文(<国民は代表者を通じて行動>-秋月)は「間接民主制」を採用しており、「ナシオン主権に適合的な規定ともいえ」る。しかし、15条の国民の公務員選定罷免権、95条・96条の「住民投票や国民投票」は「直接民主制の手続を採用」している点では「半直接制としてプープル主権に近い構造だ」。
このように混在があるが、「現代憲法として、より民主的な制度を採用しうるプープル主権の方向に解釈することが望ましい」。以上、p.60。
辻村の所論で基本的によく分からないのは、①にも出てきていたが(いわく、「ナシオン主権」論は「非民主的に機能」しうる)、「ナシオン主権」(論)よりも「プープル主権」(論)の方が「より民主的」だ、ということの理由・根拠だ。なぜ、そう言えるのか。あるいはそもそも、「より民主的」とはいかなる意味なのか。
辻村は、フランス革命期の1791年憲法よりも1793年憲法(ジャコバン憲法)の方が「より民主的」・<より進歩的>と考えていると推察される。この点の確認は別の機会に行うが、簡単には、以下に紹介するように、この本でも言及されている。
簡単にいえば「ナシオン主権」論→「代表制民主主義」・「間接民主主義」、「プープル主権」論→「(より)直接的な民主主義」というふうに整理できるだろう。このように対置した場合において、「間接民主主義」よりも「(より)直接的な民主主義」の方がより<望ましい>・より<優れている>と、なぜ論定できるのか。
いずれも<民主主義>だ。そして、「民主主義」を国民(とりあえずは人民でも市民でもよいが)にとって<よき>あるいは<幸福な>国家決定をもたらすための手段(に関する考え方の一つ)と理解する場合、「(より)直接的な民主主義」の方がより<よき>あるいはより<幸福な>決定を生じさせる、となぜ言えるのか。その保障は論理的にも現実的にも全くない。
<合理的な>国家決定という語を使ってよい。「(より)直接的な民主主義」の方が「間接民主主義」よりもつねにより<合理的な>決定をもたらす保障は全くない。より多数の者がより直接的に<参加>することと、その結果としての決定の<合理性>あるいは国民の「幸福」・「福利」との間に論理的な因果関係があるわけでは全くない。
「直接民主主義」の方が「間接民主主義」よりも<合理的>な、あるいは<正しい>決定を生じさせる、という暗黙の前提に立っているとすれば、そのこと自体の適切さをまずはきちんと論証しておいてもらわないと困る。
辻村は、「直接民主主義」の方が「間接民主主義」よりも<合理的>な、あるいは<正しい>決定を生じさせる、と単純に<思い込んでいる>(そういう考え方に取り憑かれている)だけではないのか。
むろん何が又はいずれが<合理的>な、又は<正しい>決定かという問題はある。しかし、少数意見の方が客観的に見て、あるいは「歴史的」評価の上ではより<合理的>で<正しかった>、ということはありうるはずだ。
(代表制にせよ、直接制にせよ)多数意見が現実には<通用力>を持つが、そのことと<合理性>・<正しさ>、国民の「幸福」・「福利」にとっての客観的意味とは、別の問題なのだ。<民主主義>が(あるいは<民意>が)<誤った>決定を生じさせる、ということは、論理的にも現実的にも、十分にありうる。
③外国人の参政権―現憲法上「国民」には、第一に「国籍保持者としての国民」、第二に「主権行使者としての国民」の二つの意味がある。両者は「必ずしも…一致しているわけでは」ない。
フランス1793年憲法において「主権者人民」=「市民の総体」で、この「市民」の中に「一定の外国人も含めて」いた。「国籍と切り離された市民の観念」の導入によって「主権者を国籍から離脱させることを可能とする理論的枠組みを、プープル主権論はもっていた」。
「欧州市民権」観念を創出するため、今日のフランスには1793年憲法に言及して「国籍と切り離された市民権の観念」を説明する研究もある。
「日本でも同じように、一定の外国人に参政権を認めるという要請を実現するため、この市民権観念を用いることが有効」だ。以上、p.61-62。
まず、欧州ないしフランスにおける議論が日本の外国人参政権問題にいかほど「有効」かが問われる必要があろう。すなわち、ヨーロッパという新しい次元の「国家」を作ろうとしている地域における(おそらくは従来の国家の中での)「地方参政権」の付与の何らかの理念的根拠があるとしても、それが、同じ状況にはない日本に役立つとは全く思われない。
そうだとすると、重要なのは、「主権者を国籍から離脱させることを可能とする理論的枠組みを、プープル主権論はもっていた」という辻村の理解かつ主張だ。
ここで「プープル主権論」の当否が外国人の(地方)参政権問題に関する日本国憲法の解釈論としても、あるいは憲法のもとでの立法政策論にとっても大きな意味をもつことになる(p.63の棟居発言参照)。
だが、<参政権>保有者を「国籍から離脱させることを可能とする理論的枠組み」を現憲法が、あるいはその他の種々の議論が用意しているだろうか。
辻村みよ子は「定住外国人」=「永住市民」=「永住資格保持者」を「主権者国民としての人民を構成する市民の中に加えることを可能にする『永住市民権説』という考え方」に立っている、と言う(p.62)。
「永住市民」=「永住資格保持者」も「主権者国民」(の一部)だと主張しているわけだ。
上のような主張・考え方の背景には、フランスの(ジャコバン独裁開始期の、施行されなかった1793年憲法が謳った)「プープル主権論」があることを十分に銘記しておく必要がある。
ナシオン主権
一 憲法学上に、「国民主権」や立法議会(議員)の地位・性格にかかわって、「ナシオン(国民)主権」論と「プープル(人民)主権」論の対立があるようだ。
八木秀次・日本国憲法とは何か(PHP新書、2003)も上の対立に言及し、この対立・分類は「フランス革命のときに生れた」などと書いている(p.50)。
だが、この二つの意味に関する八木の理解は適切なのだろうか。あるいは少なくとも、現在の日本の憲法学上の一般的・常識的なものなのだろうか。
第一に、八木は、「ナシオン=国民主権」(「狭義の国民主権」)論における「国民」を「歴史的な総国民」と説明し、この意味での「国民主権と君主制は…両立する」と書く(p.48~49)。
この、「狭義の国民主権」における「国民」の説明、「君主制」との関係の説明は、どうも一般的・常識的ではないような気がする。
上の点にもかかわるだろうが、第二に、八木は、日本の「現在の憲法学の主流は…『プープル主権』『人民主権』に立っています」と書く(p.50)。
「プープル(人民)主権」論からは「直接民主制が要請され」るとの説明(p.50)は妥当だとして、しかし、その「プープル(人民)主権」論が「憲法学の主流」だという認識が妥当であるかは、疑わしく思っている。
二 浦部法穂=棟居快行=市川正人編・いま、憲法学を問う(日本評論社、2001)という本があり、その中で、棟居快行(現・大阪大学)と「プープル(人民)主権」論者らしい辻村みよ子(現・東北大学)が「主権論の現代的課題」というテーマで対談している。
棟居快行によると、辻村みよ子は「杉原泰雄教授のブープル主権(人民主権)論を継承されると共に、その具体的な実現のコンセプトとして…『市民主権』を提唱されて」いる(p.56)。
辻村みよ子はその杉原泰雄の指導を一橋大学で受けたようだ。マルクス主義憲法学者・杉原泰雄についてはその本の一つの一部をこの欄で紹介・言及したことがある。
その点はともかく、八木秀次の叙述との関係でいうと、棟居快行は「…ナシオン主権論が有力なわけですが…」と明言し(p.56)、辻村も、「ナシオン主権の解釈が通説を占めるなかで…」と発言している(p.60)。いずれも、(日本の少なくとも2001年頃の)憲法学界の「有力」説又は「通説」は、「プープル(人民)主権」論ではなく、「ナシオン(国民)主権」論だと述べているわけだ。
これら二人の認識は八木秀次とは異なる。はたして、八木秀次の日本の現在又は近年の憲法学説理解は適切なのか。
また、フランス革命期の憲法・人権学説に関する研究書もある辻村みよ子と八木秀次では、「ナシオン(国民)主権」という場合の「国民」の理解も異なるようだ。
すなわち、八木によると「国民」は「歴史的な総国民」で「国民主権と君主制は…両立する」らしいが、辻村はそんなことを書いてはおらず、「ナシオン(国民)主権」における「国民」は「…全国籍保持者」で、「国籍保持者の全体」なのか「有権者」団なのかという論点は残っている、という(p.58)。八木の「歴史的な総国民」という理解・説明とは大違いだ。
三 辻村みよ子の所論、とくにその「プープル(人民)主権」論・「市民」主権論・直接民主制論を支持するために書いているわけではない。むしろ、これへの批判的なコメントを今後書くだろう。
指摘しておきたいのは、八木秀次の日本国憲法論あるいは実際の日本の憲法学説の理解には、どうも正しくないところがあるということだ。
また、些細な揚げ足取りの可能性もあるが(一方で重要な指摘の可能性もあるだろう)、例えば、八木秀次が「日本国憲法が政治哲学でいえば自由主義と民主主義に立脚」しているのは「評価」すべきだと肯定的に論及する(p.38)一方で、「日本国憲法が社会契約説に立脚していることを問題に」する改憲論に肯定的・好意的に言及する(p.47-)のは、矛盾していないだろうか。
ともあれ、<保守>派の現役の憲法学者は数少ないので、<保守>派の人々は憲法論については八木秀次の本を参照することが多いかもしれない。しかし、この人の書いていることを無条件に信用・信頼してはいけない。上に書いたことはその一例だ。
もともと、きちんとした憲法研究者ならば、高崎経済大学という法学部のない大学に所属しているのは奇妙なのではないか。いや、それは、<保守>派だから冷遇されているのだと八木は反論又は釈明するだろうか。
私にとっては、八木秀次とは憲法(思想)研究者・憲法学者というよりも、<保守>派の「活動(運動)家」・「評論家」のイメージの方がとっくに強い。だが、一般論として言うのだが、専門分野(または「得意」分野)できちんと(それなりに高く)評価されていない者は、すぐれた「評論家」にはなれない(ならない)のではないか。
辻村はフランス革命期の分析をふまえて近代以降の主権論にも<ナシオン(国民)主権>と<プープル(人民)主権>があるとする論者で著名らしい(詳しくは知らない)。前者についてこう説明する。
「ナシオン主権論は、歴史上、もともとフランス革命時に一握りのブルジョアジーが権力を独占するために抽象的・観念的な建前としての全国籍保持者を主権主体としつつ、実際には自分たちだけが国民代表となって主権を行使するために構築した理論です」(p.58)。
ほう、<ナシオン(国民)主権>とは歴史的限界のある理論なのかという気がするが、それにしても、「一握りのブルジョアジー」などというマルクス主義的言葉をいとも簡単に使えるのはこの人らしいのだろう。また、ここで言っている趣旨は、この人の指導教授らしい杉原泰雄の1971年の本にも書いてあった。
そのあと「プープル(人民)主権」の説明もあり、日本国憲法は「両者に適合的な規定の両方が混在している」とする。
だが、基本的な疑問は、日本の<主権>構造あるいは<代表制>のありようを、なぜフランスでの概念を使って説明する必要があるのか、だ。欧米諸国の全て又は殆どが上記の二種の主権概念を知っており、それらを使って議論しているのならは別だが、フランスだけだとしたら、何故日本の問題をフランスの議論を使って説明する必要があるのか。この人に限らないだろうし、憲法学/法学にも限らないだろうが、外国の法制又は法理論によって日本のことを説明したり議論するのはもうやめた方がよいのではないか。
もともと、上の二つの区別は、私には、<間接民主主義>と<直接民主主義>という語を使って説明し議論もできるように感じる。
次の叙述も私にはきわめて疑問だ。
日本国憲法を「どちらの方向に解釈してゆくのか、という解釈論の問題」については、「現代憲法として、より民主的な制度を採用しうるプープル主権の方向に解釈することが望ましいと考えます」(p.60)。
杉原泰雄の国民主権の研究(1971)でも<人民主権>は「民衆」、<国民主権>は「ブルジョアジー」という対置があり、前者がより<進歩的>に理解されていたと思うが、この点でも、辻村は指導教授を継承しているようだ。
基本的な問題は、なぜ、「プープル主権の方向」の方が「より民主的な制度を採用しうる」のか、だ。これは間接民主主義よりも直接民主主義の方が「より民主的」と言っているに等しい。第一に、そもそも「民主的」ということの意味に関係するが、なぜ、このように簡単に言えるのか。
第二に、かりに間接民主主義よりも直接民主主義の方が「より民主的」だと言えるとしても、そのことのゆえに直接民主主義の方が制度として<より優れている>と、なぜ言えるのか。<民主的>であればあるほど<より優れて>いるなどというのは、ただの<思い込み>ではないのか。
こんなふうに「プープル(人民)主権」を私が警戒するのも、その淵源がルソーにある、「人民」の名による(「人民民主主義」の下での)圧制・専制政治を実際の歴史は経験しているからだ。
辻村の憲法教科書は序章で特段の定義も説明も限定もなく「平和憲法」という語を登場させていることに気づいたくらいで、未読のままだ。また、岩波ブックレット・有事法制と憲法(2002)計54頁のうち32頁を執筆して「有事法制」批判をしているのは知っているが、これもまだ読んでいない。
<憲法再生フォーラム>の会員(少なくとも2001年時点)であることも含めて見れば、辻村が相当に固い九条護持論者であることは容易にわかる。
さらには、おそらくは浦部法穂と同様に、あるいは少なくともかつての杉原泰雄と同様に、日本における「民主主義」の徹底→<社会主義革命>という歴史的推移を予想していたマルクス主義者又はマルクス主義シンパではなかろうか。この人が説いているという「市民主権」論の内容とともに、そのような徴表・痕跡がないかどうかにも関心をもって、辻村みよ子の文献を今後読んでみたい。
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