秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

ドレスデン

2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第一章の試訳のつづき。
 ——
 第一章 ④。
 (38) 二人の赤帽を連れてくるため駅へ行ったとき、まだ暗かった。
 我々は沢山の荷物を持って、一定の地位のある外国人用に作られたような一等車両で旅行した。
 制服を着たドイツ人で、駅は混んでいた。
 安全を期して、父親はBreslauまでは同伴してほしいと、領事X氏を説得していた。そこからミュンヘン経由でローマへ行くことになっていた。
 母親の兄弟の一人のMax が、別れを告げるために駅まで来た。彼は、残すほかに選択の余地がなかったココ(Coco)を抱えた。
 我々の小犬はキャンキャン鳴いて、革紐を引っ張った。
 列車が動いたとき、彼女は革紐を食いちぎって自由になり、踏み段に跳び上がって、真っ直ぐに私の腕の中に飛び込んで来た。
 私は放そうとしなかった。
 内部では、彼女は座席の下に小さく縮こまり、旅行の間ずっとそこにいた。まるで列車に乗る資格がないと言われ、面倒を起こしたくないかのごとくだった。
 10年後に死ぬまで、彼女は我々と一緒にすごした。//
 (39) 我々の区画(compartment)には、制服姿のドイツ人の医師、軍曹と上着に鉤十字をピン留めした屈強そうな女性がいた。
 医師は私を会話に引き込んだ。私がラテン・アメリカ出身だと聞くと、スペインのオレンジはアメリカのものより旨い(いや、別だったか?)、Radio City Roketts は素晴らしい、ポーランドの庭師を連れて帰るよう息子に頼まれた、とか言い、くすくす笑いながら、ポーランドの「悪臭たれ」だからその男が家に入るのは許さない、と付け加えた。
 軍曹は脂抜けした肩掛け鞄から横目で見て、肥えた男をさえぎった。そして、黙り込んだ。
 隣に座っていた母親が、ときおり私の足をやさしく蹴って、面倒なことに巻き込まれないよう警告した。
 彼女が休憩所へ行こうとしたとき、ドイツの一兵士が通路に立っていて、明らかに人種意識から、列車に乗れたのは幸運だと言いながら、行く手を妨害した。//
 (40) ポーランドはドイツに征圧されていたので、二つの国の国境はなく、困難なく我々はBreslau に到着した。
 我々への疑念を逸らすために、父親は市内の最良のホテルの一つを選んでいた。<四季(Vier Jahreszeiten)>という名で、鉄道駅に近接していた。
 荷物を下し、洗顔したあとで、私は街なかに入り、数冊の本を買った。
 市の清潔さと賑やかさに驚いた。
 我々は夕方に、二階にある優雅なホテル・レストランを訪れた。そこは制服を脱いだ将校たちと着飾った女性たちでいっぱいだった。
 我々はローストがもを注文した。
 ウェイターが慇懃に、肉のクーポンを持っているかと尋ねた。
 持っていなかった。彼は翌日に手に入れる方法を助言してくれた。//
 (41) 私は60年後に、Polonia と改称されたそのホテルを再び訪れた。
 三つ星の宿泊設備を提供していた。
 だが、記憶に朧げに残っているのは4分の1くらいだったけれども、二階の食堂がまだあった。//
 (42) 10月29日日曜日にミュンヘンに向かって出立する前、我々は二晩をBreslau ですごした。
 ミュンヘンまでと、そこからローマまでの切符を購入するドイツの金を、父親は所持していなかった。
 父親は実直そうな顔の将校を探して、駅を歩き回った。
 これは危険な活動だった。
 父親は一人に狙いを定め、—どんな口実だったか私は知らないが—持っているポーランドのzlotys をドイツ・マルクと交換してくれないかと頼んだ。ポーランドから帰ってくるドイツ軍属にはその資格があった。
 その将校は、応じてくれた。//
 (43) Dresden 経由でミュンヘンまで旅行し、午後にそこに到着した。
 ローマ行きの夜行列車に乗り込むまで、数時間待った。
 その時間をミュンヘンの大きな美術館、アルテ・ピナコークに行ってすごそうと、私は決めた。
 面倒なことはしないと約束して、両親の反対を無視した。
 鉄道駅からKalorinenplatz(カロリーネン広場)まで歩いた。そこには当時、総統のために騒乱で倒れたナツィの殺し屋どもの霊廟があった。衛兵が監視しながら立っていて、広場全体が鉤十字の旗で飾られていた。
 ピナコークまでの距離は1キロもなかった。まもなく東入口に着いた。
 階段の頂部には、制服姿のナツィが立っていた。/
 「これはピナコテークへの入口ですか?」と私は尋ねた。
 「ピナコテークは閉まっている。きみは戦争中なのを知らないのか?」//
 (44) 私は駅に戻った。
 母親はのちに、万が一のときのため、慎重に隠れて私の後をつけていた、と語った。
 私は1951年に、このルートを再び歩いた、そして、ナツィがもうおらず、私はいることに、大きな満足を感じた。//
 (45) Innsbruck に夕方に着いた。そこは接続駅で、イタリアとの国境として機能していた。
 一人のGestapo 将校が、旅券を集めるため入ってきた、—そのとき座っていたのは我々だけだった。
 我々には三人用の一つの旅券だけがあった。
 彼は、もう一度現れて、ドイツを離れてよいとのGestapo の許可がないからイタリアには進めない、と言った。/
 「我々は何をしなければならないのか」と、父親が質問した。
 「あなたたちはベルリンへ行かなければならない。そこで、あなたたちの大使館が必要な書類を入手してくれるだろう」。この言葉を残して彼は敬礼をし、旅券を返却した。//
 (46) 我々は荷物を列車から降ろして、ホームに積み上げた。
 父親はどこかに姿を消し、母親と私はすべなく立っていた。周りには若いドイツ人やオーストリア人がいて、肩にスキー板を乗せて陽気に喋っていた。
 突然に父親が戻ってきた。
 荷物を列車の中に戻すよう、彼は言った。
 列車がまさに出発しそうだったので、我々は大急ぎでそうした。
 Gestapo 将校が再び現れたとき、鞄類をかろうじて元の区画に置いたばかりだった。/
 「列車から出るようあなたたちに求めた」と、彼はいかめしく言った。
 しかし、彼は小男で、ひどく脅かすという響きはなかった。//
 (47) 父親にはドイツ語は母語で(彼は若い頃ウィーンですごした)、スペイン語を話す南米人を演じるために、文法と発音のいずれについてもドイツ語に関して最善を尽くした。
 (実際には、我々全員がスペイン語を一語も話せなかった。)
 父親は、Innsbruck 駅長に逢って、できる限り早く母国に帰る必要がある、と告げた、と説明した。
 駅長はたぶん呑気なオーストリア人で、この事案に何の権限もなかったが、父親の言ったことを聞いて、「von mir aus」のようなことを言った。
 これは大まかに翻訳すると、「私に関係するかぎり」またはたぶん口語表現では「私に関係がないから(どうぞ)」—「気にする範囲内で」を意味する。//
 (48) Gestapo の男は旅券の提出を要求し、そして去った。
 列車はこのときまでにゆっくりと動いて、約25マイル先にある、イタリア国境のBrennero へ向かっていた。
 窓を通して、巨大なアルプスが迫ってきた。
 我々の生命にとって、これが最も危機的なときだった。なぜなら、Brennero で列車から降ろされ、ベルリンまで行くことを強いられていたなら、確実に殺されていただろうから。「我々の」在ベルリン大使館は、我々が持つ旅券は無効だとすぐに判断し、我々をドイツに引き渡すに違いなかっただろう。//
 (49) どのくらい長く決定を待つ必要があったか、憶えていない。
 数分だっただろうが、耐え難く時間が延びているように感じた。
 Gestapo の男が、国境に到達する前に戻ってきた。
 そして、彼は言った。「あなたたちは、一つの条件付きで、進行することができる」。
 「どんな条件ですか?」と父親が尋ねた。
 「ドイツに帰ってこない、ということだ」。
 「〈ああ、そうしない!〉(Aber NEIN !)」と、父親はほとんど叫ぶように反応した。まるで、ドイツにもう一度足を踏み入れると少しでも思うと恐怖で充たされるかのごとくに。
 (50) ドイツ人は我々に旅券を手渡し、離れた。
 母親の顔は涙で溢れた。
 父親は私に、一本のタバコをくれた。初めてのことだった。
 (51) 朝早くに、Brennero に着いた。少し停車している間に、我々は新鮮なサンドウィッチを買った。
 太陽がまぶしく輝いた。
 10月30日月曜日の正午すぐ前に、ローマに到着した。
 (52) 我々は、救われた。
 ——
 第一章・戦争(原書p.1-p.14.)、終わり。


 000Pipes

2186/レフとスヴェトラーナ-第2章②。

 レフとスヴェトラーナ。
 これはフィクションまたは「小説」ではない。
 ---
 第2章②。
 (15) オーシャッツの生活条件は、その冬に劇的に悪くなった。
 労働時間は増えたし、監視員が疲れ果てた収監者をもっと労働させて搾り取るために、鞭打ちを行った。
 1943年の1-2月には、新しい捕虜の一群が労働旅団に入って来た。
 彼らの多くはウクライナ出身だった。ウクライナでは、1930年代のテロルと飢饉によってソヴィエト制度から多くの民衆が離れていて、このときはドイツ軍が占領していた。
 彼らが到着したすぐ後で、収容所体制が柔軟になった。それは、捕虜たちから募って、A・ウラソフ(Andrei Vlasov)が組織している反ソヴィエトのロシア解放軍に加入させようとするドイツ軍の努力の一つだった。
 ウラソフは、赤軍の前の将軍だったが、1942年7月にドイツ軍に捕らえられ、ナツィスに対して、自分を解放運動の長に任命するよう説得した。共産主義体制を一掃することを目指してのことだ。
 ウラソフがオーシャッツで募った者たちのグループがあり、そのほとんどは戦前の「明確ではないがドイツ製のではない制服を着ている」ロシア人エミグレだった。そうレフは思い出した。また、彼らは多数ではない、ソヴィエトの青年将校たちだった。
 その将校たちはロシア解放軍に入っていた。但し、主としては捕虜強制収容所の恐るべき条件から逃れるためにそうしたようにレフには思えた。というのは、その収容所で、ソヴィエトの収監者たちは「きわめて苛酷に扱われ、他のどの国の収監者よりも自己防衛の権利または手段を持たなかった」。//
 (16) レフは何度も呼び出されて、ドイツ軍とウラソフ募兵員から、ロシア解放軍に将校として加わるよう圧力を受けた。
 そのたびごとに、レフは拒絶した。
 ドイツは彼を疑うようになった。
 彼らはレフに、HASAG 収容所での通訳としての活動について尋ね始めた。
 こうした尋問の一つがあったときのタバコ休憩の間に、ドイツ人用の通訳者がレフを廊下の端まで連れて行って、ウラソフの徴兵の失敗はレフに責任があるとドイツ側は考えている、と警告した。
 収容所内のレフの作業チームは、その中で一人すらもウラソフ軍に応募しないチームだった。その作業チームの唯一のソヴィエト将校だったレフに、疑いが向けられていた。//
 (17) レフは、逃亡する必要がある、と認識した。
 旅団の中の他の三人の収監者も、同じことを考えた。
 彼らは、〔1943年〕6月に企てを実行することに決めた。そのときには収穫物は大きくなっていて、150キロ離れたポーランドへの行路で食糧を恵んでくれるだろう。ポーランドでは、その民衆たちが彼らに同情して、食糧をくれるだろう。
 彼らの計画は、ベラルーシにいるソヴィエト・パルチザンに合流することだった。
 準備のために、彼らは、乾パンと砂糖を節約して貯めた。
 レフはコンパスを作り、ドイツ監視員の一人から借りた地図を写し取った。そのドイツ人は自分の家族についてレフに話したり、週末にどこへ行ったかを語るのが好きだった。
 彼らは何とかして、薬すらも手に入れた。レフが注意深く自分の指を切り、ロシア人捕虜の医師がいる収容所の診療室に送った。
 その医師は何も訊かないで、消毒薬、アスピリンとバンドエイドが欲しいというレフの求めに応じた。//
 (18) レフたちは、1943年6月22日の夜に逃亡した。その日は、ドイツによる侵攻二周年の日だった。
 外衣をすでに少しは脱いで、彼らは兵舎の窓から上に昇り、中庭の壁を目測した。そして、頂上部の有刺鉄線を、レフが作業場で作った二つの尖った金属片を使って通り抜けた。
 収容所の外の野原に飛び降りて、暗闇の中を森へと走り込んだ。
 四人は、北に向かった。ドイツ軍は先ず東の方を探索するだろうと想定したからだ。
 夜は歩き、日中は隠れた。
 彼らがもつ地図は、きわめて粗いものだった。-写し取った原図は小学校の教科書に掲載のものだった。そのために、道路標識を手がかりにして進まなければならなかった。
 エルベ河に到達したとき、レフが泳いで横切るのをひどく怖がったので、河に沿って東に向かった。そして、ドレスデンの南を回って、ポーランドへと東に歩き続けた。
 レフは思い出す。
 「乾燥させた食べ物を持ってはいた。だがすぐに、それを予備に残して、農家の屋外の小屋から盗んで食べることに決めた。<中略>
 間違っていると私は最初は思ったが、それに同意した。」
 途上の三週間後に、ポーランド国境のゲルリッツ(Görlitz)の近くで、二人のドイツ兵に見つかった。
 自転車で自分たちに向かってくる兵士たちに気づき、銃砲を携帯しているだろうと想定して、彼らは、溝の中に逃げ込んだ。しかし、その兵士たちはそこで、光を照らして探そうとした。
 「我々の旅の馬鹿げた終わりだった。兵士たちは、武装すらしていなかった。」//
 (19) レフは何も分かっていなかった。ポーランドに着いたら、あるいはドイツの戦線を越えたら、そしてモスクワまでたどり着いたとしたら、いったいどうなるのだろうか。
 ソヴィエト同盟の状況について、あるいはスヴェータとその家族にもう一度逢う機会について、彼には現実的な考えがなかった。
 最初に捕まった瞬間から、ロシアから信頼できる情報を得る手段がなかった。
 オーシャッツでは、収監者にペンと用紙がドイツ軍によって与えられたが、ドイツが占領している地域の者たちにだけ手紙を書くことができた。
 レフは一度、行方不明になった収監者仲間の妻がいるプラハに手紙を出して、その夫である彼についての報せがあるかを尋ねた。
 その妻はレフに返事を書いてきて、小包すら送ってきたが、自分の夫の運命については自分よりもレフの方がよく知っていそうだ、と告げた。//
 ++
 (20) スヴェータもまた、暗闇の中にいた。
 1941年9月の末にレフがモスクワを去った後、彼に関する知らせは何も受け取っていなかった。
 そのとき、何もかもが、不確かだった。
 モスクワは生き残れるのかどうか、誰にも分からなかった。
 モスクワは、7月以降のドイツ空軍の爆撃で大きな被害を受けていた。
 一日に頻繁に、サイレンが鳴り響いた。
 発電所が攻撃され、アパート地区には熱や光がなくなった。燃えるビルだけが、夜空を照らしていた。
 人々は、地下の防空壕で生活した。
 膨大な数の人々が、死んだ。
 10月1日、スターリンは、政府をヴォルガのクイビシェフ(Kuibyshev)〔=サマラ〕に避難させることを命じた。
 市内への爆撃が激しくなるにつれて、パニックが広がった。
 全ての店に、巨大な人の列ができた。食糧をめぐって喧嘩が発生し、略奪が増えた。大量に逮捕しても、ほとんど統制することができなかった。
 ドイツ軍がヴャジマ〔Viazma〕を突破したとの報せが、10月16日に、ついにモスクワに届いた。
 どの鉄道駅でも、東に向かう列車に乗り込もうと競い合う群衆による、醜い光景が見られた。
 人々は、工場や共産党の幹部たちがすでに去ってしまっていることを知って、彼らを呪った。
 どの家族も、荷物を詰め込んで、利用できる手段を何でも使って、モスクワから外へ出た。
 タクシー運転手は、モスクワからカザンまでの料金として2万ルーブルを請求した。//
 (21) モスクワ大学は、10月に避難した。
 スヴェータは、家族と一緒に旅をした。
 列車に乗っていた学生たちの中に、のちのノーベル賞受賞者、A・サハロフ(Andrei Sakharov)がいた。サハロフは、レフやスヴェータの一年後に同じ学部に入学したのだったが、スヴェータは休学していたので、このときは同じ学年だった。
 彼らが最初に停車したのは、モスクワ東方300キロの古い地方都市、ムロム(Murom)だった。ここにサハロフはその母親と娘とともに滞在し、戦時中の混乱を有益なことに利用した。昼間には娘が、働いている店から砂糖を盗み、夜間には母親が、「一つなぎの兵士たちを」愉しませた。
 その市街は、東方への避難を待っている負傷兵たちで溢れていた。
 多くの兵士が駅のホールで担架の上に横たわり、鉄道路線そばの雪の中にいる者すらいた。
 近隣の村落から来た女性たちが、食べ物やタバコを売っていた。
 また別の女性たちは、息子や夫たちを探していた。そして、行方を知っているかもしれないと負傷兵に尋ねたり、病院で誰かが遭遇するかもしれない場合にと手紙を渡したりしていた。//
 (22) 学生たちはムロムからウラルまでは東へと旅をしつづけ、そして、南へと凍ったカザフ高原を縦断して、アシュハバート(Ashkhabad)に向かった。この都市はトゥルクメン共和国の埃っぽい首都で、ソヴィエトとイランの国境から大して遠くなかった。
 ここで、モスクワ大学物理学部は、その機能を再開することになる。
 旅行には、一ヶ月を要した。
 列車の各車両には一台のストーブと40人用の寝台があった。サハロフは各車両について、こう思い出している。
 「指導者、話し好きと寡黙な者、パニック煽り立て屋、敏腕家、大食漢、怠け者と勤勉家、そうした者たちがいる、別々の共同体になった」。
 スヴェータは、静かで勤勉な者の一人だったに違いない。
 アシュハバートで12月に始まった講義では、スヴェータは、戦争前の学習中断を埋め合わせるべく、懸命に勉強する必要があった。
 彼女は化学と振動物理学のクラスに出席した。これは実習のないむつかしい理論的な科目だったので、長時間を図書館に入り浸りで過ごした。
 彼女はまた、自分と両親の生活を支えるために、カフェテリアの皿洗いとして働いた。
 その冬とそれに続く春に多くのことがあったため、スヴェータは当時の中央アジアに共通する病気であるマラリアに罹患した。
 のちにスヴェータは、こう書いた。
 「疲れすぎて、飲むことすらむつかしい。
 高熱と闘って、消耗して、『完全に僻んだ』」。
 彼女は生きるべく藻掻いた。そして、何とか切り抜けた。
 (23) 卒業してのち、スヴェータは、軍用品人民委員部に配属された。
 しかし、彼女の父親の助力で、当時は化学合成以外でも活動していたが、スヴェルドロフスク近くのフロムニク(Khromnik)にあった合成樹脂産業科学研究所へと移った。スヴェータは1942年8月から、工業物理学者として「物理機械的検査実験室」に勤務した。
 この研究所は一日11時間活動しており、彼女は最初は自分のすることを見つける必要がある、と感じた。つぎのように書いたとおりだ。
 「不思議で馴染みのない実験室にいた。何から始めればよいか、どこに落ち着けばよいか、分からなかった。
 機械が怖かったし、ゴムについては何も知らなかった。
 それで図書館へと逃げた。<中略>
 私は図書館でロシアの論文や報告書を読んで一日の半分を過ごし、あとの半分は英語に取り組んだ。
 英会話クラブに入った。アシュハバートで英語を勉強したのではなかったけれども。
 総じては、気持ちがとても高揚した時期だった。
 アシュハバートの煙霧、アフガンの風のあとで、沙漠から粉塵のように細かい砂粒が吹いてきた。
 8月には、黄金の秋の予兆が全くないままに、葉っぱが落ちた。
 ウラルは地上の楽園のように思えた。-松の木、樺の木、キノコ、雨。
 世界じゅうの人々と、手紙をやりとりした。<中略>
 毎日2-3通の手紙を受け取った。そして、まもなく家に戻れると知った。」
 (24) 研究所はすでに、モスクワに帰る準備をしていた。モスクワでは、ソヴェト軍の反攻のあとで、ドイツ軍の脅威はもう過ぎ去っていた。
 赤軍が切実に必要としていたのは、タイヤ産業を支援するための、研究所の専門研究者だった。
 1943年1月頃に、スヴェータは家に戻った。
 学生としてレフとスヴェータが知っていた市街の多くは、戦争で破壊されるか損傷していた。
 ビルの多数が暖房のないままで残り、電力不足が原因で光は暗くなったり、しばしば完全に消えたりした。下水管は漏れており、食料店は空だった。
 スヴェータはのちに書くことになる。
 「我々はみな寒くて、飢えており、暗闇の中で生きていた」。//
 (25) 1942年4月に、スヴェータの両親は妹のターニャとともにモスクワに帰っていた。
 両親は、明らかに年老いていた。
 アナスタシアはしばしばブルセラ病に罹り、痛みを伴う胃腸病が彼女を消耗させた。そして、アレクサンドルは60歳のときに、急に衰えていく兆候を見せた。
 スヴェータが帰ったとき、彼らが神経質であるのに気づいた。
 両親には心配することが多数あった。スヴェータの兄は前線に行ったのだったが、それ以来彼からは連絡がなかった(彼はドイツ軍に捕らえられ、バルト海のウゼドーム島の強制収容所に収監されていた)。一方で妹のターニャは、1942年9月に学生「義勇兵」としてスターリングラードへと赴かされていた。
 アレクサンドルの弟のイノケンティ(「ケーシャ叔父さん」)とその妻が、両親の厄介になっていた。このレニングラードの二人は、戦争が始まって以降はモスクワにいて、1943年にレニングラードの包囲が解かれるまでは家に戻ろうとはしなかったのだ。
 ----
 ③につづく。

1616/社会主義・ドレスデン-若き日の。

 私的に喋ったことはあるが、文章で記したことはない。今のうちに書き残しておこう。
 1989年ベルリンの壁崩壊(開放)以前の旧東ドイツ。ドイツ民主共和国と日本で称された国家がかつてあった。その時代の、ドレスデン(Dresden)。 
 一、一人の「自由行動」のとき。
 ・たぶん強制的に国境で交換させられた東ドイツ・マルクと思っていたものが「インター・ショップ(Intershop)」の金券のようで、ふつうの店では通用しない。
 そこで銀行らしきものへ行ってふつうの東ドイツ・マルク(紙幣)に替えてもらおうと少し並んだあとで提示すると、中年から初老の係員・男性が、自分のたぶんズボンの中から紙幣を取り出して、交換してくれた。
 そのときは、何しろ言葉の問題もあり、よく分からなかった。その紙幣を使って、街の中でふつうに買い物をした。
 あとで考えると、あのオジさんは、自分の私的な金と「インター・ショップ」の金券とを替えている。「インター・ショップ」とは(いつ、きちんと理解したか怪しいが)、東ドイツから見ての外国人専用の店だ(少し割高なのだろうが、販売されている品物の種類が少なかった、と思う)。
 つまり、「インター・ショップ」で、外国人しか買えない商品を、彼は購入したかったのだ、と思われる。
 だから、おそらく、たまたま東洋人が交換するために来たのを好機に、個人の金と交換したのだ。きっと、職務違反だったのではないか。
 ・その金・紙幣を持って、入った一つが書籍店だった。
 ①ドレスデンの市街地図、②国家または共産党(社会主義統一党)発行の本を数冊、などを買った。
 ①は、勝手に持ち出してよいのか、とたぶん在東独中にすでに懸念した。しかし、出るときには入るときのような厳密な検査はなく、問題はなかった。しばらく日本でも持っていたが、のちに結果として再訪するときには、もう見失っていた。
 その地図には、たぶん、宿泊場所も自分でマークしていたように思うが、再訪時以降ずっと、いったいどの辺りに泊まったのか分からなくなった。
 個室の寝室と建物の印象だけは、少し記憶がある。
 ②は、たぶん今でも持っている。現在は古書でも入手し難いだろう、東独共産党の綱領を説明したような小冊子もある。あとは、かつての仕事に関係がある書物。紙質が、当時の西ドイツのものと比べて、はるかに悪い。
 ・帰りのバスの発車時刻・場所に早く行って立って待っていると、小ぎれいな少年がまとわりついて何か言うので、ゆっくり聞いてみると、「その腕時計を僕にプレゼントしてくれないか?」だった。
 プレゼントとは正確には、schenken で<贈る>というような意味だ。
 「くれないか?」、geben では失礼だと思ったのだろうか。
 年齢を訊くと、11歳だと答えた(数字なので、簡単に聴き取れる)。
 日本について何か知っている?、と尋ねると、答えは短くて、ほとんど「産業(・工業)」という言葉だった、と思う(たぶん)。Industrie, industry だ。
 使用中の腕時計を渡すわけにはいかないので、どうしようかと思っていると、ふと使い残しの<東ドイツ・マルク紙幣>があるのに気づいて、キリのよいところで数枚か、または紙幣全部かを与えた。西独で通用するはずはないので、記念にでも持って帰ろうと思っていたのだろう。
 腕時計の価格よりはだいぶ少ないが(おそらく)、彼にはきっと大きな臨時収入だっただろう。
 その場所も、今ではすっかり忘れてしまった。塀か建物に囲まれた広い敷地内を十台未満の、灰色の自動車が走っているのが見えた。あとで西独か日本で、<トラバンテ>という名前だと知った。その特定の種類の同じ型の車しか見なかった。
 二、つぎに、そのとき知り合った別の日本人一人(男性。以下、『彼』)と二人だけで「自由」に行動したとき。
 ・年長の彼は、はるかにドイツ語が流暢だった。
 二人でどこへ行こうかと迷っていたときに(私はたぶんほとんど彼に任せていた)、地図か何かを見たあとで、彼が、今思うとドレスデン中央駅の旅行案内所のような場所だったが、係の女性に尋ねた。
 「カール・マルクス・シュタット。これ、いい響きたけど、どう?」
 「シュタット」とは市・都市のことだ。その当時、じつに感慨深く思いもするが、「カール・マルクス・シュタット」という都市が、ドレスデンの西南方にぁった。今の、ケムニッツ(Chemnitz)だ<ツヴィカウ,Zwickau と書いていたのは誤りー後記>。
 彼の「いい響きだ」とは、たぶん単純に、klingt gut だった。
 褒められるとふつうは嬉しく思うようにも思うが(?)、こうして記憶に残っているのは、何とも不思議な、どう反応してよいか分からないふうの表情を、相手の東独女性がしたからだ。
 東洋人に「カール・マルクス」市って、よい響きだね(、行ってみる価値がある?)」と言われて、戸惑うのも理解できるような気もする。
 なお、余計かもしれないが、「彼」 はマルクス主義者でではない(はずだ)。しかし、カール・マルクスの名とそれが持つ東ドイツにとっての意味くらいは知っていたことになる。そして、東ドイツの真ん中で<カール・マルクス>市って<いい響き>の名だと東独の人に言うのは、かなりの勇気と根性のある人だったのではないかと、少しは面白く思い出す。彼は現在の私よりは、はるかに若かった。  
 ・ライプツィヒ(Leipzig)まで1時間くらい鉄道に乗って行った。彼と一緒だからこそ乗れて、行けた。
 西独は当時「ドイツ連邦鉄道」だったが、東独は「ドイツ・ライヒ鉄道」。「ライヒ」はつうは「帝国」と訳すのだが、東独が「帝国」というのは奇妙だろう。ドイツの現在は同じDBでも、民営化(または半民営化)されて、「ドイツ鉄道」になった。
 余計だが、ワイマール憲法は、正式には、「1919年…のドイツ・ライヒ憲法(Reichsverfassung)」という。
 ライプツィヒ中央駅からたぶん歩いて、バッハゆかりの教会まで行った。中に入った記憶はないが、近くの建物の地下にある、喫茶店かレストランに入って、喫茶したか、軽食を摂った。
 駅までの帰り途中で、屋外に作った長い幅広の廊下のごときものの上で、若い女性が(数人だったか)歩き回っていた。彼はすぐに分かったようで、彼によると、西独または外国から来たファッション・モデルで、本来は衣服の宣伝の催しのようだった。長居しなかったのは、ドレスデンまで帰る必要があったからだろう。
 ・途中で降りて、マイセン(Meissen)にも寄った。
 市役所か大きな建物の上の方の壁に、きっと彼が訳してくれたのだが、こう書いてあった(ようだ)。字数はもっと長かった気もする。
 「我々を解放してくれた、ソヴェト・赤軍に感謝する!!」。何と。
 夕食にしようと長い行列にくっついて待っていたが、なかなか順番にならない。いいかげんに疲れてきたところで、彼が「ダメだ、無視されている」とか言って、そこで食事にするのは諦めた。では、どこで食事したのだろうと思うが、記憶がない。
 ・明らかにもう一度鉄道に乗って(だが、記憶がない)、ドレスデンまで帰ってきた。
 と言っても中央駅ではなく、ベルリン寄りの一つ北の駅で降りた。エルベ川よりも北。
 直訳すると「ドレスデン・新都市」駅になる。新都市=Neustadt 。大阪、横浜に対する「新大阪」、「新横浜」といったところか。全く同じような位置関係・雰囲気でもないが。
 その駅を出て、休憩しようと、休憩・待合室に入った。広いホールのようだった。
 そこで、最も記憶に残る経験をした。
 座って、彼が「自動的に」タバコを取り出して吸おうとライターで火をつけようとした瞬間、前に座っていた(4人または6人掛けの大きな古い木テーブルだった)東独男性の1人が、<ダメ>と言った。さらに、<警察(Polizei)>という語も分かった。
 要するに、その部屋は禁煙で、喫煙などはもっての外、見つかると<警察>がくるぞ!、あるいは<警察>が来てやられるぞ!、とか言っていたのだ。大変な目つきだった。
 彼は、<座るとつい自動的に(automatisch)>とか言って、釈明した。
 そういう光景もなのだが、それ以上に印象に残ったのは、そのホール状の休憩・待合室の<異様な>雰囲気だ。
 ホールのようと書いたが、少なくとも20ほどはテーブルがあっただろう。
 そして、ほぼ満席だった。空いている箇所を見つけて二人は座った、と思われる。
 鉄道駅の駅舎の中にあったのだからきっと休憩・待合室のはずなのだが、鉄道を利用する雰囲気の人々では全くなかった。おそらく全員が男性、しかもほぼ40-55歳の中年男性だった。
 そういう人たちが、時間的には自宅で夕食を摂る直前の時間帯だっただろうか、何をするでも、何かを隣席の者と陽気に話すのでもなく、ただぼんやりと、じっと座って、何かを考えているふうだった。
 記憶に残るというのは、日本でも西独でも、かつ今までどの時間でもどの国・地域でも、あれだけの人数のほぼ同年代の(かつ似たような服装の)男たちが、じっとうずくまるように、あるいは疲れたふうに、気だるく、無気力でほとんど黙って座っているのを、見たことがないからだ。
 あれは一体何だったのだろうと、思い出す。
 失業中の人たちというのでもないだろう。たぶん、仕事が終わって、自宅に帰るまでの間(そういうものがあるという前提だが)、自由に(無料で)利用できる、自由に(無料で)座れる駅舎の中の広い部屋で<時間を潰して>いたのだ、と思われる。
 <社会主義・ドレスデン>というと、このイメージが強くある。
 灰色。黒に近い方の灰色。服装も、駅舎も、少しは茶系統の色が混じっていたはずだが(木製のテーブル等だったので)、そういうほぼ単色の記憶が残る。
 そこに、100人近い、少なくとも50人以上の男たちがじっと座っていた。陽気で愉しい会話らしきものは、何も聞こえなかった。
 慌ただしくそこを去って宿泊場所に戻り、かつ慌ただしく翌日には西ドイツに再びバスで戻ったはずだが、このときの記憶はずっと残り続けた。 
 --
 ドイツの再統一後、このドレスデンに合計で一週間ほど滞在するとは思ってもいなかった。
 というよりも、この経験があったからこそ、より自由に行ける時代になって、ドレスデンを再訪してみたかったのだと思われる。
 そしてまた、1992年以降に再訪したときの主な宿泊場所は、最寄りの鉄道駅が上記の「ドレスデン・新都市」駅だった。駅舎の建物自体のの大枠は変わっていないと思われた。旧時代もまた高架駅で、すぐ南に直角に下をくぐる通りがあった。
 休憩・待合室がかつてあったらしき場所も駅舎内にあった。
 だが、日本でいうコンビニ又はキオスク、花屋、等々に分割されていて、かつての雰囲気を思い出させるものは、何もなかった。しかし、同じ場所には立った。南北方向の駅舎の中央に東から入る、乗降に使う空間・通路があり、その空間と南側の一つの幹線道路らしき通りの間、つまり駅舎の南半分あたりに、かつての休憩・待合室はあった。
 夕方の賑わいぶりは、全く違う駅と街だと思わせるほどだった。しかし、駅の名前と駅舎の大枠は変わっていない。
 --
 この都市名、ドレスデンも、日本人には正確に発音しづらい。最初を強調して、レースデンと、「ド」を付けない方がむこうでは理解されやすいのではないか。
 ベルリンは当時も「西ベルリン」が「西側」諸国に開いていたので、ベルリンは訪れる機会が全くなくはないだろうと思っていた。だが、ドレスデンは、その機会に行かないとたぶん絶対にじかに見ることないだろうと当時は思っていた。
 だから、いくつかの「東ドイツ」訪問小旅行の企画のうちで、ドレスデン行きを選んだのだった。
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー