Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)②。
(08) Sverdlov は次に、翌7月19日の報道のために<Izvestiia>と<Pravda>に送る公式発表の原稿を書いた。
London の<The Times>に翻訳されて、7月22日に公表された。つぎのような記事だった。
「ソヴェト第五回大会で選出された中央執行委員会の最初の会合で、前皇帝のNicholas Romanoff の射殺に関する、Ural地方ソヴェトから直接に受け取った通信文が公にされた。
赤色Ural の首都であるEkaterinburg は最近、チェコスロヴァキア軍団の接近による脅威を受けていた。
同時期に、反革命陰謀が暴露された。武装部隊でもってソヴェトの権威から皇帝を奪い取ることを目的とする陰謀だ。
この事実にかんがみ、Ural 地方ソヴェトの幹部会は、前皇帝のNicholas Romanoff を射殺することを決定した。この決定は、7月16日に実行に移された。
Romanoff の妻と子息は、安全が保障された場所に移された。暴露された陰謀に関する文書は、特別の配達人によってモスクワに送られた。
最近に、前皇帝を裁判にかけると決定されていた。人民に対する犯罪で審判されることになっていた。だが、のちに起きたことで、この道筋を辿るのが遅れた。中央執行委員会の指導部は、Ural 地方ソヴェトがNicholas Romanoff を射殺する決定を行なうのを余儀なくした情勢を討議したあとで、次のとおり決定した。
ロシア〔全国ソヴェト〕中央執行委員会は(幹部会の者たちにおいて)、Ural 地方ソヴェトの決定を、正常なものとして受け容れる。
中央執行委員会は今では、Nicholas Romanoff 事件に関するきわめて重要な資料や文書を自由に利用することができる。最近のほとんどの日々についての彼自身の日記、妻や子どもたちの日記。彼の文通文書、中でもRomanoff とその家族に対するGregory Rasputin からの手紙。これらの資料は全て、調査され、近い将来に公にされるだろう。」
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(09) こうして、公式の伝説が生まれた。ニコライ—そして彼だけ—は、逃亡を企てたがゆえに射殺された、そして、決定はモスクワのボルシェヴィキ中央委員会によってではなく、Ural 地方ソヴェトによってなされた。
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(10) <Pravda>と<Izeves ti ia>がEkaterinburg ソヴェトの決定なるものを最初に報道した7月19日にも、直後の日々にも、Ekaterinburg ソヴェトは石の沈黙を守った。なお、7月13日に、ロマノフ家の資産を国有化する布令は発効していた。
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(11) 世界じゅうのプレスは、ボルシェヴィキの公式見解に従った物語を報道した。
<The New York Times>は、7月21日の日曜版の第一面にニュースを載せた。見出しはこうだった。
「ロシアの前皇帝、Ural ソヴェトの命令で殺さる。ニコライ、7月16日に射殺さる。チェコスロヴァキア軍が彼を奪う怖れがあったとき。妻と継承者は安泰。」
付随している追悼記事は、厚かましくも、処刑された君主は「社交的だが弱かった」と書いた。
前月のニコライの死に関する風聞への無関心さからモスクワが正しく予見していたように、世界は処刑を冷静に取り扱った。
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(12) ソヴィエトのプレスがニュースを掲載した日、Riezler は、Radek およびVorovskii と逢った。
彼はおざなりにニコライの処刑に抗議し、世界の意見は必ず非難されるだろうと言った。一方で、ドイツ政府の「ドイツの皇女たち」への関心を強調した。
もしドイツ政府が本当に皇妃とその娘たちに関心を持つならば、彼女たちは「人道主義的配慮」によってロシアを離れるのが許されるべきだ(注93)、とRadek が反応したとき、彼は高い自制心をもっていたに違いなかった。
7月23日、Riezler はもう一度Chicherin に、「ドイツ皇女たち」の問題を取り上げた。
Chicherin はすぐには反応しなかったが、翌日に、「自分が知っているかぎりで」皇妃はPerm へと避難した、とRiezler に言った。
Riezler は、Chicherin はウソを言っている、との印象をもった。
このとき(7月22日)までに、Bothmer は、Ekaterinburg 事件の「恐るべき詳細」を知っていた。そして、モスクワの命令によって家族全員が殺害され、Ekaterinburg のソヴェトに自由があったのは処刑の時期と殺害の方法を決定することだけだった、ということに疑いをもたなかった(注94)。
それでもなお、8月29日にRadek は、ドイツ政府に対して、Alexandra とその子どもたちを逮捕されているスパルタクス団員のLeon Jogiches と交換させることを提案した。
ボルシェヴィキの官僚は、この申し出を9月10日にドイツ領事に対して繰り返した。だが、詳細が報道され、前皇帝の家族は軍事作戦によって遮断されたと言われるようになると、こういった申し出は責任逃れ的になった(注95)。
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③へとつづく。
「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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第13節/ニコライ処刑をモスクワが発表(1)②。
(08) Sverdlov は次に、翌7月19日の報道のために<Izvestiia>と<Pravda>に送る公式発表の原稿を書いた。
London の<The Times>に翻訳されて、7月22日に公表された。つぎのような記事だった。
「ソヴェト第五回大会で選出された中央執行委員会の最初の会合で、前皇帝のNicholas Romanoff の射殺に関する、Ural地方ソヴェトから直接に受け取った通信文が公にされた。
赤色Ural の首都であるEkaterinburg は最近、チェコスロヴァキア軍団の接近による脅威を受けていた。
同時期に、反革命陰謀が暴露された。武装部隊でもってソヴェトの権威から皇帝を奪い取ることを目的とする陰謀だ。
この事実にかんがみ、Ural 地方ソヴェトの幹部会は、前皇帝のNicholas Romanoff を射殺することを決定した。この決定は、7月16日に実行に移された。
Romanoff の妻と子息は、安全が保障された場所に移された。暴露された陰謀に関する文書は、特別の配達人によってモスクワに送られた。
最近に、前皇帝を裁判にかけると決定されていた。人民に対する犯罪で審判されることになっていた。だが、のちに起きたことで、この道筋を辿るのが遅れた。中央執行委員会の指導部は、Ural 地方ソヴェトがNicholas Romanoff を射殺する決定を行なうのを余儀なくした情勢を討議したあとで、次のとおり決定した。
ロシア〔全国ソヴェト〕中央執行委員会は(幹部会の者たちにおいて)、Ural 地方ソヴェトの決定を、正常なものとして受け容れる。
中央執行委員会は今では、Nicholas Romanoff 事件に関するきわめて重要な資料や文書を自由に利用することができる。最近のほとんどの日々についての彼自身の日記、妻や子どもたちの日記。彼の文通文書、中でもRomanoff とその家族に対するGregory Rasputin からの手紙。これらの資料は全て、調査され、近い将来に公にされるだろう。」
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(09) こうして、公式の伝説が生まれた。ニコライ—そして彼だけ—は、逃亡を企てたがゆえに射殺された、そして、決定はモスクワのボルシェヴィキ中央委員会によってではなく、Ural 地方ソヴェトによってなされた。
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(10) <Pravda>と<Izeves ti ia>がEkaterinburg ソヴェトの決定なるものを最初に報道した7月19日にも、直後の日々にも、Ekaterinburg ソヴェトは石の沈黙を守った。なお、7月13日に、ロマノフ家の資産を国有化する布令は発効していた。
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(11) 世界じゅうのプレスは、ボルシェヴィキの公式見解に従った物語を報道した。
<The New York Times>は、7月21日の日曜版の第一面にニュースを載せた。見出しはこうだった。
「ロシアの前皇帝、Ural ソヴェトの命令で殺さる。ニコライ、7月16日に射殺さる。チェコスロヴァキア軍が彼を奪う怖れがあったとき。妻と継承者は安泰。」
付随している追悼記事は、厚かましくも、処刑された君主は「社交的だが弱かった」と書いた。
前月のニコライの死に関する風聞への無関心さからモスクワが正しく予見していたように、世界は処刑を冷静に取り扱った。
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(12) ソヴィエトのプレスがニュースを掲載した日、Riezler は、Radek およびVorovskii と逢った。
彼はおざなりにニコライの処刑に抗議し、世界の意見は必ず非難されるだろうと言った。一方で、ドイツ政府の「ドイツの皇女たち」への関心を強調した。
もしドイツ政府が本当に皇妃とその娘たちに関心を持つならば、彼女たちは「人道主義的配慮」によってロシアを離れるのが許されるべきだ(注93)、とRadek が反応したとき、彼は高い自制心をもっていたに違いなかった。
7月23日、Riezler はもう一度Chicherin に、「ドイツ皇女たち」の問題を取り上げた。
Chicherin はすぐには反応しなかったが、翌日に、「自分が知っているかぎりで」皇妃はPerm へと避難した、とRiezler に言った。
Riezler は、Chicherin はウソを言っている、との印象をもった。
このとき(7月22日)までに、Bothmer は、Ekaterinburg 事件の「恐るべき詳細」を知っていた。そして、モスクワの命令によって家族全員が殺害され、Ekaterinburg のソヴェトに自由があったのは処刑の時期と殺害の方法を決定することだけだった、ということに疑いをもたなかった(注94)。
それでもなお、8月29日にRadek は、ドイツ政府に対して、Alexandra とその子どもたちを逮捕されているスパルタクス団員のLeon Jogiches と交換させることを提案した。
ボルシェヴィキの官僚は、この申し出を9月10日にドイツ領事に対して繰り返した。だが、詳細が報道され、前皇帝の家族は軍事作戦によって遮断されたと言われるようになると、こういった申し出は責任逃れ的になった(注95)。
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③へとつづく。



























































