秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

トロツキー

2246/R・パイプス・ロシア革命第二部第13章第10節・第11節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 ----
 第10節・ボルシェヴィキに勝とうと連合国は努力する。
 (1)レーニンは同僚たちに、ドイツが軍事行動を再開すれば、ボルシェヴィキはフランスとイギリスの助けを求めなければならないだろうと警告していた。それこそが、今行うべきことだった。
 (2)ドイツは何を最優先するかを決定していなかったけれども、少なくとも、戦争と結びついているロシアでの短期的利益と、ドイツにとってのロシアの長期的な地政学的意味とを、区別していた。
 連合諸国には、ロシアにはただ一つの関心しかなかった。それは、ロシアを戦争にとどまらせることだった。
 ロシアの崩壊と分離講和の見込みは連合諸国にとっては最大級の惨事であり、ドイツに勝利をもたらしそうだった。ドイツ軍は、十数の分団が西部前線へと移動して、アメリカ軍が相当の規模の兵団でもって到着する前に、消耗しているフランスとイギリス各軍を粉砕するだろう。
 したがって、連合諸国にとってロシアに関して最大に優先されるべきことは、可能ならばボルシェヴィキの協力によって、それが可能でなければ利用し得る何らかの別の勢力によって、東部戦線を再び活性化させることだった。別の勢力とは、ロシアの強制収容所にいる反ボルシェヴィキのロシア人、日本人、チェコ人、あるいは最終的には、これら自体の軍団のことだ。
 ボルシェヴィキとはどういう者たちで、何を目ざしているかは、連合諸国には関心がなかった。この諸国は、ボルシェヴィキ体制の国内政策にも国際的な目標にも、関心を示さなかった。そうしたことは、ドイツの注意をますます惹いていたものだった。 
 ボルシェヴィキの「友好」政策や、労働者にストライキを、兵士たちに反乱を呼びかけていることは、連合諸国にはまだ何の反応を生じさせておらず、ゆえに警戒心を呼び起こすこともなかった。
 連合諸国の態度は、明確で単純だった。すなわち、ボルシェヴィキ体制は中央諸国と講和をするならば敵であり、戦闘し続けるならば味方であり同盟者だ。
 イギリスの外務大臣(Foreign Secretary)の A・バルフォア(Arthur Balfour)の言葉では、ロシアがドイツと戦っているかぎりはロシアの信条は「我々の信条(cause)」だった。(58)
 アメリカの在ロシア大使のD・フランシス(David Francis)は1918年1月2日の教書でこれと同じ感情を表現しており、レーニン政府に伝わることが意図されたが、送信されなかった。
 「ロシア軍が人民委員部の指揮のもとで戦闘を開始して真摯にドイツ軍とその同盟軍に対する敵意を行動に移すならば、私は私の政府に対して、人民委員部の事実上の政権を正式に承認するよう働きかけるつもりだ」。(59)
 (3)対象に関心がなかったために、ボルシェヴィキ・ロシアの国内状況に関して連合諸国にはきわめて不適切な情報しかなかった。
 各国の外交使節は、ロシアでとくに好遇されたわけでもなかった。
 イギリス大使のG・ブキャナン(George Buchanan)は、有能だが在来的な外交官だった。一方、セントルイスの銀行家のフランシス〔アメリカ大使〕は、イギリスのある外交官の言葉によると「魅力的な老紳士」だった。だけれども、推測するにそれだけのことだった。
 この二人ともに、彼らがその渦中にあった事態の歴史的な重要性に気づいていなかったように見える。
 元戦時大臣でかつ社会主義者のフランス公使のJ・ヌーラン(Joseph Noulens)は、仕事の準備をより十分にしていたが、ロシアを嫌悪していたのとその無愛想で権威的な流儀のために、影響力を発揮できなかった。
 さらに悪いことに、連合諸国の外交団は1918年3月に、ボルシェヴィキ指導者たちと直接に接触しなかった。彼らはボルシェヴィキ指導者に従ってモスクワに行こうとしなかったからだ。ペトログラードからまずヴォログダ(Vologda)へと、そしてそこから7月にアルハンゲル(Archangel)へと移った。(*)
 このことによって、彼らは、モスクワにいる代理人がくれる間接的な報告に頼らざるを得なくなった。
 (4)その代理人たちは、心身ともにロシアのドラマに入り込んでいた若い男たちだった。
 B・ロックハート(Bruce Lockhart)はモスクワのかつてのイギリス領事で、ロンドンとソヴナルコム間の連絡役として仕事した。R・ロビンス(Raymond Robins)はアメリカ赤十字使節団の代表で、ワシントンのために上と同じ仕事をした。そして、J・サドゥール(Jacques Sadoul)はパリのために。
 ボルシェヴィキはこれら媒介者たちをとくに真摯に待遇したというわけではないが、有用性をよく理解していた。親交を築き、お世辞を言い、信頼の措ける者として扱った。
 そのようにして、ロックハード、ロビンス、サドゥールを、彼ら諸国がロシア軍に軍事的および経済的な援助を提供すれば、ロシアはドイツと決裂しておそらくは再び戦争するとまで、まんまと説得した。
 利用されていることに気づかないで、三人は、この見方を自分のものに変え、元気よく自国政府に主張した。
 (5)サドゥールは母親がパリ・コミューンに参加した社会主義者で、ボルシェヴィキに対して強いイデオロギー的魅力を感じていた。彼は1918年8月に、ボルシェヴィキへと寝返り、そのことで逃亡者かつ反逆者として欠席のまま死刑判決を受けることになる。(+)
 ロビンスは風変わりな人物で、レーニンやトロツキーとの会話でボルシェヴィキへの情熱を表明したが、アメリカ合衆国に帰国するとボルシェヴィキに反対しているふりをした。
 社会主義に傾斜した裕福な社会的労働者かつ労働組合組織者であり、また自分の様式をもつ大佐は、ロシアを出立する前夜に、レーニンに、別れの言葉を送った。その中で、彼はこう書いた。
 「あなたの予言的見解と指導の天才性は、ソヴィエト権力をロシア全域で確固たるものにしました。そして私は、人類の民主主義の新しい創造的な体制が世界中の自由(liberty)のための事業を活発にし、前進させるだろうと、確信をもっています。」(**)
 彼は帰還する際にさらに、「新しい民主主義」をアメリカ人民に対して解釈し説明する「継続的な努力」を行うと約束した。
 しかしながら、のちにすぐにソヴィエト・ロシアの状況に関する上院の委員会で証言したとき、ロビンスは、「ボルシェヴィキ権力を混乱させる」方法だといううその理由で、モスクワへの経済的援助を強く主張した。
 (6)ロックハードは三人の中では最もイデオロギー的関心がなかったが、彼もまた、ボルシェヴィキの政策追求の道具に自分がなることに甘んじていた。(+++)
 ------------
 (58) R. Ullman, Intervention and the War(Princeton, NJ., 1961),p.74.
 (59) Cumming and Pettit, Russian-American Relations, p.65.
 (*) 三国の各大使は回想録を残した。George Buchanan, My Mission to Russia, 2 vols.(London, 1923).; David Francis, Russia from the American Embassy(New York, 1921).; およびJoseph Noulens, Mon Ambassaade en Russie Sovietique, 2 vols.(Paris, 1933).  
 (+) サドゥールが帰国後、この判決は執行されなかった。そして彼は、フランス共産党に加入した。
 彼の革命的経験は面白い書物に記録され、Albert Thoma への手紙という形式で、最初にモスクワで出版された。Sadoul, Note sur la Révolution Bolchevique(Paris, 1920)。これは、Quarante Letters de Jacques Sadoul(Paris, 1922)により補充されている。
 (**) 1918年4月25日付手紙。つぎに所収。The Raymond Robins Collection, State Historical Society of Wisconsin, Madison, Wisconsin.
 レーニンは返答して、「プロレタリア民主主義は、…、新旧両世界の帝国主義的資本主義体制を粉砕するだろう」と自信を表明した。
 (++)George F. Kennan, The Decision to Intervene(Proinceton, NJ., 1958), p.238-9.
 上記の証拠に照らすと、ロビンスの「ソヴィエト政府への敬意にみちた感情は教義としての社会主義に対する特別の愛着があったのではなかった」とか、ロビンスは「共産主義への先入的愛好心をもっていなかった」とかのKennan には同意するのは困難だ。同上, p.240-1.
 ロビンスはのちにスターリンを賛美し、1933年にスターリンに受け入れられた。
 Anne Vincent Meiburger, Efforts of Raymond Robins Toward the Recognition of Soviet Russia and the Outlawry of War, 1917-1933(Washington, D.C., 1958), p.193-9. を見よ。
 (+++) 彼の回想録である、Memoirs of a British Agent(London, 1935)とThe Two Revolutions: An Eyewittness Account(London, 1967)を見よ。
 ----
 第11節・モスクワが連合国の助けを乞う。
 (1)サドゥールとロビンスはボルシェヴィキ・クーの後で、ときおりレーニン、トロツキー、その他の共産党指導者たちと逢った。
 1918年2月の後半には、逢う回数が増えた。それは、ボルシェヴィキによるドイツの最後通牒の受諾(2月17日)とブレスト=リトフスク条約の批准(3月4日)の間の時期だった。
 この二週間、ボルシェヴィキはドイツが自分たちを権力から排除するのを怖れて、連合諸国に対して、助力を求める切実な要請を訴えていた。
 連合諸国は、肯定的に反応した。
 フランスはとくに、その意欲があった。
 フランスは今では、ドン地方に形成されていた反ボルシェヴィキの義勇軍を放棄した。これは、ヌーランがその反ドイツの立場を理由として財政的に支援していた軍だった。
 彼の推奨意見にもとづいて、フランス政府はこれまでに将軍アレクセイエフに対して5000万ループルを、新しいロシア軍を組織するのを助けるべく拠出していた。
 1918年1月の初め、ロシアでのフランスの軍事使節の新しい代表であるH・ニゼール(Henri Niessel)は、アレクセイエフは「反革命」軍を率いているとの理由で、彼との関係を断つよう進言した。
 この助言は、採用された。アレクセイエフへの支援は終わり、ニゼールにはボルシェヴィキとの交渉を始める権限が与えられた。(*)
 ロックハルトも同様に、義勇軍への支援に反対した。彼もまた外務省への連絡文書で、義勇軍は反革命だと叙述した。
 彼の判断では、ボルシェヴィキこそがロシアの最も信頼できる反ドイツ勢力だった。(60)
 (2)ドイツの攻撃作戦が再開したあとの忙しい期間に、ボルシェヴィキの最高司令部は、連合諸国に助けを求めると決定した。
 2月21日、トロツキーは、サドゥールを通じて、ニゼールとともに、フランスはドイツの攻撃をソヴィエト・ロシアが抑えるのを助けるつもりがあるかどうかを問い合わせる通信を発した。
 ニゼールはフランス大使と接触し、肯定的な反応を得た。
 ヌーランはその日、ヴォログダからトロツキーに電報を打った。「あなたたちがドイツに抵抗する場合、フランスの軍事的および財政的協力を頼りにしてよい」。(61)
 ニゼールは、トロツキーにソヴィエト・ロシアがドイツ軍を妨害する方法を助言し、軍事顧問になることを約束した。
 (3)2月22日の夕方遅くの中央委員会で、フランスの反応の件が議論された。
 トロツキーはこのときまでに、フランスがロシアを助けようとする手段を概略するニゼールの覚え書を持っていた。(62)
 喪失したと言われているこの文書は、フランスによる金銭的および軍事的助力の具体的な諸提案を含むものだった。
 トロツキーはこれを受諾するよう強く主張し、その趣旨での方針を提案した。
 出席することができなかったレーニンは、簡潔な注記をつけて不在投票をした。「アングロ・サクソン帝国主義者の強盗どもから喇叭や兵器を奪うことに賛成する私の一票を加えてほしい」。(63)
 ブハーリンやその他の「革命戦争」の主張者が反対の立場をとったために、この動議は辛うじて、賛成6票、反対5票で採択された。
 ブハーリンは票決に敗北したあとで中央委員会と<プラウダ>編集局からの辞任を申し出たが、結局はそうならなかった。//
 (4)中央委員会が検討を終えるや否や-2月22-23日の夜間のことだった-、問題はソヴナルコム〔人民委員会議=ほぼ内閣〕に移された。
 トロツキーの動議はここでも、左翼エスエルの反対を押し切って、通過した。//
 (5)翌日、トロツキーはサドゥールに、ロシア政府がフランスの助けを受け入れる気のあることを伝えた。
 彼はニゼールをスモルニュイに招いて、ポドゥヴォイスキ、ボンチ=ブリュエヴィチ将軍やボルシェヴィキのその他の軍事専門家たちと反ドイツ作戦に関して協議させた。
 ニゼールは、ソヴィエト・ロシアは、愛国主義に訴えることのできる帝制時代の従前の将校の助けを借りて、新しい軍隊を建設しなければならない、という意見だった。(64)
 (6)ボルシェヴィキは今や、ドイツが自分たちを転覆しようとしている事態の中で態度を変更した。
 連合諸国はボルシェヴィキの国内および対外政策にほとんど関心がなく、東部前線での戦闘の再活性化の見返りとして寛大に助けてくれるのだと分かっていた。
 かりにドイツがルーデンドルフとヒンデンブルクの意見を最後まで貫いたとすれば、ボルシェヴィキは権力にとどまり続けるために、連合諸国と共闘し、中央諸国に対抗する軍事行動のために連合諸国がロシア領土を使うことを許しただろう、ということをほとんど疑うことはできない。
 (7)ロシア・連合国関係がいかほどにまで進展していたかは、2月遅くにレーニンがカーメネフをソヴィエトの「外交代表」としてパリに派遣したことで、分かる。
 カーメネフはロンドン経由で到着したが、それは彼の政府がブレスト=リトフスク条約をすでに裁可してしまっていた後でだった。
 彼は、冷淡な対応を受けた。
 フランスは、カーメネフが入国するのを拒否した。それに従って、彼は母国へと向かった。
 彼はロシアへの途上で、ドイツに取り押さえられた。ドイツはカーメネフを、4カ月間拘留した。(65)//
 -----------
 (*) A. Hogenhius-Seliverstoff, Les Relations Franco-Sovietiques, 1917-1924(Paris, 1981), p.53.
 ニゼールは、その回想録でこうした事実に言及していない。Les Triomphe des Bolsheviks.
 (60) Ullman, Intervention, p.137-8.
 (61) Lenin, Sochineniia, XXII, p.607.; Gen.[Henri A.] Niessel, Les Triomphe des Bolsheviks et la Paix de Brest-Litovsk: Souvenirs(Paris, 1940), p.277-8.
 (62) J. Sadoul, Notes sur la Révolution Bolchevique(Paris, 1920), p.244-5.
 (63) Lenin, PSS, XXXV, p.489.
 (64) Niessel, Triomphe, p.279-280.
 (65) Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.284-5.; Sadoul, Notes, p.262-3.; Ullman, Intervention, p.81.
 ----
 第10節・第11節、終わり。

2243/R・パイプス・ロシア革命第13章第8節・第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。原著、p.584-8。
 今回部分の最後のRichard Pipes によると、<共産主義テロル(Communist terror)>は1918年2月に始まる(<テロル>と「暴力(violence)」の違いも何となく理解できる)。レーニン時代からなのであり、間違ってもスターリン以降なのではない。
 ----
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 第8節・ドイツの堅い決意(Germans decide to be firm)。
 (1)トロツキーの異様な行動は、ドイツ関係者たちを全くの混乱に落とし込んだ。
 今では誰も、ロシアは講和交渉を注意を逸らす方策として利用していることを疑わなかった。
 しかし、この点はその通りだとしても、ドイツがどう反応すべきかは決して明瞭ではなかった。
 無意味な交渉を継続する?
 最後通告を受諾するよう、軍事行動によってボルシェヴィキに迫る?
 あるいは、ボルシェヴィキを権力から排除して、受け入れやすい体制に変える?
 (2)ドイツの外交官たちは、耐え忍んだ。
 キュールマンは、ドイツの労働者たちは東部前線で敵対行動を再開するのを理解できず、面倒なことが起きるだろう、と怖れた。
 彼はさらに、オーストリア=ハンガリーが戦争から離脱するのではないかと憂慮した。(44)//
 (3)しかし、1917-18年の政策を支配していた軍部は、別の考えだった。
 決定的な行動として西部に大量の戦力を注ぐことを3月半ばに予定していたので、東部前線が安全であるか兵団を西部前線に転換させ続けることはできないことが軍部には完全に確実でなければならなかった。
 軍部はまた、ロシアの食糧や原料を利用する必要があった。
 ロシアからの軍事諜報が示すところでは、ボルシェヴィキはドイツに対して最悪の意図をもつが、きわめて不安定な立場にあった。
 海軍付作戦長官でミルバッハ使節団とともにペトログラードに行ったW・v・カイザリンク(Walter von Kaiserlingk)は、警告する報告を返してきた。(45)
 間近でボルシェヴィキ体制を観察して、彼は、「権力をもつ狂気(insanity in power)」(<regierender Wahnsinn〔統治する狂気〕>)だと結論づけた。
 ユダヤ人に動かされているボルシェヴィキ体制は、ドイツのみならず文明世界全体に対する、致命的な脅威だ。
 彼は、ドイツをこのペスト菌から遮蔽するためには自国のロシアとの前線をさらに東へと移さなければならない、と力説した。
 カイザリンクはさらに、ドイツの企業上の利益でロシアを貫通することを提案した。
 その歴史上二度目のことだが(ノルマン人のことを示唆する)、ロシアは植民地化される用意がある。
 別の直接的報告書は、ボルシェヴィキ体制は弱体で軽蔑されていると述べていた。
 レーニンはきわめて不人気で、これまでのツァーリ以上に手厚く暗殺者から守られている、と言われていた。
 キュールマンが依拠した報告類によると、ボルシェヴィキを唯一支持しているのはラトヴィア人ライフル部隊だった。かりに彼らが金銭を使って追い払われれば、体制は崩壊するだろう。(46)
 このような証言者の説明は、皇帝に強い印象を与えた。そして、皇帝を将軍たちの見方へと接近させることとなった。//
 (4)ルーデンドルフは、ボルシェヴィキ体制の不安定さについて受け取った情報をドイツ軍の意気を削ごうとするボルシェヴィキの系統的な運動という証拠と結びつけた。そして、ヒンデンブルクの支持を得て、ブレストでの交渉は決裂されるべきだ、そのあとでドイツ軍はロシアに侵入してボルシェヴィキを打倒し、ペトログラードに受容し得る政府を樹立する、と強く主張した。(47)//
 (5)外務省と幕僚たちの意見は、2月13日のバート・ホンブルク(Bad Homburg)で皇帝が主宰した会合で、衝突した。(48)
 キュールマンは、宥和的方針を強調した。
 彼は、刀剣は「革命的熱狂(plague)の中心」を切り取ることはできない、と論じた。
 かりにドイツ軍がペトログラードを占拠したとしても、問題はなくならないだろう。フランス革命が雄弁に示すように、外国の干渉は民族主義と革命的熱情を燃え立たせるだけだ。
 最良の解決方策は、ドイツの助力のもとでロシア人が実行する反ボルシェヴィキのクーだろう。しかし、キュールマンがこのような政策を支持していても、彼は明確には語らなかった。
 外務大臣は、副首相のF・v・パイア(Friesrich von Payer)から支持された。この人物は、ドイツ国民の中に広がっている平和願望と軍事力によってボルシェヴィキを打倒することの不可能性について話していた。//
 (6)ヒンデンブルクは、同意しなかった。
 東方で決定的な行動をしなければ、西部戦線での戦闘が長期にわたって引き続くだろう。
 彼は、「ロシアを粉砕し、その政府を転覆させる」のを欲した。//
 (7)皇帝は、将軍たちの側についた。
 彼はこう言った。トロツキーは、講和するためにではなく、革命を促進するためにブレストに来ている。そして、連合諸国の支援を得て、そうしている。
 ロシアにいるイギリス公使は、ボルシェヴィキは敵だと告げられるべきだ。
 「イギリスはドイツと一緒に、ボルシェヴィキと戦うべきだ。
 ボルシェヴィキは野獣(tigrers)だ。何としてでも、絶滅しなければならない。」(49)
 ともあれ、ドイツは行動しなければならない。さもないと、イギリスとアメリカ(合衆国)がロシアを奪い取るだろう。
 ゆえに、ボルシェヴィキは「去らなければなない」。
 「ロシア人民は、世界中の全ユダヤ人-そう、フリーメイソンたち-と結びついているユダヤ人の報償品として引き渡されている」。(*)//
 (8)この会議は、停戦は2月17日に終了し、その後でドイツ軍はロシアに対する攻撃を再開する、と決定した。
 ドイツ軍の使命は、明確には示されなかった。
 ボルシェヴィキを打倒するという軍事作戦は、すみやかに放棄された。それは、しかしながら、文民の当局者が異議を唱えたからだった。//
 (9)この決定に従って、ブレストにいるドイツの幕僚たちはロシア人たちに、ドイツは東部前線での軍事行動を、2月17日正午にやり直す、と知らせた。
 ペトログラードのミルバッハ使節団は、帰国するよう命じられた。//
 (10)ドイツ人は虚勢を張っていたにもかかわらず、このときにドイツが何を欲していたかは明瞭ではない。つまり、ドイツの講和条件を受諾するようボルシェヴィキに強いるためか、それとも、ボルシェヴィキを権力から排除するためか。
 その当時ものちにも、ドイツは自分の最優先事項を決定することができなかった。最初はロシアの領土をより広く獲得することに関心があった。だが、それとも、ロシアにもっと普通の政権を樹立することに関心は移ったのか。
 結局は、領土への渇望が優ることとなった。//
 ------------
 (44) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.314-5.
 (45) VZ, XV, No.1(1967年1月), p.87-p.104.に再掲されている。
 (46) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.278.
 (47) 同上, p.289-p.290, p.318-9.
 (48) 議事録は、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.322-9. Baumgart, Ostpolitik, p.23-p.26.も見よ。
 (49) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.326-7. ドイツ語では、Baumgart, Ostpolitik, p.25.
 (*) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, ot peregovo v Brest-Litovske do podpisaniia Rapall'skogo degovora, I(Moscow, 1968), p.328.
 カイザリンクをペトログラードから派遣したことで喚起されたけれども、この反ユダヤの論及は、いわゆる<シオン賢者の議定書>からの影響が大きい。無邪気で単純な人々は世界大戦と共産主義に関する「説明」を求めていたが、この書物はすみやかに、そのような人々に人気のある読み物になることになる。
 ----
 第9節・ソヴィエト・ロシアへの進軍。
 (1)ドイツによる軍事行動の切迫の通知は、2月17日の午後にペトログラードに届いた。
 直後に開かれた中央委員会の会合で、レーニンはあらためて、ブレストに戻って降伏することを申し立てた。しかし、5対6で、再び際どい敗北を喫した。(50)
 多数派は、ドイツが威嚇を実施するか否かを、待って見ていたかった。かりにドイツが本当にロシアへと侵入して来て、かつドイツとオーストリアで革命が勃発しないとしても、必然的な流れに従う時間はまだあるだろう。//
 (2)ドイツ人は、自分たちの言葉に忠実だった。
 2月17日、ドイツ兵団は前進して、抵抗に何ら遭うことなくドヴィンスク(Dvinsk)を占領した。
 将軍ホフマンは、この作戦行動を、つぎのように描写した。//
 「いまだ経験したことのない、漫画的(comic)な戦争だった。-ほとんどもっぱら、列車と自動車で行われた。
 機関銃をもつ若干の歩兵部隊と大砲一台が列車に乗り、次の鉄道駅へと進み、そこを掌握し、ボルシェヴィキを拘束し、別の部隊を乗せ、さらに進んだ。
 この手順は、いずれにしても、物珍しくて魅惑的だった。」(51)//
 (3)レーニンには、これが我慢の限界だった。
 全く予期していなかったわけではないが、ロシア軍団の抵抗のなさに、彼は唖然とした。
 戦闘する気がまるでなかったので、ロシアは敵の前進に身をさらしたままだった。
 レーニンは、ドイツ政府の決定に関する最も機密的な情報を持っていたと思われる。それはたぶん、ドイツの同調者からスイスまたはスウェーデンにいるボルシェヴィキ工作員を通じてもたらされたものだった。
 彼はこの情報にもとづいて、ドイツはペトログラードを、そしてモスクワもすら、奪取しようと考えている、と結論づけた。
 レーニンは、同僚たちの自己満足気分に激高した。
 彼が判断したように、ドイツがウクライナでのクーを再現するのを阻止できるものは何もなかった。-そのクーはつまり、レーニンを右翼の傀儡に代えて、革命を鎮圧することだ。//
 (4)しかし、2月18日に中央委員会が再度開催されたとき、レーニンはまたもや多数派となることができなかった。
 ドイツへの降伏を支持する彼の提案は6票を得たが、7人の反対票が、トロツキーとブハーリンが共同して提案した動議に投じられた。
 党指導部は、救いようもなく暗礁に乗り上げた。
 対立によって、党全体が分裂する危険があった。それは、党の強さの根源である紀律ある統一を破壊するものだった。//
 (5)この決定的に重大な時点で、トロツキーがレーニンの側に回った。立場を変え、自分の意見を主張しないで、レーニンの提案に賛成票を与えた。
 トロツキーの伝記作者によると、彼がこうした理由は、一つは、ドイツがロシアに侵入した場合にレーニンに約束していたことを履行すること、もう一つは、党に生じる大きな亀裂を回避すること、にあった。(52)
 あらためて票決が行われたとき、7名がレーニンの提案に賛成し、6名が反対した。(53)
 この辛うじての多数派獲得にもとづき、レーニンは、ロシア代表団はブレストに戻っているとドイツに知らせる電報文を起草した。<+>
 何人かの左翼エスエルが文案を示された。そして、彼ら左翼エスエルが同意したあと、無線通信でその内容が伝えられた。//
 (6)衝撃が訪れた。
 ドイツとオーストリアの両軍は、すみやかに攻撃を中止することをしないで、ロシア内部へと侵入し続けた。
 北部ではドイツ軍団はリヴォニア(Livonia)〔エストニア〕に入り、中央部では、依然として抵抗されることなく、ミンスクとプスコフへと進軍した。
 南部ではオーストリア軍とハンガリー軍が、こちらも前進し続けた。
 このような外面はあるけれども、ロシアがドイツの条件を受諾する意向を伝えた後で行われたこのような作戦行動は、一つの意味だけを持っていただろう。すなわち、ベルリンは、ロシアの首都を奪取して、ボルシェヴィキ政権を転覆させる決意だった。
 これはレーニンが想定していたことだった。I・シュタインベルク(Isaac Steinberg)によると、レーニンは2月18日に、ドイツが自分に権力を放棄するよう要求する場合にのみ自分は戦うつもりだ、と言った。(55)
 (7)数日が経ったが、前進するドイツ軍からの反応はまだなかった。
 この時点で、ボルシェヴィキ指導者たちにパニックが襲った。彼らは緊急措置を決定した。そのうちの一つは、とくに重大な意味をもっていた。
 2月21-22日、ドイツから一言の反応もまだないときに、レーニンは、「社会主義祖国が危機にある」と題する布令を執筆して、署名した。(56)
 その前文には、ドイツ軍の行動はドイツがロシアの社会主義政府を弾圧して君主制を再建しようとしていることを示す、と書かれていた。
 「社会主義祖国」を防衛するために、「非常の措置が必要だ」。
 このうちの二つは、永続的な意味をもつこととなった。
 第一に求めたのは、塹壕を掘るために「労働能力のあるブルジョア階級の全ての者から成る」強制労働大隊(battalions of forced labor)を設置すること。
 抵抗する者は、射殺されるものとされた。
 これは強制労働(forced labor)を実際に導入したもので、やがて数百万の市民に影響を与えることとなる。
 第二を定める条項は、こうだった。「敵の工作員、相場師、窃盗犯、ごろつき、反革命煽動者、ドイツのスパイは、その場で処刑されるものとする」。
 この条項は、取り返しのつかない刑罰〔=死刑〕を導入した。これは明確には定義されてもおらず、また、その当時までに全ての法令が失効していたために、制定法上の根拠もないものだった。(57)
 裁判については、何も語られなかった。また、極刑(capital punishment =死刑)になりそうな被追及者からの意見聴取の手続についてすら、同じだった。
 この布令は事実上、チェカに殺人許可証を付与した。チェカはすみやかに、これを全面的に活用した。
 これら二つは、共産主義テロルの時代が幕を開けたことを明確に示した。//
 -------------
 (50) Lenin, Sochineniia, XXII, p.677.
 (51) K. F. Nowak, ed., Die Aufzeichnungen des General Majors Max Hoffmann, I(Berlin, 1929), p.187.
 (52) Deutscher, Prophet Armed, p.383, p.390.
 <+> 秋月注記-日本語版レーニン全集26巻541頁「ドイツ帝国政府あての無線電話の最初の草案」1918年18-19日夜執筆、<イズヴェスチヤ>同20日付発表。
 (53) Lenin, Sochineniia, XXII, p.677. およびPSS, XXXV, p.486-7.
 (54) Dekrety, I, p.487-8.; Lenin, PSS, XXXV, p.339.
 (55) I. Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.206-7.
 (56) Dekrety, I, p.490-1.
 =日本語版レーニン全集27巻16-17頁「社会主義の祖国は危険にさらされている!」。<プラウダ>2018年2月22日付。
 (57) 後述、第18章〔<赤色テロル>〕を見よ。
 ----
 第8節・第9節、終わり。この章は16節まである。

2236/R・パイプス・ロシア革命第13章第6節・第7節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 ----
 第6節・ブレストでのトロツキー。
 (1)ブレストでの交渉は、12月27日/1月9日に再開した。
 ロシア代表団を率いたのは、今度はトロツキーだった。
 彼は、時間稼ぎを継続してプロパガンダを拡散しようと考えて、やって来ていた。
 レーニンは、この戦術にしぶしぶ同意していた。
 トロツキーは、かりにドイツがそれを見越して最後通牒を発すれば、ロシア代表団は屈従する、と約束しなければならなかった。(28)
 (2)トロツキーは到着し、交渉の休止の間にドイツがウクライナの民族主義者たちと別の連絡手段を確立していることを知って、不愉快な驚きをもった。
 12月19日/1月1日、若い知識人たちから成るウクライナ代表団は、公開の分離交渉を行おうとのドイツの招きで、ブレストに着いていた。(29)
 ドイツの目標は、ウクライナを切り離して、ドイツの保護国にすることだった。
 1917年12月に、ウクライナ評議会(Council)、あるいはRada は、ウクライナの独立を宣言した。
 ボルシェヴィキはこの承認を拒み、自分たちが公式に宣言した「民族の自己決定権」の権利を侵害して、その地域を再征服するために軍隊を派遣した。(30)
 ドイツの見積もりでは、ロシアは、食糧の3分の1、石炭と鉄の70パーセントをウクライナから受け取っていた。ウクライナが分離することは明らかに、ボルシェヴィキを弱体化し、ドイツへの依存をさらに高めることを意味した。同時に、ドイツ自身の逼迫する経済的必要を、徐々に充足させるものだった。
 トロツキーは、伝統的外交官の役割を演じて、ドイツの行動はロシアに対する内政干渉だ、と宣告した。しかし、彼に可能だったのは、それだけだった。
 12月30日/1月12日、中央諸国は、ウクライナのRada を国の正統な政府だと承認した。
 これによって、ウクライナとの分離講和条約の締結への歩みが始まった。//
 (3)そのとき、ドイツによる領土要求の提示があった。
 キュールマンはトロツキーに対して、我々はロシアの「併合と賠償金なし」の講和要求は受け入れ難いと考えており、ドイツが占領している領土をロシアから引き離すつもりだ、と知らせた。
 全ての征圧地を譲ろうというチェルニンの提案について言うと、この提案は、連合諸国が講和交渉に加わることを条件としており、かつその参加は行われなかったので、有効性を失っていた。
 1月5日/18日、マックス・ホフマン将軍は地図を開いて、不審がるロシア人に対して、両国の間の新しい国境線を示した。(31)
 それによると、ポーランドの分離と、リトアニアおよび南部ラトヴィアを含むロシア西部の広大な領域のドイツへの併合が、求められていた。
 トロツキーは、我が政府はこのような要求を絶対に受け入れることができない、と答えた。
 その1月5日/18日はたまたまボルシェヴィキが立憲会議を解散させたまさにその日だった。その日、トロツキーは無謀にも、こう言った。ソヴィエト政府は、「最も肝要なのは新しく形成される国家の運命だ、住民投票(referendom)が人民の意思を表明する最良の手段だ、という考え方になお執着する」、と。(32)
 (4)トロツキーは、ドイツが提示した条件をレーニンに伝え、その後で、政治的交渉を12日間延期することを要請した。
 彼は同日にペトログラードへと出立し、ヨッフェは残された。
 この延期についてドイツがいかに神経質だったかは、つぎのことからも知られる。すなわち、キュールマンはベルリンに情報を伝えて、ボルシェヴィキによる延期要請を交渉の決裂だと理解してはいけない、と強く要望した。(33)
 ドイツには、講和交渉の破綻は同国の産業中心地域での市民の騒擾を巻き起こすのではないかと怖れる、十分な理由があった。
 1月28日、社会主義運動の左翼が組織し、100万人以上の労働者が加わった政治的ストライキの波が、勃発した。ドイツの多数の都市で、すなわちベルリン、ハンブルク、ブレーメン、キール、ライプツィヒ、ミュンヘン、そしてエッセンで起こった。
 あちこちで、「労働者評議会」が設立された。
 ストライキ活動家たちは、併合と賠償金なしの講和と東ヨーロッパ諸民族の自己決定を要求した。-これは、ロシアの講和条件の受容を意味した。(34)
 ボルシェヴィキが直接に関与していたとの証拠資料は存在していないが、ストライキに対するボルシェヴィキのプロパガンダの影響は明白だつた。
 ドイツ当局は、強い、ときには残虐な弾圧でもって対処した。そして、2月3日までには、ドイツ政府は状況を統制下に置いた。
 しかし、ストライキは厄介なことを示す証拠となった。前線で何が起きていようとも、国内での状況を当然のこととは考えることができなかったのだ。
 人々は、平和を切望していた。そして、ロシアがそのための鍵を握っているように見えた。//
 ------------
 (28) Lenin, PSS, XXXVI, p.30.
 (29) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.183, p.190.; Fischer, Germny's Aims, p.487.
 (30) 私の Formation of the Soviet Union: Communism and Nationalism, 1917-23(Cambridge, Mass., 1954), p.114-p.126 を見よ。
 (31) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.229.; J. Weeler-Bennet, Brest-Litovsk: The Forgotten Peace(London-New York, 1956), p.173-4.
 (32) W. Hahlweg, Der Diktatfrieden von Brest-Litovsk(Münster, 1960), p.375.
 (33) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.229-p.230.
 (34) 1918年1月ストライキにつき、G. Rosenfeld, Sowjet-Russland und Deutschland 1917-1922(Köln, 1984), p.46-p.55.; Weeler-Bennet, Forgotten Peace, p.196.
 ----
 第7節・ボルシェヴィキ内の激しい対立とドイツの最後通牒〔bitter divisions among Bolsheviks and the Geman ultimatum〕。
 (1)ドイツの要求によって、ボルシェヴィキ指導部は相争う3分派に分裂した。これらは、のちの経緯で、2分派へと融合した。
 (2)ブハーリン派は、交渉をやめて、ドイツ革命の炎を煽りつつ主として遊撃部隊的戦闘によって軍事作戦を継続させることを望んだ。
 この立場は、ボルシェヴィキ党員たちの大多数派の支持を受けた。ペトログラードとモスクワのいずれの党官僚たちも、この趣旨での決議を採択した。(35)
 ブハーリンの伝記著作者たちは、のちに「左翼共産主義」と称された彼の政策方針はボルシェヴィキの多数派の意向を反映していた、と考えている。(36) 
 ブハーリンとその支持者たちは、西ヨーロッパは社会革命の瀬戸際にあると見ていた。その革命こそがボルシェヴィキ体制の存続にとって不可欠だと認められているのだから、「帝国主義者」ドイツとの講和は、彼らには反道徳的のみならず、自己欺瞞に他ならなかった。
 (3)トロツキーは、第二の派の代表だった。この派は左翼共産主義者とは、戦術上の微妙な違いだけがあった。
 トロツキーは、ブハーリンのようにドイツの最後通告を拒みたかったが、それは「戦争でも講和でもない」という耳慣れないスローガンのもとでだった。
 ロシアはブレストでの交渉をやめ、一方的に(unilaterally)戦争の終止を宣言する。
 そうすればドイツは、したいこと、つまりロシアが何をしても抑止できないことを自由に行うだろう-西部および南西前線部の広大な領土の併合。しかし、ロシアの承諾なくしてそれを行わなければならない。
 トロツキーが主張するには、こう進展することで、人気のない戦争を遂行するという重荷からボルシェヴィキは解放され、自由になるだろう。そして、ドイツ帝国主義の残虐性を暴露することとなり、ドイツの労働者を反乱へと鼓舞して立ち上がらせるだろう。//
 (4)レーニンはカーメネフとジノヴィエフに支持されて、ブハーリンとトロツキーに反対した。
 彼の切迫感覚およびロシアは取引できる立場にはないという考えは、戦争大臣のクルィレンコ(Krylenko)が12月31日/1月13日にソヴナルコムに提出した報告によって強化された。
 動員解除(復員)に関する全軍会議の代表者たちに配布されたアンケート回答書にもとづいて、クルィレンコは、ロシア軍は、あるいはそれだとして残っているものは、戦闘能力をもっていない、と結論づけていた。(37)
 レーニンは、こう思考した。紀律と十分な装備のある敵に抵抗することはできない、と。
 (5)レーニンは1月7日/20日に、「併合主義的分離講和の即時締結問題に関するテーゼ」で、彼の考え方を定式化した。(38)
 これによると、彼はつぎの諸点を挙げている。
 (1) 最終的な勝利の前に、ソヴィエト体制はアナーキーと内戦の時期に直面する。これは「社会主義革命」のために必要な時期だ。
 (2) ロシアは少なくとも数カ月の余裕が必要だ。その過程で「体制は、まずは自分の国で始めてブルジョアジーに対して勝利する」、そして自分たちの諸勢力を再組織する、「完全に自由な時間的余裕を獲得しなければならない」。
 (3) ソヴィエトの政策は、国内事情を考慮して決定されなければならない。外国で革命が勃発するか否かは不確実だからだ。
 (4) ドイツでは、「軍事党」が上層部を握った。ロシアは、領土割譲と財政的制裁金を要求する最後通告を提示されるだろう。
 政府は、交渉を長引かせるべく全力を尽くしたが、この戦術は自然消滅した。
 (5) ドイツの条件での即時講和に反対する者たちは、このような講和は「プロレタリア国際主義」の精神を侵犯すると、間違って論じている。
 彼らが望むように政府がドイツとの戦闘継続を決定するならば、別の「帝国主義陣営(Bloc)」からの助力を求める以外に選択の余地はないだろう。その協商諸国(Entente)は、フランスとイギリスの代理人へと変わるだろう。
 かくして、戦争の継続は「反帝国主義」の動きではない。二つの「帝国主義」陣営の間での選択を呼びかけるものだからだ。
 しかしながら、体制がいま果たすべき責務は、「帝国主義諸国」の間で選択することではなく、権力を確固たるものにすることだ。
 (6) ロシアは実際に外国の革命を推進しなければならない。しかし、「諸勢力の相関関係」を考慮することなくしてこれを行うことはできない。
 現時点でのロシア軍は、ドイツ軍の前進を食い止めるには無力だ。
 さらに言えば、ロシアの「農民」軍隊の大多数は、ドイツが要求する「併合主義」講和を支持している。
 (7) ロシアが現在のドイツの講和条件の受け入れ拒否に固執するならば、いずれもっと負担の大きい条件を受諾せざるを得なくなるだろう。
 しかし、これはボルシェヴィキではなくその継承者たちが行うことだ。その間にボルシェヴィキは、権力を剥奪されているだろうから。
 (8) 政府は小休止によって、経済(銀行と重工業の国有化)を組織する機会をもつだろう。経済の組織化は、「社会主義をロシアと全世界でで揺るぎないものにし、そして同時に、強力な労働者・農民赤軍を築く堅固な経済的基礎を生み出すだろう」。
 (6)レーニンには、彼の異議にもかかわらず本当は世界大戦が継続することを望んでいることを暴露してしまうだろうがゆえに明言することのできない、別の理由があった。
 レーニンは、中央諸国と協商諸国の「ブルジョアジー」が講和をすればすぐに、彼らは勢力を合体してソヴィエト・ロシアを攻撃するのは確実だと感じていた。
 彼は、ブレスト条約に関する討議の間に、この危険性を暗示した。
 「我々の革命は、戦争から産まれた。
 戦争がなかったならば、全世界の資本主義者たちの統合を目撃していただろう。この統合は、我々に対する闘いを基礎とするものだ。」(39)
 レーニンは、彼自身の政治的闘志を反映して、「敵たち」の巧妙さや果断さをきわめて高く評価していた。
 実際には、1918年11月の停戦以降に、このような「統合」は発生しなかった。
 しかし、彼は危険が本当にあると考えたので、想定される「資本主義者」の攻撃に抵抗することのできる軍隊を建設するための時間を稼ぐために、戦争を長引かせなければならなかった。
 (7)1918年1月8日/21日、ボルシェヴィキは、三つの本拠地で、党指導者たちの会議を開いた。ペトログラード、モスクワ、そしてウラル地域。
 レーニンは、ドイツの最後通告の受諾を求める決議を提案した。
 この提案は、全63票のうち僅か15票の支持しか受けなかった。
 トロツキーの「講和でも戦争でもない」妥協的決議は、16票を獲得した。
 多数派(32代表者)は、左翼共産主義者の決議に賛成投票をし、妥協なき「革命」戦争を要求した。(*)//
 (8)議論はつぎに、中央委員会に移った。
 トロツキーはここで、敵対行動の即時かつ一方的な停止およびロシア軍の一斉の動員解除の動議を提出した。
 この動議は、9対7の過半数で辛うじて通過した。
 レーニンは、ドイツの条件での即時講和を支持する情熱的な演説でこれに反応した。(40)
 しかし、レーニンは少数派のままだった。そして、翌日にボルシェヴィキ中央委員会が左翼エスエルの中央委員会と合同の会合をもったときには、さらに支持者数を減少させた。左翼エスエルは、レーニンの講和提案に激しく反対していたのだ。
 この日、ここでも再び、トロツキーの決議が通過した。
 (9)この信任を受けたトロツキーは、ブレストに戻った。
 交渉は、1月15日/28日に再開した。
 トロツキーは、意味の乏しい発言やプロパガンダ的演説を行って、時間稼ぎを継続した。
 これには、さすがの自制心のあるキュールマンですら、苛立ち始めた。//
 (10)ロシア・ドイツ間交渉が修辞学的言葉の遣り取りにはまり込んでいた一方で、ドイツとオーストリアは、ウクライナと合意に達した。
 2月9日、中央諸国はウクライナ共和国との間に分離講和条約を締結した。これはウクライナを事実上はドイツの保護国とするものだった。(41)
 ドイツとオーストリアの兵団は、ウクライナへと移動した。そこで彼らは、ある程度の法と自由を回復した。
 この歓迎されるべき行為の対価は、船によってウクライナの食糧が西方へと大量に輸送されたことだった。//
 (11)ロシア・ドイツ間政治交渉の膠着状態を破ったのは、ドイツ皇帝からの電報だった。皇帝は、将軍たちの影響をうけて、2月9日にブレストに電報を発した。
 彼はその中で、最終通告書をロシアに与えるよう命じていた。//
 「本日、ボルシェヴィキ政府はラジオで私の兵団に en clair を伝え、立ち上がって軍部上官に公然と反抗するように迫った。
 私もフォン・ヒンデンブルク元帥閣下も、このような事態をこれ以上受け入れたり、甘受したりすることはできない!
 可能なかぎり迅速に、このようなことを終わらせなければならない!
 トロツキーは、明日、(2月)10日の午後8時までに、…<遅滞なく、我々の条件での講和>に署名しなければならない。…。
 拒否する場合または遅滞その他の釈明を企てる場合には、10日夜の8時に、交渉は決裂し、停戦は終わる。
 そうなれば、東部前線部隊は、事前に定められた線へと前進するだろう。」(42)
 (12)翌日、キュールマンはトロツキーに対し、ドイツ政府の最終通告を伝えた。
 トロツキーはそれ以上の議論をすることなくまたはその他の遅延を行うことなく、講和条約のドイツ語文に署名すべきものとされた。
 トロツキーは、ソヴィエト・ロシアは戦争から離れており、軍隊の動員解除を進めていると言って、そうするのを拒んだ。(43)
 しかしながら、ペトログラードへとその間に移った経済的、法的な議論は、そう望まれていたとすれば、継続することができただろう。
 トロツキーは列車に乗り込み、ペトログラードへと向かった。//
 -----------------
 (38) Lenin, PSS, XXXV, p.243-p.252.
 =レーニン全集第26巻「併合主義的単独講和の問題についてのテーゼ」452頁~460頁(大月書店、1958)。
 (39) 同上, p.324.; Hahlweg, Diktatfrieden, p.48.
 (*) Lenin, PSS, XXXV, p.478.; LS, XI, p.41.; Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918(Vienna-Munich, 1966), p.22.
 レーニンを支持したスターリンは、西側での革命は見えていない、と語った。
 この会議の議事録は消失したと言われている。Isaac Steinberg は、左翼エスエルは「戦争でも講和でもない」定式を好み、それを定式化したものを手にしていた、と語る。
 Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.190-2.
 (40) Lenin, PSS, XXXV, p.255-8.
 (41) ロシア語文、Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.298-p.308.
 英語訳文、Wheeler-Bennett, Forgotten Peace, p.392-p.402.
 (42) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.311-2.
 (43) Soviet Declaration in Lenin, Sochineniia, XXII, p.555-8.
 ----
 第13章第6節・第7節、終わり。

2235/R・パイプス・ロシア革命第13章第4節・第5節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919 (1990年)。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳をつづける。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 ----
 第4節・ボルシェヴィキ上層部の分裂。
 (1)ベルリンとウィーンがロシアとすみやかに合意するのは望ましくないと一致していたとすると、ペテログラードでは、意見は真っ二つに分かれていた。
 細かな差違を別にすると、ボルシェヴィキ内部に、ほとんどどんな条件であっても即時の講和を望む者たちと、ヨーロッパ革命を引き起こす手段として講和交渉を用いたいという者たちの対立があった。
 (2)第一の見解の主導者であるレーニンは、しばしば少数派に属することがあり、ときには一人だけの少数派だった。
 彼は、国際的な「諸勢力の相関関係」に関する悲観的な評価から出発した。
 レーニンもまた西側での革命を期待していたが、反対者たちよりも、「ブルジョア」政府が革命を粉砕する能力を高く想定していた。
 彼は同時に、ボルシェヴィキが権力を掌握し続けることについて、同僚たちほどには楽観的でなかった。
 レーニンは、講和交渉に付随した議論の間に、ヨーロッパではまだ内乱が発生していないが、ロシアではすでに起きている、と注意深く観察していた。
 この時期に関する見通しの点では、彼は、中央諸大国にある国内事情の困難さやすみやかに妥協する必要性を低く評価するという過ちを冒していたかもしれない。つまり、こうした点でのロシアの立場は、彼が思っていた以上に強かったのだ。
 しかし、ロシアの内部情勢に関する彼の見方は、完璧に適切だった。
 レーニンは、戦争を継続すれば国内の対抗者たちかドイツかのいずれかによって権力を奪われる危険がある、と分かっていた。
 また、権力を保持し続ける欲求を現実のものにするために、小休止が切実に必要であることも、分かっていた。
 そのためには、政治的、経済的、軍事的な組織的努力が必要だったが、いかほど負担が大きくて屈辱的であろうとも、平和という条件のもとでのみそれは可能だった。
 これが当面は西側「プロレタリアート」を犠牲にすることは、たしかに本当だ。しかし、レーニンの見方では、ロシアでの革命が完全に成功するまでは、ロシアの利益こそが最優先だ。//
 (3)レーニンに反対する多数派は、ブハーリンが先頭にいて、トロツキーが続いて加わった。この多数派の見地は、つぎのように要約された。//
 「中央諸国は、レーニンが小休止するのを許そうとしないだろう。
 彼らはウクライナの穀物と石炭、コーカサスの石油をロシアと遮断するだろう。
 ロシア住民の半分を支配下に置くだろう。
 反革命運動を財政支援し、革命を転覆させるだろう。
 ソヴィエトも、小休止の間に新しい軍を建設することはできないだろう。
 ソヴィエトは、まさに戦闘中に、軍事力を強化しなければならない。そうしてのみ、新しい軍隊を誕生させることができるのだ。
 確かに、ソヴィエトはペトログラードを、ひょっとすればモスクワをすら、放棄せざるを得ないかもしれない。だが、退却して再結集するだけの区域は十分にまだある。
 人民がかつて旧体制と闘うことができたほどには革命のために戦う意欲がないと分かったとしても-そして戦争派の指導者たちがこれを承認するのを拒むとしても-、全ゆるテロルと略奪を行って進出してくる全ドイツ軍によって、人民は疲労と無気力から呼び覚まされ、抵抗へと駆り立てられ、ついには広範で真に民衆的な革命戦争の熱狂が発生するだろう。
 この熱狂の流れに乗って、新しく畏怖すべき軍隊が立ち上がるだろう。
 下劣な屈服という恥を知らぬ革命は、復興を達成するだろう。
 革命は、世界の労働者階級の精神を掻き立てるだろう。
 そして最後には、帝国主義という悪魔を放逐するだろう。」(20)//
 このような意見の対立によって、1918年初めに、ボルシェヴィキ党の歴史上最大の危機が生じた。//
 ----------
 (20) Isaac, Deutscher, The Prophet Armed: Trotsky, 1870-1921(New York-London, 1954), p.387.
 ----
 第5節・初期の交渉(initial negotiations)。
 (1)1917年11月15日/28日、ボルシェヴィキは再び、交戦諸国に対して交渉を行うことを呼びかけた。
 この訴えは、連合諸国の「支配階級」が平和布令に反応しなかったために、ロシアは積極的に反応したドイツやオーストリアと停戦にかかる即時の交渉を行う用意がある、と述べた。
 ドイツは、ボルシェヴィキの提案をすみやかに受諾した。
 11月18日/12月1日、ロシアの代表団が、ドイツの東部戦線最高司令部があるブレスト=リトフスクに向けて出発した。
 この代表団を率いたのは、元メンシェヴィキでトロツキーの親密な友人の一人である、A・A・ヨッフェ(Ioffe)だった。
 カーメネフも含まれていた。これは、兵士、海兵、労働者、農民および女性という「勤労大衆」の代表という象徴的表現だった。
 ロシアの代表団を運ぶ列車がブレストに向かっている途中ですら、ペトログラードは、ドイツ兵団に対して反乱を呼びかけた。
 (2)停戦交渉は、11月20日/12月3日に、以前はロシアの将校用クラブだった建物で始まった。
 ドイツの代表団の長はキュールマン(Kühlmann)で、この人物はロシア事情の専門家だと自認しており、1917年にレーニンと協定するに際して最も重要な役割を果たしていた。
 両当事者は11月23日/12月6日に停戦を開始すること、11日間は有効とすることに合意した。
 しかしながら、この期限が満了する前に、相互の合意にもとづいて、1918年1月1日/14日まで延長するものとされた。
 この延長の表向きの目的は、連合諸国に対して再考慮して交渉に加わる機会を与えることだった。
 しかしながら、双方ともに、連合諸国がこれに応じる危険はない、と踏んでいた。キュールマンが首相に対して助言したように、ドイツが提示した停戦条件は重たいものなので、連合諸国がそれを受け入れるとは考えられなかった。(21)
 延長の本当の目的は、双方の側に対して、講和交渉へと至るそれぞれの立場を考え出す時間を与えることだった。
 このことが進行している以前にすでに、ドイツ軍は6分団を西部前線へと配置換えし、これにより停戦条件に違反していた。(*)//
 (3)ボルシェヴィキがいかにドイツとの関係の正常化を熱心に求めていたかは、停戦後すぐにヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ(W. v. Mirbach)候が率いるドイツ代表団をペトログラードで歓迎したという事実でも、分かる。
 その代表団は、民間人の戦争捕虜の交換や経済的、文化的交流の再開について調整することとされていた。
 レーニンは、12月15日/28日に、ミルバッハを接受した。
 ベルリンがソヴィエト・ロシアの状態に関する目撃証言を初めて得たのは、この代表団からによってだった。(+)
 ドイツはミルバッハから伝えられて初めて、ボルシェヴィキはロシアの外国債務を放棄しようとしてることを知った。
 この情報を受けてドイツ国有銀行は、ドイツの利益には最小限度の負担で、連合諸国の利益は最大限度となるように処理する覚書の草案を作成した。
 この趣旨での提案は、レーニンの古い仲間で今はストックホルムのソヴィエト外交代表者のV・V・ヴォロフスキ(Volovskii)によって概略が描かれていた。この人物は、ロシア政府は1905年以降に発生した負債だけを消滅させる、と提案していた。ロシアに対するドイツの貸付はほとんどが1905年以前に行われていたので、債務不履行(default)の大部分は、連合諸国の側の負担になるものだった。(22)(**)
 (4)ブレストでの会談は、12月9日/22日に再開した。
 キュールマンが、ドイツ代表団を再び率いた。
 オーストリア使節団の代表は、外務大臣のチェルニン(Czernin)候だった。
 トルコとブルガリアの外務大臣も、同席した。
 ドイツの講和提案は、コートランド(Courland)とリトアニアとともにポーランドのロシアからの分離も要求した。これらの地域はこのとき、ドイツの軍事占領のもとにあった。
 ドイツ側はこれらの条件は合理的だと考えていたに違いない。なぜなら、彼らは希望に充ちた宥和的な気分でブレストに来ていて、クリスマスまでには原則的な合意に達するだろうと予想していたからだ。
 しかし、彼らはすぐに失望した。
 訓令にもとづいて交渉を長引かせていたヨッフェは、曖昧で非現実的な(レーニンが起草した)対案を提示し、「併合と賠償金のない」講和と植民地と同様のヨーロッパ諸民族の「民族の自己決定」を求めた。(23)
 ロシア代表団は、事実上はまるでロシアが戦争に勝利したかのごとく振る舞い、中央諸国に対して、戦争中の全ての征圧地を放棄するよう求めた。
 この態度によって、ドイツに初めて、ロシアの意図に関する疑念が生じた。//
 (5)講和交渉は、非現実的な雰囲気の中で進められた。つぎのとおりだ。
 「ブレスト=リトフスクの会議室の情景は、誰か偉大な絵画家が描く芸術に値するものだった。
 一方には、落ち着いて警戒心を怠らない中央諸国の代表たちがいた。彼らは黒い上着を着て相当にリボンで飾っていて、輝いていてかつきわめて丁重だった。…。
 その中で注目されたのは、まずキュールマンの細い顔と油断のない眼だった。この人物の議論中の礼儀正しさはいつも変わりがなかった。
 堂々とした風格のチェルニンは、彼の無邪気な温良さのために、観測気球を上げさせらていた。また、小太りの風貌のホフマン将軍がいて、軍事上の問題に関する発言が求められたときは、しばしば顔を紅くして意気高く発言した。
 ゲルマン系(Teutonic)の代表者たちの背後には、多数の一群をなした幕僚たち、文民公務員たち、眼鏡をかけた職業的専門家たちがいた。
 各代表団は母国語を話した。そして、そのゆえに討議は長くなりがちだった。
 ゲルマン系諸代表団の反対側に、ロシア人が座っていた。ロシア人のほとんどは汚らしく、衣服が粗末で、討議の間じゅう長いパイプで煙草を吸っていた。
 討議のほとんどは、彼らの興味を惹いていないように見えた。そして、政治に関する精神の問題に入ってとりとめのない形而上学的発言を洪水のごとく行う場合を除いて、ぶっきらぼうに討議に割って入った。
 会議の雰囲気は、ある程度は、品のよい使用者たちが特別に鈍感な労働者たちの代表と交渉をしている集会のごとくだった。ある程度は、村の学校の遠足に付き添う上品な主催者が開く会合のごとくだった。」(24)
 (6)会場の雰囲気が乗ってきたクリスマスの日、ドイツ人たちを大いに当惑させたことに、チェルニン候が、連合諸国が講和交渉に加わらないならば、オーストリアが戦争内に征圧した全領土を譲渡しようと申し出た。彼は、停戦合意の決裂を何としてでも回避し、必要ならば分離した講和条約に署名する用意があることを示すよう、訓令を受けていた。(25)
 ドイツ人たちは、より強い立場にいると感じた。迫り来る春の西部攻勢によつて勝利することができると期待していたからだ。
 中央諸国は占領したポーランドやその他のロシア領域の定住者に自己決定権を認めよというロシアの要求に対して反応して、キュールマンは、その地域はすでにロシアから分離することでその権利を行使していると辛辣に答えた。//
 (7)手詰まり感に陥って、交渉は12月15日/28日まで延長された。しかし、大きくは報道されなかったが、法的、経済的な委員会の「専門家たち」の間での交渉は続いた。
 (8)ドイツは結果を評価して、ロシアは平和を望んでいるのか、それともたんに西ヨーロッパに社会不安を発生させるために時間を稼いでいるのかと、ある程度は不思議に思い始めた。
一定のロシアの行動は、こうした疑念を支えるものだった。
 ドイツの諜報機関は、トロツキーからスウェーデンの協力者に宛てた手紙を途中で盗み見した。そこには、外務人民委員〔トロツキー〕が「ロシアを含む分離講和は考え難い。最も重要なのは、一般的平和を促進する国際的社会民主主義勢力が結集するのを覆い隠すために交渉を長引かせることだ」と書いていた。(26)
 まるでこのようなことを意図しているのを示すがごとく、12月26日に、ソヴィエト政府は、国際関係では先行例のないことを行った。ツィンマーヴァルト・キーンタール政綱を支持している外国のグループに対して、公式に200万ルーブルの予算を計上したのだ。(*)
 ブレストでの政治的会談の速記録を出版してドイツ政府はロシア政府に見倣うべきだというヨッフェの主張でもって、ドイツ側の懐疑が緩和することはなかった。その速記録は、ロシアの側で、ドイツの労働者にボルシェヴィキのプロパガンダを伝えるために意図的に作られたものだった。//
 (9)この時点で、ドイツの軍部が介入した。
 ヒンデンブルク(Hindenburg)は、皇帝宛ての1月7日(12月25日)付の手紙で、ドイツ外交部がブレストで採っている「弱気の」、「宥和的な」戦術はドイツが強く講和を必要としているという印象をロシアに与えている、と不満を述べた。この手紙は、皇帝に対して、大きな影響力をもつこととなった。
 ドイツの戦術は、軍部の士気には悪い効果を持った。
 心の裡を明確に語ることをしないで、ヒンデンブルクは、ボルシェヴィキが停戦中の前線で推進している、ロシアとドイツの両兵団の「友好(fraternization)」政策がもつ驚くべき効果について示唆した。
 強力に行動するときだ。ドイツが東部で強い決意を示さないならば、ドイツの世界的地位を獲得するのに必要な講和を、どのようにして西側連合諸国に対して押しつけることを期待することができようか?
 ドイツは、将来の戦争を抑止することができるように、東部の国境線を引き直すべきだ。(27)//
 (10)ブレストでの優柔不断な外交を我慢できなかった皇帝は、同意した。
 その結果として、ドイツの態度は、明瞭に察知できるほどに硬化した。
 交渉による平和を追求する「見せかけ」は、口述されたものに従って放棄された。//
 -------------
 (21) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.153-4.
 (*) J. Buchan, A Hiatory of the Great War, IV(Boston, 1922), p.135.
 停戦協定は、その有効期間中にロシア前線から兵団を「大規模に」移動させることを禁止していた。
 (+) フランスの将軍のアンリ・A・ニーセル(Niessel)によると、連合諸国は、ペトログラードからブレストへのドイツの電信を傍聴していた。そしてそれから、ドイツが切実に講和を望んでいることを知った。
 General (Henri A.)Niessel, Le Triomphe des Bolcheviks et la Paix de Brest-Litovsk: Souvenirs, 1917-1918(Paris, 1940), p.187-8.
 (22) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.66-p.67.
 (**) ソヴィエト政府の国内および外国に対する全ての国家債務の不履行は、1918年1月28日に発表された。
 これによって消滅した外国負債の総額は、130億ルーブルまたは65億ドルと見積もられた。
 G. G. Shvittau, Revoliutsiia i Narodnoe Khoziaistvo v Rossi(1917-1921)(Leipzig, 1922), p.337.
 (23) 同上, p.59-p.60.; Fischer, Germany's Aims, p.487は、6項を挙げる。
 (24) Buchan, A History of the Great War, IV(Boston, 1922), p.137.
 (25) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.148-p.150.; Fischer, Germany's Aims, p.487-p.490.
 (26) Gerald Freund, Unholy Alliance(New York, 1957), p.4.
 (27) Sovetsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.194-7, p.208.
 ----
 第4節・第5節、終わり。

2232/L.Engelstein・Russia in Flames(2018)第6部第2章第3節。

 L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 以下、上の著の一部の試訳。
 第6部・勝利と後退。
 第2章・革命は自分に向かう。
 ---- 
 第3節。
 (1)攻撃されると考えて、クロンシュタット臨時革命委員会は、島の奪取を計画した。
 海兵たちは、武器庫、電話交換所、行政部署の建物を占拠した。
 委員会は-公式のソヴィエト機関紙のごとく<Izvestiia>と称する-新聞を発行した。その新聞は、秩序の維持を訴え、流血に至ることを警告した。(35) 
 大衆の示威行動の3日後の3月3日、労働者騒擾がペトログラードで衰えていたときであっても、当局は市とその周辺地域に戒厳令を敷いた。
 レーニンとトロツキーがその翌日に署名した布令は、「反乱」を非難し、反抗は「法の外にある」と宣告した。
 首謀的指導者の家族の間には、人質となった者がいた。
 交渉は、拒否された。
 選択できるのは、降伏するか、戦うか、だけだった。
 3月5日、クロンシュタットの将校たち(コズロフスキのような「軍事専門家たち」)は、武装防衛を組織化して、反乱者たちを助けることに同意した。(36)
 (2)同じ日、モスクワは、攻撃する決定を下した。
 トロツキーは、「最終警告」を発した。-「社会主義祖国」に刃向かった者は全員が、「直ちに武器を捨て」なければならない。「無条件で降伏した者だけが、ソヴェト共和国の寛大な措置を期待することができる」。
 「反乱と反乱者を軍隊によって粉砕する」よう、諸指示が発せられた。
 「これによって民間住民に対して生じる損害に対する責任は、あげて白軍反乱兵たちにある」。(37)
 この警告は、ラジオでクロンシュタットに伝えられた。
 ビラ(leaflets)が飛行機から撒かれた。そのビラは、白軍とコズロフスキ将軍を非難していた。
 反乱者たちは、自分たちは「革命が獲得した自由」を防衛していると、強く主張した。
 クロンシュタット兵団のある会合は、こう決議した。
 「我々は、死んでも、屈服しはしない。
 労働者人民の自由なロシアよ、永遠なれ」。(39)
 (3)最後通牒は、24時間延長された。
 3月7日、臨時革命委員会は、「労働者大衆の革命」は「ソヴェト・ロシの顔を冒涜した卑劣な中傷者や屠殺者たちを排除する」心づもりだ、と発表した。
 「トロツキー氏よ、我々はきみたちの寛大さなど必要としない!」。(40)
 ミハイル・トゥハチェフスキが指揮をとる第七軍は、3月8日に攻撃を開始することになっていた。その日は第10回党大会がモスクワで開催される予定の日で、攻撃の成功をその大会で発表することができるようにだった。(41)
 チェカの工作員はこう警告した。「外科手術によって広がる病気を除去する」ときだ。「内科的治療では、もう遅すぎる」。(42)
 (4)クロンシュタット兵士たちは他の要求の中で、強制的徴発(forced requisitions)の中止を主張した。
 1年前の1920年2月、トロツキーは、穀物の徴発(grain levy)、すなわち<razverstka>〔穀物徴発〕に関する知見を再考するようになっていた。これは、厄災的<貧民委員会(kombedy)>に取って代わったものだった。
 ウラルでの経験が示したのは、<razverstka>は収穫物の増大をもたらさなかったこと、そして農民たちが消費高割り当て(comsumption norm)に合わせて種を撒くように自ら制限する原因になっただけだったこと、だった。
 トロツキーは、代わりに一種の現物税(<prodnalog>)、収穫される量の一定割合、を提案し、農民たちがより多く植え付ける誘因にしようとした。(43)
 しかしながら、1920年3月、レーニンは、「数百万を数える、…戦争の気構えをもつ小ブルジョア財産所有者、小規模の投機者」に対する党の方針を再確認した。
 ほとんどのボルシェヴィキは、強制の増加を呼びかけることに同意した。(44)
 1年後、1921年2月頃、レーニンと党の最上層部、およびチェカは、<razverstka>の再検討をようやく開始した。(45)
 <prodnalog>〔食糧税〕導入の問題は実際に第10回大会の議事事項だったが、クロンシュタットに対する攻撃がすでに進行するまでは発表されなかった。
 反乱者たちの要求は、あらかじめ回答が回避されていたのだ。
 問題は、力だった。
 レーニンは、こう言った。「まさに今が、我々がこの民衆たちに教訓を教え込むときだ。そうすると数十年の間は、彼らは抵抗のことなどをあえて考えつこうとすらしないだろう」。(46)
 (5)かりに2日早く、3月6日に第10回大会が始まっていれば、反乱者側は政策変更を知って、おそらくは正しさが認められたと感じて、撤退したかもしれなかった。しかしそれは、レーニンが望んだことではなかった。(47)
 農民の大量の暴動は、党が穀物徴発の方法を緩和することを強いていた。
 労働者たちの抗議は、党内の労働者反対派と呼ばれるグループが労働組合の経済問題に関する役割をより大きくすることを主張するようになる原因となった。 
 しかしながら、レーニンは、党内についてすら、政治的統制を強化する必要性に固執した。
 党の統一を擁護して「アナキストとサンディカリスト的逸脱」を非難する決議は、重大な異見を党内で、上層部内ですら、表現することのできた時代に終焉を告げるものだった。
 こうして、民衆による騒擾の影響が引き起こした経済的譲歩に伴ったのは、新たなイデオロギー上の厳格な締め付けだった。//
 (6)敵に対する党の決定への草の根的挑戦を非難するのは容易だ。敵-黒の百、白軍将校、メンシェヴィキあるいは社会革命党。
 しかし、バルト艦隊の革命的海兵たちが自分たちの信条にもとづいて行動していることは、何ら秘密ではなかった。
 しかしながら、「この民衆たちに教訓を教え込む」のはさほど容易ではなかった。
 3月8日、反乱は、外科的な整然さをもってしても鎮圧されなかった。
 その時点で、およそ1万3000人の海兵と兵士、さらに2000人の武装民間人が、攻撃を退ける準備をしていた。
 彼らはいくぶんかは、大陸と隔てる11マイルの氷の覆いで守られていた。攻撃者たちは、銃火を浴びながらそこを横断しなければならなかっただろう。
 しかしながら、彼らは長期間の包囲に耐えることができなかった。弾薬、燃料、そして食糧が限られていたからだ。(48)
 じつに、飢えこそが、彼らに対して用いられた武器だった。
 「空腹のために、クロンシュタットはボルシェヴィキの力に屈服するのを余儀なくされるだろう」と、公式の報告書は予測していた。(49)
 (7)攻撃の第一局面は、3月7日の夜から8日にかけて始まった。
 銃砲が響く音を、ペトログラードで聞くことができた。だが、雪と霧のために、すぐに戦闘行動が中止された。
 翌朝、冬仕様で身を包んだ赤軍の兵団が、明け方の雪嵐の中を突き進んだ。
 機関銃が、氷を砕いた。
 何人かの兵士が海に落ち、何人かは歩み続けるのを拒んだ。
 陽光が9時頃に輝いたとき、雪の上に死体が横たわっているのが見えた。(50)
 この夜、3月8日の未明、赤軍兵士のグループが、白旗を掲げて島に接近した。
 非武装の〔クロンシュタット側の〕指導者二人が馬から降り、彼らと会おうとした。
 その一人のS・ヴァシニン(Sergei Vershinin)は26歳の<Sevastopol>の電気技師で、明確に使者たちに対して、共産党に対する闘争に加わるよう訴えた。
 のちのあるソヴィエト文献は、ヴァシニンは「一緒になって、Yids(ユダヤ人)をやっつけよう」と言って彼らを誘った、と主張している。
 彼が本当にこの俗語を使ったのだとすれば、驚くべきことだっただろう。
 しかし、この説明が叙述しようとしているのは、彼は「遅れて」、「堕落して」いるが幻滅していない忠実な革命の息子だ、ということもあり得る。
 いずれにせよ、ヴァシニンはたたちに逮捕された。もう一人の仲間は、何とか逃げのびた。(51)//
 (8)3月10日、トロツキーは、湾の氷が解けて反乱者たちがフィンランドへ行けるようになる前に、早く攻撃せよと、主張した。
 彼は苛立っていた。「緊急的手段が必要だ。怖れることだが、党も中央委員会も、クロンシュタット問題がきわめて深刻であることに十分に気づいていない」。(52)
 問題の一つは、彼らを鎮圧するに必要な軍隊の状況に関係していた。
 どちらの側にも、士気(morale)という問題があった。-そう、じつに誰もが、二つの側ではない、と分かっていた。
 同じ者たちだった。革命の同じ戦闘部隊が、相互に対して戦闘隊列を敷いていたのだ。//
 (9)同じ日、トゥハチェフスキはレーニンに書き送った。面倒なのは、反抗がバリケードの向こう側で起きていることだ、と。
 司令官は愚痴をこう述べた。「ペトログラードの労働者は信頼できない。クロンシュタットの労働者は、海兵たちを支持している。…多数のメンシェヴィキが、スモレンスク市ソヴェトに選出された」。
 経済条件が長く困難なままなので、労働者たちはいつでも、「ソヴェト権力に反抗する」かもしれない。
 体制側には本当の、十分に訓練した軍隊が必要だ。そうした軍隊ならば、戦争の挑発、内部に対する戦争に対処することができるだろうから。
 トゥハチェフスキは、こう警告した。「平時にあるようなものではないだろう」。(53)
 (10)トゥハチェフスキのこの時点での任務は、内部からの反抗を軍事的に弾圧することだった。
 空軍と砲兵隊による爆撃が3月10日に始まり、濃霧の妨げがないときに間欠的に続いた。さらに4日間が過ぎたとき、トゥハチェフスキは再編成すべく中断させた。
 彼が気づいていたように、状況は安定していなかった。
 鉄道労働者の中には、兵団を輸送するのを拒む者たちもいた。
 ある兵団は、配置に就くことを拒否した。
 男たちは、躊躇を示していた。
 「前線に行くつもりはない」、「戦争には飽きた、パンをくれ」、そしてよく見られた、「ユダヤ人をやっつけろ」。
 彼らは、仲間たちと戦闘しようとはしなかった。(55)
 (11)兵士たちは溺死させられるために氷の上に連れて行かれる、という風聞が流れた。
 二つの連隊が兵舎から武器を手にして出てきて、「氷の上には行かない」、「村落へと展開されてくれ」、「別の一団を呼び集めよう」と叫んだ。(56)
 司令部はこのとき、外科的手段を自分たちの部隊にも適用した。
 200人の兵士が逮捕され、74人の指導者たちが射殺された。そして連隊は、秩序ある状態に戻った。
 まさにこのような場合に、「臆病さや退却の試みが生じた場合」のために、特殊部隊が至るところに配置された。(57)
 実際に、苛酷な紀律が導入された。-野戦審判所、不服従や脱走に対する死刑、公開の処刑。
 反抗的な分団は拘束され、その場で処刑された。
 兵士の男たちは、一度に30人または40人が、射殺された。(58)
 紀律が回復した。ペトログラードの労働者たちは、静かになった。(59)//
 (12)3月15-16日の夜、クロンシュタット爆撃が再び始まった。
 攻撃側が予想したように、クロンシュタットの防衛者たちには燃料、武器、衣料品が、そして食糧が乏しくなってきていた。
 圧倒的に数は多かったが、特別の食料配給を受け、電線切断機を装備し、その側では反革命者だったと責められている帝制時代と同じ将校によって指揮されている兵団と、彼らは直面していたのだ。
 3月16日夕方、<Sevastopol>が一発の砲弾を受けた。(60)
 その1日後、ペトリチェンコを含む革命委員会全体が、氷上を横切ってフィンランドへと逃亡した。
 総計で8000人のクロンシュタット兵士たちが、これを安全に行わせた。(61)//
 (13)3月18日の朝までに、赤軍が統制権を握った。
 その日は、1871年3月18日のパリ・コミューン開始の第50周年記念日と一致していた。
 ペトログラードの新聞は、喜んだ。
 二隻の裏切り戦艦は、<Marat(マラー)>および<パリ・コミューン>と改名された。
 残っている海兵たちと参加していた赤軍兵団は、再配置され、そして解散させられた。
 死者数の見積もりは、様々だ。
 死体は、街頭や氷上に放っておかれていた。
 この月の末に、ロシアとフィンランドの代表団が、解氷しつつある表面にある死体の処理について、討議した。(62)
 (14)<Petropavlovsk>と<Sevastpol>の乗員兵士たちは、とくに苛酷に扱われた。
 逮捕された者たちのうちほとんどは、この事件に何らの役割を果たしていなかった。しかし、全員が公的な審判で、反乱および武装蜂起の罪があるとして訴追された。
 1921年夏頃までに、チェカと多数の野戦審判所は、2000名以上の者に対して死刑、6000人以上の者に対して収監(懲役)を言い渡した。
 1年後、数千人の家族が要塞都市から追放され、従前の住民たちから離れた。(63)
 処刑された兵士たちの多くは、20歳代には農民だった。(64)
 ヴァシニンはクロンシュタットの使者で攻撃の第一日めに白旗を掲げた計略で拘束されていたのだが、尋問を受ける一人となり、射殺された。(65)
 (15)トロツキーには、形式的な訴訟手続の目的に関する骨格的構想などなかった。
 審判は「重要な煽動的意義」を持ち得るだろう。
 「いずれにせよ、処刑に関する報告、演説等々は、小冊子やビラよりもはるかに力強い影響力をもつだろう」。(66)
 目標は、トロツキーがクロンシュタットの事態と一体視していた社会革命党の影響を排除することだった。そして、元々はマフノ(Makhno)と連携していたが、海兵たちの反乱にも関係したアナキストたちの残滓のそれをも。
 革命家仲間の内部から共産党の権威に反対すること-あるいはそれを疑問視すること-は、率直かつ明快に論証されなければならない。これが、この事態の帰結だった。//
 ----
 第3節、終わり。

2226/R・パイプス・ロシア革命第13章第3節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳をつづける。
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 ----
 第3節・ドイツとボルシェヴィキが講和交渉へ。
 (1)既述のように、レーニンには、中央諸国が要求する条件を受け入れる心づもりがあった。しかし、レーニンはドイツの工作員だとする疑いが広がっていたために、慎重に事を進める必要があった。
 したがって、ただちにドイツやオーストリアとの交渉に入るのではなく、あらかじめ考えていただろうように、全交戦諸国に対して、会合して講和しようとの訴えを発した。
 実際には、ヨーロッパの一般的平和は、彼が最も望んでいないことだった。
 述べてきたように、十月での権力奪取を急いだ一つの理由は、そのような平和がまさに訪れるのを怖れたからだった。そうなってしまえば、ヨーロッパに内乱を発生させる機会を永遠に封じてしまうからだ。
 明らかに、これまでのいくつかの訴えが聞く耳を持たれなかったために、レーニンは平和を呼びかけることに怖れを感じなかったと思われる。従前の訴えには、1916年12月のウィルソン大統領の提案、1917年7月のドイツ帝国議会の講和決議、1917年8月の書面上の諸提案が含まれる。
 想定したとおりにレーニンの提案が連合諸国に拒否されれば、彼は自由に手筈を整えることができるだろう。//
 (2)レーニンが起草して第二回ソヴェト大会が採択した、奇妙な名前の「平和に関する布令」は、交戦諸国に対して3ヶ月の停戦を提案した。
 この提案は、イギリス、フランスおよびドイツの労働者に対する訴えと一対のものだった。後者は各国労働者について、こう言う。
 「その多方面からする決定的で、無私の旺盛な活動は、平和の任務を、同時に、各人民の勤労被搾取大衆を全ての奴隷化と搾取から解放する任務を、我々が成功裡に達成するのを、助けている」。(7)
 G・ケナン(George Kennan)は、この「布令」を「示威的(demonstrative)外交」と名付けた。彼によると、「諸政府間の、自由に受容されかつ相互の利益となる合意達成を促進するのでなく、他政府を当惑させかつ各国の国民内部での対立を掻き立てることを意図する」外交だ。(*)
 ボルシェヴィキは、同じ趣旨の諸宣言を発して、交戦諸国の国民に対して、反乱を起こすよう強く訴えた。(8)
 レーニンは国家の長として、今やツィンマーヴァルト(Zimmerwald)左翼の綱領を推進することができた。//
 (3)ボルシェヴィキは、11月9日/22日に、平和布令を連合諸国外務部局に伝えた。
 連合諸国政府はただちに、これを拒否した。トロツキーはこのあと、中央諸国に対して、停戦交渉を開始する用意があることを知らせた。
 (4)ボルシェヴィキの取り込み政策は、ドイツにとって相当の利益となるものだった。
 ロシアの分離講和の提案がドイツのある範囲の者たちに思い出させたのは、1763年の「奇跡」だった。その年、親フランスのエリザベトの死と親プロイセンのピョートル三世の即位によって、ロシアは七年戦争から撤退した。そのことがフリートリヒ大帝を敗北から、プロイセンを解体から救ったのだった。
 ロシアの連合諸国からの離脱意欲は、ドイツには二つの利益があった。すなわち、①数十万人の兵団を西へと移動させる、②イギリスの海上封鎖を突破する。
 このような見込みは、ドイツが再び勝利を手元に引き寄せるように思わせた。
 ペトログラードでのボルシェヴィキの権力掌握を知って、ルーデンドルフ(Ludendorff)は、1918年春に、東側前線から移ってくる分団の助力でもって西側前線で決定的な攻撃を行う作戦を練り上げた。
 皇帝は、その計画を承認した。(9)
 この段階でルーデンドルフは、親ボルシェヴィキ志向の設計者であるR・v・キュールマン(Richard von Kühlmann)が追求している外務当局の、ロシアとすみやかに停戦して、講和へと進む、という政策方針にすっかり同意していた。//
 (5)ボルシェヴィキと中央諸国の間の知恵比べでは、後者の側が圧倒的に有利であるように見えた。一方には数百万人の紀律ある軍をもつ安定した政府があり、これと比べると他方には、解体過程にある寄せ集めの軍をもつ、ほとんどの外国が承認していない素人と簒奪者の政治体制があったのだ。
 しかしながら、現実には、力の均衡はさほどに一方的ではなかった。
 1917年末頃、中央諸国の経済状況は絶望的になっていて、戦争継続を行うことができそうでなかった。
 オーストリア=ハンガリーはとくに、心許ない状態だった。その外務大臣のO・チェルニン侯(Count Ottokar Czernin)は、ブレスト交渉での間にドイツに対して、自分の国はたぶん次の収穫期まで持ちこたえることができない、と語った。(10)
 ドイツは好かったが、辛うじてにぎなかった。ある範囲のドイツの政治家たちは、 1918年4月半ばまでに食糧を使い果たすだろうと考えていた。(11)//
 (6)ドイツとオーストリアは、民間人の戦意という問題を抱えていた。ボルシェヴィキによる平和の訴えが民衆の間に大きな希望を掻き立てていたからだ。
 ドイツの宰相は皇帝に対して、ロシアとの交渉が決裂すればオーストリア=ハンガリーはおそらく戦争から離脱し、ドイツは国内騒擾に巻き込まれるだろう、と助言した。
 ドイツの(戦争を支持した)社会主義多数派の指導者であるP・シャイデマン(Philipp Scheidemann)は、ロシアとの講和交渉が失敗すれば「ドイツ帝国の終焉となる」だろうと、予見した。(12)
 こうした全ての-軍事、経済、および心理上の-理由で、中央諸国は、ボルシェヴィキが必要とするのとほとんど同じ程度にロシアとの講和を必要とした。
 ロシア側が十分には知っていなかったこの事実は、ドイツとオーストリアに接近するレーニンの降伏主義政策に反対する者たちは、ふつうは言われているほどには非現実的ではなかった、ということを示している。
 敵もまた、自分の頭に銃砲を向けて交渉していたのだ。//
 (7)ボルシェヴィキにはまた、別の有利さもあった。すなわち、相手側に関する詳細な知識があった。
 西側で数年間生活していたので、ドイツの国内問題、政治上および取引上の人々の性格、党派的配列状態等によく通じていた。
 彼らのほとんど全員が、西側の言語の一つまたはそれ以上を話した。
 ドイツは社会主義の理論と実践の第一の中心地だったために、自国以上ではなくとも同等に、ドイツのことを知っていた。そしてかりに必要とあれば、ソヴナルコムは喜んでそこで権力を掌握しただろう。
 知識がこのようにあったことで、事業家を将軍たちと、左翼を右翼社会主義者と競わせたり、ドイツの労働者たちを容易に理解可能な言語で革命へと喚起させたりすることによって、彼らは、敵側陣営内部にある不和を利用することができた。
 対照的に、ドイツは、交渉に入ろうとしている相手方について、ほとんど何も知らなかった。
 脚光を浴びてきたばかりのボルシェヴィキは、ドイツにとっては、無骨かつ饒舌で実用的でない知識人の一群だった。
 ドイツ人は一貫してボルシェヴィキの行動を誤解し、その狡猾さを過少評価した。
 ある日、ボルシェヴィキは性急な革命家たちで、意のままに操作できるように見えた。
 次の日、ボルシェヴィキは、自分自身のスローガンを信じないで実務的(businesslike)な取引をする用意のある、現実主義者だった。
 1917-18年の両者の関係では、ボルシェヴィキは、ドイツ人を当惑させ、その欲求を刺激する保護色を纏うことによって、何度もドイツを出し抜いた。//
 (8)ドイツのソヴィエト政策を理解するために、そのいわゆる<ロシア政策(Russlandpolitik)>について、少しばかり述べておこう。
 しばらくの間、ロシアと講和をする直接の利益は、軍事的な考慮にもとづくものだった。ドイツもロシアについて、長期的な地政学的企図を有していた。
 ドイツの戦略家たちは伝統的に、ロシアに強い関心を示してきた。第一次大戦以前にドイツほどにロシア研究の伝統を積み重ねていた国がなかったのは、偶然ではなかった。
 保守派は、自国〔ドイツ〕の国家的安全保障には弱いロシアが必要だ、ということを自明のことと考えていた。
 第一に、ロシアが第二戦線でドイツを脅かすことができない場合にのみ、ドイツ軍は自信をもって、世界の覇権をめぐる戦いでフランスや「アングロ=サクソン」に立ち向かうことができる。
 第二に、<世界政治(Weltpolitik)>での重要な競争国となるためには、ドイツは、食糧を含むロシアの自然資源を利用することができることが必要だ。ドイツはこの自然資源を、ロシアがドイツの服属者になってのみ、満足できる条件で獲得することができる。
 ドイツはきわめて遅くに国民国家として確立したがゆえに、帝国主義略奪競争に入らなかった。
 競争相手諸国の経済的力量に対抗するドイツの唯一の現実的機会は、東方へと、広大なユーラシアへと、膨張することにあった。
 ドイツの銀行家や産業家は、ロシアに、潜在的な植民地を、アフリカの代用物を見た。
 彼らはドイツ政府の文書の草稿を書いて、その中で、ドイツが無関税でロシアの良質な鉄鉱石とマンカン鉱石を輸入すること、そしてロシアの農業と炭鉱を利用すること、の重要性を強調した。(13)//
 (9)ロシアを服属国家に変えるためには、二つのことがなされなければならなかった。
 ロシア帝国は解体して、大ロシア人が居住する領域へと縮小されなければならない。
 このことの意味の一つは、ドイツがバルト地方を併合して、表向きは主権をもつが実際にはドイツが支配する保護領である<防疫線(cordon sanitaire)を生み出す、ということだった。保護領とは、ポーランド、ウクライナ、およびジョージア。
 大戦前および戦争間に政治評論家のP・ロールバハ(Paul Rohrbach)が主張していたこの基本方針は(14)、とくに軍部に対して、強い訴求力をもった。
 1918年2月、ヒンデンブルクは皇帝に対して、ドイツの利益のために必要なのは、ロシアの国境線を東に移し、人口が多くて経済的力のあるロシアの西部地方を併合することだ、と書き送った。(15)
 これが本質的に意味したのは、ロシアを大陸ヨーロッパから追放することだった。
 ロールバハの言葉によれば、問題は「我々の将来の安全が確保されるべきだとすれば、ロシアは今日までにそうだったのと同じ意味でのヨーロッパの大国にとどまるのが許容されるのか、<それとも、そうであることが許容されないのか?>」だった。(16)//
 (10)第二に、ロシアはドイツに、全ての経済的な権利や特権をドイツに譲りわたして、ドイツの浸透を、究極的にはドイツの覇権を認めなければならなかった。
 ドイツの企業家たちは戦争中に政府に対して、ロシアの西部地方を併合し、ロシアを経済的に利用することを強く要望していた。(17)//
 (11)こうした観点からすると、ロシアにボルシェヴィキ政府があること以上に好都合のものはなかった。
 1918年からのドイツ国内の情報通信は、つぎの理由でボルシェヴィキが権力ある地位にとどまるのを助けるべきだ、という議論で充ちていた。すなわち、ボルシェヴィキは、膨大な領土的経済的な譲歩を行う用意がある、またその無能力さと不人気のゆえにロシアが永続的な危機にあるのを続けさせる、ロシアの唯一の政党だ。
 国家補佐官だった大将P・v・ヒンツェ(Paul von Hintze)は、つぎのような合意を表明した。それは、1918年秋に、信頼できない危険な相棒だと見てボルシェヴィキを拒絶しようとしていた者たちに立ち向かっていたときのことだった。
 ボルシェヴィキを排除することは、「ロシの軍事的弱体化を目指していた、東方領域での我々の戦争指導力と我々の政策のこれまでの全作業を覆してしまうだろう」。(18)
 P・ロールバハも、類似の調子で、こう論じた。//
 「ボルシェヴィキは、大ロシアを破滅させている。ロシアが潜在的にもつ将来の危険の根源を、根こそぎ破壊している。
 ボルシェヴィキは、大ロシアについて我々が感じてきた不安のほとんどを、すでに解消した。
 そして我々は、彼らが可能なかぎり長くその仕事を継続することができるよう、全てのことを行うべきだ。それは我々に有益だ。」(19)//
 -------------
 (7) Dekrety, I, p.16.
 (*) George Kennan, Russia Leaves the War(Princeton, N. J., 1956), p.75-p.76.
 11月早くに、ボルシェヴィキは、外務省の書類から、ロシアと連合諸国間の秘密条約を公表し始めた。
 ボルシェヴィキは、訴えを発することで、1792年11月に自由の「再獲得」を熱望する全ての国民に対して「兄弟愛と助力」を誓約したフランスの革命家たちに見倣った。
 (8) E. G. Revoliutsiia, V, p.285-6.
 (9) Fritz Fischer, Germany's Aims in the First World War(New York, 1967), p.477.
 (10) Sovestsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.278.
 (11) 同上, p.108.
 (12) 同上, p.184.
 (13) 一例は、同上, p.68-p.75。Fischer, Germany's Aims, p.483-4.も見よ。
 (14) 例えば、Paul Rohrbach's Russland und Wir(Stuttgart, 1955)を見よ。
 (15) Sovestsko-Germanskie Otnosheniia, I, p.194-6.
 (16) Paul Rohrbach, Russland und Wir, p.3.
 (17) Fritz Fischer, Griff nach den Weltmacht(Düsseldorf, 1967), passim〔多数箇所〕.
 (18) Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918(Vienna-Munich, 1966), p.245-6.
 (19) Isaac Deutscher, The Prophet Armed: Trotsky, 1870-1921(New York-London, 1954), p.387.
 ----
 第3節、終わり。

2224/R・パイプス・ロシア革命第13章第1・第2節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 試訳をつづける。第13章に入る。第1節に当たる部分に目次上の表題がないので、たんに「序」とする。
 ----
 第13章・ブレスト=リトフスク。
 「党の煽動活動家は、わが党はドイツとの分離講和を支持している、という資本主義者が投げつける汚い中傷に対して、何度も、何度も、抗議しなければならない」。
 レーニン、1917年4月21日。(1)
 **
 第1節・序。
 (1)十月以降のボルシェヴィキの主要な関心は、その権力を確固たるものにし、全国土へと拡張することだった。
 彼らはこの困難な任務を、現実的な外交政策の枠組みの中で行わなければならず、その中心に位置したのは、対ドイツ関係だった。
 レーニンの判断では、ロシアがすみやかにドイツとの停戦に署名しなければ、自分が権力を維持することのできる機会は皆無に近い。
 逆に言えば、停戦とそれに続く講和は、ボルシェヴィキが世界制圧を始めるドアを開けるだろう。
 1917年12月、ほとんどの支持者がドイツが提示した条件を拒否していたとき、レーニンは、ドイツの言うがままにする以外の選択の余地は党にはない、と論じた。
 問題は、きわめて単純だ。ボルシェヴィキが講和をしなければ、「戦争に耐えられないほど消耗している農民軍は、…社会主義労働者政権を打倒するだろう」。(2)
 ボルシェヴィキには、権力を堅固にし、行政運営を管理し、自分たち独自の軍隊を建設するために、<peredyshka>あるいは休息時間(breathing spell)が必要だ。
 (2)このような想定から進めて、レーニンには、自分に権力基盤が残されるかぎりはどんな条件でも中央諸国と講和を締結する心づもりがあった。
 党員たちの抵抗は、ボルシェヴィキ政府は西ヨーロッパで革命が勃発する場合にだけ生存し続けることができるという考え(レーニンも同じ)や、 それは今にも発生するに違いないとの確信(レーニンは完全には同じでない)によっていた。
 「帝国主義」中央諸国との講和、とくに屈辱的な条件でのそれは、レーニンの反対者たちからすると国際社会主義に対する裏切りだった。
 講和は、長期的には革命ロシアの死を意味するだろう。
 彼らの見方では、国際プロレタリアートの利益よりも、ソヴェト・ロシアの短期的でナショナルな利益を優先させてはならない。
 レーニンは、これに同意しなかった。
 「我々の戦術は、どうすれば、自らを強固にし、あるいは他諸国が加わるまで<一国で>あっても生き抜く可能性を、社会主義革命に関して、より信頼できより希望がある方途で確実なものにすることができるか、という基本的な考えにもとづいている。」(3)
 ボルシェヴィキ党は、1917-1918年の冬、この問題で、真っ二つに分かれた。
 (3)ボルシェヴィキ・ロシアの中央諸国との関係の歴史、とりわけ十月のクー以降の12ヶ月間のドイツとの関係の歴史は、そのときに共産主義者がその外交政策の戦術と戦略を理論上定式化し、実務で作り上げていくものだったため、きわめて興味深いものだ。
 --------------
 (1) Lenin, PSS, XXXI, p.310.
 (2) 同上, XXXV, p.250.
 (3) 同上, p.247. <>は挿入した。
 ----
 第2節・ボルシェヴィキと伝統的外交。
 (1)西側諸国の外交の起源は、15世紀のイタリア都市国家に遡る。
 そこから外交実務が残りのヨーロッパに拡がり、17世紀には国際法の編纂が見られた。
 外交は主権国家間の関係を調整し、紛争を平和的に解決することを意図するものとされた。
 外交が失敗して武力行使に訴えられれた場合には、国際法の任務は暴力の程度を可能な限り小さいものにし続け、敵対関係をすみやかに終わらせることだった。
 国際法が成功するか否かは、全ての当事者が一定の原理を受け容れているかによる。
 1.主権国家は、生存の権利を疑いの余地なく有することが承認される。どんな見解の差異が諸国家にあろうとも、それぞれの存在自体は決して問題になり得ない。
 この原理が1648年のウェストファリア条約を支えた。
 この原理は18世紀の終わりにポーランドの第三次分割によって侵犯され、国の消滅をもたらしたが、例外的な場合とされた。
 2.国際関係は、政府間の接触に限定される。ある政府が別の政府の頭越しにその国民に対して直接に訴えるのは、外交上の規範を侵犯する。
 19世紀の実務では、国家は通常は外務省を通じて意思や情報を連絡し合う。
 3.外務当局間の関係は、正式合意の尊重も含めた、一定レベルの誠実さと善意を前提とする。これらなくして相互信頼はなく、信頼がなければ、外交は無意味な活動となるからだ。
 (2)15世紀から19世紀の間に発展したこうした原理と実務は、キリスト教諸国の超国家的共同社会の存在はむろんのこと、自然法の存在を想定している。
 自然法に関するストア派の観念は永遠で普遍的な正義の規準を想定しているが、H・グロティウス(Hugo Grotius)以降のその国際法の理論家たちが、国家間関係にその観念を適用した。
 キリスト教徒の共同社会という観念は、どんな差異があってもヨーロッパ諸国とその海外地は一つの家族の一員だ、ということを意味した。
 20世紀以前に、国際法の観念は、ヨーロッパ共同社会の外にいる人々に適用されるとは考えられていなかった。-この姿勢が植民地征服を正当化した。
 (3)明らかに、こうした「ブルジョア」概念の全複合体が、ボルシェヴィキには不快だった。
 革命家は既存の秩序を転覆しようと決意しているので、国際的国家システムの神聖さを承認するとはほとんど期待されていなかっただろう。
 政府の頭越しにその国民に訴えることは、革命戦略のまさに根本だった。
 かつまた、国際関係での誠実さと善意について言えば、ボルシェヴィキは、その他のロシア急進派と共通して、道徳という規準は運動内部でのみ、同志間の関係についてのみ義務的なものになると見なしていた。すなわち、階級敵との関係には、道徳ではなく戦争の規則が当てはまる。
 戦争の場合と同じく革命では、重要な原理はただ一つ、<kto kogo>、誰が誰を喰うか、だった。//
 (4)十月のクー以後の数週間、ほとんどのボルシェヴィキは、ロシアの例がヨーロッパ全域に革命を始動させると期待していた。
 産業ストライキや暴動に関する外国からの全ての報告が、「始まり」だと歓迎された。
 1917-1918年の冬、ボルシェヴィキの<Krasnaia gazeta>やこれと類似の党機関紙は、毎日のごとく、横大見出しで、西ヨーロッパでの革命的爆発を報告した。
 ある日はドイツ、つぎはフィンランド、そして再びフランス。
 このような期待が生き続けているかぎりは、ボルシェヴィキには、外交政策を作り上げる必要がなかった。
 しなければならないのは、いつもやってきたことの繰り返しだった。つまり、革命の炎を燃え立たせること。//
 (5)しかし、この希望は、1918年春に、いくぶんか衰えた。
 ロシア革命にはまだ、競争する仲間相手がいなかった。
 西ヨーロッパでの反乱やストライキはどこでも弾圧され、「大衆」は「支配階級」を攻撃しないで、お互いに殺戮し合った。
 このような事態を認識しはじめたとき、革命的な外交政策を作り出すことが喫緊となった。
 この点で、ボルシェヴィキには指針がなかった。マルクスの書物も、パリ・コミューンの経験も、大した助けにならなかったからだ。
 この困難さは、主権国家の支配者としての利益と世界革命の自認の指導者としての利益と、これら二つの矛盾する条件があることからも生じていた。
この後者の点での理解では、ボルシェヴィキは他の(「非・社会主義的」)政府の存在する権利を否定し、外交関係を国家の長や閣僚たちに限定する伝統を拒否した。
 ボルシェヴィキは、ナショナルな「ブルジョア」国家の構造全体を完膚なきまで破壊するのを欲した。そうすることで彼らは、外国の「大衆」が反抗するように激励しなければならなかった。
 だが、しかし、彼ら自身が主権国家を今では率いているために、他の政府との関係を避けることはできなかった。-少なくともその政府が世界革命によって打倒されるまでは。
 そして、他政府と関係をもつには、「ブルジョア」国際法の伝統的基準に合致して行動しなければならなかった。
 彼らはまた、自分たちの内部問題に外国が干渉することを排除するため、こうした基準による保護を必要とした。//
 (6)共産主義国家の二重性(dual nature)、つまり党と国家の形式的分離、が有用だと分かるのは、まさにこの点だ。
 ボルシェヴィキは、二つのレベルの外交政策を構築することで、問題を解決した。一つは、伝統的。二つは、革命的。
 「ブルジョア」諸政府と交渉する目的で、外務人民委員部を設立した。部員は全員が信頼できるボルシェヴィキで、党中央委員会からの指令に服従した。
 この機関は、少なくとも表面的には、外交に関する受容された規範に合致して、機能した。
 相手国で許されるかぎりで、ソヴィエトの外交使節団の長は「大使」や「公使」ではなく「政治代表者」(polpredy)と呼ばれ、旧ロシアの大使館の建物を受け継ぎ、cutawayを着用し、シルク・ハットを被り、「ブルジョア」大使館の仲間たちとよく似た振る舞いをした。(*)
 革命的外交-厳密に言えば、用語法上の矛盾がある-は、コミュニスト・インターナショナル(コミンテルン)のような、党が自らまたは特殊機関の工作員を通じて行う場所になった。
 工作員たちは革命を刺激し、外務人民委員部が適切な関係を維持している、まさにその外国政府に反対する地下活動を支援した。//
 (7)このような機能の分離はソヴェト・ロシア内部での党と国家の類似の二重性(duality)を反映しており、スヴェルドロフ(Sverdlov)はボルシェヴィキ第七回党大会で、ブレスト=リトフスク条約の方向に関して述べた。
 署名国が敵対的な煽動活動やプロパガンダを行うことを禁じる条項に言及して、こう言う。
 「我々が署名した、そしてすみやかにソヴェト大会で批准させなければならない条約から、つぎのことが完全に明確になる。すなわち、政府、ソヴェト権力の権能者として、我々は今まで行ってきた広範な国際的煽動活動をすることができなくなるだろう。
 しかし、これは、我々が煽動活動を微小なりとも削減しなければならないことを意味していない。
 今からはたんに、ほとんどつねに、人民委員会議の名前によってではなく、党中央委員会の名前によって行わなければならない。…」(4)
 党を私的組織と見なすというこの戦術によって、悪辣な行動については「ソヴィエト」政府には責任がなく、ボルシェヴィキは、むしろ興味深い決定を着実に押しすすめた。
 例えば、1918年9月にベルリンがロシアの新聞(その頃まで完全にボルシェヴィキが統制していた)による反ドイツ・プロパガンダについて抗議したとき、外務人民委員部は、いたずら気に、こう回答した。
 「ロシア政府は、ドイツの検閲部とドイツの警察が、ロシアの政治的組織-つまりソヴェト制度-について悪意ある煽動活動をしているとして…ドイツの新聞を訴追していないことを、遺憾には思っていない。…
 ソヴィエト諸制度についての政治的社会的な反対意見を自由に表現しているドイツのプレスに対して、ドイツ政府の側がいかなる抑圧的な措置もとっていないことを、十分に許容し得るものだと考えるならば、ドイツの制度に関するロシアの私人や非公式新聞の同様の行動も、同等に許容し得るものだ。…
 最も断固として抗議する必要があるのは、ドイツ総領事館が、つぎのように提示していることだ。すなわち、ロシア政府は警察的手段によってロシアの革命的プレスをあれこれの方向へと指揮することができ、官僚機構の影響でもってその中にあれこれの見方を注入することができる、と頻繁に述べている。」(5) //
 (8)ボルシェヴィキ政府は、外国がロシアの内部問題に干渉したとき、きわめて多様に反応した。
 早くも1917年11月、外務人民委員のトロツキーは、同盟国の大使たちがロシアの正統な政府の所在に確信がなくて軍最高司令官のN・N・ドゥホーニン(Dukhonin)に外交書簡を送ったあとで、ロシアの問題に関する同盟国の「干渉」に抗議した。(6)
 ソヴナルコムは、機会があるごとに、内政不干渉の原則を侵犯していると諸外国に対して抗議した。まさにその原則を自らがくり返して侵犯しているときにあってすら。//
 -------------
 (*) 最も早いロシアの<polpredy>は、中立国に配置された。ストックホルムにV. V. Vorovskii、ベルンにIa. A. Berzin。
 ブレスト条約が批准された後、A. A. Loffe がベルリンでの任務を受け継いだ。
 ボルシェヴィキは、先ずリトヴィノフを、次いでカーメネフをイギリス(The Court of St. James)に任命しようとしたが、いずれも拒否された。
 フランスもまた、内戦の後まで、ソヴィエトの代表を受け入れようとしなかった。
 (4) Sed'moi Ekstrennyi S"ezd RKP(b)(Moscow, 1962), p.171.
 (5) Sovetsko-Germanskie Otnoshennia ot peregovorov v Brest-Litvske do podpisaniia Rapall'skogo dokovora, I(Moscow, 1968), p.647-9.
 (6) C. K Cumming & W. W. Pettit, eds., Russian-American Relations 1917年3月-1920年3月(New York, 1920), p.53-p.54.
 ----
 第1節・第2節、終了。

2216/R・パイプス・ロシア革命第12章第9節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 第9節・影響と意味(effects and implications)。
 (1)立憲会議の解散は、驚くべき無関心さで迎えられた。
 1789年には、バスティーユ襲撃を予期してルイ16世が国民議会を解散しようとしているとの風聞は、大きな憤激を生じさせた。しかし、そのようなものは、どこにもなかった。
 一年の無秩序状態(anarchy)のあと、ロシアは消耗していた。人々は、どのような方法で獲得されようとも、平和と秩序を乞い願っていた。
 ボルシェヴィキはそのような雰囲気に賭け、そして勝った。
 1月5日以降、権力を放棄するようレーニンを説得することができるとは、もはや誰にも考えられなかった。
 またそれ以降、ロシアの中央部には、影響力ある反ボルシェヴィキの武装対抗派が存在しなかった。そして、社会主義知識人は言いたくないことだが、常識的には、ここにボルシェヴィキ独裁が定着した、と叙述することができる。
 (2)直接の結果は、各省庁や民間企業の事務系就労者たちのストライキが終わったことだった。彼らは1月5日以降は、仕事へと押し戻された。ある者たちは個人的な必要に迫られて、ある者たちは、内部から事態に影響を与えることができる方がよいと考えて。
 反対派たちの心理はこのとき、致命的に砕かれていた。
 まるで、残虐性と国民の意思の無視が、ボルシェヴィキ独裁を正当化しているかのごとくだった。
 国全体が、混沌の一年のあとでやっと「本当(real)」の政府ができた、と感じた。
 このことは確実に農民や労働者大衆については言えたが、しかし、逆説的にも、<プラウダ>の言う「資本のハイエナ」や「人民の敵」である富裕層や「保守」的な人々についても当てはまった。この人たちは、ボルシェヴィキを軽蔑する以上に、社会主義知識人や街頭の群衆を侮蔑していたからだ。(*)
 ある意味では、ボルシェヴィキは1917年10月にではなく1918年1月にロシアの政府となった、と言ってよいかもしれない。
 当時のある者の言葉によると、「真正の、純粋なボルシェヴィズム、広範な大衆のボルシェヴィズムは、1月5日の後で初めて生まれた」。(130)
 (3)実際に、立憲会議の解散は、多くの点で、「全ての権力をソヴェトへ」という煙幕に隠れて実行された十月のクーよりも重要な意味をもった。
 ボルシェヴィキ党員を含むほとんど誰に対しても十月の目的は隠されたままだったとすると、その一方で1月5日以後に関するボルシェヴィキの意図は、疑いようがなかった。そのとき、人民の意思には気を配らないと考えていることを、ボルシェヴィキは間違いなく明確にしていたのだった。
 彼らは、字義通りの意味で、人民は「人民(people)」であるがゆえにその声を聴く必要がなかった。(**)
 レーニンの言葉によると、こうだ。「ソヴェト権力による立憲会議の解散は、革命的独裁の名による形式的民主主義の、完全なかつ公然たる廃絶だった」。(131)
 (4)民衆一般および知識人のこの歴史的事件に対する反応が予兆したのは、国の将来の悪さだった。
 もう一度事件を確認するならば、ロシアに欠落していたのは国民的結束の感覚だった。この意識があれば、善なる共通利益のために当面のかつ個人的な利益を断念しようと、国民は奮い立つだろう。
 「人民大衆」が示していた気持ちは、私的で地域的な利益、<duvan>の昂奮する愉しみだけを理解することができる、それらは当分の間はソヴェトと工場委員会によって充足されている、というものだった。
 「棒切れをひっ掴む者は伍長だ」というロシアの箴言と合致するように、彼ら人民大衆は、最も大胆で最も残虐な要求者に、権力を譲り渡した。//
 (5)証拠資料から明らかになるのは、ペトログラードの工業労働者たちは、ボルシェヴィキに投票した者たちであってすら、立憲会議が開かれて国の新しい政治的経済的諸制度を策定していくだろうと期待していた、ということだ。
 <プラウダ>が労働者の支持について不満を書いてはいたが、立憲会議防衛同盟の多様な請願書への彼らの署名によっても、このことは確認される。(132)また、立憲会議が招集される直前にボルシェヴィキが労働者に向けて発した、脅威と結びつける逆上しているがごとき訴えによっても。
 だがしかし、火を噴くことを躊躇しない銃砲に支えられて立憲会議を殺そうとする、ボルシェヴィキの断固たる決意に直面したとき、労働者たちの気持ちは挫けた。
 これは、抵抗するなと熱心に説いた知識人たちに裏切られたのが理由だったのだろうか?
 かりにそうであれば、帝制に反対した革命での知識人たちの役割は、思い上がった慰めだった、ということが際立ってしまうことになる。つまり、自分たちの刺激によらなければロシアの労働者は政府に立ち向かおうとしない、という思い上がりがあったように見える。//
 (6)農民たちについて言えば、彼らは大都市で進行している事態について全く関心がないというわけではなかった。
 社会革命党の煽動活動家たちが投票するように言い、そして彼らは投票をした。
 だが、「白い手」の別のグループが奪取したのであったとして、どんな違いがあっただろうか?
 彼らの関心は、その<volosti>の境界内の外には広がっていなかった。
 (7)こうして、社会主義知識人たちは選挙で確実な勝利を獲得してきたので国は従ってきていると自信をもって行動することができたのだが、その知識人たちが取り残された。
 トロツキーはのちに、社会主義知識人たちを嘲弄した。彼らはタウリダ宮に、ボルシェヴィキが権力を投げ棄てた場合に備えてキャンドルを、食料を奪われた場合に備えてサンドウィッチを持って来ていた。(133)
 だが、彼らは銃砲を携帯しようとはしなかった。
 立憲会議の招集の直前に、社会革命党のP・ソロキン(Pitirim Solokin)(のちにハーヴァード大学の社会学教授)は、立憲会議が実力でもって解散される可能性について論じて、こう予言した。
 「開会した会議が『機関銃』に遭遇すれば、我々はそのことを知らせる訴えを発し、我々を人民の保護の下に置くだろう」。(134)
 しかし、彼らには、そのような素振りについてすら、勇気が欠けていた。
 立憲会議の解散のあと、兵士たちが社会主義派代議員に近づいて来て、武装した実力行使でもって回復しようと提示したとき、恐れ慄いていた知識人たちは、その種のことは何もしないで欲しいと懇願した。
 ツェレテリ(Tsereteli)は、内戦を引き起こすよりは、立憲会議が静かに死んだ方がよかっただろう、と言った。(135)
 危険を冒そうとしない者たちは、つぎのようだ。すなわち、革命と民主主義について際限なく語る、しかし言葉と素振り以外によっては自分たちの理想を防衛しようとはいない。
 このような矛盾する行動、歴史の勢いに服従するふりを装う無気力さ、戦って勝利しようとする気がないこと、これらを説明するのは簡単ではない。
 その合理的な答えはおそらく、心理学(psychology)の領域に求めなければならない。-すなわち、チェーホフが巧みに描いた古いロシア知識人の伝統的態度であり、成功することを怖れ、非能率は「主要な美徳であって、光輪(halo)だけには勝つ」という信条をもっていることだ。(136)
 (8)1月5日の社会主義知識人の屈服は、その知識人たち自身の崩壊の始まりだった。
 武装抵抗の組織化を試みてできなかったある人物は、こう観察した。
 「立憲会議を守ることができなかったことは、ロシアの民主主義の最も深刻な危機だった。
 これが、分岐点だった。
 1月5日より後では、理想主義に執心するロシア人知識人がそのために存在する場所は、歴史上、ロシア史上に存在しなかった。 
 過去の存在として葬られたのだ。」(137)
 (9)対抗派の者たちとは違って、ボルシェヴィキはこの事件から多くのことを学んだ。
 武力で統制下に置いた地域では、組織されていない武装抵抗を怖れる必要がある、と分かった。
 彼らの対抗者たちは、民衆の少なくとも4分の3から支持されてはいたが、団結をせず、指導者がおらず、そして何よりも、戦う気概がなかった。
 この経験は、ボルシェヴィキが暴力に訴えるのに慣れさせることとなった。その暴力行使はもちろん、抵抗に遭遇すればいつでも、その抵抗を惹起した者を肉体的(physical)に殲滅することによって問題を「解決」する、ということを意味した。
 機関銃は、ボルシェヴィキが用いる主要な政治的説得の道具となった。
 彼らがそれ以来ロシアを支配した抑制なき残忍性は、相当の程度で、1月5日に彼らが得た、安心してこれを用いることができる、という知識から生じた。//
 -------------
 (*) 1918年5月1日、最も反動的な革命前からの政治家のV・プリシュケヴィチ(Vladimir Purishkevich)は公開書簡を発表して、こう書いた。ソヴェトの牢獄で半年過ごした後で、自分は君主制主義者のままであり、ロシアをドイツの植民地に変えたソヴェト政権に対して何ら釈明することはない。
 彼は続ける。「ソヴェト権力は堅固な権力だ。-ああ、しかし、私がロシアに作ろうとした堅固な権力の方向から生まれたものではない。ロシアの惨めで臆病な知識人層が、我々が蒙っている屈辱の主犯者だ。また、ロシア社会に統治の識見をもつ健全で堅固な権力を生み出すことができない、その主犯者だ。
 1918年5月1日付手紙、VO, No. 36(1918年5月3日), p.4. 所収。
 (130) Solokov in ARR, XIII, p.54.
 (**) このような姿勢をマルトフは1918年春に指摘した。そのときスターリンは誹謗中傷罪だと彼を非難して、革命審判所の前に立たせた。
 革命審判所はもっぱら「人民に対する罪」を裁くために設置されたと通告されて、マルトフは、「スターリンへの侮辱は人民に対する罪だと考えられるのか?」と尋ねた。
 そして自分でこう回答した。「スターリンは人民だと考える場合にだけだ」。
 "Narod eto ia", Vpered, 1918年4月1日/14日, p.1.
 Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1963), p.75-p.76.
 (131) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (132) E. Iganov in PR, No. 5/76(1928年), p.28-p.29.
 (133) Trotsky in Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.
 (134) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.323.
 (135) V. I. Ignatev, Nekotorye fakty i itogi chetyrekh let grazhdanskoi voiny(Moscow, 1922), p.8.
 (136) D. S. Mirsky, Modern Russian Literature(London, 1925), p.89.
 (137) Sokolov in ARR, XIII, P.6.
 ----
 第9節、終わり。次節・最終節の目次上の表題は、<労働者幹部会の運動>。

2206/R・パイプス・ロシア革命第12章第6節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙①。
 (1)ボルシェヴィキが民主主義的統制から自由になるためには、もう一つ越えなければならないハードルがあった。すなわち、立憲会議(the Constituent Assembly)。当時のある論者によれば、立憲会議は、喉に「突き刺さった骨のような」ものだった。//
 (2)12月初めまでに、ボルシェヴィキは以下のことに成功した。
 (1) 正統な全ロシア・ソヴェト大会を無力にし、その執行委員会を奪い取る。
 (2) ソヴェトの執行諸機関から立法や上級官僚任命の権限を剥奪する。
 (3) 正統な農民大会を分裂させ、自ら選んだ兵士や海兵で置き代える。
 ボルシェヴィキは、このような破壊的行為を隠して逃げ去ることができなかった。国全体は容易には情報を得られず理解することもできない、そのようなペトログラードの遠く離れた諸組織を操作することに自分たちは打ち込んでいた、という理由では。
 立憲会議は、また一つ別の問題だったのだ。
 全国から選出されてくるこの会議は、ロシアの歴史上初めての真に代表者の集まりになるはずだった。
 開催を妨害したり解散したりすることは最も悪辣なクー・デタであり、全国民の意思に直接に挑戦して、数千万人の権利を剥脱することになるだろう。
 だがしかし、これがなされるまでは、またこれがなされないかぎり、ボルシェヴィキは自分たちは安全だと感じることができなかった。なぜなら、第二回ソヴェト大会の決議にもとづけば、ボルシェヴィキの正統性は立憲会議の是認という条件づきのものだったからだ。-この是認を、立憲会議は確実に拒否するだろう。
 (3)さらに悪いことに、ボルシェヴィキは何度も、立憲会議の招集に関与してきた。
 立憲会議は歴史的にみると社会革命党と一体化したもので、社会革命党はその政治綱領の中心に、これを掲げていた。そして、農民層の支持を獲得しつづけるならば、自分たちが立憲会議で圧倒的な多数派になるだろう、という自信をもっていた。
 社会革命党はこの立憲会議を、ロシアを「勤労者(toilers)」の共和国にするために用いるつもりだった。
 彼らがもっと政治的に明敏だったならば、可能なかぎり早く選挙を実施するよう、臨時政府に圧力を加えただろう。
 しかし、他の者たちと同様に、ぐずぐずと引き延ばした。このことが、立憲会議の擁護者だというふりをボルシェヴィキがする機会を与えることとなった。
 1917年の夏遅くから、ボルシェヴィキは、時が経てば民衆の革命的熱望は冷えるだろうと期待して選挙を故意に遅延させていると、臨時政府を非難した。
 「全ての権力をソヴェトへ!」というスローガンを打ち出すことで、ボルシェヴィキは、ソヴェトだけが立憲会議の開催を保障することができる、と主張した。
 1917年の9月と10月、ボルシェヴィキのプロパガンダは、ソヴェトへの権力移行だけが立憲会議を救出するだろうと、大々的にかつ明確に叫んだ。(75)
 権力を掌握しようと準備していたのだったが、このようなプロパガンダはしばしば、まるでボルシェヴィキの主要な目標は「ブルジョアジー」その他の「反革命」から立憲会議を守ることであるかのごとく聞こえた。
 10月27日、<プラウダ>は読者に対して、こう書いた。
 「新しい革命的権力は、ためらいを許しはしない。すなわち、広範な人民大衆の利益という社会的優越性がある条件のもとで、この権力だけが、この国を立憲会議へと導く力を有している。」(76)
 (4)したがって、レーニンとその党が選挙を実施し、招集し、そして立憲会議の意思に従うと明言していたことに、何ら疑問はあり得ない。
 しかし、この立憲会議はほとんど確実にボルシェヴィキを権力から排除するだろうがゆえに、ボルシェヴィキにはきわめて厄介な問題だった。
 結局は、彼らは勝負の賭けに出て、勝った。そして、立憲会議が廃墟となったこの勝利のあとでようやく、彼らは決して二度と民主主義勢力から挑戦されることはない、という自信を得ることができた。//
 (5)立憲会議を攻撃するにあたって、ボルシェヴィキは、社会民主党の理論に正当化を見出すことができた。
 1903年に採択された社会民主党綱領は、普遍的で平等な直接投票で選出された立法会議(Legislative Assembly)の開催を訴えていた。
 しかし、ボルシェヴィキもメンシェヴィキも、自由選挙を盲信してはいなかった。
 彼らは革命前には長らく、投票箱は人民の「真の」利益を示す最良の指針であるとは限らない、と主張する心構えだった。
 ロシア社会民主党の創立者であるプレハノフは1903年の第二回党大会で演説して、この問題について若干のことに論及した。のちにボルシェヴィキはこれに依拠して、反対派を嘲弄することになる。
 「全ての民主主義原理は、それ自体の長短について、抽象的にではなく、民主主義の根本原理を呼び起こす諸原理とそれとの関係において、評価されなければならない。<salus populi suprema lex>(人民の安寧が至高の法だ)。
 革命家の言葉に翻訳すると、これの意味は、革命の成功こそが、至高の法だ、ということになる。
 そして、革命のためにあれこれの民主主義原理による行動を制限する一時的な必要が生じたとすれば、制限しないのは犯罪的だ。
 個人的見解としては、普通選挙の原理ですら、民主主義に関する上述の基本的な観点から評価しなければならない、と言うべきだろう。 
 仮定としては、我々社会民主主義者が普通選挙に反対する状況を想定することはできる。<中略>
 革命的熱狂の嵐の中で人民がきわめて良い議会を選出するならば、…、我々はそれを永続的な議会にしようとすべきだ。
 そして、選挙が非革命的だということが分かれば、我々はそれを解散しようとすべきだ。二年以内にではなく、可能ならば、二週間以内に。」(*)
 レーニンはこのような感覚を共有しており、1918年には、明らかに気に入って、これを引用することになる。
 (6)臨時政府は、立憲会議選挙の予定を1917年11月12日と定めていた。その日はたまたま、臨時政府が権力から陥落した2週間後のことだった。
 ボルシェヴィキは最初はこの日程をそのまま維持するかどうかを躊躇したが、最終的にはそのように決定し、その趣旨の布令を発した。(78)
 しかし、つぎは何をするのか?
 ボルシェヴィキ内部でこの問題を議論する一方で、彼らは、対抗派たちの運動能力に干渉した。
 これはおそらく、プレス布令や軍事革命委員会が発したペトログラードを包囲された状態におく命令の背後にある、主要な意図だった。その条項の一つは、屋外での集会を禁止していた。(79)
 (7)ペトログラードでは、立憲会議選挙の投票は11月12日に始まり、3日間つづいた。
 モスクワでは11月19日~21日に、投票が実施された。
 残りの地方では、11月の後半だった。
 臨時政府が定めていた規準によれば、有権者は、20歳以上の男女市民だった。
 投票は、敵が占領している地域-すなわち、ポーランドと西側および北西の前線地帯-を除いて、かつてはロシア帝国だった全土で行われた。
 中央アジアでは、投票結果が算出されなかった。
 同様の間違いが、若干の遠方の地域で発生した。
 投票者数は、印象的な数字であることが分かった。
 ペトログラードとモスクワでは、有権者のおよそ70パーセントが投票所へ行き、いくつかの農村地域では、投票率が100パーセントに達した。農民たちはしばしば、単一の候補者名簿のために、通常は社会革命党に、一団となって投票した。
 最も信頼できる計算によると、総計4440万票が投じられた。
 観察者はあちこちで、少数の不正行為に気づいた。即時講和の公約のためにボルシェヴィキを支持する連隊兵士たちが、ときどきは他政党の候補者たちを脅かしたのだ。
 しかし、全体としては、国民がおかれている困難な条件を考慮するならば、選挙は期待を正当視するものだった。
 選挙を称賛することに関心がなかったレーニンは、12月1日にこう述べた。
 「内戦の縁にある階級闘争とは別個に立憲会議を評価するならば、今のところは、人民の意思を表現する手段としてもっと完全な仕組みを知らない。」(80)
 (8)投票はきわめて複雑だった。多数の細片政党が、ときには他政党と連合して、候補者を擁立していた。状況は地域ごとに異なっていて、とくにウクライナのような境界地帯では複雑になっていた。ウクライナには、ロシア諸政党と並んで、地方少数民族を代表する諸政党があったからだ。
 (9)社会主義政党のなかでボルシェヴィキだけは、公式の政策要綱をもたないままで選挙運動をした。
 ボルシェヴィキは、投票で勝利すると計算しているように見えた。彼らは、①「全ての権力をソヴェトへ」のスローガン、②即時停戦の約束、および③地主所有の土地の没収を中心に、労働者、兵士および農民に対して幅広く訴えた。
 ボルシェヴィキが選挙期間に追求したのは、自分たちを支持する有権者の階級的基盤を、社会革命党の非マルクス主義的言葉を借用すれば「勤労大衆」(the toiling mass)を、拡大することだった。
 したがって、選挙結果を評価するにあたっては、つぎのことにとくに留意しなければならない。すなわち、多数の国民は、あるいはおそらくボルシェヴィキに投票した者たちのほとんどですら、存在しないがゆえに何も知り得なかったボルシェヴィキの政策要綱を是認したのでは全くない、ということだ。ましてや、ボルシェヴィキの公表文書では決して言及されなかった一党独裁というボルシェヴィキの隠された目標(agenda)を是認したのではない。
 是認されたのは、ソヴェトによる統治、戦争の中止、および共同体への再配分のために行う私的土地所有の廃棄だった。これらのいずれの中にも、ボルシェヴィキの究極的な目標は含まれていない。//
 (10)レーニンは、しばらくの間は万が一の希望から、ボルシェヴィキが勝利するに至る程度にまで、左翼エスエルが社会革命党を分裂させるだろうと、勘違いをしていた。(81)
 左翼エスエルが11月にペトログラードで行ったことの強い印象が、この希望にある程度の内実を与えていた。(82)
 しかし、最終的には、根拠のないものだったことが分かった。ボルシェヴィキはとくに都市部や軍隊内で気を吐いたけれども、社会革命党の後を追いかける二番手となった。
 この選挙結果が、立憲会議〔憲法制定会議〕の運命を封じた。
 -------------
 (74) Steinberg, Als ich Volkskommissar war, p. 42.
 (75) 例えば、ペトログラード・ソヴェトでのトロツキーの演説を見よ。NZh, No.138/132(1917年9月27)日で報告されている。
 (76) Pravda, No. 170/101(1917年10月27日), p. 1.
 (*) Vtoroi S'ezd RSDSRP: Protokoly(Moscow, 1959), p.181-2.
 トロツキーは1903年に、これに似たことを言った。-「全ての民主主義諸原理は、もっぱら党の利益に従属しなければならない」(M. Vishniak, Bolshevism and Democracy, New York, 1914, p.67.)。
 (77) N. Krupskaia, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1957), p. 74.; Lenin, PSS, XXXV, p.185.
 (78) Dekrety, I, p. 25-p. 26.
 (79) Izvestiia, No. 213(1917年11月1日), p. 2.
 (80) Lenin, PSS, XXXV, p.135.
 (81) 同上, XXXIV, p.266.
 (82) Peter Scheibert, Lenin an der Macht(Weinheim, 1984), p.418.
 ++++++++
 試訳者注記。
 上の注(80)部分は、日本語版レーニン全集26巻(大月書店、1958)p.361によると、つぎのとおり。一段落をそのまま書き写す。-<全ロシア中央執行委員会の会議/1917年12月1日(14日)>の第一項「憲法制定会議の問題についての演説」の冒頭。一文ごとに改行。注(81)部分は、日付の特定がないこともあり今のところ探し出せない。
 「階級闘争が内乱に発展した情勢を度外視して、憲法制定会議をとってみるならば、われわれは、いまのところ人民の意志を表明するため、これ以上完全な機関を知らない。
 だが、幻想の世界に住むわけにはいかない。
 憲法制定会議は、内乱の情勢のもとで行動しなければならない。
 内乱を始めたのは、ブルジョア=カレージン派の分子である。」
 ----
 第6節②へとつづく。


2205/R・パイプス・ロシア革命第12章第5節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第5節・左翼エスエルとの協定と農民大会の破壊。
 (1)レーニンとトロツキーは、政府加入に関する左翼エスエルとの交渉を継続すること、およびメンシェヴィキおよびエスエル〔社会革命党〕と調整する努力はもうしないことに同意した。これは中央委員会に生じていた危機を緩和するためだった、ということが想起されるだろう(既述)。
 彼らはメンシェヴィキ等にかかる後者を、真面目には追求しなかった。
 レーニンには、それら対抗する社会主義諸党と連携するのを受け容れる気持ちは全くなかった。
 しかし、左翼エスエルは、取り込みたかった。
 レーニンは、左翼エスエルの存在価値を知っていた。言葉に酔っていて、大衆の「自発性」という信条をもつがゆえに一致団結した行動をすることのできない、革命的な性急者たちが緩やかに組織した一団。
 左翼エスエルは脅威ではなく、利用すべきものだった。
 内閣に彼らが入っていれば、ボルシェヴィキが政府を独占しているという非難を回避できるだろう。また、「十月-ボルシェヴィキのクー-を受容する」全ての党は歓迎される、という主張が実証されるだろう。
 さらに価値があるのは、左翼エスエルの資質のおかげで、ボルシェヴィキ組織はこれまで接触をもってきていない農民層に入っていくことができる、ということだった。
 農民の代表者がいないままで「労働者と農民」の政府という地位を偽装するのは、馬鹿げていた。左翼エスエルが農民層と関係をもっていることは、彼らの相当大きい資産だったのだ。
 レーニンは、左翼エスエルが立憲会議選挙に際しての農民票を分裂させて、できうればボルシェヴィキとその同盟者たちに多数派を形成させることになる、という壮大な(のちの事態が示したように、非現実的な)希望を抱いていた。//
 (2)両政党は、秘密に交渉した。
 11月18日、<イズベスチア>が-早まっていたことがのちに判ったが-、ソヴナルコム加入について左翼エスエルとの間の合意が成立した、と発表した。
 しかし、会談はさらに3週間つづいた。その過程で両党は、緊密な作業をする関係を確立するに至った。
 今や左翼エスエルは、ボルシェヴィキ勢力に加わり、社会革命党が支配している自立した農民運動を破壊する助けをすることとなつた。//
 (3)ロシア民衆の5分の4を代表する農民代表者大会は、十月のクーを拒絶していた。
 第二回ソヴェト大会には代議員を派遣せず、その代わりに、祖国と革命救済委員会に加入した。
 この反対は、ボルシェヴィキにとつてはきわめて厄介なことだった。
 ボルシェヴィキは農民大会で勝利しなければならず、あるいはそれができないならば、ボルシェヴィキに友好的な別の団体で置き換える必要があった。
 この戦術は、続いてのちに立憲会議や他の民主主義的反ボルシェヴィキの代表団体に関しても繰り返された。そして、三段階を踏むものだった。
 第一には、出席者を決定するその団体の指名委員会(Mandate -)を支配しょうとした。
 これができれば、自由選挙で獲得するだろうよりは多数のボルシェヴィキや親ボルシェヴィキの代議員を送り込むことができる。
 〔第二に、〕ボルシェヴィキ支持者で充ちたこのような団体が、それでもボルシェヴィキが提案する決議を採択しなければ、騒ぎと暴力の脅かしでもって、その団体を混乱させる。
 〔第三に、〕これもまたできなければ、大会を非合法だと宣言し、退出し、自分たちの反対会合を設立する。//
 (4)11月後半に行われる立憲会議選挙が明確に示すことになるように、ボルシェヴィキには、農村地域での支持がなかった。
 このことは、11月末に予定されていた農民代表者大会の見込みを悪くするものだった。その大会では、社会革命党は確実に、ボルシェヴィキ独裁を非難する決議を通過させるだろう。
 これを阻止するためにボルシェヴィキは、左翼エスエルに助けられて、指名委員会を操作しようとした。すなわち、通常は地方と地区のソヴェトごとに選出される大会代議員たちが軍事部隊からの代議員よりも多くなるように、指名委員会に要求させようとした。
 軍隊はすでにソヴェトの兵士部門で代表されているのだから、これには正当性がなかった。
 しかし、指名委員会にいる社会革命党は、ボルシェヴィキを懐柔しようとして、これに同意した。結果として、社会革命党は農民大会を完全には支配することができず、辛うじて過半数を獲得した。
 農民大会に出席する代議員の最終的な人数は、総数789名のうち489名が、農村地帯で選出された善意の(bona fide)農民代表者たちで、294名がボルシェヴィキと左翼エスエルが選んだ制服を着た、ペトログラードとその周辺の連隊の男たちだった。
 党への帰属者数から言うと、社会革命党307名、ボルシェヴィキ91名だった。残りの391名については、明確にされていない。だが、その後の投票結果から判断すると、それらのうち最大の割合を、左翼エスエルが占めていた。(*)//
 (5)だがなお、もう一つ懐柔をする装いとして、社会革命党指導部は、左翼エスエルの指導者であるM・スピリドノーワ(Maria Spiridonova)を大会の議長とすることに、同意した。
 農民たちは実際に、革命前のテロリストたる偉業によって彼女を偶像視していたけれども、ボルシェヴィキが直情的なスピリドノーワを完全に操っていたために、これは全く考えの足りない譲歩だった。
 (6)11月26日、ペトログラード市議会のアレクサンダー大広間で、第二回農民代議員大会が開かれた。
 ボルシェヴィキ代議員たちは最初から、左翼エスエルの応援を受けて、破壊をする戦術を採った。野次り、鋭く叫び、反対党派の演説者を大声を上げて黙らせた。
 しばらくの間は、彼らが演壇を物理的に占拠した。
 こうした妨害によって、スピリドノーワは休会宣告をすることを余儀なくされた。//
 (7)重大な会議が、12月2日に行われた。
 その日、社会革命党の演説者は、立憲会議代議員たちの逮捕や嫌がらせに抗議した。立憲会議の代議員たちのある程度は、農民大会に選出された代議員でもあった。
 こうした演説の一つが行われている間に、レーニンが姿を現した。
 レーニンを指さして、ある社会革命党員がボルシェヴィキに対して叫んだ。
 「きみたちがロシアを連れて行こうとしているのは、レーニンがニコライに取って代わるという国家だ。
 我々は、僭政的な権力を必要としない。
 我々に必要なのは、『ソヴェトによる支配だ』!」
 レーニンは、国家の長としての資格で演説することを求めた。だが、誰もレーニンを選出していないのだから、ボルシェヴィキ党の長としてフロアにおれるにすぎない、と言われた。
 彼は挨拶して立憲会議を中傷し、その代議員に対するボルシェヴィキによる嫌がらせという抗議を斥けた。
 しかしながら、定足数の400名の代議員がペトログラードに集合すれば立憲会議が開催される、と約束した。//
 (8)レーニンが去ったとき、チェルノフが、立憲会議の権威を承認することはソヴェトを拒絶することと同じだ、というボルシェヴィキの主張を拒否する決議を下すよう、動議を提出した。
 「大会は、つぎのように考える。
 労働者、兵士および農民の代表ソヴェトは、大衆をイデオロギー的かつ政治的に指導するものとして、革命の強い戦闘力でなければならず、農民および労働者による征圧を監視して護衛しなければならない。
 立憲会議は、それがもつ立法的権能でもって、ソヴェトに表現されている大衆の要求を、現実のものに変えなければならない。
 よって、ソヴェトと立憲会議を相互に対抗させようとする、個別グループの試みに、断固として抗議する。」(+)
 (9)ボルシェヴィキと左翼エスエルは、反対動議を提出して、立憲会議は議員特権(parliamentary immunity)を享有していないという理由で、カデットやその他の立憲会議代議員に対するボルシェヴィキの措置を承認するよう大会に求めた。(69)
 (10)チェルノフが提案した決議は、360対321で通過した。
 ボルシェヴィキは議長のスピリドノーワに対して、この票決を無視するよう説得した。
 翌日に彼女は、この票決は拘束力がなく、たんに票決のための「基礎」にすぎない、と宣言した。
 この問題がこう処理される前に、トロツキーが姿を見せて、ブレスク=リトフスクでの講和交渉の進展について報告したいと、出席者たちに求めた。
 これに反対する動議が歓迎され、それに応じてトロツキーは立ち去り、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員がつづいた。//
 (11)翌日の12月4日、ボルシェヴィキと左翼エスエルはアレクサンダー大広間に戻ってきて、再び破壊工作を始めた。
 騒ぎ声で、演説者の声は聞き取れなかった。この事態に反応して、社会革命党とその支持者たちは、「マルセイエーズ」を歌いながら、退出した。
 彼らは、農民大会の中央執行委員会が所在するFontanka の農業博物館で協議を行った。
 このときから、大会の「右翼」と「左翼」が分裂した。
 ボルシェヴィキが立憲会議の12月2日の票決の有効性を承認するのを拒んだために、再統一の試みは失敗した。
 12月6日、ボルシェヴィキ党と左翼エスエルは、市議会での会議が農民ソヴェトの唯一の合法的代表者だと宣言した。実際には、そこには農民ソヴェトの代議員たちはいなかったのだけれども。
 彼らは、農民大会中央執行委員会の全ての権能を否定し、中央執行委員会から技術的用具や人員を奪い取り、政府による農民大会代議員への日当の支払いを停止した。
 ついに12月8日、ボルシェヴィキと左翼エスエルの残留派会議は、ボルシェヴィキが支配する全ロシア〔農民大会〕中央執行委員会と同一視されるものになった。//
 (12)たしかに、ボルシェヴィキは農民大会を奪い取った。先ずは、自分たちが選んだ、農民でない代議員を送り込むことによって。次には、その代議員たちが農民層の正統な唯一の代表者だと宣言することによって。
 ボルシェヴィキは、左翼エスエルの協力なくしては、これを達成できなかっただろう。
 このような貢献、および予想される一層の貢献の褒賞として、ボルシェヴィキは、左翼エスエルを年下の同僚として政府に加入させるに際して、大きな譲歩を行った。//
 (13)両政党は、一緒に農民大会を破壊した直後の12月9-10日の夜に、合意に達した。(70)
 合意内容は一度も公表されなかった。そのため、のちに起こった事態から再構成されなければならない。
 左翼エスエルは、いくつかの条件を提示した。①プレス布令を解除(lift)すること、②政府に他の社会主義諸党を加えること、③チェカの廃止、④立憲会議のすみやかな招集。
 第一の要求について、ボルシェヴィキは、公式にプレス布令を廃止することなく、全ての敵対新聞紙の発行を許容することで、事実上はこれを認めた。
 第二の問題について、レーニンは宥和的だった。すなわち、左翼エスエルの例に他の社会主義諸党も倣つて十月の革命を承認することををたんに求めた。
 どの党もそうする気がなかったために、この譲歩はレーニンには、何の苦痛でもなかった。
 チェカについては、ボルシェヴィキは頑固だった。形式的に廃止しようとも、その権限を制限しようともしなかった-反革命が存在するために、そんな贅沢はできない-。
 しかし、左翼エスエルは、不必要なテロルが行われないという満足感を得るため、代表者をチェカに送り込むことができた。
 立憲会議については、しぶしぶながら、左翼エスエルの要求を受け入れた。
 ボルシェヴィキに立憲会議選挙を取消すという考えを放棄させ、立憲会議の開催を、短期間だけにしても、認めさせたのは左翼エスエルだ、というのは、事実上確実なことだ。
 トロツキーは、レーニンがこう言ったのを憶えている。
 「もちろん、立憲会議は解散させなければならない。だが、左翼エスエルについてはどうすべきだったのかね?」。(71)
 (14)このような妥協を基礎にして、左翼エスエルはソヴナルコムに加わった。5名の閣僚が与えられた。農業、司法、郵便通信、内務、および地方自治。
 また、チェカを含めて、他の国家組織のより下層の官署に入ることも認められた。左翼エスエルのA・ドミトリエフスキ(Aleksandrovich Dmitrievski)(アレクサンドロヴィチ)が、チェカの副長官となった。
 左翼エスエルは、このような配置に満足した。彼らは、ボルシェヴィキを少し短気だと思っていたとしても、ボルシェヴィキが好きで、その目標を是認した。
 左翼エスエルのV・ A・カレーリン(Karelin)は、「ボルシェヴィキの過剰な熱望を緩和させる調整者」だと自らの党を定義した。(72)//
 (15)ボルシェヴィキと左翼エスエルの共同行動による農民大会の分解は、ロシアの自立的農民組織の終焉を意味した。
 1918年1月半ば、ボルシェヴィキ=左翼エスエルの自称農民大会執行委員会は、完全な統制のもとで、農民代議員大会を招集した。
 それに合わせて、労働者兵士代議員ソヴェトの第三回大会を行うことが予定されていた。
 ここでこそ、これまでは別々だった二つの組織が「融合」して、労働者兵士ソヴェトの大会の構成の中に「農民」代議員が加えられた。
 ボルシェヴィキ歴史家によれば、この事態は、「ソヴェトという権威をもつ単一で至高の機関を創立する過程を完成させ」るもので、かつ「労働者兵士代議員の大会とは別に農民大会を活動させるという、右翼社会革命党の政策に終止符を打つ」ものだった。(73)
 しかしながら、つぎのように語る方が、より正確だろう。強引な〔二党の〕結合(shotgun marriage)が農民の自立的統治を終わらせ、農民層の権利剥奪(disenfranchisement)の過程を完成させたのだ。//
 --------------
 (*) DN, No.222(1917年12月2日), p.3.
 この大会の議事次第は、公刊されていない。社会革命党の日刊紙のDelo naroda, 1917年12月13日/第20号に、手続の完全な説明が掲載されており、以下の叙述がはこれをもとにしている。
 (+) DN, No.223(1917年12月3日/16日), p.3.
 共産主義者の革命編年史(Revoliutsiia, VI, p. 258)は、社会革命党はソヴェトから権力を奪い取って立憲会議に渡そうと主張したと書いて、この決議の意味を歪曲している。
 社会革命党は実際には、立憲会議とソヴェトが協力するのを望んでいた。
 (69) Izvestiia, No. 244(1917年12月6日), p. 6-p. 7.
 (70) 同上, No. 249(1917年12月12日), p. 6.
 (71) Pravda, No. 91(1924年4月28日), p. 3.
 (72) NZh, No. 206/200(1917年12月20日/1918年1月2日).Revoliutsiia, VI, p. 377が引用している。
 (73) Kh. A. Eritsian, Sovety krest'ianskikh deputatov v oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1960), p. 143.
 ----
 第5節、終わり。次節の目次上の表題は、<立憲会議〔憲法制定会議〕選挙>。

2195/R・パイプス・ロシア革命第12章第3節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
 ---
 第3節・事務就労者たちのストライキ。
 (1)知識人は、全国にわたる<duvan>に参加せず、掏摸たち等が使う「音のする鞄」に注意を逸らされはしない一つのグループだった。
 彼らは、かつてきわめて熱狂的に、二月革命を歓迎した。
 しかし、十月のクーは拒否した。
 何人かの共産主義歴史研究者ですら、学生、教授、作家、芸術家、および反帝制へと誘導したその他の者たちは、ボルシェヴィキによる権力奪取に圧倒的に反対した、と認めるに至っている。
 その研究者の一人は、「ほとんど」の知識人が「妨害行為(sabotage)」をした、と述べる。(47)
 ボルシェヴィキがこの抵抗に打ち勝つには、数カ月にわたる強要と甘言が必要だった。
 知識人たちは、体制が落ち着いて、それを拒否すれば却って事態を悪くするという結論に達した後でようやく、ボルシェヴィキと協力し始めた。
 (2)ロシアの教育を受けた層が十月のクーを拒否していることを最も劇的に表現したのは、事務系(white-collar)の人々による総罷業(ゼネ・スト, general strike, sluzhashchie)だった。
 当時とその後のボルシェヴィキは、この行動は「妨害行為(sabotage)」だとして否定した。しかし、それは実際には、国の公務員や民間企業の就労者が民主主義の破壊に反対する、巨大で非暴力的な抗議運動だった。(48)
 ボルシェヴィキに人気のなさを知らしめ、統治するのを不可能にさせるのを意図したストライキが、自発的に勃発した。
 そのストライキはすぐに、組織的な構造を形成し始めた。まず初めは、各省庁、国有銀行その他の公的組織のストライキ委員会の形態をとり、次いで祖国と革命の救済委員会(Komitet Spaseniia Rodiny i Revoliutsii)と呼ばれる組織となった。
 この委員会は最初は、都市や町の議会(Duma)の職員、ボルシェヴィキが解散させたソヴェト中央執行委員会の委員たち、全ロシア農民ソヴェトの代表者たち、政府職員組合総同盟、および郵便事業就労者を含むいくつかの労務職員組合で構成された。
 徐々に、左翼エスエルを除くロシアの社会主義諸政党の代表者たちも、これに加わっていった。
 委員会は全国民に対して、強奪者(usurpers)に協力しないこと、民主主義の復活のためにともに闘うことを訴えた。(49)
 〔1917年〕10月28日、委員会はボルシェヴィキに対して、権力を手放すことを要求した。(50)
 (3)10月29日、ペトログラードの政府職員組合総同盟は、この(ストを財政支援すると見られる)委員会と協同して、組合員に対して、業務を止めるよう求めた。
 「ペトログラード政府職員組合総同盟執行委員会は、立憲会議招集の一ヶ月前のボルシェヴィキ一派による権力強奪にかかる問題について全ロシア政府職員組合の代議員と討議したうえで、またこの犯罪的行為がロシアと革命の全成果を破壊せんとしていることを考慮し、かつ祖国と革命救済全ロシア委員会と一致して、つぎのとおり決議する。
 1.政府の全行政部署の業務は、ただちに停止されるべきこと。
 2.軍および国民への食糧供給の問題は、公安秩序維持関係組織の活動の問題とともに、組合総同盟執行委員会との協力のもとで、(祖国と革命)救済委員会によって決定されるものとする。
 3.すでにその業務を停止した行政部署のその行為は、是認される。」(51)
 (4)この訴えは、広範囲の注目を受けた。
 すぐに、ペトログラードの全省庁の業務が止まった。
 伝達員や若干の書記職員を除いて、各省庁の職員たちは、仕事に来なくなったか、やって来ても座って何もしなかった。
 新たに任命されていたボルシェヴィキの人民委員たちは、行き場所がなくて、スモルニュイのレーニンの周りにたたずんだ。そして、誰も注意を払わない命令を発した。
 彼らが担当省庁に入ることは阻止された。
 「10月〔のクー〕初めの後、以前の省庁にやって来た人民委員たちは、山のように積まれた書類やファイルのほか、伝達員、清掃人および門衛の姿だけを見た。
 課長や課員から始まりタイピストや複写担当者まで、全ての職員が、人民委員を認めるのを拒み、仕事から離れることが自分たちの義務だと考えていた。」(52)
 トロツキーは、11月9日-任命されたのち二週間後-に外務省を敢えて訪れたとき、バツの悪い体験をした。
 「昨日、新『大臣』のトロツキーが、外務省にやって来た。
 全職員が集合するよう呼びかけた後で、彼は『私が新しい外務大臣、トロツキーだ』と言った。
 彼は、皮肉な笑いで迎えられた。
 そのことにトロツキーは注意を向けず、仕事に戻るよう職員たちに言った。
 職員たちは去った。…、しかし、自分たちの家へだった。トロツキーが省のトップにとどまっているかぎり、役所には帰って来ないつもりだった。」(53)
 労働人民委員のシュリャプニコフは、自分の省の指揮を執ろうとしたとき、似たような受けとめ方をされた。(54)
 ボルシェヴィキ政府はかくして、権限を掌握した数週間あとで、国の公務員が仕事をするように説得することができない、そのような馬鹿げた状況にいることに気づいた。
 したがって、ボルシェヴィキ政府が機能していたとは、ほとんど言い難い。
 (5)ストライキは、非政府系の組織へも広がった。
 民間銀行は11月1日に早くも入口を閉めており、全ロシア郵便通信従業員同盟は、ボルシェヴィキ政府が連立内閣に道を譲らなければ、業務を停止するよう命令する、との声明を発表した。(55)
 すぐに、電信電話従業員たちが、ペトログラード、モスクワ、および若干の地方都市で、業務をやめた。
 11月2日、ペトログラードの薬剤師たちがストライキに加わった。
 11月7日、水輸送業者たちが、学校の教師たちに追随した。
 11月8日、ペトログラードの印刷業者たちが、かりにボルシェヴィキがプレス布令を実施すれば、やはりストライキをする、と発表した。//
 (6)ボルシェヴィキにとって最も痛かったのは、政府の財務部局、つまり国有銀行と国有財産局の業務が停止したことだった。
 ボルシェヴィキは当面の間は、外務省または労働省の職員がいないままでも何とかやって行けた。しかし、金銭は、持たなければならなかった。
 国有銀行と国有財産局は、ボルシェヴィキは正統な政府ではないという理由で、資金を求めるソヴナルコムの要請を拒否した。
 人民委員の署名付きの小切手をもってスモルニュイから伝達員が派遣されたが、彼らは手ぶらのままで戻って来た。
 銀行と財産局の幹部職員たちは前の臨時政府を承認しており、その代表者にだけ支払いをした。
 彼らはまた、正統な公的組織や軍隊からの要請には応じて支払いをした。
 11月4日、彼らの行動が一般国民の困難をもたらしているとするボルシェヴィキの責任追及に答えて、国有銀行は、その前の一週間に国民と軍隊の需要のために6億1000万ループルを支払った、と宣告した。
 その総額のうち4000万ルーブルは、前の臨時政府に渡っていた。(56)//
 (7)10月30日、ソヴナルコムは国有と民間の全ての銀行に対して、翌日には業務を再開するように命令した。
 政府からの小切手や為替手形の支払いを拒めば、専務理事を逮捕することになる、と警告した。(57)
 この脅かしによって、若干の民間銀行は再開したが、ソヴナルコムが発行した小切手を現金化する銀行はなかっただろう。//
 (8)金が絶対的に必要になって、ボルシェヴィキは苛酷な手段を用いた。
 11月7日、新しい財務人民委員のV. R. メンジンスキー(Menzhinskii)が、武装海兵と一軍団を引き連れて国有銀行に現れた。
 彼は、1000万ルーブルを要求した。
 銀行は、断わった。
 メンジンスキーは、さらに多い兵団と一緒に4日後に姿を見せて、最後通告を発した。現金を20分以内に貰えなければ、国有銀行幹部職員は仕事と地位を失うのみならず、兵役年齢にあるとして徴兵されるだろう。
 しかし、国有銀行は、動じなかった。
 ソヴナルコムは銀行幹部の何人かを馘首した。しかし、政府が責任を引き受けたのち2週間以上の間、現金を手にすることができなかった。//
 (9)11月14日、ペトログラードにある諸銀行の書記従業員たちは、つぎに何をするかの会合をもった。
 国有銀行の従業員は、ソヴナルコムの承認を圧倒的に拒否する票決を行い、ストライキを継続した。
 民間銀行の事務職員たちも、同じ結論を下した。
 国有財産局の職員たちは、142対14の票決を行って、政府の基金をボルシェヴィキが用いるのを拒んだ。彼らもまた、2500万ループルの「短期前渡」の要請を拒絶したのだ。(58)
 (10)このような抵抗に遭遇したボルシェヴィキは、実力行使(force)に訴えた。
 11月17日に、メンジンスキーが国有銀行に再び現れた。伝達人と門衛を除いて、銀行には人けがなかった。
 国有銀行の幹部たちは、武装衛兵によって拘引されていた。
 彼らが金を手渡すのを拒んだとき、武装衛兵たちは金庫を開けるように強いて、メンジンスキーは、そこから500万ルーブルを取り出した。
彼はビロード製鞄でそれを運び、勝ち誇ってレーニンの机の上に置いた。(59)
 こうした活動は全体が、銀行強盗に似ていた。//
 (11)ボルシェヴィキはようやく、国有財産局の現金を利用できるに至った。しかし、逮捕をしていったにもかかわらず、国有銀行職員のストライキは、続いた。
 ほとんど全ての銀行が、業務を止めたままだった。
 ボルシェヴィキ兵団が国有銀行を占拠したが、同銀行は活動しなかった、
 レーニンが1917年12月に、彼の秘密警察、すなわちチェカ(Cheka)を設置したのは、もともとはこの財政担当職員らの抵抗を排除するためだった。//
 (12)当時の調査によると、12月半ばには、外務、教育、法務および供給の各省(人民委員部と改称されている)では業務が静止しており、国有銀行は完全に混乱の中にあった。(60)
 地方諸都市でも、事務系就労者のストライキが起きた。
 11月半ばにモスクワ市庁の職員が、ストを始めた。12月3日には、ペトログラード市の彼らの仲間たちがそれに従った。
 彼らが仕事を中止したことには、共通の目的があった。それは、1905年10月のゼネ・ストを模範として、政府が専制的支配をするのを断念させることだった。
 カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、および若干のその他のレーニンの同僚たちを動かしたのは、この力強い示威運動だった。その他の社会主義諸党と権力を分かち合わなければならない、そうでないと政府は機能することができない、と彼らは考えたのだ。//
 (13)しかしながら、レーニンは、自己の基礎を揺るがすことなく、11月半ばに、反対攻撃をすることを指令した。
 ボルシェヴィキは今や次から次へと、ペトログラードの公的組織の全てを物理的に占拠し、厳しい制裁でもって脅かして、被用者たちが自分たちのために仕事をするように強いた。
 当時の新聞が報告するつぎのような事件が、多くの場所で繰り返された。
 「10月28日(旧暦)、ボルシェヴィキは関税(costoms)関係部署を掌握した。
 占拠した関税部署の指揮官として、ファデネフ(Fadenev)という名の官僚が着任した。
 クリスマス祝日の前夜に、その部署の合同会議に従って、彼は、全員が12月28日に仕事に復帰するよう命令した。登庁しない者は仕事を失い、訴追される可能性がある、と脅かしもした。
 12月28日、その部署の建物は、監察官により占拠された。
 ボルシェヴィキは、「人民委員会議」に完全に服従するとの宣明書に署名する、という意向をもつ職員だけが建物に入るのを許した。」(61)
 関税部署の指揮官は、すぐそのあとで解任され、下級の書記的職員に代わった。
 ボルシェヴィキが中央政府機構を言葉の字義どおりに征圧(conquer)するたびに、同じことが繰り返された。その征圧にはしばしば、早く昇進させるという約束を獲得した若い職員が協力していた。
 ボルシェヴィキは、1918年1月になってようやく、事務系就労者たちのストライキを打ち破った。それは、立憲会議を解散させ、ボルシェヴィキが自発的に譲歩するという望み、あるいは権力を分かち合うという望みすら、全ての希望をボルシェヴィキが断ち切った後でのことだった。//
 -------------
 (47) S. A. Fesdiukin, Velikii Oktiabr' i intelligenzia(Moscow, 1972); E. Ignatov in PR, No. 4/75(Moscow, 1928),p.34.
 (48) この事件の物語は、きわめて不適切に隠されている。D. Antoshkin, Professonal'noe dvizhenie sluzhashchikh, 1917-1924 gg.(Moscow, 1927), およびZ. A. Miretskii in A. Anskii, ed., Professional'noe dvizhenie v Petrograde g.: Ocherkib i materialy(Leningrad, 1928), p.231-p.241.を見よ。
 (49) DN, Nos. 191 &192(1917年10月28日); NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.3.
 (50) Revoliutsiia, VI, p.14.
 (51) Volia naroda, No.156(1917年10月29日). Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.225.が引用する。
 (52) VS, No.11(1919年), p.5.
 (53) DN, No. 191 (1917年11月10日), p.3. Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.226.が引用する。
 (54) Protokoly II'go Vserossiskogo S"ezda Kommissarov Truda(1918), p.9 & p.17. M. Dewar, Labour Policy in the USSR(London, 1956), p.17-p.18.
 (55) Revoliutsiia, VI, p.50.
 (56) NZh, No. 178/172(1917年11月11/24), p.3; B. M. Morozov, Sozdanie i ukreplenie sovetskogo gosudarstvennogo apparata(Moscow, 1957),p.52.
 (57) Dekrety, I, p.27-p.28.
 (58) NZh, No. 182/176(1917年11月16/29).
 (59) N. Osinskii in EZh, No.1(1918年11月6日), p.2-p.3. A. M. Gindin, Kak bol'sheviki ovladeki Gosundarstvennym Bankom(Moscow, 1961).も見よ。
 (60) NV, No.6(1917年12月6/18), p.3.
 (61) 同上, No.25(1917年12月30日), p.3.
 ----
 第3節、終わり。第4節の目次上の表題は、<人民委員会議>。第5節は<左翼エスエルとの合致と農民大会の破壊>。第6節は、<立憲会議〔憲法制定会議〕選挙>。

2193/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節④。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
 ---
 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる④。
 (44)このような、またはこれに類似の、とくに経済に関する批判が、ソヴェト大会またはCEC の強い反対派から生じるだろうと予期して、ボルシェヴィキはさらにもう一つの法令を発した。それは、政府とソヴェトの関係の問題に関連していた。
 「法令(laws)の裁可と公布の手続に関して」、その布令は、ソヴナルコムが立法する(legislative)機関として行動する権利を主張した。CEC の権限は、布令(decree)がすでに施行された後で裁可するか廃止するかに、限定される。 
 この布令は、ソヴェト大会がほんの数日前にボルシェヴィキが政府を形成することを権威づけた、その条件を完全に覆すものだった。この布令文書には、レーニンの署名があった。
 しかし、元はメンシェヴィキで9月にレーニン側に移って彼に最も影響を与える経済助言者となったI・ラリンの回想録では、草案を書いてレーニンに知らせることなく自分の権限で発布したのは彼自身だ、と主張されている。また、レーニンは、公式の<官報(Gazette)>で読んで初めて知った、とされている。(36) //
 (45)ラリン=レーニン布令は、立憲会議が招集されるまで効力をもつと主張していた。
 そのときまでは、諸法令は労働者と農民の臨時政府(ソヴナルコム)が立案し、公布される、と宣言されていた。
 ソヴェト中央執行委員会(CEC )は、そのような法令(laws)を遡及して「停止し、変更し、廃止する」権限を維持した。(*)
 ボルシェヴィキは、この布令を根拠として、ボルシェヴィキは、1906年の基本法第87条と同等のものにもとづいて立法(legislate)する権利がある、と主張した。//
 (46)議会という「妨害主義者」から政府を免れされる、この簡素化された手続によって、ゴレムィキン(Goremykin)あるいは旧体制のどの保守的官僚たちも、警戒する気持ちになっただろう。だが、社会主義者たちが「ソヴェト」政権に期待したものでもなかった。
 CEC は、増大する警戒心をもちつつ、このような展開に付いていった。
 ソヴナルコムが行っている、統制がきかない「主人化(bossing)」(<khoziaistvovanie>)による自分の権威への侵害と、その同意がないままでの布令の公布に対して、CEC は異を唱えた。(37)
 (47)この問題は、11月4日の会議の際に頂点に達した。これが、「ソヴェト民主主義」の運命を決めた。
 レーニンとトロツキーは、革命前の帝制時代の大臣たちがそれらの活動の正当性についてドゥーマ〔帝制議会〕からの説明要求に応じていたように、説明するようにCEC に招かれた。
 左翼エスエルは、なぜ政府は第二回ソヴェト大会の意思を何度も侵犯するのかを、知りたかった。その意思によれば、政府は中央執行委員会に対して責任をもつ。
 彼ら左翼エスエルは、布令による統治をやめるよう強く主張した。(38)
 (48)レーニンはこれを、「ブルジョア形式主義」だと見なした。
 彼は長い間、共産主義体制は立法権と執行権をともに結合させなければならない、と考えていた。(39)
 よって、質問がいくらあっても答えることができないし答えようともしなかっただろう。レーニンは、ただちに攻勢に回って、逆襲の空気を醸成した。
 ソヴィエト政府は、「形式的なこと」には拘束され得ない。
 ケレンスキーの怠惰が致命的だったと分かった。
 ケレンスキーの行動に疑問を呈する者は、「議会による妨害主義の弁明者」だった。
 ボルシェヴィキ権力は、「広範な大衆の信頼」に依拠している。(40)
 このいずれも、なぜわずか一週間前に自分が掌握した政府が服すべき条件をレーニンが侵犯しているのか、の説明にはなっていなかった。
 トロツキーは、もう少し実質的な答え方をした。
 ソヴェト議会(ソヴェト大会とその執行委員会の意味)には「ブルジョア」議会とは違って、敵対する階級がない、そのゆえに、「伝統的な議会機構」を必要としない。
 こういう議論が示すのは、階級の差異が存在しなければ見解の違いも存在しない、ということだ。そして、ここから推論することができるのは、見解の違いが意味するのは実際には(ipso facto)「反革命」だ、ということだ。
 トロツキーは続ける。「政府と大衆」は形式的な制度や手続によってではなく、「活力のある、かつ直接的な紐帯」で結びついている。
 ファシストの実務を正当化するために類似の論拠を用いることとなるムッソリーニの先鞭を付けて、彼はこう言った。「我々の布令が穏やかではないのは本当かもしれない。<中略> しかし、活力ある創造性を求める権利は、形式的な完全性よりも優先する」。(41)
 (49)レーニンやトロツキーの見当違いと首尾一貫性のなさにより、CEC の多数派は納得することができなかった。
 ある範囲のボルシェヴィキですら、動揺しているのを感じた。
 左翼エスエルは、鋭く反応した。V. A. カレーリンはこう述べた。
 「『ブルジョア』という語の濫用には異議がある。
 責任(accountability)と詳細にわたる厳格な秩序は、ブルジョア的政府だけの義務なのではない。
 言葉をもて遊び、過ちを粉飾し、ばらばらの不愉快な言葉に迷い込むのは、やめて貰いたい。
 本質的に人民的であるプロレタリア政権は、自己に対する全ての統制を許容するものでなければならない。
 要するに、ある企業を奪い取った労働者たちも、記帳と会計を廃止するまでには至らない。
 頻繁かつ多数の法的な遺漏があるだけではなくしばしば文法的誤りもある布令を急いでこしらえることは、状況をさらに大きく混乱させる。上から付与されるように法令を受容することに慣れている地方では、とくにそうだ。」(42)
 もう一人の左翼エスエルのP. P. プロシアン(Proshian)は、ボルシェヴィキのプレスに関する布令について、「政治的テロルのシステムを明確かつ決定的に表現するものであり、内戦を誘発するものだ」と、叙述した。(43)//
 (50)ボルシェヴィキは、プレス布令の票決で、簡単に勝利した。
 ラリンが提案したその布令を廃止する動議は、24対34、保留1で敗北した。(*)
 このような是認があったにもかかわらず、ボルシェヴィキは、1918年8月までは、諸新聞を沈黙させることができなかった。その8月に彼らは、全ての自立新聞紙と雑誌を排除したのだ。
 そのときまで、ソヴィエト・ロシアには、驚くべきほど多彩な新聞や雑誌があった。その中には、リベラル志向のものもあり、保守的な方向のものもあった。
 重い罰金が課され、その他の方法のために疲れ切っていたが、何とか生き長らえてきたのだった。
 (51)ソヴナルコムのCEC に対する責任については、まだ重要な問題が残っていた。
 ボルシェヴィキ政府はこの問題については、最初から最後まで、信任投票にかけられた。
 左翼エスエルのV. B. スピロ(Spiro)の動議は、こうだ。
 「人民委員会議長の説明を聞いたが、中央執行委員会は、不満足だと見なす」。
 ボルシェヴィキのM. S. ウリツキ(Uritzkii)は、レーニン政権を信任する反対動議で応えた。
 「説明要求に関して、中央執行委員会は、つぎのとおり決議する。
 1.労働者大衆のソヴェト議会は、その手続につき、ブルジョア議会と何ら共通性をもたない。ブルジョア議会には対立する利害をもつ多様な階級が代表されており、支配階級は規約や指示書を立法による妨害物という武器に変えている。
 2.ソヴェト議会は、人民委員会議が中央執行委員会による先行する議論なくして、全ロシア・ソヴェト大会の一般的な基本方針の枠の範囲内で、緊急の布令を発する権利を有することを、拒むことはできない。
 3.中央執行委員会は、人民委員会議の活動に対して一般的な統制を及ぼし、自由に政府とその構成人員を変更するものとする。<以下略>」(44)
 (52)スピロによる不信任動議は、20対25で敗れた。この少ない投票数は、9人のボルシェヴィキの離脱の結果だった。そのうち何人かは人民委員で、この会合で辞任を発表した(上述)。
 この消極的な勝利は、レーニンには十分でなかった。
 彼は、ウリツキの動議の票決で、自分の政府は立法権をもつことが、公式にかつ議論の余地なく、確認されることを望んだ。
 しかし、ボルシェヴィキ幹部たちが突然に躊躇し始めたために、その見込みは疑わしく見えた。
 事前の票読みでは、ウリツキの動議への賛否は、同数だった(23対23)。
 レーニンとトロツキーは、この事態を避けるべく、投票に自分たちも参加する、と発表した。-大臣が立法府の一員となって、承認を求めて提出した法令に賛成を投票するのと同等の行為だ。
 かりにロシアの「議会政治人」にもっと経験があったならば、この茶番劇に参加するのを拒んだだろう。
 しかし、全員がそのままとどまり、投票が行われた。
 ウリツキの動議は、25対23で採択された。決定的な2票は、レーニンとトロツキーによって投じられた。
 二人のボルシェヴィキ指導者は、この単純な手続でもって、立法権限を盗み取り、代表者であるはずのCEC とソヴェト大会を立法機関からたんなる諮問機関へと変えた。
 これは、ソヴィエトの国制(constitution)史上の、大きな分岐点だった。//
 (53)その日遅く、ソヴナルコムは、法令は公式の官報(<労働者と農民の臨時政府公報>)(<Gazeta Vremennogo Rabochego i Krest'ianskogo Pravitel'stva>)に登載されたときに、発効する、という声明文を発表した。//
 (54)ソヴナルコムは今や、事実上は最初からそうだったものに、つまり執行権と立法権を併せもつ機関に、理論上もなった。
 CEC にはしばらくの間は、政府の活動について議論する権利、現実の政策には何の影響も及ぼさなくとも、少なくとも批判する機会があるという権利が、認められた。
 しかし、全ての非ボルシェヴィキが排除された1918年6月-7月以降、CEC は、共鳴機構(echo chamber)に変えられた。ボルシェヴィキ代議員たちが機械的な作業としてボルシェヴィキ・ソヴナルコムの決定を「裁可」した。かつまた、そのソヴナルコムの決定は、ボルシェヴィキ党中央委員会の決定を実施するものだった。(*)
 (55)この日から、ロシアは、布令(decree)によって統治された。
 レーニンは、1905年以前にツァーリが享有した特権を握ることになった。
 レーニンの意思が、法(law)だった。
 トロツキーの言葉によると、「臨時政府は打倒されたと宣言したそのときから、レーニンは、問題が大であれ小であれ、政府として行動した」。(+)
 ソヴナルコムが発する「布令」は、フランス革命期から借用した名称であってロシアの国法上は従前は知られていないものだったけれども、十分に皇帝の<ukazy>に匹敵するものだった。皇帝のそれは、「布令」と同様に、きわめて瑣末な問題からきわめて重大な問題を扱い、専制君主が署名を付した瞬間に効力をもつに至った。
 (I・シュタインベルク(Isaac Steinberg)によると、「レーニンはふつうに、自分の署名は政府の全ての行為を十分なものにしなければならない、と考えていた。)(45)
 レーニンの幹部秘書のボンチ=ブリュエヴィチ(Bonch-Bruevich)は、レーニンが署名するだけで布令は法令たる効力をもった、人民委員の一人が提案して発せられたものであってすら、と書いている。(46)(++)
 このような実務は、ニコライ一世またはアレクサンドル三世にとっては、全く理解可能なものだっただろう。
 ボルシェヴィキが十月のクーから数週間以内に設定した統治のシステムは、1905年以前にロシアを支配した専制体制への逆戻り(reversion)を画するものだった。そしてそれは、間に介在した12年間の立憲主義体制(constitutionalism)を完全に一掃した。 //
 --------------
 (36) Iu. Larin, in NKH, No.11(1918年), p.16-p.17.
 (*) Dekrety, I, p.29-p.30. この布令が発布された日付を確定することはできない。ボルシェヴィキの新聞1917年10月1日と11月1日付には掲載されている。
 (37) M. P. Iroshnikov, Sozdanie sovetskoe tsentral'nogo gosudarstvennogo apparata, 2nd. ed.(Leningrad, 1967), p.115. L. H. Keep, ed., The Debate on Soviet Power(Oxford, 1979), p.78-p.79.
 (38) Protokoly zasedanii Vserossiiskogo Tsentral'nogo Ispolnitel'nogo Komitera Rabochikh, Soldatskikh, Krest'ianskikh i KazachHkh Deputatov II Sozyva(Moscow, 1917), p.28.
 (39) レーニン, PSS, XXXIX, p.304-5.
 (40) 同上, XXXV, p.58.
 (41) Protokoly zasedanii, p.31.
 (42) 同上, p.32.
 (43) Revoliutsiia, VI, P.73.
 (*) A. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Leningrad, 1969), p.169-p.170.
 ボルシェヴィキは、5名の信頼できる党員でCEC への反映が増加することに対する事前の対抗措置をとった。
 (44) Protokoly zasedanii, p.31-p.32.
 (*) 1919年12月に、CEC に名目上はまだ残っていた若干の権限は、その議長に移された。議長はそれによって、「国家の長」となった。
 元々は継続的なものと考えられていたCEC の会議は、それ以来ほとんど開催されなかった。1921年には、CEC は3回だけ催されている。
 E. H. Carr, The Bolshevik Revolution, I (New York, 1951), p.220-p.230.を見よ。 
 (+) "kak pravitel'stvo": L. トロツキー, O Lenin(Moscow, 1924),p.102. 英語翻訳者はこの文章を間違って、レーニンは「政府がすべきように行動した」と読んだ。: L. トロツキー, Lenin(New York, 1971), p.121.
 (45) I. Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.148.
 (46) S. Piontkovskii, in BK, No.1(1934年), p.112.
 (++) 以下で述べるように、これには例外があった。
 ----
 第2節、終わり。第3節の目次上の表題は、<事務系(white collar)労働者のストライキ>。

2191/R・パイプス・ロシア革命第二部第12章第2節③。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
 ---
 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる③。 
 (29)ボルシェヴィキが翌日につぎのことを知ったとき、この合意によって得たかもしれない安息の気分は、消え失せた。社会主義諸党の支持を受けた鉄道被用者同盟が、ボルシェヴィキはこぞって政府から退くようにという、強い主張を掲げたのだ。  
 まだレーニンとトロツキーを欠いていたボルシェヴィキ中央委員会は、その日のほとんどをこの要求について討議して過ごした。
 きわめて昂奮した雰囲気だった。アタマン・クラスノフが率いる親ケレンスキー軍が、いつ市内に突入しても不思議ではなかったのだから。
 何がしかの救いを求めて、カーメネフは、妥協を提案した。すなわち、レーニンはエスエル指導者のV・チェルノフ(Victor Chernov)にソヴナルコム議長職を譲って退任し、ボルシェヴィキは、エスエルとメンシェヴィキが支配する連立政権での次席的立場を受け容れる。(26)
 (30)その夜にかりに、クラスノフの軍が敗退したという知らせが入って来なかったとすれば、この譲歩はどうなっていたのか、を語るのは困難だ。
 (31)軍事的脅威を取り除いたレーニンとトロツキーは、今ようやく、党中央委員会の「降伏主義」方針が生んだ災難的政治状況に注意を向けた。
 11月1日夕方に中央委員会が再招集されたとき、レーニンは、統制できないほどの激しい怒りで激高していた。(27)
 レーニンは、こう要求した。「カーメネフの方針は、ただちに止められなければならない」。
 中央委員会は、同盟との交渉は「軍事行動をするための外交的粉飾」だとして、それを実施すべきだっただろう。-つまり、想うに誠実さによってではなく、ただケレンスキー兵団に対抗する助力を確保するためだけにでも。
 レーニンの要求に対して、中央委員会の多数派は動かされなかった。
 ルィコフは、勇気を出して、ボルシェヴィキは権力を維持することができない、という見解を語った。
 票決に付された。10名は連立政府に関する他社会主義諸党との会話を継続することを支持した。わずか3名だけが、レーニンの側についた(トロツキー、ソコルニコフ、そしておそらくジェルジンスキー)。
 スヴェルドロフですら、レーニンに反対した。
 (32)レーニンは、屈辱的な敗北に直面した。すなわち、彼の同志たちは十月の勝利の果実を投げ棄てるつもりであり、「プロレタリア独裁」を樹立するのではなく、小さな協力者として「プチ・ブルジョア」諸政党と権力を分有するだろう。
 そのときレーニンを救ったのは、トロツキーだった。トロツキーは、賢い妥協策でもって介入した。
 彼は、譲歩を激しく非難し始めた。こう言った。
 「我々には建設的な仕事をする能力がない、と言われている。
 しかし、かりにその通りだったとすれば、我々は単純に、正しく我々と闘っている者たちに権力を譲り渡すべきだ。
 しかし実際には、我々はすでに多くのことを達成した。
 銃剣に座るのは不可能だ、と我々は言われている。
 しかし、銃剣なくしては、どちらもすることができない。<中略>
 こちら側とあちら側と今はどちらにも立つことのできない全プチ・ブルジョアの屑どもは、ひとたび我々の権威は強いものだと知るならば、(同盟も含めて)我々の方にやって来るだろう。<中略>
 プチ・ブルジョア大衆は、従うべき力(force)を探し求めているのだ。」(28)
 アレクサンドラがニコニライに想起させたかったように、「ロシアは笞打ちを感じるのを愛する」。 
 (33)トロツキーは、時間稼ぎの方策を提案した。連立内閣に関する交渉は、十月のクーを受容する唯一の党である左翼エスエルとの間で継続すべきだ。一方、もう一度やってみて合意に達しなければ、他の社会主義諸党との交渉はやめるべきだ。
 この提案は、窮地から脱するには合理的でない方策だとは思われず、提案は支持された。
 (34)レーニンは、党幹部たちの敗北主義に終止符を打つと決意して、翌日の論争に加わり、中央委員会は「反対派」を非難せよと要求した。
 多数派の意思に反対していたのはレーニンなのだから、これは奇妙な要求だった。
 これに続いた議論で、レーニンは、その反対者たちを何とか分裂させることに成功した。
 反対派を非難する決議が、10対5で採択された。
 結果として、レーニンに最後まで立ちはだかった5人は、諦めた。その5人は、カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、ミリューティン、およびノギンだ。
 11月4日、<イズヴェスチア>は、彼らがその行動を説明するつぎの書簡を掲載した。
 「11月1日、中央委員会は、社会主義ソヴェト政府の設立を目的とするソヴェト(他の)諸党との合意を拒絶した。<中略>
 我々は、さらなる流血を避けるためには、かかる政府の設立がきわめて重要だと考える。<中略>
 中央委員会の主流グループは、ソヴェト諸党から成る政府の設立を許さず、どんな帰結をもたらそうとも、そしてどれだけ多数の労働者や兵士が犠牲となる必要があろうとも、純粋にボルシェヴィキの政府に固執する、という固い決意を明瞭に示す多くの企てを行ってきた。
 我々は、かかる致命的な中央委員会の政策方針に対して、責任をとることができない。その方針は、プロレタリアートと兵団の大多数の意思に反することを追求するものだ。<中略>
 これらの理由で、我々は、労働者大衆および兵士たちに明らかになる前に、我々の見解を防衛する権利を行使すべく、また、我々のスローガン、『ソヴェト諸政党の政権よ、永遠なれ』に対する支持を彼らに訴えるために、中央委員会から離任する。」(29)
 (35)二日のち、カーメネフはCEC 〔ソヴェト中央執行委員会〕の議長を辞任した。
 つぎの4人民委員(11閣僚中)も、同様に辞任した。ノギン(通商産業)、ルィコフ(内務)、ミリューティン(農業)、およびテオドロヴィチ(供給)だ。
 労働人民委員のシュリャプニコフは、書簡に署名していたが、職にとどまった。
 何人かの下位の人民部員のボルシェヴィキ党員も、同様だった。
 辞任する人民委員たちの書簡は、こう書いている。
 「我々は、全ての社会主義諸党による社会主義政府の設立が必要だ、という立場をとる。
 我々は、かかる政府の設立のみによってのみ、10月-11月の日々における労働者階級と革命的軍隊の英雄的闘争の成果を確固たるものにすることが可能だ、と信じる。
 我々は、排他的ボルシェヴィキ政権を政治的テロルによって持続させることだけが唯一の選択肢になっている、と考える。
 これが、人民委員会議が採用した途だ。
 我々は、この途を進むことはできないし、進みたくもない。
 我々は、この途の行き着く先は、政治生活の運営からの大衆的プロレタリア諸組織の排除、無責任体制の構築、そして革命とこの国の破壊だ、と考える。
 我々は、この政策方針に対する責任を負うことができない。よって、CEC に対して、人民委員職の辞任を申し出る。」(30)//
 (36)レーニンは、このような抗議や辞任を受けて、眠られないということはなかった。迷える羊たちはすぐに囲いの中に戻ってくる、という確信があったからだ。そして、実際に、そうなった。
 彼らは、他のどこに行けただろうか?
 社会主義諸党は彼らを追放する。
 リベラル派は、かりに権力を握ったとすれば、彼らを監獄に送り込むだろう。
 右翼政治家たちは、彼らを絞首刑にする〔=吊す〕だろう。
 彼らが肉体的に生存しつづけること自体が、レーニンの成功にかかっていたのだ。//
 (37)ボルシェヴィキ党中央委員会が採択した決定は、年下の同僚およびボルシェヴィキの決定にめくら判を捺す者という役割に甘んじるつもりのある政党とだけ、権力を共有する、ということを意味した。
 ボルシェヴィキが数人の左翼エスエルが内閣に加わることを許容した4ヶ月間(1917年12月~1918年3月)を除いて、いわゆるソヴィエト政府は、ソヴェトの構成を決して反映しなかった。ソヴェトを外面上だけ偽装した、ボルシェヴィキ政権のままだったのだ。
 (38)レーニンは今や、対抗する社会主義諸党による権力共有の要求を斥けることができた。
 しかし、彼はなお、自分の閣僚たちが責任を負うべきソヴェト議会だ、というCEC の変わりない主張に、対処しなければならなかった。//
 (39)ボルシェヴィキが十月に摘み取ったCEC は、自分たちは社会主義ドゥーマであって、政府の活動を監視し、内閣を任命し、そして立法する権能をもつ、と考えていた。(*)
 CEC は、10月のクーのあとに、規約を作成する作業を進めた。その規約では、総会、議長、多様な種類の委員会等の綿密な構成を定めていた。
 レーニンは、このような議会たる装いを馬鹿げたものだと考えた。
 最初の日から、彼は、政府官僚の任命と布令の発布のいずれについても、CEC を無視した。
 このことは、レーニンがCEC の新しい議長を選定した無頓着なやり方で、よく分かる。
 彼は、スヴェルドロフがカーメネフに替わる最良の人物だと決めた。
 CEC が自分の選択を承認することを疑う理由は、彼にはなかった。
 しかし、簡単に通過するという絶対的な自信はなかったので、スヴェルドロフを呼び出した。
 レーニンは言った。「イャコブ・ミハイロヴィチ、きみにCEC の議長になってもらいたい、どう思う?」
 スヴェルドロフは、明らかに同意した。レーニンが、中央委員会がこの選択に同意した後で、CEC のボルシェヴィキ多数派によって「注意深く」票決されるだろう、と約束したからだ。
 彼はスヴェルドロフに、頭数を計算して、ボルシェヴィキ派全員が確実に投票に向かうようにすることを指示した。
 計画したとおりに、11月8日に、スヴェルドロフは19対14で「選出」された。(*)
 スヴェルドロフが1919年3月に死ぬまで就いたこの地位によって、ボルシェヴィキ党の決定の全てをおざなりの議論の後でCEC が裁可することが、確実になった。//
 (40)レーニンは、内閣から去った人民委員の補充者の選択についても、同様にCEC を無視した。
 彼は新しい人民委員を、同僚たちと適当に相談して、しかしCEC の承認を求めることなく、11月8-11日に選任した。//
 (41)彼がまだ対処しなければならなかったのは、CEC の立法権能とCEC がもつ政府の布令に同意したり拒否したりする権利という重大な問題だった。
 新体制の最初の数週間では、CEC 議長のカーメネフは、突然に招集し、事前に議題を示さないことで、ソヴナルコムをCEC から守った。
 この短い期間、ソヴナルコムはCEC の承認を得るという面倒なことをしないで、立法(legislate)した。
 実際のところ、この当時の政府の手続は杜撰なものだったので、内閣の一員ですらないボルシェヴィキ党員の何人かは、ソヴナルコムに対して知らせることもなく、自分たちが提案して布令を発していた。ソヴェトの執行部に対しては、言うまでもない。
 このような二つの布令が、国制上の危機を発生させた。
 第一のものは、新政府の最初の日である10月27日の、プレスに関する布令だった。
 この布令は、ほとんど確実にレーニンの激励と同意のとでルナチャルスキーが起草したもので、レーニンが署名していた。(+)
 この注目すべき布令文書は、「反革命プレス」は害悪をもたらす。そのゆえに、「一時的かつ緊急的な手段によって、卑猥さと誹謗中傷が撒き散らされないように措置がとられなければならない」と規定した。-ここでの「反革命プレス」という言葉は定義されていないが、明らかに、十月のクーの正統性を承認しない全ての新聞に適用されるものだった。
 新政権に反対して煽る新聞紙は、閉刊されることとされた。
 布令はこう続ける。「新しい秩序が堅く確立されるやただちに、プレスに影響を与える全ての行政上の措置は撤廃され、プレスには完全な自由が保障される」。//
 (42)この国は、1917年2月以降、新聞や印刷工場の暴力的破壊に慣れてきていた。
 第一に、「反動的」プレスが攻撃され、廃刊となった。
 のちの7月に、同じ運命がボルシェヴィキ機関紙に降りかかった。
 ボルシェヴィキは、ひとたび権力を握るや、このような実務を拡張し、かつ公式化した。
 10月26日、〔トロツキー議長のペトログラード〕軍事革命委員会は、反対党派のプレスに対して組織的大暴虐(pogrom)を実行した。
 軍事革命委員会は非妥協的反ボルシェヴィキの<Nashe obschee delo>の刊行を禁止し、その編集長のV・ブルツェフ(Vladimir Burtsev)を逮捕した。
 同じように、メンシェヴィキの<Den'>、カデットの<Rech'>、右翼の<Novoe vremia>、中道右派の<Birzhevye vedomosti>を弾圧した。
 <Den'>と<Rech'>の印刷工場は没収され、ボルシェヴィキの報道者たちに譲り渡された。(32)
 弾圧された日刊紙のほとんどは、すみやかに名前を変えて、再び現れた。
 (43)プレスに関する布令は、さらに進んだ規定をもっていた。
 施行されれば、ロシア全土から、その起源がカトリーヌ二世の時代に遡る独立したプレスが廃絶することになっただろう。
 激しい怒りが、一斉に巻き起こった。
 モスクワでは、ボルシェヴィキが支配する軍事革命委員会が、11月21日に、非常事態は過ぎ去った、プレスは再び表現の完全な自由を享受すると宣告して、抑圧をとりやめるにまで至った。(33)
 CEC では、ボルシェヴィキのI・ラリン(Iurii Larin)が布令を批判し、その撤回を呼びかけた。(34)
 1917年11月26日、文筆家同盟は一度だけの新聞<Gazeta-Protest>を発行し、その中で何人かの指導的な作家たちが、表現の自由を窒息させようとする前例のない企てに対して、怒りを表明した。 
 V・コロレンコ(Vladimir Korolenko)は、レーニンの<ukaz>を読んだとき、恥ずかしさと憤りで顔が血に染まった、と書いた。
 「(ポルタヴァ〔Poltava〕の)共同体の構成員であり読者である私から、いったい誰がいかなる権利でもって、最近の悲劇的時期の間に何が首都で起こっているかを知る機会を奪ったのか?
 またいったい誰が、作家である私が、検閲者の是認を受けないままで、こうした事態に関する私の見解を仲間の市民たちに自由に表現する、そのような機会を妨害しようと考えたのか?」(35)
 --------------------
 (26) Protokoly TsK, p.271-2. L. Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy〔共産主義専制体制の起源〕, 2ed ed., (Cambridge, Mass., 1977)によると、会合の詳細は中央委員会の発表された記録から削除された。それは、L. トロツキーのStalinskaia shkola fal'sifikatsii (Berlin, 1932), p.116-p.131で見ることができる。Oktiabr'skoe vooruzhennoe vosstanie, II(Leningrad, 1967), p.405-p.410も見よ。
 (27) Protokoly TsK, p.126-7.
 (28) トロツキー, Stalinskaia shkola fal'sifikatsii, p.124.
 (29) Izvestiia, 11月 4/17, 1917. Protokoly TsK, p.135から引用。
 (30) Revoliutsiia, VI, p.423-4.
 (31) V. D. Bonch-Bruevich, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1969), p.143.
 (*) このとき左翼エスエルは、彼に反対投票をした。Revoliutsiia, VI, p.99.
 (+) Dekrety, I, p.24-p.25. ルナチャルスキは、I・ラリンによって、執筆者だと信じられている。NKh, No. 11(1918年), p.16-p.17.
 (32) A. L. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Lenigrad, 1969), p.166-7.
 (33) Revoliutsiia, VI, p.91.
 (34) Fraiman, Forpost, p.169.
 (35) Korolenko, "Protest", in Gazeta-Protest Souiza Russkikh Pisateli, 1917年11月26日.この文書の写しは、フーヴァー研究所で利用できる。
 ----
 第2節④へとつづく。

2185/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
 ---
 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会に対する責任を免れる②。 
 (12)1917-18年の冬、かつてのロシア帝国の住民大衆は、物的資財だけを分け合ったのではなかった。  
 彼らは、600年の歴史発展の所産であるロシア国家をも分裂させた。国家主権それ自体が、<duvan>の対象となった。
 1918年の春までに、世界最大の国家は、数え切れないほどの重なり合う団体に分離した。大小はあれ、それぞれが自らの領域を支配する権威をもつことを主張し、制度的な結びつきによっては、さらには共通する運命の意識ですらによっても、他者と連結することがなかった。
 数カ月のうちに、ロシアは政治的には、中世初期に戻った。当時のロシアは自己統治をする公国の集合体だったのだ。//
 (13)最初に分離したのは、国境諸国の非ロシア人たちだった。
 ボルシェヴィキ・クーの後、少数民族が次から次へと、ロシアからの独立を宣言した。一つに民族の熱望に気づいたことによって、二つにボルシェヴィズムと差し迫る内戦から逃れるために。
 彼らは、それを正当化するために、「ロシアの諸民族の権利の宣言」を指し示すことができた。この宣言は、ボルシェヴィキがレーニンとスターリンの署名にもとづいて、1917年11月2日に発したものだった。
 全てのソヴェト制度を前もって承認することなしに公にされたもので、ロシアの人民に対して、「独立国家を分離させ形成する権利を含む、自由な自己決定」を認めていた。
 フィンランドが、独立を宣言する最初の国家となった(1917年12月6日/新暦)。
 それに続いたのは、リトアニア(12月11日)、ラトヴィア(1918年1月12日)、ウクライナ(1月22日)、エストニア(2月24日)、トランス・コーカサス(4月22日)そしてポーランド(11月3日)(日付は全て新暦)だった。
 これらの分離によって、大ロシア人が居住する地域に対する共産主義の支配は減少した。-すなわち、17世紀半ばのロシアに戻った。
 (14)離脱の過程が進んだのは、国境諸国に限られなかった。遠心力的な力は、大ロシア内部でも発生した。
 州(province)は相次いで独自の道を進み、中央権力からの自立を要求した。
 こうした過程は、「全ての権力をソヴェトへ」という公式のスローガンによって促進された。これは、多様なレベルでの地域的なソヴェトが主権を要求するのを許容するものだった。-地域(oblast')、州(guberniia)、地区(uezd)、そしてvolost' や<selo> においてすら。
 その結果は、混沌だった。
 「市ソヴェト、村ソヴェト、selo ソヴェト、そして郊外区ソヴェトがあった。
 これらソヴェトを自分たち以外の誰も承認しなかった。そして、承認したとするならば、自分たちに有利なことがたまたま生じた『地点にまで』達したからだった。
 各ソヴェトは、直接的な周囲の条件が命じるとおりに、そしてそれが行うことができ望むとおりに、活動し、闘争した。
 それらには、全く、または事実上は全く…ソヴェト的官僚機構がなかった。」(16)
  (15)何がしかの秩序を生み出す試みとして、ボルシェヴィキ政府は、1918年春に、<oblasti>と呼ばれる領域的機構を設立した。
 これらは、いくつかの州で構成され、準主権的地位を享有するもので、つぎの6つがあった。(*)
 ①付属の9州をもつモスクワ、②エカテリンブルクを中心とするウラル、③首都ペトログラードを含む7州を包括する「北部労働者コミューン」、④スモレンスクを中心とする北西部、⑤中心にオムスクがある西シベリア、⑥イルクーツクを基地とする中央シベリア。
 各oblasti は自らの行政府をもち、ソヴェト大会を開催した。
 その中には、自分たちの人民委員会議をもつものもあった。
 1918年2月に開催された中央シベリア地域のソヴェト大会は、ソヴィエト政府がドイツとの間に締結しようとしていた講和条約を拒否し、独立性を主張して、自らの外務人民委員を任命した。(17)
 (16)あちこちの<gubernii>は「共和国」だと宣言した。
 そうしたのは、カザン、カルガ、リャザン、ウファ、およびオレンブルクだった。
 バシュキールやヴォルガ・タタールのような、ロシア人の中で生活している非ロシア人たちのいくつかも、民族共和国を設立した。
 ある集計では、消滅したロシア帝国の領域に、少なくとも33の「政府」が存在した。(18)
 中央の政府はしばしば、布令や規則を施行するために、これら短命の機構の助力を求めなければならなかった。
 (17)地域や州は、それに代わって次々と、下位組織へと分解した。その中では、volost' が最も重要だった。
 volost' の活力は、農民たちにはこれが利用地が配分される最大の区域だった、ということにもとづく。
 原則として、一つのvolost' の農民たちは、奪い取った資産を隣のvolosti 〔複数〕と共有するのを拒否しただろう。その結果として、この小さな数百の地域は、事実上は、自治的な領地となった。
 マルトフは、つぎのように観察した。
 「我々はつねにこう指摘してきた。『全ての権力をソヴェトへ』のスローガンが農民たちや労働者階級の後れた階層に人気があるのは、かなりの程度で、付与された領域についての地方労働者や地方農民の優先権という原始的な考えとこのスローガンを結びつけている、ということで説明することができる。
 彼らはほとんど、労働者支配というスローガンを、付与された工場の奪取という考えと同一視しているし、農業革命というスローガンを、付与された土地を既存の村落が排他的に利用するという考えと同一視している。」
 (18)ボルシェヴィキは分離した国境諸国を元に戻すべく軍事攻撃を行ったが、何度かは成功しなかった。
 しかし、全体としてさしあたりは、大ロシア内部での遠心力的趨勢に干渉しなかった。それは、そうすれば直接的な反抗を促進させ、旧来の政治的かつ経済的なシステムを完全に破壊することになったからだ。
 この趨勢はまた、共産党がその権力を確固たるものにする以前に、その共産党に立ち向かう強い国家装置が出現することをも、妨げた。
 (19)1918年3月、政府は、ロシア・ソヴェト社会主義連邦共和国(RSFSR)憲法を承認した。
 レーニンはこの文書の起草を、スヴルドロフを長とする、法的専門家たちの委員会に任せていた。最も熱心な委員たちは左翼エスエルで、彼らは、1871年のフランス・コミューンをモデルにして、中央集権的国家をソヴェトの連邦に変えようと望んでいた。
 レーニンは、彼らの考えは中央指向という自分の目標とは全く逆ではあったが、邪魔しないで放任した。
 彼は、行政に関する詳細なことについて、どの兵士たちがスモルニュイの自分の役所を護衛するかを決定することに至るまで、綿密な注意を払った。しかし、憲法委員会の議論には外部者であり続け、その作業の結果を概読したのみだった。
 ここには、成文憲法に対するレーニンの蔑視が示されていた。彼の目的にとってふさわしいのは、党による統制という秘密の心棒を隠すために、国家構造が緩やかで準アナーキーな外面をもつことだった。(20)
 (20)1918年憲法は、ナポレオンの規準に合致していた。ナポレオンはこう言った。良い憲法は、短くて、紛らわしい、と。
 ロシア憲法の最初の条項は、ロシアは「労働者、兵士および農民代表ソヴェトの共和国」だと宣言した。
 「中央および地方の全ての権力」はソヴェトに帰属する。(21)
 こうした条項の定めは、解答のない疑問を惹起させる。これらに続く条項は、中央と地方の間の、あるいは各ソヴェトの間の権力の分割を明確には規定していないからだ。
 第56条によると、「管轄区域の範囲内で、各ソヴェト(地方、州、地区およびvolost' )の大会は、最高の権威である」。
 しかしながら、各地方はいくつかの州を包含し、各州は多数の地区とvolosti をもつのだから、この原理は、無意味だった。
 さらに複雑にしていることだが、第61条はソヴェト大会が最高の権威だとする原理と矛盾していた。同条は、地方ソヴェトは地方問題にだけ権能を限定し、「ソヴィエト政府の最高機関」の命令を実施することを要求していたからだ。
 (21)1918年憲法の欠陥を異なる領域的段階でのソヴェト当局の権能の問題に特殊化してしまえば、それは、ボルシェヴィキは深刻な禁止の問題として把握していなかったことを強調するにすぎないだろう。
 そうであったとしてすら、ボルシェヴィキは、遠心力的趨勢を憲法上是認することによって、その趨勢を強めたのだ。(*)
 (22)完全な行動の自由を得るために、レーニンはすみやかに〔ソヴェト〕中央執行委員会(CEC)〔イスパルコム〕に対する責任(accountability)から逃れなければならなかった。
 (23)ボルシェヴィキが提案して、第二回ソヴェト大会は、古いイスパルコムを解任し、新しくそれを選出した。そのうちボルシェヴィキは、58パーセントの議席を占めた。
 この編制によって、一団として投票するボルシェヴィキ派がどんな提案に対しても採択したり却下したりすることができることとなった。しかし、ボルシェヴィキは依然として、左翼エスエルおよびメンシェヴィキという騒々しい少数派と競い合う必要があった。
 エスエルとメンシェヴィキは十月のクーの正統性を承認するのを拒否し、ボルシェヴィキが政府を形成する権利を持つことを否定した。
 左翼エスエルは、十月クーを受け容れた。しかし、彼らはあらゆる種類の民主主義的幻想に嵌まっていて、その一つは、ソヴェトに代表される全ての政党から成る連立政権だった。
 (24)ボルシェヴィキが口先でだけ呟いていた原理を、ボルシェヴィキ以外の少数派は真面目に考えていた。それは、CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕は内閣の構成やその活動に関して最終的な拒否権をもつ社会主義的立法府だ、という原理的考えだった。
 この権能をCECが有するのは、ソヴェト第二回大会のつぎの決議によっている。それは、レーニン自身が草案を書いたものだった。
 「全ロシア労働者、兵士および農民代議員ソヴェト大会は、こう決議する。
 立憲会議以前の国の行政を行うために、労働者および農民の臨時政府を設立し、それを人民委員会議と称する。<中略>
 人民委員会議の活動を統制(controll)することおよび人民委員会議を交替(replace)させる権利は、全ロシア労働者、兵士および農民代議員大会およびその中央執行委員会に授与される。」(22)
 これほどに明確なものはない。
 それにもかかわらず、レーニンは、この原理をすっかり放擲して、CEC からまたはその他のいかなる外部機関からも独立した内閣を作ると、堅く決めていた。
 彼が国家の長になってから10日以内に、これは達成された。
 (25)ボルシェヴィキとCEC の間に歴史的な対立が起きたのは、後者が他の社会主義諸政党も含めるようにソヴナルコムを広げるべきだとボルシェヴィキに対して強く主張したことによってだった。
 全政党が、ボルシェヴィキが閣僚ポストを全て独占することに反対した。要するに、ソヴェトを代表すべくソヴェト大会で選出されたのであって、自分たちだけの代表ではない。
 この反対論はボルシェヴィキ・クーの3日後には表面化し、危険な様相を帯びた。その日、ロシア最大の労働組合である鉄道被用者同盟が、社会主義政党の連立を要求する最後通告書を提出したのだ。
 1905年10月に記憶を辿らせた者は誰もが、鉄道ストライキがツァーリ体制の崩壊について果たした決定的役割を思い出しただろう。
 (26)全国に数十万の組合員を有する鉄道同盟は、輸送を麻痺させる力を持っていた。
 同盟は、1917年8月にはケレンスキーを支持し、コルニロフに反対した。
 10月には、最初は「全ての権力をソヴェトへ」というスローガンに賛成した。しかし、幹部たちがボルシェヴィキが利用しているこの語の使い方に気づくや否や、反対に回り、ソヴナルコムは連立内閣に譲れと主張した。(23)
 10月29日、同盟は、政府がすみやかに社会主義諸党を含めるように拡張されなければ、ストライキを命じる、と宣言した。
 これは、ボルシェヴィキにとって重大な脅威だった。ケレンスキーの反攻に備えていたボルシェヴィキには、兵団を前線に送るためには鉄道列車が必要だったのだから。
 (27)ボルシェヴィキは、中央委員会を開いた。
 ケレンスキーに対する防衛を組織化するのに忙しかったレーニンとトロツキーは、出席できなかった。
 二人のいない中央委員会は、一種のパニック状態にあり、同盟の要求に屈服し、「他の社会主義諸党を含めることによって政府の基盤を拡張する」必要性を認めた。
 ボルシェヴィキ中央委員会はまた、ソヴナルコムはCEC が作り出すものであり、CEC に対して責任を負うことを、再確認した。
 その中央委員会は、新しい臨時政府の設立について同盟や他党との交渉をさせるべく、カーメネフとG. Ia. ソコルニコフを代表として派遣した。(24)
 この決定は、本質的には、十月のクーで獲得した権力を譲り渡すことを意味した。//
 (28)その日おそく(10月29日)、カーメネフとソコルニコフは、鉄道被用者同盟が招請していた、8政党と若干の党内組織との会合に出席した。
 ボルシェヴィキ中央委員会決定に従って、彼らは、第二回ソヴェト大会を受容することを条件として、エスエルとメンシェヴィキがソヴナルコムに入ることに同意した。
 その会合は、ソヴナルコムの再構成の時期等を検討する委員会を任命した。
 同盟による最後通告に合致したので、その夜に同盟は、ストライキの中止と警戒しつづけることを各支部に命令した。(25)
 ----------------
 (16)V. Tikhomirnov in VS, No.27(1918年), p.12.
 (*)Eltsin in VS, No. 6/7(1917年5月), p.9-p.10.
 この著者は、中央委員会と政府の指令にもとづいて作成されたこの文書は「ロシア諸国を集合させる」過程を開始するものだ、と主張する。この言葉は伝統的には近代初期のモスクワに当てはまるものだ。
 (17)Pietsch, Revolution, p.77.
 (18)J. Bunyan & H. H. Fischer, The Bolshevik Revolution, 1917-18: Documents and Materials(Stanford, Calif., 1934), p.277.
 (19)L. Martov in Novyi luch, No. 10/34(1918年1月18日), p.1.
 (20)Pietsch, Revolution, p.80.
 (21)S. Studenikin, ed., Istoria sovetskoi konstitutsii v dekretakh i postanovleniiakh sovetskogo pravitel'stva 1917-1936(Moscow, 1936), p.66.
 (*)こうした趨勢は、政府が地方ソヴェトへの財政援助を拒否したことで弱くなった。
 ペトログラード〔中央政府〕は1918年2月、地方ソヴェトからの財源要請に答えて、富裕階級への「仮借なき」課税によって財源は獲得すべきだ、と伝えた。これにつき、PR, No. 3/38(1925年), p.161-2.
 この指令によって地方政府は、それぞれの地域の「ブルジョアジー」に対して恣意的に「寄付金」を課すこととなった。
 (22)Dekrety, I, p.20.
 (23)A. Taniaev, Ocherki po istorii dvizheniia zheleznodorozhnikov v revoliutsii 1917 goda (Fevral'-Oktiabr')(Moscow-Leningrad, 1925), p.137-9.
 (24)Protokoly Tsentral'nogo Komitera RSDRP(b): August 1917-Fevral'1918(Moscow, 1958), p.272. およびRevoliutsiia, VI, p.21.
 (25)Revoliutsiia, VI, p.22-23. P. Vompe's Dni oktiabrskoi revoliutsii izheleznodorozhniki(Moscow, 1924). これは、鉄道被用者と労働者の会合の詳細を内容としていると言われているが、私には利用できなかった。
 ----
 ③へとつづく。

2182/R・パイプス・ロシア革命第12章第2節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。つぎの章に進む。
 第12章・一党国家の建設。
 ---
 第2節・レーニンとトロツキーがソヴェト中央執行委員会に対する責任を免れる①。
 (1)ボルシェヴィキが決して疑わなかったのは、党はソヴィエト政府を駆動させるエンジンでなければならない、ということだった。
 レーニンが1921年の第10回党大会で「我が党は政権政党であり、党大会が採択した決定は共和国全体にとっての義務となる」と述べたとき(7)、その内容はたんに自明のことにすぎなかった。
 スターリンが数年後にこう述べたとき、党の国制上の優越性をさらに明確に示していた。「わが国では、党による指示なくしては、我々のソヴェトも大衆組織も、重要な政治上および組織上の問題を何一つ決定することができない」。(8)
 (2)だがなお、承認された公然たる権威を持ったにもかかわらず、ボルシェヴィキ党は1917年以降、かつてそうだったもの-すなわち私的団体-のままだった。
 1918年のソヴィエト憲法も1924年のそれも、党には何ら言及しなかった。
 党が国制上の文書で最初に言及されたのは、1936年のいわゆるスターリン憲法でだった。その126条は党をこう定義した。「社会主義秩序の強化および発展を目ざす労働者の闘争の前衛」、「統治上および社会上の、労働者の全組織の指導的中核」。
 法制定に際して最も重要なことに言及しないのは、多くはロシアの伝統だった。ツァーリ絶対主義はその最初でむしろ偶然的な定義をピョートル大帝の「軍事法令」のうちに見出したのだったが、それはこの国の中心的な政治的現実となったあと二世紀のちのことで、基本的な社会的現実である隷従制は、法的な承認を受けることがなかった。
 1936年まで、党は自らのことを、手本を示して鼓舞することで国を指導する超越的な力だと考えていた。
 かくして、1919年に採択された党綱領は、党の役割はプロレタリアートを「組織」し「指導」して、階級闘争の性格をプロレタリアートに「説明」することにあると定義した。その際に、党は他の全てと同じく「プロレタリアート」も支配するということは一度なりとも示唆しなかった。
 ソヴィエト・ロシアについてもっぱらその当時の公式文書で得る知識から理解する人々はみな、国の日常生活に対する党の関与について少しも知らないだろう。それこそが、ソヴィエト同盟を世界の他国の全てと分かつのだけれども。(*)
 (3)こうして、権力掌握後もボルシェヴィキ党は私的な性格を維持し、そのことによっても、やがて国家と社会の完全な支配者になった。
 結果として、党の規約、手続、決定および党員たちは、外部からの監督に服さなかった。
 カーメネフが1920年に行った言明によると、圧倒的に非ボルシェヴィキの人々から成る(9)ロシアを「統治」した60万ないし70万の党員たちは、政党ではなくむしろ軍団(cohort)に類似していた。(+)
 党による統制から他の全てが免れることはできなかった一方で、党もまた自分に対する統制を承認しなかった。党は自ら自己を抑制しかつ自己に責任を負ったのだ。
 このことは、共産主義理論家たちがかつて満足には説明することのできなかった異様な状況を生み出した。
 というのは、ルソーが、「全員の意思」といくぶんかは異なる、各人全ての意思を表現するために言った「一般意思」のごとき形而上学的観念を参照することでのみ、それは可能だろうからだ。
 (4)党の役割は、ボルシェヴィキがロシアを征圧しその代理人を国家諸装置の責任者として配置した3年の間に、急激に大きくなった。
 1917年2月、ボルシェヴィキ党には2万3600人の党員がおり、1919年には25万人、1921年3月には73万人(候補も含む)になった。(10)
 新加入者のほとんどは、ボルシェヴィキが内戦に勝利しそうに見えたときに、ロシアで国家業務に伝統的に結びついている利益を求める資格を得るために、入党した。
 急激に膨張したこの数年間の間、党員は最低限度の住宅、食糧および燃料が保障された。よほど悪辣な犯罪行為を行った場合のほとんどを除いて、政治警察による拘束から免れたことは言うまでもない。
 党員だけは、武器を携帯することが許された。
 レーニンは、もちろん、新加入者のほとんどは出世主義者で、彼らの収賄、窃盗、および民衆に対する苛めは党の評価に有害となるものではない、と分かっていた。
 しかし、全ての権威を獲得しようとしていたので、適切な社会的資格があり、命令を疑問視も躊躇もしないで忠実に履行する気持ちがある者ならば、誰でも入党させる以外に選びようがなかった。
 レーニンは同時に、党と政府の重要な地位を、地下活動時代の老練党員である「古い軍団」のために空けておくことを確実にした。
 1930年には、諸共和国の中央委員会の書記局や地方の(oblast' やKrai の)委員会の69パーセントが、革命以前からの党員だった。(11)
 (5)1919年半ばまで、ボルシェヴィキ党は地下活動時代の非定型的構造を維持した。
 しかし、党員数が増加するにつれて、非民主主義的な実務が制度化された。
 中央委員会は党の権限の中核のままだったが、その委員たちは特別の任務を帯びて急いで全国を周っていたために、実際には、通常はたまたま存在した数人の委員たちによって決定がなされた。
 暗殺を怖れてほとんど旅行しなかったレーニンは、ずっと議長を務めた。
 レーニンは、国家の独裁者として実力による強制やテロルを重んじたけれども、軍団の内部では説得することを選んだ。
 意見か合わないことを理由に党外に排除するということは、決してしなかった。
 いくつかの重要な問題について多数の賛成を獲得することができないときには、彼は辞任すると言って脅かして、自分の意見を通した。
 一度か二度、屈辱的な敗北を喫しそうになったが、その際に彼を救ったのは、ただトロツキーの介入だった。
 数回は、賛成ではない政策を黙認しなければならなかった。
 しかしながら、1918年の末までには、誰もレーニンに反対しない状態にまで、彼の権威は増大した。
 過去にしばしばレーニンと論争したカーメネフは、1918年秋にスハノフ(Sukhanov)にこう語ったとき、多数のボルシェヴィキ党員に対して述べていた。
 「レーニンは決して誤りを冒さないと、ますます確信するに至った。
 最後には、彼はつねに正しい。
 見通しや政治方針について、彼は過ったと思ったときが何度あっただろうか。-しかし、つねに、最後には、彼の見通しや方針は正しかったことが判った。」(12)
 (6)レーニンは、その最も親密な仲間たちの間ですら、論議することにほとんど寛容さがなかった。
 典型的には内閣の会議で、彼は文書束を捲り、議論に再び加わって政策を決定したものだ。
 1917年10月から1919年春まで、彼は不可欠の助け手であるI・スヴェルドロフ(Iakov Sverdlov)と協力して、政府はもとより党に関する、多数の決定を下した。
 文書整理箱のような頭をもつスヴェルドロフは、名前、事実その他の必要な情報をレーニンに与えることができた。
 スヴェルドロフが病気になって1919年3月に死んだ後、中央委員会は再構成されなければならなかった。このときに、政策を指導するために政治局、組織運営(adminirtration)を担当する組織局、そして党員の世話をする(manage)書記局が、それぞれ設置された。
 (7)内閣またはソヴナルコムは、二重の権能を行使する党の高官たちで構成された。
 党中央委員会を指揮するレーニンはソヴナルコムの議長でもあり、これは首相(Prime Minister)と同じことだった。
 原則として、重要な決定はまず初めに中央委員会または政治局で行われ、その後で、討議と補足のために内閣の議案とされた。その閣議には、非ボルシェヴィキの専門家も、しばしば出席した。
 (8)もちろん1億人以上の住民がいる国では、もっぱら党員層だけに依拠して、国内の社会的、経済的、政治的秩序を「粉砕」するのは不可能だった。
 「大衆」を統御(harness)する必要があった。しかし、多数の労働者と農民は社会主義やプロレタリアート独裁に関して何も知らなかったために、彼ら多数の最も狭い意味での利害に訴えて、行動するよう彼らを刺激しなければならなかった。
 ペトロニウスの<サテュリコン>、古代ローマの日常生活を描いたあの独特の小説だが、その中には、ボルシェヴィキが権力掌握をした最初の頃に追求した、その政策にきわめて関係が深い文章がある。
 「詐欺師、あるいは掏摸は、群衆の中の犠牲者を引っ掛けるために、音が鳴る鞄を入れた小さな箱を路上に落とさずに、どうやって生き抜けるだろうか?
 物言わぬ動物は、食い物の罠で捕らえられる。人間は、何かにかじり付くということがなければ、捕らえることができない。」
 これは、レーニンが本能的に理解していた原理だった。
 権力を握ったレーニンは、「<Grabi nagrablennoe>」(「略奪し尽くせ」)というスローガンのもとで、ロシア全体の富を全住民に譲り渡した。
 人民が「かじり付く」のに忙しくしている間に、彼は、政治的対抗者を処分した。
 (9)ロシア語には、<duvan>という言葉がある。これはコサック方言を経由したトルコ語から借用したものだ。
 この言葉は、強奪品が分配された物を意味している。南ロシアのコサック団がトルコ人やペルシャ人の居留地を襲った後で用いた分配物のような物のことだ。
 1917-18年の秋から冬にかけて、ロシアの全てはこの<duvan>の対象になった。
 主な生活必需品は農業用土地に分配されるものとされ、10月26日の土地布令は、共同体の農民にそれを与えた。
 各共同体がそれぞれに設定した規準によると、各世帯へのこの配分によって、1918年の春に入るまで農民たちは充分に生活することができた。
 農民たちはこの期間に、かつてそうだったほどには、政治への関心を持たなくなった。//
 (10)同様の過程は、工業や軍隊でも生じた。
 ボルシェヴィキは最初は、工業施設の運営を工場委員会に委ねた。この委員会の労働者や下層事務員たちは、サンディカリガムの影響を受けていた。
 工場委員会は所有者や管理者を排除して、経営権を奪い取った。
 だが、委員会は、工業施設の資産を横領する機会を利用して、原料や装備はむろんのこと、利潤もまた自分たちで分け合った。
 当時の論者によると、「労働者管理」は実際には、「与えられた工業企業の収益を労働者に分配すること」に堕していた。(13)
 戦線の兵士たちは、故郷に向かう前に、兵器庫や倉庫を破って入って、運べるものは何でも奪い去った。残りは、地方の民間人に売りさばいた。
 あるボルシェヴィキの新聞は、このような軍隊<duvan>について報道した。
 その新聞の報告者によると、ペトログラード・ソヴェトの兵士部門の1918年2月1日(新暦)の議論は、多数の単位の兵団が連隊の兵站部の貯蔵物を要求したことを明らかにしていた。彼ら兵士たちが、このようにして獲得した軍服や武器を故郷に持ち帰るこは、一般的だったのだ。//
 (11)国有または国家の財産という観念は、私的財産という観念とともにかくして消え去った。そして、それは、新しい政府の激励でもって行われた。
 レーニンはまるで、エメリヤン・プガチョフ(Emelian Pugachev)のもとでの1770年代の農民反乱の歴史を勉強していたかのようだった。このときプガチョフは、農民層のアナキズム的および反所有者層的な本能に訴えかけて、東部ロシアの莫大な地域を占拠した。
 プガチョフは、地主たちを皆殺しにして、帝室の土地を含めて地主の土地を奪い取るよう、熱心に説いた。
 彼は農民たちに、税をもう課さず、徴兵もしないと約束し、所有者たちから奪った金銭や収穫物を農民に分配した。
 さらに彼は、政府を廃止してコサック「自由団」に置き換えることを誓約した。-これはつまりは、アナーキー〔無政府状態〕だ。
 プガチョフがカテリーヌの軍に殲滅されていなければ、彼はロシア国家を打倒していたかもしれない。
 ---------------
 (8)I・スターリン, Voprosy Leninizm, nth ed. (Moscow, 1952), p.126.
 (*)この仕組みは、外国人には驚くほどに成功した。
 1920年代、共産主義ロシアは、外国にいる社会主義者やリベラルたちには、新しい「ソヴェト」タイプの民主主義政府だと受け止められた。
 初期の訪問者の説明文は、ほとんど共産党とその支配的役割に言及していなかった。それだけ効果的に、共産党は隠されていたのだ。
 (9)Deviatyui S"ezd RKP(b): Protokoly(Moscow, 1960), p.307.
 (+)国家社会主義党をボルシェヴィキやファシスト党のモデルに倣って作ったヒトラーは、ヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning)に、「『党』という言葉は、自分の組織については本当に間違った名称だ」と語った。
 ヒトラーは、その党は「一つの秩序(order)」だと呼ばれるのが好きだった。
 Rauschning, Hitler Speaks(London, 1939), p.198., p.243. 
 (10)Leonard Schapiro, The Communist Party of the Soviet Union(London, 1960), p.231; BSE, XI, p.531.
 (11)Merle Fainsod, How Russia Is Ruled(Cambridge, Mass., 1963), p.177.
 (12)Sukhanov, Zapiski, II, p.244.
 (13)B. Avilov in NZh, No.18/232(1918年1月25日/2月7日), p.1.
 (14)Krasnaia gazeta, No.7(1918年2月2日), p.4.
 (15)以下を見よ。Dokumentry stavki E. I. Pugacheva, povstanchevskikh vlastei i uchrezhdenii, p.1773-4(Moscow, 1975), p.48. および、R. V. Ovchinnikov, Manifesty i ukazy E. I. Pugacheva(Moscow, 1980), p.122-p.132.
 ----
 ②へとつづく。

2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。


 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。つぎの章に進む。
 第12章・一党国家の建設。
 ---
 第1節・権力掌握後のレーニンの戦略。
 (1)1917年10月26日、ボルシェヴィキは、達成したとして主張するほどにはロシアに対する権力を掌握してはいなかった。
 その日に非合法に召集して支持者だけを詰め込んだソヴェトの残留派大会で勝利したのだが、限られた、一時的な権威しか持たなかった。
 政府はソヴェト中央執行委員会に責任を負い、立憲会議の招集を待って一カ月以内に退任するものとされていた。
 ボルシェヴィキがこれを実現するのには、三年間の内戦が必要だった。
 不安定な立場にあったにもかかわらず、ボルシェヴィキは、ほとんど直ちに、歴史に知られていない類型の体制、つまり一党独裁制の基礎を築いた。//
 (2)10月26日、ボルシェヴィキには三つの選択肢があった。
 まず、党が政府だと宣言することができただろう。
 ついで、党を政府へと解消することもできた。
 さらに、党と政府を別々の装置として維持し、外部から国家を指揮するか、または接合させる人員を通じて執行の段階で国家と融合するか(1)、のいずれかを行うことができた。
 以下に述べる理由で、レーニンは上の第一と第二の選択肢を採るのを拒絶した。
 彼は、第三の選択肢のうちの二つの間で、少しばかりは躊躇した。
 もともとは、前者に傾いていた。すなわち、国家の長であるよりも、党の長として統治するのを選んだ。それは全世界のプロレタリアートの、最初の政府だった。
 しかし、見てきたように、彼の同僚たちはレーニンが十月のクーの責任を避けようとしていると考え、多くの者が反対して、レーニンに諦めるように迫った。(2)
 その結果として、クー・デタの数時間以内に発生した政治システムでは、党と国家は別の独立した一体のままで存続し、組織としてではなく人員によって執行の段階で融合する、ということとなった。執行段階で融合したものは、とりわけ内閣だった(人民委員会議ないしソヴナルコム)。この内閣で、党の指導者たちが全ての閣僚ポストを占めた。
 こうした組織編制のもとで、党官僚としてのボルシェヴィキは、政策決定を行い、国家部署の長としてそれを執行した。その目的のために、一般官僚機構や保安警察も利用した。
 (3)このような仕組みは、ヨーロッパやその他の世界の左翼や右翼による一党独裁制形態の多様な後裔を育むこととなる、そのような統治類型の起源だった。そしてそれは、議会制民主主義に対する主要な敵または代替選択肢として出現することとなった。
 それの際立つ特徴は、執行権と立法権の集中だった。もちろん、権力は、立法、執行および司法の各権能の全てが、「支配党」という私的組織の手に委ねられる。
 かりにボルシェヴィキがすみやかに他の全ての政党を非合法にしたとすると、「党」という名称をそれらの組織に用いることはほとんどできない。
 「党(the Party)」-これはラテン語のpars または〔英語の〕一部(part)に由来する-は、部分は全体ではあり得ないがゆえに、その定義上は排他的なものであることができない。
 従って、「一党国家」は、用語上は矛盾している。(3)
 それよりも幾分かは良く適合するのは「二重国家」で、この語は、のちにヒトラーが確立したものと類似した体制を叙述するために、新しく作られた。(4)
 (4)この統治類型には、ただ一つだけ、先行例があった。不完全で部分的に実現されたのみだが、いく分かモデルになったものがある。すなわち、フランス革命期のジャコバン体制だ。
 フランス全体にいた数百人のジャコバン・クラブは、厳密な意味では政党ではなかったが、ジャコバン派が権力に到達する前にすでに、その特徴の多くを身につけていた。
 すなわち、クラブ構成員は厳格に統制され、投票の際はもちろんのこと綱領への忠誠さが要求され、パリのジャコバン・クラブはナショナル・センターとして行動した。
 1793年秋から、1年のちのテルミドール・クーまで、ジャコバン・クラブは、公式には行政部と混合することなしに、全ての執行部署を独占することによって統治の支配権を掌握し、政府の政策に対する拒否権までもつと呼号した。(5)
 ジャコバン派がもう少し長く権力の位置にいたならば、純粋な一党国家を生み出したかもしれない。
 実際に、ジャコバン派は、ロシアの専制的伝統に依りかかりながらボルシェヴィキが完成形を作るための、模範的原型を提供した。//
 (5)ボルシェヴィキは、革命を起こした後に発生すべき国家について、大して多くは思索してこなかった。自分たちの革命は即座に全世界を無視し、ナショナルな政府を一掃することを当然のことと考えていたからだ。
 ボルシェヴィキは、進む過程で一党国家を改良した。そして、それに理論的な基礎を与えてみようとは何ら試みなかったけれども、一党国家制は、彼らが実現した成果のうちで最も長続きのする、影響力が最も大きいものとなった。//
 (6)レーニンは自分が無制限の権力を行使するだろうことを何ら疑わなかったが、彼が「ソヴェト民主主義」の名前のもとで権力を奪取したことを考慮せざるを得なかった。
 ボルシェヴィキは、自分のためにではなくソヴェトのためにクーを実行した。-彼らの党の名は、〔ペトログラード〕軍事革命委員会のどの声明文にも出てこなかった。
 彼らのスローガンは、「全ての権力をソヴェトへ」だった。
 彼らの権威は、条件つきで一時的なものだった。
 虚構がしばらくの間は、維持されなければならなかった。この国はいかなる政党に対してであれ、権力を独占することを許さなかっただろうからだ。//
 (7)ボルシェヴィキが支持者と共感者を詰め込んだ第二回ソヴェト大会の代議員たちですら、ボルシェヴィキに独裁的な大権を与えるつもりはなかった。
 ボルシェヴィキが正統性の根源だと主張してきた大会の代議員たちは、彼らが代表するソヴェトはどのようにして政治的権威を再構築しようと意図しているかについて意見を求められたとき、つぎのように回答した。(6)
  ①全ての権力をソヴェトへ/        505(75%)
  ②全ての権力を民主主義派へ/        86(13%)
  ③全ての権力をカデット以外の民主主義派へ/ 21( 3%)
  ④連立政権/                58(8.6%)
  ⑤無回答/                 3(0.4%) 
 この反応は、多かれ少なかれ、同じことを語っていた。すなわち、親ボルシェヴィキ・ソヴェトがどのような政府を意図しているかを正確に知らないとすると、誰も単一の政党が独占的権力を持つとは予想していなかった、ということだ。
 実際に、レーニン直近の同僚たちの多数も、他の社会主義諸党をソヴェト政府から排除することに反対した。そして、レーニンとその一握りの最も献身的な支持者(トロツキー、スターリン、F・ジェルジンスキー)がそのような方向に固執したとすれば、それを理由として、抗議して辞任しただろう。
 これが、レーニンが直面していた政治的現実だった。
 やむを得ず彼は、一党独裁制を導入しているときですら、「ソヴェト権力」という外装の背後に隠れつづけた。
 民衆の中にある圧倒的に民主主義かつ社会主義の感情は、不確かに分散していたがなおも強く感じられたものだった。レーニンはそれによって、新しい名目上の「主権者」であるソヴェトの外皮を纏う国家構造には手をかけないように強いられた。一方では、権力の全ての網を、自らの手中に収めていっていたのだけれども。//
 (8)しかし、国の雰囲気によってレーニンがこの欺瞞を永続化させるのを強いられなかったとしてすら、彼が国家を通じて統治するのを選んで国家から党を切り離しただろうことには、十分な根拠がある。
 一つの要因は、ボルシェヴィキの人員不足だ。
 普通の状態でロシアを統治するには、公的なおよび私的な、数十万人の働き手が必要だった。
 あらゆる形態の地方自治が消滅して経済が国有化された国家を経営するには、その数の何倍もの人員数が必要だった。
 1917-18年のボルシェヴィキ党は、この仕事をやり抜くにはあまりに小さすぎた。
 いずれにしても、信奉者がきわめて少なく、かつそのほとんどは生涯にわたる職業的革命家だったので、行政についての専門知識がなかった。
 そのゆえに、ボルシェヴィキには、直接に行政をするのではなく、旧来の官僚機構とその他の「ブルジョア専門家」に依存し、行政官僚を統制すること以外には、選択肢がなかった。
 彼らはジャコバン派を模倣して、例外なく、全ての機関と組織にボルシェヴィキの人員を投入した。-その人員たちは国家にではなく党に対して、忠誠し服従する心構えがあった。
 信頼できる党員たちの必要性は切実だったので、党は、指導者たちが望んだ以上に急速に膨張し、出世主義の者たちを、純粋で使いやすいならば、入党させなければならなかった。//
 (9)党を国家とは別のものにした第三の考慮は、国家とは、国内または外国からの批判から党を守る手続のごときものだったことだ。
 ボルシェヴィキには、民衆が圧倒的に自分たちを拒否するときですら、権力を譲り渡す気持ちが全くなかったので、彼らは身代わり(scapegoat)を必要とした。
 これが国家官僚機構となるはずなのであり、党は無謬であるふりをしている間に、この官僚機構が失態について責められるだろう。
 ボルシェヴィキは、外国で破壊工作をしつつも、ロシア共産党という「私的組織」の仕業であってソヴィエト政府は責任を負うことができないと主張して、外国からの抗議をかわすことができることになる。//
 (10)一党国家のロシアでの確立は、建設的なまた破壊的な、多様な手段を必要とした。
 その過程は実質的には、1918年の秋までには完了した(そのときに、ボルシェヴィキが全ての中央ロシアを制圧した)。
 その後でボルシェヴィキは、この仕組みと実務を国境諸国に移植した。//
 (11)まず真っ先に、「ブルジョア」的なものはむろんのこと帝制時代的なものを含めて、全ての旧体制の残滓を根こそぎ廃絶しなければならなかった。地方自治の諸機関、政党とそれらの機関紙、軍隊、司法制度、および私的所有の制度。
 革命のこの純然たる破壊的段階は、奪い取るのではなく旧秩序を「粉砕する」のだとの1871年のマルクスの指示を実行するものだった。そして、諸布令がそれを定式化していた。だがそれは、主としては自然発生的アナキズムによってなし遂げられたもので、そのアナキズムは二月革命によって生まれ、ボルシェヴィキが強く燃え上がったものだった。
 当時の者たちは、こうした破壊的作業は愚かなニヒリズムによるものと見ていた。しかし、新しい支配者にとっては、新しい政治的および社会的秩序が建設されていく道を掃き清めることを意味した。//
 (12)一党国家体制の建設が困難だった一つの理由は、ボルシェヴィキが民衆のアナキズム的本能を抑制して、人々が革命によって永遠に解放されると考えたはずの紀律を再び課す必要があった、ということにあった。
 その必要があって、民衆的「ソヴェト」民主主義が出現する新しい権威(vlast')の構築が呼びかけられたが、実際に復活したのは、新しいイデオロギーと技術を備えたモスクワ絶対主義体制だった。
 ボルシェヴィキ支配者たちは、彼らの名目上の主人であるソヴェトに対する責任から免れることが、最も切迫している課題だと考えた。
 次いで、立憲会議から逃れる必要があった。彼らは自分たちでその招集を行っていたが、その立憲会議は確実に、ボルシェヴィキを権力から排除する可能性があったからだ。
 そして最後に、ソヴェトを党の従順な道具に変形させなければならなかった。//
 ------------
 (1)W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.140.
 (2)N. Sukhanov, Zapinski o revoliusii, VII(Berlin-Petersburg-Moscow, 1923), p.266.
 (3)R. M. Maclver, The Web of Government(New York, 1947), p.123.
 (4)E. Frankel, The Dual State(London-New York, 1941).
 (5)C. C. Brinton, The Jacobins(New York, 1961).
 (6)K. G. Kotelnikov, ed., Vtoroi Vserossiiskii S"ezd Sovetev R. iS.D.(Moscow-Leningrad, 1928), p.107.
 ----
 第2節につづく。第2節の目次上の表題は、<レーニンとトロツキーがソヴェト中央執行委員会に対する責任を逃れる>。
 R・パイプス著1990年の初版。これには、「1899-1919」は付いていない。


 IMG_1734 (2)

2175/R・パイプス著第11章第14節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 ----
 第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
 (1)当時のロシア住民の圧倒的大多数は、何が起こっているかを少しも知らなかった。
 二月革命以降は共立執行部として行動してきたソヴェトが、名目上は、完全な権力を掌握した。
 このことは、革命的な事件だとはほとんど思えなかった。すなわち、二月革命の最初に導入された「二重権力」の原理を、論理的に拡張したものだった。
 トロツキーがソヴェトへの権力移行だとボルシェヴィキによる権力奪取を誤認させたことは、素晴らしい成功だった。
 民主主義的社会主義者たちが二月と三月に導入した実務を、ボルシェヴィキの目的のために巧妙に利用したのだ。トロツキーは十月の事態をふり返って、こう自慢した。
 欺瞞がもたらした結末は、事実上何ら気づかれることなく、見かけ上は、新しい政府の危機をたんに「合法的」に解決したにすぎない、ということだった。
 (2)トロツキーは、つぎのように書く。(230)//
 「我々はこの蜂起を『合法的』だと称する。それは、二重権力という『正常な』状態から発展した、という意味でだ。
 宥和主義者たち〔エスエルとメンシェヴィキ〕がペトログラード・ソヴェトを支配していたとき、一度ならずソヴェトは、政府の決定を阻止し、あるいは訂正させた。
 こうした実務が、いわば歴史的には『ケレンスキー主義』として知られる体制の基本的構造の一部のごとくになった。
 ペトログラード・ソヴェトで権力を奪った我々ボルシェヴィキは、この二重権力の方法を拡張させ、深化させたにすぎない。
 我々は、(前線に対する)連隊の派遣に関する命令を抑止する権限をもった。
 我々はこのようにして、二重権力の伝統と実践の背後に、ペトログラー連隊の事実上の反乱を隠蔽した。
 それに加えて、権力の問題に関する我々の煽動を第二回ソヴェト大会のタイミングに合わせることによって、我々は二重権力の確立された伝統を発展させ、深化させたのだ。そして、ボルシェヴィキの蜂起のソヴェトによる『合法化』という枠組みを、全ロシア的規模で用意した。」
 (3)十月クーの社会主義という目標を隠したままにしたのも、欺瞞(deception)だった。
 まだ不確かだと感じられていた新体制が最初の週に発した公式文書は、「社会主義」という語を使わなかった。
 これが考え抜かれたもので見落としではないことは、つぎのことで分かるだろう。すなわち、レーニンは、臨時政府は廃止されたと宣言する10月25日の元々の草案では、「社会主義、万歳〔Long Live〕!」と書いていた。だが、宣言時には考え直して、その部分に線を引いて消した。(231)
 最も早い「社会主義」の語の公式な使用は、レーニンが書いた11月2日の日付のある文書に見られる。その文書は、「中央委員会は、社会主義革命の勝利を完全に確信する」と述べていた。(232)
 (4)こうしたこと全てによって、劇的な事件が起きたという意識が発生するのを抑え、公共の不安を和らげ、そして活発な抵抗を全て阻止する、という効果が生じた。
 十月のクーの意味に関する無知ががいかに広がっていたかは、ペトログラード株式取引所の反応が、よく例証しているだろう。
 当時のプレスによると、体制変化によって株取引は「まったく影響されなかった」。あるいはまた、ロシアに社会主義革命が起きたという、すぐそのあとの発表によってすら同じだった。
 クーの直後の日々には有価証券の取引はほとんどなかったけれども、価格は安定していた。
 神経質さを示したのはただ一つ、ルーブルの価値の急落だった。
 10月23日と11月4日の間に、ルーブルは外国での交換価値の二分の一を失い、アメリカ・ドルに対して、6.2から12~14へと安くなった。(233)
 (5)ほとんど誰も、臨時政府の崩壊を慨嘆しなかった。
 一般民衆はそのことに完全に無関心に反応した、と目撃者は報告している。
 ボルシェヴィキが頑固な抵抗を打ち破らなければならなかったモスクワについてすら、同じことが言えた。
 モスクワでは、政府が消失したことは気づかれなかった、と言われる。
 街頭を歩いている人々は、事態はたぶん少しも悪くはならないだろうと考えたために、誰が政権に就いても違いはない、と感じていたように見える。(234)//
 --------------
 (230)L.トロツキー, Sochineniia, III, Pt. 1(Moscow, n.d.), L.
 (231)Dekrety, I, p.2.
 (232)W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.68; Lenin, PSS, XXXV, p.46.
 (233)NZh, No. 173/167(1917年11月5日), p.1.
 (234)NZh, No. 171/165(1917年11月3日), p.3. French CounsulのE. Grenard はペトログラードでの同様の反応を報告する。La Revolution Russea (Paris, 1933), p.285. 地方については、Keep in Pipes, Revolutionary Russia, p.211 を見よ。
 ----
 第14節終わり。そして、第11章も終わり。

2174/R・パイプス著・ロシア革命第11章第13節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 ----
 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 (1)モスクワでは、最初からボルシェヴィキの狙いから逸れていた。
 政府代表者たちが大胆な決定をしていたならば、彼らは大失敗に終わっていただろう。
 (2)モスクワのボルシェヴィキはレーニンやトロツキーではなくカーメネフやジノヴィエフの側に立っていたために、権力を奪取する心構えがなかった。
 ウリツキ(Ulitskii)は10月20日の中央委員会で、モスクワの代議員の多数派は蜂起に反対だ、と発言した。(223)
 (3)10月25日のペトログラードでの事態を知って、ボルシェヴィキはモスクワ・ソヴェトに、革命委員会を設立する決議を通過させた。
 しかし、首都では対応する組織がボルシェヴィキの支配下にあったが、一方のモスクワでは、純粋に諸党連立のソヴェト機関の設立が目指され、メンシェヴィキ、社会革命党〔エスエル〕およびその他の社会主義諸党も加わるよう招かれた。
 エスエルは辞退し、メンシェヴィキは、いくつかの条件を付けて招聘を受諾した。
 この諸条件は受け入れられなかった。その結果、メンシェヴィキは身を引いた。(224)
 ペトログラードのミルレヴコム〔Milrevkom, 軍事革命委員会〕に倣って、モスクワの革命委員会は午後10時に、つぎの訴えを発した。市内の連隊は行動する準備をし、革命委員会が発するかまたはその副署のある命令にのみ従うこと。(225)
 (4)モスクワ革命委員会は、10月26日の朝に初めて動いた。古代の要塞を奪取してその武器庫にある兵器を親ボルシェヴィキの赤衛隊に分配するように、クレムリンに二人の委員を派遣したのだ。
 クレムリンを護衛している第56連隊の兵団は、委員の一人が自分たちの将校であることで困惑しつつも、従った。
 そうであっても、<ユンカー>がクレムリンを包囲して降伏するよう最後通牒を突きつけたために、ボルシェヴィキは兵器を移動させることができなかった。
 最後通牒が拒否されると、<ユンカー>は攻撃した。数時間のちに(10月28日午前6時)、クレムリンは<ユンカー>の手に落ちた。
 (5)クレムリンを奪取することで、親政府勢力は都心を統制下に置いた。
 この時点で、軍民と公民について権限をもつ将校たちは、ボルシェヴィキの蜂起を粉砕することができていただろう。
 しかし、彼らは躊躇した。一つは過信によって、もう一つは、いま以上の流血を避けたいという希望を持っただめに。
 「反革命」という怖れも、彼らの心のうちに重くのしかかっていた。
 市長のV. V. ブドネフを長とする公共安全委員会とK. I. リャブツェフ大佐のもとの軍司令部は、革命委員会を拘束しないで、それとの交渉に入った。
 3日間つづいたこの交渉によって(10月28日-30日)、ボルシェヴィキには、回復し、工業地域である郊外や近隣の町からの増援を求める時間が与えられた。
 10月28-29日の夜には情勢を「危機的」と判断していた(226)革命委員会は、二日後には、攻撃に移れると自信を持った。
 民主主義を防衛しようとするモスクワの住民は、最終的には、軍事アカデミー、大学およびギムナジウムの十代の若者たちだけだった。彼らは、年配者の指導も支援も受けることなく、信条に生命を賭けた。//
 (6)対立の平和的解決に関する公共安全委員会と革命委員会の交渉は、10月30-31日の深夜に、決裂した。革命委員会が一方的に休戦を終わらせて、攻撃するように軍団に命令したのだ。(227)
 両勢力はそれぞれ1万5000人の兵を有して、おおよそは同等であると見えた。
 モスクワではその夜の間ずっと、激しい、建物ごとの戦闘が繰り広げられた。
 クレムリンを再び奪還すると決意したボルシェヴィキは、大砲によって攻撃し、古代からの城壁に損傷を加えた。
 <ユンカー>はよく健闘したが、郊外から集まるボルシェヴィキ軍によって次第に圧迫され、孤立した。
 11月2日の朝、公共安全委員会はその部隊に対して、抵抗をやめるよう命令した。
 同日夕方、同委員会は、同委員会を解散してその部隊は武器を捨てるという趣旨の降伏書に、革命委員会とともに署名した。(228)//
 (7)ロシアのその他の地域では、状況は当惑するほどに筋道の違いがあり、各都市での戦いの行方と結果は、競い合う諸党派の強さや決断力にかかっていた。
 共産主義イデオロギストたちは、ペトログラードでの十月クーにつづく「ソヴェト権力の勝利の凱旋」とこの時期を形容する。しかし、歴史研究者から見ると、事態は異なる。
 しばしばソヴェトの意向に反してすら広がっていたのは「ソヴェト」権力ではなく、ボルシェヴィキの権力だった。そして、軍事的実力による征圧というほどの「勝利の凱旋」ではなかった。//
 (8)見分けられるほどの明確な態様はなかったために、二つの重要都市以外でのボルシェヴィキによる征圧を叙述するのはほとんど不可能だ。(229)
 ある地域では、ボルシェヴィキはエスエルやメンシェヴィキと手を組んで「ソヴェトの支配」を宣言した。
 別の地域では、ある党派がその他の対敵を追放して、自分たちの権力を打ち立てた。
 親政府勢力は、あちこちで抵抗した。しかし、多くの地方で元来の政府系組織は「中立」を宣言した。
 たいていの地方諸都市では、その地方のボルシェヴィキは、ペトログラードからの指令なくして、自分たちで行動しなければならなかった。
 ボルシェヴィキは、11月の初め頃までには、ヨーロッパの中心部、つまり大ロシアの地域を、少なくとも、その地域の諸都市を、統制下に置いた。ボルシェヴィキはそれら諸都市を、ノルマン人が千年前にロシアに対して行ったように、敵対的または無関心の住民が多数いる真ん中で、出撃基地に変えた。
 ボルシェヴィキは田園地帯のほぼ全領域について掌握するには至らず、分離して独立の共和国が設立された国境地域も同様だった。
 以下で叙述するだろうように、ボルシェヴィキはこれら諸国を、軍事活動でもって再征圧しなければならなかった。//
 ----------------------------
 (223)Protokoly TsK, p.106-7.
 (224)Revoliutsiia, V, p.193-4; Revoliutsiia, VI, p.4-5; D. A. Chugaev, ed., Triumfal'noe shestvie sovetskoi vlasti (Moscow, 1963), p.500.
 (225)V. A. Kondratev, ed., Moskovskii Voenno-Revoliutsionnui Komitet: Oktiabr'-Noiabr' 1917 goda(Moscow, 1968), p.22.
 (226)同上、p.78。
 (227)同上、p.103-4。
 (228)同上、p.161。
 (229)そうしたもので我々が参照できるのは以下。V. Leilina in PR, No.2/49(1926), p.185-p.233, No.11/58(1926), p.234-p.255、No. 12/59(1926), p.238-p.258、およびJohn H. Keep in Richard Pipes(Cambridge, Mass., 1968)p.180-p.216.
 ----
 最終第14節へ。

2172/R・パイプス・ロシア革命第二部第11章第12節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes, 1923-2018)には、ロシア革命(さしあたり十月「革命」前後)に関する全般的かつ詳細な、つぎの二著がある。
 A/The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 B/Russia under the Bolshevik Regime (1994).
 この二つを併せたような簡潔版に以下のCがあり、これには邦訳書もある。但し、帝制期(旧体制)に関する叙述はほとんどなく、<三全体主義(①共産主義、②ドイツ・ナツィズム、③イタリア・ファシズム)の共通性と差異>に関する理論的?な叙述等も割愛されている。
 C/A Concise History of the Russian Revolution (1996).
 =西山克典訳・ロシア革命史(成文社、2000年)
 上のAは、つぎの二部に分けられている。
 第一部・旧体制の苦悶。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 この欄では、これまで、第一部(いわゆる二月革命を含む)の試訳は行ってきていない。
 かつまた、第二部は計18の章を含むが、全ての試訳を了えているのは第9章(<レーニンとボルシェヴィキの起源>)、第10章(<ボルシェヴィキによる権力追求>だけで、かなりの部分を了えているのは、第11章<十月のクー>だ。
 第11章・十月のクーは、全体の目次欄では、つぎの計14の節からなり、それぞれに見出しがついている。この見出し的言葉は本文中にはなく、14の各節の冒頭の文字が特大化されて、各節の切れ目が示されている。
 第11章・十月のクー。原著、p.439~p.505。
 各節の目次欄上の見出しはつぎのとおり。
 第01節・コルニロフが最高司令官に任命される。
 第02節・ケレンスキーが予期されるボルシェヴィキ・クーに対抗する助力をコルニロフに求める。
 第03節・ケレンスキーとコルニロフの決裂。
 第04節・ボルシェヴィキの将来の勃興。
 第05節・隠亡中のレーニン。
 第06節・ボルシェヴィキによる自己のためのソヴェト大会計画。
 第07節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り。
 第08節・党中央委員会10月10日の重大な決定。
 第10節・ケレンスキーの反応。
 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言。
 第12節・第2回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 第13節・モスクワでのボルシェヴィキ・クー。
 第14節・起きたことにほとんど誰も気づかない。
 以上のうち、この欄で試訳の掲載を済ませているのは、第01節~第11節だけだ。
 第12節以降へと、試訳掲載を再開する。
 「憲法制定会議」と通常は訳されるConstituent Assembly は、「立憲会議」という訳語を用いている。
 なお、ここで初めて記しておくと、R・パイプスが用いているレーニン全集は、日本で最も一般に流通している(していた)レーニン全集とは巻分けが明らかに異なる。これに対して、レシェク・コワコフスキが<マルクス主義の主要潮流>で参照している(していた)レーニン全集は、日本のそれと巻分けが同じで、彼の参照指示に従って対象演説文等を容易に発見できる(論考類の掲載順もほぼ同じ。頁数は異なる)。L・コワコフスキは日本語版のそれと同じソ連版(同マルクス=レーニン主義研究所編)のレーニン全集のポーランド語版を利用している(していた)と思われる。
 ***
 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 ----
 第11章・十月のクー。
 第12節・第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可して講和と土地に関する布令を承認。
 (1)3時間半前、ボルシェヴィキは、これ以上待ちきれなくて、スモルニュイ(Smolnyi)の1917年以前は演劇の上演や舞踏会に使われた柱廊付き大集会室で、第二回大会を開会した。
 彼らは、テオドア・ダン(Theodore Dan)の虚栄心を賢くも利用して、メンシェヴィキのソヴィエト指導者たちも招待した。彼らとともに手続を執り行い、ソヴェトの正統性という香気を与える効果を得るためだった。
 新しい幹部会が、選出された。それは14名のボルシェヴィキ、7名の左翼エスエル、3名のメンシェヴィキで構成されていた。
 カーメネフが議長となった。
 正統なイスパルコム(Ispolkom, ソヴェト中央執行委員会)はこの大会に限られた議題しか設定しなかったけれども(現在の情勢、立憲会議、イスパルコムの再選出)、カーメネフは、全体的に異なるものに変更した。すなわち、政府の権限、戦争と和平、および立憲会議。
 (2)大会の構成は、国全体の政治的支持の状態とほとんど関係がなかった。
 農民諸組織は出席するのを拒否して、大会には権威がないと宣言し、全国のソヴェトにボイコットすることを強く迫った(203)。
 同じ理由で、軍事委員会は、代議員を派遣するのを拒んだ(204)。
 トロツキーは、第二回大会は「世界史上の全ての議会の中で最も民主主義的」と描写すること以上に正確なことを知っていたはずだった(205)。
 実際に、その目的のためにとくに設立された、ボルシェヴィキが支配する都市部の集会や軍事会議があった。
 10月25日に発表された声明文で、イスパルコムはこう宣言した。
 「中央執行委員会〔イスパルコム〕は、第二回大会は行われていないと考え、それをボルシェヴィキ代議員の私的な集会だと見なす。
 この大会の諸決議は、正統性を欠いており、地方ソヴェトや全ての軍事委員会に対する拘束力を有しないと、中央執行委員会によって宣告される。
 中央執行委員会は、ソヴェトと軍事諸組織に対して、革命を防衛するために結集することを呼びかける。
 中央執行委員会は、適切に行うことのできる情勢になればすみやかに、ソヴェトの新しい大会を招集するであろう。」(206)
 (3)この残留派(rump)議会への出席者の正確な数は、確定することができない。
 最も信頼できる評価が示すのは、約650人で、そのうちボルシェヴィキが338名、左翼エスエルが98名だ。
 この二つの連立党は、こうして、議席の3分の2を支配した。-3週間後の立憲会議選挙の結果から判断すると、それらに付与されたよりも2倍以上も多く代表していた。(207)
 ボルシェヴィキは左翼エスエルを完全には信頼してはいなかったので、偶発的事態の余地を残さないために、自分たちに議席の54パーセントを割り当てた。
 代表の仕方がいかに歪んでいたかを例証する事実は、70年後に利用できるに至った情報によれば、ボルシェヴィキの勢力の強いラトヴィア人(Latvian)は代議員総数の10パーセントで計算されていた、ということだ。(208)//
 (4)最初の数時間は、騒がしい論議で費やされた。
 閣僚たちが逮捕されたという報せを待っている間、ボルシェヴィキは、社会主義対抗派〔左翼エスエルとメンシェヴィキ〕に床を占めさせた。
 喚きや野次が響いている真っ只中で、メンシェヴィキと左翼革命党は、ボルシェヴィキのクーを非難し、臨時政府との交渉を要求する、類似の宣言案を提案した。
 メンシェヴィキの声明案は、こう宣言していた。
 「軍事的陰謀が組織された。ソヴェトを代表する全ての別の党派に明らかにされないまま、ソヴェトの名前でボルシェヴィキ党が実行した。<中略>
 ソヴェト大会の間際でのペトログラード・ソヴェトによる権力奪取は、全ソヴェト組織の解体と崩壊を意味する。」(209)
 トロツキーは、「歴史のごみ屑の堆積」の上にある「惨めな組織」、「破産者」とこの反対者たちを描写した。
 これに応じて、マルトフは、退場することを宣言した。(210)
 (5)これが起こったのは、10月26日の午前1時頃だった。
 午前3時10分、カーメネフは、冬宮が陥落し、閣僚たちは監視下にある、と発表した。
 午前6時、彼は、大会を夕方まで休会にした。
 (6)レーニンはこのとき、大会の裁可を受けるべき最重要の布令案を起草すべく、Bonch-Bruevich のアパートに向かっていた。
 クーに対する兵士と農民の支持を獲得するとレーニンが想定した二つの主要な布令は、平和と土地に関するものだった。そして、その日ののちにボルシェヴィキ代議員の討議に付され、議論なくして是認された。
 (7)大会は、午後10時40分に再開された。
 レーニンは、激しい拍手で迎えられ、和平と土地に関する布令を提示した。
 それら布令は、投票なしの発声票決によって採択された。
 (8)講和に関する布令(211)は、名前が間違っている。なぜなら、立法行為ではなく、全ての民族の「自己決定権」を保障しつつ、併合や賦課なしの「民主主義的」講和に向かう交渉を即時に開始することを、全ての交戦諸国に呼びかけるものだったからだ。
 秘密外交は廃止され、秘密の条約は公表されるものとされた。
 ロシアは、講和交渉が開始されるまで、3カ月の休戦を提案した。
 (9)土地に関する布令(212)は、内容的には社会革命党の政策方針から採用されたものだった。それは、2カ月前に<全ロシア農民代議員大会のイズヴェスチア>(213)に掲載された農民共同体の242の指令によって補充されていた。
 ボルシェヴィキの綱領が要求した全ての土地の国有化-つまり所有権の国家への移転-を命じるのではなく、「社会化」-つまり商取引の禁止と農民共同体による使用への転換-を呼びかけるものだ。
 大土地所有者、国家、教会その他の全ての土地資産は、農業用に供されていないかぎりは、損失補償金なしで没収されるものとされ、立憲議会が最終的な提案を決定するそのときまでは、Volost' 土地委員会に譲り渡された。
 しかし、農民の私的な保有土地は、除外された。
 これは、農民の要求に対する公然たる譲歩だった。ボルシェヴィキの土地政策と全く一致しておらず、立憲会議選挙での農民の支持を獲得するために考案されたものだ。
 (10)代議員たちに提示された第三の最後の布令は、人民委員会議(ソヴナルコム, Sovnarkom)と称される新しい政府を設立した。
 これは翌月に予定されている立憲会議の招集までのみ機能するとされたものだった。従って、その先行機関と同様に、「臨時政府」と名づけられた。(214)
 レーニンは最初はトロツキーに議長職を提示したが、トロツキーは拒んだ。
 レーニンは、内閣に加わろうという熱意を持っていなかった。舞台の背後で仕事をすることを好んだのだ。
 ルナチャルスキーは、こう思い出す。
 「レーニンは最初は政府に入ろうと望まなかった。
 『自分は党の中央委員会で仕事をする』と彼は言った。
 しかし、我々は拒否した。
 我々の誰も、その点には同意しようとしなかった。
 我々は、主要な責任を彼に負わせた。
 誰も、批判者にだけなりたがるものだ。」(215)
 そうして、同時並行的に、名前だけではなくて実際にも、ボルシェヴィキ中央委員会の議長としても仕事をしながら、レーニンはソヴナルコムの議長職を引き受けた。
 新しい内閣は従前のそれと同じ骨格をもち、新しい職を付け足していた。つまり、(人民委員ではない)民族問題の議長職。
 人民委員の全てがボルシェヴィキの党員であり、党の紀律に服従した。
 左翼エスエルは参加を招聘されたが、拒否した。メンシェヴィキと社会革命党を含む、「全ての革命的民主主義勢力」を代表する内閣であるべきだ、と主張したのだ。(216)
 ソヴナルコム〔人民委員会議〕の構成は、つぎのとおり。(*)
  議長/ウラジミール・ユリアノフ(レーニン)。
  内務/A・I・リュコフ。
  農業/V・P・ミリューチン。
  労働/A・G・シュリャプニコフ。
  軍事/V・A・オフセーンコ(アントノフ)、N・V・クリュイレンコ、P・E・デュイベンコ。
  通商産業/V・P・ノギン。
  啓蒙(教育)/ルナチャルスキ。
  財政/I・I・スクヴォルツォフ(ステファノフ)。
  外務/L・D・ブロンスタイン(トロツキー)。
  司法/G・I・オポコフ(ロモフ)。
  逓信/N・P・アヴィロフ(グレボフ)。 
  民族問題議長/I・V・ジュガシュヴィリ(スターリン)。//
 (11)現在のイスパルコム〔ソヴィエト中央執行委員会〕は、新しいそれによって廃され、置き換えられることが宣言された。新しいイスパルコムは101名で構成され、そのうちボルシェヴィキは62名、左翼エスエルは29名だった。
 カーメネフがその議長に就いた。
 レーニンが起草したソヴナルコムを設置する布令では、ソヴナルコムはイスパルコムに対して責任を負うものとされ、従ってイスパルコムは、立法に関する拒否権と内閣の指名の権限をもつ議会のようなものになった。//
 (12)ボルシェヴィキの最高司令部は、この不確実な状態では最高の権力であるとは思われないことをきわめて懸念して、大会で裁可された諸布令は立憲会議による是認、訂正または拒否を条件として暫定的に制定されたものだ、と主張した。
 共産主義に関する歴史研究者の言葉によると、つぎのとおりだ。
 「十月革命の日々に、立憲会議の高い権威は<中略>全ての決議によって否定されてはいない。(第二回ソヴィエト大会は)立憲会議を考慮しており、「その招集までの」基本的な決定を採択したのだ」。(217)
 講和に関する布令は立憲会議に言及していなかったが、レーニンはそれに関して第二回ソヴィエト大会での報告で、こう約束した。「我々は、全ての講和提案を立憲会議の決定に従わせるだろう」。(218)
 土地に関する布令の諸条項も、同様に条件つきだった。「全国立憲会議のみが全ての範囲について土地問題を決定することができる」。(219)
 新しい内閣のソヴナルコムに関しては、レーニンが起草して大会が裁可した決議は、こう述べた。
 「国の行政部を形成するために、立憲会議の招集があるまで、臨時の労働者農民政府は、人民委員会議と呼ばれることとする」。(220)
 このことからして、立憲会議選挙は予定通り11月12日に行われると、新しい政府がその職務に就いた最初の日に(10月27日)確認したのは、論理的なことだった。(221)
 また、ボルシェヴィキ自体が明確にしたことによってすら、立法する機会をもつ前に、その最初の日に会議を解散することでボルシェヴィキが自らの正統性を失うことも、論理的なことだった。//
 (13)ボルシェヴィキは、将来に何が起きるかを確実に判断することができないという理由だけで、その始めの時期に合法性に関する譲歩を行った。
 彼らは、ケレンスキーがいつ何時にでも兵団を引き連れてペトログラードに到着する、その可能性を認めざるを得なかった。その場合には、ボルシェヴィキは全ソヴェトの支持を必要とするだろう。
 ボルシェヴィキは、一週間かそこらののちに、敢えて法的規範を公然と侵害するに至った。そのときには、制裁を課す部隊がやって来るのが現実になるということはない、ということが明白になっていたのだった。//
 (14)親ボルシェヴィキと親臨時政府の両兵団が首都の統制権をめぐって武装衝突をしたのは、10月30日、郊外丘陵地のプルコヴォでの1回だった。
 クラスノフのコサック部隊は支援の少なさに士気を失い、ボルシェヴィキ煽動者たちによって混乱していたが、ツァールスコエ・セロでの貴重な3日間を無駄に費やしたあとで、ようやく進軍するよう説得された。
 彼らはスラヴィンカ河沿いに作戦行動を開始した。そこで600人のコサック兵が、赤衛軍、海兵および兵士たちから成る、少なくとも10倍以上の実力部隊に立ち向かった。(222)
 赤衛軍と兵士たちはすぐに逃げ去ったが、3000名の海兵たちは基地を守り、その日を耐えぬいた。
 コサック兵団は、現地司令官を失って、ガチナ(Gatchina)へと撤退した。
 こうして、臨時政府に味方した軍事介入が行われるという可能性がなくなった。
 ---------------------------------------------
 (203)10月24日の全ロシア・ソヴェト農民代議員大会の決定、in: A. V. Shestakov, ed, Sovety krest'ianskikh deputatov i drugie krest'ianskie organizatsii, I, Pt. 1(Moscow, 1929), p.288.
 (204)Revoliutsiia, V, p.182.
 (205)L・トロツキー, Istoriia russkoi revoliusii, II, Pt. 2(Berlin, 1933), p.327.
 (206)Revoliutsiia, V, p.284.
 (207)Oskar Anweiler, The Soviets(New York, 1974), p.260-1.
 (208)G. Rauzens in China(Riga), 1987年11月7日。この参照は、Andrew Ezergailis 教授のおかげだ。
 (209)Kotelnikov, S"ezd Sovetev, p.37-38, p.41-42.
 (210)Sukhanov, Zapinski, VII, p.203.
 (211)Derekty, I, p.12-p.16.
 (212)同上、p.17-20.
 (213)同上、p.17-18.
 (214)同上、p.20-21.
 (215)Sukhanov, Zapinski, VII, p.266. レーニンのトロツキーへの提示につき、Isaac Deutscher, The Prophet Armed: トロツキー・1870-1921(New York & London, 1954), p.325.
 (216)Revoliutsiia, VI, p.1.
 (*)Derekty, I, p.20-21. W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.50. Lenin, PSS, XXXV, p.28-29. トロツキーは、ソヴナルコム内の唯一のユダヤ人だった。ボルシェヴィキは「ユダヤ」党だ、「国際ユダヤ人」の利益の仕える政府を設立している、という非難をボルシェヴィキは怖れているように見えた。
 (217)E. Ignatov in: PR, No.4/75(1928), p.31.
 (218)Lenin, PSS, XXXV, p.20.
 (219)Derekty, I, p.18.
 (220)同上、p.20.
 (221)同上、p.25-26.
 (222)Melgunov, Kak bol'shevili, p.209-210.
 ----
 第12節終わり。第13節<モスクワでのボルシェヴィキ・クー>等へと続く。

2159/L・コワコフスキ著第三巻第13章第5節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。分冊版、p.491~p.494。
 第13章・スターリンの死以降のマルクス主義の展開。
 ----
 第5節・マルクス主義と「新左翼」②。
 (8)一般的に言って今日の状況は、マルクス主義が、その多くが相互の関わり合いのない広範囲な関心と希望の糧を提供している、ということだ。
 もちろんこのことには、対立する全ての人間の利害と考えがキリスト教の外衣を纏つてその独特の言語を用いた、そういう中世的類型の普遍主義からの、長い道程がある。
 マルクス主義という知的な装いは、一定の思想学派で用いられているにすぎない。しかし、その数はきわめて多い。
 マルクス主義のスローガンは、アフリカやアジアの多様な政治的運動によって、また国家的強制の方法で後進状態から抜け出そうとする諸国によって、頼るべきものとして求められている。
 こうした運動が採用し、または西側のプレスがそれらに適用するマルクス主義というラベルが意味するのは、それらの運動がソヴィエト同盟または中国から軍事物資を受け取っているということにすぎない。そして「社会主義」がしばしば意味するのは、国家が僭政によって支配され、政治的反対派は存立が許されない、ということだ。
 マルクス主義的な語法の断片は、多様なフェミニスト集団や、またいわゆる性的少数者によってすら、用いられている。
 マルクス主義の用語は、民主主義的な自由を守るという文脈ではほとんど適切には用いられていない。これはときどきは用いられているけれども。
 マルクス主義は、高い次元のイデオロギー的兵器たる地位を獲得した。
 世界大国としてのロシアの利益、中国ナショナリズム、フランス労働者の経済的要求、タンザニアの工業化、パレスティナのテロリストたちの活動、アメリカ合衆国での黒人人種主義。-これらは全て、マルクス主義の言葉を使って表現している。
 これらの運動や利益のいずれかに、誰も真面目にはマルクス主義「正統派」を認知することはできない。マルクスの名前はしばしば、マルクス主義は革命を起こして人民の名前で権力を奪取することを意味すると聞いた指導者たちが、頼って依拠するものになっている。こうして、マルクス主義は、彼らの理論的知識の総量になっているのだ。
 (9)疑いなく、マルクス主義イデオロギーの普遍化は、先ずはそして最も多くは、レーニン主義による。レーニン主義は、全ての現存する社会的要求と不満を一つだけの水路に向けて流し込んで、その勢いを共産党の独裁的権力を確保するために使う力がある、ということを示した。
 レーニン主義は、政治的機会主義を、理論の権威にまで高めた。
 ボルシェヴィキは、マルクス主義の「プロレタリア革命」の図式とは何ら関係がない情況で、勝利へとかけ登った。
 ボルシェヴィキは社会に現実にあった要求と願望を梃子として用いたがゆえに、勝利した。その要求や願望は、主としては民族と農民の利益だった。これらは、古典的なマルクス主義の観点からは「反動的」なものだったけれども。
 レーニンは、権力奪取を望む者は、教理上の考察などは考慮することなく、全ての危機と全ての不安の兆候を利用しなければならないことを、示した。
 全てのマルクス主義者の予見にもかかわらず、ナショナリスト感情と願望が最も力強いイデオロギーの活動形態だという情況では、「マルクス主義者たち」が、ナショナリスト運動が既存の権力構造を破壊するに十分な強さをもつときにはいつでも、それを自分たちと一体化させるのは、自然なことだ。//
 (10)しかしながら、マルクス主義の語法を用いる世界のいたるところにある多様な利益は、しばしば相互に対立し、別の観点から見ると、マルクス主義の普遍性は解体へと達する。
 ロシアと中国の両帝国の間の聖なる戦争では、どちらの側も、同等の権利をもってマルクス主義スローガンを掲げることができる。
 この状況では、スターリン死後の時代の国際共産主義運動を引き裂いた、大分裂が発生せざるをえない。
 さらには、多様な分裂はすでに1920年代に萌芽的にあった傾向を表現している。その趨勢は、スターリニズムの圧力のもとで消滅した、あるいはごく辺縁でのみ残存したのだけれども。
 この傾向が包含する諸要素は、のちに毛沢東主義になったもの(サルタン=ガリエフ〔Sultan-Galiyev〕、ロイ〔Roy〕)、共産主義改革派(今日の多様な西側諸党、とくにイタリアとスペインの共産党)、プロレタリアート独裁を行使する労働者評議会という考え、「左翼」共産主義というイデオロギー(Korsch、Pannekoek)だ。
 これらの考え方は、いくぶんは変わってはいるけれども、現在でも再現されてきている。//
 (11)最近のおよそ15年の間のマルクス主義の重要な主張は、産業の自己統治というイデオロギーだ。
 しかしながら、これの起源はマルクス主義ではなく、Proudon やBakunin が代表するアナキストやサンディカリストの伝統だ。
 労働者による工場管理という考えは、19世紀のイギリスのギルド社会主義者たちが論じたもので、マルクス主義からの影響は何もなかった。
 アナキストのような社会主義者は、当時にすでに、産業の国有化は搾取を失くすことができないだろうと気づいていた。他方でまた、個々の会社の完全な経済的自立は、その全ての帰結を伴う資本主義的競争の復活を意味するだろう、ということも。
 ゆえに彼らは、議会制民主主義と代表制産業民主主義の混合システムを提案した。
 ベルンシュタイン(Bernstein)もまた、この問題に関心をもった。そして、十月革命のあとで、ソヴィエト同盟と西側諸国の共産主義左翼反対派がいずれも、産業民主主義を求める声を挙げた。
 スターリンの死後、一つにはユーゴスラヴの実験が理由となって、この問題が復活した。
 フランスで最初に取り上げた一人は元共産党員のSerge Mallet で、<La nouvelle classe ouvrière〔新しい労働者階級〕>(1963年)の著者だ。
 彼は、産業の自立化の社会的帰結を分析して、熟練技術は労働者階級の「前衛」としてますます重要になっていると指摘した。しかし、生産の民主主義的制御の闘いを実行するという新しい意味で、この語を用いた。
 この闘争では、経済と政治の旧式の区別は消失する。
 社会主義の展望は、プロレタリアートの経済的要求によって開始される世界的な政治革命と結びついてはおらず、生産を組織する民主主義的な手段の拡大に関連している。その手段では、熟練技術をもつ賃金獲得者が本質的な役割を果たす。//
 (12)産業民主主義の可能性と展望の問題は、民主主義的社会主義では最も重要な意味をもつに至った。
 それ自体は、Marcuse やWilhelm Reich が喚起した新左翼の黙示録的夢想とは何の共通性もない。そして、歴史的にもイデオロギー的にも、マルクス主義とは別のものだ。//
 (13)スターリン死後のイデオロギー的議論の復活が生んだ副産物は、マルクス主義の歴史と理論への関心が増大したことだった。これは、アカデミズムでの関係文献の多さで示されている。
 1950年代と1960年代には、きわめて広範囲の著者たちによって、有益な著作が書かれた。 
 その中には、つぎの者たちが含まれる。
 鮮明なマルクス主義反対者(Bertram Wollfe、Zbignew Jordan、Gustav Wetter、Jean Calvez、Eugene Kamenka、Inocenty Bochenski、John Plamenatz、Robert Tucker)。
 および、マルクス主義に批判的かつ好意的な者(Iring Fetscher、Shlomo Avieri、M. Rubel、Lucio Colleti、George Lichtheim、David McLellan)。
 そして、あれこれの学派の正統派マルクス主義という少数グループ(Auguste Cornu、Ernst Mandel)。
 多数の研究書は、マルクス主義の起源、とくにその教理の側面でのそれ、を対象にしていた。
 レーニン、レーニン主義、ローザ・ルクセンブルク、トロツキー、そしてスターリンに関する文献が豊富にある。
 Korsch のような初期の世代のマルクス主義者のうちのある程度は、忘我の状態から救われた。ある程度は、再び登場した。
 マルクスのヘーゲルとの関係、マルクス主義のレーニン主義との関係、「自然弁証法」、「マルクス主義倫理」の可能性、歴史的決定論や価値の理論、に関する論争があった。
 マルクスの初期の理論-疎外、物象化、実践-にかかわる主題は、論議の対象であり続けた。
 マルクス主義に直接にまたは間接に関係する著作の多さは、この数年間に、飽き飽きするほどと感じられる程度にまでなっている。//
 ----
 第5節終わり。つぎの最終節、第6節の表題は、<毛沢東の農民マルクス主義>。

2138/L・コワコフスキ著第三巻第13章第4節①-フランス。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。この書には、邦訳書がない。
 ----
 第4節・フランスにおける修正主義と正統派①。
 (1)1950年代後半から、フランスのマルクス主義者たちの間で活発な議論が続いた。修正主義の傾向は部分的には実存主義からの支持を受け、部分的には実存主義との対立でもって支持を獲得した。
 ハイデガーとサルトルの二人がいずれも説いた実存主義には、マルクス主義修正主義と共通する一つの重要な特質があった。すなわち、還元不能な人間の主体性と実存の物的(thing-like)様相との間の対立を強調する、ということだ。
 同時に、実存主義は、人間存在は主体的な、つまり自由で自立した実存から「物象化された」状態へと逃げる恒常的な性向をも持つ、と指摘した。
 ハイデガーは、「不真正さ」と匿名性への漂流および非人格的現実と一体化する切望を表現することのできる、そのような諸範疇から成る精妙な大系を作り出した。
 同じように、サルトルによる「即自(in-itself)存在」と「対自(for-iself)存在」の対立に関する分析や、我々から自由を隠して我々自身や世界への責任から回避せしめる<悪意>に対する熱心な弾劾は、主体性や自由の哲学としてマルクス主義を復活させようとする修正主義者たちの試みと十分に合致していた。
 マルクス、およびそれ相当にだがキルケゴール〔Kierkegaard〕はいずれも、非人格的な歴史的存在へと人間の主体性を溶解させるヘーゲルの試みだと見なしたものに対して、反対した。
 このような観点からすれば、実存主義の伝統は修正主義者たちがマルクスの基礎的な教理だと考えたものと一致していた。//
 (2)のちの段階では、サルトルは、マルクス主義とソヴィエト同盟やフランス・マルクス主義を同一視しなくなった。しかし、同時に、決然として周到に、自分自身とマルクス主義を同一視するに至った。
 彼は<弁証法的理性批判>(1960年)で、実存主義の修正版と自らのマルクス主義解釈をを提示した。
 この長くてとりとめのない著書が明確に示したのは、サルトルの従前の実存主義哲学の名残りをほとんどとどめていない、ということだった。
 彼はこの書の中で、マルクス主義は<優れた>(par excellence)現代哲学だ、マルクス主義以前に、つまり17世紀にロックやデカルトがスコラ派哲学の見地からのみ批判され得たのと全く同じように、反動的な見地からのみ純然たる歴史的な理由で批判することができる、と述べた。
 この理由からして、マルクス主義は無敵(invincible)のもので、その個々の主張は「内部から」のみ有効に批判することができる。//
 (3)マルクス主義の歴史的「無敵さ」に関する馬鹿げた主張はともかくとして(サルトルの議論によれば、Locke に対するLeibnitz の批判やデカルトに対するホッブズの批判は、スコラ派の立ち位置に基づいているに違いなかった!)、<批判>は、「自然弁証法」や歴史的決定論を放棄するが、人間の行動の社会的重要性を維持しながら、「創造性」や自発性を目的として、マルクス主義の内部に領域を見出そうとする試みとして興味深い。
 意識的な人間の行為は、たんに人間の「一時性」を生む自由の投射物として表現されるのではなく、「全体化」に向かう運動として表現される。人間の感覚は現存する社会条件によって決定されている。
 換言すれば、個人は絶対的に自由に自分の行為の意味を決定することはできないが、環境の隷従物になるのでもない。
 共産主義社会を構成する、多数の人間の企図が自由に協同し合う可能性がある。しかし、そのことはいかなる「客観的法則」によっても保障されていない。
 社会生活は自由に根ざした諸個人の行為でのみ成り立っているのではなく、我々を制限している歴史の堆積物でもある。
 加えるに、自然との闘いなのだ。自然は我々を妨害し、社会関係を稀少性(<rareté>)が支配する原因となり、そうして、欲求の充足の全てが、相互に対立し合う淵源になり、人間がそれとして相互に受容し合うことを困難にしている。
 人間は自由(free)だ。しかし、稀少性によって個別の選択の機会が剥奪され、そのかぎりで人間性が消滅する。 
 共産主義は稀少性を廃棄することで、個人の自由と他者の自由を認識する能力を回復させる。
 (サルトルは、共産主義がいかにして稀少性を廃棄するのかを説明しない。この点で彼は、マルクスによる保障をそのまま信頼している。)
 共産主義の可能性は、多数の個人の企図が単一の革命的目的へと自発的に結びついていく可能性のうちにある。
 <批判>は、関係する他者のいかなる自由も侵害することなく、共同で活動に従事するグループを描写する。-革命的組織のかかる展望は、共産党の紀律と階層性に代わり、個人の自由を有効な政治的行動と調和させることを意図するものだ。
 しかしながら、この説明は一般的すぎるもので、かかる調和にある現実的諸問題を無視している。
 理解することができるのは結局、サルトルは目的をこう想定している、ということだ。すなわち、官僚制と装置化を免れた共産主義の形態を工夫して作り上げること。あらゆる様式での装置化は自発性とは真逆のもので、「疎外」の原因となっている。
 (4)多数ある余計な新語作成についてはさて措き、知覚や認識の歴史的性格、および自然弁証法の否定に関して、<批判>は何らかの新しい解釈を含んでいるようには思えない。サルトルは、ルカチの歩みを追っている。
 自発性と歴史的条件による圧力の調和について言うと、この著作が我々に語っているのは、せいぜいつぎのことだけだ。つまり、自由は革命的組織によって保護されなければならず、共産主義が諸欠陥を無くしてしまえば完璧な自由が存在するだろう、ということ。
 このような考え方は、マルクス主義の論脈で特段新しいものではない。新しいかもしれないのは、このような効果がいかにして達成されるかに関する説明の仕方だろう。
 (5)共産主義の伝統にもとづく哲学者たちに期待されるような、厳格な意味での修正主義は、「サルトル主義」とは合致しなかった。
 だが、ある範囲では、それは実存主義的主張を示していた。
 (6)修正主義という目印は、いくつかの形態をとった。
 C. Lefort やC. Castoriadis らの若干の異端派トロツキストたちは、1940年代遅くに<社会主義または野蛮〔Socialisme ou barbarie〕> というグループを結成し、同名の雑誌を出版した。
 このグループは、ソヴィエト同盟は退廃してしまった労働者国家だというトロツキーの見方を拒否し、生産手段を集団的に所有する新しい階級の搾取者たちが支配している、と論じた。
 彼らはレーニンの党理論に搾取の新しい形態を跡づけて、社会主義的統治の真の形態としての労働者自己統治の考えを再生させようとした。党は、余計であるのみならず、社会主義を破滅にもたらすものだ。
 このグループは1950年代遅く以降に、フランスの思想家たちに、きわめて重要な思想をもち込んだ。労働者の自己統治、党なき社会主義、そして産業民主主義。
 ----
 ②へとつづく。

2018/池田信夫のブログ011-identity①。

 池田信夫のブログ検索欄で「アイデンティティ」を探して見ると、数十件も出てきたので驚いた。 
 NHKについて、「公共放送なのか有料放送なのかというアイデンティティをはっきりしないまま…」(2008年8月8日)。
 最も新しいのは、「ユダヤ人というアイデンティティ…」(2019年2月17日)。
 日本語としてのこれに言及してこうある。2019年1月17日付より。
 -「2010年代の政治の特徴はidentity が前面に出てきたことだが、これは日本人にはわかりにくい。
 そもそも日本語には、これに対応する言葉さえない。
 1万年以上前から、地理的にも文化的にも自然なアイデンティティをもつ日本人は『私たちは何者か』と問う必要もないからだ。」
 この指摘にもあるように、identity をどう「訳す」か自体が、日本語を用いる日本人にはむつかしいところがある。
  「1万年以上前から、地理的にも文化的にも自然なアイデンティティをもつ日本人は『私たちは何者か』と問う必要もない」という一文自体もきわめて興味深く、含蓄が多いと思われる。素朴な(そして健全な範囲にある)民族意識、ナショナリズムを日本人はふつうに有している(と思われる)ので、日本会議という政治運動団体のように、これを「皇室を戴く」という点を結合させたうえで狂熱的に煽るのはむしろ異常だと感じる。だが、今回はこの点に触れない。
 identity はこの欄での試訳作業でもよく出てくる。最近も多いが、かつてS・フィツパトリクはその<ロシア革命史>叙述の中で、レーニン時代の人たちの「アイデンティティ」は職業だったか出身階層だったかとかいう問題に関心を示していた(この欄に既出)。
 さらに論理的に遡ると、対応する・該当する言葉自体がない、という意味では、レーニンがボルシェヴィキ党の中で占める地位の名称(中央委員会「委員長」?)や1917年新設のソヴナルコム(人民委員会議)で占める地位の名称(首相?、議長?)がはっきりしない、ということも興味深かった。
 「トップ」であることが当然視されていると、特別の言葉は必要なかったのだろう。
 人民委員会議の構成委員だった最初の外務人民委員のトロツキーには、外務人民委員あるいは「外務大臣」という呼称があった。
 元に戻ると、identity とは一体性、同一性、自己帰属性、自己認識等と種々に訳出することが可能で、identification という名詞もある。。
 一方、identify という動詞は当然に上にかかわる意味も持つが、<見分ける>、<見極める>、と訳出することのできる場合がある。
 (ときには主体自身も含めて)対象物は何であるかを明瞭に認識する、という意味だが、その場合にはその対象物の他者の何かとの同一性あるいは同一視可能性を肯定することによって対象物を明瞭に認識する(見分ける、見極める)という認識の過程?の意味が包含されているので、上のようなidentity の訳と矛盾しているわけではない。
 ***
 さて、我々は、あるいは現在の日本人は、どのようなidentity をもつのだろうか。
 上に出てきた、「日本人」は除く。ヒトとしては最も基礎的なidentity かと思われる<男か女か、オスかメスか>も除く。また、他の生物、すなわち脊椎動物、哺乳類等々と区別されるヒト、というidentity (これもあり得るだろう)も、論外とする。
 前近代と近代を分かつ標語的なものとして、かつて<身分から契約へ>を語った人がいた。
 各人間がしぱしば世襲の<身分(・地位)>に束縛されていた、またはそれによって予め決定されていた時代から、本人自身の「意思」または<契約>、つまり自分の「自由意思」または原理的には対等当事者相互の「自由意思」の合致でもって自分自身の行動を決定することができる時代への大きな変化だ。
 いつから日本は「近代」に入ったのか。こう思弁的に?議論してもたいした意味はない。いわゆる「明治維新」後の時代に一気に「近代」になってしまったのでもなさそうだ。
 「日本」よりも(いやその「日本国民」意識は大いに形成されていったのだが)、薩摩、長州、土佐、会津、等々の「旧藩」ないし新しい地域の<出自>意識は各人において相当にまだ強かったのではないだろうか。
 大正時代になっても、当時の皇太子(昭和天皇)の婚約・婚姻をめぐって旧「薩摩」への対抗意識から「宮中某重大事件」が生じたとの風聞(と強調しておく)があったくらいだから、政権中枢?の中ですら、薩長の対抗意識はたぶんまだあったわけだ。
 それに戦前にはまだ、士族・平民等の区別が公式にあった。
 華族も含めて、まだ「身分」意識はある程度は残っていただろう。
 戦後の日本国憲法施行や改正新民法(但し、民法典のうち<家族法(親族法・相続法)>部分)によって、皇族以外の国民はみな「平等」となり、ほとんど<身分>意識は喪失したように思われる。
 自分はどの<身分>にあるのかは、旧皇族または旧士族の人々には「かつての」ことの記憶・意識としてまだ残ってはいそうだが、政治的・社会的にこれによる差違が生じるわけではない。
 日本国憲法14条は、「社会的身分又は門地によ」る「政治的、経済的又は社会的関係にお」ける「差別」を禁じている。これと符合して、戦後の「家族」法制は存続してきた。
 ところで、いつか書こうと思っていたので脱線するが、日本国憲法「無効」論者の無知・論理的一貫性の欠如は、上のことにも関係する。
 すなわち、昭和天皇はGHQにダマされたのだ(渡部昇一)等々の種々の理由で日本国憲法は「無効」だとする、あるいは<原理的には否定されるべきものだ>とする者たちは、現憲法と同時に、現憲法と一体のものとして制定・改正され施行された多数の法律もまた「無効」(原理的否定)と主張しないと、まったく一貫性がないのだ。
 多くの人が、戦前と戦後の大きな違いは「家族」(・相続)制度にあるという意識を持っているだろう。もはや「戸主」はなく成年男女の婚姻に親の「同意」は不要だ。
 日本国憲法は「無効」だ(少なくともいったん大日本帝国憲法を復活させるべきだ)と喚いていた(いる)人々には、では民法・家族法部分も戦前体制に(いったん)戻すのか?と問い糾さなければならないだろう。
 民法の中の「家族」法制だけではない。
 国会法、内閣法、裁判所法、地方自治法、(学校教育制度の基本である)学校教育法や地方教育行政の組織及び運営に関する法律、等々の多数の諸<法律>が新憲法と同時に施行されて、戦後の日本を形成してきた。
 上に挙げた諸法律だけでも、戦後日本にとってきわめて根幹的なものだ。
 要するに、「憲法」だけを問題にするのは一貫していないし、かつほとんど無意味なのだ。
 <美しい日本の憲法>に憲法改正したいらしい田久保忠衛らは、上に書いた意味が理解できるだろうか?
 元に戻る。では、戦後の日本人は、<身分>ではなく、どのような自らのアイデンティティ感覚を有しているのだろうか。
 つまり、自己認識規準、自己が帰属する集団意識、他者との同一性・類似性を意識する要素、といったものを、無意識にせよ、自覚的にせよ、どう考えているのだろうか。
 この点にもすこぶる「戦後日本」的な、または「日本人」的なものがあるのではないかと思っている。つづける。

1995/マルクスとスターリニズム⑥-L・コワコフスキ1975年。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski), The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳の最終回。最終の第5節。
 ----
 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム③。
(16)マルクスとエンゲルスから、つぎの趣旨の多数の文章を引用することができる。第一に、人間の歴史で一貫して、「上部構造」は所与の社会の対応する財産関係に奉仕してきた。第二に、国家は現存する生産関係のをそのままに維持するための道具にすぎない。第三に、法は階級権力の武器以外のものではあり得ない。
 同じ状況は、少なくとも共産主義が絶対的な形態で地球上を全体的には支配していないかぎり、新しい社会で継続する、と正当に結論づけることができる。
 言い換えると、法はプロレタリアートの政治権力の道具だ。そして、法は権力行使の技術にすぎないために(法の主要な任務は通常は暴力を隠蔽して人民を欺くことだ)、勝利した階級が支配する際に法の助けを用いるか用いないかは、何の違いもない。
 重要なのは階級内容であって、その「形式」ではない。
 さらに加えて、新しい「上部構造」は新しい「土台」に奉仕しなければならない、と結論づけるのも正当だと思える。
 このことがとりわけ意味するのは、文化生活は全体として、最も意識的な要員の口を通じて語られ、支配階級により明確にされる政治的任務に完全に従属しなければならない、ということだ。
 ゆえに、スターリニズム体制での文化生活を指導する原理として普遍的に役立ったのは、「土台-上部構造」理論からの適切な推論だった、と述べることができる。
 同じことは、科学についても当てはまる。
 もう一度言うが、エンゲルスは科学を理論的哲学による指導のないままにしてはならない、さもなくば科学は完全な経験論者的痴呆へと陥ってしまう、と語らなかったか?
 そして、これこそがじつに、関心の範囲はむろんのこと内容についても全ての科学をソヴィエトの哲学者と党指導者たちが哲学によって-つまりは党イデオロギーによって-統制することを、最初から正当化した方策だった。
 1920年代にKarl Korsch はすでに、最上位性を哲学が要求することと科学に対してソヴィエト体制がイデオロギー的僭政を行うことの間には明確な関係がある、と指摘した。//
 (17)多数の批判的マルクス主義者は、これはマルクス主義の戯画(calicature)だと考えた。
 私はそれを否定しようとはしない。
 しかしながら、こう付け加えたい。戯画が原物と似ている場合にのみ-実際にそうだったのだが-、「戯画」という語を意味あるものとして用いることができる。
 つぎの明白なことも、否定しようとはしない。マルクスの思想は、ソヴィエトの権力体制を正当化するためにレーニン=スターリン主義イデオロギーによって際限なく繰り返されたいくつかの引用文から感じられる以上にはるかに、豊かで、繊細で、詳細だ、ということ。
 だがなお、私は、そうした引用文は必ずしも歪曲ではない、と論じたい。
 ソヴィエト・イデオロギーによって採用されたマルクス主義の外殻(skelton)は、きわめて単純化されているが、新しい社会を拘束する虚偽の(falsified)指針だったのではない。//
 (18)共産主義の全理論は「私有財産の廃棄」の一句で要約することができるという考えは、スターリンが考えついたものではなかった。
 スターリンはまた、賃労働は資本なくしては存在できないとか、国家は生産手段に対する中央志向権力を持たなければならないとか、あるいは民族対立は階級対立とともに消滅するだろうとかの考えを提示したのでもなかった。
 我々が知っているように、これらの考えは全て、明らかに、<共産主義者宣言>で述べられている。
 これらの考えは、まとめて言うと、ロシアで起こったように、いったん工場と土地が国家所有になれば社会は根本的に自由になるということを、たんに示唆しているのみならず、論理的に意味している。
 このことはまさしく、レーニン、トロツキーおよびスターリンが主張したことだった。//
 (19)要点は、マルクスは人間社会は統合の達成なくしては「解放」されない、と実際に一貫して信じた、ということだ。
 そして、社会の統合を達成するものとしては、僭政体制とは別の技術は知られていない。
 市民社会を抑圧すること以外には、市民社会と政治社会の間の緊張関係を抑える方法は存在しない。
 個人を破壊すること以外には、個人と「全体」の間の対立を排除する方策は存在しない。
 「より高い」「積極的な」自由-「消極的な」「ブルジョア的」自由とは反対物-へと向かう方途は、後者を抑圧すること以外には存在しない。
 かりに人間の歴史の全体が階級の観点から把握されなければならないとすれば-かりに全ての価値、全ての政治的および法的制度、全ての思想、道徳規範、宗教的および哲学的信条、全ての形態の芸術的創造活動等々が「現実の」階級利益の道具にすぎないとすれば(マルクスの著作にはこの趣旨の文章が多数ある)-、新しい社会は古い社会からの文化的継続性を暴力的に破壊することでもって始まるに違いない、ということになる。
 実際には、この継続性は完全には破壊され得ず、ソヴィエト社会では最初から部分的(selective)な継続性が選択された。
 「プロレタリア文化」の過激な追求は、指導層が支援した一時期のみの贅沢にすぎなかった。
 ソヴィエト国家の進展につれて、ますます部分的な継続性が強調されていった。それはほとんどは、民族主義的(nationalistic)性格の増大の結果だった。
 (20)私は思うのだが、ユートピア(夢想郷)-完璧に統合された社会という展望-は、たんに実現不可能であるばかりではなく、制度的手段でこれを生み出そうとすればただちに、反生産的(counter-productive)になるのではないか。
 なぜそうなるかと言うと、制度化された統合と自由は反対の観念だからだ。
 自由を剥奪された社会は、対立を表現する活動の息が止まるという意味でのみ、統合されることができる。
 対立それ自体は、消失していかない。
 したがって結局は、全くもって、統合されないのだ。//
 (21)スターリン死後の社会主義諸国で起きた変化の重要性を、私は否定しない。これら諸国の政治的基本構成は無傷のままで残っている、と主張するけれども。
 しかし、最も大切なことは、いかに緩慢に行われるとしても、市場が生産に対して何らかの制限的影響を与えるのを許容すること、生活の一定領域での厳格なイデオロギー統制を放棄すること、あるいは少しでも緩和することは、マルクスによる統合の展望を断念することにつながる、ということだ。
 社会主義諸国で起きた変化が明らかにしているのは、この展望を実現することはできない、ということだ。すなわち、この変化を「真の(genuine)」マルクス主義への回帰だと解釈することはできない。-マルクスならば何と言っただろうかはともかく。//
 (22)上述のような解釈のために追加する-断定的では確かにないけれども-論拠は、この問題の歴史のうちにある。
 マルクス主義の人間主義的社会主義のこのような結末を「誰も予見できなかった」と語るのは完全にまやかし(false)だろう。
 社会主義革命のだいぶ前に、アナキストの著作者たちは実際にそれを予言していた。彼らは、マルクスのイデオロギー上の諸原理にもとづく社会は隷属と僭政を生み出す、と考えたのだ。
 ここで言うなら少なくとも、人類は、歴史に騙された、予見できない事態の連結関係に驚いた、と泣き事を言うことができない。//
 (23)ここで論じている問題は、社会発展での「生来(genetic)要因と環境要因」という問題の一つだ。
 発生論的考察ですら、考究される属性が正確に定義されていなければ、あるいはそれが身体的ではなくて精神的な(例えば「知性」のような)属性であるならば、これら二要因のそれぞれの役割を区別するのはきわめて困難だ。
 そして、我々の社会的な継承物(inheritance)における「生来」要因と「環境」要因を区別することはどれほど困難なことだろうか。-継承したイデオロギーと人々がそれを実現しようとする偶発的諸条件とを区別することは。
 これら二要因が全ての個別の事案で作動しており、それらの相関的な重要性を計算してそれを数量的に表現する方法を我々は持たない、ということは常識だ。
 分かっているのは、その子がどうなるかについて「遺伝子」(生来のイデオロギー)に全ての責任があると語ることは、「環境」(歴史の偶発的事件)がその全てを説明することができると語るのと同様に全く愚かなことだ、ということだ。
 (スターリニズムの場合は、これら二つの相容れない極端な立場が表明されている。それぞれ、一方でスターリニズムとは実際にマルクス主義を現実化したものにすぎない、他方でスターリニズムとはツァーリ体制の継承物にすぎない、という見方だ。)
 しかし、我々はスターリニズムについての責任の「適正な割合」についてそれぞれの要因群を計算したり配分したりすることはできないけれども、その成熟した姿が「生来の」諸条件によって予期されたか否かを、なおも理性的に問題にすることはできる。
 (24)私はスターリニズムからマルクス主義へと遡って軌跡を描こうとしたが、その間にある継続性は、レーニン主義からスターリニズムへの移行を一瞥するならば、なおも鮮明な形をとっていると思われる。
 非ボルシェヴィキ党派は(リベラル派は論外としてメンシェヴィキは)、ボルシェヴィキが採っていた一般的方向に気づいており、1917年の直後には、その結末を正確に予見していた。
 さらに加えて、スターリニズムが確立されるよりもずっと前に、新しい体制の僭政的性格は党自体の内部ですみやかに攻撃されていた(「労働者反対派」、ついで「左翼反対派」によって-例えばRakovskyによって)。
 メンシェヴィキは、自分たちの予言の全てが1930年代に確証されたことを知った。また、トロツキーが、メンシェヴィキによる「我々はそう言った」は悲しいほどに説得力がない、という時機遅れの反論を行ったことも。
 トロツキーは、メンシェヴィキは将来に起きることを予言したかもしれないが、それは全く間違っている、彼らはボルシェヴィキによる支配の結果としてそうなると考えたのだから、と主張した。
 トロツキーは言った。実際にそうなった、しかしそれは官僚制によるクーの結果としてだ、と。
 <欺されていたいと思う者は全て、欺されたままにさせよ(Qui vult decipi, decipiatur)。>//
 ----
 終わり。

1975/L・コワコフスキ著第三巻第五章・トロツキー/第6節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の試訳部分は、第三巻分冊版のp.212-p.219。合冊版では、p.957-p.962。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。
 第6節・小括(conclusions)。
 (1)今日から見ると、1930年代のトロツキーの文筆による活動や政治的活動は、極端に願望に充ちた思考だの印象を与える。
 実現しない予言、空想じみた幻想(fantasic illusions)、間違った診断、そして根拠のない希望、これらの不幸な混合物だ。
 もちろん、トロツキーが戦争の成り行きを予見できなかったというのは、第一に重要なことではない。この時代に多数の者が予言したが、たいていは事実によって裏切られた。
 しかしながら、重要で特徴的なのは、トロツキーが、深遠な弁証法と大きな歴史発展の理解にもとづく科学的に正確な判断だとして、その論述を弛むことなく提示した、ということだ。
 実際に、彼の予見が基礎にしていた一つは、歴史は彼の正しさを証明するだろうという望みであり、また一つは彼が遅かれ早かれ実現するに違いないと信じて想定した歴史の法則から導いた、教理上の(doctrinaire)結論だった。
 かりにスターリンが戦争の結末を予見し、殺戮しないでトロツキーに復讐していたとすれば、どうなっただろうと人は考えるだろうか。生かしたままにして、トロツキーの希望や予言の全てが崩壊して、ただの一つも実現していないことを見させる、という復讐だ。
 戦争は反ファシスト戦争だった。
 ソヴィエトによる東ヨーロッパの制圧を別として、ヨーロッパまたはアメリカに、プロレタリア革命は一つも発生しなかった。
 スターリンもそうだったように、スターリン主義の官僚機構は一掃されず、測りがたいほどに強くなった。
 民主主義政体は生き残り、西ドイツやイタリアで復活した。
 植民地領域の多くは、プロレタリア革命なくして、独立を達成した。
 そして、第四インターナショナルは、無能力なセクトのままだった。
 かりにトロツキーがこれら全てを見たならば、自分の悲観的な方の仮説が正しいものだったこと、そしてマルクス主義は幻想だったことが証明された、ということを認めただろうか?
 我々はもちろん、これを語ることができない。しかし、トロツキーの心性からするとおそらく、彼はこのような結論を導き出さないだろう。
 彼は疑いなく、歴史の法則の働きが再びいくぶんか遅れた、だが大きな動きは近い将来にあるという信条と歴史の法則は合致していると、たんに述べただろう。//
 (2)本当の教理主義者(doctrinaire)であるトロツキーは、自分の周りで生起している全てのことに無神経だった。
 彼はもちろん、諸事件を身近で追い、それらに論評を加えた。そして、ソヴィエト同盟や世界政治に関する正確な情報を得るために最善を尽くした。
 しかし、教理主義者の本質は、新聞を読まなかったとか、事実を収集しなかった、ということにあるのではない。経験上の情報に鈍感な、あるいはきわめて漠然としているためにどんな事態もそれに適合させるために用いることのできる、そのような解釈の体系に執着する、ということにある。
 トロツキーには、何らかの事態が自分の考えを変える原因になるかもしれないと怖れる必要がなかった。彼の議論はつねに、「一方の形態では、他方…」、あるいは「…が認められるとしても、しかし、にもかかわらず…」なのだった。
かりに共産主義者が世界のどこかで後退するとすれば、スターリン官僚制が(彼がつねに言ったように)運動を破滅に導いているという彼の診断の正しさを確認した。
 かりにスターリンが「右翼主義」へと振れたならば、それはトロツキーの分析の勝利だった。ソヴィエト官僚制は反動へと退廃していくだろうと、彼はいつも予言していたのだから。
 しかし、かりにスターリンが左翼へと振れたならば、これまたトロツキーにとっての勝利だった。つねに、ロシアの革命的前衛は力強いので官僚機構はそれに配慮するに違いない、と明瞭に彼は述べてきたのだ。
 かりにどこかの国のトロツキスト党派がその党員数を増したとすれば、それはもちろん良い兆候だ。最良の党員たちは、真のレーニン主義が正しい政策であることを理解し始めているのだ。
 一方でかりにその集団が規模を小さくしたまたは分裂を経験したとすれば、これもまたマルクス主義の分析の正しさを確認するものだ。すなわち、スターリン主義の官僚機構は大衆の意識を息苦しいものにしており、革命の時期に動揺する党員たちはつねに戦場から逃げ出すのだ。
 かりにソヴィエト・ロシアの統計が経済的な成功を記録するならば、それはトロツキーの主張の正しさを確認する。プロレタリアートの意識によって支えられた社会主義は、官僚機構の存在にもかかわらず、基盤を確立しているのだ。
 かりに経済的な後退または厄災があったとすれば、トロツキーは再び正しい。彼がつねに言ってきたように、官僚機構は無能力で、大衆の支持を受けていないのだ。
このような精神の構造は、入り込む隙がないもので、事実によって矯正されることがない。
 明らかなことだが、社会には多様な勢力と競い合う傾向の組織があって活動している。そして、異なるものが、異なった時期に有力になる。
この常識的な真実が哲学的思考の真ん中に存在しているならば、経験が拒否される危険はない。
 しかしながら、トロツキーは、多数のマルクス主義者と同様に、誤謬なき弁証法の方法に助けられて自分は科学的に観察していると空想していた。//
 (3)トロツキーのソヴィエト国家への態度は、心理的には理解可能だ。すなわち、ソヴィエト国家の大部分は彼が生み出したもので、自分の子どもがとてつもなく退廃したことを認めることができなかったのは、驚くべきことではない。
 ゆえに、彼はつぎの異常な矛盾した言辞を絶えず繰り返し、ついには忠実なトロツキストたちすら理解できないと感じるようになった。
 労働者階級は政治的に収奪(expropriate)され、全ての権利を剥奪され、隷属化して踏みにじられてきた。しかし、ソヴィエト同盟は今もなお労働者階級の独裁のもとにある。土地と工場が国家の所有物になっているのだから。
 時が経るにつれて、トロツキーの支持者たちは、このドグマが原因で、ますます彼から離れた。
 ある者は、ソヴィエト共産主義とナツィズムの間の明確な類似性を看取し、世界じゅうの全体主義体制の不可避性について、悲観的に予感した。
 ドイツのトロツキストのHugo Urbahns は、あれこれの形態での国家資本主義が普遍的になるだろう、と結論した。
 1939年にフランス語で「世界的な官僚主義化」に関する書物を発行したイタリアのトロツキストのBruno Rizzi は、世界は新しい形態での階級社会に向かって動いている、その社会ではファシスト国家やソヴィエト同盟で実際に例証されている官僚制の衣をまとった集産的所有制へと、個人所有制が置き換えられる。
 トロツキーは、このような考えに烈しく反対した。ブルジョアジーの一機関であるファシズムが、政治的官僚機構に有利に自分たちの階級を収奪することができる、と想定するのは馬鹿げている、と。
 同様に、トロツキーは、Burnham やShachtman と決裂した。彼らが、ソヴィエト同盟を「労働者の国家」と呼称するのはもはやいかなる認知可能な意味もない、と結論づけたときに。
 Shachtman は、資本主義のもとでは経済的権力と政治的権力を分離することができるが、この分離はソヴィエト同盟では不可能だ、そこでは財産関係とプロレタリアートの政治的権力への関与は相互に依存し合っている、と指摘した。プロレタリアートは、政治的権力を喪失しながら経済的独裁制を実施し続けることはできない。
 プロレタリアートの政治的な収奪とは、全ての意味でのそれによる支配の終焉を意味する。従って、ロシアはまだ労働者の国家だと主張するのは馬鹿げている。支配している官僚機構は、言葉の真の意味での「階級」なのだ。
 トロツキーは、最後まで断固として、このような結論に反対した。ソヴィエト同盟にある生産装置の全ては国家に帰属している、との彼の唯一の論拠を何度も繰り返すことによって。
 このこと自体は、誰も否定しなかった。
 対立は理論上のものというよりも、心理上のものだった。ロシアは新しい形態の階級社会と収奪を生んでいるということを承認することが意味したのは、トロツキーの生涯にわたる仕事は無意味だった、彼自身が、自分が意図したものとはまさに正反対のものを産出することを助けた、ということを受け入れる、ということだった。
 これは、ほとんど誰も導き出すつもりのない一種の推論だ。
 同じ理由で、トロツキーは必死になって、自分が権力をもっていたときのソヴィエト同盟とコミンテルンは全ての点で非難される余地がなかった、と主張した。真のプロレタリアートの独裁、真のプロレタリア民主主義であって、労働者大衆から純粋な支持を得ていたのだ。
 抑圧、残虐行為、武装侵攻等々の全ては、それらが労働者階級の利益になるのならば、正当化される。しかしこのことは、スターリンがとったのちの諸手段とは関係がない。
 (トロツキーは逃亡中に、ロシアには宗教弾圧はない-正教教会は独占的地位を剥奪されただけで、それは正しくかつ適切だった、と主張した。
 彼はこの点では、スターリン体制を擁護するのを強いられた。スターリンはレーニンの政策から何ら逸脱しなかったのだから。)
 トロツキーは、レーニン時代の新生ソヴィエト国家が実施した武装侵入は間違っていたなどとは決して考えていなかった。
 そうではなく逆に、革命は地理を変更することはできないと、何度も繰り返した。言い換えると、帝制時代の国境線は維持され、または復活されるべきなのであり、ソヴィエト体制はポーランド、リトアニア、アルメニアおよびジョージアやその他の境界諸国を「解放する」あらゆる権利をもつのだった。
 彼は、1939年に赤軍の官僚主義的頽廃がなかったとすれば、フィンランドの労働大衆に解放者として歓迎されていただろう、と主張した。
 しかし、彼は、自分が権力をもち、かつ頽廃していないときに、フィンランド、ポーランドあるいはジョージアの労働大衆は歴史の法則に合致して、なぜ熱狂的に彼らの解放者を歓迎しなかったのか、と自問することがなかった。//
 (4)トロツキーは、哲学上の諸問題には関心がなかった。
 (彼は晩年に、弁証法と形式論理にもとづいて自分の見解を深化させようとした。しかし、明らかなのは、彼が知る論理の全ては高校でおよびプレハノフに関する青年時代の学修から収集した断片で成り立っており、彼はそれらの馬鹿らしさを繰り返した、ということだ。
 Burnham はトロツキーに、彼は現代論理学について何も知らないことを指摘して、議論をやめるように助言した。)
 トロツキーはまた、マルクス主義の基礎に関するいかなる理論的な分析をすることも試みなかった。
 彼にとってすでに十分だったのは、マルクスが、現代世界の決定的な特徴はブルジョアジーとプロレタリアートの間の闘争であり、この闘争はプロレタリアート、世界的社会主義国家の勝利、および階級なき社会でもって終わるよう余儀なくされていると示した、ということだった。
 このような予見がいったい何を根拠にしているのかについては、トロツキーは関心がなかった。
 しかしながら、これらが真実だと確信し、また自分は政治家としてプロレタリアートの利益と歴史の深部を流れる趨勢を具現化していると確信して、彼は、最終的な結末に対する忠誠さを揺らぐことなく維持した。
 (5)ここで、我々は異論に対して答えるべきだろう。
 つぎのように語られるかもしれない。トロツキーの努力や彼のインターナショナルが完全に有効でなかったことは彼の分析内容を無効にしはしない、なぜなら、仲間たちの多くまたは全てが同意しなかったとしてすら、ある人間は正しいということがあり得る、そして、<不可抗力(force majeure)>は論拠にならない、と。
 しかしながら、我々はここで、力が論拠になるか否かは人が何を証明したいかに依存するという、(<社会主義のもとでの人間の魂>での)Oscar Wilde の論評を想起することができる。
 我々はさらに、同様の思考方法で、問題とされている論点がある者が強いかそうでないかであるならば、力は論拠になる、と付け加えることができる。
 科学史上一度ならず起きたように、ある理論が全員またはほとんど全員によって拒否されるということは、その理論が間違いであることを証明しはしない。
 しかし、それは、偉大な歴史的趨勢を(または神の意思を)「表現」したものだという趣旨で、生来の自己解釈力をもつ理論だというのとは異なる問題だ。 
 上でいう趣旨とは、やがて勝利する運命にある階級の真の意識を具現化している、あるいは真実を発現したもので成る、したがって理論上は(または「理論上の意識」によれば)不可避的に必ず全ての者に打ち勝つ、といったものだ。
 かりにこのような性格のある理論が承認されないとするならば、そうされないことは、それ自体の諸前提に反対する一つの論拠だ。
 (他方で、実践における成功は、必ずしもそれに有利となる論拠ではない。
 イスラムの初期の勝利が証明するのはコーランが真実だったことではなく、それが生み出した信仰が、本質的な社会的要求に対応していたがゆえに最も力強い集結地点(rallying-point)だったということだ。)
 同じように、スターリンの諸成功は、彼が理論家として「正しい」者だということを証明するものではなかった。
 このような理由で、トロツキズムの実践での失敗(failure)もまた、科学的な仮説の拒絶とは違って、理論上の失敗だった。すなわち、トロツキーが確信していた理論は、間違っていたことの証拠だ。//
 (6)教条的(dogmatic)特質をもつトロツキーは、マルクス主義の教理のいかなる点についても、理論上の解明への貢献をしなかった。
 彼はしかし、無限の勇気、意思力および忍耐力を備えた、際立つ個性の人物だった。
 スターリンと全ての国々のその子分たちから悪罵を投げつけられ、最強の警察と世界じゅうの宣伝機関によって追及されても、彼は決して怯むことがなかったし、闘いを放棄することもなかった。
 彼の子どもたちは殺された。彼は自国から追い出され、野獣のごとく追跡され、最後には殺戮された。
 あらゆる審判での彼の驚くべき抵抗はその忠誠心の結果であり、決して、-それとは反対に-彼の揺るぎなき教条主義や精神の非融通性と矛盾してはいない。
 不運なことだが、忠誠心の強さや迫害を耐え忍ぼうとする支持者たちの意気は、知的に、または道徳的に正しい(right)、ということを証明しはしない。//
 (7)ドイチャー(Deutscher)はその単著の中で、トロツキーの生涯は「先駆者の悲劇」だった、と語る。
 しかし、こう主張する十分な根拠はなく、トロツキーはいったい何の先駆者だと想定されていたのかも明瞭でない。
 トロツキーはもちろん、スターリン主義者による歴史編纂の捏造ぶりの仮面を剥ぐことや、新しい社会での条件に関するソヴィエトによる宣伝活動の欺瞞を明らかにして論難することに、貢献した。
 しかし、その社会や世界の将来に関する彼の予見は全て、間違っていたことが分かった。
 トロツキーはソヴィエトの僭政体制を批判した点で独自性をもつのではなく、そのような批判を行った最初の人物でもなかった。
 逆に、彼は民主主義的社会主義者たちに対してよりははるかに穏やかに、ソヴィエト体制を批判した。また、僭政体制<だとして(qua)>反対したのではなく、彼がそのイデオロギー上の原理的考え方にもとづいて診断した、究極的目標についてのみ反対した。
 スターリンの死後に共産主義諸国で表明された種々の彼に対する批判論は、事実についても批判者自身の気持ちにおいても、トロツキーの著作や思考と何の関係もなかった。
 これら共産主義諸国での「反対派(dissident)」運動には、彼の考え方はいかなる役割も果たさなかった。共産主義の見地からソヴィエト体制を批判した、次第に少なくなっている一群の者たちの間にすら。
 トロツキーは、共産主義に代わる別の選択肢を提示しなかったし、スターリンと異なる何らかの教理を提示したわけでもなかった。
 「一国での社会主義」に対する攻撃の主要な対象は、スターリンとは何の関係もない理由で非現実的になっていた一定の戦術上の方針を説き続ける試みにすぎなかった。
 トロツキーは「先駆者」ではなく、革命の落とし子(offspring)だった。その彼は、1917-21年に採用された行路との接線部分に投げ込まれたが、のちには内部的かつ外部的な理由で遺棄されなければならなかったのだ。
 彼の生涯は「先駆者」というよりも、「亜流の者」(epigone)の悲劇だったと呼称する方が正確だろう。
 これはしかし、適切な表現ではない。
 ロシア革命は、一定の諸点で行路を変更したが、全ての点で変えたのではなかった。
 トロツキーは絶えず革命的侵略を擁護し、かりに自分がソヴィエト国家とコミンテルンを運営することができれば、全世界は遅滞なく輝かしいものになるだろうと、自分自身や他者を説きつづけた。
 彼がそう信じた根拠は、それこそがマルクスの歴史哲学(historiosophy)が教える歴史の法則だ、ということにあった。
 しかしながら、ソヴィエト国家は、成り行きでその時点までの行路を変更することを余儀なくされた。そしてトロツキーは、そのことを理由としてその指導者たちを叱責するのをやめなかった。
 しかしながら、国内体制に関するかぎりは、スターリニズムは明らかに、レーニンとトロツキーが確立した統治のシステムを継承したものだった。
 トロツキーはこの事実を承認することを拒んだ。また、スターリンの僭政はレーニンとは関係がない、実力による強制、警察による抑圧および文化生活の荒廃化は「官僚機構による」<クー・デタ>だ、これらについて自分はほんの少しの責任もない、と自分に言い聞かせた。
 このような絶望的な自己欺瞞は、心理学的に説明可能なものだ。
 ここで我々に判明するのは、たんなる「亜流の者」(epigone)の悲劇ではなく、自分が作った罠に嵌まった、革命的僭政者の悲劇だ。
 トロツキストの理論というようなものは何もなかった。-絶望的に自分の地位を回復しようとする、退いた指導者だけがいた。
 彼は自分の努力が虚しいことを実感することができなかった。また、奇妙な頽廃だと自分は見なしたが現実にはレーニンやボルシェヴィキ党全員と一緒に社会主義の創設だとして確立した諸原理の直接の帰結に他ならない、そういう諸事態について自分に責任がある、ということを受け入れようとしなかった。//
 ----
 第6節が終わり、第5章・トロツキーも終わり。

1972/L・コワコフスキ著第三巻第五章・トロツキー/第5節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の試訳部分は、第三巻分冊版のp.206-p.212。合冊版では、p.952-p.957。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。
 第5節・ファシズム、民主主義および戦争。
 (1)トロツキーの思考がいかに教条的で非現実的だったかは、近づく戦争に関する1930年代の論評やファシストの脅威に直面しての行動をどう奨励したかによって判断することができるかもしれない。
 (2)彼は、戦争が勃発した数日後に、こう書いた。
 「レーニンの指導のもとで労働者運動の最良の代表者たちが考え出した世界戦争に関する原理的考え方を、些かなりとも変更する理由を認めない。
 どちら側の陣営が勝利しようとも、人類(humanity)は後方に投げ棄てられるだろう。」
 (<著作集, 1939-1940年>, p.85.)
 この文章-ドイツによるポーランド侵攻とイギリス・フランスの宣戦布告のあとで、かつ9月半ばのソヴィエトによる侵略の前に書かれていた-は、ナツィ・ドイツ、ファシスト・イタリア、ポーランド、フランス、イギリスおよびアメリカ合衆国のような資本主義諸国間の戦争という主題に関する、トロツキーの見方の典型だった。
 彼は長年にわたって、疲れを知らないがごとく、つぎのように想定するのは致命的な幻想で、資本主義者の策略だ、と繰り返した。すなわち、ファシズムに対抗する「民主主義」諸国間の戦争はあり、かつあり得る、また、勝利するのがヒトラーかそれとも西側民主主義諸国の連合かは何らかの違いを生み出す、と想定することだ。なぜなら、どちらの側も工場を国有化していないのだから、と。
 交戦諸国のプロレタリアートは、ヒトラーと闘う自国の反動的政府を助けるのではなく、レーニンが第一次大戦の間に強く主張したように、自国政府に反抗しなければならない。
 「国家(national)防衛」という呼びかけは、極度に反動的で、反マルクス主義的だ。
 問題とすべきはプロレタリア革命であって、あるブルジョアジーの別のそれによる敗北ではない。
 (3)トロツキーは、<戦争と第四インターナショナル>と題する1934年7月の小冊子で、こう書いた。
 「国家防衛といういかさまは、可能ならばどこでも、民主主義の防衛という追加的いかさまで覆い隠されている。
 マルクス主義者は帝国主義時代の今でも民主主義とファシズムを区別して、つねに民主主義に対するファシズムの浸食を拒否しようとするのか? そして、プロレタリアートは戦争が起きている場合に、ファシスト政府に対抗して民主主義的政府を支持しなければならないのか?
 芳香に充ちた詭弁だ!
 我々は、プロレタリアートの組織と手段でもって、ファシズムに反対して民主主義を防衛する。
 社会民主党とは反対に、我々はこの防衛をブルジョアジー国家に委ねはしない。<中略>
 このような条件のもとでは、労働者の党が脆弱な民主主義という外殻のために「その」民族的帝国主義を支持することは、自立した政策方針を放棄して、労働者の意気を排外主義でもって喪失させることを意味する。<中略>
 革命的前衛は、自国の「民主主義」政府に反抗し、労働者階級の諸組織との統一戦線を追求するだろう。決して、敵対する国と戦争を行う自国の政府との統合ではない。」
 (<著作集, 1933-1934年>, p.306-p.307.)
 (4)トロツキーは1935年の論文で、つぎのことを強調した。
 第三インターナショナルは、社会愛国主義とばかりではなく、つねに平和主義(pacifism)と闘ってきた。つねに、軍縮、調停、国際連盟等々と闘ってきたのだ。
 しかし今では、これら全てのブルジョアジーの政策を是認している。
 <ユマニテ〔L'Humanité〕>は「フランス文明」の防衛を呼びかけることによって、プロレタリアートを裏切り、民族の立場をとり、労働者がドイツ帝国主義と闘う自国の政府を助けるように誘導する、ということを明らかにした。
 戦争は、資本主義の産物だ。そして、現在の主要な危険はナツィズムから発生している、と主張するのは馬鹿げている。
 「この途はすみやかに、ヒトラー・ドイツに対抗するフランス民主主義の理想化に到達する」(G. Breitman & B Scott 編<レオン・トロツキー著作集, 1934-1935年>(1971年), p.293.)。
 (5)トロツキーは戦争の一年前に、民主主義とファシズムは搾取のために選択可能な二つの装置にすぎない、と宣告した。-残余は全て、欺瞞なのだ。
 「実際のところ、ヒトラーに対抗する帝国主義的民主主義諸国の軍事ブロックとは何を意味するのだろうか?
 ヴェルサイユ(Versailles)の鎖の新版だ。それよりもっと重く、血にまみれ、もっと耐え難いものだ。<中略>
 チェコスロヴァキアの危機はきわめて明瞭に、ファシズムは独立した要因としては存在していないことを暴露した。
 ファシズムは帝国主義の道具の一つにすぎない。
 『民主主義』は、それがもつもう一つの道具だ。
 帝国主義は、これら二つの上に立っている。
 帝国主義はこれらを必要に応じて作動させ、たまには相互に対向的に平衡させ、たまには友好的に宥和させる。
 帝国主義と同盟関係にあるファシズムと闘うことは、ファシズムの爪や角に対抗して悪魔と同盟して闘うのと同じことだ。」
 (<著作集, 1938-1939年>, p.21.)//
 (6)要するに、民主主義対ファシズムの闘いなるものは存在しない。
 国際的条約はこの偽りの対立を考慮していない。イギリスはイタリアと協定するかもしれないし、ポーランドはドイツとそうするかもしれない。
 競い合う当事者がどの国であれ、来たる戦争は国際的なプロレタリアート革命を生み出すだろう。-これこそが、歴史の法則だ。
 人類は数カ月以上は戦争に耐えることができないだろう。
 第四インターナショナルに指導されて、民族的諸政府に対する反乱が至るところで勃発するだろう。
 いずれにせよ戦争は、民主主義の全ての痕跡を一掃し、その結果として、民主主義的価値の防衛を語ることは馬鹿げたものになる。
 パレスチナのトロツキスト・グループは、ファシズムはその当時に抵抗しなければならない主要な脅威だ、そして、ファシズムと闘っている諸国で敗北主義を説くのは間違っている、と提案した。
 トロツキーはこれに答えて、こうした態度は社会愛国主義にすぎない、と書き送った。 全ての真の革命家にとって、主要な敵はつねに自国にある、と。
 彼は、1939年7月の別の手紙で、こう宣告した。
 「ファシズムに対する勝利は重要だが、もっと重要なのは、資本主義の断末魔的苦しみだ。
 ファシズムは新しい戦争を加速させ、そして戦争は、革命運動を著しく促進させるだろう。
 戦争が起きる場合、全ての小規模の革命的中核は、きわめて短期間に決定的な歴史的要素になることが可能だし、そうなるだろう。」
 (<著作集, 1938-1939年>, p.349.)
 第四インターナショナルは、1917年にボルシェヴィキが果たしたのと同じ役割を、来たる戦争で果たすだろう。しかし今度は、資本主義の崩壊が完全で最終的なものになるだろう。
 「そのとおり。新しい世界戦争は絶対的な不可避性をもって、世界革命と資本主義体制の崩壊を惹起させるだろう」(同上、p.232.)。
 (7)戦争が実際に始まったとき、こうした問題に関するトロツキーの見解は変わらなかったばかりか、むしろ強くなった。
 彼は1940年6月に発行された第四インターナショナルの宣言文で、つぎのように語った。
 「『祖国』の防衛のために出兵している社会主義者たちは、封建体制を、自分たち自身の鎖を防衛するために結集した〔フランスの〕ヴァンデ(Vendée)の農民たちと同じ反動的な役割を演じている」(<著作集, 1939-1940年>, p.190.)。
 ファシズムに対抗する民主主義の防衛について語るのは無意味だ。ファシズムはブルジョア民主主義の産物であり、防衛されなければならないのは決して「祖国」ではなく、世界のプロレタリアートの利益なのだ。
 「しかし、戦争で最初に打ち負かされるべきであるのは、完全に腐敗している民主主義体制だ。
 それが決定的に瓦解する際には、その支えとして役立った全ての労働者組織を引き摺り込むだろう。
 改良主義的労働組合に残された余地はないだろう。
 資本主義的反動は、それら労働組合を容赦なく破壊するだろう」。
 (同上、p.213.)
 「しかし、労働者階級は現在の条件では、ドイツ・ファシズムとの闘いで民主主義諸国を助けることを余儀なくさせられるのではないか? 」
 この態様は、広汎な小ブルジョア層によって提起される疑問だ。そうした層にとってプロレタリアートはつねにあれやこれのブルジョアジー諸党派の予備的な道具にすぎない。
 我々はこうした政策を、怒りをもって拒絶しなければならない。
 当然ながら、鉄道列車の多数の車両の間に快適さに違いが存在するように、ブルジョア社会での政治体制の間には違いが存在する。
 「しかし、列車全体が奈落の底へと飛び落ちているとき、衰亡する民主主義と凶悪なファシズムの区別は、資本主義体制全体の崩壊に直面している際には消失する。<中略>
 人類の究極的な運命にとって、イギリスとフランスという帝国主義国の勝利は、ヒトラーやムッソリーニのそれと同様に不愉快なものだろう。
 ブルジョア民主主義体制が救われることはあり得ない。
 労働者は、外国のファシズムに対抗する自国のブルジョアジーを助けることによっては、自分自身の国でのファシズムの勝利を促進することができるだけだ。」
 (同上、p.221.)//
 (8)ここで再び取り上げるが、ヒトラーによる侵攻の当時のノルウェイの労働者たちに対する、トロツキーの助言がある。
 「ノルウェイの労働者は、ファシストに反対して『民主主義』陣営を支援すべきだったのか? <中略>
 これは現実には、最も未熟な失態となっただろう。<中略>
 世界的な観点から、我々は連合側陣営もドイツ陣営も支持しない。
 従って、我々には、ノルウェイ自身が一時的な手段としてどちらか一つを支持することについて、些かなりとも正当化することのできる根拠がない。」
 (<マルクス主義の防衛>, p.172.)
 (9)こうしたことからすると、ポーランド、フランスあるいはノルウェイの労働者たちがトロツキーの宣言文を読んでそれに従っていたとすれば、彼らはナツィの侵略があった際に自国の政府に対して武器を向けていただろう。ヒトラーに支配されようと自国のブルジョアジーに支配されようと、違いはなかったのだから。
 ファシズムは、ブルジョアジーの一つの装置だ。ファシズムに反対する全ての階級の共同戦線の形成を語るのは馬鹿げている。
 第一次大戦の際にレーニンは同様に、敗北主義を説いた。そのようにして、革命が勃発したのだ。
 トロツキーはつぎのごとく考えていたと見られることは、看取しておく必要がある。すなわち、彼にとって、資本主義諸国は階級利益で結ばれているがゆえに、戦争とは全ての資本主義諸国のソヴィエト同盟に対する闘いだった。
 しかしながら、ソヴィエト同盟が一つの資本主義勢力に対抗している別の資本主義勢力と同盟するとすれば、その戦争はきわめて短期間のものでのみあり得るだろう。なぜなら、1917年のロシアでのように、敗北した資本主義国家でただちにプロレタリア革命が勃発するだろうから。そして、二つの敵対する勢力はそのときには、プロレタリアートの祖国に対抗して同盟するだろう。//
 (10)かくして、トロツキーにとっては、戦争に関する一般的結論は過去の結末だった。
 資本主義は最終的に崩壊し、スターリニズムとスターリンは一掃され、世界革命が勃発し、第四インターナショナルがただちに労働者の精神に対する優越性を獲得して最終的な勝利者として出現するのだ。
 これは、トロツキーがSerge、Souvarine、Thomas の批判に答えて、つぎのように書いたとおりだ。
 「資本主義社会の全政党、その全ての道徳家と全ての追従者たちは、差し迫る大厄災の瓦礫の下で滅びていくだろう。
 ただ一つ生き残るのは、世界的社会主義革命の党だ。たとえそれが、先の大戦中にレーニンやリープクネヒト(Liebknecht)の党が存在しないように見えたのとちょうど同じく、見識のない分別主義者たちには今は存在していないように見えるかもしれないとしても。」
 (<彼らの道徳と我々の道徳>, p.47.)
 追記すれば、トロツキーは、最大限の確信をもって、多数の具体的な予言を行った。
 例えば、スイスが戦争に巻き込まれるのを避けるのは絶対に不可能だ。
 民主主義政体はどの国でも残存することができず、「鉄の法則」により必ずやファシズムへと発展するに違いない。
 かりにイタリアの民主主義が復活するとしても、続くのはせいぜい数カ月で、プロレタリア革命がそれを一掃する。
 ヒトラーの軍隊は労働者と農民で成り立っているので、それは次第に被占領諸国の人民と同盟するに違いない。なぜなら、歴史の法則が、階級による紐帯は他の何よりも強いことを教えているからだ。
 (11)トロツキーは1933年8月に、ファシストの危険性に関する一般的性質に関して、きわめて興味深い分析を提示した。
 「理論上は、ファシズムの勝利が疑いなく証明するのは、民主主義政体は疲弊し切った、ということだ。
 しかし、政治的には、ファシスト体制は民主主義に関する歪んだ見方(prejudices)を維持し、再生させ、若者たちの中にそれを注入し、短い間はそれに最強の力を授けることができすらする。
 正確に見れば、このことの中にこそ、ファシズムの反動的な歴史的役割のうちの最も重要な表現行動の一つがある。」
 (<著作集, 1932-1933年>, p.294.)
 「『ファシスト』独裁体制による隷属的支配のもとで、民主主義の幻想は弱められることはなく、却って強くなった」(同上、p.296.)。
 換言すれば、ファシズムの脅威は、民衆が民主主義を求めて長くそれに従属し、そうして、民主主義に関する歪んだ見方が駆逐されるのではなくて維持される、ということにある。
 ヒトラーは、民主主義を破壊することを困難にするがゆえにこそ、危険なのだ。//
 (12)トロツキーはその死の直前に、戦争の進展に関する自分の予言を再確認し、同時に、修辞文的に、その予言類が実現しなかった場合に何が起きるだろうかという問題を設定した。
 彼は、マルクス主義の破産(bankruptcy)を意味するだろう、とそれに対してこう回答した。
 「我々が固く信じるようにこの戦争がプロレタリア革命を惹起させるならば、それは不可避的にソヴィエト連邦の官僚制度の打倒と、1918年よりもはるかに高い経済的かつ文化的基盤にもとづくソヴィエト民主主義の再生を、到来させるに違いない。<中略>
 しかしながら、現在の戦争が革命ではなくプロレタリアートの衰退を呼び起こすならば、それとは異なる選択肢が可能性として残る。すなわち、独占資本主義のいっそうの衰亡、それの国家との融合、まだ独占資本主義が存続している全てのところで、民主主義政体が全体主義(totalitarian)体制にとって代わられること。
 プロレタリアートが社会を指導する力を自らのものにすることができないならば、こうした条件のもとで現実には、ボナパルト主義者のファシスト官僚制から、新しい搾取階級が生成する可能性がある。
 全てが指し示していることによれば、これは、文明の消滅を意味する、衰亡の体制になるだろう。
 最終的には、つぎのことが証明されるという結果をすることができるかもしれない。すなわち、先進資本主義諸国のプロレタリアートはかりに権力を獲得したとしてもそれを維持する力を持たず、ソヴィエト連邦でのように特権をもつ官僚機構にそれを譲り渡してしまう、ということ。
 我々はそのときに、つぎのことを承認せざるをえないだろう。すなわち、官僚制への逆戻りは、国の後進性に由来するのでも帝国主義諸国という外環に起因するのでもなく、プロレタリアートには支配階級になることができる力がないという、その生来の性質に根ざしている。  そしてまた、その根本的な特性において、ソヴィエト連邦は世界的規模での新しい搾取体制の先駆者だ <中略>、ということが確定するのが、遡って必然的なものになるだろう。
 しかしながら、この第二の展望がいかに煩わしいものだったとしても、かりに世界のプロレタリアートには現実には、歴史の発展方向に設定されたその使命を達成する力がないということが証明されるならば、つぎのことを認めること以外には、いっさい何も残らないないだろう。
 つまり、資本主義社会の内部的矛盾にもとづいた、社会主義者たちの根本方針(programme)は、ユートピア(夢想郷、Utopoia)として結末を迎える。」
 (<マルクス主義の防衛>, p.8-p.9.)
 (13)これは、トロツキーの著作集の中に見い出すことのできる異様な論述だ。
 彼は当然に、悲観的な第二の選択肢は非現実的なものだと自信をもって述べ、一般的な命題としではなく進行中の戦争の結果として、世界革命は不可避だと考える、と続けている。
 しかし、もう一つの仮説を心に描いたという事実だけでも、彼が別の箇所で表明する絶対的な勝利の確信を述べている上のような文章と比較するならば、一定の歴史研究者の注目を向けさせるものだと思える。
 (14)トロツキーは、資本主義は自らを改良する力をもつという考えを受け入れなかった。
 彼には、ルーズヴェルトの「ニュー・ディール」は、絶望的で反動的な試みで、失敗するように運命づけられている、と思えていた。
 彼はさらに、技術発展の最高の地点にまで達しているアメリカ合衆国はすでに共産主義への条件を成熟させている、と考えた。
 (彼は1935年3月のある論文で、アメリカが共産主義になればその生産費用を80パーセント削減するだろうとアメリカ国民に約束した。また、その死の直前に書いた「戦時中のソヴィエト連邦」で、ソ連は計画経済によってすみやかに毎年200億ドルへと国家収入を高め、全国民のための繁栄を確保するだろう、と宣言した。)
 <裏切られた革命>にこう書かれているのを、我々は読む。
 誰かが資本主義は10年または20年以上長く成長することができると想定するとすれば、その者はさらには、つぎのことを信じなければならないことになる。
 ソヴィエト同盟の社会主義には意味がない(make no sense)、そして、マルクス主義者は自分たちの歴史的運動に関する判断を誤ってきていた(misjudge)。なぜなら、ロシア革命はパリ・コミューンのような偶発的実験にすぎなかった、と位置づけられるだろうからだ。//
 ----
 つぎの第6節の表題は、<小括(conclusions)>。

1970/L・コワコフスキ著第三巻第五章第4節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回は、第三巻分冊版のp.201-p.206。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。 
 第4節・ソヴィエトの経済と外交政策に対する批判。
  (1)少なくとも理論上は、工業化と将来の農業政策はソヴィエト同盟の左翼反対派にとってきわめて重要な問題だった。そのために、スターリンが反対派の政策方針の全てを採用し、強化した態様で実施することが分かったとき、トロツキーは、ぎこちない立場を示した。
 彼は、スターリンは実際に反対派の政策意図を実行したが、官僚機構でかつ十分な考慮のない方法でそれを行った、と宣告することで、困難な状態を切り抜けた。
「左翼反対派は、ソヴィエト同盟で工業化と農業の集団化のための闘争を始めた。
 この闘いは一定の意味では勝利した。すなわち、1928年に始まり、ソヴィエト政府の全政策が左翼反対派の基本的考え方を官僚主義的に歪曲して適用していることが示されている。」
 (G. Breitman & B. Scott 編<レオン・トロツキー著作集-1933-1934年(1972年)>p.274.)
 官僚機構はこの措置を、政府の論理で自分たちの利益のために実施することを「強いられ」た。そして、プロレタリアートの歴史的任務を歪曲した方法で履行したけれども、変革それ自体は「進歩的」だった。さらには、スターリンがその考えを変えるように強いたのは、左翼からの圧力だ。
 「革命を目指す創造的勢力と官僚機構の間には、深い対立が存在する。
 スターリン主義者の組織が一定の限界に来て立ち止まるならば、そして左翼へと鋭く舵を切るのを強いられているとすら感じるならば、無定型で散在してはいるが今もまだ力強い、革命党の要素による圧力こそが、それを起こしているのだ。」
 (<著作集, 1930-1931年>, p.224.)
集団化に関して言うと、トロツキーは、経済的準備の性急さと欠落を批判し、スターリン主義者たちはコルホーズ(kolkhozes)を社会主義の制度だと見なす過ちを冒している、と強調した。コルホーズは過渡的な形態にすぎない、と。
 もっと言えば、集団化は資本主義復活の方向への一歩だったと判明している、と。
 トロツキーは<裏切られた革命>で、スターリンは土地をコルホーズに与えることで国有化することを止めた、他方では農民に私的区画地の耕作を許すことで「個人主義」の要素を強化した、と書いた。
 かくして、ソヴィエト農業が朽ち果てて数百万の農民が飢えて死んでいたとき、あるいは最後になって彼らが受け取った私的区画地を維持する許可で何とか生きながらえていたとき、トロツキーの主要な関心は、この現象が示している「個人主義」の危険だった。
 彼は、富農(kulaks)との闘いは全く不十分だと主張すらした。スターリンは彼らにコルホーズで組織する機会を与えた、かつまた最初の廃絶運動のあとでは田園地帯での新しい階級分化をもたらすに違いない実質的な譲歩を行うまでした、のだと。
 (これは1935年のトロツキーの基本的主張だった。そのときに彼は、スターリンの外交政策に「右翼への揺れ」を感知し、ゆえにソヴィエトの内政問題にも類似の兆候を探し求めた。)//
 (2)トロツキーは<裏切られた革命>やその他のあちこちで、ソヴィエト工業への出来高払い労働(piece-work)の導入を非難した。
 しかしながら、彼の議論からすると、警察的強制または革命的熱情が生産性向上のための物質的誘導に代わるべきだと考えたかのかどうか、あるいは革命的熱情がどのようにして喚起されるべきなのかと考えていたのか、を語るのは困難だ。//
 (3)スターリンの外交政策に関して言うと、トロツキーは、「一国での社会主義」のために国際的革命は放棄されている、という主題を奏でた。だからこそ、革命は、ドイツ、中国およびスペインで連続して裏切られたのだ。
 (トロツキーによると、スペイン内戦は「本質的には」社会主義を目指すプロレタリアートの闘いだった。)
 彼は、赤軍は1923年にドイツの共産主義者を助けるために派遣されるべきだったかどうか(彼は1920年にそうすべく試みたが成功しなかった)、あるいは、1926年に中国共産党を助けるべくそうすべきだったかどうかを、語らなかった。
 一般的に言ってトロツキーは、発展途上の国々での「民族ブルジョアジー」を支援する政策には反対だった。
 この政策方針はしばしば、資本主義大国を弱体化させるには大いに役立った。
 トロツキーはしかし、「民族ブルジョアジー」の支援は致命的だ、と考えていた。その理由は、他のどこでもそうだが植民地領域では、革命を継続的に社会主義の段階へと高める共産主義者の指導にもとづいて行われてはじめて、「ブルジョア革命」の任務は履行される、というものだった。
 例えば、インドがプロレタリア革命による以外の方法で独立を達成することができると想定するのは馬鹿げている。このようなことは、歴史の法則から絶対的に外れている。
 ロシアの例が示すように、最初からプロレタリアート、すなわち共産党によって指導された「永続革命」こそが唯一可能にする方策だ。
 トロツキーは、ロシアの範型は世界の全ての国々を絶対的に拘束するものだと考えた。そのゆえに彼は、諸々の国々の歴史や特有の条件に関して何がしかのことを知っているかどうかに関係なく、全ての諸問題について決まり切った回答を行った。//
 (4)革命期の共産主義者は完全に情勢を統御することができるまでは過渡的な目標を活用しなければならない、ということに、トロツキーは反対しなかった。
 かくして、トロツキーは中国のトロツキストたちへの1931年の手紙で、国民議会という考えはその基本的政綱から排除されなければならない、と書いた。その理由は、貧農を支援することが説かれるときには、「農民層の不信を掻き起こすために、あるいはブルジョアジーが虚偽宣伝を開始することを可能にするために、プロレタリアートは国民議会をしを招集してはならない」、ということだった。
 (<著作集、1930-1931年>, p.128.)
 他方で我々は、別の箇所で、「プロレタリアートと農民の独裁」という1917年のレーニンのスローガンを繰り返すのは致命的な過ちだろう、という文章を読む。
 ロシア革命の最初から、政権はプロレタリアートと貧農を代表するものだとされてきた。
 この点についてトロツキーは、つぎのように書いた。
 「たしかに後になって我々は、ソヴィエト政権を労働者と農民のものだと呼称した。
 しかし、そのときまでにプロレタリアートの独裁はすでに事実であり、共産党は権力を握っており、その結果として労働者と農民の政府という名前は、何ら曖昧さを残すものでも警戒心を起こさせる理由になるものでもなかった」(同上、p.308.)。
 要するに、いったん共産党が権力を手中にすれば、虚偽的なまたは欺瞞的な名称には何ら害悪は存在し得ないのだった。//
 (5)ドイチャー(Deutscher)のようなトロツキーの支持者や崇拝者は、トロツキーが「社会ファシズム」とのスローガンに反対したことを、その評価を高める事実として強調した。
 たしかにトロツキーは社会民主主義政党内の労働者大衆を共産党から切り離すという理由で、このスローガンを批判した。しかし、社会民主主義者たちに関して何らかの現実的な政策方針を彼は持っていなかったように見える。
 トロツキーは、改良主義ときっぱりと決別しないで社会民主主義の再生を図っている諸組織との永続的な協力関係など語ることはできない、と書いた。
 同じ時期に、ヒトラーの権力継承の前に、彼は、「社会ファシズム」を語って同時に社会民主主義者に屈服していると、スターリン主義者たちを非難した。
 ナツィの勝利の直後の1933年6月には、ヒトラーの従僕であるドイツの社会民主党との統一戦線などを考えつくこともできない、と書いた。
 しかし、トロツキーの憤激は、1934-35年のソヴィエト政策の変更に対して、ひどく真剣に向けられた。
 スターリニズムは、その右翼の様相を最終的に提示した。スターリニストたちは、第二インターナショナルの裏切り者たちと同盟した。さらに悪いことには、彼らは平和と国際的仲裁を語り、さも重要な違いがあるかのごとく、世界を民主主義者とフシストに分けている。
 彼らは、世界戦争の脅威を与えるファシズムについて語っているが、しかし、マルクス主義者として、帝国主義戦争には「経済的基盤」があることを知らなければならない。
 彼らスターリニストたちはジュネーヴで、資本主義諸国の間での戦争も同じように含む概念用法で侵略者(aggressor)を定義することを受諾すらした。
 これは、ブルジョア平和主義に対する屈服だ。マルクス主義者は原理として、全ての戦争に反対してはならない。クエーカー教徒やトルストイ愛好者に向けた種類の偽善的言葉遣いを残すものだ。
 マルクス主義者は、階級の観点から戦争を判断しなければならない。そして、侵略者とその犠牲者の間のブルジョア的区別に関心を持ってはならない。
 マルクス主義者の原理は、侵略的であれ防衛的であれ、プロレタリアートの利益となる戦争は正しい(just)戦争であり、一方で帝国主義国間の戦争は犯罪だ、ということにある。//
 (6)社会民主主義者に対する態度の変化についてのトロツキーの初期の訴えは全て、実際には幻想的な(illusory)もので、かりに彼に権力があったとしても成果を何ら生まなかっただろう。社会民主党<と向かい合った>イデオロギー上の党を維持することは可能だと彼は空想し、一方で同時に、特定の情勢下での彼ら社会民主主義者の助けを懇願してもいたのだ。
 フランスがナツィ・ドイツと折り合うのを阻止するために、スターリンが「人民戦線」と社会主義者との間の反ファシスト同盟の政策を開始したとき、スターリンは、かりに自分の政策が成功するとすれば、いずれにせよ宣伝活動の観点から、大きな代償を払わなければならない、と意識していた。  
 トロツキーは他方で、事あるごとに偽善者、ブルジョアジーの代理人、労働者階級に対する裏切り者、帝国主義者の下僕だ-これらは「社会ファシスト」への軽蔑語にすぎなかった-と非難しつつ、彼ら社会主義者との反ナツィ戦線を形成することは可能だと考えた。
 トロツキーがかりに当時にコミンテルンの責任ある地位に就いていたとしても、彼の政策方針は、スターリンのそれよりも成功する見込みは少なかっただろう。//
 (7)トロツキーはじつに、(戦争と革命の間に何度も繰り返された)国際的な条約、調停、軍縮等々を信頼するのは怠惰な反動的性格をもつ、というレーニンの見解の、真の支持者だった。
どちらが侵略者であるかが問題なのではなく、重要なのは、どの階級が戦争を遂行しているか、なのだ。
 世界のプロレタリアートの利益を代表する社会主義国家は、いったい誰が戦争を開始したかとは関係なく、全ての戦争について「正しい」(right)。そして、帝国主義国の諸政府との条約類に拘束されるなどと、真面目に考えてはならない。
 スターリンの関心事は、世界革命ではなく、ソヴィエト国家の安全保障だつた。ゆえに、あらゆる場合に、平和の擁護者で国際的な法と民主主義の有力な主張者だと自分を見せかけなければならなかった。
 しかしながら、トロツキーは、情勢の主要な要素は1918年に自分が見ていたもの、つまり一方での帝国主義諸国、他方での社会主義国家や革命を行う正しいスローガンを待ち望んでいる世界のプロレタリアートだ、と信じていた。
 現実政治の唱道者であるスターリンは、「革命の上げ潮」を信じなかった。そして、ヨーロッパの共産主義諸党をソヴィエトの政策実現の道具として利用した。
 トロツキーは、「革命戦争」の絶えざる主張者だった。そして、彼の全教理は、事物の当然のこととしてかつ歴史の法則に従って、世界のプロレタリアートは革命を志向しており、スターリン主義官僚制の誤った政策だけがこの本来の趨勢が現実化するのを妨げている、という確信にもとづいていた。//
 ----
 つぎの第5節の表題は、<ファシズム、民主主義および戦争>。

1969/L・コワコフスキ著第三巻第五章第3節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.198-p.201。合冊本ではp.946-948。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。 
 第3節・ボルシェヴィズムとスターリニズム、ソヴィエト式民主主義の思想②。
 (11)トロツキーは<彼らの道徳と我々の道徳>で、道徳性(morality)に関する彼の規準は単純に「自分にとって良いものが正しい」であり、そういう見方は目的が手段を正当化するというものだ、と異議を述べる支持者たちからの批判に論駁しようとした。
 彼はこの批判に対して、歴史が進展させる目的以外の何かによって手段が評価されるとすれば、その何かは神でのみあり得る、と答えた。
 言い換えれば、自分を疑問視する者たちは、Struve、Bulganov やBerdyayev のごときロシアの修正主義者がちょうどそうだったように、宗教的心情に陥っている。
 彼らはマルクス主義を階級よりも上位にある一種の道徳性と結びつけようとし、最後には教会の懐に抱かれた。
 トロツキーはこう明瞭に述べた。道徳は一般に、階級闘争の作用だ。
 道徳は現在ではプロレタリアートの利益のうちに存在し得るかファシズムのそれに存在し得るかのいずれかだ、そして明らなことだが、敵対している階級は類似の手段をときどきは用いるかもしれない。しかし、唯一の重要な問題は、いずれの側の利益になっているかだ。
 「手段は、その目的によってのみ評価することができる。
  プロレタリアートの歴史的利益を表現するマルクス主義の観点からは、目的は、自然に対する人間の力を増大させる方向へと、そして人間を支配する人間の力を廃棄する方向へと導くならば、正当化される。」
 (<彼らの道徳と我々の道徳>(1942年)p.34.)
 換言すれば、ある政策方針が技術的進歩(自然に対する人間の力)へと誘導するものならば、その政策方針を促進する全ての手段は自動的に正当化される。
 しかしながら、スターリンの政策は国家の技術水準を間違いなく高めたのだから、それにもかかわらず、なぜ非難されるべきなのか、は明瞭ではない。
 人間を支配する人間の力の廃棄に関して、トロツキーは、この支配力を廃棄することができる前にそれは最高度にまで達していなければならないという(スターリンが採用した)基本的考え方から解放されていた。
 彼は1933年6月の論文で、このような見方を何度も繰り返した。
 しかし、将来には、事情は異なるだろう。
 「歴史的目標」はプロレタリア政党に具現化され、ゆえにその党は、何が道徳的で何が非道徳的なのかを決定する。
 トロツキーの党は存在していないとのSouvarine の論評に関して、彼は自分だけは、道徳性の具現者だと自分を見なすに違いない。予言者は何度もレーニンの例を指摘することでもって答える。
 -レーニンは1914年には孤独だった、その後に何が起きたか?
 (12)ある意味では、批判者たちの異論は無効だ。トロツキーは、党が奉仕する利益は道徳的な善だ、党の利益を害するものは道徳的に悪だ、とは主張しなかった。
 彼はたんに、道徳の標識のようなものはなく、政治的な有効性という標識のみがある、と考えていた。
 「革命的道徳性の問題が、革命的な戦略と戦術の問題と融合されている」(同上, p.35.)。
 政治的な帰結とは無関係に事物それ自体の善悪を語ることは、神の存在を信じることと同じだ。
 例えば、政治的反対者の子どもを殺戮することがそれ自体で正しい(right)か否かを問うことは無意味だ。
 皇帝の子どもたちを殺すことは(トロツキーが別に述べるように)正当だった。政治的に正当化されたからだ。
 では、なぜスターリンがトロツキーの子どもたちを殺戮するのは間違っている(wrong)のか? それは、スターリンはプロレタリアートを代表していないからだ。
 善か悪かに関する全ての「抽象的」原理、民主主義、自由および文化的価値に関する全ての普遍的な規準は、それら自体では何ら意味をもたない。
 政治的な便宜(expediency)が指し示すところに従って、それらは受容されたり却下されたりする。
 そうすると、なぜ人はその反対者ではなくて「プロレタリアートの前衛」の側に立つべきなのか、あるいは、なぜ人は何であれ何かの目的と自分自身を重ね合わせるべきなのか、という疑問が生じる。
トロツキーはこの疑問に答えず、たんに、「目的は、歴史の運動から自然に流れ出てくる」と語る(同上, p.35.)。
 推察するに、このことは、彼は明瞭には述べていないけれども、つぎのことを意味する。
 我々は、歴史的に必然〔不可避〕であるものを見出さなければならない。そして、それが必然的であるという理由のみでもって、それを支持しなければならない。//
 (13)党内民主主義に関して言うと、トロツキーはこれについても全くカテゴリカル(categorical)だ。
 スターリンの党でトロツキー自身の集団は反対派だったが、彼は当然に自由な党内議論を要求し、「分派(fractions)」を形成する自由すら求めた。
 彼は他方で、彼自身とその他の者たちが1921年の第10回大会で定めた「分派」の禁止を擁護した。 
 これを、それが間違っているときには分派を禁止するのは正当だ、という以外の意味で解釈するのは困難だ。しかし、トロツキーの集団が禁止されてはならないのは、それがプロレタリアートの利益を表現しているからだ。
 追放されている間、トロツキーはまた、支持者から成る小集団に「真のレーニン主義諸原理」を課そうと努めた。彼は休みなく多様なかたちでの自分の言明からの逸脱を非難し、どの問題についてであれ彼の権威に抵抗する者全ての排除を命じた。そして、事あるごとに共産主義中央主義者の教理を宣言した。
 彼は、その名前自体がマルクス主義と決別していることを示しているとして(この点でトロツキーは正当だったかもしれない)、パリの「共産主義的民主主義者」というSouvarine の集団を非難した。
 Naville の集団が1935年に左翼反対派の範囲内での彼ら独自の綱領を宣言したきには、叱責した。
 彼はメキシコのトロツキスト指導者のLuciano Galcia を非難した。中央主義について忘却し、第四インターナショナル内部での完全な意見表明の自由を要求したからだった。
 彼は、全ての理論は懐疑心をもって扱われなければならないと語ったアメリカのトロツキストのDwight Macdonald を激しく罵倒した。
 「理論的懐疑主義を宣伝する者は、裏切り者だ」(<著作集1939-1940年>p.341.)。
 Burnham とSchachman が最終的にはソヴィエト同盟は労働者国家だということを疑い、ポーランド侵攻やフィンランドとの戦争についてソヴィエト帝国主義について語ったときには、最後通告たる判決を言い渡した。
 彼はこの場合に、アメリカのトロツキスト党内部で一般票決を行うのに同意しなかった(アメリカのこの党は約1000人の党員をもち、Deutscher によると第四インターナショナル内の最大の代表団のように思えた)。その理由は、党の政策方針は「単純に地方的決定の算術的な総計ではない」ということだった(<マルクス主義の防衛>(1942年), p.33.)。
 トロツキーは、この絶対主義が彼の運動を萎縮させ、ますます極小の宗教的セクトにようになり、その党員たちに、そして彼らだけに救世主になる宿命にあると確信づけたことに、少しも困惑しなかった。
 -もう一度。1914年のレーニンはどうだったか?
 トロツキーもレーニンの「弁証法的」見方を共有していたのは、つぎの点だった。すなわち、真のまたは「基礎になる」多数派は、たまたま多数者である者たちとは一致しておらず、正しく歴史的進歩の側に立つ者たちで成り立つのだ。
 彼は純粋に、世界の労働大衆は彼らの心の深奥で自分の側にいる、たとえ彼ら自身はそれにまだ気づいていなくとも、と信じていた。歴史の法則がこれが正しくそうであることを明らかにするのだから。//
 (14)民族的抑圧と自己決定権の諸問題に対するトロツキーの態度は、同様の方向にあった。
 彼の著作には、ウクライナ人やその他の民族の民族的要求に対するスターリンの抑圧への若干の言及が含まれている。
 彼は同時に、ウクライナ民族主義者にいかなる譲歩もしてはならないこと、ウクライナの真のボルシェヴィキは民族主義者と一緒に「人民戦線」を形成してはならないこと、を強調した。
 トロツキーはさらに進んで、4つの国に分かれているウクライナは、マルクスの見解では19世紀にポーランド問題となったのと同様の重要な国際的問題を生じさせる、とまで語った。
 しかし、彼は、武装侵攻によって他国に「プロレタリア革命」を持ち込む社会主義国家について、非難する言葉を何ら発しなかった。
 彼は1939-40年にSchachtman とBurnham に対して、ソヴィエトによるポーランド侵攻はあの国の革命運動と同時に発生した、スターリン官僚制はポーランドのプロレタリアートと農民に革命的衝動を与えた、そしてフィンランドでもソヴィエト同盟との戦争によって革命的感情が目覚めた、と憤然として説明した。
 たしかに、銃剣でもって導入されたが深い民衆的感情からわき起こらなかったので、これは「特殊な種類」の革命だった。しかし、それは全く同時に、純粋な革命だった。
 東部ポーランドやフィンランドで発生したことに関するトロツキーの知識は、もちろん何らかの経験的情報にではなく、「歴史の法則」にもとづいている。つまり、いかに頽廃しているとは言えども、ソヴィエト国家は人民大衆の利益を代表しており、ゆえに人民大衆は侵略する赤軍を支持しなければならない、というわけだ。
 この点で、トロツキーはたしかに、レーニン主義から逸脱していると責められることはあり得ない。「真」の民族的利益はプロレタリアートの前衛のそれと合致するのだから、その結果として、前衛に権力がある全ての国では(たとえ「官僚主義的頽廃」の状態にあっても)民族自決権は実現されており、大衆は事態のかかる状態を支持しなければならない。そのように理論が要求しているのだから。//
 ----
 第3節、おわり。次節の表題は、<ソヴィエトの経済と外交政策に対する批判>

1968/L・コワコフスキ著第三巻第五章第3節①。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.194-p.198。合冊本ではp.942-946。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。 
 第3節・ボルシェヴィズムとスターリニズム、ソヴィエト式民主主義の思想。
 (1)トロツキーはかくして、全ての機会を利用して、一方でのボルシェヴィズムまたはレーニン主義、つまりトロツキー自身のイデオロギーや政治と、他方でのスターリニズムの間には、継続性は存在しないと強調した。
 スターリニズムはレーニン主義の真の継承者ではなく、際立ってそれと矛盾したものだ。
 トロツキーは1937年の論文で、メンシェヴィキやアナキストたちと論争した。彼らが「我々はきみに最初からそう言ってきた」と述べたのに対して、トロツキーは、「ちっともそうでない」と答えた。
 メンシェヴィキとアナキストたちは、僭政体制とロシアのプロレタリアートの苦難がボルシェヴィキ政権の結果として生じるだろうと予見していた。
 実際にそうなったのだが、それはボルシェヴィズムとは何の関係もないスターリンの官僚制として生じたのだ。
 Pannekoek その他のドイツ・スパルタクス団員たちは、ボルシェヴィキはプロレタリアート独裁ではなく党の独裁を立ち上げた、スターリンはそれを基礎にして官僚制的独裁を確立した、と語る。
 これらはいずれも当てはまらない。
 プロレタリアートは、労働大衆の自由に対する願望を具体化する自分たち自身の前衛による以外には、国家権力を奪取できなかったのだ。//
 (2)多数の他の論文でと同様にトロツキーはこの論文で、反対者から、またSerge、Souvarine、Burnham のような支持者たちからも頻繁に提示された異論に答えることを強いられた。
 彼らは間違いなく、ボルシェヴィキはトロツキーの能動的な関与があって最初から、社会主義諸政党を含むロシアの全ての政党を廃絶させた、と指摘した。
 ボルシェヴィキは党内でのグループの形成を禁止し、プレスの自由を破滅させ、クロンシュタットの反乱を血でもって弾圧した、等々。//
 (3)トロツキーはこのような異議に対して何度も回答したが、いつも同じ態様でだった。すなわち、異議を申し立てられている行動は正しく(right)かつ必要なものだった、そしてプロレタリア民主主義の健全な創設に決して反するものではなかった、と。
 彼は1932年8月に出版されたチューリヒの労働者たちへの手紙で、こう書いた。ボルシェヴィキはたしかにアナキストと左翼エスエルを破壊するために実力(force)を用いた(他政党はこの文脈では言及すらされなかった)。しかし、ボルシェヴィキは労働者国家を守るためにそうしたのであり、ゆえにその行動は正当(right)だった。
 階級闘争は暴力(violence)なくしては実行することができない。唯一の問題は、どの階級によってその暴力が行使されているか、だ。
 彼は1938年の小冊子<彼らの道徳と我々の道徳>で、こう説明した。共産主義をファシズムと比較するのは馬鹿げている、これらが用いる手段(methods)にある類似性は「表面的な」もので付随的現象に関係するにすぎないのだから。
 重要なのは、そのような手段を用いる名義となる階級だ。
 トロツキーは、つぎのように批判された。彼は政治的対立者の家族から子どもたちを含めて人質をとった、そして、スターリンがトロツキストに対して同一のことをしたと憤慨している、と。
 しかし、彼はこう答えた。正しい(true)類推方法がない。自分がしたのは階級敵と闘ってプロレタリアートに勝利をもたらすために必要なことだった。それに対してスターリンは、官僚機構の利益のために行動している。
 トロツキーはSchachman への1940年の手紙で、自分が権力をもっていたときにチェカが生まれて機能していたことに同意した。-もちろん、そのとおりだった。
 しかし、彼は言う。チェカはブルジョアジーに対抗するために必要な武器だった。それに対してスターリンは、チェカを「真のボルシェヴィキ」を破壊するために用いている、だから適切な比較にはならない、と。
クロンシュタットの反乱の鎮圧について言えば、重要な防塞を反動的な農民兵士たちに手放すことが、プロレタリア政権にいかほどに期待され得ただろうか? その兵士たちの中には、少なくないアナキストがいたかもしれないのだ。
 党内集団の禁止について言えば、これは絶対に必要だった。全ての非ボルシェヴィキ政党を廃絶したあとでは、社会にまだ現存するかもしれない利害の対立が一つの党の内部に異なる志向をもつ表現体を探し求めざるをえなったからだ。//
 (4)つぎのことが明瞭だ。トロツキーにとって、統治の形態としての民主主義、あるいは文化的価値としての公民的自由を語る必要はない。この観点からすると、トロツキーはレーニンに忠実であり、かつスターリンと何ら異なるところがない。
 かりに権力が「歴史的に進歩的な」階級によって(むろんその前衛を通じて)用いられるならば、定義上それは真正(authentic)な民主主義だ。たとえ、あらゆる様相の抑圧と実力強制がその他の点では日常生活の秩序だったとしても。それは全て、進歩という根本教条に則っている。
 しかし、その権力がプロレタリアートの利益を代表しない官僚機構によって奪取されたその瞬間から、統治の同じ形態は自動的に反動的なものに、ゆえに「反民主主義」的なものになる。
 トロツキーは1931年の<右翼・左翼ブロック>と題する論文で、こう書いた。
 「党内民主主義の復活ということによって我々が意味させているのは、党の真の革命的プロレタリアートの中核は、官僚機構を抑制して党を本当に粛清〔purge、浄化〕する権利をもつ、ということだ。
 上部からの指令どおりに投票する、非原理的で経歴主義の歩兵たちはむろんのこと原理的にテルミドリアンで成る党の粛清、阿諛追従者で成る多数の派閥はむろんのこと末端主義者で成る党の粛清、だ。なお、阿諛追従者たちの資格はギリシャ語またはラテン語に由来するものであるはずはなく、現代的で官僚主義化した、かつスターリン化した形での現実にある今日的なロシア語に由来している。
これこそが、我々が民主主義を要求する理由だ。」
 (G. Breitman & S. Lovell 編<レオン・トロツキー著作集-1930-1931年>(1973年)、p.57.)
 かくして、トロツキーが「民主主義」によって意味させているのは、プロレタリアートの歴史的要求を表現しているトロツキー主義者による政権だ、ということが明らかになる。//
 (5)トロツキーは1939年12月の論文で、彼自身がボルシェヴィキ以外の諸政党の廃絶に責任はないのか否かという疑問に、再びこう答える。
 そのとおりだが、そうしたのは全く正当(right)だった。
 彼はつづける。「しかし、内戦期の法制を平穏時のそれと同一視することはできない」。
 -そして、そのとき、そうであるならば廃絶させられた諸政党は内戦後に再び合法化されるべきだった、との考えが彼の頭に浮かんだに違いない。彼は、こう付け足した。
 「独裁制またはプロレタリアートの法制をブルジョア民主主義の法制と同一視することもできない」。
 ( N. Allen & G. Breitman 編<レオン・トロツキー著作集-1939-1940年>(1973年)、p.133.)//
 (6)1932年末以降の日付のある言述には、つぎのようなものがある。
 「全ての体制は、まず第一にはそれがもつ規準によって評価されなければならない。
 プロレタリアート独裁の体制は、民主主義政体の諸原理や形式的規準を侵犯するものであることを秘密にしようとは願わない。
 それは新しい社会への移行を確実にする能力という観点から、評価されなければならない。
 他方で民主主義体制は、民主主義政体の枠組み内で階級闘争を展開することを許容する程度と範囲いう観点から、評価されなければならない。」
 (G. Breitman & S. Lovell 編<レオン・トロツキー著作集-1932-1933年>(1972年)、p.336.)
 (7)要するに、民主主義諸原理と自由を侵害するときには、民主主義諸国に憤慨してその諸国を攻撃するのは正当(right)だ、しかし、そのように共産主義独裁制を取り扱ってはならない。共産主義独裁制は民主主義諸原理を承認していないのだから。
 共産主義独裁制で最大に優先されるものは、将来に「新しい社会」を創造するという約束にある。//
 (8)我々は<裏切られた革命>で、つぎのようにすら語られる。スターリン憲法は普通選挙制度を宣言することで、もはやプロレタリアート独裁は存在しないことを明らかにした、と。
 (トロツキーもまた、スターリンは秘密投票制度の導入でもって明らかに彼の腐敗した体制をある程度は浄化(purge)することを望んでいると、論評した。
 信じ難い思われるが、トロツキーは明らかにスターリンの選挙制度を額面どおりに理解していた。)
 (9)かくして、つぎのことが明らかだ。トロツキーは絶えずスターリンとその体制を攻撃し、「ソヴィエト民主主義」と「党内民主主義」の回復を要求していたけれども、彼の一般的な根本的考えに照らして見ると、「民主主義」とはその政策方針が「正しい」とする規準を意味するものであり、政策方針の「正しさ」が民衆の支持を求めて競い合う異なる集団の議論の結果として決定される、ということを意味していない。
 彼は<裏切られた革命>で、ボルシェヴィキ(つまりはトロツキーとその支持者たち)とともに始まった「ソヴィエト式政党」への自由を再獲得する必要について書いている。
 しかし、いずれの他の諸政党が「ソヴィエト式」という性質をもつのかは明瞭ではない。
 プロレタリアートの純粋な前衛のみが権力を行使することができるとされるので、その前衛党はいずれの政党が「ソヴィエト式」で、いずれが反革命であるのかを決定する権利もまた有しなければならない。
 トロツキーの目からすると、結論はつぎのようなものだろう。すなわち、社会主義的自由とはトロツキー主義者のための自由のみを意味しており、他の誰のためのものでもなかった。//
 (10)同様の論述を、文化的自由についても行うことができる。
 トロツキーはしばしば、スターリン体制による芸術や科学の抑圧に対する怒りを表明した。
 彼は<裏切られた革命>で、自分が1924年に芸術や文芸分野でのプロレタリアート独裁の規準を定式化したことを想起させた。唯一の標識はその作品が革命を支持するのか革命に反対なのかであり、それ以上については完全な自由が存在しなければならない、というものだ。
 トロツキーは1932年に、「プロレタリアートの革命的任務に反対する方向に向けられたもののみを容赦なく排除して、芸術と哲学の自由が存在しなければならない、と書いた(<著作集-1932-1933年>p.279.)。
 しかしこれは、スターリンのもとで覆ったのと同じ考え方だった。すなわち、党当局が何が「プロレタリアートの革命的任務に反対する方向に向けられ」ているかを決定して、そのゆえに「容赦なく排除し」なければならない。
 このように理解される自由は、ソヴィエト国家では一度も侵害されなかった。
 このような一般的定式によればもちろん、文化の抑圧と統制の程度と範囲は多かれ少なかれ、多様な政治的情勢に従って決せられることになる。そして、1920年代には、抑圧や統制は1930年代よりも確実に少なかった。
 しかしながら、支配者が全ての場合について文化が発信しているものが支配者の政治的必要に合致しているか否かを決定する、ということが根本的な考え方であるがゆえに、抑圧や隷従化の程度は、プロレタリアート独裁に対抗するものとして容易に判断することができない。
 全ての問題は、再びもう一度、同じ様相に帰一することになる。
 つまり、かりにトロツキーに権限があったとすれば、自分の権威にとって危険だと考える自由を、もちろん許容しなかっただろう。
 スターリンも同様に行動した。いずれの場合も、自己の利益の問題なのだった。
 全ての違いは、つぎのことに帰着する。トロツキーは自分が「プロレタリアートの歴史的利益を代表」していると信じた。一方でスターリンは、彼、スターリンがそうしていると信じた。//
 ----
 ②へとつづく。

1967/L・コワコフスキ著第三巻第五章第二節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の以下は、第三巻分冊版のp.190-p.194。合冊本ではp.939-942。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
 ----
 第5章・トロツキー。
 第2節・スターリン体制、官僚制、「テルミドール」に関するトロツキーの分析。
 (1)トロツキーの全ての分析が基礎にしていた確信は、彼とレーニンの政策方針は間違いなく正しい(right)、永続革命理論は事実によって豊富に裏付けられている、「一国での社会主義」は致命的に誤っている、というものだった。
 彼は「ロシア革命に関する三つのコンセプト」と題する論文(1939年)で、つぎのように主張した。
 人民主義者(Populists)は、ロシアは資本主義段階を完全に迂回できると考えた。一方、メンシェヴィキは、ロシア革命はブルジョア的性格のものでのみありうる、そしてプロレタリアート独裁という段階を語ることはできない、と考えた。
 そしてレーニンは、プロレタリアートと農民の民主主義的プロレタリアート独裁というスローガンを提唱した。この旗のもとで実施される革命は西側での社会主義革命を促進し、急速なロシアでの社会主義ヘの移行を可能にするだろう、と。
 トロツキー自身の見方は、民主主義革命という基本方針はプロレタリアート独裁の形態でのみ達成可能だが、プロレタリアート独裁は革命が西側ヨーロッパに伝搬してのみ維持することができる、というものだった。
 レーニンは1917年に同じ方針に立ち、その結果としてロシアでのプロレタリア革命は成功した。
トロツキーがその<ロシア革命の歴史>で長々と示したのは、ボルシェヴィキの誰も、ロシアのプロレタリアートは西側のプロレタリアートに支持されて初めて勝利することができる、ということを疑っていなかったこと、そして、「一国での社会主義」というきわめて有害な考え方は1924年の末にスターリンが考案するまでは誰の頭の中にも入っていなかった、ということだった。//
 (2)1917年以降はレーニンのものでもあった、トロツキーの疑いなく正しい(correct)政策方針が「寄生的官僚制」による統治を帰結させ、また、トロツキー自身が権力から排除されて裏切り者との烙印を捺されたのは、一体いかにして生じたのか?
 これに対する答えは、ソヴィエト権力の頽廃と「テメミドール主義」に関する分析のうちに見出されることになる。//
 (3)追放されていた最初の数年間、トロツキーがとっていた見方は、スターリンとその仲間たちはロシアの政治的範疇の中の「中央」(centre)を占め、革命に対する主要な危険は-ブハーリンとその支持者たちに代表される-「右翼」および「テルミドール反動」、つまり資本主義の復活、の脅威のある反革命分子から生じる、というものだった。
 トロツキーは、これに従って、スターリンに反革命に対する支援を提示した。
 彼は、スターリンは右翼にあまりに譲歩しすぎていて、その結果、「工業党」やメンシェヴィキの連続裁判に見られるように、罷業者や人民の敵が国家の計画部局の高い地位を占めて工業化を意識的に遅らせている、と考えた。
 (トロツキーは、被告人たちの有罪を暗黙にながら信じていた。そして、この裁判がでっち上げだとの思いは、一瞬なりとも持たなかった。
 彼は数年のちに、自分や仲間たちの悪事が大きな見せ物裁判で強力な証拠でもって同じように立証されていってようやく、驚嘆し始めた。)
 トロツキーは1930年代初めに、スターリン体制は「ボナパルティズム」だとした。
 しかし1935年に、フランス革命では初めにテルミドールが来て、ナポレオンはその後だった、順序はロシアでも同じであるに違いない、そしてすでにボナパルトは登場しているので、テルミドールはやって来てかつ過ぎたに違いない、と観察した。
 彼は「労働者国家、テルミドールおよびボナパルティズム」と題する論文で、その理論をいくぶん修正した。
 テルミドール反動はロシアで1924年(すなわち彼自身が権力から最終的に排除された年)に発生した、と述べた。
 しかしそれは、資本主義者の反革命ではなく、プロレタリアートの前衛を破壊し始めていた官僚機構による権力奪取だった。
 生産手段を国家がまだ所有しているので、プロレタリアート独裁は維持されている。しかし、政治権力は官僚層の手中へと移った。
 しかしながら、ボナパルティズム体制はすみやかに崩壊するに違いない。歴史の法則に反しているのだから。
 ブルジョア反革命はあり得るが、本当のボルシェヴィキ党員たちが適切に組織されるならば、避けることができるだろう。
さらにトロツキーは、こう付け加えた。ソヴィエト国家の労働者階級性に関する自分の見方を決して変更しないが、より精細に歴史的類推による説明を施しただけだ、と。
 フランスでも、テルミドールは<アンシャン・レジーム>への元戻りではなかった。
 ソヴィエト官僚制は社会階級(class)ではない。しかし、プロレタリアートからその政治的権利を剥奪し、残虐な専制制度を導入している階層(caste)だ。
 しかしながら、現在のかたちでのその存在は十月革命の至高の成果である国有財産制に依存しており、その成果を官僚制は守るように強いられるし、それなりの方法で守ってきた。
 ゆえに、スターリン主義の頽廃と闘いつつ、世界革命の根拠地として無条件にソヴィエト同盟を防衛することは、世界のプロレタリアートの義務だ。
 (トロツキーは、この二つの意図が実践的にいかにして結合されるのかについて、詳細には説明しなかった。)
 1936年までには、彼はつぎの結論に到達した。スターリニズムを改革や内部的圧力で打倒することはできない。簒奪者を実力(force)によって排除する革命が起こらなければならない。
 この革命は所有制度を変更するものではなく、ゆえに社会的革命ではなく、政治的革命だ。
 これはプロレタリアートの先進的前衛によって実施され、スターリンが破壊した真の(true)ボルシェヴィズムの伝統を具現化することになるだろう。//
 (4)「一国での社会主義」理論は、ロシアおよび外国での官僚主義的過ちの全てについて、責任がある。
 それは世界革命の希望を、ゆえに世界のプロレタリアートでのロシアの主要な支援という希望を、放棄することを意味する。
 一国での社会主義は不可能だ。換言すれば、開始することはできても完了させることができない。それ自体の内部に閉じられた一国では、社会主義は腐敗せざるを得ない。
 1924年末までは世界革命を発生させるという適切な政策目標を追求したコミンテルンは、スターリンによって、ソヴィエトの政策と陰謀の道具へと変質させられた。そして、世界の共産主義運動は、頽廃と不能の状態に落ち込むことになった。//
 (5)トロツキーは、つぎのことを説明しようと多数の試みをした。プロレタリアートの政治権力が破壊され、官僚機構が支配権を獲得し、(のちに再三にわたり述べたように)統治の全体主義的システムを導入した、と。
 多数の書物や論文でのこの試みは、首尾一貫した議論を形づくるものではなかった。
 彼はしばしば、頽廃の主要な原因は世界革命の勃発が遅れていることにある、と主張した。西側のプロレタリアートはその歴史的な任務を適時に引き受けることをしなかった、と。
 彼は他方で同様にしばしば、ヨーロッパでの革命の敗北はソヴィエト官僚制の過ちだ、と主張した。
 かくして、いずれの現象が原因であり結果であるのかについて、疑問が残った。-のちには彼が指摘したごとく、相互に悪化させ合っていたのだけれども。
 我々は<裏切られた革命>で、官僚主義が成長した社会的基盤はネップ時代のクラク〔富農〕を厚遇した誤った政策だ、と語られる。
 かりにそうであるなら、富農の廃絶と第一次五カ年計画のもとでの工業化の強行によって、官僚機構はかりに破滅しなくとも少なくとも弱体化したことになるだろう。
 実際に正確には、それとは反対のことが起きた。そしてトロツキーは、なぜそうだったかをどこでも説明していない。
 彼はのちに同じ書物で、官僚機構は元々は労働者階級のための機関だったが、のちに物品の配分に関与するようになったときに、「大衆の上」のものになって特権を要求し始めた、と語る。
 しかしこれは、特権のシステムの発生は避けられ得たのか否か、どのようにすれば、を説明していないし、なぜ本当は権限のある労働者階級がそのような事態が起きるのを許したのか、も説明していない。
 トロツキーは同じ書物でさらに、官僚制的統治の主要な原因は、歴史的使命を履行すべき世界のプロレタリアートの緩慢さだ、と語る。
 初期の小冊子<ソヴィエト連邦発展の諸問題>(1931年)では、彼は別の理由を挙げる。すなわち、内戦後のロシアのプロレタリアートの疲弊、革命の時代に育まれた幻想の解体、ドイツ、ブルガリアおよびエストニアでの革命的蜂起の挫折、および中国とイギリスのプロレタリアートの官僚主義的裏切り。
 彼は翌年の論文で、戦争に疲弊した労働者たちが秩序と再建のために権力を官僚機構の手に委ねた、と述べた。
 しかし、なぜそのことが自分が指導する「真のボルシェヴィキ・レーニン主義者」によって実行され得なかったのか、を説明しなかった。 //
 (6)多くの種々の説明から、一つの明瞭な論拠が明らかになる。つまり、トロツキー自身は官僚制的システムの形成に些かなりとも関係しなかった、そして、官僚機構は革命後の初期6年の間の独裁とは何の関係もなかった、ということだ。
 しかし、現実は、これらの反対だった。
 初期6年の間に党組織が絶対的な権力を行使したという事実は、スターリンとその徒党の体制とは関係がない、と主張しているとトロツキーの議論は読める。なぜなら、この時代の党は「プロレタリアートの先進的前衛」であり、一方でスターリンの後続の体制は何物も何者も、いっさい代表しなかったからだ。
 そうであるならば、我々はつぎのように尋ねることができる。
 なぜプロレタリアートは、いかなる社会的背景も欠く簒奪者の徒党たちを一掃することができなかったのか?。
 トロツキーはこれに対する答えも用意している。すなわち、プロレタリアートは、現在の状況では自分たちの革命は資本主義の復活を招くだろうと怖れたので、スターリンの統治に反抗しなかった(しかし、継続的な反抗があった、と我々はいたるところで読める)。//
 (7)トロツキーの議論からは、このような惨憺たる結果が生まれるのを避ける方法は全くなかったのか否か、が明確ではない。
 全体として言えば、なかった、ように思われる。なぜなら、あったならば、トロツキーとその仲間たちは絶えず正しい政策方針と本当のプロレタリアートの利益を「表明」しようとしていたのであって、官僚層による権力奪取を確実に阻止できたはずだろう。
 トロツキーたちが阻止しなかったとすれば、その理由は、そうできなかったからだ。
 かりに官僚機構が可視的な社会的基盤なくして存続しつづけたとすれば、そのことはきっと、歴史の法則によるところに違いない。//
 ----
 つぎの第3節の表題は、<ボルシェヴィズムとスターリニズム。ソヴィエト民主主義という観念>。

1965/L・コワコフスキ著第三巻第五章トロツキー/第一節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第五章へ。
 第三巻分冊版p.183以下。合冊本ではp.934以下。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。
 この著の邦訳書はない。ドイツでは1977-79年に、独訳書が刊行された(のちにpaperback 版となった)。
 ----
 第5章・トロツキー。
 第1節・逃亡時代。
 (1)1929年1月、左翼反対派が抑圧的手段でもってソヴィエト同盟からほとんど完全に一掃されたあと、一年間カザフスタンに追放されていたその指導者のレオン(レフ)・トロツキーは、トルコへと移された。彼はトルコで、Marmara 海のプリンキポ(Prinkipo)島に住まいを構えた。
 他諸国は長い間、世界で最も危険な革命家だとの評判をもつ人物を自分の領国内に受け入れようとしなかった。トロツキーがトルコで生活した4年の間に、彼は一度だけ、コペンハーゲンで講演をするためにこの国を離れた。//
 (2)トルコにいた間、彼は長大な<ロシア革命の歴史>を書いた。これは革命の過程の原因と進展を分析するもので、歴史は自分の予見の正しさ、とくに「永続的革命」論の正しさ(rightness)を確認した、と証明しようとした。この考え方はすなわち、民主主義革命は継続的にプロレタリアート独裁へと発展せざるをえない、そうしてのみ革命は成功するものになる、というものだ。
 彼はこのときまた、自叙伝や膨大な数の論文と、ロシアと世界全体の両方でのスターリンに対する左翼反対派の支持と発展を求める訴えや書簡を書いた。
 追放されて数カ月のうちに、彼はロシアで雑誌<Opposition Bulletin>を創刊した。この雑誌は、彼の人生の終焉時まで発行され続けた。息子のLeon Sedev が最初はドイツで、ナツィの権力奪取後はパリで出版した。
 トロツキーのロシア語での書物についてと同じく、これの主要な目的はソヴィエト同盟での反対運動が組織されるのを促進することだった。
 しかしながら、やがて、警察の監視によってこの雑誌をロシアに密かに持ち込むことがほとんど不可能になった。そして、ロシアにいる左翼の残余とのトロツキーの接触は全く絶たれたのと同然になった。//
 (3)トロツキーは同時に、自分の尽きない活力の大部分を、強い支持者を他諸国で獲得することに費やした。
 反対派の小集団があちこちにあった。それらを通じて彼はいずれはコミンテルンを再生させ、共産主義運動のうちに本当のボルシェヴィズムとレーニン主義の精神を復活させることを望んだ。
 これらの集団は1930年以降に活動し、インターナショナル・左翼反対派という集合的名称のもとで、コミンテルンの一派だと自称していた。-しかしこれは、イデオロギー上の虚構だった。トロツキーは最終的にコミンテルンから除名されていて、ロシアに残っている者たちのほとんどは収容所か監獄の中にいたのだから。
 1932年11月にいくつかの国から来たトロツキー主義者の会合がコペンハーゲンで開かれ、その間は指導者たちはそこに滞在した。数カ月のちに、パリで同様の集会が開かれた。
 トロツキーは数年間は、第四インターナショナルの設立に強く反対した。スターリン体制には社会的基盤がないのでいずれ崩壊するに違いない、その唯一のあり得る継承者は、その真の目的に向かうコミンテルンを復活させる「ボルシェヴィキ・レーニン主義者」だろう、と主張していたのだ。
 しかしながら、ヒトラーの権力掌握後の1933年、トロツキーは、新しい国際組織が必要だと決意し、新しい旗のもとに仲間たちを組織し始めた。
 第四インターナショナルは、公式にはパリの大会で、1938年9月に設立された。//
 (4)1932年末、トロツキーは、インターナショナル・左翼反対派の戦略と基本的考え方をつぎの11点に定式化した。
  1) プロレタリア政党の独立性の承認。したがって、1920年代の中国(国民党への共産党員の加入)やベルリン(アングロ・ロシア労働組合委員会)に関するコミンテルンの政策に対する非難。
  2) 革命の国際性、ゆえに永続性。
  3) ソヴィエト同盟はその「官僚主義的頽廃」にもかかわらずなおも労働者国家であること。
  4) 1923-28年の「日和見主義」段階、1928-32年の「冒険主義」段階、これら双方でのスターリンの諸政策に対する非難。
  5) 共産党員は、大衆組織で、とくに労働組合で活動しなければならないこと。
  6) 「プロレタリアートと農民の民主主義的独裁」およびそのプロレタリアート独裁への平和的移行の可能性という定式の拒絶。
  7) 封建的制度、民族的抑圧およびファシズムに反対する闘争に必要な場合での、プロレタリアート独裁を目指す闘いの間の一時的スローガンの必要性。
  8) 「日和見主義」形態によらない、社会民主主義者を含む大衆組織との統一戦線。
  9) スターリンの「社会ファシズム」論の拒否。
 10) 共産主義運動内部でのマルクス主義、中央派、右翼の区別。中央派(スターリン主義者)に対抗する右翼との同盟は排除され、中央派は階級敵との闘争では支持されるべきこと。
 11) 党内部に民主主義が存在すべきこと。
 (5)トロツキーはこれらの諸原則を最後まで維持したが、これらの完全な意味は、ソヴィエト国家の性格、党内民主主義および政治的同盟という考えに関する彼のより詳細な分析で初めて明確になる。//
 (6)追放中の最初の年月の間、トロツキーは、つぎのような思い違いをしていた。すなわち、反対派はロシアで巨大な勢力だ、スターリン主義官僚機構はその力をますます失っている、共産党は一方でボルシェヴィキ、他方で「テルミドリアン」、つまり資本主義への復古の擁護者、へと急速に両極化している、と。
 ソヴィエト体制を存続させたいならば、この二つの勢力が衝突するときに、官僚機構はもう一度、左翼からの助けを求めるに違いない。
 トロツキーはこう考えて、ソヴィエトの指導者たちへの手紙や宣言文で、反対派は復古や外国の干渉に反対する闘争に参加する用意がある、と表明した。
 彼は対抗者たちに復讐するつもりはないと約束し、「名誉ある協定」を提案し、致命的な危機にあるときは階級敵に対抗して自分たちは助けるとスターリン主義者たちに提案した。
 トロツキーが明らかに想定していたのは、いずれ危機のときにスターリンは自分に助けを乞うだろう、そして条件を明示するだろう、ということだった。
 しかしこれは、幻想(fantasy)だった。
 スターリンとその仲間たちは、トロツキー主義者たちと折り合うつまりは全くなく、いかなる情勢下でも彼らに助けを求めようとはしていなかった。
 ロシアの左翼反対派は、トロツキーが歴史発展の法則でそうなるに違いないと考えたようには力を得ておらず、逆に、仮借なく根絶された。
 スターリンが工業化と集団化の強行という「新路線」を宣告したとき、反対派の中の多数派はその方針に従い、スターリンは自分たちの政策を採用したと理解した。
 これは、例えば、ラデクやプレオブラジェンスキー(Preobrazhensky)についても当てはまった。
 トロツキー後の最も著名な左翼だったラコフスキー(Rakovsky)は、他の者たちよりは長く抵抗した。しかし、迫害された数年間ののちに、彼もまた屈服した。
 彼らのうち誰も、何らかの重要性をもつ地位に就くことはなかった。そして、誰も、大粛清(the Great Purge)による殺戮を免れれることがなかった。
 トロツキーは、反対派は社会的基盤を欠く支配的官僚機構に対抗する真正なプロレタリアートの勢力の立場にあると信じつづけた。
 ゆえに反対派は最終的には勝利するのであって、一時的な敗北や迫害ではこれを破壊させることはできないだろう。
 彼は、弾圧は歴史が非難する階級に対しては有効であっても、「歴史的に進歩的な」階級に対しては決してそうでない、と書いた。 現実には、トロツキーが追放中の数年間で、左翼反対派は完全に消失した。弾圧、殺戮、意気喪失、および屈服の結果として。
 しかしながら、反対派に潜在的な強さをもつトロツキーの希望や信念を生かしておく以上のことをスターリンはほんど何もできなかった、というのは本当だ。
 「トロツキー主義」に対する連続した反対運動、見せ物裁判および司法による殺人によって、外部の観察者たちは実際につぎのように納得した。「トロツキー主義」はなおも力強いソヴィエト国家の敵だ、と。
 スターリンは現実にトロツキーに対する脅迫観念的な憎悪感をもち、彼の名前を、普遍的な悪の象徴として、またスターリンが多様な表現をもつ反対論者あるいはどんな理由を使ってでも破壊させたい誰かに烙印を捺す汚名として、利用した。
 こうして、スターリンはその継続的な反対運動の目的に照応させるべく、二連の-「トロツキスト=右翼ブロック」、「トロツキスト=ファシスト」、「トロツキスト=帝国主義者」、「トロツキスト=シオニスト」のような-表現方法を作り出した。
  「トロツキスト」という接頭辞は、「ユダヤ=共産主義者の陰謀」、「ユダヤ=金権政治的反動」、「ユダヤ=リベラルの腐敗」等々を語る反ユダヤ主義者の口に出てくる「ユダヤ」がもつのと同じ目的に役立った。
1930年代の最初から、「トロツキズム」はスターリンの宣伝活動で特有の意味を持っておらず、スターリン主義がもつ抽象的な表象にすぎなかった。
 スターリンがヒトラーに対抗している間は、トロツキーはヒトラーの工作員だとして晒し台に置かれ、スターリンとヒトラーが友好的になったときは、トロツキーは、イギリス=フランス帝国主義国の工作員になった。
 モスクワの見せ物裁判では、トロツキーの名は<いやになるほど>思い起こされた。犠牲者たちは一人ずつ、追放中の悪魔がどのように強いて彼らを陰謀、罷業、殺害に向かわさせたかを語ったのだったから。
 こうしたスターリンによる迫害についての偏執症的神話によって、トロツキー自身は何度も再確信した。トロツキーはあまりに頻繁に弾劾されたので、スターリンは本当に、自分が簒奪した王冠を剥奪する用意をしている「ボルシェヴィキ=レーニン主義者」を怖れているのだ、と。
 一度ならずトロツキーは、モスクワ見せ物裁判はトロツキー自身をソヴィエト警察に取り戻す望みをもって組織されている、という見方を明確に述べた。何人かによると、スターリンは、彼の敵を後腐れがないように殺害せずに追放したことを後悔していた。
 トロツキーもまた、1937年の最後のコミンテルン大会は左翼反対派の脅威に対処するという目的のためにだけ招集された、と考えた。
 つまりは、追放された指導者は、スターリンが割り当てた役割を演じた。だが、闘いの多くは、トロツキー自身の想像の中で起きていた。
 インターナショナル・左翼反対派は、その後の第四インターナショナルのように、政治的な意味合いは皆無のものだった。
 むろんトロツキー自身は有名な人物だったが、歴史の大きな法則によればいずれは世界の基礎を揺り動かすはずのその運動は、どこにあるスターリン主義諸政党に対しても事実上は何の影響力をもたない、瑣末な党派(sect)であることが判明するに至った。//
 (7)スターリニズムに幻滅した、またはコミンテルンでトロツキーと連携した数少ない共産主義者たちは、中国の党の前のトップの陳独秀(Chen Tu-hsiu)を含めて、トロツキーの側から去った。
 多様な諸国の知識人たちは、ソヴィエトの指導者たちはもはや代表していない、本当の革命精神の具現者だとしてトロツキーを支持した。
 しかし、遅かれ早かれ、彼の支持者は消失していった。とくに、知識人たちが。
 トロツキー自身に、この事実に対する大半の責任はある。絶対的な服従を要求し、どんな主題であっても彼の見解からの逸脱を許さなかったのだから。
 個人的な問題、彼の独裁者ぶり、自分の万能さについての驚くべき信念を別に措けば、
主要な不一致は、ソヴィエト同盟との関係についてにあった。
 ソヴィエト連邦はまだプロレタリアート独裁の国家だ、その官僚機構は階級ではなく社会主義という健全な身体上の異常な発達物にすぎない、とのトロツキーの主張は、彼の見方はますます明瞭な現実感覚を失っているように見えたことから、論争と分裂の主要な原因だった。
 しかしながら、この問題についてはトロツキーは終生にわたって頑固で、その結果として全ての重要な知識人はトロツキーへの信頼を捨てた。フランスのSouvarine、アメリカ合衆国のVictor Serge、Eastman、およびのちに、Hook、Schachman、Burnham。
 トロツキーはまた、著名な画家の、メキシコでの寄宿先提供者だったDiego Rivera の支持も失った。
 トロツキスト集団の教理的厳格さは、それらの頻繁な解散の原因になり、間違いなく第一のそれではなくとも、その運動が政治的な勢力に決してならなかったことの理由の一つだった。
 努力が完全に実を結ばないことが指摘されたときにいつでも、トロツキーは同じ答えを用意していた。1914年のレーニンは完全に孤立していた、3年後にレーニンは革命を勝利に導いた、という答えを。
 トロツキーもまた歴史発展の深遠な趨勢を代表しているので、彼もレーニンが行ったことをできるはずなのだった。
 この信念によって、彼の全ての活動と政治的分析は可能になった。そして、これが彼の不屈の希望と活力の源泉だった。//
 (8)ロシアでの左翼の最初の勝利についてトロツキーが基礎にしていた経験上の根拠は、今日の目からすると驚くほどに微少だ。
 一人または二人のソヴィエト外交官が職を辞して、西側にとどまった。
 トロツキーはこのことに、つぎの証拠として、繰り返して言及した。スターリン主義者の党は解体しつつあり、「テルミドリアン的要素」と革命に対する裏切りが目立ってきている、そして防塞の反対側にいる本当のボルシェヴィキが力を得つつあることをこれらは意味しているのだ。
 1939年の第二次大戦の勃発の際、彼は新聞で、ベルリンにいる誰かが「ヒトラーとスターリンよ、くたばれ!、トロツキーに栄光あれ!」と壁に描いていることを読んだ。
 トロツキーはこれに勇気づけられ、スターリンが支配するモスクワが暗闇になるとすれば、このような警告で壁は塗りつぶされるだろう、と書いた。
 のちに彼は、フランスの外交官がヒトラーに、かりにフランスとドイツが戦争を始めればトロツキーが唯一の勝利者になるだろうと語った、という記事を読んだ。
 これもまた彼は、ブルジョアジーすらも自分の正しさを理解している証拠だとして、いくつかの論文で勝ち誇って引用した。
 彼は揺るぎなく、本当のボルシェヴィキ、つまりトロツキストたち、が勝利する世界革命でもって戦争は終わるだろうと、確信していた。
 第四インターナショナルの設立に関する彼の論文は、「来たる10年以内に第四インターの綱領は数百万人の指針となり、その革命的な数百万人は地上と天国を急襲する方法を知るだろう」という予言で終わっていた(<レオン・トロツキー著作集、1938-1939年>N. Allen=G. Breitman 編, 1974, p.87.)。//
 (9)長い努力のあと1933年夏、トロツキーはついに、警察による多くの制限を条件として、フランスに居住する許可を得た。
 彼は2年間異なる住所に住んでいて、その状況は日増しに危険なものになっていった。全てのスターリン主義政党が声高に彼に敵対し、ソヴィエト警察のテロ活動が増えていた。
 1935年6月、トロツキーはノルウェイに亡命することが認められ、ここでおそらくは最もよく知られた書物を執筆した。
 ソヴィエト体制の一般的分析書である<裏切られた革命>だ。これは、ソヴィエト体制の頽廃と見通しを記述し、革命によるスターリン官僚制の打倒を訴えるものだった。
 1936年末、ノルウェイ政府は、メキシコに送ることで、扱いにくい賓客を自国から排除した。トロツキーは、人生の残りをそこで過ごす。
 この時期の彼の活力の多くは、モスクワ裁判という虚偽の仮面を剥ぐことに費やされた。モスクワ裁判で彼は、あらゆる陰謀、罷業および被訴追者たちが起こしたテロ行為の背後にいる首謀者だと非難されていたのだった。
 トロツキーの友人たちの尽力によって、アメリカの哲学者で教育者のジョン・デューイ(J. Dewey)を長とする国際調査委員会が設置された。
 この機関はメキシコを訪問してトロツキー自身から聴取を行い、最終的にはモスクワ裁判は完全なでっち上げだったと結論づけた。//
 (10)トロツキーはメキシコで、さらに3年半の間生活した。
 この地域のスターリン主義者は追及運動を組織し、1940年5月にソヴィエト工作員とともに彼の住居を武装襲撃した。
 トロツキーとその妻は奇跡的に逃れて生きたままだったが、長くはつづかなかった。すなわち、8月20日、訪問者を装ったソヴィエト警察の工作員の一人が、彼を殺した。
 ヨーロッパで父親の代理をしていた彼の息子のレオンは、1938年にパリで、おそらくはソヴィエト工作員によって毒をもられて、死んだ。
 ロシアを離れず政治にかかわらなかったもう一人の息子のセルゲイ(Sergey)は、スターリンの牢獄に消えた。
 トロツキーの娘のZina (ジーナ、ジナイダ)は、1933年にドイツで、自殺した。//
 (11)トロツキーは11年の逃亡中に、膨大な数の論文、小冊子、書物、宣言文を出版した。
 彼はあらゆる時期に、世界のプロレタリアート全体に、あるいはドイツ、オランダ、イギリス、中国、インドそしてアメリカの労働者たちに、指示、助言を与え、訴えを発した。
 もとよりこれら全ての文書はひと握りの崇拝者たちにしか読まれず、事態に対しては微少の影響すら与えなかったので、トロツキーの活動は玩具の兵士との遊戯だとして否認される傾向にある。
 しかし、暗殺者のアイス・ピックは玩具ではなく、スターリンは世界じゅうのトロツキズムを抹殺するために多大の精力を用いた、という事実は残っている。-この目的をスターリンは、大部分は達成した。//
 ----
 第2節の表題は、<スターリン体制、官僚制、「テルミドール」に関するトロツキーの分析>。 

1954/R・パイプス著・ロシア革命第11章第11節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。原書のp.492-p.496.
 ----
 第11節・ボルシェヴィキが臨時政府打倒を宣言②。
 (11)ボルシェヴィキの一連の布令類の中でも最上位の位置を占めるこの文章は、ロシアを支配する至高の権力を、ボルシェヴィキ中央委員会以外の誰もその資格を認めなかった組織が掌握した、と宣言した。
 ペトログラード・ソヴェトは、政府を転覆させるためではなく首都を防衛するために、軍事革命委員会を設立した。
 クーを正当化するものとされていた第二回全国ソヴェト大会は、ボルシェヴィキがすでにその名前で行動したとき、開会すらされていなかった。
 しかしながら、こうした手続的推移は、誰の名前でもって権力が奪取されるかには意味がない、とするレーニンの主張と合致していた。
 彼は前の晩に、こう書いていた。「そのことはただちには重要ではない。軍事革命委員会が奪っても、『別の何かの装置』がそうするのであっても。」
 クーが正当化されていないままで静かに実行されたために、ペトログラードの民衆はこの宣言的主張を真剣に受け取るべき理由がなかった。
 目撃証人たちによれば、10月25日にペトログラードには日常生活が戻って、事務所や店舗は再営業を始め、工場労働者たちは仕事へと向かった。そして、娯楽施設は再び群衆で溢れた。
 ひと握りの主だった人物たち以外は誰も、何が起きたかを知らなかった。首都は武装したボルシェヴィキの鉄の拳で握られており、もはや全く同じ事態ではないだろうことも。
 レーニンは、のちにこう語った。世界革命は「羽毛を拾い上げる」ように簡単だった、と。(194)
 (12)その間、ケレンスキーはプスコフ(Pskov)に向かって急いでいた。そこには北部戦線の司令部があった。
 歴史の精巧な捻りだろう、ボルシェヴィキに対してただ一つ動員可能な兵団は、二ヶ月前にはケレンスキーがコルニロフの「大逆」に参加した責任を追及した、同じ第三騎兵軍団のコサック部隊だった。
 彼らはコルニロフを抹殺して自分たちの司令官のクリモフを自殺に追い込んだ人物として、ケレンスキーを侮蔑していた。その結果として、彼らはケレンスキーの求めに応えるのを拒否した。
 ケレンスキーは最終的には、ルガ(Luga)を経由して首都に前進するように彼らのうちのある程度を説得した。
 アタマン(Ataman)の司令官のP. N. Krasnov の指揮のもとで、彼らはボルシェヴィキが送り込んでいた兵団を撒き散らし、ガチナ(Gatchina)を占拠した。
 その日の夕方、ツァールスコエ・セロ(Tsarskoe Selo)に着いた。そこは、首都まで二時間の進軍の位置にあった。
 しかし彼らは、他のどの軍団も加わらないことに失望し、それ以上進むのを拒否した。//
 (13)ペトログラードの状況は、実質的に、喜劇のごとく見えた。
 ボルシェヴィキが大臣たちは解任されたと宣言した後で、彼ら大臣は冬宮のネヴァ河側にあるMarachite〔孔雀石〕室にとどまっていた。ケレンスキーが救援軍を率いて到着するのを待っていたのだ。
 そのために、スモルニュイに集まっていた第二回ソヴェト大会は、一時間、一時間と延期しなければならなかった。
 午後2時、クロンシュタットから5000人の海兵たちが到着した。しかし、この「革命の誇りと美」である海兵たちは、武装していない民間人を手荒く処理するのには慣れていたが、戦闘する意欲はなかった。
 彼らは冬宮を攻撃して反撃の砲弾を受けたとき、襲撃をやめた。
 (14)レーニンは、内閣(推測するにその逃亡が気づかれていないケレンスキーを含む)がボルシェヴィキの手に入るまでは、公衆の前に姿を見せようとはしなかった。
 彼は包帯をし、鬘を被り、眼鏡を着けて、10月25日のほとんどを過ごした。
 ダンとスコベレフが近くを通ってレーニンの変装を見破ったあとで、隠れた行動に終止符を打ち、床で仮眠をとった。トロツキーが行き来して、最新の報せを伝えた。//
 (15)トロツキーは、冬宮がまだ耐えている間はソヴェト大会を開会するつもりはなかったが、しかし代議員たちが去ってしまうのを怖れて、午後2時35分、ペトログラード・ソヴェトの臨時会議を招集した。
 誰々がこの会議での検討に参加していたかを、確定することはできない。エスエルとメンシェヴィキはその日の前にすでにスモルニュイからいなくなっており、建物の中には数百名のボルシェヴィキと諸地方から来ていた親ボルシェヴィキの代議員たちしかいなかったので、事実上は完全にボルシェヴィキと左翼エスエルのものだった、と安全に言うことができる。//
 (16)会議(これにレーニンはまだ出席しなかった)を開いてトロツキーは、つぎのように表明した。「軍事革命委員会の名のもとに、臨時政府は存在しなくなったと宣言する」。
 トロツキーの表明文の一つに反応してある代議員が、「きみたちは全ロシア・ソヴェト大会の意思を宣告するのが早すぎる」とフロアから叫んだとき、トロツキーはつぎのように言い返した。//
 「全ロシア・ソヴェト大会の意思は、昨晩に起きたペトログラードの労働者および兵士たちの蜂起という偉大な功績によって予め決定されている(predetermined, pre-dreshena)。
 いま我々がしなければならないのは、この勝利を拡大することだけだ。」//
 労働者および兵士たちの「蜂起」とは、何のことか? そう十分に疑問視し得ただろう。
 しかし、この言葉の意図は、ボルシェヴィキ中央委員会がその名前で「予め決定していた」決定を受容すること以外の選択はあり得ない、と大会代議員たちに知らせることだった。//
 (17)レーニンが短いあいだ、姿を現した。そして、代議員たちを歓迎し、「世界的社会主義革命」を熱烈に呼びかけた。(197)
 そのあと彼は、再び舞台から消えた。
 トロツキーは、レーニンがこう語ったと想起している。「地下生活とPereverzev 体験(<pereverzevshchina>)からの権力への移行は突然すぎた」。
 そして、トロツキーはぐるぐると歩き回って、ドイツ語でこう付け加えた。「<目が眩む(Es schwindelt)>」(「It's dizzying」)。(198)//
 (18)午後6時30分、軍事革命委員会は臨時政府に対して、降伏するかそれとも巡洋艦<オーロラ>とペーター・パウル要塞からの砲撃に遭うか、という最後通告を発した。
 閣僚たちは今にも救援が来るのではないかと期待して、回答しなかった。この頃、ケレンスキーが忠実な兵団を率いて首都に接近しているとの風聞があったのだ。(199)
 彼らは、物憂げに雑談し、電話で友人と会話し、長椅子の上で休み、身体を伸ばした。//
 (19)午後9時、巡洋艦<オーロラ>が砲撃を始めた。弾薬を込めていなかったので、一度だけの一斉空砲射撃であり、再び静寂になった。-十月に関する伝説のうちに著名な位置を占めるには、これでも十分だった。
 2時間後、ペーター・パウル要塞が爆撃を始めた。これは実弾だったが、その照準が不正確で、30から35発の丸弾のうち二発しか冬宮に当たらず、微少な損害を与えたにとどまった。(200)
 数カ月にわたる工場や連隊での組織工作のあとで分かったのは、ボルシェヴィキは自分たちの信条のために死ぬのを厭わない実力部隊を持っていない、ということだった。
 僅かしか防衛されていなくとも臨時政府の者たちは対抗心を持ったままだった。そして、臨時政府は解体したと宣言した者たちを嘲弄した。
 実弾爆撃の隙間に、赤衛軍の部隊がいくつかある入り口の一つから冬宮に侵入した。しかしながら、武装した<ユンカー>に対抗されて、ただちに降伏した。//
 (20)夜の帳が深くなるにつれて、王宮の防衛者たちは約束された救援がないことに意気消沈し、撤兵し始めた。
 最初に去ったのは、コサック兵だった。それに、武器を装備した<ユンカー>が続いた。
 女性決死部隊は、とどまった。
 深夜まで防衛に加わっていたのは彼女らと、Marachite〔孔雀石〕室を防備していた一握りの十歳代のカデットたち〔立憲民主党員〕だった。
 冬宮から銃砲がもう発せられなくなったとき、赤衛隊と海兵たちが注意深く接近した。
 最初に突入したのは、エルミタージュ側の開いた窓へとよじ登った海兵たちとPavlovskii 連隊の兵士たちだった。(201)
 他の者たちは、閂がかけられていない門を通って入った。
 冬宮は、急襲によって奪取されたのではない。アイゼンスタインの映画<十月の日々>が描くような突入する労働者、兵士・海兵たちの隊列の映像は全くの作り物で、バスティーユ牢獄の陥落のイメージをロシアに与えようと狙っていた。
 実際には、防衛することをやめた王宮は、暴徒となった群衆に荒らされた。
 被害者は死亡者5名、重傷者数名が全てで、そのほとんどは流れ弾が当たったことによるものだった。
 (21)深夜が過ぎ去り、王宮は豪奢な内装品を強奪したり破壊したりする群衆で溢れた。
 女性防衛者のうち何人かは、レイプされたと言われている。
 司法大臣のP. N. Maliantovich は、臨時政府の最後の瞬間について、つぎのような生々しい描写を残した。
 「突然にどこかから、騒音が上がった。それはすぐに強くかつ大きくなって近づいて来た。
 その騒音の中で-別々だったが一つの波に融合していた-、何か特別な、従前の騒音とは違う何かが、何か最後だと感じさせる音が、鳴り響いた。<…>
 最後がすぐにあるのが、瞬時に分かった。<…>//
 横たわっていたか座っていた者たちは跳び上がって、外套に手を伸ばした。<中略>//
 物音が、ますます強く急速になって、大きな波になって、我々に向かって押し寄せてきた。<…>
 毒ガスによる殺戮に遭うがごとき、耐えられない恐怖が我々を貫き、掴んだ。<…>//
 これは全て、数分の間でのことだった。<…>//
 控え室に向かう扉のところで、一群の鋭く興奮した叫び声を、いくつかの別々の射撃音を、床を踏む足音を聞きつづけた。足音のいくつかは激しく踏み叩き、動き、それらが入り混じっていて、段々と大きくなり、混沌としたまとまりとなって響いた。そして、恐怖が極限に達した。//
 明瞭だった。襲撃されている。我々は襲撃で掴まれていた。<…>
 防衛は役立たなかった。被害者は無意味な生け贄になるだろう。<…>//
 扉がサッと開いた。<…> 一人の<ユンカー>が飛び込んできた。
 警戒心を露わにし、かつ敬礼しつつ、彼の顔は緊張していたが、決然たるものがあった。
 『臨時政府は、何を司令しているのか?
 臨時政府が命令するとおりに、我々は行動する。』//
 『そんなものは必要ない! 無用だ!
 もう明らかだ! 血を流すな! 降参だ!』
 我々は、事前の合意もなく、そうしたかった。お互いに見つめ合って、全員の眼の中にある同じ感情を読み取った。//
 Kishkin が、前に進み出た。『彼らがここにいるということは、王宮はすでに奪取されているという意味だ』。(*)//
 --------
 (*) N. M. Kishkin はカデットの臨時政府一閣僚で、ケレンスキーが冬宮を去った後の責任者に就いていた。
 --------
 『そうだ。入り口は全て奪い取られている。
 全員が降伏した。
 この区画だけが、まだ守られている。
 臨時政府は、何を司令しているのか?』//
 Kishkin が言った。『血を流したくない。力(force)に屈服する。降伏する。』//
 扉の傍らで、恐怖が弛まなく上昇してきた。また、血を流すことになる、そうせずに済むにはもう遅すぎる、という不安がよぎり始めた。<…>
 我々は不安になって叫んだ。『急げ! 行って彼らに告げろ! 血はいやだ!。降伏する!』//
 その<ユンカー>は去った。<…>
 全ての出来事は一瞬のうちに起きた、と私は思う。」(202)
 (22)午前2時10分にアントノフ=オフセエンコによって、閣僚たちは拘束された。
 護衛つきでペーター・パウル要塞へと連れていかれた。
 途中で彼らは、リンチで殺されるのを辛うじて免れた。//
 --------
 (194) レーニン, <PSS>XXXVI, p.15-p.16.
 (195) トロツキー, <歴史>Ⅲ, p.305-6.
 (196) K. G. Kotelnikov, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1928), p.164, p.165.
 (197) 同上, p.165-6.
 (198) トロツキー, <レーニン>, p.77.
 (199) <Rech'>No.252(1917年10月26日), <Revoliutsiia>Ⅴ収載, p.182.
 (200) <Revoliutsiia>Ⅴ, p.189.
 (201) Dzenis, <Living Age>No.4049(1922年2月11日)収載, p.331.
 (202) Maliantovich, <Byloe>No.12(1968年)所収, p.129-p.130.
 ----
 つぎの第12節の目次上の見出しは、「第二回ソヴェト大会が権力移行を裁可し、講和と土地に関する布令を承認する」。

1951/R・パイプス著・ロシア革命第11章第9節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。
 ----
 第9節・軍事革命委員会がクー・デタを開始。
 (1)ミルレヴコム〔以下、軍事革命委員会〕の書記だったボルシェヴィキのアントノフ=オフセエンコはのちに、それは「党の軍事活動のための形式的なカバー(cover)」だったと叙述した。(164)
 軍事革命委員会は、二回だけ会合をもった。ボルシェヴィキ軍事組織が「ソヴェト」の標札(label)を自分に貼るには、その二回で十分だった。(165)
 アントノフ=オフセエンコは、同委員会が直接にボルシェヴィキ中央委員会の指揮のもとで活動したこと、「事実上の党機関」だったことを認める。
 そのようなものであったため、しばらくの間、軍事革命委員会のボルシェヴィキ組織の一部への変質に関する考究がなされた。(166)
 彼が叙述するように、スモルニュイ(Smolnyi)の10号室と17号室にあった委員会の司令部は行き来する若い男たちで一日じゅう混雑していて、かりにその気があったとしても、深刻な仕事をすることができない環境にあった。
 (2)共産党の資料によると、軍事革命委員会には、武装反乱のためにペトログラード守備連隊の全てまたはほとんど全てを動員する信任が与えられている。
 かくしてトロツキーは、十月には「連隊の圧倒的多数が公然と労働者の側に立っていた」と主張する。(167)
 しかしながら、現在の証拠資料が示すのは、守備連隊に対するボルシェヴィキの影響はもっとはるかに控えめだった、いうことだ。
 ペトログラード守備連隊の雰囲気は、革命的と言えるものではなかった。
 圧倒的にも、首都の兵舎にいる16万人と近郊に配置された8万5000人の兵士たちは、近づく衝突に対して「中立」を宣言した。
 十月の前夜にボルシェヴィキを支持する傾向にあった連隊部隊の数字は、ごく少数派だつたことを示している。
 スハノフは、多くて連隊の10分の1が十月のクーに参加した、「もっとはるかに少なかったようだ(likely many fewer)」、と見積もる。(169)
 著者自身の計算では、積極的に親ボルシェヴィキだった連隊兵士は(クロンシュタット海軍基地を除外して)おそらく1万人、または4パーセントくらいだ。
 中央委員会の悲観論者は、兵団を獲得するためにレーニンが想定した即時休戦がかりに支持されたとしても、ボルシェヴィキは連隊の支持を得られない、という理由で、武装反乱に反対した。//
 (3)しかし、楽観論者の方が正しかった(right)。なぜなら、臨時政府を拒否させるためには、さほど多くの連隊の支持を得る必要はなかったからだ。   
 ボルシェヴィキが連隊のわずか4パーセントでも味方につけていたとすると、政府に味方したのは、それよりも少なかっただろう。
 ボルシェヴィキの主要な関心は、、政府が7月にはそうできたように、ボルシェヴィキに反対させるべく連隊兵士たちを駆り出すことを阻止することだった。
 この目的のためには、政府の軍事幕僚からその正統性を奪う必要はなかった。
  ソヴェトとその兵士部門の名前で行動した10月21-22日にこれを達成して、ボルシェヴィキは軍事革命委員会に、守備連隊に対する排他的な権限をもつことを主張させた。//
 (4)軍事革命委員会はまず最初に、ペトログラード市内および近郊の部隊に対して200人の「コミサール」を派遣した。彼らコミサールの大半はボルシェヴィキ軍事組織の若い将校で、七月蜂起に参加し、最近に仮釈放で監獄から出てきていた。(170)
 つぎに委員会は、10月21日、スモルニュイで連隊委員会の会合を開いた。
 トロツキーは兵士たちに向かって、「反革命」の危険を強調し、連隊がソヴェトとその機関である軍事革命委員会に結集するよう訴えた。
 彼はまた、曖昧な言葉遣いであるために容易に受諾されやすい、つぎのような宣言文書を提案した。//
 「ペトログラード兵士労働者代表者ソヴェトの軍事革命委員会の設立を歓迎し、ペトログラード守備連隊は、同委員会に対して、革命の利益のために前線と後方の連絡をもっと親密することに最大限の尽力をし、全面的に支援することを誓約する」。//(171)
 いったい誰が、「革命の利益のために前線と後方の連絡をもっと親密する」ことに反対することができたのか?
 しかし、ボルシェヴィキは、この決定はペトログラード軍事地区の政府軍事幕僚の機能を軍事革命委員会が担うようにすると解釈させることを意図していた。
 ポドヴォイスキー(Posvoiskii)によれば、これは、武装暴乱の開始を記すものだった。(172)
 (5)つづく夜(10月21-22日)、軍事革命委員会からの一人の代理人が〔臨時政府〕軍事幕僚司令部に姿を見せた。
 その代理人、ボルシェヴィキの小佐のダシュケヴィチ(Dashkevich)は、〔臨時政府〕ペトログラード軍事地区司令官のG. P. Polkolnikov 大佐に、守備連隊委員会会合の権限でもって、いま以降、連隊に対する幕僚たちの命令は軍事革命委員会による副署があって初めて有効なものになる、と伝えた。
 もちろん兵士たちは、そのような決定を行っておらず、かりにそうしていたとしても、無効なものだった。その代理人は、実際にはボルシェヴィキ中央委員会に代わって行動していた。
 Polkolnikov は、その代理人を認知していない、と答えた。
彼が逮捕させるぞと脅かしたあとで、実質的にはボルシェヴィキからの派遣者は去って、スモルニュイへと向かった。(173)
 (6)その代理人からの報告を聞いて、軍事革命委員会は連隊の第二回会合を開いた。
 誰が来て出席したのか、誰を代表してだったのかは、確定することができない。
 しかし、それは問題ではない。その頃までには、偶然に集まったどの集団も、「革命」を代表していると主張することができた。
 軍事革命委員会が提案して、連隊委員会会合は詐欺的な声明〔宣言書〕を承認した。それは、10月21日に連隊は軍事革命委員会をその「機関」だと指定したけれども、連隊は承認することもそれ〔軍事革命委員会〕と協力することも拒否する、と主張するものだった。
 代理人が「承認」または「協力」を求めなかったということには何の言及もされなかった。しかし、幕僚命令を取消す権限には言及があった。
 その決定文書は、こう続いた。
 「このようにして、〔臨時政府〕軍事幕僚たちは革命的連隊とペトログラード兵士労働者代表ソヴェトと決裂した。
 首都の組織された連隊と決裂して、〔臨時政府軍事〕幕僚は反革命勢力の直接的武器に変質した。<中略>
 ペトログラードの兵士諸君! 1. 反革命の試みに対する革命的指令が、軍事革命委員会の指揮のもとで、きみたちに与えられる。。
 2. 連隊に関する、軍事革命委員会の副署を欠く〔政府幕僚の〕全ての命令は、無効だ。<略>」(174)//
 (7)この決議は、つぎの三点の目標を達成していた。
 1. ソヴェトの名をもつとされる臨時政府は「反革命的」だ。
 2. 臨時政府から守備連隊に対する権限を奪った。
 3. 軍事革命委員会に、権力を追求する意図を隠す革命の防衛という言い訳を与えた。//
 --------
 (164) V. A. Antonov-Ovseenko, <<略>>(Moscow, 1933), p.276.
 (165) Robert V. Daniels, <赤い十月>(New York, 1967), p.118.
 (166) <Kritika>IV, No.3(1968年春号), p.21-p.32.; N. I. Podvoiskii, <神・1917年>(Moscow, 1958), p.104. を見よ。
 (167) トロツキー, <歴史>III, p.290-1.
 (168) G. L. Sobolev, <IZ>No.88(1971)所収, p.77.
 (169) スハノフ, <Zapiski>VII, p.161.
 (170) O. Dznis, <Living Age>No.4,019(1922年2月11日)所収, p.328.
 (171) <イズヴェスチア>No.204(1917年10月22日), p.3.; <Revoliutsiia>V, p.144-5.
 (172) Podvoiskii, <神・1917年>, p.106-p.108.
 (173) Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.68-p.69.; Antonov-Ovseenko, <<略>>, p.283.; <NZh>No.161/155(1917年10月24日), p.3.
 (174) D. A. Chuganov, ed.,<<略>>I(Moscow, 1966),p.63. この宣言書は、ボルシェヴィキの日刊紙<Rabochii put'> 10月24日に初めて掲載された。
 ----
 以上、第9節。第10節の目次上の見出しは<ケレンスキーが反応する>。

1949/R・パイプス著・ロシア革命第11章第8節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.482-p.486.
 ---- 
 第8節・党中央委員会10月10日の重大決定。
 (1)10月16日までに、ボルシェヴィキには自由になる二つの組織があったが、いずれも名目上はソヴェトに帰属していた。第一は軍事革命委員会で、クーを実施する、第二は来たる第二回ソヴェト大会で、クーの実施を正当化する。
 これらはこのときまでに、事実上は、第一に臨時政府の軍事幕僚に、第二にソヴェトのイスパルコムに取って代わった。
 ミルレヴコム〔軍事革命委員会〕とソヴェト大会は、10月10日にきわめて秘密裡に行われたボルシェヴィキの権力掌握の決定を実施すべきものとされた。//
 (2)10月3日と10日の間のいつかに、レーニンはペトログラードにこっそりと戻ってきた。レーニンはこれを隠れて行ったので、共産主義者の歴史研究者は今日まで彼の帰還のときを確定できていない。
 レーニンは10月24日までVyborg 地区に潜伏した。姿を現したのは、ボルシェヴィキ・クーがすでに開始されたあとのことだった。
 //
 (3)10月10日-イスパルコムとソヴェト総会が防衛委員会の設置を票決した後の一日で、この事態との関係が十分にありそうだが-、ボルシェヴィキ中央委員会のうちの12名の委員が集まって、武装蜂起の問題に関して決定した。
 この会合は深夜に、極端な予防措置に囲まれた中で、スハノフのアパートで行われた。
 レーニンは、きれいに髭を剃り、鬘と眼鏡を着けて変装してやって来た。
 このときに何が行われたかについて明らかになってことに関する我々の知識は完全ではない。二つの議事録が作成されたが、そのうち一つだけが出版され、その一つですら手を加えて修正されたものだからだ。(152)
 最も詳細な資料は、トロツキーの回想録に由来する。(153)//
 (4)レーニンは、10月25日の前に絶対にクーが実施されるのを確実にしようと決断するに至っていた。
 トロツキーが「我々が招集しているソヴェト大会では、我々が多数派を握ることがあらかじめ保障されている」として反対したとき、レーニンは、つぎのように答えた。
 「第二回ソヴェト大会の問題には、<中略>彼はいかなる関心もなかった。
 それがどれだけの重要性をもつのか? 開催されすらするのか? そして、権力を切り取る(tear out, vyrazi')ことは必要か?
 ソヴェト大会に束縛されてはならない。敵に対して蜂起の日程を教えてあらかじめ警告するのは愚かで馬鹿げている。
 10月25日はせいぜいのところ、粉飾(camouflage)として役立つかもしれない。しかし、蜂起は、ソヴェト大会よりも早く、それとは独立して、実行されなければならない。
 党は、武器を手にして、権力を掌握しなければならない。そのときには、我々はソヴェト大会について語るだろう。」(154)
 トロツキーは、こう考えた。レーニンは「敵」に大きすぎる意味を認めているのみならず、カバー(cover)としてのソヴェトの価値を過少評価してもいる。
 党は、レーニンが欲するようには、ソヴェトと無関係に権力を掌握することはできない。なぜならば、労働者と兵士たちはボルシェヴィキ党に関することも含めた全てのことをソヴェトのメディアを通じて学んでいるからだ。
 ソヴェト構造の枠外で権力を奪取することは、ただ混乱の種だけを撒くだろう。//
 (5)レーニンとトロツキーの違いは、クーの時機と正当化の問題に集中していた。
 しかし、中央委員会の何人かの委員は、権力奪取を実行するかどうか自体をすら、疑問視していた。
 ウリツキ(Uritskii)は、ボルシェヴィキは技術的に蜂起を準備していない、使用可能な4万丁の銃砲では不十分だ、と主張した。
 最も厳しい反対意見は、カーメネフおよびジノヴィエフから出て来た。彼らはその立場を、内密の手紙を通じて、ボルシェヴィキの諸組織に対して説明した。(155)
 クーの時機は、まだだ。
 「我々が深く確信するところでは、いま蜂起することは我々の党の運命を賭ける冒険であることのみならず、世界革命はもとよりロシア革命を賭けることをも意味する」。
 党は憲法制定会議の選挙で成功(do well)するのを期待することができる。最小でも議席の三分の一を獲得すれば、そのことでソヴェトの権威を補強し、ソヴェト内での影響力をさらに優ったものにすることができる。
 「憲法制定会議にソヴェトを加えたもの-これこそが、我々が追求すべき、連結した統治制度の類型だ」。
 この二人は、ロシアと世界の労働者の多数派はボルシェヴィキを支持している、とのレーニンの主張を拒絶した。
 彼らの悲観的な評価によれば、武装行動ではなくて防衛的な戦略をとることを〔いわば〕医師は患者に勧める、ということになる。//
 (6)レーニンはこの主張に対して、こう反応した。「憲法制定会議を待つのは非常識(senseless)だ。これは我々の側には立たないだろう。なぜなら、これは我々の任務を複雑なものにするだろうから」。
 この点で、レーニンは、多数派の支持を獲得した。//
 (7)討議が終わりに近づくにつけて、中央委員会は三つの派へと分かれた。
 1. レーニンだけの一人党派で、ソヴェト大会や憲法制定会議に関する考慮することなく、即時の権力掌握に賛成する。
 2. ジノヴィエフとカーメネフで、Nogin、Vladimir Miliutin およびアレクセイ・ルィコフによって支持され、当面はクー・デタに反対する。
 3. その他の数では6名の委員で、クーを支持するが、ソヴェト大会との連携がなされるべき、-この二週間は-ソヴェトの正規の支援のもとにあるべき、とのトロツキーにも賛同しない。
 過半数の10名は、「避けることができず、かつ十分に成熟した」ときに武装蜂起に賛成する票を投じた。(156)
 時機は未決定のままに、残された。
 あとに続いた事態から判断すると、一日または数日だけ第二回ソヴェト大会に先行する、というものだった。
 レーニンは、このような妥協をしなければならなかった。そして、ソヴェト大会はたんにクーを裁可することだけが求められる、という彼の主眼点を獲得した。//
 (8)軍事革命委員会の設立と、そのつぎの第二回ソヴェト大会の元となった北部ソヴェト大会の招集は、以前に記述したことだが、10月10日の中央委員会決定を実施するものだった。
 (9)カーメネフには、この決定は受容することができないものだつた。
 彼は、中央委員会の委員を離任し、その一週間後、<Novaia zhizn'>のインタビューで自分の立場を説明した。
 カーメネフは、こう語った。彼とジノヴィエフは党の諸組織に回覧の手紙を送った。それに二人は、「近い将来に武装蜂起を始めることを党が承認することに断固として反対する」と書いた。
 党がそのような決定をしていなかったとしても、とここで彼は虚偽を語ったのだが、彼とジノヴィエフおよび何人かのその他の者は、ソヴェト大会の前夜での、ソヴェトから独立した「武装の実力による権力掌握」は革命にとって致命的な結果をもたらすだろう、と考えた。そして、蜂起を避けることはできないが、時機がよくない、と。(157)
 (10)中央委員会は、クーの前にさらに三回の会合を開いた。10月の20日、21日、そして24日。(158)
 第一回めの議題は、武装蜂起に反対する見解を公にした点で冒したと主張された、カーメネフとジノヴィエフの党規約違反だった。(*)
 --------
 (*) レーニンは間違って、ジノヴィエフはカーメネフとともに<Novaia zhizn'>のインタビュー>に加わっていたと考えていた。<Protokoly TsK>, p.108.
 --------
 レーニンは中央委員会に対して怒りの手紙を書き送り、「スト破り」の除名を要求した。
 「我々は資本主義者たちに真実を語ることはできない。すなわち、我々はストライキへと進む(蜂起をする、と読むべし)こと、そして<時機の選択>を彼らに<隠す>こと、を<決定した>。(159)
 中央委員会は、この要求に従うことをしなかった。
 (11)これらの会合の議事録は、実質的に無意味なものにするために相当に省略されているように思われる。かりに表面どおりに理解するならば、そのときまでにすでに議論が進行中だったクーは議題ですらなかった、と推察してしまうだろう。
 (12)中央委員会の戦術は、臨時政府を挑発して、革命を防衛することを偽装したクーを開始するのを可能にさせる、報復的な手段をとるよう追い込むことだった。
 この戦術は、秘密ではなかった。
 事件の数週間前のエスエル機関誌<Delo naroda>が簡略化して書いているように、臨時政府はコルニロフと一緒に革命を抑圧し、〔ドイツ〕皇帝と一緒にペトログラードを敵に明け渡す陰謀を企てたとして責任が追及されるだろう。ソヴェト大会と憲法制定会議のいずれも解散させる用意をしていた、という責任追及はもちろん。(160)
 トロツキーとスターリンは、そのようなことが党の計画だったと、事件の後で確認した。
 トロツキーは、こう書いた。
 「本質的なことを言えば、戦略は攻撃的なものだった。
 我々は、政府を攻撃する準備をしていたが、我々の煽動活動は、敵がソヴェト大会を解散させようとしている、敵を容赦なく撃退することが必要だ、と主張することにあった。」(161)
  スターリンによると、こうだ。
 「革命(ボルシェヴィキ党と読むべし)は、不確かで躊躇させる要素を軌道の中に引き込むことを容易にするために、その攻撃行動を防衛という煙幕の背後で偽装することだった。」(162)
 (13)Curzio Malaparte は、たまたまファシストが権力奪取をしていたイタリアを訪れていたイギリスの小説家、Izrael Zangwill の困惑を、こう叙述している。
 「バリケード、路上の戦闘、舗道上の軍団」がないことに驚いて、Zangwill は、自分が革命を目撃していると信じるのを拒んだ。(163)
 しかし、Malaparte によれば、現代の革命の特徴的な性質は、まさに無血(bloodless)であることだ。訓練された突撃兵団の小部隊が、戦略的地点をほとんど静穏に掌握するのだ。
 このような厳密な正確さでもって襲撃は実行されるので、民衆一般は何が起きているかを少しも知ることがない。
 (14)この叙述は、ロシアの十月のクーにふさわしい(これをMalaparte は研究して、彼のモデルの一つとして用いた)。
 十月に、ボルシェヴィキは集団的な武装示威行動や路上での衝突をしなかった。これらは、レーニンの主張に従って4月や7月には行ったことだった。なぜ10月にはしなかったかというと、群衆は統制し難く、また反発を却って生むということが分かったからだった。
 ボルシェヴィキは、今度は、小規模の訓練された兵士と労働者の部隊に頼った。その部隊は、軍事革命委員会を装った軍事組織司令部のもとにあり、ペトログラードの主な通信と交通の中心地、利便施設や印刷工場-現代的大都市の中枢(nerve)箇所-を占拠することを任務としていた。
 政府とその軍事幕僚たちとの間の電話線を切断するだけで、ボルシェヴィキは反攻の組織化を不可能にすることができた。
 作戦行動全体が、順調かつ効果的に履行された。そのために、まさにそれが進行中だったときですら、オペラ劇場のほかにカフェやレストラン、あるいは劇場や映画館、は営業のために開いていて、娯楽を求める群衆で混雑していた。//
 --------
 (152) <Protokoly TsK>, p.83-p.86.
 (153) L・トロツキー,<レーニン>(Moscow, 1924), p.70-p.73.
 (154) 同上, p.70-p.71.
 (155) <Protokoly TsK>, p.87-p.92.
 (156) 同上, p.86.; トロツキー,<レーニン>, p.72.
 (157) Iu・カーメネフ. <NZh>No.156/150(1917年10月18日)所収, p.3.
 (158) <Protokoly TsK>, p.106-p.121.の縮められた議事録。
 (159) 同上, p.113.
 (160) <DN>No.154(1917年9月11日), p.3., 同No.169(1917年10月1日), p.1.
 (161) トロツキー,<レーニン>, p.69.
 (162) Mints, <Dokumentry>I, P.3.
 (163) C・Malaparte, <クー・デタ: 革命の技術>(New York, 1932), p.180.
 ----
 第8節は終わり。つぎの第9節の目次上の見出しは、<軍事革命委員会がクー・デタを開始>。

1948/R・パイプス著・ロシア革命第11章第7節。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.477-p.482.
 ----
 第7節・ボルシェヴィキによるソヴェト軍事革命委員会の乗っ取り(take over)。
 (1)第二回ソヴェト大会を偽装した、親ボルシェヴィキの集会は、ボルシェヴィキのクーを正当化することとなった。
 しかしながら、レーニンの執拗な主張では、クーは大会が開催される前に、軍事組織の指揮のもとにある突撃兵団によって達成されるべきものだった。
 この突撃兵団は首都の戦略上重要な地点を掌握し、政府は打倒されたことを宣言することとなっていた。これは大会に対して、不可逆的な既成事実を突きつけることになるだろう。
 この行動を、ボルシェヴィキ党の名前で行うことはできなかった。
 ボルシェヴィキがこの目的のために用いた装置は、10月早くの恐慌のときにペトログラード・ソヴェトが設立した軍事革命委員会だった。これの目的は、首都を予想されるドイツの攻撃から防衛することだとされていた。
 (2)ドイツ軍がリガ(Riga)湾で作戦行動をしたことで、事態は早まった。
 ロシア兵団がリガを撤退したあと、ドイツは偵察部隊をRevel(Tallinn)の方向へと派遣した。
 この行動は、300キロしか離れておらず、防衛に信頼を措けないペトログラードを脅かすことを装っていたので、ロシアの将軍幕僚たちは多大の関心を引いた。
 (3)首都へのドイツの脅威は、10月半ばにはますます不気味なものになった。
 9月6日/19日、ドイツの最高司令部はリガ湾にあるMoon、Ösel、およびDagoの各島の占拠を命令した。
 9月28日/10月11日に航行した小型艇隊はすみやかに機雷敷設地域を除去し、予期ししていなかった頑固な抵抗を抑えたあと、10月8日/21日にこれら三島の占領を完遂した。(135)
 敵は今や、ロシア軍の背後の地上に位置していた。
 (4)ロシアの将軍幕僚はこの海上作戦を、ペトログラード攻撃の予備行動だと見た。
 10月3日/16日、Revel からの退避が命じられた。ここは、ドイツ軍と首都の間に位置する、最後の大きい拠り所だった。
 その翌日、ケレンスキーは、危機に対処する方法に関する討議に加わった。
 ペトログラードはもまなく戦闘地帯に入ってしまう可能性があるので、政府と憲法制定会議はモスクワへと移転する、という提案がなされた。
 この考え方は一般に同意されたが、唯一の不一致は移動の時機の問題だった。ケレンスキーは、即座に行うことを望んだが、他の者たちは遅らせるのを支持した。
 政府は、広範な世論の支持を要請する会合として予備議会(Pre-Parliament)を10月7日に開催する予定でいた。この予備議会の同意を確保したあとで撤退することが、決定された。
 つぎの問題は、イスパルコムに関して何をするか、について生じた。
 合意があったのは、イスパルコムは私的な機構なので、その撤退は自分で行うべきだ、ということだった。(*)
 --------
 (*) <Revoliutsiia>V, p.23. ケレンスキーによると、この議論は秘密のはずだったが、彼らはすぐにプレスに漏らした。同上, V, p.81.
 --------
 10月5日、政府の専門家たちが、行政官署のモスクワへの撤退には二週間がかかる、と報告した。
 ペトログラードの諸産業を内陸部へと再配置する計画が、策定された。
 (5)このような予防措置は、軍事的かつ政治的な意味をもった。それは、フランスが1914年9月にドイツ軍がパリに接近したときにしたこと、ボルシェヴィキが1918年3月に同様の状況のもとですることになるだろうこと、だった。
 しかし、社会主義的知識人たちは、これらのうちに、「赤いペトログラード」、「革命的民主主義」の主要な基地を敵に明け渡す「ブルジョアジー」の策略を見た。
 プレスが政府の退避計画を公表する(10月6日)とすぐに、イスパルコム事務局は、自分たちの同意なくしていかなる撤退も行われてはならない、と声明した。
 トロツキーはソヴェトの兵士部門に向けて演説し、「革命の首都」を放棄しようとする政府を非難する決議を採択するよう、説得した。
 彼の決議は、こう言う。ペトログラードを防衛することができないのであれば、講和するか、別の政府に従うか、のいずれかだ。(137)
 臨時政府は、ただちに屈服した。
 同じ日に、臨時政府は、反対意見があることを考慮して撤退を一ヶ月遅らせる、と発表した。
 そのうちに、この退避の考えはすっかり放棄された。(138)
 (6)10月9日、政府は守備連隊の補充部隊に対して、予期されるドイツの攻撃を阻止するのを支援するために前線に向かうよう、命令した。
 過去の経験から予期され得たことだったが、守備連隊は、抵抗した。(139)
 この対立にかかる判断は、審判するためにイスパルコムに委ねられた。
 (7)その日遅くのイスパルコムの会合で、メンシェヴィキ派の労働者のMark Broido が、一つにペトログラード守備連隊に首都防衛に備えること、二つにソヴェトがこの目的の「計画遂行」をするための「革命的防衛の委員会」を設置(またはむしろ再構成)すること、を呼びかける決議を提案した。(140) 
 ボルシェヴィキと左翼エスエルは驚き、臨時政府の力を強くするという理由で、Broidoの決議案に反対した。
 これはしかし、際どい過半数(13対12)で採択された。
 票決のあとで、ボルシェヴィキは、過ちを冒したことに気づいた。
 ボルシェヴィキには、武装蜂起のために育ててきている軍事組織があった。それはボルシェヴィキ中央委員会に従属し、ソヴェトとは関係がなかった。
 このような地位の良さには、複雑な面があった。というのは、その軍事組織はボルシェヴィキ最高司令部の命令を忠誠心をもって遂行することができる一方で、一政党の一機関として、ソヴェトを代表して行動することはできなかった。ボルシェヴィキはその名前を用いて権力掌握を達成しようと意図していたのだったが。
 数年のちに、トロツキーはこう回想することになる。この不利な条件に気づいて、ボルシェヴィキは、1917年9月に、彼が「非党派『ソヴェト』機関」と称したものを蜂起を率いさせるために設立するよう、全ての機会を活用する、と決定していた。(141)
このことは、その軍事組織の一員だったK. A. Mekhonoshin によっても確認されている。この人物は、こう言う。ボルシェヴィキは、「守備連隊の部隊と連結する中枢部を、決定的行動のときにソヴェトの名前で前進することができるように、党の軍事組織からソヴェトへと移行させる必要がある、と感じていた」。(142)
 メンシェヴィキによって提案された組織は、この目的には理想的に相応していた。
 (8)メンシェヴィキの提案がソヴェトの総会での票決に付されたその夕方(10月9日)、ボルシェヴィキ代議員は保留の立場をとった。彼らはそのときには、ソヴェトがドイツからペトログラードを防衛するための組織を設立することに、それが「国内」の敵からも防衛するだろうかぎりで、同意していた。
 この「国内」の敵という後者によってボルシェヴィキが意味させたのは、つぎのことだ。すなわち、あるボルシェヴィキの言葉では、「臨時政府は皇帝に対する革命の主要な基地を陰険にも引き渡そうとしており、そして皇帝は、ボルシェヴィキの理解によれば、ペトログラードへの前進について、同盟する帝国主義者たちに支援されている」。(143)
こうした目的のために、ボルシェヴィキは、「軍事防衛委員会」はロシアの「反革命活動家」からはもちろんドイツ「帝国主義者」からの脅威に対して、首都の安全を確保する全ての責任を負わなければならない、と提案した。
 (9)ボルシェヴィキがBroido の提案を再定式化した内容に驚き、また何故彼らがそうしたのかを知って、メンシェヴィキはその修正に、断固として反対した。
 首都の防衛は、政府とその軍事幕僚たちの責任だった。
 しかし、総会はボルシェヴィキの案を選択し、「革命的防衛委員会」の形成に賛成する票決を行った。
 「労働者を武装させる全ての手段を講じることとともに、その手中にペトログラードとその近郊の防衛に関与する全ての力を結集すること。
 こうすることで、公然と準備されている軍および民間のコルニロフ一派の攻撃に対する、ペトログラードの革命的防衛と民衆の安全確保の二つをいずれも確実にすること」。(144)
 この異常な決議は巧妙に、ドイツ軍がもたらしている現実的な脅威に対応する新しく設立された委員会の責任と、コルニロフへの支持者による空想上の脅威とを、結びつけていた。コルニロフはどこにも、姿を見せていなかったのだが。
 メンシェヴィキとエスエルは、臨時政府は「ブルジョア」的性質をもつという悪宣伝的な強い主張と、反革命に対する強迫観念的な不安という彼らの収穫物を、このとき刈り取った。
 (10)票決の結果は、決定的に重要だった。
 トロツキーはのちに、これは臨時政府の運命を封じた、と述べた。
 彼の言葉では、これは10月25-26日に達成された勝利の10分の9でなくとも4分の3をボルシェヴィキに与えた、「静か」で「素っ気ない(dry)」革命だった。(145)
 (11)しかしながら、事態はまだ完全には終わっていなかった。総会での決定にはイスパルコムとソヴェト全体の同意が必要だったからだ。
 10月12日のイスパルコムの非公開会合で、2人のボルシェヴィキ議員がボルシェヴィキ革命を激しく攻撃した。しかし、彼らは再び敗れ、この二人以外の満場一致で、総会の決定はイスパルコムの支持を得た。
 イスパルコムは、新しい組織の名を「軍事革命委員会」と改めた(Voenno-Revoliutsionnyi Komitet。または略称してMilRevkom 〔ミルレヴコム〕)。また、これに首都の防衛の責務を付与した。(146)
 (12)問題は正式には、10月16日のソヴェトの会合で確定された。
 ボルシェヴィキは、注意を自分たちから逸らすために、ミルレヴコムを設立する決議の案文起草者に、無名の若い衛生兵である左翼エスエルのE. Lazimir を指名した。
 遅まきながらボルシェヴィキの策略(maneuver)の意味に気づいたエスエル(社会革命党)は、おそらくは欠席している同党の議員を集めるために、票決を遅らせようとしたが、失敗した。
 このエスエルの動議は却下され、彼らエスエルは棄権した。
 Broido はもう一度、ミルレヴコムは欺瞞だ、その真の使命はペトログラードを防衛することではなく、権力掌握を実行することだ、と警告した。
 トロツキーは、ロジアンコ(Rozianko)をインタビューした新聞記事を引用することで、ソヴェトの注意を逸らせた。ロジアンコは、かつての(今は政府の何の地位も占めていない)ドゥーマ議長はドイツによるペトログラード占領を歓迎する、と意味していると解釈することのできる語り口だった。(147)
 ボルシェヴィキは、Podvoiskii を副官に付けて、Lazimir をミルレヴコムの議長に指名した(十月のクーの前夜に、Podvoiskii はこの組織の長を正式に引き受けることになる)。(**)
 --------
 (**) Lazmir はのちにボルシェヴィキに入党した。1920年にチフスによって死んだ。
 --------
 ミルレヴコム〔軍事革命委員会〕のその他の委員を確定するのは困難だ。彼らはもっぱら、ボルシェヴィキか左翼エスエルだったと思われる。(+)
 --------
 (+) N. Podvoiskii, <KL>No.18(1923年)所収, p.16-p.17.
 トロツキーは、1922年に、かりに生命が危うくなってもミルレヴコムのでき方を思い出すことはできない、と書いた。
 -------- 
 しかし、誰がミルレヴコムにいたかは大きな問題ではなかった。それはクーの本当の組織者のための便宜的な旗にすぎなかったからだ。つまりは、ボルシェヴィキの軍事組織だった。//
 (13)トロツキーは今や、心理〔神経〕の戦いを始めた。
 ダン(Dan)がボルシェヴィキに、風聞があるように蜂起を準備しているのか否かをソヴェトで明確に表明するよう要請したとき、トロツキーは意地悪く、ケレンスキーとその対抗諜報機関の利益のためにその情報を欲しがっているのか、と尋ねた。
 「我々は権力掌握のための隊員を組織している、と言われている。
 我々はそのことを秘密にしていない。<略>」(148)
 しかしながら、二日後にトロツキーは、かりに蜂起が発生したとすれば、ペトログラード・ソヴェトは「我々はまだ蜂起を決定していなかった」との決定を下すだろう、と主張した。(149)
 (14)これらの言明には意識的な両義性があるにもかかわらず、ソヴェトは告知されていた。
 社会主義者たちは、トロツキーが何を語ったかを聞かなかったか、またはボルシェヴィキの「冒険」は不可避だと諦めていたかのいずれかだった。
 彼らは、レーニンの支持者たちと一緒に自分たちも一掃するだろう、あり得る右翼からの反応に対するほどには、ボルシェヴィキの行動を怖れなかった。
 ボルシェヴィキのクーの前夜(10月19日)、ペトログラード社会革命党の軍事組織は、予期される蜂起に対して「中立的」立場をとることを決定した。
 守備連隊内の同党員および共感者たちに送られてた回覧書は、示威活動からは離れたままでいること、黒の百人組、虐殺主義者および反革命の者たちからなされることがあり得る攻撃<中略>による容赦なき抑圧に十分に注意していること、を強く迫っていた。(150)
 これは疑う余地なく、エスエルの指導者たちはいったいどこに民主主義に対する主要な脅威を見ていたのか、を示している。//
 (15)トロツキーはペトログラードにずっといて、つねに緊張し、約束、警告、脅迫、甘言、激励をしている状態だった。
 スハノフ(Sukhanov)は、この時期の日々の典型的な情景を、つぎのように叙述する。
 「ホールに充満する3000人を超える聴衆の雰囲気は、明確に興奮のそれだった。
 彼らの一瞬の静けさは、つぎの期待を示していた。
 公衆は、もちろん主としては労働者と兵士だった。男女ともに、少しばかりの典型的なプチ・ブルジョア的様相も呈していなかったが。//
 トロツキーに対する熱烈な喝采は、好奇心と性急さで短く切られたように見えた。彼はつぎに何を語ろうとしているのか?
 トロツキーはただちにその巧みさと才幹でもって、会場の熱気を舞い上がらせ始めた。
 私は、彼が長い時間をかけてかつ異常なる力強さで、前線部隊が体験している…<中略>困難な状態を表現したのを憶えている。
 私の心にひらめいた思考は、その修辞的な言葉全体の諸部分にある、避けられない矛盾だった。
 しかし、トロツキーには、自分が何をしているかが分かっていた。
 根本的なのは、<ムード>〔雰囲気・空気〕だった。
 政治的な結論は、長い間にわたってお馴染みのものだった。<中略>//
 (トロツキーによると、)ソヴェトの権力は前線の戦場での損失で終末を迎えるべく運命つけられているだけではない。
 それは土地を提供し、国内の不安を止めるだろう。
 もう一度、飢餓に対処する昔からの秘訣が大きく持ち出される。どのようにして兵士、海兵および労働若年女性たちは裕福な者からパンを調達し、それを無料で前線に送るのだろう。<中略>。
 しかし、この決定的な「ペトログラード・ソヴェトの日」(10月22日)に、トロツキーはさらに進んだ。
 『ソヴェト政府は、国が貧者と前線の兵士のために有する全てのものを与えるだろう。
 きみ、ブルジョア、所有する二着の外套? 前線の塹壕で震えている兵士に一つをやれ。
 きみには、暖かい半長靴がある? きみの靴は労働者が必要としている。<中略>』//
 私の周りの雰囲気は、恍惚状態に近くなった。
 群衆はいつでも自発的に、求められることなく、突然に一種の宗教的な聖歌の中へと入り込んでいきそうに見えた。
 トロツキーは、『我々は最後の血の一滴まで、労働者と農民の根本教条を守るだろう』というのと似通った、短い一般的な決議を定式化し、あるいはいくつかの一般的な定式を宣告した。 
 誰に賛成か? 数千の群衆は、一人の男のようにその手を挙げた。
 私は、男性、女性、青年、労働者、兵士、農民そして典型的なプチ・ブルジョアの人物たちの挙げた手と燃える眼を見た。
 (彼らは)同意した。(彼らは)誓った。<中略>
 私はこの壮大な奇観を、異様に<重たい>心でもって眺めていた。」(151)//
 --------
 (135) この作戦はM. Schwarte et al, <大戦 1914-1918: ドイツの戦争>(Leipzig, 1925), Pt. 3, p.323-7.で叙述されている。
 (136) <Revoliutsiia>V, p.30-p.31.
 (137) <Izvestiia>No.191(1917年10月7日), p.4; <Revoliutsiia>V, p.37.
 (138) <Revoliutsiia>V, p.38, p.67.
 (139) 同上, p.52.
 (140) 同上, p.52, p.237-8.
 (141) <PR>No.10(1922年), p.53-p.54.
 (142) 同上, p.86.
 (143) I. I. Mints, ed., <<略>>Ⅰ(Moscow, 1938), p.22.
 (144) <Rabochii put'>No.33(1917年). <Revoliutsiia>V, p.238. が引用。
 (145) トロツキー, <歴史>III, p.353.
 (146) <Rabochii put'>No.35(1917年). <Revoliutsiia>V, p.70-p.71. と<Izvestiia>No.197(1917年10月14日), p.5. が引用。
 (147) Utro Rossi. Melgunov, <Kak bol'sheviki>, p.34n.が引用。
 (148) <Izvestiia>No.199(1917年10月17日), p.8.; <Revoliutsiia>V, p.101.
 (149) <Izvestiia>No.201(1917年10月19日), p.5.
 (150) <Revoliutsiia>V, p.132.
 (151) N. Sukhanov, <Zapinski o revoliutsii>VII(nberlin-Petersburg-Moscow, 1923), p.90-p.92.
 ----
 第7節は終わり。第8節の目次上の見出しは、<10月10日の重大な決定>。

1946/L・コワコフスキ著第三巻第四章第12節②。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊、p.161-p.166.
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
 ----
 第12節・スターリニズムの根源と意義・「新しい階級」の問題②。
 (8-2)異端の考え方のゆえに訴追され投獄されたソヴィエトの歴史研究者のAndrey Amalrik は、<ソヴィエト同盟は1984年まで残存するだろうか?>の中で、ロシアでのマルクス主義の機能をローマ帝国でのキリスト教のそれと比較した。
 キリスト教の受容は帝国のシステムを強化し、その生命を長引かせたが、最終的な破滅から救い出すことはできなかった。これとちょうど同じく、マルクス主義イデオロギーの吸収(assimilation)によってロシア帝国は当分の間は存在し続けているが、それは帝国の不可避の解体を防ぐことはできない。
 帝国の形成は最初からマルクス主義の立脚点だった、またはロシアの革命家たちの意識的な目的だった、ということを意味させていないとすれば、Amalrik の考え方は受容されるかもしれない。
 諸事情が異様な結びつき方をして、ロシアの権力はマルクス主義の教理を信仰表明(profess)する党によって掌握された。
 権力にとどまるために、初期の指導者たちの口から真摯に語られたことが明瞭なそのイデオロギーのうちに含まれる全ての約束を、党は首尾よく取り消さざるをえなかった。
 その結果は、国家権力を独占し、その性質上ロシアの帝国主義の伝統に貢献する、新しい官僚機構階層の形成だった。
 マルクス主義はこの階層の特権となり、帝国主義的政策の継続のための有効な道具となった。//
 (9)これに関係して、多くの著述者たちは、「新しい階級」に関する疑問、つまり「階級」はソヴィエト連邦共和国やその他の社会主義諸国家の統治階層を適切に呼称したものかどうか、を議論してきた。
 要点は、とくにMilovan Djilas の<新しい階級>の1957年での出版以降、適切に叙述されてきた。
 しかし、議論にはより長い歴史があるが、ある程度はこれまでの章で言及してきた。
 例えば、アナキスト、とくにバクーニンのマルクスに対する批判は、その考えを基礎とする社会を組織する試みは必ず新しい特権階級を生む、と主張した。
 現存している支配者に置き換わるべきプロレタリアは自分の階級に対する裏切り者に転化し、彼らの先輩たちがしたように、嫉妬をもって守ろうとする特権のシステムを生み出すだろう。
バクーニンは、マルクス主義は国家の存在が継続することを想定するがゆえに、このことは不可避だ、と主張した。
 主にロシア語で執筆したポーランドのアナキストであるWaclaw Machajski は、この考え方を修正してさらに、はるかに隔たる結論を導き出した。
 彼は、こう主張した。マルクスの社会主義思想は、知識人たちがすでに所有する知識という社会的な相続特権を手段として政治的特権をもつ地位を得ようと望む知識人たちの利益を、とくに表現したものだ。
 知識人界の者たちが彼らの子どもたちに知識を得る有利な機会を与えることができるかぎりで、社会主義の本質である平等に関する問題は存在し得ないだろう。
 知識人たちに頼っている現在の労働者階級は、知識人たちの主要な資産、すなわち教育を剥奪することでのみ目的を達成することができる。
 いくぶんはSorel のサンディカリズムを想起させるこうした主張は、つぎのような相当に明確な事実にもとづいていた。すなわち、所得の不平等と、教育・社会的地位の間の強い連関関係のいずれもがある社会ではどこでも、教育を受けた階級の子どもたちは他の者たちよりも、社会階層を上昇する多くの機会をもつ。
 相続の形態が不平等であることは、文化の継続を破壊し、完全に均一の教育を行うべく子どもたちを両親から切り離してのみ、除去することができる。その結果として、Machajski のユートピアは、平等という聖壇に捧げるために文化と家族の両方を犠牲にすることになるだろう。
 教育は特権の根源だとしてやはり嫌悪するアナキストたちは、ロシアにもいた。
 Machajski はロシアに支持者をもったので、十月革命後の数年間は、彼の考え方に反対することは、党のプロパガンダの周期的な主題だった。彼らは、全く理由がないわけではなく、サンディカリズム的逸脱や「労働者反対派」の活動家たちと関連性(link)があった。//
 (10)しかしながら、社会主義のもとでの新しい階級の発展という問題は、別の観点からも提示された。
 プレハノフのようなある範囲の者たちは、経済的条件が成熟する前に社会主義を建設しようとする試みは新しい形態の僭政(despotism)を生むに違いない、と主張した。
 Edward Abramowski のような別の者たちは、社会の道徳的な変化が先行する必要性を語った。
 この者たちは、かりに共産主義が道徳的に改良されず、古い秩序が植え付けてきた要求と野心とまだ染みこんだままの社会を継承するならば、国有財産制のシステムのもとでは、多様な性質の特権を目指す闘いが繰り返されざるを得ないと、主張した。
 Abramowski が1897年に書いたように、共産主義は、このような条件下では、つぎのような新しい階級構造の社会のみを生み出すことができるだろう。すなわち、古い分立が社会と特権的官僚機構の間の対立に置き換えられ、僭政と警察による支配という極端な形態によってのみ維持される社会。//
 (11)十月革命の危機は、最初から、特権、不平等、僭政の新しいシステムがロシアで芽生えていることを明瞭に指摘していた。「新しい階級」とは、カウツキーが1919年にすでに用いた概念だった。
 トロツキーが国外追放中にスターリニスト体制批判を展開していたとき、彼は、彼に倣った正統派トロツキストたちの全てがしたのと同様に、「新しい」階級に関する問題ではなく、寄生的官僚制度の問題だと強く主張した。
 トロツキーは、革命なくしては体制は打倒できないという結論に到達したあとでも、この区別をきわめて重要視した。
 彼は、社会主義の経済的基盤、つまり生産手段の公的所有は、官僚機構の退廃には影響を受けない、従って、すでに起こった社会主義革命を行う余地はない、そうではなく、現存する政府機構を排除する政治装置こそが必要なのだ、と論じた。//
 (12)トロツキー、その正統派支持者およびスターリニズムに対する批判的共産主義者は、ソヴィエト官僚制の特権は自動的に別の世代へと継承されるものではない、官僚機構は生産手段を自分たち自身では持たが生産手段に対して集団的な統制を及ぼすにすぎない、という理由で、「新しい階級」の存在を否定した。
 しかしながら、このことは、議論を言葉の問題に変えた。
 その各員が、相続によって継承できる、一定の生産的な社会的資源に対する法的権能を有しているときにのみ、支配し、搾取する階級の存在を語ることができる、というようにかりに「階級」を定義するとすれば、ソヴィエト官僚機構はもちろん、階級ではない。
 しかし、なぜこの用語がこのような制限的な意味で用いられなければならないのか、は明瞭でない。
 階級は、マルクスによってそのようには限定されていない。
 ソヴィエト官僚制は、国家の全ての生産的資源を集団的に自由に処理する権能をもった。このことはいかなる法的文書にも明確には書かれていないが、単直に、システムの基本的な帰結だった。
 生産手段の支配は、かりに集団的所有者たちを現存システムのもとでは排除することができず、いかなる対抗者たちもそれに挑戦することが法的に不可能であれば、本質的には所有制と異なるものではない。
 所有者は集団的であるために個人的な相続はなく、政治的な階層内での個々の地位を子どもたちに遺すことは誰もできない。
 実際には、しかし、しばしば叙述されてきたように、特権はソヴィエト国家では、系統的に継承されてきた。
 支配層の者たちの子どもたちは明らかに、人生での、また限定された物品や多様な利益への近さでの有利な機会の多さという観点からすると、特権をもっていた。そして、支配層の者たち自身が、このような優越的地位にあることを知っていた。
 政治的な独占的地位と生産手段の排他的な統制力はお互いに支え合い、分離しては存在することができかった。 
支配階層者の高い収入は搾取的な役割の当然の結果だったが、搾取それ自体と同一のものではなかった。搾取(exploitation)は、民衆によって何ら制御されることなく、民衆が生み出す余剰価値の全量を自由に処分することのできる権能で成り立つ。
 民衆は、いかにして又はいかなる割合で投資と消費が分割されるべきかに関して、または生産された物品がいかに処理されるのかに関して、何も言う権利がない。
 こうした観点からすると、ソヴィエトの階級分化は、所有にかかる資本主義システムにおけるよりもはるかに厳格なもので、かつ社会的圧力に対して敏感ではないものだ。なぜなら、ロシアには、社会の異なる部門が行政組織や立法機構を通じて自分たちの利益に関して意見を表明したり圧力を加える、そういう方法は何もないからだ。
 確かに、階層内での個人の地位は、上位者の意思あるいは気まぐれに、あるいは、スターリニズムが意気盛んな時代には単一の僭政者の愉楽に、依存している。
 この点を考えると、彼らの地位は完全に安全なものではない。その状態は、高位にいる者たちはみな僭政主の情けにすがり、ある日または翌日に解任されたり処刑されたりした、東洋の僭政体制にもっと似ている。
 しかし、このような事情のある国家について観察者が何ゆえに「階級」という語を使ってはならないのかどうかは明瞭でない。トロツキーの支持者が主張するように、それを「社会主義」と「ブルジョア民主主義」に対する社会主義のはるかな優越性を典型的に証明するものだと何故考えてはならないのかどうか、については一層そうだ。
 Djilas はその著書で、社会主義国家の支配階級が享有する、権力の独占を基礎にしていてその結果ではない、特権の多様性に注目した。//
 (13)上に詳しく述べたように、社会主義官僚機構を何故「搾取階級」という用語で表現してはならないのかの理由は存在しない。
 実際に、この表現は次第に多く使われていたように見える。そして、トロツキーによる〔試訳者-「新しい」階級と寄生的官僚機構の間の〕区別は、ますます不自然なものになっていた、と理解することができる。//
 (14)James Burnham はトロツキーと決裂したあと、1940年に<管理(managerial)社会主義>という有名な著書を刊行した。そこで彼は、ロシアでの新しい階級の成立は、全ての産業社会で発生しかつ発展し続ける普遍的な過程の特有の一例だ、と論じた。
 彼は、こう考えた。資本主義も、同じ過程を進んでいる。正式の所有権はますます小さくなり、権力は生産を現実に統制している者たち、すなわち「管理する階級」の手へと徐々に移っている。
 このことは、現代社会の性格による不可避の結果だ。新しいエリートたち(élite)は、社会の諸階級への分化の今日的な形態に他ならない。階級分化、特権および不平等は、社会生活の自然な現象だ。
 過去の歴史を通じてずっと、大衆は異なる多様なイデオロギーの旗の下で、その時代の特権階級を打倒するために使われてきた。しかし、その結果は、ただちに社会の残余者を、先行者たちが行ったのと同様に効率的に、抑圧し始める新しい主人たちと置き代えるだけのことだった。
 ロシアでの新しい階級による僭政は、例外ではなく、こうした普遍的な法則を例証する一つだ。//
 (15)社会生活は何がしかの形態での僭政を含むというBurnham の言い分が正しいか否かは別として、彼の論述は、ソヴィエトの現実に関する適切な叙述だとはとうてい言えなかった。
 革命後のロシアの支配者たちは産業管理者ではなかったし、政治的な官僚機構だった。かつ現に、産業管理者ではなく政治的官僚機構だ。
 もちろん前者の産業管理者は社会の重要な部門ではある。そして、それに帰属する者たちは、とくにそれぞれの分野に関する上層の権威者による決定に、十分に影響を与えるほどに強いかもしれない。
 しかし、産業上の投資、輸入そして輸出に関するものも含めて、重要な決定は政治的なものであり、政治的寡頭制がそれを行っている。
 十月革命は技術と労働の組織化の過程の結果としての、管理者への権力の移行の特有な事例だ、というのはきわめて信じ難い。//
 (16)ソヴィエトの搾取階級は、何らかの形態で東方の僭政制度に似ている新しい社会的形成物だ。別の形態としては封建的な豪族階級、あるいはさらに別の形態としては後進諸国の資本主義植民者に似ているかもしれない。
 搾取階級の地位は、政治的、経済的かつ軍事的な権力が、ヨーロッパでは以前に決して見られなかったほどの程度にまで絶対的に集中したものによって、そしてその権力を正統化するイデオロギーのへの需要によって、決定される。
 構成員たちが消費の分野で享受する特権は、社会生活で彼らが果たす役割の当然の結果だった。
 マルクス主義は、彼らの支配を正当化するために授けられる、カリスマ的な霊気(オーラ)だった。//
 ----
 第12節終わり。次節の表題は、<スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義>。

1943/R・パイプス著・ロシア革命第11章第5節②。

 リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ロシア革命/1899-1919 (1990年)。総頁数946、注記・索引等を除く本文頁p.842.まで。
 第11章・十月のクー。試訳のつづき。p.470-p.473.
 ----   
 第5節・隠亡中のレーニン②(Lenin in hiding)。
 (13)多くのボルシェヴィキ党員には、新しい戦術と親ソヴェト・スローガンの放棄は幸せなことでなかった。
 その月の別の機会にスターリンは、党は疑いなく我々が多数派を占めるソヴェトを支持していると保障して、彼らを安心させようと努めた。
 しかし、ソヴェトへの関心の一般的な冷却に気づいて、ボルシェヴィキたちがもう一度気持ちを切り替えるのに、たいした時間はかからなかった。というのは、無関心が増大したために、ソヴェトを自分たちの目的でもって貫いて操作する機会ができた、と考えたからだ。
 党の公式誌<イズヴェスチア>は、9月の最初に、つぎのように書いた。
 「最近はソヴェトで仕事することへの無関心が見られる。<中略>
 実際に、(ペトログラード・ソヴェトの)1000人以上の代議員のうち、400から500人程度しか会議に出席していない。そして、出てくることをしない者たちは正確には、今まではソヴェトの多数派を形成していた諸党の代議員たちだ。」(106)-すなわち、メンシェヴィキとエスエル。
 <イズヴェスチア>の「ソヴェト組織の危機」と題された一ヶ月後の論説でも、同じような不満を読むことができた。
 「ソヴェトの人気が最高だったとき、イスパルコムの都市間協議(interurban, inogorodnyi)の部署は、国じゅうに800のソヴェトを表にして列挙していた、と執筆者は思い出す。」
 10月までに、これらのソヴェトの多くはもはや存在しないか、紙の上だけの存在になった。
 地方からの報告書は、ソヴェトはその威厳と影響力を失いつつある、というものだった。
 編集部はまた、労働者・兵士代表者ソヴェトが農民組織とともに進むことのできないことに不服を告げた。そのことは、農民層がソヴェト構造の「全く外側」にとどまることに帰結するからだ。
 しかし、ペトログラードやモスクワのようにソヴェトが機能している区域ですら、ソヴェトは、多数の知識人や労働者が離反したために、もはや全ての「民主主義派」を代表していなかった。
 「ソヴェトは、旧体制と闘う素晴らしい組織だった。しかし、それは新しい体制の形成を引き受ける能力が全くなかった。<中略>
 専制体制が官僚制秩序と一緒に崩壊したとき、我々は全ての民主主義派を守るための一時的な兵営として代表者ソヴェトを設立したのだった。」
 <イズヴェスツィア>は今はこう結論づけた。ソヴェトは、より代表制的な選挙制度で選ばれた市会(Municipal Councils)のような永続的な「石の構造」のために放棄されてきている。(107)
 ソヴェトへの幻想からの覚醒が拡大し、社会主義派の対抗者が長く不在であることによって、ボルシェヴィキは、国民的支持からは全く不釣り合いの影響力を獲得することができた。 
 ボルシェヴィキのソヴェト内での役割が大きくなるにつれて、ボルシェヴィキは古いスローガンに戻った。-「全ての権力をソヴェトへ」。
 (14)ボルシェヴィキは、ペトログラード・ソヴェトの多数派となった9月25日に、権力に向かって進む重要な一歩を通過した。
 (9月19日に、モスクワで同様に多数派になっていた。)
 ペトログラード・ソヴェトの議長たる地位に就いたトロツキーはただちに、そのソヴェトを国のその他の都市ソヴェトを制御するための組織へと変え始めた。
 <イズヴェスツィア>の言葉によれば、ペトログラード・ソヴェトの労働者部門でボルシェヴィキが多数を獲得するやいなや、ボルシェヴィキは「それを彼らの党組織へと変えた。そして、それに依拠して、国全体の全てのソヴェトを把握するパルチザン的闘いを行うようになった。(108)
 ボルシェヴィキは、全ロシア大会で選出された、エスエルとメンシェヴィキが支配するままのイスパルコムを大幅に無視し、自分たちが多数を握るソヴェトのみを代表する、彼ら自身の全国的似而非ソヴェト組織を生み出そうと取りかかった。
 (15)コルニロフによって生じた有利な政治環境とソヴェトでの勝利によって、ボルシェヴィキは、クー・デタの問題を生き返らせた。
 意見は、分かれた。
 七月の大失敗はまだ記憶に鮮明で、カーメネフとジノヴィエフは、さらなる「冒険主義」に反対した。
 二人は論じた。ソヴェト内での力が増加したにもかかわらず、ボルシェヴィキは少数派政党のままであり、かりに何とかして権力を奪取しても、「ブルジョア反革命」と農民層の結合した勢力に面してすぐにそれを失うだろう。
 もう片方の極端な立場のレーニンは、即時のかつ断固たる行動を求める主要な発議者だった。
 彼はコルニロフ事件によって、クーの成功の可能性がかつてよりも大きく、かつ二度とやって来ない、と確信していた。
9月12日と14日、レーニンは、フィンランドから二通の手紙を、中央委員会に書き送った。それぞれ、「ボルシェヴィキは権力を奪取しなければならない」、「マルクス主義と反乱」と呼ばれる。(109)
 彼は前者で書いた。「二つの重要な都市で労働者・兵士代表者ソヴェトでの多数派となり、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるし、そう<しなければならない>。」
 カーメネフやジノヴィエフの主張とは反対に、ボルシェヴィキは権力を奪取することができるのみならず、保持し続けることもできる。すなわち、即時の講和を提案し、農民に土地を与えることによって、「ボルシェヴィキは、<誰も>打倒しようと<しない>政府を設立することができる。
 しかし、臨時政府がペトログラードをドイツ軍に明け渡すか戦争を終わらせる何か別のことをするかもしれないので、迅速に行動することこそがきわめて重要だ。
 その日の命令は、「ペトログラードとモスクワ(プラスここれら地域)での武装暴動、権力の制圧、政府の打倒だ。
 我々は、活字にして明確に表明することなく、<いかにして>このために煽動すべきかを考えなければならない。」
 ペトログラードとモスクワではすでに権力を奪取しているので、問題は解決されているだろう。
 レーニンは、多数派を獲得するを望んで第二回ソヴェト大会の招集を待つべきだとのカーメネフとジノヴィエフの見解を「ナイーヴな」ものとして却下した。「革命は<それ>を待っていない。」
 (16)第二の手紙でレーニンは、武力による権力奪取は「マルクス主義」ではなくて「ブランキ主義」だという非難について議論し、また、七月との類似性の問題に片をつけた。すなわち、「9月の『客観的』情勢は、全く異なっている。」
 彼は(考えられるのはドイツとの接触で得られた情報から)、ベルリンがボルシェヴィキ政府に休戦を提案するだろうことは確実だと思っていた。
 「そして、休戦を確保することは、世界<全体>を制圧することを意味する。」(110)
 (17)中央委員会は9月15日に、レーニンの手紙を議題として取り上げた。
 短い、ほとんど確実に厳密に検閲されたこの会議の議事要領書(*) が示しているのは、レーニンの同僚たちは(カーメネフが迫ったように)公式に彼の助言を拒否するのを躊躇しているが、従う心づもりもない、ということだ。
 --------
 (*) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.55-62.
 これは、現在で唯一利用可能な、1917年8月4日から1918年2月24日までのボルシェヴィキ中央委員会の会議の記録書で、1929年に最初に出た。
 この記録書は、トロツキー、カーメネフおよびジノヴィエフという、スターリンが党の支配のために打倒した者たちの評価を落とすことが意図されていた。そして、この理由のゆえに、きわめて慎重に用いられなければならなかった。
 第二版の編集者によれば、こうだ。「議事録の文章は、省略なくして完全に公刊される。但し」、何を意味するものであれ、「第一版では議事録の文章上のこれらの疑問に関する適切ではない説明を理由としてそうなされたように、対立する事項(konfliktnye dela)を除く」(p. vii)。
 --------
 トロツキーによれば、 即時の暴乱は望ましくないとして、9月には誰もレーニンに同意しなかった。(111)
 スターリンの動議により、レーニンの手紙は党の主要な地方組織に回覧されることになった。これは、即時の行動を回避する方法でもあった。
 ここで、問題が残っている。その後の6回の会議については何も、レーニンの提案が言及されていないのだ。(+)
 --------
 (+) もちろん、レーニンの考えは却下され、その事実は議事録が出版されるときの版では削除された、ということは排除され得ない。
 --------
  (18)レーニンはこのような消極性に烈しく怒った。暴乱を起こすのに都合のよいときが過ぎ去ってしまうのを、彼は懼れていた。
 9月24日か25日、彼はヘルシンキから、行動舞台により近いヴィボルク(Vyborg)(まだフィンランドの領土)へと移動した。
 彼はそこから、9月29日、第三の手紙を中央委員会に発送した。その表題は「危機は成熟した」。
 レーニンの主要な活動方針は、この手紙の第六部に含まれていた。1925年に最初に公にされた。
 レーニンはこう書いた。ある範囲の党員たちが次のソヴェト大会まで権力掌握を延期したいと考えていることは率直に認めなければならない。
 彼は全体として、このような考え方を拒否した。
 「この瞬間を逃してソヴェト大会を『待つ』のは、完璧に愚かで、完璧な裏切り行為だ」。
 「ボルシェヴィキは今や、蜂起の成功を保障されている。
 1.我々は(ソヴェト大会を『待つ』ことをしなくても)突然に三箇所から急襲することができる。すなわち、ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊。 <中略>。
 5.我々はモスクワで権力を奪取する技術的能力を持っている(これは、突然さによって敵を弱体化させるために始めることすらできる)。
 6.我々は<数千人>の武装した労働者と兵士を持っており、彼らは<ただちに>冬宮、将軍幕僚、電話局、および全ての大きな印刷工場を掌握することができる。<中略>
 我々がただちに、かつ突然に三箇所から-ペトロブルク、モスクワおよびバルティック艦隊から-急襲するならば、成功の見込みは99パーセントであり、七月の3-5日に被ったよりも少ない損失で勝利するだろう。<兵団は、講和する政府に反対して動くことはしないだろう。>(**)
 --------
 (**) レーニン,<PSS>XXXIV, p.281-2. レーニンはここで不用意に、七月3-5日にボルシェヴィキは実際に権力掌握を試みたことを認めている。
 --------
 中央委員会が要請に回答せず、自分の論文を削除すらしたことを見て、レーニンは、辞職願いを提出した。
 もちろんこれは、はったり(ブラフ)だった。
 中央委員会は、意見の違いに関して議論するため、レーニンにペトログラードに戻るよう要請した。(112)
  (19)レーニンの同僚たちは一致して、よりゆるやかで安全な方針を好んで、即時の武装蜂起への彼の要求を拒絶した。
 彼らの戦術は、レーニンの提案は「性急だ」と考えたトロツキーによって、定式化された。
 トロツキーは、全ロシア・ソヴェト大会による権力の掌握を装った、武装蜂起をしたかった。-しかし、確実に拒否するだろう、適式に開催された大会による権力掌握をではない。そうではなく、ボルシェヴィキが定められた手続に従わないで自分たちが主導して開催し、支持者たちを詰め込める会議による権力掌握を装ってだ。つまりは、全国的大会だと偽装(カモフラージュ)しての、親ボルシェヴィキのソヴェト大会。
 振り返って見ると、これが進むべき疑いなく適切な行路だった。なぜなら、レーニンが主張したような単一の政党による権力の公然たる掌握には、国は寛容であることができなかっただろうから。
 最初の日々を越えて成功していくためには、クーには、かりに表面的なものだったとしても、何らかの性質の「ソヴェト」の正統性が与えられなければならなかった。//
 --------
 (105) Leningradskii Istpart, <<略>>(Moscow-Leningrad, 1927), p.77.
 (106) <イズヴェスツィア>No.164(1917年9 月5日).
 (107) <イズヴェスツィア>No.195(1917年10月12日), p.1.
 (108) 同上, No.200(1917年10月18日), p.1.
 (109) レーニン,<PSS>XXXIV, p.239-p.241.
 (110) 同上, p.245.
 (111) L・トロツキー,<ロシア革命史>III(New York, 1937), p.355.
 (112) <Protokoly Tsentral'nogo Komiteta RSDPR(b)>(Moscow, 1958), p.74.
 ----
 第5節は終わり。第6節の目次上の表題は、<ボルシェヴィキ自身のソヴェト大会の計画>。

1927/ロシア革命史に関する英米語文献①。

 Anne Applebaum, Gulag- A History (2003).
 =アン・アプルボーム=川上洸訳・グラーグ―ソ連集中収容所の歴史(白水社、2006年)
 2004年度ピューリツァー賞を受けたらしい、この強制収容所(Gulag)に関する書物は、第一部<グラクの起源-1917-1939>の第一章<ボルシェヴィキの始まり>の冒頭で1917年10月のボルシェヴィキの権力掌握あたりまでを。2頁で素描している。
 その際に参照文献として注記しているのは、つぎの二著だけだった。本文p28.、注p.524.
 右端の頁数は、参照要求される当該文献の頁の範囲。
 ①Richard Pipes, The Russian Revolution 1889-1919 (1990). pp.439-505.
 ②Orland Figes, A People's Tragedy: A History of the Russian Revolution (1996). pp.474-551.
 いずれも、邦訳書はない。後者の<人民の悲劇>は、M・メイリア<ソヴィエトの悲劇>(邦訳書あり。草思社・白須英子訳、1997年)と少し紛らわしい。
 以上については、すでにこの欄に、より簡単には書いたことがある。
 ---
 2017年のロシア・十月革命「100周年」の年に、英米語文献としては少なくともつぎの三つの著がロシア革命に関する「通史」的なものとして新しく刊行された。
 右端の頁数は、索引等を含めての総頁数。
 A/S. A. Smith, Russia in Revolution: An Empire in Crisis, 1890 to 1928 (2017). 計455頁。
 B/Sean McMeekin, The Russian Revolution: A New History (2017). 計445頁。
 C/China Miéville, October: The Story of the Russian Revolution (2017). 計369頁。
 いずれもまだ、邦訳書はないと見られる。
 上の二つは専門の研究者によるものだ。
 最後のものはそうではなさそうだが、しかし、多数の文献を読んで参照していることは分かる。なお、このChina Miéville の本は本文(序などを除き)計10章で、第1章は1917年前史、第10章は「赤い十月」、そして残りの2 章以降はそれぞれ2月、3月、…を扱っていて、表向きはきわめて読みやすそうだ(内容はほとんど見ていない)。
 China Miéville は「さらなる読書」のために、以下の「通史」文献以外に50ほどにのぼる文献(論文・記事類ではない)を挙げる。
 「通史(General Histoties)」として挙げられる9の文献を刊行年の古い順に変えて紹介すると、つぎのとおり。同一の著者の書物が二件以上挙げられている場合もある。
 ①Leon Trotsky, History of the Russian Revolution (1930).
 ②Victor Serge, Year One of the Russian Revolution (1930).
 ③Willam Henry Chamberlin, The Russian Revolution 1917-1921 (1935).
 ④E. H. Carr, The Russian Revolution, 1917-1923, 1-3.vols (1950-53).
 ⑤Tsuyoshi Hasegawa, The February Revolution, Petrograd: 1917 (1981).
 ⑥Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
 ⑦Alexander Rabinovich, Prelude to Revolution: The Petrograd Bolsheviks and the July 1917 Uprising (1991),+ The Bolsheviks Come to Power (2004).
 ⑧Orland Figes, A People's Tragedy (1996).
 ⑨Sheila Fitzpatrick, The Russian Revolution (2ed edition), (2008).
 以上
 ⑨の第4版(2017)が、この欄で最近まで「試訳」していたもの。2017年だったからこそ、新版にしたのだろう。
 上で興味深いのは、冒頭でも言及した、二つの著、つまりRichard Pipes とOrland Figes の著が⑥と⑧でやはり挙げられていることだ。
 その対象や範囲を考慮すると、邦訳書が早くからある初期のトロツキーやE. H. カーよりは新しいこれらの邦訳書が存在しないことは、いかにも日本らしい気もする。⑨も、邦訳書がない。
 山内昌之がたぶん歴史(世界史?)関係の重要な何冊かを挙げて紹介する新書版の本で、ロシア革命についてはE. H. カーのものを挙げてきたが、トロツキーのものに変更したとか、書いていた(山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007))。
 日本共産党の不破哲三・志位和夫がロシア革命に関連して肯定的に名を挙げるE. H. カーの本は、山内によるとどうも不満があるらしい。今日の英米語圏でもベストとはされていないようで、明確に批判する論者もある。執筆当時に存在した表向きの(これも程度があるが)資料・史料だけ使って「実証的に」叙述しただけでは、結局は「現実を変えた」または「現実になった」者たちや事象を<追認>し、<正当化>するだけに終わる可能性のあることは-日本の「明治維新」についてもそうだが-留意されてよいだろう。
 元に戻ると、上のCは背表紙の下に「VERSO」と横書きで打たれていて「VERSO」なる叢書の一つのようでもあるが、「VERSO」は出版元の「New Left Books(新左翼出版社)」のImprint だとされている(原書の冒頭近く)。
 よくは知らないが、その「新左翼」に引っかかって上の各著に対するChina Miéville のコメントを読むと、明らかに、⑥R・パイプスと⑨S・フィツパトリクのものには批判的な部分がある。例えば-。
 ⑥について-「左翼に対する敵意」、「ボルシェヴィキ恐怖症(-フォビア)」、…。
 ⑨について-<レーニン→スターリン>「不可避主義者」、…。
 これら自体興味深く、この二人の著が少なくとも一部に与える印象も理解できるところがある。
 しかし、それよりもさらに興味深いのは、この二人の著をChina Miéville も、きちんと列挙している、ということだろう。
 R・パイプス、O・ファイジズ、S・フィツパトリクの<ロシア革命本>は、今日の英米語圏では、どのような政治的立場を現在にとるのであれ、ロシア革命に関する、ほとんど<must read>のあるいは「鉄板」の書物になっているのではないか。
 ひるがえって、やはり日本のことを考える。日本の学界や「知的」活動分野について、考える。
 日本でいう「左翼」とは何か、「リベラル」とは何か。<ロシア革命>はとっくに過去の事象で、これらと何の関係もない、今日では関心の対象にならないものなのか?
 日本の国会議員を堂々と有する政党の中に、ほとんど直接に「ロシア革命」と関係がありそうな党はなかっただろうか。はて。

1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第6章・革命の終わり/第3節・テロル。(P)は大文字のPurge=「大粛清」。(p)=purgeは「粛清」または「浄化」とした。
 気づいていなかったが、最後に、一行の空白後に、この第3節ではなく書物全体を想定しているとみられる「むすび書き」がある。「おわりに」と勝手に名づけて、第3節の本文・注よりも後に紹介した。
 今回で、丸数字記号のある⑳回までを予定していた「試訳」が、予定どうり、いちおう終了する。翻訳が生業ではないこと、一つの言葉や文章の意味に一時間以上拘泥して呻吟したところでこの作業は一円・一銭の個人的利益にもならないのだから、不備・不正確さ等々があるのはむしろ当然のことだろう。
 ----
 第3節・テロル(The Terror)。
 (1)「おお読者よ、我々は言おう。黄金時代はとば口まで押し迫っているが、-裏切り者がいるおかげで-収穫と言えるようなものは何もまだ獲得できていない、と想像してほしい、と。
 どんな勢いと力を使えば裏切り者たちを打倒することができるのか、あのような場合に! <中略>
 人間男女にある気質について言うと、つぎの一つの事実を挙げるだけで十分だろう。すなわち、<<猜疑心(SUSPICION)>>がいかほどまで大きくなったか、という事実だ。
 我々はしばしば、どうやら誇張した言葉遣いだったようだが、それを超自然的(preternatural)だと称した。しかし、目撃者の冷静な証言類に、耳を傾けてほしい。
 一人の音楽憂国者も、屋根の上にやさしく哀しげに座って、自分でフランス・ホルンを使って旋律を吹くことはできない。しかし、感謝心があれば、策略委員会が別の新しいものを作る合図だとそれに気づくだろう。<中略>
 奥深くまで見通すことのできるLouvet は、議員たちの請願によって我々が古い乗馬会館へ復帰するに違いない、そして、無政府主義者たちが歩いている途中の我々のうち22人を殺戮するだろうと、察知している。
 これは、Pitt 〔小ピット・イギリスの当時の首相〕とCobourg の策略だ。Pitt の金銀による策略なのだ。<中略>
 後ろで、周りで、前で、巨大で超自然的な操り人形の舞台劇が演じられている。Pitt が黒幕となって操っているのだ。」(27)
 (2)これは、フランス革命についてのカーライル(Carlyle)の文だ。だが、ソヴィエト同盟の1936-37年の気分を想起させるものとして、これよりも優れているのはほとんどない。
 1936年7月29日、党中央委員会は、全ての地方党組織に対して、「トロツキー=ジノヴィエフ派反革命ブロックに対するテロル活動に関して」という秘密文書を送った。これは、以前の反対派諸グループは、「スパイ」、挑発者、妨害者、白衛軍およびソヴェト権力を憎悪するクラクたちを惹き付ける磁場になっており、レニングラード党指導者であるセルゲイ・キーロフの殺害について責任がある、と言明するものだった。
 警戒心-いかほどに偽装がうまくとも、党の敵を見分ける能力-は、全ての共産党員の不可欠の態度だ。(28)
 この文書は、大粛清のうちの最初の見せ物裁判(show trial)への序曲だった。
 その最初の裁判は8月に行われ、二人の反対派指導者であるL・カーメネフ(Lev Kamenev)とG・ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)はキーロフ(Kirov)殺害の共犯者だとされ、死刑を宣告された。//
 (3)1937年初めに行われた第二回めの見せ物裁判では、工業分野での破壊や罷業に力点が置かれた。
 主要な被告人はYurii Pyatakov で、この人物はかつてトロツキー派、1930年代の当初以降は重工業人民委員部でOrdzhonikidze の右腕だった。
 同じ年の6月、元帥のトゥハチェフスキー(Tukhachevsky)とその他の軍事指導者たちが、ドイツのスパイだとして訴追され、秘密の軍事法廷のあとで直ちに処刑された。
 1938年3月に行われた最後の見せ物裁判では、ブハーリンと、以前の右派指導者のルィコフおよび以前は秘密警察の長だったGenrikh Yagoda が、被告人の中にいた。
 古いボルシェヴィキである被告人たちは、多彩で異様な犯罪を公的に自白し、法廷では状況の詳細を長く陳述した。
 彼らのほとんど全員が、死刑を宣告された。(29)//
 (4)キーロフや作家Maxim Gorky の殺害のような派手な犯罪とは別に、体制に対する民衆の不満を煽り体制打倒を促進するための経済的妨害となる多数の行為を、陰謀者たちは自白した。
 それらの中には、多数の労働者が死んだ鉱山や工場での事故の企画実行も含まれていた。そうした事故は賃金支払い遅延の原因となり、品物の配分を停止させた結果として、農村地帯の店には砂糖やタバコがなくなり、都市のパン屋は品切れになった。
 陰謀者たちはまた、習癖として欺瞞を行い、反対派とは縁を切ったふりをし、党の基本方針への貢献を宣言してはいたが、私的にはその間ずっと、同意せず、疑念をもち、批判してきた、と告白した。//
 (5)外国の諜報員たち-ドイツ、日本、イギリス、フランス、ポーランド各国の者たち-が、こうした陰謀の背後にいるとされた。彼らの究極的な目的は、ソヴィエト同盟への軍事攻撃を仕掛け、共産主義体制を打倒し、資本主義を復活させることだった、と。
 しかし、多数の陰謀の核心にいたのは、トロツキーだった。トロツキーは、ゲシュタポ(Gestapo)のみならず、(1926年以降!)外国諸勢力とソヴィエト同盟内部の彼の陰謀網との間を媒介した、イギリス諜報機関の一員だったと主張された。
 (6)大粛清は、ロシア革命でのテロルの、初めての出来事ではなかった。
 「階級敵」に対するテロルは、内戦の一部だった。テロルは、集団化や文化革命の一部でもあった。
 実際にMolotov は1937年に、、Shakhty 裁判や文化革命時の「工業党」裁判から現在の裁判まで、一つの線が繋がって続いている、と述べた。
 -但し、ソヴェト権力破壊の陰謀者たちは、今回は「ブルジョア専門家たち」ではなくて、共産党員たちだという重要な違いはあるのだが。すなわち、共産主義者(共産党員)たち、または少なくとも、「仮面を被って」、党や政府での上層の職へと何とかして這い上がってきた者たちだ、という違いが。
 (7)上級階層者の大量の逮捕は、1936年の後半に始まった。とくに工業の分野で。
 しかし、スターリン、モロトフおよびニコライ・エゾフ(Nikolai Ezhov)(秘密警察が1934年に改称したNKVDの新長官)が魔女狩りを本当に開始する合図を発したのは、1937年、中央委員会の2-3月会合でだった。(31)
 1937年と1938年のまる2年の間、共産党官僚の最上層の者たちが官僚機構の全ての分野で-政府、党、工業、軍事、財政およびさらに警察まで-非難され、「人民の敵」だとして逮捕された。
 ある者たちは、射殺された。別の者たちは、強制収容所へと消えた。
 フルシチョフは第20回党大会への秘密報告で、1934年の「勝利の大会」で選出された中央委員会委員および委員候補の139名のうちほとんど41パーセントが大粛清の犠牲者となつた、と明らかにした。
 指導部の継続性は、ほとんど完全に破壊された。粛清(P)が破壊したのは、古いボルシェヴィキ仲間のうちの残存者のほとんどだけではなく、内戦期および集団化の時期に形成された党の仲間たちの大部分だった。
 1939年の第18回党大会で選出された中央委員会委員のうち24名だけが、5年前に選出された元委員だった。(32)//  
(8)高い地位にいる共産党員たちは、大粛清(P)の唯一の犠牲者ではなかった。
 知識人層(古い「ブルジョア」知識人層と1920年代の共産党員知識人層、とくに文化革命の活動家たち、の両者を含む)は、酷い打撃を受けた。
 以前の「階級敵」-全ての革命的テロルのーに通例の、1937年のように特別には何も企図していなかったときですら、容疑者だ-、およびかつて何らかの理由でブラック・リストに掲載されたことのある他の誰もが、同様だった。
 国外に縁戚関係者をもつ者や外国との関係がある者は、とくに危険だった。
 スターリンは、再犯者、馬泥棒、および拘禁記録のある宗教聖職者たちも含めて、数万人の「旧クラクおよび犯罪者たち」を逮捕させる特別の命令すら発したことがあった。
 そして、射殺するか、または強制収容所へと送り込んだ。
 加えて、現時点で強制収容所で刑に服している1万人の常習犯者は、射殺されるものとされた。(33)
 大粛清(P)の全様相は長年にわたって西側での研究の対象だったが、研究者たちが従前は利用できなかったソヴィエト文書庫を探求するにつれて、より明確になり始めた。
 NKVD文書によれば、強制労働収容所での犠牲者数は、1937年1月初めからの二年間で、50万人に昇り、1939年1月1日に130万人に達した。
 あとの年、1939年に、強制収容所の40パーセントは、「反革命」罪の有罪者で、22パーセントは「社会的に有害又は危険な要素」だと分類されており、残りのほとんどは、通常の犯罪者だった。
 しかし、多数の大粛清(P)犠牲者は監獄(刑務所)で処刑されており、強制収容所まで行きついていない。
 NKVDが記録するところでは、そのような処刑は1937-38年に68万件を超えていた。(34)//
(9)何が大粛清の要点だったのか?
 <国益(raison d'état)>(潜在的な戦争中の第五列(Fifth Column)を根とする語)という意味からの説明は、納得し難い。
 全体主義的な必要性という趣旨からする説明は、何が全体主義的必要性なのかという問題に戻るだけだ。
 革命という文脈の中で大粛清という現象を考察するとすれば、問題は少しは当惑しないものになる。
 敵に関する猜疑心は、Thomas Carlyle がこの節の最初に引用した1794年のジャコバン・テロルに関する文章で生々しく描写する、革命の心性の標準的な特質だ。
 -敵とは、外国勢力の金銭を受け、しばしば仮面を被り、革命を破壊して人民に苦痛を負わせる継続的な陰謀に従事している者たちだ。
 正常な環境にいれば、人々は、一人の有罪の人間を解き放つよりも十人の無実の人間が殺される方が良い、という考え方を拒否する。
 革命という異常な情況のもとでは、人々はしばしば上の考えを受け容れる。
 卓越した性格をもつことは、革命の時期での安全を保障しない。むしろ、逆だ。
 大粛清が革命的指導者を偽装した多数の「敵」を曝け出したということは、フランス革命を学んだ者にとっては驚くべきことではないはずだ。//
 (10)大粛清の革命上の起源を跡づけるのは、困難なことではない。
 すでに記したように、レーニンは革命的テロルに対する良心の呵責を何らもっておらず、党の内部であれ外であれ、反対者たちに寛容ではなかった。
 にもかかわらず、レーニンの時代には、党の外部にいる反対者に対処するために許され得る手段と、党内部の異端者に対して用いることのできる手段との間には、明瞭な区別がなされていた。
 古いボルシェヴィキたちは、党内の意見不一致は秘密警察の射程の外部にある、という基本的考え方を支持していた。なぜなら、ボルシェヴィキは、自分たちの同志に対してテロルを行使するというジャコバンの例に、決して従ってはならなかったからだ。
 この基本的な考えは立派なものだが、しかしながら、ボルシェヴィキ指導者たちがこのことを確認する必要があったという事実は、党内部の政治に関して、何がしかのことを語っている。
 (11)1920年代早く、ボルシェヴィキ党の外部からの組織的な反対が消滅して党内分派が公式に禁止されたとき、党内の反対派集団は事実上は、党外にいた旧来の反対派の位置を継承した。
 そうだとすると、党内反対派たちが同様の措置を被り始めたとしても、何ら驚くべきことではなかった。
 ともかくも、1920年代遅くにスターリンがトロツキー派に対して秘密警察を用い、そして(1922-23年のカデットとメンシェヴィキの指導者に対するレーニンの措置を模範として)トロツキーを国外に追放したとき、共産党内部には大きな抗議の声は何ら起こらなかった。
 文化革命の間、堕落した「ブルジョア専門家たち」と近接して仕事をした共産党員たちには、愚かさ以上の何がしかの悪に対する責任追及がされる危険があるように見えた。
 スターリンは右翼主義者たちを引き戻し、彼らが権威ある地位にとどまるのを許しすらした。
 しかし、これは不本意なものだった。つまり、スターリンが-そして共産党の多数の党員たちが-いったん反対派の者になった党員たちに対して寛容であるのは、明らかに困難なことだった。//
 (12)大粛清の起源を理解するために重要な革命的実務は、1920年代初頭から党が行った党員の定期的な「浄化(cleansing)」(<chistki>、または小文字の "p" の粛清(purges))だった。
 この党員浄化の頻度は1920年代末から増加した。すなわち、1929年、1933-34年、1935年および1936年に行われた。
 党員浄化では、党員の全員が粛清(p)委員会の前に立って、公然と委員たちの批判または告発を経由して秘密裏になされる批判に反駁して、自分の正当化をしなければならなかった。
 粛清〔p=浄化〕が繰り返されたことの結果として、後になって古い攻撃が蒸し返された。そして、これから逃れることは事実上不可能になった。
 望ましくない縁戚関係、革命前の別の政治諸党派との関係、党内反対派への帰属の経歴、過去の醜聞や譴責、そしてかつての官僚機構上の過失や帰属意識の混乱すら。-これら全てが党員たちの首の周りに掛かっていて、年を経るごとに重たくなっていった。
 党は不相応で信頼できない党員たちばかりだとの党指導者たちの猜疑心は、それぞれの連続した浄化〔粛清(p)〕によって沈静化するどころか、激化したように見えた。//
 (13)さらに加えて、各粛清(p)は、体制にとっての潜在的な敵をさらに多くした。
党から放逐することとなる粛清(p)は、社会での地位や上昇の見込みに対する逆風を受ける、という災難を被る蓋然性があったからだ。
 1937年、一人の中央委員会委員が隠れて、現在の党員数よりも多い<かつての>党員たちがたぶんこの国にはいる、と示唆した。これは明らかに、その人物およびその他の者たちはひどく不安に感じている、という考えだった。(35)
 党にはすでに、多数の敵がいたのだ!-その多数の者が隠れているのだ!
 革命の間に特権を失った者、聖職者等々の、かつての敵はいた。
 今では、階級としてのクラクやネップマンの絶滅という近年の政策の犠牲となった<新しい>敵がいた。
 個々のクラクが脱クラク化される前に確信的なソヴィエト権力の敵だったか否かは別として、そのクラクは確かに、その瞬間にはそれになっていた。 
 このことに関して最も悪悪だったのは、多数の収奪されたクラクたちが都市へと逃亡し、新しい生活を始め、彼らの過去を隠し(職を得るためにはこうしなければならなかった)、誠実な労働者のごとく見せかけたことだった。-要するに、革命に対する隠れた敵になったのだ。
 どれだけ多くの明らかに献身的な若いコムソモール団員(Komsomols)が、彼らの父親たちはかつてクラクまたは僧職者だったという事実を隠しているだろうか!
 スターリンが警告したように、個々の階級敵は、敵階級がいったん破壊されてしまったとすれば、<より危険にすら>なるのは、何ら不思議ではない。
 もちろん、破壊の行為は個人的に傷つけるものだったために、彼らはそうなった。
 彼らは、ソヴィエト体制に対する不服をもつ現実的でかつ具体的な基本的教条を与えられていた。//
 (14) 共産党管理機構員がもつ党員を告発する資料書の冊数は、年ごとに増大した。
 地方官僚による「職権濫用」を抑える運動が原因となったのだすれば、これは、通常の市民たちが告発文を書くよう奨励した、スターリン革命の大衆迎合的(populist)的側面の一つだった。
 そして、告発を契機とする調査は、しばしば地方官僚の解任を生じさせた。
 しかし、多数の苦情は、正義のためという誘因と同様程度には、悪意をもって対処する動機を与えることになった。
 一般化していた、特別の攻撃心が惹起したのではない不平不満の感情は、集団農場の経営者や農村地域の官僚の告発の多くを引き起こしたものだった。怒りにみちた集団農場員たちは、1930年代に莫大な数の告発書を書いた。(36)//
 (15)大粛清は、民衆の関与がなくしては実際のようには膨れ上がることはできなかっただろう。
 現実的な不満にもとづく上司たちに対する苦情と同等の役割を、自分本位の告発は果たした。
 スパイ狂が、突如として燃え上がった。過去20年間に頻繁にあったのと同様に。
 例えば、Lena Petrenko という若きピオネールの一人は、ドイツ語が話されるのを聴いて、夏キャンプからの帰路の列車上でスパイを捕まえた。別の注意深い市民は、宗教的托鉢者の顎髭を引っ張って手にそれが落ちたとき、前線から来ていたスパイを発見した。(37)
 役所や党細胞での「自己批判」集会では、恐怖と猜疑心が混じり合って、生け贄が作り出された。病的な(hysterical)追及の仕方であり、弱い者いじめだった。//
 (16)しかしながら、これは民衆によるテロルとは何かが異なっていた。
 フランス革命時のジャコバン・テロルのように、国家によるテロルであり、最もよく目に見える犠牲者は、かつての革命指導者たちだった。
 革命的テロルの先例とは対照的に、自然発生的な民衆によるテロルは、ごく一部だけだつた。
 さらに、テロルの対象は、元来の「階級敵」(貴族、聖職者およびその他の革命へり現実的対抗者)から、革命それ自体の隊列の中での「人民の敵」へと移行した。//
 (17)だが、二つの革命事例でのこのような違いは、類似点と同様に、些細なものだ。
 フランス革命では、革命煽動者ロベスピエール(Robespierre)は、その犠牲者として終末を迎えた。
 これとは対照的に、ロシア革命の大粛清では、主要なテロリストのスターリンは、無傷で生き延びた。
 スターリンは最終的には、忠実な道具だった者たちを殺した(1936年9月から1938年12月までNKVD長官だったエゾフ(Ezohov)は、1938年春に逮捕され、のちに射殺された)。
 しかし、スターリンが事態が制御外へとひどく離れていると感じ、彼自身がかつて危険にさらされていたというMachiavelliの慎重さ以外の何らかの理由によってスターリンはエゾフを排除した、といったことを示すものは存在していない。(38)
 1939年3月の第18回党大会での「大量粛清」との批判や警戒心の「行き過ぎ」の暴露は、静かに行われた。
 スターリンは、自分自身の演説の中で、そうした問題については注意をほとんど払わなかった、と述べた。大粛清(P)はソヴィエト同盟を弱めたという外国の報道についてはそれを論駁するために、わずかな時間を費やしたのだったが。(39)//
 (18)モスクワ見せ物裁判の文書や2-3月中央委員会会合でのスターリンやモロトフの演説原稿を読むと、事態の進行の劇的さのみに衝撃を受けるのではない。衝撃的なのは、それらにある芝居気分、謀りと計略の感覚、同僚者たちが裏切り者だったという報せに対しての、生々しい感情的反応の一切の欠落、だ。
 これは、明確な違いのある、革命的テロルだ。
 映画の原作家でかりにないとしても、その映画の監督の手の存在を、感じる。//
 (19)マルクスは<The 18 Brumaire of Louis Bonaparte(ルィ・ボナパルトのブリュメール十八日)>で、有名な論評を加えた。-偉大な全ての事件は、二度演じられる。一度めは悲劇として、二度めは笑劇(farce)として。
 ロシア革命での大粛清は笑劇ではないけれども、再演されるものの特徴を何がしかもっていた。記憶にある、最初の模範劇で演じられた何かを。
 ロシアのスターリン伝記の作者が示唆するように、ジャコバンのテロルはスターリンにとって一つの模範として役立った、と言うこは可能だ。確かに、スターリンが大粛清に関係するソヴィエトの論議に持ち込んだ「人民の敵」という言葉は、フランス革命での用語に、先立つ例がある。
 その光を当てれば、増大した告発書や民衆の疑心の蔓延というバロック仕立ての設定がなぜ、政治的な敵を殺すという比較的に単純な目的を達成するために必要だったか、を理解することが容易になる。
 実際のところ、さらに進んで、つぎのように記述したくなる。すなわち、古典的な革命の推移によればテルミドールに後続してはならずそれら先立たなければならないテロルを実施するにあたって、スターリンは、自分の支配は「ソヴィエトのテルミドール」になったとするトロツキーによる非難に自分は明確に反駁しているのだ、と感じていたかもしれない、と。(40)
 フランス革命のテロルを小さいものとすら思わせる革命的テロルが現実に行われたあとで、いったい誰が、スターリンはテルミドール的反動家だ、彼は革命に対する裏切り者だ、と言うことができるだろう?//
 --------
 (27)Thomas Carlyle, <フランス革命>(London, 1906), ⅱ, p.362. SUSPITION の全て大文字はFitzpatrickによる。〔=カーライル=高橋五郎訳・佛國革命史/下巻279頁(第三巻第三編第八章)(春秋社松柏館、1942年ーkindle版)を参照した。該当部分に間違いはないと見られるものの、ここで引用される英文とはやや異なることもあり、そのままの書き写しではない。〕
 (28)J. Arch Getty & Oleg V. Naumov<テロルへの途: スターリンとボルシェヴィキの自己破壊, 1932-1939年>(New Heaven, 1999), p.250-p.255.〔=川上洸一・萩原直訳・ソ連極秘資料集/大粛清への道-スターリンとボルシェヴィキの自壊 1932-1939年(大月書店、2001)
 (29)Rovert Conquest<大テロル: 1930年代のスターリンによる粛清>(London, 1968)はこの裁判を生き生きと描写している。新しい版は、同<大テロル: 再評価>(New York, 1990)。
 (30)Molotov, <ボルシェヴィキ>1937, no.8(4月15日)所収、p.21-22.
 (31)会合の資料につき、Getty & Naumov <テロルへの途>p.369-p.411.を見よ。
 (32)<フルシチョフ回想録>, Strobe Talbott訳・編(Boston, 1970), p.572. Grame Gill<スターリン政治体制の起源>(Cambridge, 1990), p.278.
 (33)1937年7月2日の政治局決定「反ソヴィエト要素について」はスターリンによって署名され、7月30日の活動指令は(NKVD長官の)Ezhov により署名されている。Getty & Naumov <テロルへの途>p.470-1.
 (34)これらの数字は、Oleg V. Khlevnyuk<グラクの歴史: 集団化から大テロルへ>(New Heaven, 2004), p.305, p.308, p.310-p.312による。これらの数字は労働強制収容所だけのものであることに注意。この数字は、労働植民区、監獄および行政的追放を含んでいない。
 (35)中央委員会の2-3月会合の議論で、Eikhe。Rossiiskii gosudarstvennyi arkiv sotsial'nopoliticheskoi informatsii(RGASPI), f. p.17, op. 2, d. p.612, l. p.16.
 (36)告発書につき、Fitzpatrick<スターリンの農民>Ch. 9., 同<仮面を剝げ!>Chs. 11-12を見よ。
 (37)<Zvezda>(Dnepropetrovsk)1937年8月1日号, p.3. <Krest'yanskaia pravda>(Leningrad)1937年8月9日号, p.4.
 (38)Ezhov の衰退と没落につき、Marc Jansen & Nikita Petrov<スターリンの忠実な処刑者: 人民委員のNikolai Ezhov, 1895-1940年>(Stanford, 2002), p.139-p.193, p.207-8.を見よ。
 (39)J・スターリン<ソ連共産党(ボ)第18回党大会への中央委員会活動報告書>(Moscow, 1939),p.47-48.
 (40)ヴォルコゴノフ<スターリン>p.260, p.279.
----
 (おわりに)
 (1)ロシア革命が遺したものは何だったのか? 
 1991年の末までは、ソヴィエト体制の存続自体がそれを表現するものだっただろう。
 赤旗や「レーニンは生きている!、レーニンは我々とともにいる!」と書いた横断幕は、まさにその終焉時まで、存在していた。
 支配党たる共産党は、革命の遺産だった。同じように、集団化、五カ年・七カ年計画も、消費用品の定例的な不足も、文化的孤立も、グラク〔強制収容所〕も、世界を「社会主義」陣営と「資本主義」陣営に二分することもそうだった。また、ソヴィエト同盟は「人類の進歩的勢力の指導者だ」との主張も。
 体制と社会はもはや革命的ではなかったけれども、革命は、ソヴィエトの民族的(national)伝統の礎石であり続けた。愛国主義への重点設定、学校で生徒たちが学ぶべき、そしてソヴィエトの民衆芸術によって祝福されるべき主題。//
 (2)ロシア革命はまた、複雑な国際的遺産を残した。
 20世紀の偉大な革命だった。そして、社会主義、反帝国主義およびヨーロッパの古き秩序の拒否のシンボルだった。
 良かれ悪しかれ、20世紀の国際的な社会主義および共産主義の運動はロシア革命の影のもとで活動した。戦後の第三世界解放運動がそうだったように。
 冷戦は、ロシア革命の遺産の一部だった。冷戦が持つ象徴的な力の継続に間接的に寄与したことはもちろんとして。
 ある人々には抑圧からの自由という希望を代表したのは、ロシア革命だった。別の人々には無神論的共産主義の世界的勝利という悪夢を呼び起こしたのは、ロシア革命だった。
 国家権力の奪取によって社会主義の定義を明確にし、経済的かつ社会的変革の道具としてのその用い方を確定したのは、ロシア革命だった。//
 (3)革命には二つの生命がある。
 第一に、現在の一部であると考えられ、現今の政治と不可分だ。
 第二に、現在の一部であることを止め、歴史と民族的伝説の中へと移っていく。
 歴史の一部だということは、フランス革命の例が示すように、政治から全面的に排除されることを意味しはしない。フランス革命は、二世紀後のフランスでの政治的論議でなお、一つの試金石のままだ。
 しかし、懸隔はある。そして歴史研究者に関するかぎりは、解釈するに際しての自由と離反が許されるものに、いっそうなってきている。
 1990年代まではすでに、ロシア革命が現在から抜け出して歴史の中に入っていくのが遅いほどだった。しかし、そう望まれた変化は、遅れたままだった。
 西側では、冷戦という遺物に固執する向きがあったにもかかわらず、政治家ではなくても歴史研究者たちは、ロシア革命はすでに歴史だと多かれ少なかれ判断していた。
 しかしながらソヴィエト同盟では、ロシア革命の解釈は政治的に重要なままであり、ゴルバチョフ時代にまで続く現代政治と連結していた。//
 (4)ソヴィエト同盟の崩壊によって、ロシア革命は徐々に歴史の中へと沈殿していった。
 熱烈な国民的拒絶の意識のうちに-トロツキーの言葉を借りると「歴史のごみ箱へ」の-放擲があった。
 1990年代初めの数年間、ロシア人は革命のみならず、ソヴィエト時代全体を忘れたいと願っているように見えた。
 しかし、過去を忘れるのは困難だ。とりわけ、良かれ悪しかれ外部世界からの注意を惹き付けた過去の一部分については。
 プーティン(Putin)のもとで、レーニン以上に「国家建設者スターリン」を必要とする、ソヴェトの遺産の選択的な再生が、ロシアで始まった。疑いなく、より多くのことがやって来るだろう。//
 (5)かりにフランスが-1989年の200周年記念のときにまだフランス革命の遺産について議論をしていた-何がしかの指針となるのであれば、ロシア革命の意味は、最初の100周年記念日やその後に依然としてロシアで熱く議論されるだろう
 こうしたことは拒絶されている。ロシア革命のみならずソヴィエト時代全体を忘れたいという望みが高くまで達しており、ロシア人の歴史意識の中には不思議な空虚さが残っている。
すぐに、一世紀半前の、ロシアの無名さに関するPeter Chaadayev の嘆きと同様に、ロシアの宿命的な劣等性、後進性および文明からの除外への悲嘆が湧き上がった。
 ロシア人、以前のソヴィエト人にとって、革命の神話の価値が貶められることで喪失したものは、社会主義への信条ではなく、世界でのロシアの重要性についての自信だったように思える。
 革命はロシアに一つの意味を、歴史的運命を与えた。
 革命を通じてずっと、ロシアは先駆者であり、国際的指導者であり、「全世界の進歩的勢力」の模範であり鼓舞者だった。
 今や、夜が明けたかのごとく、全ては過ぎ去っていた。
 党は、もう存在しない。
 74年後に、ロシアは「歴史の前衛」から滑落して、怠惰な後進性をもつ古い姿態のごとく感じられる何物かへと変化した。
 ロシアとロシア革命にとって痛恨のときに、「進歩的な人類の未来」は本当に過去のものだということが判明した。//
 (6)ソヴィエト後のロシアは、2017年が近づいているとき、そのトラウマにまだ藻掻き苦しんでいる。
 プーティン大統領は2014年に、評価は「深く客観的で<職業的>(斜字強調は著者〔Fitzpatrick〕)根拠でもって」なされなければならない、と述べた。明らかに、ロシア革命を現代政治の場に持ち込むことを欲していなかった。
 彼はまた、1917年の事件を「革命」からたんなる「転覆(overthrow)」(<perevorot>)にすぎないものへと分類することを示唆した。
 2017年3月、報道官は、外国の通信記者たちに対して、ロシア革命はロシアでは分裂した見解のある問題なので、100周年を祝賀する公的行事は何も計画されておらず、ロシア革命の解釈に関する公的な指針は何も発せられないだろう、と語った。(41)//
 (7)フランス革命の100周年記念に、フランス人はエッフェル塔を建設し、カルノー大統領〔Marie François Sadi Carnot〕は革命が専政体制を打倒して(彼は注意深く、選出された代議員たちを通じての、と付け加えた)人民主権の原理を確立したことを称賛した
 ロシアでは、2017年の記念物としてのエッフェル塔の類は何も計画されなかった。
 そして、国じゅうが、資本主義と自由市場を習得しようと苦しんでおり、革命がもった、社会主義の中心的な諸原理-とりわけ国家計画と工業化に重点をおくソヴィエト型の社会主義-は、完全に無意味だと考えられてきている。
 しかし、時代は変化する。そしてしばしば、その変化には周期的な要素が加わる。
 22世紀に200周年が近づいているときに、ロシア革命とその社会主義という目標はロシアと世界にどのように見えるのだろうかは、誰にも分からない。
 「全てを忘れるようにしよう」はフランス革命が1989年の基準年を通過するときになされた提案の一つだった。これは、フランスの政治がすでに十分に長く旧来の議論を繰り返してきたという考え(または希望)を反映するものだった。
 しかし、忘れることは容易でもなければ、国民的(national)展望からすると、そう思われるほどには望ましいものでもない。
 好むと好まざると、ロシア革命は20世紀の大きな経験だった。それはロシアにとってだけではなかった。
 そのようなものとして、ロシア革命は歴史書の中にとどまり続けるだろう。//
 --------
 (41)Neil McFarquhar の報告記事「革命?、いかなる革命?、ロシア人は100年後に尋ねる」は、<ニューヨーク・タイムズ>2017年3月10号に出た。
 100周年に関するロシアの当惑についてさらに、Sheila Fitzpatrick 「ロシア革命を祝賀する(または祝賀しない)こと」<現代史雑誌>2017年に近刊、を見よ。
 ----
 以上、シェイラ・フィツパトリク・ロシア革命(2017)、本文p.1-p.174 および注p.175-p.186 の試訳終了。
 **下は、Sheila Fitzpatrick(フィツパトリク、又はフィッツパトリック)。
 sheila04 (2) shela02 (2)

1914/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑲。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第6章・革命の終わり。
 ----
 第2節・裏切られた革命(' Revolution betrayed ')。
 (1)<自由・平等・友愛>を掲げるのは、ほとんど全ての革命がすることだ。しかし、勝利した革命家たちがほとんど不可避的に汚すこととなる主張だ。
 ボルシェヴィキたちは、マルクスを読んでいたので、予めこのことを知っていた。
 彼らは、十月の高揚時ですら、ユートピア夢想家ではなく、実際的で科学的な革命家たろうと最善を尽くした。
 彼らは、階級戦争やプロレタリアート独裁に関連して<自由・平等・友愛>の約束を限定しようとした。
 しかし、古典的な革命のスローガンを拒絶するのは、熱狂なくして革命の成功はあり得ないだろうと同様に、困難だった。
 感情的には、古いボルシェヴィキ指導者たちはいくぶんは平等主義的で自由主義的であらざるを得なかった。
 そして、彼らのマルクス主義理論にもかかわらず、いくぶんは夢想家的だった。
 1917年と内戦の新しいボルシェヴィキ生成時には、知的な抑制のない、同様の感情的反応があった。
 ボルシェヴィキたちは、厳密に平等、自由主義および夢想家的な革命を始めたのではなかった。しかし、革命はボルシェヴィキを少なくとも間欠的には、平等主義的、自由主義的かつ夢想家的にした。//
 (2)十月後のボルシェヴィズムにあった極端に革命的な緊張は、第一次五カ年計画や文化革命の間にも支配的だった。それは行き過ぎたほどで、多少とも実験的な社会的および文化的政策への変化が後に続いた。
 これは、「偉大な退却」と呼称された。この言葉は1930年代のいくつかの重要な「革命的」特質を曖昧にしてしまう。つまり、農業はすでに集団化され、都市での私的取引は非合法となり、新しいテロルの波が文化革命からわずか5年後に発生しようとしていた。
 しかしながら、この言葉は、1930年代半ばに生じた移行期の何がしかを表現している。
 もちろん、多くは見方次第だ。
 外に出てMagnitogorsk やKomsomolsk-na-Amure で社会主義を建設する意気のあった若い熱狂者たちは、変化に大きな意味を認めず、また革命的「退却」の時代を生きているとも考えていなかったように見える。(14)
 他方では、古いボルシェヴィキたちは、とくにかつてのボルシェヴィキ知識人たちは、変化のうちの多くは神経に障るものだと感じていた。とくに、階層制の強調の増大、エリートの特権の承認、体制が初期にしたプロレタリアートとの一体視からの離反、について。
 このような人々は革命に対する裏切りが生じているとのトロツキーの批判に同意しなかったかもしれない。しかし、トロツキーが意味させたことを知っていただろう。//
 (3)「偉大な退却」が最も驚くほどに可視的だったのは、行儀作法(manners)の分野だった。トロツキーのような批判者はブルジョア化と称し、一方で支持者たちは「文化的」になったと叙述するような変化だ。
 1920年代、プロレタリアートの行儀作法はボルシェヴィキ知識人によってすら、洗練されたものになった。スターリンが自分のことを「粗暴な」人間だと党の聴衆に語ったとき、自虐というよりは自己宣伝の響きがあった。
 しかし、1930年代、スターリンは、ソヴィエトの共産党員や外国の質問者に対して、レーニンのような文化的な人間だと自分のことを提示し始めた。
 党の指導部の彼の同僚たちの中では、新しく昇進してきたフルシチョフ(Khrushchev )派は、数の上ではブハーリン派を上回り始めた。彼らは、プロレタリアートの出自に自信をもちつつ、農民のような挙措振る舞いをするのを怖れていた。
 一方でブハーリン派は、文化性について自信をもちつつ、ブルジョア知識人のように挙措振る舞いするのを怖れていた。
 官僚制の下位の層では、共産党員たちは上品な振る舞いの仕方を学び、軍靴や布帽子を捨てようとしていた。上昇志向のないプロレタリアートの一員だと間違われることを望んで、ではなかった。//
 (4)経済の分野では、第二次五カ年計画は冷静な計画への移行を画するもので、労働のための合い言葉は、生産性の向上と技術の獲得だった。
 物質的に誘導をする基本的考え方はしっかりと確立されていた。すなわち、技術に応じた労働者の賃金区別の増大、ノルマ以上の生産に対する報償。
 専門家たちの給料は上がり、1932年に設計者や技術者の平均給料は、ソヴィエト時代の前後を通じていつの時期でも、労働者の平均よりも高かった。
 Stakhanovite 運動(ドンバスの記録破りの炭鉱採掘者〔スタハノフ〕に由来する名前)は、集団的に出費するものだったが、個々の労働者に栄誉を与えた。
 Stakhanovite はノルマ破りで、その成果について惜しげなく報償され、メディアによって賛美された。しかし、現実の世界では、ほとんど不可避的に、仲間の労働者たちの怒りを招き、避けられた。
 彼らは、新しく考案する者および生産の合理化を図る者でもあった。また、専門家の保守的な知識に挑戦する意気があり、ノルマを上げろとの上からの恒常的な圧力に抵抗するために、工場管理者、技術者および労働組合の間の不文の取り決めを暴露した。(15)
(5)教育では、1920年代の穏健で進歩的な傾向とともに、文化革命の広く実験的な展開も、1930年代に突然に転換した。
 宿題、教科書および正式の教室での教育と躾けが、復活した。
 1930年代の遅く、学校の制服が再び出現し、ソヴィエトの高校生は帝制時代の高校(gymnasia)にいた先輩たちにとてもよく似て見えた。
 大学や技術学校では、入学資格は再び政治的かつ社会的な規準ではなくて学業成績にもとづくようになった。
 教授たちは、権威を回復した。そして、試験、単位、学位が復活した。(16)
 (6)現在の生活には意味がない、かつて愛国主義の喚起と支配階級のイデオロギーのために利用されていたという理由で革命後になくなっていた科目の歴史は、学校や大学の教育課程表の中に再び現れた。
 古いマルクス主義歴史研究者のMikhail Pokrovsky が関係していたマルクス主義の歴史は、1920年代には支配的だった。しかし、名前、日付、英雄または感情を掻き立てるものがない、階級闘争の抽象的な記録文書に歴史を貶めているとの理由で、その名声が失われた。
 スターリンは、新しい歴史教科書の作成を命じた。その多くは、Pokrovsky のかつての敵、つまりマルクス主義に口先だけの奉仕をする伝統的な「ブルジョア」歴史研究者が執筆したものだった。
 英雄たち-イワン雷帝やペーター大帝のような過去の帝政時代のロシアの指導者たち-が、歴史に戻ってきた。(17) //
 (7)性の解放については留保があったけれども、ボルシェヴィキは革命後すぐに堕胎と離婚を合法化し、女性の労働する権利を強く支持した。
 これらは一般に、家族や伝統的な道徳価値の敵だと見なされていた。
 母性と家族生活の美徳は、1930年代に復活した。これは反動的な動き、または世論への譲歩あるい同時にいずれも、だと理解されるかもしれない。
 金の結婚指輪が店頭に再び並び、自由な結婚は法的地位を失い、離婚をするのは困難になった。そして、家族に関する責任を少ししか取らない人間は、厳しく批判された(「ひどい夫や父親は、善良な市民になることはできない」)。
 堕胎は、公共的な討論の後で非合法化された。この討論は、親堕胎と反堕胎の両観点からのいずれの支持もあることを示した。(18)
 男性の同性愛は、一般的な注目を受けることなく、犯罪化された。
 初期の頃の開放的な雰囲気に慣れていた共産党員たちにとって、これらは全て小ブルジョアジーの恐るべき俗物根性にきわめて近いものだった。とくに、母性や家族がいま議論された雰囲気にはお涙頂戴的で偽善的なものがあったために。//
 (8)1929年と1935年の間に、ほとんど400万人の女性が、初めて賃金獲得者になった。(19)これが意味するのは、女性解放という元来の基本的な政綱が、無理矢理に実現された、ということだった。
 同時に、家族の価値をあらためて強調することは、かつての解放のメッセージとは矛盾しているように見えた。
 1920年代には想像すらできなかった運動により、ソヴィエトのエリート構成員たちの妻は、自発的にコミュニティ活動をするように示唆された。それは、ロシアの社会主義者たちおよびリベラルなフェミニストですらつねに軽蔑してきた、上流階級の慈善事業ときわめてよく似ていた。
 1936年、上級の産業管理者および技術者の妻たちは、クレムリンで自分たちの全国大会を開いた。そこにはスターリンおよび他の政治局員が出席して、夫たちの工場群で自発的な文化的かつ社会的な組織者として行ってきた彼女たちの栄誉を称えた。(20)//
 これらの妻たちおよびそれぞれの夫たちは、事実上のエリートたちだった。民衆の残余者に対する彼らの特権的な地位は、ソヴィエトの労働者たちの中に不満を、ある程度は党内部に当惑を、増加させるものだった。
 1930年代に、特権と高い生活水準はエリートたる地位には通常の、ほとんど義務的な付随物になった。このような状態は、1920年代とは対照的だった。その頃には、理論上は少なくとも熟練労働者の平均賃金よりも党員の給料は高くならないようにしていた「党の最大限度」によって、共産党員の収入は制限されていた。
 エリート-共産党員官僚たちとともに(党員または非党員の)専門家を含む-は、高い給料だけではなく役務や商品を利用できる特権をもったり多様な物質的かつ名誉上の報償を得ることで、一般民衆とは離れた別のところにいた。
 エリート構成員は、一般民衆には開かれていない店を使い、他の消費者は利用できない商品を買い、休日には特別の保養地や設備のよい別荘で休日を過ごす、そういうことができた。
 彼らは、しばしば特別のマンション地区に住み、お抱え運転手の車で仕事に出かけた。 このような状況の多くは、第一次五カ年計画の間に物不足が切迫したことの反応として発展した閉鎖的な配分制度から生じてきたものだったのだが、風土の永続的な特徴になったままだった。(22)
 (9)党指導者たちは、エリートの諸特権の問題にまだいくぶんは神経質だった。
 明瞭な見栄や貪欲さに対しては、叱責があり得た。あるいは、大粛清の間には生命を賭すものですらあった。
 ともかくも、一定の地点までは、エリートたちの諸特権は秘匿された。
 多数の古いボルシェヴィキたちは、禁欲的生活を好み、奢侈に屈服した者を批判した。 <裏切られた革命>でのこの問題についてのトロツキーの厳しい批判は、正統派スターリニストであるMolotov が私的に行ったものと大きくは異なるものではなかった。(23)
 そして、明瞭な消費や取得願望は権限濫用であり、不名誉な共産党員エリートたちは大粛清の時期にいつもの様に批判された。
 言う必要はないことだが、特権的な官僚階級、「新しい階級」(ユーゴスラヴィアのマルクス主義者のMilovan Djilas が一般化した言葉を使うと)または「新しいサービス上層者」(Robert Tucker の言葉)の出現に関しては、マルクス主義にとっては概念上の問題があった。
 この問題に関するスターリンの対処方法は、新しい特権階級を「知識人界」と称することで、こうして、社会経済的優先性から文化的優先性へと焦点を転換させることだったた。
 スターリンによる説明では、この知識人界(新しいエリート)は、政治に関する共産党のそれに対応する、前衛たる役割を与えられる。
 知識人界(新しいエリート)は文化的前衛として、当面は民衆のその他の者たちが利用できる以上に、広い範囲の文化的価値を不可避的に利用できる。(25)//
 (10)文化生活は、体制側の新しい方向づけに大きく影響される。
 第一に、文化的関心と文化的振る舞い方(<kul'turnost>)は、共産主義者が示すことが期待されているエリートたる地位の見える印の一つだった。
 第二に、非共産党員専門家-つまり、かつての「ブルジョア知識人」-は新しいエリートの一部であり、社会的には共産党員官僚たちと混合され、同じ諸特権を分け合っていた。
 このことは、党にある、文化革命を可能にした古い反専門家的偏見にもとづく拒絶を生じさせた。
 (スターリンは1931年の「六条件」演説で、ブルジョア知識人層よにる「破壊」の問題について方針を転換し、大胆にも、古い技術的知識人層はソヴィエト経済を妨害する試みを放棄したと語り、制裁は重すぎる、工業化の成功はすでに確保された、と分かっていると述べた。)(26)
 古い知識人層への好意が戻るとともに、文化革命時の活動家だった共産党員知識人の多くは、党指導部からは好まれなくなった。
 文化革命の基本的な想定の一つは、革命的時代はプーシキン(Pushkin)や<白鳥の湖>とは異なる文化を必要とする、ということだった。
 しかし、スターリン時代には、古いブルジョア知識人層は文化的遺産を忠実に守ろうとし、新しい中間階層の聴衆は理解できる接近可能な文化を探し求めていたが、プーシキンと<白鳥の湖>は勝利者だと分かった。//
 (11)しかしながら、正常さが本当に戻ってきたと語るのは、まだ早かった。
 外部的な緊張があり、それは1930年代にずっと着実に増えていた。
 1934年の「勝利の大会」では、討論の話題の一つは、ヒトラーが近年にドイツの権力へと到達しようとしていることだった。-従前に生じはじめたばかりの、西側資本主義諸国による軍事干渉の怖れに、具体的な意味を与える事態。
 多くの種類の国内的緊張があった。
 家族の価値について語ることは全てがうまくいった。しかし、都市と駅舎はもう一度、内戦期のように、遺棄されたまたは孤児の子どもたちで溢れた。
 ブルジョア化は、都市居住者のごく一部の少数者のみが利用することができた。
 残りの者たちは、「共同アパート」へと詰め込まれた。かつては一家族の住まいだった邸宅で、数家族がそれぞれ一つの部屋を占用し、台所と浴室を共用した。また、全ての基礎的商品の配給制度は、今なお機能していた。
 スターリンは、集団農場の者たちに、「同志たちよ、生活は良くなってきている」と語ったかもしれなかった。しかし、当時に-1935年に-、わずか二回の収穫期だけが、1932-33年の飢饉とは別に存在した。//
 (12)革命後の「正常さ」の中身が未決定なままであることは、1934-35年の冬に例証された。
 パンの配給は1935年1月1日から行われることになっていた。そして、体制側は、「生活は良くなっている」をテーマとする電撃的な情報宣伝活動をすることを計画した。
 新聞紙は、近いうちに(疑いなく、数店の高価な商業店舗でのみ)利用できる商品の豊富さについて祝賀し、モスクワっ子が新年を迎える仮装舞踏会の陽気さと優雅さを叙述した
 2月、集団農場の大会が、新しい集団農場憲章を祝福するために開かれた。この憲章は、私的区画地を保障し、農民たちに対するその他の譲歩を行っていた。
 これら全ては、滞りなく1935年の最初の数カ月には行われた。-しかし、緊張と予感の雰囲気があり、また12月の、レニングラード党組織の長、Sergei Kirov の暗殺によって暗鬱な空気が広がった。
 党と党指導部は、この事件によって痙攣状態に投げ込まれた。
 大量の逮捕が、レニングラードで続いた。
 革命後の「正常さへの回帰」の予兆や象徴はあったにもかかわらず、正常さは、まだはるか遠くにあった。//
 --------
 (14) 1930年代に若者だった人々の日記や回想録は、「偉大な退却」という認識をほとんど示していない。例えば、Jochen Hellbeck, <記憶の中の革命>(Cambridge, MA, 2006)を見よ。
 (15) Lewis H. Siegelbaum, <Stakhanovismとソ連邦での生産性に関する政策, 1935-1941>(Cambridge, 1988).
 (16) Fitzpatrick,<教育と社会的流動性>p.212-p.233.; Timasheff, <偉大な退却>p.211-225.
 (17) David Brandenberger, <民族的ボルシェヴィズム: スターリニズム大衆文化と現代ロシアの国民的Identity の形成, 1931-1936>(Cambridge, MA, 2002), p.43-62.を見よ。
 (18) 堕胎論争につき、Sheila Fitzpatrick, <スターリニズム下の毎日>(New York, 1999), p.152-6.を見よ。
 (19) Wendy Z. Goldman, <門にいる女性たち: スターリン下のロシアの性と工業>(Cambridge, MA, 2002), Ⅰ。
 (20) 妻たちの運動につき、Fizpatrick,<スターリニズム下の毎日>P.156-163.を見よ。
 夫による抑圧に対する抵抗を含む、かつての解放メッセージは、「遅れた」女性たち(農民、少数民族)との関係で依然として称揚されていること、女性の仕事は重要な価値をもったままで、一定のエリート女性たちですら代わりに自発的(volunteerの)役割の方を選択しうることに注意。
 (21) Sarah Davies, <スターリン下のロシアでの世論>(Cambridge, 1997), p.138-144.を見よ。
 (22) エリートの諸特権につき、Fitzpatrick, <スターリニズム下の毎日>p.99-109.を見よ。
 (23) トロツキー<裏切られた革命>p.102-5.; <モロトフは記憶する>p.272-3.
 (24) Milovan Djilas, <新しい階級: 共産主義体制の一分析>(London, 1966); Robert C. Tucker, <権力にあるスターリン>(New York, 1990).
 (25) この点に関する一つの考察として、Sheila Fitzpatrick「文化的になること-社会主義的リアリズムと特権や趣味の表現」同<文化戦線>所収p.216-237.を見よ。
 (26) 「新しい諸条件-経済建設の新しい任務」(1931年6月23日)スターリン全集第13巻p.53-82.所収、を見よ。〔=日本語版スターリン全集第13巻「新しい情勢-経済建設の新しい任務」72-99頁。〕
 ----
 第3節(最終節)の表題は、「テロル」。

1913/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑱。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 ----
 第6章・革命の終わり(Ending the Revolution)。
 (はじめに)

 (1)Crane Brinton によれば、革命とは高熱(fever)のようなものだ。患者に取りつき、頂点にまで達し、最終的には平癒し、患者は正常な生活を取り戻す。
 -「おそらくは、経験によって強くなり、少なくともしばらくの間は似たような病気から免れる、といった側面で言えば。しかし確実に、完全に新しい人間に作り替えられるのではない」。(1)
 Brinton の比喩を用いれば、ロシア革命は、いくつかの高熱の発作期を経過した。
 1917年革命と内戦が、最初の発作だった。
 第一次五カ年計画による「スターリンの革命」は、二度めだった。
 そして、大粛清(the Great Purge)が、第三番めだ。
 このような図式では、ネップという幕間は再発の前の快方期だ。あるいは、ある人々は、ネップ期は不幸な患者に新しい病原菌(virus)を注射した、と主張するかもしれない。
 快方期の第二の時代は〔ネップ期を第一のそれとすると〕、1930年代半ばに始まった。トロツキーが「ソヴィエトのテルミドール」とレッテル貼りし、Timasheff が「偉大な退却」と称した、安定化政策による時代だ。
 1937-38年の新たな再発期の後で、高熱は治癒されたように見え、患者は正常な生活を取り戻そうとよろよろと寝台から起き上がった。//
 (2)しかし、その患者は、革命という高熱の発作の前と、本当に同じ人間だったのか?
 確かに、ネップという「快方」は、多くの点で1914年の大戦勃発、1917年の革命という転覆、そして内戦によって遮断された生活様式の回復を意味した。
 しかし、1930年代の「快方」の性格は異なっていた。この時期のために、旧来の生活との間の連環の多くは、破壊されてしまったからだ。
 事態は、旧来の生活の回復というよりも、新しい生活の始まりだった。
 (3)ロシアの日常生活の構造は、初期の1917-20年のの革命的経験は本当のものではなかったふうに、第一次五カ年計画という大動乱によって変わった。
 1924年のネップの幕間、モスクワっ子たちは10年間の不在から戻ってきて、自分の市電話帳(古い意匠と型式は戦前とほとんど変わっていなかったので、すぐに理解できた)とをひっぱり出すことができ、一覧表で自分のかつての医師、弁護士、そして株式仲買人や好みの甘菓子店ですら(電話帳には最も旨い輸入チョコレートの宣伝がまだあった)や、食堂、区の聖職者、むかし時計を修繕してくれ、建設素材や現金登録機を売ってくれた会社を発見する機会がまだあった。
 10年後の1930年代半ばには、これらのほとんど全てが消失することになった。そして、帰還した旅行者は、多数のモスクワの通りや広場が改名され、教会やその他のよく知る目印の建物が破壊されていたので、さらに当惑した。
 その後数年のうちに、電話帳自体がなくなり、半世紀の間、再発行されなかった。
 (4)革命とは人間のエネルギー、理想論および憤激が異常に集中するものなので、その集中力がいずれかの時点で鎮静化するのは、事物の本性的なことだ。
 しかし、革命は、それを否認することなくして、どのようにして終わらせるのか?
 長く権力のうちにいて革命的衝動が衰亡していくのを見る革命家たちにとって、これは厄介な(tricky)問題だ。
 かつての革命家たちはBrinton の比喩にほとんど従うことはできず、いまや革命の高熱から回復したのだ、と発表することもしないだろう。
 しかし、スターリンは、敢えてそうすることができた。
 スターリンによる革命の終わらせ方は、勝利を宣言することだった。//
 (5)勝利という飾り言葉が、1930年代前半の空気を覆った。
 作家のMaxim Gorky が創刊した<我々の偉業>と題する新しい雑誌は、この精神を顕著に例証していた。
 工業化と集団化の闘争に勝利した。ソヴィエトの宣伝者は呼号を上げた。
 階級敵は、絶滅した。
 失業は、なくなった。
 基礎的教育は一般的かつ義務的になり、(主張されたところでは)ソヴィエト同盟の成人の識字能力者は90パーセントまで向上した。(3)
 計画によって、ソヴィエト同盟は世界に対する人間の制御に関して巨大な前進を行った。人間はもはや、統制できない経済的諸力の、よるべなき犠牲者ではなかった。
 「新しいソヴィエト人間」が、社会主義建設の過程で出現していた。
 工場が広い草原に建ち上がりソヴィエトの科学者や技術者が「自然の征服」に精励するにつれて、身体的環境ですら、変化してきていた。//
 (6)革命に勝利したと言うのは、明らかに、革命はすぎ去ったと言うことだった。
 何かがまたは何らかの程度で、緊張に満ちた革命の遂行からの休息が見出され得るとすれば、勝利の果実を享受するときだった。
 1930年代半ば、スターリンは、生活が気楽になったと語り、「我々の街頭での休日」を約束した。
 秩序、中庸、予見可能性および安定といった美徳が、公的な好みへと再び変わってきた。
 経済領域では、第二次五カ年計画(1933-37)は、ひどく野心的だった第一次よりは、率直でかつ現実的だった。重工業基地を建設することを強調するのは変わらなかったけれども。
 田園地帯では、体制側は集団化の枠組みの範囲内で農民層に対して宥和的な提案をもちかけ、集団農場を作動させようとした。
 非マルクス主義論評者のNicholas Timasheff は、生起している事態を革命的な価値と方法からの「偉大な退却」だと肯定的に叙述した。
 トロツキーはこれに同意せず、「ソヴィエトのテルミドール」、革命に対する裏切りだと性格づけた。//
 (7)この最終章では、革命から革命後への移行について、三つの点を私は検証するつもりだ。
 第一節では、1930年代に体制側が主張した革命の勝利の性格を扱う(<達成された革命>)。
 第二節では、同じ時期のテルミドール的政策と傾向を検証する(<裏切られた革命>)。
 第三節の主題の<テロル(the Terror)>とは、1937-38年の大粛清(the Great Purges)のことだ。
 これは、第二節の「正常さへの回帰」に新しい光を当てるもので、正常性は革命と同様にほとんど理解し難いものであり得る、ということを想起させるだろう。
 体制側が行った革命の勝利宣言には空虚さがあるのと全く同様に、民衆が受け入れようと望んだ、生活は正常に戻ったという主張にも、大量の虚偽と作り事があった。
 革命を終わらせるのは、容易なことではない。
 革命という病原菌は体制の中にとどまり、緊張のもとでは再び発症させがちだ。
 これが生じたのが、大粛清だった。すなわち、革命に残されていた多くのもの-理想主義、変革への熱情、革命的用語集、そして最後に革命家たち自身-を燃え上がらせた革命的高熱の最終発作。//
 --------
 (1) Cane Brinton, <革命の解剖学>(rev. edn, New York, 1965), p.17.
 (2) L. Trotsky, <裏切られた革命>(London, 1937)、Nicholas S. Timasheff, <偉大なる退却-ロシアでの共産主義の成長と衰退>(New York, 1946)。
 (3) 識字能力の必要につき、Fitzpatrick <教育と社会的流動性>p.168-176.を見よ。
 被抑圧民族の民衆の1937年調査では、9歳から49歳までの住民の75パーセントは識字能力がある(<略>, 1990)。50歳を超える者を含めると、この数字は明らかに低くなるだろう。
----
 第1節・「達成された革命」(' Revolution accomplished ')。
 (1)1934年初めに開かれた第17回党大会は、「勝利の大会」と呼ばれた。
 彼らの勝利は、第一次五カ年計画の間に起きた経済の移行だった。
 都市経済は、小さな協同組合部門を除いて、完全に国有化された。
 農業は、集団化された。
 こうして、革命は、生産様式を変えるのに成功した。
 そして、マルクス主義者ならば誰でも知るように、生産様式はその上に社会、政治および文化という上部構造の全体が依拠する経済的土台(base)だ。
 ソヴィエト同盟には今や社会主義の土台があるとすれば、それに従って上部構造が適合しないことなどあり得るだろうか?
 共産主義者は、土台を変えることで、社会主義社会を生み出すためになすべき必要なことを全て行った。-そしておそらくは、マルクス主義の趣旨でなされ得る全てのことを。
 残りは、時間の問題だ。
 社会主義経済は、自動的に社会主義体制を生むだろう。資本主義がブルジョア的民主主義政体を生んだのと全く同じように。//
 (2)これは、理論上の定式化だった。
 実際には、ほとんどの共産党員は、革命の任務と勝利とを単純な意味で理解した。
 任務は、第一次五カ年計画が示した、工業化と経済の近代化だった。
 新しい煙突や新しいトラクターは全て、勝利の証拠だった。
 革命がソヴィエト同盟で、外部の敵から身を守ることのできる、力強い近代的な工業社会の基礎を設定するのに成功したとするならば、革命はその使命を達成した。
 このように言うとき、いったい何が達成されたのか?
 (3)誰も、ソヴィエトの工業化追求の可視的な兆候を、見逃すことはできなかった。
 建設中の場所は、いたるところにあつた。
 第一次五カ年計画の間には、急速な都市の成長があった。旧来の産業中心地は巨大に膨れ上がり、静かな地方の町は大きな工場の出現によって変わり、新しい工業や鉱業の開発地がソヴィエト同盟のいたるところで飛躍していた。
 巨大な新しい冶金や機械建設工場群が建設中であるか、またはすでに作動していた。
 トルコ・シベリア鉄道と巨大なDnieper 水力発電ダムが、建設されていた。(4)
 (4)第一次五カ年計画は、4年半後の1932年に、成功裡に達成されたと宣言された。
 公式の諸結果は、国内および国外でソヴィエトによって集中的に連発されたプロパガンダの対象になっていた。これらの信憑性は、きわめて注意深く取り扱われなければならない。
 にもかかわらず、西側の経済学者たちは、本当に経済成長があった、と一般的には受け容れた。そして、Walt Rostow がのちに工業上の「離陸」と呼んだほどになった。
 第一次五カ年計画の結果を要約して、あるイギリスの経済史学者は、つぎのように記す。
 「全体としてのその主張の真偽は明瞭ではないけれども、力強い技術工業が生まれつつあり、工作機械、タービン、トラクター、冶金機器等々の生産高は本当に印象的な割合で上がっていることは、全く疑いがない」。 
 鋼鉄生産はその目標高に比べてはるかに少なかったけれども、(ソヴィエトの数字によれば)ほとんど50パーセントずつ依然として上がっていた。
 計画上の増加はもっと上だったけれども、鉄鉱石の産出は二倍以上になった。そして、無煙炭や銑鉄の生産は、1927/28年から1932年までの間に二倍に近くなった。(5)//
 (5)工業化追求は、容赦なく単直にその速度と生産高を強調するものだった。しかし、上のような結果は、工業化に諸問題があったということを否定するものではない。
 産業上の事故はありふれたことで、資材の膨大な無駄使いがあった。
 品質は低く、欠陥のある産物の割合は高かった。
 ソヴィエトの戦略は財源および人的資源の観点からは高くつくものだった。そして、成長率という点ですら、必ずしも最適なものではなかった。ある西側の経済学者は、基本的にネップの枠組みから出発することがなくしても、1930年代半ばまでには同様の水準の成長をソヴィエト同盟は達成することができていただろう、と計算した。(6)
 「計画を実現する、上回って達成する」と頻繁に語られたことの意味は、理性的な計画を棚上げし、いかなる犠牲を払ってもいくつかの優先順位の高い生産目標に焦点を合わせる、ということだった。
 新しい工場はトラクターやタービンのような魅力的な製品を作っているかもしれなかった。しかし、第一次五カ年計画の間ずっと釘や包装資材が切実に不足していた。また、農民による牽引や荷車運搬の崩壊が集団化の予期せぬ結果として生じ、これが工業のあらゆる部門に影響を与えた。
 Donbass の石炭工業は1932年に危機に瀕し、その他の多数の重要工業部門が建設や生産に関する切迫した問題を抱えていた。//
 (6)こうした諸問題があったにもかかわらず、目立つものを達成する過程にあるとソヴィエトの指導者たちが純粋に信じた分野は、工業だった。
 事実上は全ての共産党員たちが、そのように感じていた。かつて左翼または右翼の反対派に共感を覚えていた者たちですら。
 そして同じような誇りと興奮が、党籍があるか否かに関係なく、若い世代の者たちには、そしてある程度は都市民衆全体にも、明らかにあった。
 以前の多数のトロツキー派の者たちは、第一次五カ年計画への熱狂を理由として反対派から離れた。トロツキー自身ですら、これを基本的には是認していた。
 1928-29年に右派へと傾いた共産党員たちは、公的に撤回し、工業化に完全に携わった。
 以前の懐疑者たちの心の内部では、Magnitogorsk やStalingrad のトラクター工場群およびその他の大きな工業上の計画の価値は、重い抑圧や過度の集団化のようなスターリンの政策方針にある否定的な側面を上回るものだった。//
 (7)集団化は第一次五カ年計画のアキレス腱であり、危機、対立や即席の解決方法のいつもの根源だった。
 肯定的な面では、集団化は、安くて交渉によらない価格で、農民が売りたい量よりも多く国家が穀物を調達する、望ましい仕組みになった。
 消極的な面では、集団化は、農民を憤激させ、働きたい気持ちを喪失させ、家畜の大量殺戮の原因となり、1932-33年の飢饉を引き起こした(経済と行政制度の全体的危機を刺激した)。そして、国家は、「農民層を搾り上げる」元来の戦略とは比べものにならないほどの多額の投資を農業部門に注ぎ込むことを余儀なくさせた。(7)
 理論上は、集団化はもっと多くのことを意味し得たはずだった。
 1930年代のソヴィエト同盟で実施されたように、集団化は国家による経済的収奪の極端な形態であり、理解できることだが、農民層はそれを「第二の農奴制」だと見なしていた。
 このことは農民層にとってのみならず最初に手がけた共産党の幹部たちにとっても、意気を挫くものだった。//
 (8)集団化に関しては、誰もが本当に幸福ではなかった。共産党員たちは集団化の闘争に勝利したと考えたが、多大な対価を払ってのことだった。
 さらに加えて、現実に存在した集団農場は、共産主義者が夢見たものとも、ソヴィエトの宣伝活動が叙述したものとも、異なっていた。
 現実の集団農場は、小さくて、村落を基盤とし、原始的だった。一方、夢見た集団農場は、大規模で、近代的な、機械化された農業の展示場だった。
 現実の集団農場には、地域の機械・トラクター基地へと移されたのでトラクターが不足していたばかりか、集団化の間に馬を殺戮したために、伝統的な牽引動力も切実に不足していた。
 村落での生活水準は集団化によって急速に落ち込み、多くの場所でぎりぎりの生存状態へと沈んでいた。
 電気は、1920年代にそうだったよりも、村落では一般的ですらなかった。「クラク」の粉引き屋が消失してしまったからだ。かつては、彼らのもつ水力発電のタービンが電気を発生させていたのだ。
 村落にいた多数の共産党官僚たちには無念なことに、農民たちには私的な小区画地の耕作が認められていたため、このことが集団化田畑で働くことに嫌気を起こさせたとかりにしても、集団化された農業は十分に社会化されてすらいなかった。
 スターリンが1935年に認めたように、私的区画地は農民家族の生存には不可欠だった。それこそが、農民たちの(そして国家の)ミルク、卵および野菜を提供していたからだ。
 1930年代のうちの長く、集団農場での労働について農民が受け取る唯一の支払いは、穀物収穫分の小さな分け前だった。(8)//
 (9)革命の政治的目標に関しては、1931年、1932年および1933年の不安な時期を体制が何とか生存し続けたこと自体が多くの共産党員にとっては勝利-おそらくは奇跡-だったように見える、と言って誇張ではないだろう。
 さらに、これは公衆が祝うような勝利ではなかった。
 もう少し何かが、必要だった。なるべくならば、社会主義に関する何かが。
 1930年代の初めには、「社会主義の建設」や「社会主義的構築」について語るのが流行していた。
 しかし、これらの語句は、決して厳密には定義されていなかったが、完成させることではなくて、過程を示唆していた。
 スターリンは、1936年に新ソヴィエト憲法を制定するに際して、「建設」段階は基本的には終了した、と述べた。
 これが意味するのは、社会主義は、ソヴィエト同盟で達成された事実だ、ということだった。//
 (10)理論的には、これは全くの飛躍だった。
 「社会主義」が正確に何を意味するかはつねに曖昧で、かりにレーニンの(1917年9月に書かれた)<国家と革命>を指針にするとしても、地方的(「ソヴィエト」)民主主義、階級対立や階級による搾取の消滅および国家の死滅という意味を含んでいた。
 この最後の要件は、躓きの石だった。最も楽観的なソヴィエト・マルクス主義者ですら、ソヴィエト国家が死滅した、あるいは近い将来にそうなるとは、ほとんど主張できなかっただろう。
 解決策として見出されたのは、新しい、または少なくともこれまでは無視されてきた、社会主義と共産主義の間の理論上の区別を導入することだつた。
 <共産主義>のもとでのみ国家は死滅する、ということが知られるに至った。
 社会主義は、革命の最終目的ではないけれども、ソヴィエト同盟が資本主義国に包囲された真ん中に存在する、相互に敵対し合っている国民国家で成る世界では、達成することができる最善のものだ。
 世界革命が起きて初めて、国家は消滅する。
 それまでは、世界で唯一の社会主義社会を敵から防衛するために、力強くあり続けなければならない。//
 (11)ソヴィエト同盟にいま存在している社会主義の特質は、いったい何なのか?
 この疑問に対する回答は、1918年のロシア共和国の革命的憲法以降の最初の、新しいソヴィエト憲法で与えられた。
 これを理解するためには、マルクス=レーニン主義によれば革命と社会主義の間にはプロレタリアート独裁という移行期があるねということを想起しなければならない。
 1917年十月にロシアで始まった段階の特徴は、古い所有者階級がプロレタリア国家による収奪と破壊に抵抗した、激しい階級戦争だった。 
 階級戦争の中止だと、スターリンは新憲法の制定に際して説明した。新憲法は、プロレタリアート独裁から社会主義への移行を画するものだ。//
 (12)新憲法によると、全てのソヴィエト公民は平等の諸権利をもち、社会主義に相応した公民的自由を保障される。
 資本主義ブルジョアジーとクラクは今や排除されたので、階級闘争は消失した。
 ソヴィエト社会にはまだ、階級がある-労働者階級、農民層および知識人層(厳密には階級ではなく層と定義される)。しかし、それらの関係は対立や収奪から自由だ。
 それらは地位について対等で、社会主義とソヴィエト国家に対する貢献についても対等だ。(9)//
 (13)このような主張は、数年にわたって、非ソヴィエトの論評者たちを憤激させた。
 社会主義者たちは、スターリン体制が本当の社会主義だというのを拒否した。
 別の者たちは、自由や平等に関する憲法上の約束は当てにならないと指摘した。
 欺瞞の程度または瞞着する意図の程度に関して議論の余地はあるが(10)、憲法はソヴィエトの現実との関係を曖昧にしか定めていないのだから、こうした反応は理解することができる。
 しかしながら、我々のここでの議論の文脈では、憲法をあまりに真面目に取り扱う必要はない。革命の勝利という主張に関するかぎりは、この憲法は、共産党や社会全体にある感情的な責務とはほとんど関係がない「後知恵」だった。
 たいていの人々は無関心で、ある人々は混乱していた。
 社会主義がすでにソヴィエト同盟に存在しているという報道に痛烈に反応したのは、若い報道記者たち、故郷の村落の原始的で悲惨な生活を知っている、社会主義の未来を本当に信じている者たち、だった。
 <これ>はそもそも、社会主義だったのか?
 「いや違う。このような失望と、このような悲しみを、以前も今後も、私は経験したことがなかった」(11) 。//
 (14)新憲法上の平等諸権利の保障は、ロシア共和国の1918年憲法からの実際的な変化を代表するものだ。
 1918年憲法は明らかに、平等諸権利を保障して<いなかった>。旧来の搾取階級の者たちはソヴィエトの選挙での投票権を剥奪され、都市労働者の投票権は農民のそれに比べて有利に扱われていた。
 これと関連して、階級差別の法令による手の込んだ構造が、労働者に特権的な地位を与え、革命以降にいたブルジョアジーを冷遇するために作られていた。
 1936年憲法の今では、階級に関係なく、全員に投票権がある。
 「公民権のない者たち」(<lishentsy>)という汚名的範疇は、消失した。
 階級差別的な政策と実務は、新憲法の導入以前にすでになくなっていた。
 例えば、大学入学については、労働者に有利な差別的措置は、数年前になくなった。//
 (15)こうして、階級差別からの離反は本当のことだった。決して、憲法が意味させるほどには完全ではなく、旧来のやり方で物事をするのに慣れていた共産党員たちから、相当の抵抗に遭遇したけれども。(12)
 こうした変化の意義は、二つの観点から解釈することができるだろう。
 一方で、階級差別の削除は、社会主義的平等のための必須要件だと見ることができる(「達成された革命」)。
 他方で、それは体制側によるプロレタリアートの放棄だと受け取ることができる(「裏切られた革命」)。
 労働者階級の地位やそれのソヴィエト権力との関係は、新しい秩序のもとで、不明瞭なままだった。
 プロレタリアート独裁の時代は終わったのか、に関して、率直な公式の言明は何らなかった(これは、ソヴィエト同盟がすでに社会主義の時代に入っているとすれば、論理的な推論だけれども)。しかし、言葉遣いは、「プロレタリアの主導性」から「労働者階級の指導的役割」という穏やかな定式へと、変化した。//
 (16)トロツキーのようなマルクス主義者の批判者は、党は、社会的支持の主要な根源である労働者階級に代わって官僚機構を置き換えることを認めることによって、精神的拠り所(mooring)を失った、と主張するかもしれなかった。
 しかし、スターリンは、異なる見方をしていた。
 スターリンの立場からすると、革命が達成した偉大なものの一つは、労働者階級および農民層から募って集めて「新しいソヴィエト知識人層」(本質的には新しい管理および職業上のエリート)を生んだことだった。(13)
 ソヴィエト体制は、もはや、忠誠心はつねに疑わしい、かつてのエリートたちの残滓に依存する必要がなかった。そうではなく、今や育て上げた「指導的幹部や専門家」という自分たちのエリート、彼らの昇進や経歴は革命のおかげであり、完全に体制(とスターリン)に忠誠心をもつと信頼することができる者たち、に依拠することができた。 
 体制側がいったんこの「新しい階級」-命令的地位へと昇進した「昨日」の労働者や農民たち-を社会的基盤としてもつならば、プロレタリアートの全ての問題とそれと体制との特別の関係などは、スターリンの目には重要ではないものにになる。
 結局は、1939年の第18回党大会で行ったスターリンの論評で示唆されていたように、旧来の革命的労働者階級の花は、実際には、新しいソヴィエト知識人層の中へと植え換えられていた。そして、昇進することができないで嫉妬する労働者には、そうしたことの多くはより悪いことだった。
 こうした観点が新しいエリートたちの中の「労働者階級の息子たち」の完全な意味となることはほとんど疑いがない。新しいエリートたち、つまりは、いたるところで上方に向かって移動し、不利な出身背景に誇りをもつとともにそれから離れたことが幸福な者たちのことだ。//
 --------
 (4) トルコ・シベリア鉄道につき、Matthew J. Payne, <スターリンの鉄道-Turksib と社会主義建設>(Pittsburgh, 2001)を見よ。
 Dneprostroi につき、Anne Rassweiler, <電力の世代-Dneprostroi の歴史>(Oxford, 1988)を見よ。
 (5) Alec Nove <ソ連邦の経済史>(new edn; London, 1992),p.195-6.
 (6) Holland Hunter 「野心的すぎる第一次五カ年計画」<Slavic Review>32: 2(1973), p.237-p.257。
 より肯定的な読み方につき、Robert C. Allen, <農場と工場-ソヴィエト工業革命の再解釈>(Princeton, NJ, 2003)を見よ。
 (7) James Miller & Alec Nove 「集団化に関する討議」<共産主義の諸問題>(1976年7-8月号)p.53-55より、James R. Miller 「『標準的物語』のどこが間違いか?」を見よ。
 (8) 1930年代の現実の集団農場に関するより詳細な議論として、Fitzpatrick, <スターリンの農民>Ch. 4-5.を見よ。
 (9) J. Stalin <新ソヴィエト憲法上関するスターリン>(New York, 1936).
 1936年12月5日にソ連邦のソヴィエト第8回臨時大会で採択された憲法の条文につき、<憲法-ソヴィエト社会主義共和国同盟の基礎法典>(Moscow, 1938)を見よ。
 (10) ソヴィエトの選挙を民主化しようとの体制側の純粋な意図は、大粛清に関連する社会的緊張によって挫折した。このことにつき、J. Arch Getty 「スターリンのもとでの国家と社会-1930年代の憲法と選挙」<Slavic Review>50: p.1 (1991年春号).を見よ。
 (11) N. L. Rogalina <集団化: urki proidennogo puti >(Moscow, 1989)p.198.で引用されている。
 (12) Fitzpatrick<仮面を剝げ!>p.40-43, p.46-49.を見よ。
 差別の古いやり方は消失したけれども、新しい形態があったことに注意。
 集団農場員は他の公民との平等な諸権利を享受したのではない。追放されたクラクたちや、その他の行政上の追放者については言うまでもない
 (13) Fitzpatrick「スターリンと新エリートの形成」同<文化戦線>所収p.177-8.を見よ。
 ----
 つぎの第二節の表題は、「<裏切られた革命>」。

1903/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑮。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命。
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳のつづき。
 第4章までは済ませている。
 各節の前の見出しのない部分はこれまでどおり「(はじめに)」とここでは題しておく。しかし、正確な言葉ではなく、これまでの章もそうだが、章全体の内容をあらかじめ概述するような意味合いのものであるようにも見える。
 これまでと同様に、一文ごとに改行し、本来の改行部分には//を付す。但し、新規にだが、原文にはない段落番号を( )の中に記すことにした(但し、太字化はしない)。
 ----
 第5章・スターリンの革命。
 (はじめに)
 (1)第一次五カ年計画(1929-1932)による工業化追求とそれに伴う強制的農業集団化は、しばしば「上からの革命」だと叙述されてきた。
 しかし、戦争の比喩的描写と同じようにするのが適切だった。そしてこの当時は、-ソヴィエトの注釈者たちが好んで行ったように「戦闘の真只中」のときには-戦争に関係する暗喩の方が、革命的な語法よりすら一般的だった。
 共産党員(共産主義者)は「戦闘員」だった。ソヴィエトの力は工業化と集団化という「戦線」へと「動員」されなければならなかった。
 ブルジョアジーやクラク〔富農〕という階級敵から「反撃」や「伏兵攻撃」がなされることが、想定され得た。
 ロシアの後進性に対する戦争だった。そして同時に、国の内部と外部にいるプロレタリア-トに対する階級敵との戦争だった。
 実際にこの時期は、ある範囲の歴史研究者ののちの見方によれば、「国民(the nation)」に対するスターリンの戦争の時代だった。(1)//
 (2)戦争で喩えるのは、明らかに、内戦と戦時共産主義の精神に立ち戻ることおよび非英雄的なネップという妥協を非難することを意味していた。
 しかし、スターリンはたんに表象を弄んでいたのではなかった。第一次五カ年計画の時代のソヴィエトは、多くの点で、戦争中の国家に似ていたからだ。
 体制の政策に対する政治的な反対と抵抗は裏切りだと非難され、ほとんど戦争中の厳しさでもって頻繁に罰せられた。
 スパイと破壊工作に対する警戒の必要性は、ソヴィエトの新聞の決まった主題になっていた。
 民衆一般は愛国的連帯意識を強く搔き立てられ、工業化という「戦争遂行」のために多大の犠牲を払わなければならなかった。すなわち、戦争時の条件や配給制をさらに進めたものが(意図せざるものであっても)都市部に再導入された。//
 (3)戦時中のごとき危機的雰囲気は、ときに純粋に工業化や集団化の失墜に対する緊張への反応として認められた。しかし、それはじつに、現実に起きたことに先行していた。
 戦争非常事態という心理状態は、1927年の大戦の恐怖でもって始まった。その頃、党や国家では全体として、資本主義諸国による新しい軍事干渉が近づいていると信じられていた。
 ソヴィエト同盟はその当時、その外交政策およびコミンテルンの政策が連続して拒絶されるという憂き目に遭っていた。-英国は突然にロンドンのソヴィエト通商使節団(ARCOS〔=All Russian Co-operative Society〕)を攻撃し、中国の国民党の蒋介石は、同盟者である中国共産党への攻撃を開始し、ポーランドではソヴィエトの外交幹部団の暗殺があった。
 トロツキーとその他の反対派たちは、このような外交政策の失敗に、とくに中国でのそれについてスターリンを非難した。
 多数のソヴィエトおよびコミンテルンの指導者たちは、こうした拒絶はイギリスが指導している積極的な反ソヴィエト陰謀の証拠だと大っぴらに解釈した。ソヴィエト同盟に対する計画的な軍事攻撃で終わるものと想定される陰謀なのだった。
 国内の緊張が増したのは、GPU(チェカの後継機関)が体制の敵である嫌疑者を探し回り始め、新聞が反ソヴィエトのテロルの事件や反体制の国内陰謀を発見したことを報道したときだった。
 戦争が始まるのを予期して、農民たちは穀物を市場に出すのを拒み始めた。そして、村落と都市の両方の住民はパニックを起こして、基礎的な消費用品を買い漁った。//
 (4)たいていの西側の歴史研究者は、干渉という現実的かつ即時の危険はなかった、と結論づける。これはまた、ソヴィエト外務人民委員部〔=外務省〕の見解であり、そしてほとんど確実に、陰謀の気持ちのないアレクセイ・ルィコフ(Rykov)のような政治局員たちの見解でもあった。
 しかし、党指導部のその他の者たちは、本当にもっと怖れていた。
 その中には、このときはコミンテルン議長だった興奮しやすいブハーリンがいた。コミンテルンには、不安を撒き散らす噂が溢れ、外国の政府の意図に関する真実(hard)の情報はほとんどなかった。//
 (5)スターリンの態度を推測するのは、むつかしい。
 戦争の危険に関する数ヶ月の間の憂慮的議論の間、彼は沈黙を保ったままだった。
 そして、1927年の半ば、スターリンはきわめて巧妙に、反対派たちへと論点を向き変えた。
 戦争が切迫していることを否定したが、にもかかわらず彼は、トロツキーを公然と批判した。第一次大戦の間のクレマンソー(Clemenceau)のようにトロツキーは、敵が資本の傍らにいるときでも国の指導部には積極的に反対すると言明した、として。
 忠実な共産党員やソヴィエト愛国者にとって、これは国家への大逆行為に近いものに受け止められた。そして、この批判は、スターリンが数ヶ月のちに反対派に対する最後の一撃を下すためにおそらくは決定的だった。そのとき、トロツキーと反対派指導者たちは、党から除名(expell)されたのだった。//
 (6)スターリンのトロツキーとの間の1927年の闘いは、政治的雰囲気を悪い方向に高める不吉な背景になった。
 ボルシェヴィキ党でのそれまでの禁忌(タブー)を犯して、指導部は政治的反対者の逮捕、行政的な追放、および反対派に対するGPUによる嫌がらせという制裁を課した。
 (トロツキー自身は、党から除名されたのちアルマ-アタ(Alma-Ata)へと追放された。
 1929年1月には、政治局の命令によってソヴィエト同盟から強制的に国外追放された。)
 1927年末に、反対派によるクーの危険があるとのGPUの報告に反応して、スターリンは政治局に、フランス革命期の悪名高き嫌疑令(Law of Suspects)とのみ対比することが可能な一体の提案を行った。(2)
 承認されたが公表はされなかったその提案は、つぎのようなものだった。//
 (7)『反対する見解を宣伝する者は、ソヴィエト同盟に対する外部および内部の敵の危険な共犯者(accomplices)だと見なされる。
 かかる者は、GPUの行政布令によって「スパイ」として処刑される。
 広くかつ枝分かれした工作員のネットワークが、その最高部まで含めて政府機構内部にいる、および党の最高指導層を含めて党内部にいる、敵対分子を探索する職責をもつものとして、GPUによって組織される。』//
 スターリンの結論は、こうだった。「微小なりとも疑いを掻き立てる者は全て、排除されなければならない」。(3)//
 (8)反対派との最後の対決と戦争への慄えによって一般化した雰囲気は、1928年当初の数カ月の間に、さらに悪化した。この頃に、農民層との大規模な対立が始まり(後述、p.125-7.参照)、忠誠さの欠如の追及が直接に古い「ブルジョア」知識人に対して行われたのだ。
 1928年3月、国家検察庁長官は、鉱業での意図的な罷業と外国勢力との共謀を訴因として、Donbass のShakhty 地方の技術者集団を裁判に処する、と発表した。
 これはブルジョア専門家に対するひと続きの見せ物裁判の最初だった。これらの訴追によって、階級敵による内部的脅威は外国資本主義勢力による干渉の脅威と連結された。(4)
 そして、被告人たちは罪状を自白し、陰謀劇ふうの活動に関する状況的説明を行った。//
 (9)毎日の新聞が決まり文句でその大部分を報道した諸裁判がもたらしたのは、つぎの明白なメッセージだった。すなわち、ブルジョア知識人たちは、ソヴィエト権力に対して忠誠心をもつと主張していても、階級敵のままなのであり、その定義上、信頼するに値しない。
 ブルジョア専門家たちと一緒に仕事をしている党管理者や行政職員にそれほどに明白ではなくとも明瞭に伝わったのは、党の幹部たちもまた、かりにより酷くはなくとも、間違って、専門家たちに欺されるという愚かさ又は軽々しさの罪を冒す、ということだった。(5)//
 (10)新しい政策方針は、ロシアの労働者階級と党員たちに独特の、かつての特権階層出身の知識人に対する懐疑と敵愾の感情を利用していた。
 ある程度はそれはまた、疑いなく、第一次五カ年計画らによって到達すべきものと設定された高い目標に対する、多数の専門家や技術者たちの懐疑心に対する反応だった。
 にもかかわらず、工業化という突貫的な計画に着手しようとする体制にとって、莫大な犠牲を伴う政策方針だったのだ。農業分野での「クラク〔富農〕」という敵に対する1928-29年の運動がそうだったのと全く同様に。
 国にはあらゆる種類の専門家が不足していた。とくに、工業化への途にとって決定的に重要な知識をもつ技術者たちが。(1928年でのロシアの有資格技術者の大多数は、「ブルジョアジー」で、非党員だった)。//
 (11)反専門家運動を始めたスターリンの動機が何だったかは、歴史研究者たちを困らせている。
 共謀や罷業という訴因は容易には信じ難く、被告人たちの自白は強制されたか欺されたものだったために、スターリンとその仲間たちは彼らを信じることができなかっただろうと、しばしば考えられている。
 しかしながら、公文書庫から新しい資料が出てきたために、ますます、(必ずしも政治局の同僚たち全員ではなく)スターリンは共謀の存在を信じていた、そう信じることが同時に政治的利益になると知りつつ、少なくとも半分は信じていた、ように見える。//
 (12)OGPU(GPUの後身)の長官、Vyachevlav Menzhinskii が「工業党」党員だと追及している専門家の尋問調書からする資料をスターリンに送った。この党の指導者はたちはエミグレ資本主義者たちにより支援されるクーを計画し、外国による軍事干渉を企図する計画を抱いて活動しているとされていた。これを送られてスターリンは、面前での自白をいずれも価値があるものとして受領した、切迫する戦争の危険はきわめて深刻だと思う、との趣旨の返答をした。
 スターリンはMenzhinskii に対して、最も興味深い証拠は、予定される軍事干渉の時期にかかわっていると、つぎのように語った。//
 (13)『干渉を1930年に意図していたが、1931年または1932年に延期した、ということが判る。
 これは全くありそうだし、重要なことだ。
 これが第一次な情報源から、つまりRiabinsky、Gukasov、DenisovおよびNobela (革命前のロシアの大きな利益をもつ資本主義者たち)という、ソ連および他国移住者たちの中に現存する全ての集団の中で最も有力な社会経済グループ、資本およびフランスやイギリス両政府との関係という観点からして最も有力なグループを代表しているグループから得られたがゆえに、より重要なものだ。』//
 証拠が手に入ったと考えて、スターリンは、こう結論づけた。
 ソヴィエト体制はこれを国内かつ国外で集中的に公にすることができるだろう、「そうすれば、つぎの一年または二年の間、干渉の企てを全て抑え、阻止することができる。これは、我々には最大限に重要なことだ」。(6)//
 (14)スターリンおよび他の指導者たちが反ソヴィエト陰謀の存在と直接的な軍事的脅威を信じたか否かとは関係なく、あるいはいかほどに信じたかとは関係なく、こうした考え方はソヴィエト同盟に広く行き渡るようになった。
 これは体制側のプロパガンダ活動によるだけではなく、すでにある先入観と恐怖を強めるこのような見方が、ソヴィエトの国民の大部分にとって信じ得るものだったことにもよる。
 1920年代の遅くに始まったことだが、食糧不足、工業、輸送および電力の故障のような経済的諸問題の発生を説明するために、このような内部的および外部的な陰謀は決まって言及された。
 戦争の危険もまた、この時期にソヴィエトの<心性(mentalité)>に深く埋め込まれた。
 政治局および新聞読者たちの注意は絶えず戦争の脅威へと向かい、それは1941年に実際に起きた戦争勃発まで続いた。//
 --------
 (1) Adam B. Ulam, <スターリン>(New York, 1973), Ch. 8.を見よ。
 (2) ジャコバンの大会は、嫌疑令(Law of Suspects、1793年9月17日)によってつぎのことを命じた。その行動、人間関係、著述物または一般的な挙措に照らして革命に対する脅威となる可能性のある全ての人物を即時に逮捕すること。
 スターリンはフランス革命のテロルを称賛していたことにつき、Dimitri Volkogonov, <スターリン-栄光と悲劇>, Harold Shukman 訳(London, 1991), p.279. を見よ。
 (3) Reimann,<スターリニズムの誕生>, p.35-p.36. によるドイツ外務省政治文書庫の中の文書から引用した。
 (4) Shakhty 裁判およびその後の「工業党」裁判につき、Kendall E. Bailes, <レーニンとスターリンのもとでの技術と社会>(Princeton, NJ, 1978), Chs. 3-5.を見よ。
 (5) S・フィツパトリク「スターリンと新エリート層の形成」同・<文化戦線(The Cultural Front)>, p.153-4, p.162-5.を見よ。
 ----
 第一節・スターリン対右派、へとつづく。

1898/Wikipedia によるL・コワコフスキ③。

 Wikipedia 英米語版での 'Main Currents of Marxism' の項の試訳のつづき。
 2018年12月22日-23日の記載内容なので、今後の変更・追加等はありうるだろう。
 前回に記さなかったが、この本の総頁数は、つぎのように書かれている。
 英語版第一巻-434頁、同第二巻-542頁、同第三巻-548頁。秋月の単純計算で、総計1524頁になる。
 英語版全巻合冊書-1284頁
 さて、以下の書評類は興味深い。何とも直訳ふうだが、英語そのままよりはまだ理解しやすいのではないか。
 書評者等の国籍・居住地、掲載紙誌の発行元の所在地等は分からない。多くは、イギリスかアメリカなのだろう。
 こうした書評上での議論があるのは、なかなか愉快で、コワコフスキ著の内容の一端も教えてくれる。
 それにしても、わが日本では、コワコフスキの名も全くかほとんど知られず、この著の存在自体についても同様だろう。2017年の最大の驚きは、この著の邦訳書が40年も経っても存在しないことだった。
 マルクス主義・共産主義に関する<情報>に限ってもよいが、わが日本の「知的」環境は、果たしていかなるものなのか。
 なお、praise=讃える、credit=高く評価する、describe=叙述する、accuse=追及する、consider=考える、等にほぼ機械的に統一した(つもりだ)。criticize はむろん=批判する。これら以外に、論じる、主張する、等と訳した言葉がある。
 ----  
 3/反応(reception)。
 1.主流(main stream)メディア。
 (1) <マルクス主義の主要潮流>はLibray Journal で、二つの肯定的論評を受けた。
 一つは最初の英語版を書評した Robert C. O'Brien からのもので、二つはこの著作の2005年合冊版を書評した Francisca Goldsmith からのものだった。
 この著作はまた、The New Republic で政治科学者 Michael Harrington によって書評され、The New York Review of Books では歴史家の Tony Judt によって書評された。
 (2) O'Brien は、この著作を「マルクス主義教理の発展に関する包括的で詳細な概観」で、「注目すべき(remarkable)著作だ」と叙述した。
 彼はコワコフスキを、「マルクスの思想が<資本>に到達するまでの発展の基本的な継続性」を提示したと讃え、Lukács、Bloch、Marcuse、フランクフルト学派および毛沢東に関する章が特別の価値があると考えた。
 Goldsmith は、コワコフスキには「明瞭性」と「包括性」はもちろんとして「完全性と明晰性」があると讃えた。
 哲学者のJohn Gray は、<マルクス主義の主要潮流>を「権威がある(magisterial)」と呼んで讃えた。//
 2.学界雑誌。
 (1)<マルクス主義の主要潮流>は、Economica で経済学者のMark Blaug から、The American Historical Review で歴史研究者の Martin Jay から、The American Scholarで哲学者のSidney Hook から、the Journal of Economic Issues で John E. Elliott から肯定的な書評を受けた。
 入り混じった書評を、社会学者のCraig CalhounからSocial Forces で、David Joravsky からTheory & Society で、Franklin Hugh Adler からThe Antioch Review で、否定的な書評を社会学者の Barry Hindess からThe Sociological Reviewで、社会学者 Ralph Miliband からPolitical Studies で受けた。
 この本の書評はほかに、William P. Collins が The Journal of Politics に、Ken Plummeが Sociology に、哲学者のMarx W. Wartofsky がPraxis International に、それぞれ書いている。
 (2) 経済学者Mark Blaug は、この本を「輝かしい(brilliant)」かつ社会科学にとって重要なものだと考えた。
 マルクス主義の強さと弱さを概括したことを高く評価し、歴史的唯物論、エンゲルスの自然弁証法、Kautsky、Plekhanov、レーニン主義、Trotsky、トロツキー主義、Lukács、Marcuse およびAlthusser に関する論述を讃えた。 
 しかし、哲学者としての背景からしてマルクス主義を主に哲学的および政治的な観点から扱っており、それによってマルクス主義のうちの中核的な経済理論をコワコフスキは曲解している、と考えた。
 彼はまた、Paul Sweezy によるThe Theory of Capitalist Development (1942)での Ladislaus von Bortkiewicz の著作の再生のようなマルクス主義経済学の重要な要素を、コワコフスキは無視していると批判した。
 彼はまた、「1920年代のソヴィエトでの経済政策論争」を含めて、コワコフスキがより注意を払うことができただろういくつかの他の主題がある、と考えた、
 彼はコワコフスキの文献処理を優れている(excellent)と判断したけれども、 哲学者H. B. Acton のThe Illusion of the Epoch や哲学者 Karl Popper のThe Open Society and Its Enemies が外されていることに驚いた。
 彼は、コワコフスキの著述の質を、その翻訳とともに、讃えた。
 (3) 歴史研究者Martin Jay は、この本を「きわめて価値がある(extraordinarily valuable)」、「力強く書かれている」、「統合的学問と批判的分析の、畏怖すべき(awesome)達成物〔業績〕」、「専門的学問の記念碑」だと叙述する。
 彼は、コワコフスキによる「弁証法の起源」の説明、マルクス主義理論の哲学的側面の論述を、相対的に独自性はないとするけれども、讃える。
 彼はまた、マルクス主義の経済的基礎の論述や労働価値理論に対する批判を高く評価する。
 彼は、歴史的唯物論が原因となる力を「究極的には」経済に求めることの誤謬をコワコフスキが暴露したことを高く評価する。
 しかし、Lukács、Korsch、Gramsci、フランクフルト学派、GoldmannおよびBloch の扱い方を批判し、「痛烈で非寛容的で」、公平さに欠けるとする。こうした問題のあることをコワコフスキは知っていると認めるけれども。
 彼はまた、コワコフスキの著作はときに事実に関する誤りや不明瞭な解釈を含んでいるとする一方で、この本の長さを考慮すれば驚くべきほどに数少ない、と書いた。
 (4) 哲学者Sidney Hook は、この本は「マルクス主義批判の新しい時代」を開き、「マルクスとマルクス主義伝統にある思想家たちに関する最も包括的な論述」を提示した、と書いた。
 彼は、ポーランドのマルクス主義者、Gramsci、Lukács、フランクフルト学派、Bernstein、歴史的唯物論、マルクス主義へのHess の影響、「マルクスの社会的理想」での個人性の承認、「資本」の第一巻と第三巻の間の矛盾を解消しようとする試みの失敗, マルクスの「搾取」概念、およびJaurès やLafargue に関するコワコフスキの論述を讃える。
 彼は、トロツキーの考え方は本質的諸点でスターリンのそれと違いはない、スターリニズムはレーニン主義諸原理によって正当化され得る、ということについてコワコフスキに同意する。
 しかし、ある範囲のマルクス主義者の扱い方、 社会学者の Lewis Samuel Feuer の「研究がアメリカのマルクスに関するユートピア社会主義の植民地に与えた影響」を無視していること、を批判した。
 彼は、マルクスとエンゲルスの間、マルクスとレーニンの間、に関するコワコフスキの論述に納得しておらず、マルクスの Lukács による読み方を讃えていることを批判した。
 彼は、マルクスは一貫して「Feuerbach の人間という種の性質に関する見解」を支持していたとのコワコフスキの見方を拒否し、思想家としてのマルクスの発展に関するコワコフスキの見方を疑問視し、マルクスの歴史的唯物論は技術的決定論の形態にまで達したとのコワコフスキの見方を、知識(knowledge)に関するマルクスの理論の解釈とともに、拒否した。
 (5) Elliott は、この本は「包括的」で、マルクス主義を真摯に研究する全ての学生の必須文献だと叙述する。
 彼は、<資本>のようなマルクスの後半の著作は1843年以降の初期の著作と一貫しており、同じ諸原理を継続させ仕上げている、とするコワコフスキの議論に納得した。
 彼は、マルクスは倫理的または規範的な観点を決して採用しなかったという見方、マルクスの「実践」観念や「理論と実践の編み込み」に関する説明、マルクスの資本主義批判は「貧困によってではなく非人間化によって」始まるとの説明のゆえに、「制度的伝統」にある経済学者にとって第一巻は価値があると考えた。
 彼は、第二巻を<tour de force>だとし、三巻のうちで何らかの意味で最良のものだと考えた。
 彼は、第二インターナショナルの間の多様なマルクス主義諸派がいかに相互に、そしてマルクスと、異なっていたか、に関するコワコフスキの論述を推奨した。
 彼はまた、レーニンとソヴィエト・マルクス主義に関するコワコフスキの論述は教示的(informative)だとする一方で、ソヴィエト体制に対するコワコフスキの立場を知ったうえで読む必要があるとも付け加えた。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を批判するよりも叙述するのに長けていると考え、マルクスの価値理論に対する Böhm von Bawerk による批判に依拠しすぎていると批判した。
 しかし彼は、コワコフスキの著作はこれらの欠点を埋め合わす以上の長所をもつ、と結論づけた。
 (6) 社会学者Calhoun は、この本はコワコフスキのマルクス主義放棄を理由の一部として左翼著述者たちからの批判を引き出した、しかし、マルクス主義に関する「手引き書」として左翼に対してすら影響を与えた、と書いた。
 彼は、コワコフスキがマルクス主義への共感を欠いていることを批判した。また、哲学者または逸脱したマルクス主義者と考え得る場合にかぎってのみマルクス主義の著述者に焦点を当て、マルクス主義の経済学者、歴史家および社会科学者たちに十分な注意を払っていない、と主張した。
 彼は、この本は明晰に書かれているが、「不適切な参考書」だと考えた。
 彼は、第一巻はマルクスに関するよい(good)論述だが、「洞察が少なすぎて、もっと読みやすい様式で書かれなかった」と述べた。
 彼はまた、第二巻のロシア・マルクス主義に関する論述はしばしば不公平で、かつ長すぎる、とした。
 また、スターリニズムはレーニンの仕事(works)の論理的な帰結だとのコワコフスキの議論に彼は納得しておらず、ソヴィエト同盟がもった他諸国のマルクス主義に対する影響に関するコワコフスキの論じ方は不適切(inadequate)だ、とも考えた。
 彼は、全てではないが、コワコフスキのフランクフルト学派批判にある程度は同意した。
 <マルクス主義の主要潮流>は一つの知的な企てとしてマルクス主義の感覚〔sense=意義・意味〕を十分に与えるものではない、と彼は結論づけた。
 (7) Joravsky は、この本はコワコフスキが以前にポーランド共産党員だった間に行った共産主義に関する議論を継続したものだと見た。
 マルクス主義の歴史的な推移に関するコワコフスキの否定的な描写は、<マルクス主義の主要潮流>がもつ「事実の豊富さと複雑さ」と奇妙に矛盾している、と彼は書いた。
 彼は、マルクス主義者たちの間の論争から超然としていると自らを提示し、一方でなお Lukács のマルクス解釈を支持するのは一貫していない、とコワコフスキを批判した。また、マルクスを全体主義者だと非難するのは不公正だ、とも。
 彼は<マルクス主義の主要潮流>の多くを冴えない(dull)ものだとし、哲学史上ののマルクスの位置に関するコワコフスキの説明は偏向している(tendentious)、と考えた。
 彼は、社会科学に投げかけたマルクスの諸問題を無視し、諸信条の社会的文脈を考察したごとき常識人としてのみマルクスを評価しているとして、コワコフスキを批判した。また、マルクス主義の運動や体制に関係があった著述者のみを扱っている、とも。
 彼は、オーストリア・マルクス主義、ポーランドのマルクス主義と Habermas に関する論述にはより好ましい評価を与えたが、全体としての共産主義運動の取り扱い方には不満で、コワコフスキはロシアに偏見を持っており、他の諸国を無視している、と追及した。
 (8) Adler は、この本を先行例のない、「きわめて卓絶した(unsurpassed)」マルクス主義の批判的研究だと叙述する。
 コワコフスキの個人的な歴史がマルクス主義に対するその立場の大部分を説明すると彼は結論づけたが、<マルクス主義の主要潮流>は一般的には知的に誠実だ(honest)、とした。
 しかし、彼は、コワコフスキの東欧マルクス主義批判は強いものだとしつつ、その強さが西欧マルクス主義と新左翼に関する侮蔑的な扱いをすっかり失望させるものにしている、と考えた。
 新左翼に対するコワコフスキの見方は1960年代のthe Berkeley の反体制文化との接触によって形成されたのかもしれない、としつつ、彼は、新左翼を生んだ民主主義社会の価値への信頼の危機を何が招いたのかをコワコフスキは理解しようとしていない、と述べた。
 彼は、Gramsci と Lukács に関する論述を讃えた。しかし、「東側マルクス主義批判へとそれを一面的に適用しており、彼らの主導権や物象化に関する批判は先進資本主義諸国の特有の条件に決して適用できるものではない」、と書いた。また、フランクフルト学派とMarcuse の扱いは苛酷すぎ、不公平だ、とも。
 彼はまた、この本の合冊版は大きくて重くて、扱いにくく身体的にも使いにくい、とも記した。
 (9) 社会学者Hindess は、この本はマルクス主義、レーニンおよびボルシェヴィキに対して「重々しく論争的(polemic)」だ、と叙述した。
 彼は、コワコフスキは公平さに欠けていると考え、マルクス思想は<ドイツ・イデオロギー>の頃までに基本的特質が設定された哲学的人類学だというコワコフスキの見方に代わる選択肢のあることを考慮していない、と批判した。また、「政治分析の道具概念としては無価値」の「全体主義という観念」に依拠している、とも。
 彼は、コワコフスキはマルクス主義を哲学と見ているために、「政治的計算の手段としてのマルクス主義の用い方、あるいは具体的分析を試みる多数のマルクス主義者に設定されている政治的および経済的な実体的な諸問題」への注意が不十分だ、と主張した。
 彼はまた、Kautsky のようなマルクス主義著述者、レーニンの諸政策、スターリニズムの進展に関して誤解を与える論述をしている、と追及した。
 彼は、コワコフスキによるマルクス主義の説明は「グロテスクで侮辱的な滑稽画」であり、現代世界に対するマルクス主義の影響力を説明していない、と叙述した。
 (10) 社会学者Miliband は、コワコフスキはマルクス主義の包括的な概述を提供した、と書いた。
 しかし、マルクス主義に関するコワコフスキの論述の多くを讃えつつも、そのマルクス主義に対する敵意が強すぎて、「手引き書」としての著作だという叙述にしては、精細すぎると考えた。
 彼はまた、マルクス主義とその歴史への接近方法は「根本的に見当違い(misconceived)」だと主張した。
 彼は、マルクス主義とレーニン主義やスターリニズムとの関係についてのコワコフスキの見方は間違っている(mistaken)、マルクスの初期の著作と後期のそれとの間の重要な違いを無視している、コワコフスキは第一次的には「経済と社会の理論家」だというよりも「変わらない哲学的幻想家」だとマルクスを誤って描いている、と主張した。
 マルクス主義は全ての人間の願望が実現され、全ての諸価値が調整される、完璧な共同体たる社会」を目指した、とのコワコフスキの見方は、「馬鹿げた誇張しすぎ」(absurdly overdrawn)だ、と彼は述べた。また、コワコフスキの別の著述のいくつかとの一貫性がない、とも。
 彼はまた、コワコフスキの結論を支える十分な論拠が提示されていない、と主張した。
 彼は、コワコフスキはマルクスを誤って表現しており、マルクス主義の魅力を説明することができていない、と追及した。また、歴史的唯物論に関する論述を非難し、 Luxemburg に対する「誹謗中傷〔人格攻撃〕」だとコワコフスキを追及した。
 彼は、改革派社会主義とレーニン主義はマルクス主義者にとってのただ二つの選択肢だった、とのコワコフスキの見方を拒否した。
 彼は結論的に、<マルクス主義の主要潮流>は著者の能力とその主題のゆえに無価値(unworthy)だ、と述べた。
 コワコフスキはMiliband の見方に対して返答し、<マルクス主義の主要潮流>で表現した自分の見解を再確認するとともに、Miliband は自分の見解を誤って表現していると追及した。
 ----
 以上。つぎの、<3/反応の3.書物での評価>は割愛する。

1897/Wikipedia によるL・コワコフスキ②。

 'Leszek Kolakowski' は英米語版のWikipedia も勿論あるが(日本語版はひどい)、その著、'Main Currents of Marxism' という書物自体も、英米語版Wikipedia は項目の一つにしている。
 以下は、その試訳。2018年12月21日現在。なお、この欄で合冊版の発行年を、所持している版の発行年2008年としたことがあり、最近では書物の最初部分に依拠して最も若い年の2004年としているが、以下では2005年だと記されている。( )は改行後を示すもので、数字も含めて、原文にはない。
 ----
 (1) <マルクス主義の主要潮流-その起源、成長および解体>(〔ポーランド語・略〕は、政治哲学者レシェク・コワコフスキによる、マルクス主義に関する著作。
 英語版での三つの諸巻は、第一巻・創成者たち、第二巻・黄金時代、第三巻・崩壊。
 1976年にパリでポーランド語によって最初に出版され、英語翻訳版は1978年に出た。
 2005年に、<マルクス主義の主要潮流>は一巻の書物として再発行され、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグがそれに付いていた。  
 この著作はコワコフスキによると、マルクス主義に関する「手引き書」という意図だった。
 彼は、かつて正統派マルクス主義者だったが、最終的にはマルクス主義を拒絶した。
 そのマルクス主義に対する批判的な立場にもかかわらず、コワコフスキはカール・マルクスに関するLukács György〔ルカチ・ジョルジュ〕の解釈を支持した。
 (2) この著作は、マルクス主義に関するその論述の包括性とその叙述の質を褒め称える、多数の肯定的な論評を受けた。
 歴史的唯物論、ルカチ、ポーランド・マルクス主義、レオン・トロツキー、ハーバート・マルクーゼおよびフランクフルト学派に関するその論述が、とくに抜きん出ているとされた。
 別の論評者たちはフランクフルト学派に関する彼の扱いにもっと批判的だ。また、カール・カウツキー、ウラジミル・レーニンおよびアントニオ・グラムシに関する取り扱いについて、彼らの評価は、分かれている。 
 コワコフスキは、特定の著者たちまたは諸事件、彼のマルクス主義に対する敵意、ルカチの解釈への依存、に関する論述を省略していると批判された。また、現代世界に対するマルクス主義の訴えまたは影響を説明していない、他のマルクス主義著作者を無視してマルクス主義哲学者に焦点を当てることでマルクス主義の印象を誤らせる、とも。//
 1/背景と出版の歴史。
 コワコフスキによると、<マルクス主義の主要潮流>は、1968年と1976年の間にポーランド語で執筆された。その頃、この著作を共産主義が支配するポーランドで出版するのは不可能だった。
 ポーランド語版はフランスでthe Institute Littérailie よって1976年と1978年に出版され、そのときに、ポーランドの諸地下出版社によって複写された。一方、P. S. Falla が翻訳した英語版は、1978年に、Oxford University Press によって出版された。
 ドイツ語、オランダ語、イタリア語、セルビア=クロアチア語およびスペイン語の各翻訳書版が、そのあとに続いて出版された。
 別のポーランド語版は、1988年にイギリスで、Publishing House Aneks によって出版された。
 この著作は、2000年にポーランドで初めて、合法的に出版された。
 コワコフスキは、最初の二巻だけがフランス語版となって出版されていると書き、その理由を、「第三巻は、フランス左翼たちの間の憤懣が激しかったので出版社がリスクを冒すのを怖れた」、と推測している。
 <マルクス主義の主要潮流>の全一巻合冊版は、コワコフスキによる新しい緒言と新しいエピローグ付きで、2005年に出版された。
 2/要約。
 (1) コワコフスキは、マルクス主義の起源、哲学上の根源、黄金時代および崩壊〔瓦解〕を論述する。
 彼は、マルクス主義は「二〇世紀の最大の幻想(fantasy=おとぎ話)」、「虚偽と搾取と抑圧の怪物的体系」のための建設物となる完璧な社会という夢想、だと叙述する。
 彼は、共産主義イデオロギーのうちのレーニン主義やスターリン主義はマルクス主義を歪曲したものでも堕落させたものでもなく、マルクス主義のありうる諸解釈の一つだ、と主張する。
マルクス主義を拒絶しているにもかかわらず、彼のマルクスの解釈はルカチから影響を受けている。
 第一巻は、マルクス主義の知的背景を論述し、Plotinus、Johannes Scotus Eriugena、Meister Eckhart、Nicholas of Cusa、Jakob Böhme、Angelus Silesius、Jean-Jacques Rousseau、David Hume、Immanuel Kant、Johann Gottlieb Fichte、Ludwig Feuerbach、Georg Wilhelm Friedrich Hegel および Moses Hess を検証した。カール・マルクスとフリートリヒ・エンゲルスの諸著作の分析があるのは、勿論のことだ。
 ヘーゲルは全体主義の弁解者だということを彼は承認しなかったけれども、ヘーゲルに関して彼は、「ヘーゲルの教理の適用が実際に意味したのは、国家機構と個人とが対立する全ての場合に勝利するのは前者だ、ということだ」と書いた。
 (2) 第二巻は、第二インターナショナルおよびPaul Lafargue、Eduard Bernstein、Karl Kautsky、Georgi Plekhanov、Jean Jaurès、Jan Wacław Machajski、Vladimir Lenin、Rosa Luxemburg やRudolf Hilferding といった人々に関する論述を内容とする。
 これは、経済学者の Eugen Böhm von Bawerk との価値理論に関するヒルファーディングの議論を再述している。
 また、オーストリア・マルクス主義に関しても論述する。
 第三巻は、Leon Trotsky、Antonio Gramsci、Lukács、Joseph Stalin、Karl Korsch、Lucien Goldmann、Herbert Marcuse、Jürgen Habermas および Ernst Bloch といった人々を扱う。フランクフルト学派と批判理論については勿論のことだ。
 コワコフスキは、ルカチの<歴史と階級意識>(1923年)やブロッホの<希望の原理>(1954年)を批判的に叙述する。
 また、Jean-Paul Sartre についても論述する。
 コワコフスキは、サルトルの<弁証法的理性批判>(1960年)を批判する。
 彼は、弁証法的唯物論は、第一にマルクス主義に特有の内容を有しない自明のこと、第二に哲学上のドグマ(dogmas)、第三にたわ言(nonsense)、そして第四に、これらのいずれかであり得る、どう解釈するかに依存する言明 、で成り立つと論じて、弁証法的唯物論を批判する。
 (3) 2005年版で追加した緒言で、コワコフスキは、ヨーロッパでの共産主義の解体の理由の一つはイデオロギーとしてのマルクス主義の崩壊にある、と叙述した。
 彼は、ヨーロッパ共産主義が終焉したにもかかわらず研究対象としてのマルクス主義の価値を再確認し、全く確実ではないにせよ、将来でのマルクス主義と共産主義の再生はなおもあり得る、と述べた。
 彼が追加したエピローグでは、マルクス主義に関するこの著作は「この対象になお関心をもつ数少なくなっている人々にはたぶん有益だろう」と最後に記した。
 ----
 3以降へとつづく。

1894/不破哲三「現代トロツキズム批判」(1959年)。

 こういう類を探し出せば、キリがないだろう。
 不破哲三は1959年、「ソ連」についてどう書いていたか、どういうイメージを持っていたか。
 不破哲三「現代トロツキズム批判」上田耕一郎=不破哲三・マルクス主義と現代イデオロギー/上(大月書店、1963年)のp.214。
 最初の掲載は1959年6月号の『前衛』。不破、29歳の年。
 **
 「トロツキーの『世界革命』理論の土台石を形づく」るのは、経済後進国ロシアで「完全な社会主義社会を建設することは不可能」だとする「理論」だ。
 「この一国社会主義批判は、もしそれが誤りだとなったなら、…トロツキズムの全体が一挙に崩壊してしまうほどの比重をしめていた。/
 だが、…十月革命以来四〇年の世界の発展は、トロツキズムのこの最大の支柱を、打ち破りがたい歴史的事実の力でうちくだいた。/
 すなわち、世界革命の不均衡な発展が主要な先進資本主義国をまだ資本主義体制にとどめているあいだに、ソ連は社会主義社会の建設を完了し、社会主義は資本主義的包囲を打ち破って世界体制となり、…共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始しているのである」。
 フルシチョフが述べたように、「一国における社会主義の建設と、その完全かつ最終的な勝利にかんする問題は、社会発展の世界史的行程によって解決された」。
 **
 スターリン死亡が1953年、スターリン批判秘密報告は1956年で、このときソ連はフルシチョフの時代だった。日本共産党は1961年党大会の前。
 上で不破哲三は、「ソ連は社会主義社会の建設を完了し」、「共産主義社会への移行をめざして巨大な前進を開始している」と書いた。
 この歴史的事実によって、「一国社会主義」論の正しさとトロツキーの「世界革命」論の誤りが実証された、と言っているわけだ。
 第一に、このような「一国」か「世界」という対立・対比はスターリンがトロツキーらに政治的に勝利するために意図的に捏造した論争点で、この論点を極大化するのは政治的だ。理論・政策について、スターリンはトロツキーのそれらを多分に「利用」・「継承」している。
 このようなスターリンとトロツキーの見事な「相対化」は、L・コワコフスキにもS・フィツパトリクにも見られて、興味深い。
 不破哲三は、スターリンと同じ立場に立って、ソヴィエト・マルクス主義の経緯を理解したつもりでいたわけだ。この人は戦後の若い頃に、<スターリン・ソ連共産党史/小教程>を一生懸命読んで「憶えた」にちがいない。
 第二に、ソ連は社会主義国ではなかった、レーニンによって正しく歩み始めたのをスターリンがなし崩しにした、と言うどころか、1959年にはソ連での「社会主義建設は完了」したと(スターリンと同じく)明言していた。
 何とでも言えるものだ。1994年党大会で綱領改正の報告をしたとき、不破哲三は、かつて自分が書いたことなど(他にも多数あって?)忘れていたに違いない。いや、かすかに記憶に残っていたとしても、過去は過去、今は今で、どうでもよいことなのだ。
 とりあえず今を前進し、とりあえず今を切り抜け、自分が日本共産党の頂点にい続けることが可能であるならば。
 ソ連の「社会主義国」性につき、1994年の時点で不破哲三が反省らしき言辞を吐いたのは、秋月瑛二の知るかぎりでは、我々にも<ソ連の見方につき不十分さがあった>、というひとことだけだ。
 <何とでも言う>ことができる。
 かつてレーニンを擁護しつつスターリニズムを批判していた「トロツキスト」を批判していた日本共産党だが、今や(1994年党大会以降)「スターリニスト」も罵倒するに至った。かと言って、トロツキー批判は間違っていたと自己批判するわけでは、勿論ない。
 基本的・根本的なところで、日本共産党は「自己欺瞞」を今後も、し続ける。

1890/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第三節②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
 1978年英語版 p.109-p.113、2004年合冊版p.874-p.877。
 ----
 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容②。
(10)1924年半ば、スターリン、ジノヴィエフおよびカーメネフの三人組の支配者たちは、トロツキーと深刻な闘争を繰り広げていた。その頃、第五回大会が開かれ、全ての構成諸党の「ボルシェヴィキ化」を求める決議を採択した。
 これが意味するのは理論上は、ロシアの党の方法と様式を採用すべきだ、ということだ。だが実際には、全ての問題に関してロシアの党の権威を承認すべきだ、というととだった。
 この大会自体が、「ボルシェヴィキ化」がすでに十分に進んでいることを示した。スターリンとその仲間たちの求めによって、全ての諸国の共産党が満場一致で、トロツキーを非難した。
 翌年のドイツ共産党の大会で、何をボルシェヴィキ化が意味するかに関する実際的な説明が示された。スターリンの主要な取り巻きの一人であるコミンテルン・ソヴェト代表者Manuisky が中央委員会の構成に関する規約を定めようと試みたときに。
 ドイツ共産党の代議員たちがこれに従うのを拒否したとき、執行委員会議長のジノヴィエフは彼らをモスクワへと召喚し、Ruth Fischer とArkady Maslow という「左翼」指導者たちを排除するよう命じた。これらの人物は、ボルシェヴィキ<に対して向かいあった>ある程度の自立性をもつ外観は維持しようとしていたのだった。//
 (11)第五回大会の別の決議は、ドイツの彼らの役割はブルジョアジーと共謀して労働者階級の中に民主主義と平和主義の幻想を染みこませることにあると述べて、社会民主主義者だと性質づけた。
 資本主義が衰亡するにつれて、社会民主主義は限りなくファシズムに接近する。この二つは、実際には、資本主義者の手のうちの単一の武器の両面だ。
 これらは、数年後に、コミンテルンの政策の原理的な指針となった。//
 (12)第五回と第六回のコミンテルン大会の間に四年が過ぎた。スターリンはおそらく、トロツキーに対する、またジノヴィエフとカーメネフ、およびこれらの仲間たち、に対する最終的な勝利を達成するまでは大会を招集するつもりがなかった。
 コミンテルンはその間に、「社会ファシズム」に関する教理にもかかわらず、アングロ=ロシア委員会をもつ1925年に形成されるに至ったイギリス労働組合に、世界労働組合運動の統合を促進するよう勧めていた。
 しかし、これは短期間で終わり、成功しなかった。
 1926-27年、コミンテルンは中国で重大な後退をこうむった。中国では、モスクワの指令にもとづいて小さな共産党が、中国を統一して近代化し、西側諸国による支配から自由になろうとする革命的な蒋介石を支援していた。
 スターリンの意見では、これはブルジョア的民族運動であり、その行方はプロレタリアート独裁へと一気に進むものではなかった。 
 ソヴェト同盟は武器を与え、軍事、政治の顧問団を送って助け、1926年春に蒋介石は、コミンテルンを「同調する」(sympathizing)党だとすら認めた。
 しかしながら、蒋介石は政府を形成したときに共産党員を排除し共産党には一部の権力も与えなかった。また、1927年4月の上海での中国共産党の蜂起を、多数の逮捕と処刑でもって鎮圧した。
 蒋介石はまずは打撃を加えて「同盟者」の機先を制した、と遅まきながら悟ったスターリンは、広東での暴動を命じて状況から脱しようと試みた。
 この広東暴動は同年12月に起きたが、新しい大虐殺でもって鎮静された。
 これらの失態について、トロツキーはスターリンを非難した。蒋介石の指導性を認めるのではなく、中国共産党は最初からソヴェト共和国樹立を狙うべきだったのだ、と。-トロツキーは、中国共産党はいかにすれば当時のその勢力の状態で蒋介石に勝つことができたのかを説明しなかったけれども。
 しかしながら、コミンテルンは中国共産党を「誤った政策方針」を追求したと非難した。そして、陳独秀〔中国共産党の初代総書記〕は批判され、のちに追放された。//
 (13)1928年8月の第六回大会は、社会主義者たちとの協働の試みを最終的にやめさせた。いずれにせよ、下らなくて、かつ成功しない、として。
 この大会は、世界の社会民主主義とその支配下にある労働組合は資本主義の主柱であり、全ての共産党は「社会ファシストたち」との闘いに全力を集中することを命じられる、と宣言した。
 また、資本主義の一時的な安定は今や終わった、新しい革命の時代が始まっている、と宣告した。
 多様な諸国の各共産党は、これらに倣って「右派」と「宥和派」を党から追放した。そして、新しい粛清によって、ドイツ、スペイン、アメリカ合衆国その他の諸国の指導者たちの中に、多数の犠牲者が生まれた。//
 (14)力強い政治的勢力の代表だったドイツ共産党が社会主義者を攻撃したことは、ヒトラーが権力を奪取した大きな原因だった。
 ドイツ共産党は、ナチズムは一過的な事象であり得るにすぎない、大衆が過激になることは共産主義への途を掃き清めてくれるだろう、と主張した。
 ヒトラーが政権に就いた後ですら、ドイツ共産党は、一年全部ほどの間、社会主義者を主要な敵だと見なした。
 ドイツ共産党が見方を変えたときまでには、この党はすでに破壊され、無力になっていた。//
 (15)1929年の末までに、ブハーリン(1926年にジノヴィエフを継いで執行委員会議長)の脱落の後には、スターリンは疑いなくボルシェヴィキ党の所有者であり、かつそれを通じて、国際共産主義の所有者だった。
 コミンテルンは独自の意義を全て失い、クレムリンから他諸党に対する指令の連絡管にすぎなくなった。
 コミンテルンの部員はスターリンに忠実な者たちだけで占められ、ソヴィエトの警察に統制された。
 彼らの仕事の中には、ソヴィエト同盟のための諜報員(intelligence agents)を新規に見つけることも含まれていた。
 粛清が繰り返されたあとの全ての諸党は、抗弁することなくモスクワからの変転する指令を受け入れた。その大部分は、ソヴィエトの外交部局が命じたものだった。
 スターリンは諸党に気前よく財政的援助をし、そうして諸党の彼への依存関係はますます増大した。
 コミンテルンは1930年代の半ばまでにたんなる外形だけになっており、外国諸党の服従を維持するという目的のためにすら、もう必要がなかったほどだ。//
 (16)第七回、そして最後のコミンテルン大会はモスクワで1935年7月-8月に開かれ、その後の一年またはそれ以上の期間の予兆となった、ファシズムに対する「人民戦線」という新しい政策方針を宣言した。
 それまで「右翼日和見主義」だと非難されてきたものが、今や公式の方針になった。
 全ての民主主義諸勢力、リベラル派はもちろん必要であれば保守派もだが、とくに社会主義者たちは、ファシストに対抗するために共産党の指導のもとに結集すべきものとされた。
 この政策に転じたスターリンの根拠は、かりにヒトラーがロシアを攻撃した場合にフランスその他の諸国が中立の立場をとる、ということへの恐怖だったかに見える。
 ともかくも、フランスは「人民戦線」方針の主要な対象だった。ドイツでは力のない<エミグレ>集団にだけ適用できるもので、他諸国の各共産党は、事態に影響を与えるには弱体すぎた。
 フランスの人民戦線は、1936年5月の選挙で勝利した。しかし、フランス共産党は、Léon Blum〔レオン・ブルム〕政権に閣僚を出すことを拒否した。
 一般的には、この政策方針は長くは続かず、ほとんど成果を生まなかった。
 その方針は、公式には取り消されなかったけれども、スターリンがナツィ・ドイツとの<友好関係(rapprochement)>を追求すると決定したときに、死文書(dead letter)となった。
 その間に、破壊されて地下に潜っていたドイツ共産党は遅まきながら、全ドイツの統一とポーランド回廊の廃絶というヒトラーのスローガンを採用した。//
 (17)「人民戦線」戦術の真の性格は、スペイン内戦によって明確になった。
 フランコ(Franco)の反乱の数カ月のち、スターリンは、共和国防衛のために干渉することに決めた。
 国際的旅団が編成され、ソヴィエト同盟は、軍事顧問団の他に政治工作員から成る組織を派遣した。そして、この組織は、共和国勢力の中のトロツキー主義者、アナキストおよびあらゆる種類の偏向主義者たちを追放した。
 (18)国際共産主義は、今や完全に「ボルシェヴィキ化」された。そして、いかなる場合でも、非ボルシェヴィキの共産主義の形態は、意味あるものとして継続することをやめた。
 1920年代には、党から追放されたりコミンテルンの方針に抗議して脱退したりした個人や集団は、ときおりは非ソヴィエト的共産主義の運動を組織しようとした。しかし、そうした試みは何も生み出すに至らなかった。
 トロツキー主義者たちは小集団となって無為に暮らし、力もなく世界のプロレタリアートの「国際的良心」に訴えかけた。
 ボルシェヴィキ党の権威と全共産党によって受諾された組織上の諸原理の強さは、1950年代までどの反対派集団も支持または影響力をもち得ないほどのものだった。
 世界の共産主義者たちは、スターリンが定めた道筋に沿って従順に行進した。
 1943年5月のコミンテルンの解散は、ソヴィエトが善意と民主主義的意思をもつことを西側の世論に対して説得するための素振り(gesture)にすぎなかった。
 諸共産党は十分にうまく躾けられ、組織や財政についてソヴィエト同盟に依存していたので、それら諸党を基本方針内に抑え込み続けるための特別の制度はもう必要がなかった。したがって、コミンテルンの解散には、何の意味もなかった。//
 ----
 ③へとつづく。

1889/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第3節①。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義
 1978年英語版 p.105-p.109、2004年合冊版p.871-p.874。
 なお、コミンテルン日本支部=日本共産党設立は、1922年。
 ----
 第3節・ コミンテルンと国際共産主義運動のイデオロギー的変容①。
 (1)事物の自然な行程として、スターリン化は世界共産主義運動の全体に広がった。
 それが存在した最初の10年の間、第三インターナショナルは、異なる共産主義イデオロギーの諸形態の間の、議論と対立のフォーラムだった。しかし、その後、コミンテルンは自立性をすっかり失い、ソヴィエトの外交政策の道具になって、完全にスターリンの権威に従属した。
 (2)第一次世界大戦の間に社会民主主義諸党の内部に出現した多様な左翼集団や分派は、全てが純粋なレーニン主義者たちではなかった。しかし、運動に対する第二インターナショナルの指導者たちの裏切りを全てが非難することでは合意した。
 彼らはみな、改良主義を拒み、伝統的な国際主義精神を再生させようとした。
 十月革命は新しい革命的根拠地を生み出した。そして、これら左翼の者たちの多くは、世界共産主義革命が切迫していると考えた。
 1918年に、ポーランド、ドイツ、フィンランド、ラトヴィア、オーストリア、ハンガリー、ギリシャおよびオランダで共産党が結成された。
 つづく三年間に、多様な少数集団を代表する大小の革命的諸政党が、全ヨーロッパ諸国に存在するにいたった。
 多くの複雑な論議と分立にもかかわらず、こうしてレーニン主義諸原理をもつ国際的な共産主義運動が形成された。//
 (3)1919年1月、ボルシェヴィキ党は、トロツキーが草案を書いて、新しいインターナショナルの創立を呼びかける宣言書を発した。
 会合(大会)が同年3月にモスクワで開かれ、一定の共産主義諸政党および左翼の社会民主主義諸集団の代議員たちは、その計画に賛成した。
 第三インターナショナルは、正確には1920年7月-8月の第二回大会までは設立されていない。
 最初から、多様な諸政党には内部的な分立やレーニン主義の規範からの乖離があった。
 一方では、最近に分裂したばかりの社会民主主義者たちとの和解を切望する「右派」諸集団があり、他方には、妥協戦術や議会政治での連携を原則として拒否する「左派」または「党派的(セクト的、sectarian)」離脱主義者たちがいた。
 これは、レーニンが<「左翼」共産主義-小児病(Infantile Disorder)>で書いた考え方に反対するものだった。
 一年以内に、世界で、少なくともヨーロッパで、ソヴィエト共和国になるだろうとの共産主義者に一般的だった信念からすると、「左翼」の傾向は「改良主義」のそれよりもはるかに強く、明らかに多かった。//
 (4)コミンテルンの規約は、第二インターナショナルの原理的考えからの完全な離反を明確に示した。第一のそれの伝統に立ち戻るものだったけれども。
 規約は、インターナショナルは単一の党であり、各国の諸政党は分肢だ、目的は国際ソヴィエト共和国を樹立するために武力を含む全ての手段を用いることだ、ソヴィエト共和国樹立はプロレタリアート独裁の政治形態として、国家の廃棄へと向かう歴史的に約定された前奏部だ、と定めた。
 インターナショナルは、毎年(1924年以降は二年ごとに)大会を開催し、各大会の間は執行委員会が指揮するものとされた。執行委員会はその指令を無視する「支部(sections)」を除名し、規律違反を理由として集団または個人を排除することを要求することができた。
 1920年大会で採択されたテーゼは、将来の社会の適切な形態としての議会制主義を断固として拒絶する条項を含んでいた。
 議会や全ての他のブルジョア的国家制度は、それらを破壊するためにだけ利用しなければならない。そして、共産党議員団は、党に対してのみ責任をもつのであって、投票者という名前なき集団に対してではない。
 レーニンが草案を書いた植民地問題に関するテーゼは、植民地および後進諸国の共産党に対して民族的な革命運動との暫時的な同盟を形成すること、かつ同時に、共産党は独立性を保ったままでいるべきで、民族ブルジョアジーが革命運動を掌握するのを許さず、最初からソヴィエト共和国形成に向けて闘うこと、を命じた。
 共産党の指導のもとで、後進諸国は資本主義段階を通過することなくして共産主義を達成するだろう。//
 (5)大会はまた、全インターナショナルの根本教条であるソヴィエト同盟のそれを無条件に支持することを要求する宣言も発した。
 (6)もう一つの重要な文書はコミンテルンに加入した諸党が履行しなければならない、「21の条件」のリストで、これは、共産主義運動全体へとレーニン主義的組織形態を拡大するものだった。
 「条件」は、各共産党はその宣伝活動についてコミンテルンの決定に完全に服従しなければならない、と定めていた。
 共産主義的プレスは、完全に党の統制下においていなければならない。
 「支部」は改良主義的傾向と断固として闘わなければならない。そして、可能ならばいつでも、労働者諸組織から改良主義者や中央主義者を排除しなければならない。
 「支部」はまた-これがとくに強調された-、当該諸国の軍隊内部での系統的な宣伝活動を履行しなければならない。
 「支部」は、平和主義と闘い、植民地解放運動を支持し、労働者諸組織、とくに労働組合で活動し、農民の支持を得るよう奮闘しなければならない。
 議会では、共産党議員団は全てを革命的宣伝活動に従属させなければならない。
 党は、最大限に中央志向(cenralized)でなければならず、かつ鉄の紀律を遵守し、定期的に小ブルジョア的要素をもつ党員を排除(粛清、purge)しなければならない。
 党は疑うことなく、全ての現存する諸ソヴィエト共和国(existing Soviet republics)を支援しなければならない。
 各党の綱領は、インターナショナルの大会またはその執行委員会によって是認されなければならない。そして、大会または執行委員会の諸決定は全ての支部を拘束する。
 全ての党は「共産党」(Communist)と称しなければならず、加えて、当該諸国の法令が公然と活動することを許容する党は、「決定的瞬間に」行動するための秘密(clandestine)組織を設立しておかなければならない。//
 (7)こうして、軍事的分野に作用する中央志向の党は、世界共産主義運動の予め定められた様式になった。
 しかしながら、インターナショナルの創立者であるレーニンとトロツキーは、それをソヴィエト国家の政策の道具だとは想定していなかった。
 ボルシェヴィキ党自体は世界革命運動の「支部」または分肢にすぎないという考えは、最初は、全く真摯に抱かれていた。
 しかし、コミンテルンが組織されていく過程と創立の歴史的事情は、すみやかにそのような幻想を追い払った。
 ボルシェヴィキ党は最初に革命に成功した党として自然に大きな威厳をもち、レーニンの権威は揺るがないものだった。
 最初から、ロシアは執行委員会での決定的な発言権をもち、モスクワに居住する他諸党の常勤代表者たちは、徐々にソヴィエトのための活動家になった。
 ソヴィエト内部での指導権をめぐる闘争はインターナショナルに反映したのみならず、ときにはその主要な関心事になった。
 レーニン死後の権力を目指して競い合うボルシェヴィキの寡頭支配者たちのいずれも、兄弟政党の指導者たちの支持を得ようとした。そして、国際的共産主義の勝利または敗北が、今度はモスクワでの兄弟政党間の闘いに利用された。//
 (8)初期のインターナショナル諸大会は、規約に従って適時に開催された。
 第三回大会は1921年6月-7月に、第四回は1922年11月に、そして第五回は1924年6月-7月に、開かれた。
 このときまでにロシアは内戦を経過し、ネップ〔新経済政策〕の第一段階に入っていた。そして、レーニンが死んだ。
 レーニンの訓示と合致して、インターナショナルは最初から、植民地および発展途上諸国での革命的煽動活動のために忙しく活動した。
 インド共産党のNath Roy は、アジアでの革命が世界共産主義の主要な目標であるべきだ、と論じた。資本主義の安定は植民地化された地域からの利潤に依存している、人類の将来を決定するのはヨーロッパではなくアジアだ、と。
 しかしながら、インターナショナルの多数派は、ヨーロッパこそがなおも主要な焦点であるべきだと考えた。
 1920年のワルシャワ〔ポーランド〕を前にしてのソヴィエト軍の敗北によって、すみやかな革命の期待は減ったが、希望が完全に消え失せたわけではなかった。
 しかしながら、ドイツでの革命の企ては、1921年3月に大失敗で終わった。そして、その年6月の第三回インターナショナル大会の諸決議は、世界ソヴェト共和国の見通しに関して、以前よりも悲観的だった。
 レーニンとトロツキーはドイツでの蜂起を非難し、例のごとく大会も、同様に批判した。
 ドイツ共産党指導者のPaul Levi は蜂起に反対しており、それが原因で大会が始まる直前に党から除名されていた。しかし、名誉回復することはなかった。彼はあらためて非難され、その除名は正当なものと見なされた。
 新しい「レーニン主義」スタイルが、明らかに全面的に作動していた。//
 (9)世界革命が遅滞している間、コミンテルン指導者たちは、「左翼」少数派の強い反対に対抗して、社会主義者たちと協力する「統一戦線」方式を決定した。
 1922年の第四回大会を前にして論議が始まった。しかし、何にもならなかった。社会主義者たちは十分な理由でもって、「統一戦線」は自分たちを破壊することを狙った策略だと疑ったのだ。
 1923年10月、ドイツで再び蜂起が発生し、失敗した。
 このとき、ドイツの新しい党指導者のHeinrich Brandler は、コミンテルンとボルシェヴィキ党が完全に作成して主導した計画の生け贄(scapegoat)になった。
 1924年、トロツキーは、ドイツでの権力掌握による革命的状況を利用することに失敗したとして、そのときジノヴィエフが指揮していたコミンテルンの責任を追及した。//
 ----
 ②へとつづく。

1886/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.94-p.101、2004年合冊版p.863-p.868。
 ----
 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)②。
 (7)<小教程>は、レーニン・スターリン崇拝と結びついたボルシェヴィキの神話の全てのパターンを確立したのみならず、儀式や式典の詳細をも定めた。
 これが発行されたときから、この書物が扱う主題のどの部分にではあれ接触する作家、歴史家および宣伝家たちは、経典化した全ての定式に従い、全ての重要な語句を反復するように強いられた。
 <小教程>は、歴史を捏造した書物であるのみならず、一つの強力な社会的装置だった。-マインド・コントロールをするための党の最も重要な手段、批判的思考および自分たちの過去に関する社会的記憶のいずれをも破壊する道具、の一つだった。//
 (8)この書物は、こうした観点からは、スターリンが生んだ全体主義国家のまさに一部だ。
 システムを完成させて市民社会を無きものにするためには、国家が統制しないで何らかの脅威を形成する可能性のある、生活の全形態を根絶する必要があった。
 また、自立した思考と記憶を破壊するための道具を考案する必要もあった。-きわめて困難だが、重要な課題だった。
 全体主義的システムは、恒常的に歴史を書き換えることなくして、そして過去の事件、人々や思想を排除してそれらの代わりに偽りのもので補填することなくしては、生き延びていくことができない。
 ソヴィエト・イデオロギーの趣旨からすると、粛清の犠牲となった特定の指導者がかつては党に対する本当の奉仕者だったがのちに栄誉を失った、と述べることはおよそ考えられない。最終的に裏切り者だと宣告された者は全て、最初から裏切り者でなければならなかった。
 裏切り者との烙印を捺されることなくたんに殺戮された者たちは名無し人(unpersons)となり、二度と彼らについて語られることはなかった。
 ソヴィエトの読者たちは、まだ販売されているが編集者や翻訳者の氏名が注意深く抹消された多数の版この書物を見るのに慣れてしまった。
 しかしながら、かりに執筆者自身が裏切り者であれば、この書物は完全に流通しなくなって消失し、数部だけが図書館の「禁書」部分に残されただろう。
 この書物の内容が申し分なくスターリニストのそれだったとかりにしてすら、同じだった。すなわち、全ての呪術思考でのように、いかなる態様であっても邪悪な精神と結びついている対象は永遠に堕落したままなのであり、記憶から除去され、抹殺されなければならなかった。
 ソヴィエト国民は、式典による呪詛に包含するために、<小教程>が言及している数少ない裏切り者の存在を思い出すことが許された。しかし、悪魔の仲間の残り者たちは忘れ去られることが想定されており、かつどの国民も、あえて彼らの名前を語ろうとはしなかった。
 古い新聞や雑誌は、裏切り者の写真や彼らが書いた論文が掲載されていると分かると、一夜にして不浄なものになった。
 過去だけが継続的に修正されたのではなく、-スターリニズムの重要な特質だが-一方ではそのことおよび修正がなされる全く単純な方法に気づいており、他方ではそれに関しては悲惨な処罰を受けるので何も語らない、のいずれもが、国民の全てについて想定されていた。
 ソヴィエト同盟には、この種の偽りの秘密(pseudo-secret)が他にも多数存在した。すなわち、国民大衆はそれに関して知っても決して言及しようとはしない諸事項が。
 労働強制収容所については、新聞では決して言及されなかった。しかし、市民が収容所に関して知っておかなければならないのは、不文の法だった。そのような事物を何とかしてでも秘密にし続けることはできない、という理由のみによるのではない。すなわち、そのような事実は存在していないというふりをお互いにしつつも、ソヴィエトの生活にある一定の事実に気づいていることを、政府は人々に望んでいる、という理由によってだ。
 システムの目的は、人々に二重(dual)の意識を作り出すことだった。
公衆の会合で、あるいは私的な会話ですら、市民たちは、儀礼的な様式で自分たち自身、世界およびソヴィエト同盟に関する醜悪な虚偽を繰り返して語るように強いられ、同時に、十分によく知っていることについて沈黙を守るように強いられた。テロルに遭っているからのみではなく、市民たちが党と国家が吹き込んだウソを絶え間なく反復することによって-ウソだと知りながら-そのウソについて党と国家の共犯者運動の共犯者になったからだ。
 体制側の意図は、提示される馬鹿々々しさを文字どおりに信じるべきだ、というのではなかった。そうしたり現実を完全に忘れるにはきわめて繊細(naïve)な問題であれば、彼らの良心と<向かい合う>愚かな状態になり、共産主義イデオロギーをを本来的に妥当なものと受け入れる傾向になるだろう。
  しかしながら、完全な服従とは、人々が現在のイデオロギーはそれ自体は何も意味していないと認識することを要求するものだった。すなわち、イデオロギーのいかなる側面も、最高指導者が意図するいかなるときでも勝手に変更したり取消したりすることができないものなのだ。そして、何も変更されておらず、イデオロギーは永遠に同一なのだ、というふりをする(pretend)ことが、全ての者の義務になるだろう。
 (スターリンは、レーニンのように、彼自身はマルクス主義に何も「付け加えて」おらず、ただ発展させただけだ、と注意深く強調した。)
 党のイデオロギーはいつでも指導者が語った以上のものでも以下のものでもない、ということを理解するために、市民は、二重の意識を持たなければならなかった。すなわち、公的には、変化しない教理問答書としてのイデオロギーに忠実であると告白する。一方、私的には、または半ばの意識では、イデオロギーは完全な融通性をもつ、党の手にある、つまりはスターリンの手にある、道具だと知っている。
 市民はかくして、「信じることなくして信じる」ことをしなければならなかった。そして、党が党員たちの中に、また可能なかぎりで全民衆の中に、作り出して維持しようとしているのは、まさにこのような心理(mind)の状態だった。
 生活必需品を欠く半ば飢えている人々は、集会に参加し、いかに富裕であるかについて政府のウソを繰り返して言った。そして考え難いことに、その人々は自分たちが言っていることを半分は信じていた。
 彼らはみな、何と言うのが「正しい」のか、つまり何と言うことが彼らに要求されているかを知っていた。そして、奇妙なことだが、彼らは真実と「正しさ」とを混同していた。
 真実は党が問題にすることだ、と彼らは知ってた。そのゆえに、ウソが経験上の単純な事実と矛盾しているとしても、ウソが真実になった。
 このようにして同時に二つの分離した世界で生きるという状態は、スターリニズム体制が達成した最も顕著なものの一つだった。//
 (9)<小教程>は、虚偽の歴史と二重思考の完全な手引き書だった。
 それがもつ虚偽と隠蔽はあまりに明白すぎて、問題のある事象を目撃していた読者たちが看過したほどのものだった。最も若い党員たち以外の全てが、トロツキーとは誰か、ロシアの集団化はいかにして生じたかを知っていた。しかし、彼らは、公式の見解をオウムのごとく繰り返すことを余儀なくされて、新しい過去の共作者になり、党が作った真実の信奉者になった。
 かりに誰かが明白な経験的事実にもとづいてこの真実を攻撃したとすれば、忠誠者たちの憤激は完璧に嘘偽りのないものだった。
 スターリニズムはこうして、実際に「新しいソヴィエト人間」を生み出した。
 すなわち、イデオロギー上の統合失調症患者、自分が言ったことを信じるウソつき、知的な自傷行為を絶えずかつ自発的に行うことのできる人間。//
 (10)すでに述べたように、<小教程>は弁証法的および歴史的唯物論の新しい提示を含んでいた。-全世代の者にとっての、完全なマルクス主義教理書。
 スターリンのこの作業は、例えばブハーリンの手引き書にも見られ得る簡潔なマルクス主義の説明に、何かを付け加えるものでは実際にはなかった。しかし、全てに番号を振り、体系的に説明する、という長所があった。その書物の他部分と同じく、マルクス主義の提示(exposé)は説教をする目的をもち、理解し記憶するのが容易だった。//
 (11)弁証法的唯物論、マルクス主義哲学は二つの要素、すなわち世界の唯物論的見方および弁証法的方法、から成る、から文節は始まる。
 後者は四つの原理的特質をもつ法則に区別される。
 第一に、全ての現象は相互に連関し合っており、全世界は全体として考究されなければならない。
 第二に、自然にある全ての事物は変化、運動および発展の状態にある。
 第三に、現実の全ての分野で、変化は量的蓄積から生じる。
 第四に、「統合と反対物の闘い」の法則は、全ての自然現象は内部矛盾を具現化したもので、発展の「内容」はその諸矛盾の対立だ、というものだ。
 全ての現象に積極的および消極的側面が、過去と未来があり、闘いは新しいものと古いものとの対立の形態をとる。//
 (12)気づかれるだろうが、この説明は、レーニンが<哲学草稿>で述べたような、エンゲルスの「否定の否定」を含んでいない。
 これを省略している理由は、説明されていない。しかし、いずれにせよ、弁証法はこののちは四つの法則から構成されるのであり、それ以上からではない。
 弁証法の反対物は「形而上学」だ。
 形而上学者はブルジョア哲学者や学者で、当該の諸法則のうちの一つかそれ以上を否定する。そうして彼らは、現象を分離して、つまり相互関係においてではなく、判断することを要求し、何ものも発展しないと主張する。彼らは、質的な変化が量的変化から生じることを理解せず、内部矛盾という考え方を拒否する。//
 (13)自然の唯物論的解釈は、三つの原理を含む。
 第一に、世界はその性質上物質的で、全ての現象は動いている事物の形態だ。
 第二に、事物または存在は我々の精神(mind)の外側に自立して存在する「客観的な現実」だ。
 第三に、世界の全てのものは、知り得る(=可知、knowable)。//
 (14)歴史的唯物論は、弁証法的唯物論の論理的帰結だとして提示される。これを支える見解は、エンゲルス、プレハノフおよびブハーリンのいくつかの叙述に見出すことができる。
 「物質的世界が一次的で、精神は二次的なものである」ため、「社会の物質的生活」、つまり生産と生産諸関係も一次的で、「客観的な現実」だ。一方、社会の精神的(spritual)生活はそれの二次的「反射」だ。
 こうした推論の論理的根拠は、説明されていない。
 スターリンはその際にマルクスの諸定式を引用する。土台と上部構造、階級と階級闘争、イデオロギー(および上部構造の他の全諸形態)の生産諸関係への依存性、社会的変化の理由を地勢や人口動態に求めることの誤り、歴史は一次的には技術発展に依存すること、に関するマルクスの諸定式だ。
 そして、五つの主要な社会経済体制に関する説明がつづく。すなわち、原始共産制、奴隷所有制、封建制、資本主義、社会主義。
 これらが次々と発生する順序は歴史的に不可避のものだ、と叙述される。
 マルクスの言う「アジア的生産様式」に関しては、何も語られていない。
 考えられるその理由は、別の箇所で論述した(第一巻第一四章、pp.350-1)。//
 (15)社会の五つの類型の列挙とその世界各国への適用は、ソヴィエトの歴史研究者に大きな問題を与えた。
 そのような現象をかつて聞いたことがない人々にとって、奴隷社会や封建社会の存在を識別するのは容易なことではなかった。
 さらに、資本主義がブルジョア革命によって生まれ、社会主義は社会主義革命によって生まれたので、従前の移行も同様の方法で発生した、と想定するのは当然だった。
 スターリンは実際、封建制は奴隷所有制から奴隷革命(slave revolution)の結果として出現した、と書いた(または「証明した」。ソヴィエト哲学では、マルクス=レーニン主義の古典に関係する場合にはこれらの二つの言葉は同じことを意味した)。
 スターリンは、実際に1933年2月19日の演説で、同じ点を指摘した。すなわち、奴隷所有制は奴隷革命によって打倒された。その結果として、封建領主たちがかつての搾取者の地位を奪った。
 これは歴史研究者たちに、奴隷所有制から封建制への移行の全ての場合について「奴隷革命」の存在を識別しなければならないという問題を追加した。//
 (16)スターリンの作業はイデオロギストたちの、マルクス主義理論の至高の達成物で哲学史を画するものだ、との大合唱によって歓迎された。
 つづく15年間、ソヴィエト哲学は、この至高の功績の主題に関してはほとんど全く変わりがなかった。
 全ての哲学の論考や参考書は、義務のごとく弁証法の四つの「標識」と唯物論の三つの原理を列挙した。
 哲学者たちには、異なる現象は相互に関連していること(スターリンの第一法則)、あるいは事物は変化すること(第二法則)等々を示す例を見つける(各法則を証明する)こと以外にすることがなくなった。
 こうして、哲学は、最高指導者に対して絶えざる阿諛追従をする媒体の地位へと身を落とした。
誰もが、精確に同じ文体で執筆した。彼らの仕事の形式や内容でもって誰がしているかを区別することはできなかった。
 自立して思考しようとする試みはなく、眠気が生じる決まり文句が際限なく繰り返された。自立した思考は、いかに臆病で媚びたものであっても、その著者を直接的な攻撃の対象にさせただろう。
 哲学に関して自分自身の何かを語ることは、スターリンは重要な何かを省略したと追及していることをすでに意味しただろう。
 自分の様式で執筆することは、スターリンよりもうまく何かを表現することができると示唆することであって、危険な図々しさを示すことだった。
 こうして、ソヴィエトの哲学上の文献は、<小教程>第四章第二節の内容を薄めて再生産する無駄紙の山で成り立つようになった。
これと比較すれば、「弁証法論者」と「機械主義者」のかつての論争は、大胆かつ生産的な、そして自立した思考の一つの例だった。
 哲学史は、ほとんど忘れられた科目になった。
 1930年代には、哲学の古典の翻訳書がなおいくつか出版されていた。しかし、それらの著者は良くも悪くも「唯物論者」だと区分けされるものか、宗教に反対する者だった。ソヴィエトの読者はときにはHolbach やVoltaire の反聖職者本を、あるいは幸運であれば、Bacon やSpinozaの何かを、見たかもしれなかった。
 ヘーゲルの書物も、彼は「弁証法」的執筆者の聖人の一人だったので、まだ出版されていた。
 しかし、およそ40年の間、他の危険な観念論者は言わずもがな、プラトン(Plato)が読まれる機会は存在しなかった。
 職業的哲学者たちは、「マルクス=レーニン主義の古典」、すなわちマルクス、エンゲルス、レーニンそしてスターリンのみを引用した。もちろん、全員が揃って言及されるときにはこの年代的な順序が守られたが、引用の頻度の点でいうと、順序はまさに正反対だった。//
 (17)<小教程>の刊行が生んだイデオロギー状況は、最終的な完璧さの一つだった、と見えるかもしれなかった。
 しかし、戦後には、いっそうの改良がさらになされることになった。//
 (18)スターリンによって成文化されたマルクス主義は何らかの基本的な点でレーニン主義とは異なる、と考えてはならない。
 そのマルクス主義は単調な、初歩的な範型であって、新しい何かをほとんど含んでいなかった。
 1950年以前のスターリンの著作のいくつかに見出し得る独自的なものは、じつに、二つの例外を除いて、ほとんど何もない。。
 第一に、我々が輸入元をすでに考察した、社会主義は一国で建設することができる、ということ。
 第二に、階級闘争は社会主義の建設が前進するにつれて激しくならなければならない、ということ。
 この原理的考え方は、スターリンがソヴィエト同盟にはもはや敵対階級は存在しないと宣言した後でも、公式には有効なままだった。-もはや階級はない、だが階級闘争はかつて以上に深刻になっている。
 1933年1月12日の中央委員会幹部会でスターリンが始めて発表したもののように思われる第三の原理的考え方は、共産主義のもとで国家が「消滅する」前に、弁証法的理由によって国家はようやく最大限の力強さの頂点へと発展するにちがいない、というものだった。
 しかし、この考え方は、トロツキーが内戦の間にすでに定式化していた。
 いずれにせよ、第二および第三は、警察テロルのシステムを正当化すること以外には、意味をもたなかった。//
 (19)しかしながら、つぎのことを再び強調しておかなければならない。すなわち、スターリンのイデオロギーに関して重要なのはその内容ではなく-聖典的な形態で表明されたとしてすら-、イデオロギー上の問題について異論を挟むことのできないと誰もが判断する、至高の権威をもった、という事実だ。
 イデオロギーは、かくして、完全に制度となり、事実上は全ての知的生活がそれに従属した。
 「理論と実践の統一」は、教理、政治および警察の権威のスターリン個人への集中によって表現された。//
 ----
 ③へとつづく。

1884/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第2節①。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.91-p.94、2004年合冊版p.860-p.863。
 ----
 第2節・スターリンによるマルクス主義の成文化(codification)①。
 (1)ソヴィエト同盟の文化諸分野は1930年代に厳しく統制され、自立した知的生活は、実際上は存在しなくなった。
 純文学(Belles-lettres)は徐々にだが効果的に、体制と指導者を称賛して「階級敵」の仮面を剥ぐことを唯一の目的とする、政治と虚偽宣伝の付属物になっていった。
 スターリンは1932年にGorky の家で作家グループと話しているとき、著作者たちは一般に「人間の精神(souls)に関する技術者」だと述べた。そして当然に、この追従的な言葉遣いは、公式の決まり文句になった。
 映画や演劇も、同じように見なされた。後者の方が被害は少なかったけれども。
 伝統的な戯曲の演目は、たいていは古典的ロシア劇作家である作者が「進歩的」であるか「部分的に進歩的」であると表現できる場合にのみ、上演することが許された。この中には、Gogol、Ostrovsky、Saltykov-Shchedrin、TolstoyおよびChekhov が含まれていた。そして、最悪の年代にすら、優れた上演作品はロシアの舞台で観ることができた。
 小説家、詩人および映画監督たちは、Byzantine で、スターリンの称賛を互いに競い合った。これが頂点に達したのは戦後だったが、いま我々が考察している時代にすでに高い程度に至っていた。//
 (2)しかしながら、抑圧と統制は、異なる程度で異なる知的分野に影響を与えた。
 1930年代には、科学の一定の分野で、とくに理論物理学と遺伝学で、マルクス主義を志向する大きな趨勢があった。しかし、1940年代遅くまでには頂点に達しなかった。
 しかしながら、とくにイデオロギーの観点からは微妙(sensitive)な他の分野、すなわち哲学、社会理論および歴史-とりわけ党の歴史と近現代一般の歴史-のような分野は、1930年代にたんに拘束着を身につけさせられた(straight-jacketed)ばかりではなく、スターリンの用語法で完全に成文化(codify)された。//
 (3)ソヴィエトの歴史編纂が屈服した重要な段階は、スターリンが1931年に雑誌<プロレタリア革命>に寄せた書簡によって画された。その手紙は、編集部による適切な自己批判とともに掲載されていた。
 スターリンの書簡は、1914年以前のボルシェヴィキとドイツ社会民主党の関係に関するSlutsky の論考を掲載したとして編集部を叱責した。その論考は、第二インターナショナルでの「中央主義」と日和見主義の危険性を正しく評価することができなかったとして、レーニンを批判していた。
 スターリンはまず、レーニンは何かを「正しく評価することのできなかった」、つまりレーニンはかつて謬りを冒したと示唆する「赤いリベラリズム」だと雑誌を厳しく咎めた。そのあとで彼は、のちに経典的文章となった第二インターナショナルの完全な歴史を概述した。
 スターリンの主要な関心は、非ボルシェヴィキの左翼とトロツキーにあった。
 スターリンによれば、社会主義的左翼は日和見主義との闘いである程度の貢献はしたが、重大な過ちも冒した。
 Rosa Luxenburg とParvus は、例えば党規約に関する党の論争でしばしばメンシェヴィキの側に立った。そして1905年には、「永続革命という準メンシェヴィキ的図式」を案出した。その図式はのちにトロツキーが採用し、その致命的な誤りはプロレタリアートと農民間の同盟という考えを拒否したことだった。
 トロツキー主義について言えば、それは共産主義運動の一部ではとっくになくなっており、「反革命的ブルジョアジーの先鋭的特殊部隊」になっていた。
 戦争前のレーニンはブルジョア民主主義革命が社会主義革命へと不可避的に発展することを理解していなかった、レーニンはのちにトロツキーからその考え方を拾い上げた、というのは、奇怪なウソだ。
 スターリンの書簡(英語版全集第13巻、1955年、pp.86ff.)は、ソヴィエトの歴史編纂の仕方を最終的に決定した。すなわち、レーニンはつねに正しかった(right)。ボルシェヴィキ党は、敵が組織内にしのび込んで組織を正しい道から逸らそうとして失敗したときでも、つねに無謬だった。
 社会主義運動での全ての非ボルシェヴィキの集団は、つねに裏切りの温床であり、せいぜいのところ有害な過ちの培養地だった。//
 (4)こうした判断はRosa Luxenburg の歴史的評価を封印し、決定的にトロツキーに関する処理をつけた。
 しかしながらさらに、歴史、哲学および社会科学の全ての諸問題が、最終的に解決済みのものとされた。
 これを行ったのは、匿名の委員会が編集した1938年の<ソヴィエト同盟共産党の歴史・小教程(Short Cource)>だった。スターリンは当時、党の世界観に関して是認される範型を叙述する、「弁証法的かつ歴史的唯物論」という名高い部分(第4章)だけの執筆者だと考えられた。
 しかしながら、戦後には、この書物全部がスターリンによるものだったとされ、彼の全集の一部として再発行された。そして、その死後も途切れることがなかった。
 スターリンの特徴的な文体はいくつかの場所で明確だった。とくに、多様な反抗者や偏向主義者を「白衛軍のまぬけ」、「ファシストの完璧な子分」等々と称するところで。//
 (5)<小教程>の特質は、出版史の世界での際立つ記録だ。
 ソヴィエト同盟で数百万冊が発行され、15年のあいだ、全市民を完全に拘束するイデオロギーの手引き書として用いられた。
 版の多さは、疑いなく、西側諸国では聖書のそれだけが比べものになっただろう。
 止むことなく、あらゆる場所で発行され、教えられた。
 中学校の上級クラス、高等教育の全ての課程、党での研修等々、<小教程>は何かが教育される全てのところで、ソヴィエト市民の主要な知的滋養源(pabulum)だつた。
 識字能力のある全ての者にとって、これを知らないままでいることは異様な曲芸であっただろう。
 ほとんどの者が何度も読み返すことを義務づけられ、党の宣伝者や講師たちはほとんどこれを暗記していた。//
 (6)<小教程>は、もう一つの点でも世界記録を打ち立てた。
 歴史の体裁をとる書物の中で、これだけ多くの虚偽と隠蔽(lies and suppressions)を含むものは、おそらく存在しない。
 書名が示すように、この本は最初からボルシェヴィキ党の歴史だと謳う。だが第4章も、読者を世界史の一般的諸問題へと誘引し、読者にマルクス主義哲学と社会理論の「正しい」見方を解説する。
 諸教訓(morals)が歴史的事象からあっさりと抽出され、それらがボルシェヴィキ党と世界共産主義運動の諸行動の基礎を形成したものだと提示される。
 歴史の結論は、単純だ。すなわち、レーニンおよびスターリンの素晴らしい指導のもとで、ボルシェヴィキ党は、十月革命の成功という栄冠に輝く、誤りのない政策を最初から確固として追求してきた。
 レーニンはつねに歴史の先頭にいると描かれる。そして、すぐ後に、スターリンがつづく。
 幸福にも大粛清の前に死亡した第二または第三ランクの少数の者たちは、物語の適当な箇所で簡単に言及される。
 レーニンが党を創立するのを実際には助けた指導者たちは、全く言及されないか、または札付きの裏切り者もしくは党に入り込んで妨害と陰謀とをその経歴とする破壊者だと叙述される。
 一方で、スターリンは、最初から過ちなき指導者であり、レーニンの最良の生徒であり、レーニンが最も信頼した協力者であり、最も親密な友人だった。
 レーニン自身については、彼はまだ若い間に人間性を発展させる計画を抱いており、彼の人生の一連の全ての行為はその計画を実現するための考え抜いた歩みだった、と読者が理解するように記述される。//
 ----
 ②へとつづく。

1882/L・コワコフスキ著・第三巻第三章第1節③。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第三章/ソヴィエト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。1978年英語版 p.84-p.88、2004年合冊版p.854-p.857。
 ----
 第1節・大粛清のイデオロギー上の意味③。
(17)第一の問題について、多くの歴史研究者たちは、大粛清の主要な目的は政治生活の潜在的な焦点である党を、何らかの事情のもとではそれ自体の、たんに支配者の手にある道具ではない