Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
「第18章・赤色テロル」のつづき。
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第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設③。
(10) 収容所から脱出しようとすると、厳しい制裁を受けた。
第一回めのとき、再び捕えられた者は、判決の期間が10倍ほども延長されることがあり得た。
第二回めのとき、死刑判決を言い渡すことができる革命審判所に引き渡されるものとされた。
脱出する気持ちを失わせるために、収容所当局は、「集団責任制」(krugovaia)を設ける権限を付与された。これは、仲間の被収容者たちを相互に責任があるものとした。
理論的に言えば、一人の被収容者は、そのために用意された本に、虐待に対する不服を書き記す権利をもった。
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(11) こうして、近代的(modern)な強制収容所が生まれた。—その内部では全ての権利を人間は失ない、国家の奴隷となる飛び地(enclave)だ。
これとの関係では、強制収容所にいる者の地位とふつうのソヴィエトの市民の地位の差異、に関する疑問が生じるかもしれない。
結局のところ、ソヴィエト・ロシアの誰も、個人的権利を享有せず、法に訴えることがなかった。そして、強制労働を定める布令のもとで、国家が要求する場所で働くよう命じられた。
当時のソヴェト・ロシアでは、自由と勾留の境界線は不明瞭だった。
例えば、1919年5月、レーニンは、南部前線での軍事施設の建設のための労働者の動員を、布告した。(注132)
彼は、動員される労働力は「まずは収監者および強制収容所に勾留されている者や重労働刑を宣せられた者」によることを、要求した。
しかし、これで不十分な場合は、レーニンの布告は、「地方の住民にも労働義務を課す」ことを求めた。
ここで、強制収容所の勾留者は、ふつうの「自由な」市民と区別されている。しかし、前者は強制労働へと徴用される最初の集団である、ということによってだけだ。
そうではあるが、上の二つの範疇には、両者を分ける顕著な違いがある。
収容所に入れられていない市民は、家族と一緒にふつうに生活し、配給を補填するために自由市場へと行くことができた。
一方で、被収容者は、縁戚者の訪問をときどき受けるだけで、食料の包みを受け取ることは、禁止された。
ふつうの市民たちは長官とその助手たち(しばしば共産党の信任者)の監視のもとで一日じゅう暮らすことはしなかった。長官たちは、彼ら自身の俸給や収容所の管理運営費を調達するために、労働者に負担金を課して徴収する責任をもっていたけれども。
また、他人の行為についての「集団責任制」という実務のもとで、制裁を受ける可能性はほとんどなかった。
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(12) ソヴィエト・ロシアには、1920年の末に、48の強制収容所があり、およそ5万人を収容していた。
3年後(1923年10月)、これらの数は、315箇所と7万人に増加した。(注133)
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(13) ソヴィエトの初期の強制収容所の状態に関する情報は少なく、この主題に関心を示す研究者はほとんどいない。(注134)
被収容者が密かに外部に持ち出したり、生存者が提供する証言は時おり存在して、収容所の状態を描いている。それは、微細な詳細まで、ナツィの強制収容所の状況に似ている。
類似性はきわめて大きいので、20年前に公表された、というのではないけれども、最近に作成された話だと疑うかもしれないだろう。
1922年、社会革命党のエミグレ(脱出亡命者)たちは、ドイツで、Viktor Chernov を編集者として、ソヴィエトの監獄や収容所からの生存者の報告をまとめた多数の書物を出版した。
その中には、Archangel 近くのKholmology にある強制収容所での生活について、匿名の女性収監者によって書かれた叙述が、含まれていた。
その収容所には、4つの複合施設があり、1200人の被収容者がいた。
収監者たちは、収用された修道院に居住した。そこの設備は比較的に快適で、暖房もあった。
それにもかかわらず、執筆者は、その収容所を「死のキャンプ」と叙述する。
飢餓が、広がっていた。アメリカの救済機関から送られたものもある食料の包みは、すぐに取り上げられた。
ラトヴィア人の名前をもつ長官は、ごく些細な違反行為に対しても、受刑者を射殺させた。
畑で働いている受刑者が自分で引き抜いた野菜を食べた場合、その者はその場で殺害され、逃亡を試みたと報告された。
1人の収監者の逃亡は、自動的に9人の収監者の処刑へとつながった。法に定められているように、「集団責任制」が彼らに適用されるのだった。
再逮捕された逃亡者も、殺害された。ときどきは、生きたまま埋葬された。
管理当局は、被収容者を符号だと見なした。彼らの生と死は、重要な問題ではなかった。(注135)
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(14) こうして、全体主義体制の中心的な装置が、出現した。
「トロツキーとレーニンは、新しい態様の強制収容所の発明者であり、創造者だった。
彼らが、集中収容所(concentration camps)と称される施設を創設した、というだけの意味ではない。…
ソヴィエト共産主義の指導者たちは、法的理由づけのための独特の方法も新しく生み出した。それは、スターリンはただ技術的に組織して発展させただけの、強制収容所の巨大なシステムを作り出す諸観念の網で成り立っていた。
トロツキーとレーニンの強制収容所と比較すると、スターリン主義者のそれは、巨大な形態での制度(〈Ausführungsbestimmung〉)を再提示しているにすぎない。
そして、もちろん、ナツィスは、前者にも後者にも既成のモデルを見出し、発展させたにすぎなかった。
ドイツの強制収容所は、これらのモデルに素早く飛びついたものだった。
1921年3月13日、当時はほとんど無名だったヒトラー(Adolf Hitler)は、〈Völkischer Beobacater〉に、こう書いた。
『必要ならば、煽動者たちを強制収容所に監禁することによって、我々人民にユダヤ的腐敗が入り込むのを防止する」。
その年の12月8日、ヒトラーは、ベルリンのNational Club での演説で、権力を奪取すれば強制収容所を設立するという意図を、表明した。」(注136)
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第十一節、終わり。
「第18章・赤色テロル」のつづき。
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第十一節/ボルシェヴィキによる強制収容所の創設③。
(10) 収容所から脱出しようとすると、厳しい制裁を受けた。
第一回めのとき、再び捕えられた者は、判決の期間が10倍ほども延長されることがあり得た。
第二回めのとき、死刑判決を言い渡すことができる革命審判所に引き渡されるものとされた。
脱出する気持ちを失わせるために、収容所当局は、「集団責任制」(krugovaia)を設ける権限を付与された。これは、仲間の被収容者たちを相互に責任があるものとした。
理論的に言えば、一人の被収容者は、そのために用意された本に、虐待に対する不服を書き記す権利をもった。
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(11) こうして、近代的(modern)な強制収容所が生まれた。—その内部では全ての権利を人間は失ない、国家の奴隷となる飛び地(enclave)だ。
これとの関係では、強制収容所にいる者の地位とふつうのソヴィエトの市民の地位の差異、に関する疑問が生じるかもしれない。
結局のところ、ソヴィエト・ロシアの誰も、個人的権利を享有せず、法に訴えることがなかった。そして、強制労働を定める布令のもとで、国家が要求する場所で働くよう命じられた。
当時のソヴェト・ロシアでは、自由と勾留の境界線は不明瞭だった。
例えば、1919年5月、レーニンは、南部前線での軍事施設の建設のための労働者の動員を、布告した。(注132)
彼は、動員される労働力は「まずは収監者および強制収容所に勾留されている者や重労働刑を宣せられた者」によることを、要求した。
しかし、これで不十分な場合は、レーニンの布告は、「地方の住民にも労働義務を課す」ことを求めた。
ここで、強制収容所の勾留者は、ふつうの「自由な」市民と区別されている。しかし、前者は強制労働へと徴用される最初の集団である、ということによってだけだ。
そうではあるが、上の二つの範疇には、両者を分ける顕著な違いがある。
収容所に入れられていない市民は、家族と一緒にふつうに生活し、配給を補填するために自由市場へと行くことができた。
一方で、被収容者は、縁戚者の訪問をときどき受けるだけで、食料の包みを受け取ることは、禁止された。
ふつうの市民たちは長官とその助手たち(しばしば共産党の信任者)の監視のもとで一日じゅう暮らすことはしなかった。長官たちは、彼ら自身の俸給や収容所の管理運営費を調達するために、労働者に負担金を課して徴収する責任をもっていたけれども。
また、他人の行為についての「集団責任制」という実務のもとで、制裁を受ける可能性はほとんどなかった。
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(12) ソヴィエト・ロシアには、1920年の末に、48の強制収容所があり、およそ5万人を収容していた。
3年後(1923年10月)、これらの数は、315箇所と7万人に増加した。(注133)
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(13) ソヴィエトの初期の強制収容所の状態に関する情報は少なく、この主題に関心を示す研究者はほとんどいない。(注134)
被収容者が密かに外部に持ち出したり、生存者が提供する証言は時おり存在して、収容所の状態を描いている。それは、微細な詳細まで、ナツィの強制収容所の状況に似ている。
類似性はきわめて大きいので、20年前に公表された、というのではないけれども、最近に作成された話だと疑うかもしれないだろう。
1922年、社会革命党のエミグレ(脱出亡命者)たちは、ドイツで、Viktor Chernov を編集者として、ソヴィエトの監獄や収容所からの生存者の報告をまとめた多数の書物を出版した。
その中には、Archangel 近くのKholmology にある強制収容所での生活について、匿名の女性収監者によって書かれた叙述が、含まれていた。
その収容所には、4つの複合施設があり、1200人の被収容者がいた。
収監者たちは、収用された修道院に居住した。そこの設備は比較的に快適で、暖房もあった。
それにもかかわらず、執筆者は、その収容所を「死のキャンプ」と叙述する。
飢餓が、広がっていた。アメリカの救済機関から送られたものもある食料の包みは、すぐに取り上げられた。
ラトヴィア人の名前をもつ長官は、ごく些細な違反行為に対しても、受刑者を射殺させた。
畑で働いている受刑者が自分で引き抜いた野菜を食べた場合、その者はその場で殺害され、逃亡を試みたと報告された。
1人の収監者の逃亡は、自動的に9人の収監者の処刑へとつながった。法に定められているように、「集団責任制」が彼らに適用されるのだった。
再逮捕された逃亡者も、殺害された。ときどきは、生きたまま埋葬された。
管理当局は、被収容者を符号だと見なした。彼らの生と死は、重要な問題ではなかった。(注135)
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(14) こうして、全体主義体制の中心的な装置が、出現した。
「トロツキーとレーニンは、新しい態様の強制収容所の発明者であり、創造者だった。
彼らが、集中収容所(concentration camps)と称される施設を創設した、というだけの意味ではない。…
ソヴィエト共産主義の指導者たちは、法的理由づけのための独特の方法も新しく生み出した。それは、スターリンはただ技術的に組織して発展させただけの、強制収容所の巨大なシステムを作り出す諸観念の網で成り立っていた。
トロツキーとレーニンの強制収容所と比較すると、スターリン主義者のそれは、巨大な形態での制度(〈Ausführungsbestimmung〉)を再提示しているにすぎない。
そして、もちろん、ナツィスは、前者にも後者にも既成のモデルを見出し、発展させたにすぎなかった。
ドイツの強制収容所は、これらのモデルに素早く飛びついたものだった。
1921年3月13日、当時はほとんど無名だったヒトラー(Adolf Hitler)は、〈Völkischer Beobacater〉に、こう書いた。
『必要ならば、煽動者たちを強制収容所に監禁することによって、我々人民にユダヤ的腐敗が入り込むのを防止する」。
その年の12月8日、ヒトラーは、ベルリンのNational Club での演説で、権力を奪取すれば強制収容所を設立するという意図を、表明した。」(注136)
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第十一節、終わり。



























































