Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)。
第一部第三章の試訳のつづき。
——
第三章・知と美への萌芽 ③。
(19) 振り返ることができる範囲で言うと、我々の感覚で知覚する現実は究極的な現実を隠している表層にすぎない、と私は感じていた。
Cracow の街路で従兄弟と遊んでいる少年だったが、下水管の蓋の下で流れる水の音に気を取られた。ごくふつうの下水管口で、ごくふつうの排水だったけれども、見えない源から生まれてくる音によって、我々は影の世界で動いているという私の思いは強くなった。
(言うまでもなく、当時の私はプラトン(Plato)を読んだことがなかった。)
同じような体験を地方の祭りでもした。私は釣竿を持って、スクリーンの背後のプレゼントを拾い上げることになっていた。 幕の後ろに何か別のものがいるのではと、私はいぶかった。
別のあるとき、私が客体(objects)についてもつ考えはそれの現実を表現しておらず、理解など全くしないままで我々が対処することができるようにするための「表象」(symbols)として役立っているにすぎない、と思った。
このような感覚は、生涯ずっと残ったままだった。私の研究はつねに、外面の背後にある「真実」を探求したいという衝動に駆られて行われてきた。//
(20) 音楽家には、いや美術史学者にすらならなかったけれども、私の当初の音楽や絵画への愛好はずっと私に影響を与えつづけ、私は学問上の著作で意識的に、美学的な規準を充たそうと努めてきた。
多年ののちに、Trevelyan のつぎの言葉を納得して読んだ。「真実は歴史研究の規準だ。しかし、歴史研究を駆り立てる動機は詩的なものだ。」(後注4)
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(後注4) A. L. Rowse, The Use of History, 1946, p.54 による引用。
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歴史家でいるための困難さは、両立し難いこれら二つの資質が求められることにある。詩人たる資質と、図書館の司書たる資質。前者は人を自由に舞い上がらせ、後者は人を束縛する。
私が提示しようとしてきたものは全て、文章と構成のいずれに関しても、実証的証拠に細心の注意を払いつつ、美学的に満足できるように書いたものだった。
このことはある程度は、創造的な芸術家になれなかったという失望を埋め合わせてくれた。
だが、それ以上のことを意味する。
私は学問を美学的な経験だと、それゆえに個人的な経験だと見ている。論文や著書の執筆で誰かと協力するという考えを私は抱くことはできない。
つねに、知識によりも叡智に関心をもった。
私が書いた全ては、芸術の場合にそうであるように、私の私的な見方を反映した。
そのゆえに、私は同僚の学問的営為に一度も関与しなかったし、私自身の仕事を総意に適合するよう義務付けられているとも決して感じなかった。//
(21) このような考え方のために、私は早くから論争的になった。
多年ののち、Harvard の大学院生から、私が書いたものはなぜいつも論争を刺激しているのか、と尋ねられた。Samuel Butler のつぎの手紙に答えを見つけるまで、どう回答すればよいか分からなかった。
「世論を聞く耳をもつ者たちの見解が間違っていると考えるまで、どんな主題についても私は書かない。これは必然的帰結として、私が書く本は全て、その分野を占める人々に逆行することになる。だから、私はいつも熱水の中にいる。」(後注5)
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(後注5) Henry Festing Jones, Samuel Butler,II, 1919, p.306.
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(22) 私の若いときの芸術への熱情は、あらゆる種類のイデオロギーに対する免疫という、有益で永続的な効果を私にもたらした。
全てのイデオロギーは、創設者が普遍的な有効性があるとする真実の核を含んでいている。
私が10歳代のときマルクス主義者たちといた時々の討論の間、私はほとんど彼らの議論に反対することができなかった。マルクス主義の正典(canon)について全く無知だったからだ。
しかし、私は、いかなる定式も全てを説明することはできない、ということを、絶対的な確実さをもって知った。
ある人々は、世界をきちんと整序させること、全てが「あるべき場所に収まる」ことに憧れる。—その全ては、マルクス主義やその他の全体主義理論にとっては「原材料」だ。
別の人々は、トルストイが生の「無限の、永遠に尽きることのない発現」と称したものに喜ぶ。究極的には美的価値に由来する喜びだ。
私は、後者の人々の中にいる。//
(23) 私は女の子についてはきわめて臆病だった。
学校に行く途中で、上品で黒味がかった髪の毛と瞳をもつきれいな同じ年頃の女の子をしばしば通り過ぎて、見とれたものだ。私は彼女を見つめ、彼女は私を見つめた。でも、言葉は交わさなかった。
あるとき公共図書館にいて書棚の本を捲っていると、彼女が歩いてきて、近くに落ち着いた。誘いだったが、私はあえて彼女に接近しようとはしなかった。
のちにローマで、彼女をワルシャワで援助していた人物を見つけ出した。
彼女は、疑いなく、ホロコーストで死んだ。//
(24) 1938年7月、私の15歳の誕生日に、ときどき日記を書き始めた。
その日記は、奇跡的に、残った。
ワルシャワを出る前、我々の荷物の中には入れる余地のない、私の最も貴重な文書類があった。
ポーランド・ユダヤの出自でイタリアの市民権をもつLola De Spuches という女性(下記も参照)が戦争中に、家族に逢うためにしばしばワルシャワに旅行していた。そのような旅行のあるとき、私の文書類を預かっていたOlek が、それを一袋にして彼女に与えた。
彼女は戦争のあいだそれをずっと保管し、私が最初にヨーロッパに戻った1948年の夏に、私に手渡してくれた。//
(25) 戦争前の私の日記を読んで、全く陰鬱な気分になる。
主として幸福でない時代に日記に心の裡を打ち明けたのだとしても、その中を激しい怒りによる継続的な緊張が貫いている。
それは部分的には、とりまく環境に向けられていた。すなわち、ポーランド・ナショナリズム、反ユダヤ主義、不気味に迫る戦争。
しかし、私の怒りの唯一の理由は、外部的な要因ではなかった。
その後何度も確認してきたのだが、当時に私は、意味ある知的な作業に従事していないと簡単に憂鬱に陥ってしまう、ということに気づいた。
15歳の私には、追求すべき意味ある知的な仕事はなかった。
努力がどう結実するかが分からないまま、何の指針もなく自分で、音楽や美術史に手を出した。
従って、たびたび襲う失意の時間は、学問の職業を得るとすぐに、永遠に消え失せた。//
(26) 戦争の3-4年前の学校は、本当にいやだった。
私はその頃からワルシャワに来て、私立のギムナジウムに通った。創立者のMichael Kreczmer の名にちなんだ学校で、都心にあり、生徒の半分はカトリックで、半分はユダヤ人だった。
1935年頃、その頃までは問題がなかった雰囲気が、悪い方へ顕著に変化した。
親切でクラシック好きだった校長が、新しい種類のナショナリストの教師たちに排除された。彼らはポーランド文学の指導者に率いられており、Tadeusz Radoński の流れにあった。私の学校かつ復讐の的の校長代理になった。
露骨な反ユダヤ主義の宣告はなかったが、それが継続的な底流になった。
カリキュラムの重点が、ナショナルな問題に置かれた。—ポーランドの歴史、ポーランドの文学、ポーランドの地理。これらへの私の関心は限られていて、むしろ音楽、芸術、哲学への私の愛好の邪魔になった。
ユダヤ人はポーランドの人口の10パーセントを占め、ポーランドの経済と文化を支配しているとされていた。そのユダヤ人が、決して言及されることなく、まるで存在していないかのごとく扱われた。
ポーランド人の意識にユダヤ人がほとんど影響を与えていないとは、全くの驚きだった。
過去についても現在についても、ポーランドがカリキュラムの中心にあった。
世界は大不況下にあり、我々の東ではスターリンが数百万人を殺害し、西ではヒトラーがそれ以上の殺害を準備していた。だが我々は、〈ablativus absolutus〉(絶対奪格(文法))といった瑣末なことを学習し、アフリカのLimpopo 河の流れをなぞらされていた。//
(27) 私が宿題をせず、クラスでの素行が悪かったのは不思議ではない。そのために、一時的にはクラスから追放され、とくに悪くなったときには、一日かそれ以上、家に送り還された。
私の周囲で何が起きているかに無頓着のまま、机の下でニーチェを読んだものだ。
数学は、私の最も不得手の科目だった。私は全く理解できず、私の母親の取りなしと授業料を払っている生徒だという事実のおかげで毎年に上級学年へと進んだ。
(カトリックの生徒の多数でなければ、多くには奨学金があった。)
古代史と世界地理を除けば、私の成績簿は最低で合格する等級の惨めな集まりだった。「素行」ですら、「良」(good)だったのに。
だが、教師が私をのけ者にし、素行と成績の悪さの原因を反省せよと言い、私の自尊心に訴える、そのようなことは一度もなかった、と思う。教師らしく用いた手段は、罰や恥辱だった。
振り返ってみると、学校での行いが良くなかったのは、私には有難いことだった。宿題を果たさないことで、能力試験や授業で得られる以上の価値あるものを学んだり、自分が得意なものを発見したりする、そういう時間を得ることができた。//
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第一部第三章③、終わり。④へとつづく。
第一部第三章の試訳のつづき。
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第三章・知と美への萌芽 ③。
(19) 振り返ることができる範囲で言うと、我々の感覚で知覚する現実は究極的な現実を隠している表層にすぎない、と私は感じていた。
Cracow の街路で従兄弟と遊んでいる少年だったが、下水管の蓋の下で流れる水の音に気を取られた。ごくふつうの下水管口で、ごくふつうの排水だったけれども、見えない源から生まれてくる音によって、我々は影の世界で動いているという私の思いは強くなった。
(言うまでもなく、当時の私はプラトン(Plato)を読んだことがなかった。)
同じような体験を地方の祭りでもした。私は釣竿を持って、スクリーンの背後のプレゼントを拾い上げることになっていた。 幕の後ろに何か別のものがいるのではと、私はいぶかった。
別のあるとき、私が客体(objects)についてもつ考えはそれの現実を表現しておらず、理解など全くしないままで我々が対処することができるようにするための「表象」(symbols)として役立っているにすぎない、と思った。
このような感覚は、生涯ずっと残ったままだった。私の研究はつねに、外面の背後にある「真実」を探求したいという衝動に駆られて行われてきた。//
(20) 音楽家には、いや美術史学者にすらならなかったけれども、私の当初の音楽や絵画への愛好はずっと私に影響を与えつづけ、私は学問上の著作で意識的に、美学的な規準を充たそうと努めてきた。
多年ののちに、Trevelyan のつぎの言葉を納得して読んだ。「真実は歴史研究の規準だ。しかし、歴史研究を駆り立てる動機は詩的なものだ。」(後注4)
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(後注4) A. L. Rowse, The Use of History, 1946, p.54 による引用。
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歴史家でいるための困難さは、両立し難いこれら二つの資質が求められることにある。詩人たる資質と、図書館の司書たる資質。前者は人を自由に舞い上がらせ、後者は人を束縛する。
私が提示しようとしてきたものは全て、文章と構成のいずれに関しても、実証的証拠に細心の注意を払いつつ、美学的に満足できるように書いたものだった。
このことはある程度は、創造的な芸術家になれなかったという失望を埋め合わせてくれた。
だが、それ以上のことを意味する。
私は学問を美学的な経験だと、それゆえに個人的な経験だと見ている。論文や著書の執筆で誰かと協力するという考えを私は抱くことはできない。
つねに、知識によりも叡智に関心をもった。
私が書いた全ては、芸術の場合にそうであるように、私の私的な見方を反映した。
そのゆえに、私は同僚の学問的営為に一度も関与しなかったし、私自身の仕事を総意に適合するよう義務付けられているとも決して感じなかった。//
(21) このような考え方のために、私は早くから論争的になった。
多年ののち、Harvard の大学院生から、私が書いたものはなぜいつも論争を刺激しているのか、と尋ねられた。Samuel Butler のつぎの手紙に答えを見つけるまで、どう回答すればよいか分からなかった。
「世論を聞く耳をもつ者たちの見解が間違っていると考えるまで、どんな主題についても私は書かない。これは必然的帰結として、私が書く本は全て、その分野を占める人々に逆行することになる。だから、私はいつも熱水の中にいる。」(後注5)
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(後注5) Henry Festing Jones, Samuel Butler,II, 1919, p.306.
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(22) 私の若いときの芸術への熱情は、あらゆる種類のイデオロギーに対する免疫という、有益で永続的な効果を私にもたらした。
全てのイデオロギーは、創設者が普遍的な有効性があるとする真実の核を含んでいている。
私が10歳代のときマルクス主義者たちといた時々の討論の間、私はほとんど彼らの議論に反対することができなかった。マルクス主義の正典(canon)について全く無知だったからだ。
しかし、私は、いかなる定式も全てを説明することはできない、ということを、絶対的な確実さをもって知った。
ある人々は、世界をきちんと整序させること、全てが「あるべき場所に収まる」ことに憧れる。—その全ては、マルクス主義やその他の全体主義理論にとっては「原材料」だ。
別の人々は、トルストイが生の「無限の、永遠に尽きることのない発現」と称したものに喜ぶ。究極的には美的価値に由来する喜びだ。
私は、後者の人々の中にいる。//
(23) 私は女の子についてはきわめて臆病だった。
学校に行く途中で、上品で黒味がかった髪の毛と瞳をもつきれいな同じ年頃の女の子をしばしば通り過ぎて、見とれたものだ。私は彼女を見つめ、彼女は私を見つめた。でも、言葉は交わさなかった。
あるとき公共図書館にいて書棚の本を捲っていると、彼女が歩いてきて、近くに落ち着いた。誘いだったが、私はあえて彼女に接近しようとはしなかった。
のちにローマで、彼女をワルシャワで援助していた人物を見つけ出した。
彼女は、疑いなく、ホロコーストで死んだ。//
(24) 1938年7月、私の15歳の誕生日に、ときどき日記を書き始めた。
その日記は、奇跡的に、残った。
ワルシャワを出る前、我々の荷物の中には入れる余地のない、私の最も貴重な文書類があった。
ポーランド・ユダヤの出自でイタリアの市民権をもつLola De Spuches という女性(下記も参照)が戦争中に、家族に逢うためにしばしばワルシャワに旅行していた。そのような旅行のあるとき、私の文書類を預かっていたOlek が、それを一袋にして彼女に与えた。
彼女は戦争のあいだそれをずっと保管し、私が最初にヨーロッパに戻った1948年の夏に、私に手渡してくれた。//
(25) 戦争前の私の日記を読んで、全く陰鬱な気分になる。
主として幸福でない時代に日記に心の裡を打ち明けたのだとしても、その中を激しい怒りによる継続的な緊張が貫いている。
それは部分的には、とりまく環境に向けられていた。すなわち、ポーランド・ナショナリズム、反ユダヤ主義、不気味に迫る戦争。
しかし、私の怒りの唯一の理由は、外部的な要因ではなかった。
その後何度も確認してきたのだが、当時に私は、意味ある知的な作業に従事していないと簡単に憂鬱に陥ってしまう、ということに気づいた。
15歳の私には、追求すべき意味ある知的な仕事はなかった。
努力がどう結実するかが分からないまま、何の指針もなく自分で、音楽や美術史に手を出した。
従って、たびたび襲う失意の時間は、学問の職業を得るとすぐに、永遠に消え失せた。//
(26) 戦争の3-4年前の学校は、本当にいやだった。
私はその頃からワルシャワに来て、私立のギムナジウムに通った。創立者のMichael Kreczmer の名にちなんだ学校で、都心にあり、生徒の半分はカトリックで、半分はユダヤ人だった。
1935年頃、その頃までは問題がなかった雰囲気が、悪い方へ顕著に変化した。
親切でクラシック好きだった校長が、新しい種類のナショナリストの教師たちに排除された。彼らはポーランド文学の指導者に率いられており、Tadeusz Radoński の流れにあった。私の学校かつ復讐の的の校長代理になった。
露骨な反ユダヤ主義の宣告はなかったが、それが継続的な底流になった。
カリキュラムの重点が、ナショナルな問題に置かれた。—ポーランドの歴史、ポーランドの文学、ポーランドの地理。これらへの私の関心は限られていて、むしろ音楽、芸術、哲学への私の愛好の邪魔になった。
ユダヤ人はポーランドの人口の10パーセントを占め、ポーランドの経済と文化を支配しているとされていた。そのユダヤ人が、決して言及されることなく、まるで存在していないかのごとく扱われた。
ポーランド人の意識にユダヤ人がほとんど影響を与えていないとは、全くの驚きだった。
過去についても現在についても、ポーランドがカリキュラムの中心にあった。
世界は大不況下にあり、我々の東ではスターリンが数百万人を殺害し、西ではヒトラーがそれ以上の殺害を準備していた。だが我々は、〈ablativus absolutus〉(絶対奪格(文法))といった瑣末なことを学習し、アフリカのLimpopo 河の流れをなぞらされていた。//
(27) 私が宿題をせず、クラスでの素行が悪かったのは不思議ではない。そのために、一時的にはクラスから追放され、とくに悪くなったときには、一日かそれ以上、家に送り還された。
私の周囲で何が起きているかに無頓着のまま、机の下でニーチェを読んだものだ。
数学は、私の最も不得手の科目だった。私は全く理解できず、私の母親の取りなしと授業料を払っている生徒だという事実のおかげで毎年に上級学年へと進んだ。
(カトリックの生徒の多数でなければ、多くには奨学金があった。)
古代史と世界地理を除けば、私の成績簿は最低で合格する等級の惨めな集まりだった。「素行」ですら、「良」(good)だったのに。
だが、教師が私をのけ者にし、素行と成績の悪さの原因を反省せよと言い、私の自尊心に訴える、そのようなことは一度もなかった、と思う。教師らしく用いた手段は、罰や恥辱だった。
振り返ってみると、学校での行いが良くなかったのは、私には有難いことだった。宿題を果たさないことで、能力試験や授業で得られる以上の価値あるものを学んだり、自分が得意なものを発見したりする、そういう時間を得ることができた。//
——
第一部第三章③、終わり。④へとつづく。