秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

トニー・ジャット

2682/西尾幹二批判075・トニー·ジャット。

  Tony Judt(トニー·ジャット)の文章を最初に読んだのは、つぎの著の、Leszek Kolakowski=レシェク・コワコフスキに関する章だった。
 Tony Judt, Reappraisals -Reflections on the forgotten 20th Century, 2008.
 L・コワコフスキの大著がアメリカで一冊となって再刊されることを知って、歓迎するために書いたものだった。L・コワコフスキに対する関心が、私をT・ジャットにつなげた。
 この著にはつぎの邦訳書があった。
 トニー·ジャット=河野真太郎ほか訳・失われた20世紀(NTT出版、2011)。
 原書も見たが、この訳書にほとんど依拠して、L・コワコフスキに関する章をこの欄に引用・紹介したこともあった。→No.1717/2018年1月18日·①、以下。
 T・ジャットの最後の著は、つぎだった。
 When the Facts Change -Essays 1995-2010, 2010.
 L・コワコフスキ逝去後の追悼文がこの中にあった。敬愛と追悼の念が込められたその文章には感心した。それで、この欄に原書から翻訳して、この欄に掲載した。→No.1834/2018年7月30日。
 のちに、つぎの邦訳書が刊行された。
 T・ジャット=河野真太郎ほか訳・真実が揺らぐ時(慶應大学出版会、2019)。
 この訳書にも書かれているように、上の2010年著は著者の死後に妻だったJennifer Homans(ジェニファー·ホーマンズ)により編纂されて出版されたもので、冒頭に‘Introduction :In Good Faith’ という題の彼女の「序」がある。
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  この「序」の文章を読んで、日本の西尾幹二のことを想起せざるを得なかった。
 私(秋月)はT・ジャットの本を十分には読んでおらず、L・コワコフスキについての他は、Eric Hobsbawm とFrancois Furet に関する文章の概略を読んだにすぎない(前者は2008年の著、後者は2010年の著にある)。
 したがって、J. Homans が書くT. Judt の評価が適切であるかどうかを判断する資格はない。
 だが、その問題は別としても、彼女の文章の中のつぎの二点は、日本の西尾幹二を思い出させるものだった。その二点を、以下に記そう。
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  第一。編者で元配偶者だったJ. Homans はまず冒頭で、T·ジャットの人物と「思想」(the ideas)は区別されなければならないとしつつ、彼の「思想」は「誠実さをもって」または「誠実に」書かれた、と指摘する。冒頭にこの点を指摘するのだから、よほど強く感じていたことに違いない(私にその適否を論じる資格はないが)。
 「誠実さをもって」、「誠実に」とは、原語では、「序」の副題にも用いられている、’In Good Faith’ だ。
 邦訳書にほとんど従うと、そして編者によると、これはT・ジャットの「お気に入り」の表現(favorite phrase)だった。そして、編者は、これをつぎのような意味だと理解している。
 「知的なものであろうとなかろうと、計算(caluculation)や戦略(maneuver)ぬきで書かれた著述」のことであり、「純粋(clean)で、清明で(clear)、正直な(honest)記述」だ。
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 秋月瑛二は、西尾幹二について、こう感じている。
 西尾自身は「書けることと書けないことがある」と明言し、「思想家」も「高度に政治的に」なる必要がある旨を明言したこともある。また、月刊正論では安倍内閣批判が許容されたとか語ったことがあるように、雑誌の性格によって執筆内容の範囲や限界を「忖度」していたことを認めている。
 西尾幹二の「評論家」生活、「売文」業=「自営文章執筆請負」業生活は、<計算>と<戦略>にたっぷりと満ち満ちていたのではないだろうか。
 当然ながら、「純粋」でも「清明」でもなく、重要なことだが、「正直」ではない。
 西尾幹二の<戦略>についてはほとんど触れたことがないが、この人は、とくに2000年頃以降、広い意味での<保守>派の中で、どのような立場を採れば、どのような主張をすれば、目立つか、際立つか、注目されるか、という「計算」を絶えず行なってきた、と思われる
 西尾の反安倍も、反原発も、その他も、このような観点からも見ておく必要がある。近年ではやや薄れてはきているが、少なくとも一定の時期は、<産経>または<月刊正論>グループの中でも、櫻井よしこ・渡部昇一ら(八木秀次はもちろん)とは異なる立場にいることを<戦略>として選んできた気配がある。
 J. Homans が書いているとおりだとすると、T. Judt は、西尾幹二とは真反対の著述家だったようだ。たしかに、この人のL・コワコフスキ追悼の文章は、「計算・戦略」など感じられない、一種胸を打つようなところがある。彼はあの文章を、自分自身の<ゲーリック病>による満62歳での死の10ヶ月前に書いたのだった(病気のことを全く感じさせない文章だった)。
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  第二。「序」の最後に編者、J.Homans が書いているところによると、T・ジャットは死の直前の1ヶ月に「来世」(the Afterlife)と題する小論を書き始めた。だが完成しなかったようで、2010年著にも含まれていないと見られる。
 編者に残された断片的原稿の中に、つぎの文章があった、という。ほぼ邦訳書による。
 「影響や反応(impact, response)に関する何らかの見込みをもって、ものを書いてはならない。
 そうすれば、影響や反応は歪められたものになってしまい、著作そのものの高潔さ(integrity)が汚されてしまう。」
 「無限の可能性が将来にある読者の動機(motives)が生じる文脈(context)も、予期することはできない。
 だから、それが何を意味していても、きることはただ、書くべきことを書くことだけだ。
 読者や出版社・編集者の「反応」、彼らへの「影響」を気にして文章を執筆してはならない。書くべき(should)ことを書くだけのことだ。
 西尾幹二は、かりに知ったとして、T・ジャットの死の直前に書かれたこの文章をどう読むだろうか。
 自分の文章の読み方、解釈の仕方は、読み手に任せる他はないのではないか。前回に記したようなこの人の<足掻き>、あるいは<妄執>は、いったい何に由来するのだろうか。
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 書きたいことを書くだけだ。影響などないに決まっているし、反応を気にしても仕様がない。—これは全く、この欄についての秋月瑛二の心境でもある。
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2628/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌⑥。

 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット。(Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
 つづき。
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 第一章④。
 (14) 精神の歪曲と身体の責苦を目的とするこのような皮肉な弁証法の利用を、西側のマルクス主義講釈者たちは、通常のこととして、見逃した。彼らは過去の理想または未来の展望の黙考に沈潜して、とくに彼らがかつての犠牲者や目撃者だった場合には、ソヴィエトの現在に関する不愉快な情報に動かされないままでいることを好んだ。(注12)
 Kolakowski がこのような者たちと遭遇したことが、疑いなく、「西側の」マルクス主義と彼の進歩的な同調者の大部分に対する彼の痛烈な軽蔑を説明する。
 「教養のある人々にマルクス主義が人気のある理由の一つは、マルクス主義は単純な態様ではきわめて理解し易い、ということだ。Sartre ですら、マルクス主義者は誤っており、(マルクス主義は)あれこれと研究し終えることなく、歴史と経済の総体に対処するのを可能にする道具だった、ということに気づいていた。」(注13)
 このような遭遇は、ずっと以前に出版された論考集〈My Correct Views on Everything〉という嫌味溢れる表題となった小論の動機となったものでもあった。(注14)
 イギリスの歴史家のEdward Palmer Thompson は1973年の〈The Socialist Register〉に、Leszek Kolakowski に宛てた公開書簡を掲載した。
 そこで彼は、かつてのマルクス主義者に向かって、若いときのマルクス主義修正主義からの転向によって擁護者を見捨てたと、叱りつけた。
 この公開の書簡が際立って示したのは、Thompson の自己満足と地域性だった。すなわち、彼は饒舌で(書簡は100頁に及んだ)、慇懃無礼で、偽善的だった。
 Thompson は、威張った扇動的な調子で、亡命したKolakowski の鼻の前に修辞の指先を突きつけて彼を払い落とし、彼を—その思慮深くて進歩的な公刊物を斜めに一瞥しながら—非難する。
 「我々二人は、1956年に共産主義修正主義の見解で一致した。…我々はともに、スターリン主義批判の先頭の立場から…を経てマルクス主義修正主義の態度へと至った。
 時代を経て、あなたとあなたが支持した物事は、我々の最も内的な思考について現在のようになった。」
 Thompson は、イギリスの地方の居心地よい安全な所から、こう示唆した。
 あなたは、どのようにしてあえて我々を裏切ることができるのか? 共産主義ポーランドでのあなたには不都合な体験でもって、我々に共通するマルクス主義の理想を覆い隠すことによって。//
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 (15) Kolakowski の反論文である〈My Correct Views on Everything〉はおそらく、政治的議論の歴史上、最も良く書かれた知識人の解体作業だ。すなわち、これを読んだあとでは誰も二度と、Edward Palmer Thompson を真面目に受け止めないだろう。
 この小論は、マルクス主義の歴史と体験によって「東側」と「西側」の知識人の間にあることが明らかになった、かつ今日まで存在している、大きい道徳的な溝を解説するものだった(そして症候として例証するものだった)。
 Kolakowski は情け容赦なく、Thompson の懸命の利己的な努力を解剖し、分析した。その努力とは、マルクス主義の欠陥から社会主義を、共産主義の拒絶からマルクス主義を、そして彼自身の犯罪から共産主義を救おうとするものだった。—全ては、一つの理想の名のもとに行なわれた。表面的には「唯物論的」現実に根ざし、信頼性もそれに依存していて、決して現実世界の経験や人間の不可能性に言及されることがない理想。
 Kolakowski はThompson に向かってこう書く。
 「あなたは、『システム』という概念で思考するのは傑出した成果をもたらす、と言う。
 私も、確かにそう思う。—たんに傑出しているばかりか不可思議な成果をだ、という点で留保はするが。
 人類の全ての諸問題を、それは一撃のもとですぐに解決するのだ。」
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 (16) 人類の諸問題を一撃のもとで解決する。現在を説明すると同時に将来を保障することのできる、全てを包括する理論を追い求める。
 現実の体験の苛立つような複雑さと諸矛盾を回避するために、知性的または歴史的な「システム」という松葉杖に逃げ場を求める。
 腐敗した果実から、想念または理想の「純粋な」種子を救い取る。
 このような近道は、永遠の魅力をもつが、マルクス主義者(または左翼)の独占物ではない。
 少なくともこのような人間の愚昧さのマルクス主義という変種から別離することだけは、至極当然のことだ。
 Kolakowski のようなかつてのマルクス主義者の洗練された洞察とThompson のような「西側」マルクス主義者の独善的な偏狭さのあいだで、歴史の審判自体について完全に沈黙するならば、問題は自明のこととして処理されたかのように思われるだろう。
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 注記。 
 (12) このような目撃証言には信頼性がないという主題に、西側の進歩主義者によるスターリン主義の釈明は注目した。
 全く同様に、アメリカのソヴィエト学者は、東方圏からの逃亡者または移住者による証拠物提出や証言を、無視した。—あまりにも個人的体験で、一致していないため、概観することを歪曲し、客観的に分析することを妨害する。
 (13) 「社会主義に残るものは何か ?」((注08)を見よ)。ポーランドの人々その他の「東方圏人」は、迎合的な西側の進歩主義者に対するKolakowski の嘲弄に共感していた。詩人のAntoni Slonimski は1976年に、Jean-Paul Sartre が20年前に、アメリカに対抗して「社会主義陣営」を弱めないために、社会主義リアリズムを放棄しないよう、ソヴィエト圏の文筆家たちを激励したことを、思い起こさせた。「彼にとっての自由、我々にとっての全ての制約!」。「L'Ordre regne a Varsovie」〈Kultura, 3〉(1976), S.26f. 所収、Marci Shore,〈Caviar and Ashes: ワルシャワ世代の生とマルクス主義の死, 1918-1968〉(2006), S.362 による引用、を参照。
 (14) 例えば、Leszek Kolakowski,〈Chretiens sans eglise. La conscience religieuse et le lien confessional au XVIIe siecle〉(1969)。同〈God Owes Us Nothing. A Brief Remark on Pascal's Religion and on the Sprit of Jansenism〉(1995)。並びに、論文集〈My Correct Views on Everything〉,South Bend, Indiana (2005)、とくに、George Urban との対話、「歴史における悪魔」と小論「Concern with God in an Apparently Godless Era」。ドイツ語では、Hans Rössner(編),〈Der nahe und der ferne Gott. Nichttheologische Texte zur Gottesfrage im 20. Jahrhundert〉,序言 (1981)で出版された。
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 第一章〔表題なし〕、終わり。第二章へつづく。

2625/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌③。

 Tony Judt の論稿から、試訳を始める。
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 全ての別れのために—今日に読む〈マルクス主義の主要潮流〉/トニー·ジャット。
 (Andreas Simon dos Santos により英語から独語に翻訳。)
 第一章①
 (01) Leszek Kolakowski は、ポーランド出身の哲学者だ。
 だが、このような性格づけは、全く適切ではない—または、十分ではない—と思える。
 Czeslaw Milosz やその前のその他の人々においてそうだったように、Kolakowski の知的および政治的な軌跡は、彼の反対派的立場によって明確になり得る。伝統的なポーランドの文化の深く根づいた経緯、すなわち聖職者主義、差別主義、反ユダヤ主義によって特徴づけられるものに対する立場によって。
 1968年に出国を強いられたのち、Kolakowski は、彼の故郷に戻ることも、そこで自分の著作を出版することもできなかった。
 1968年と1981年のあいだ、彼の名前はポーランドの検索対象になることが禁じられた著者だった。そして、彼はそのあいだに、今日に彼が最も知られている著作の大部分を執筆し、外国で公にした。
 亡命中のKolakowski は、ほとんどをイギリスで過ごした。彼は1970年以降、オクスフォードのAll Souls College の研究員だ。
 しかし、会話の際に言っていたように、イギリスは島であり、オクスフォードはイギリスの中の島であり、All Souls(学生のいないCollege)はオクスフォードの中の島だった、そして、Leszek Kolakowski 博士は、All Souls の中の島、四重に囲まれた島だった。(注1)
 イギリスの文化生活は、ロシアや中央ヨーロッパからの移民知識人たちに対して、かつては一つの場所を提供した。—Ludwig Wittgenstein、Arthur Koestler、あるいはIsaiah Berlin を想起することができる。
 だが、かつてのマルクス主義的カトリックのポーランド出身哲学者は、さらに異国者的で、彼の国際的な名声にもかかわらず、イギリスではほとんど知られていなかった。そして、驚くべきほどに低い評価を受けていた。//
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 (02) しかし、他の国では、Kolakowski は有名だった。
 彼の世代の多くの中央ヨーロッパの学者たちと同様に、彼は複数の言語を用い—自宅でのポーランド語や英語と同じようにロシア語、フランス語、ドイツ語を使った—、とくにイタリア、ドイツ、フランスで栄誉と賞を受けた。 
 Kolakowski がシカゴ大学の社会思想委員会で4年間教育したアメリカ合衆国では、彼の業績は惜しみない評価に恵まれた。その絶頂は2003年で、連邦議会図書館の第一回のJohn Kluge 賞が与えられた。—この賞は、ノーベル賞の対象になっていない学問分野(とくに思想科学)での生涯にわたる研究に対して付与されたものだった。
 しかし、一度ならずパリにいるときが最も落ち着くと述べていたKolakowski は、イギリス人以上にアメリカ人ではなかった。
 おそらく、20世紀の学者共和国の最後の輝かしい市民だと彼を叙述するのが、最も適切だろう。//
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 (03) 彼の本当の故郷のほとんどで、Leszek Kolakowski は、とくにその著名な三巻のマルクス主義の歴史書、〈マルクス主義の主要潮流〉で(そして多くのところではそれだけで)知られている。
 1976年にポーランド語で(パリで)出版されたこの著作は、1年後にドイツで、2年後にイギリスで出版され、現在のアメリカ合衆国では一巻本の書物として再発行されている。(注2)
 この著作は、疑いなく、最大の高い評価を得ており、現代の人文学の記念碑的傑作だ。
 もちろん、Kolakowski の著作の中でのこの作品の卓越さには一定の皮肉がなくはないが、この著者は「マルクス学者」(Marxologe)では決してない。
 彼は、哲学者であり、哲学歴史家であり、カトリック思想家だ。
 彼は初期キリスト教の教派と異端派の研究を行ない、ヨーロッパの宗教と哲学の歴史に最後の四半世紀の大部分を捧げた。これは、最良の哲学的神学的研究と称し得るものだろう。//
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 (04) 戦後ポーランドの同世代の中での洗練されたマルクス主義哲学者という高名から始まる、1968年の離国までのKolakowski の「マルクス主義」段階は、実際は全く短いもので、この時期の大部分で、彼はすでに異端者だった。
 すでに1954年、彼が27歳のときに、「マルクス=レーニン主義からの逸脱」を非難されていた。
 彼は1966年に、Posenでの労働者抗議運動(「ポーランドの十月」)10周年記念日のために、有名な批判的講演をワルシャワ大学で行ない、党指導者のWladyslaw Gomulka から公式に「いわゆる修正主義運動の主要イデオローグ」と咎められた。
 Kolakowski が講座を剥奪されたとき、その理由とされたのは、「国の公式の方向に逆らって」歩むという「若者の考え方」を作り出している、ということだった。
 西側に到着したとき、彼は、(我々には今でもそう思えるように、贔屓の者たちを困惑させることには)もはやマルクス主義者ではなかった。そして、そのあとで彼は、最近の半世紀のマルクス主義に関する最も重要な書物を執筆し、二年後に、ポーランドのある研究者が奥ゆかしく表現したところでは、「この主題に関するなおもささやかな関心だけ」を掻き集めた。(注3)//
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 注記
 (注01) Leszek Kolakowski とDanny Postel の対話、〈追放、哲学、未知の深淵での不安定なよろめきについて〉。〈Daedaulus〉2005年夏号所収、S.82.
 (注02) Leszek Kolakowski, 〈Glowne Nurty Markzmu〉1976, Paris. ドイツ語版、〈マルクス主義の主要潮流、成立・発展・瓦解〉1977-79, München. 再版、1981.
 英語訳の初版は、Oxford で1978年に出版された。ここで言及した新版は、著者の新しい緒言とあと書き付きで2005年にNew York で刊行された。タイトルは、〈マルクス主義の主要潮流、生成者・黄金時代・崩壊〉。
 (注03) Andrzey Walicki, Marxism and the Leap to the Kingdom of Freedom :The Rise and Fall of the Communist Utopia, 1995, S. VII.
 楽観的正統派から懐疑的反対派への転遷について、Kolakowski は、つぎのようにだけ言った。
 「たしかに、20歳のとき、(完全にでなくとも)ほとんど知ったつもりだった。けれど、お分かりのとおり、年をとるにつれて、人々は愚かになる。28歳で、ほとんど分からなくなり、今でも一層そうだ。」
 以上、最初は〈Socialist Register〉(1974)に発表された〈My Correct Views on Everything. E. P. Thompson への返答〉。〈My Correct Views on Everything>、上掲書、S.19.
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 つづく。

2623/L・コワコフスキ誕生80年記念雑誌①。

 ドイツ・フランクフルト(am Main)のNeue Kritik という出版社が、<Transit>と題するおそらく季刊雑誌を発行している(または発行していた)。
 その第34号=2007年/2008年冬季号は、二つの特集を主内容にしており、その第一は、「レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)の80歳の誕生日に寄せて」だった(試訳者注1)。L.Kolakowski、1927.10生〜2009.07没。
 巻頭の編集の辞はほとんどをL.Kolakowskiへの言及で費やしており、特集は、そのKolakowski の1957年のエッセイ「社会主義とは何か?」(試訳者注2)を再録しているほかは、つぎの四つの論稿で成っている。番号数字は原雑誌にはない。日本語は、試訳。
 1/Krzysztof Michalski, 全体の裂け目。
 2/Tony Judt, 全てのお別れに?—今日に読むKolakowski の〈マルクス主義の主要潮流〉。
 3/John Gray, 共産主義から新保守主義へ。
 4/Marci Shore, 家族のドラマ—ユダヤ人とヨーロッパの共産主義。
 興味深いのは、この4名のうちの2名がTony Judt(トニー・ジャット)とJohn Gray(ジョン・グレイ)だ、ということだ。
 この二人が書いたものの一部は、この欄で何回にも分けて試訳を掲載したことがある。(試訳者注3)
 この二人の政治的立場は同一ではないだろうが、いずれも明確な反共産主義者で、L・コワコフスキを高く評価している(かつ敬愛の念を抱いている)ことでは共通していた。(試訳者注4)
 二人の著書の邦訳書はあり、とくにJohn Gray 著には多い。だが、ジョン・グレイ(London大学教授)の邦訳書が多いのは「新保守主義」、「自由原理主義」ないし「新自由主義」に対するこの人の批判的立場が日本の出版業界隈で「左翼(的)」だと受けとめられた可能性があるからだろう、と私は思っている。明確な「反共」の立場の欧米の書物は、日本では翻訳書が出版され難い。
 現に、この欄にかなり(と言っても半分にはるかに満たないが)試訳を掲載した〈マルクス主義の主要潮流〉は、邦訳書が出ないままで終わりそうだ。日本の近年のいわゆる「保守」派も、「反共」を唱えつつ、欧米の共産主義・反共産主義に関する文献に興味を示さない。
 以下、「編集の辞」のほとんどのLeszek Kolakowski に関する部分と、上の四つの論稿をできるだけ邦訳してみる。
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 (試訳者注1) もう一つの特集は、「Anna Politkowskaja 追悼」だ。
 この女性はロシア人ジャーナリストで、第二次チェチェン紛争、RSB(ロシア連邦保安庁)、プーチンに対して批判的だった。2006年に暗殺された。Anna Politkowskaja、1958.8生〜2006.10没、満48歳。
 (試訳者注2) この小論は、加藤哲郎・東欧革命と社会主義(花伝社、1990)の表紙裏に掲載された。「ポーランドの哲学者・コラコフスキー」と執筆者名を記しているが、加藤は「コラコフスキー」へのそれ以上の関心を継続させなかったようだ。参照→No.1976/2019.09.13「加藤哲郎著とL・コワコフスキ」
 (試訳者注3) それぞれに言及した最初は、→トニー・ジャット(No.1525/2017.05.02)、→ジョン・グレイ(No.1565/2017.05.29)。
 (試訳者注4) いずれにもその点が分かる論稿があるが、とくにT・ジャットは、〈マルクス主義の主要潮流〉(原著、1976(パリ)。第一巻独訳書、1977。全巻英訳書、1978)のアメリカでの再発行決定を歓迎する文章を2006年に書き、Kolakowskiの死の直後の2009年に哀惜感溢れる(と私は感じる)文章を書いた。彼自身が、翌2010年に難病のために死亡したのだったが。Tony Judt、1948.01生〜2010.08没、満62歳。
 上の雑誌への寄稿は亡くなる2-3年前で、すでに病魔と闘っていたのではないかと思われる。
 コワコフスキ追悼文、参照→No.1834・2018年7月30日付。この追悼文はのちに、つぎの邦訳書の中に収載された。当然ながら、訳は上と同じではない。
 T・ジャット=河野真太郎ほか訳・真実が揺らぐ時—ベルリンの壁崩壊から9.11まで(慶応大学出版会、2019.04)。原書は、Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010 (2015)
 妻のJenniffer Homans が編者で、「まえがき」を彼女が書いている。そして、「人と思想」は区別しなければならないと冒頭に書きつつ、結局はT・ジャットの著作と人物像が入り混じった追悼の文章になっている(と私には思えた)。その点が興味深く、かつ感動的でもあって、いつか試訳してみたいと思っていたが、上の邦訳書に含まれている。
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2343/L・コワコフスキ「権力について」(1999)①。

  レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski。
 1927.10.23〜2009.07.17、満81歳で、Oxford で死去。
 この人の大著<マルクス主義の主要潮流>の英語版を試訳しようと思ったのは(結局半分以上の試訳を済ませたのは第3巻だけで、第2巻はレーニン以降だけ、第1巻はごく一部だけしか終わっていないが)、2017年の春だった。
 しかしただちに開始したのではなく、試訳してみる価値または意味がある(マルクス主義に関する)大著だ、という確信はなかった。
 そこで、この人のより短い文章を読んでみることとし、つぎの順で読んで試訳してみた(この欄に掲載済み)。
 ①「『左翼』の君へ」。これは8回を要して試訳を掲載した、このブログサイト上で勝手に付けたタイトルで、正確には、My Correct Views on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays(2012)。→No.1526以降。
 「(新)左翼」のEdward Thomson というイギリスの知識人を「解体」する作業をした文章だったと、Tony Judt はその2008年の文章で書いた。→No.1720。
 (ついでに、フランス等のヨーロッパ史を専門とするTony Judt によるL・コワコフスキ死後の追悼文は、哀惜感に溢れ、かつ学問的だ。→No.1843。
 ②「神は幸せか?」。Is God Happy ? (2006), in : Is God Happy ? -Selected Essays(2012)。これは2回の掲載で済んでいる。冒頭にシッダールタ(仏陀)が出てくる。最後にShakespeare, Hamlet からの引用があることが、試訳した当時は分からなかった。→No.1559以降。
 これらを読んでみて、この人の書物ならばたぶん大丈夫だろうとの感触、または確信めいたものを得た。
 とくに前者によってだっただろう、再確認しないが、<(試訳しながら)思考能力が試される気がした>という旨を記した憶えがある。
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  久しぶりに試訳しようとするL・コワコフスキの以下の書物は、上の二つを最初に読んだときに感じた、この人の文章、あるいは思考の仕方を、その大著その他以上に思い起こさせるもので、懐かしい気すらする。
 彼は最初から「エッセイ」と銘打っている。もちろん、自分の「思想」だとか「歴史哲学」だとは主張していないし、それらを示そうとする気持ちなど全くなかったに違いない。もちろん、この人がポーランド出身の傑出した thinker、Denker だと他者が称していることは別として。
 また、キリスト教を含めて相当の「知識」・「教養」を持っているはずだが、それらを特にひらけかすという<衒学>趣味も感じられない。
 もちろん文章構成の技術・能力をもつのだろうが、この人がニーチェに強く感じているらしい余計な<レトリック>、あるいは<美文趣味>はないだろう。
 内容が簡単だ、というのではない。そうではなく、(実娘のAgnieszka Kolakowska による英語訳書なのだが)この人が用いる概念にある程度は困惑しつつ注目し、提示される「論理」に、ある程度は困惑しつつゆっくりと浸ることができそうなのは、なかなか幸せな感じがする。
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 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski。
 自由、名声、 嘘つき、および背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれていて、全ての表題が「〜について」となっている。
 もちろん(?)、邦訳書はない。
 一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
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 第一章・権力(power)について①。
 (1)イギリスの前の財務大臣は、首相になりたいかとのテレビ・インタビューを受けて、やや驚いて、誰でもきっと首相になりたい、と答えた。
 これは私には、かなり驚いたことだった。というのは、私は、誰もが首相になりたいとは決して考えていないと確信しているからだ。
 反対に、きっと大多数の人々はそのような夢を決して思い浮かべない、と考えている。そのような野望を実現できる可能性は微少だと感じているからではなく、しなければならない仕事は恐るべきものに違いないとたんに考えているからだ、と思っている。
 絶え間ない頭痛、莫大な責任。そして、何をしようとも永遠に批判と嘲弄の対象になることを知っている。また、 最悪の意図の責任を負わされることになるだろう。//
 (2)さて、「誰もが権力を欲しがる」というのは本当か?
 答えは、この言葉をどれだけ広く理解するかによる。
 最も広い意味では、「権力」(power)とは、人間であれ自然であれ、我々を取り囲むものに対して望んだ方向へと影響を与えることを認めるものの全てだ。
 これを行なったときには、我々は周囲のものを「支配(master)」したと言われる。
 子どものときに最初の一歩を進んだり、初めて自分で立ち上がったとき、見ても明らかにこれらを愉しんでいるのだが、その子どもは、自分の身体に対する、ある程度の権力を獲得する。
 そして、一般に、身体や、制御することのできる筋肉、関節のような身体の一部を支配しないよりは支配することを我々はみな好む、というのは正しい(true)だろう。
 同様に、新しい言語、あるいはチェス、あるいは水泳、あるいは我々には新しい数学の一分野を学ぶとき、我々は、文化の新しい領域を「支配」することのできる技巧を獲得している。//
 (3)「権力」のこのような広義での理解は、人間の諸活動は全て、多様な形態での権力を得たいという望みによって動かされている、と結論づける理論の基盤になってきた。
 この理論によると、全ての我々の努力は、人間の活力の源泉である権力を渇望していることの別表現にすぎない。
 人々は、富は事物のみならず一定の(しばしば相当の)範囲で人々を支配する権力を与えてくれるがゆえに、富を追い求める。
 性行為(sex)すらも、権力という観点から説明できるかもしれない。我々は他の者の肉体を、それを通じて現実の人間を、所有したいと欲するのか、それとも、それを所有することで他人が所有するのを排除していると考えるか、のいずれであっても。
 いずれかの考え方をして、我々は、誰か別の者に対する権力を行使しているという感情を得て、満足する。
 もちろん性行為は、人間以前の自然の創造物の一つだ。
 そして、この理論によると、権力を望むのは自然世界の至るところにある本能だ。人間社会で我々が、文化的に影響されたどのような形態を採用しているとしても。//
 (4)少し考えれば、利他感情(altrueism)を、権力の観点から説明することすら可能だ。つまり、他人に対して親切であるとき、意識していようといまいと、他人の生活を支配する手段を行使したいとの望みが動機となっている。親切という我々の行為は、他人を部分的には我々の権力のもとにおいているのだから。
 権力の追求を動機としないような領域は、我々の生活にはない。
 他には何も存在しない。別の言い方をすれば、自己欺瞞だ。
 この理論は、このようになる。//
 (5)この種の理論は、表面的にはもっともらしくとも、実際には、ほとんど何も説明していない。
 人間の行動全てを動機という単一の観点から説明しようとする、または社会生活の全ては動機づけをする単一の力によつて動かされていると主張する、そのようなどんな理論も、擁護することはできない。
 しかしながら、まさにこのことが、この種の理論全てが究極的には哲学的な心象(constructs)であって、そのゆえにほとんど役に立たないことを、示している。
 例えば、人々の動機は仲間のために自分を犠牲にしようと彼らを苦しめようと同じだ、と言うことは、我々を前方に連れていきはしない。我々がそのような行為について判断を加えたり、ましてやこれらを区別して弁別する、そのために有効な原理的考え方は存在しない、つまり、どんなに異なって見えようとも、本質は全く同じだ、と言うまでに至るだろうからだ。
 しかしながら、このような理論は、使い途がある。というのは、誰かが、他のみんなは心の底では本当は不誠実だと自分に言い聞かせることができれば、冒した過ちはその者の良心には大した負担に全くならないだろうから。//
 (6)キリスト教思想の一定の潮流は、今日では廃れていてもかつては有力だったのだが、似たような気持ちを我々に生じさせ得るものだった。すなわち、神聖な上品さ(divine grace)がなければ、何をしようとも、必ず悪を行うことになると我々が言われるとき、必ずや善だけを行うことになるのだとしても、我々が仲間を助けるのかそれとも苦しめるのかは、ほとんど重要ではないことになる。
 神聖な上品さがなければ、いずれであっても我々は地獄へと放逐されることになるはずだ。
 このことが、全ての異教徒の運命であってきた。しかしながら、気高い(noble)。//
 (7)このような理論の支持者はつねに、全てのドアを開けることのできる単一のマスター・キーを追い求めている。
 しかし、全てのことを十分に満足させる説明のごときものは、存在しない。そのようなキーはない。
 文化は、人々が異なる事物によって喚起され、新しい必要(欲求、needs)に動機づけられるがゆえに、発展し、成長する。古い必要は人々の従前の役割への依存を流し去り、文化の自律神経的(autonomous)部分になる。//
 (8)我々の行動の全ては本質的には権力への渇望によって動かされていると主張する理論は、無邪気なもので、ほとんど説明する価値をもたない。一方で、それにもかかわらず、権力それ自体は、追求するにきわめて値する善であるままだ。
 我々が権力について語るとき、一般に、すでに述べてきたようなものよりも狭い意味で用いようと考えている。つまり、個々人や社会全体が他人に影響を与え、彼らの行為を制御するために、有形力(force)を用いて、または有形力を行使すると威嚇して、利用することのできる手段として理解する。
 この意味での権力は、ある程度は組織された、強制(coercion)という手段を必要とする。そして、現今では、これは国家を意味する。//
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 ②へとつづく。第一章は②で終わり。
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1833/日本の邦訳書出版業界の<左傾>ぶりの一例。

 エリック・ホブスボーム著の邦訳書の多さは、驚くべきほどだ。
 以下は、私が知ることのできた全てではない。面倒になったのでかなり省略した。一部にすぎない。
 E・ホブスボーム・反抗の原初形態―千年王国主義と社会運動/青木保訳(中公新書、1971) 。
 E・ホブスボーム・匪賊の社会史―ロビン・フッドからガン・マンまで(グループの社会史〈3〉)/斎藤三郎訳(みすず書房、1972)。
 E・ホブスボーム・革命家たち―同時代的論集〈1〉/斉藤孝他訳 (未来社、1978)。
 E・ホブスボーム・イギリス労働史研究/鈴木幹久訳(ミネルヴァ書房、 改訂版1984)。
 E・ホブスボーム・市民革命と産業革命―二重革命の時代/水田洋他訳(岩波書店、1989/6)。
 E・ホブスボーム・帝国の時代 1―1875-1914/野口建彦等訳(みすず書房、1993/1/9)。
 E・ホブスボーム・帝国の時代 2―1875-1914/野口建彦等訳(みすず書房、1998/12/9)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史―極端な時代〈上巻〉/河合秀和訳(三省堂、1996/8)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史―極端な時代〈下巻〉/河合秀和訳(三省堂、1996/8)。
 E・ホブスボーム・わが20世紀-面白い時代/河合秀和訳(三省堂、2004/7 )。
 E・ホブスボーム・破断の時代―20世紀の文化と社会/木畑洋一等訳(慶應義塾大学出版会、2015/3/21 )。
 E・ホブスボーム・いかに世界を変革するか―マルクスとマルクス主義の200年/水田洋監修(作品社 、2017/10/31 )
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史-上/大井由紀訳(ちくま学芸文庫、2018/6/8)。
 E・ホブスボーム・20世紀の歴史-下/大井由紀訳(ちくま学芸文庫、2018/7/6)。
 E・ホブスボーム・資本の時代 1<新装版>/柳父國近等訳(みすず書房、2018/7/10)。
 E・ホブスボーム・資本の時代 2<新装版>/松尾太郎等訳(みすず書房、2018/7/10)。
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 上に比べて、日本でのレシェク・コワコフスキ、リチャード・パイプス、シェイラ・フィツパトリクの著書の翻訳書・邦訳書発行状況はどうだろうか。
 日本には日本の<ある勢力>にとって有益な外国文献は多く翻訳されるが、<危険な>書物はほとんど発行されない、という事実を、上のようなE・ホブスボーム著の扱いは強く実証しているように思える。
 レシェク・コワコフスキの主要著<マルクス主義の主要潮流>は40年間以上経っても邦訳されなかった。
 リチャード・パイプスのロシア革命に関する二巻の大著は、1990年以降にPaperback 版があるが、邦訳されていない。
 堅実な歴史叙述が見られる、最近この欄で試訳を紹介している、シェイラ・フィツパトリク(女性)のロシア革命(最新版2017年)は(および他のこの人の著書も)、いっさい邦訳されていない、と見られる。
 欧米語文献が(かりにフランスやドイツには流通していても)日本に十分に流通しているわけでは全くないことを、日本の「知的」または「情報」産業界にいる人々は、強く意識しておかなければならない、とあらためて強く感じる。
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 Tony Judtはつぎの遺稿論考集の冒頭のエッセイ(論考)で、E・ホブスボームをとり上げている。この人名義の最後の刊行物だ。
 Tony Judt, When the Facts Change, Essays 1995-2010.(edited & introduced by Jennifer Homans)
 明記されているように(その前の論考集でもTony Judt が記していたように)、エリック・ホブスボームはlife-long つまり、終生の、又は生涯にわたる「イギリス共産党員」だった。
 そのような人物の「歴史叙述」がマルクス主義の影響を受けていないはずはなく、この人を<20世紀最大の歴史家>などと喧伝しているようである上記の日本の出版社または翻訳者は、欺されているか、自分たちは知りながら、日本の読者を欺しているのだ。あるいは、日本の読者自体が、無意識にでも<容共>なのだ。
 以下、一部だけ、試訳して引用する。//は本来の改行箇所。
 最近にこの欄に名前を出したクリストファ・ヒルとエドワード・トムソンの名も出てくる。
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 エリック・ホブスボームが「短い20世紀」を扱う第四巻を加えるのを選んだのは驚きだった。
 彼が序文で「私はこれまでほとんど、1914年以降の時代について仕事をするのを避けた」と認めるとき、このような回避によくある理由を提示していた。すなわち、事件にあまりに接近しすぎていて、感情的にならざるをえないからだ(1917年生まれのホブスボームの場合は、その時代のほとんどを彼は生きた)、また、解釈の対象となる十分な素材の全部がまだ手に入っているわけではなく、それらの素材全てが何を意味するかを語るのはいかにも早すぎるからだ。//
 しかし、別の理由があることは明白だった。そして、ホブスボーム自身がその理由によって責任を拒否することはきっとしないだろう。すなわち、20世紀は、彼が生涯にわたって関与した政治的かつ社会的な理想と制度の明白な崩壊とともに終焉した、ということだ。 
 過ちと災悪に関する暗く重苦しい物語を、その中に見い出さないのは困難だ。
 他の多数のイギリス共産党員または元共産党員である歴史研究者の目立った世代人(クリストファ・ヒル、ロドニー・ヒルトン、エドワード・トムソン)と同様に、ホブスボームはその職業的な注目を革命的で急進的な過去に向けた。それは、党の基本方針が現在に近接した時期についてあからさまに書くのを事実上不可能にしていた、という理由によるだけではなかった。
 真面目な研究者でもある生涯の共産党員にとっては、我々の世紀の歴史には、解釈するにはほとんど克服し難い障害物がある。彼の最後の仕事が期せずして明瞭に示しているように。//
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1588/マルクス主義・共産主義・全体主義-Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)、フランソワ・フュレ(François Furet)はいずれも1927年(昭和2年)の生まれだ。前者は10月、後者は3月。
 フランソワ・フュレは1997年の7月12日に、満70歳で突然に亡くなった。
 その報せを、ドイツにいたエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)は電話で知り、同時に追悼文執筆を依頼されてもいたようだ。
 トニー・ジャット(Tony Judt)は、1997年12月6日付の書評誌(New York Review of Books)に「フランソワ・フュレ」と題する追悼を込めた文章を書いた。
 その文章はのちに、妻のJeniffer Homans が序文を記した、トニー・ジャットを著者名とする最後と思われるつぎの本の中に収められた。
 Tony Judt, When the Fact Changes, Essays 1995-2010 (2015).
 この本の第5部 In the Long Run We are ALL Dead 〔直訳だと、「長く走って、我々はみんな死んでいる」〕は、追悼を含めた送辞、人生と仕事の概括的評価の文章が三つあり、一つはこのF・フュレに関するもの、二つめは Amos Elon (1926-2009)に関するもので、最後の三つめは、 レシェク・コワコフスキに関するものだ。
 L・コワコフスキは、2009年7月17日に亡くなった。満81歳。
 トニー・ジャットが追悼を込めた文章を書いたのは、2009年9月24日付の書評誌(New York Review of Books)でだ。かなり早い。
 前回のこの欄で記したように、トニー・ジャットはL・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>の再刊行を喜んで、2006年9月21日付の同じ雑誌に、より長い文章を書いていた。それから三年後、ジャットはおそらくはL・コワコフスキの再刊行の新著(合冊本)を手にしたあとで、L・コワコフスキの死を知ったのだろう。
 トニー・ジャット(Tony Judt)自身がしかし、それほど長くは生きられなかった。
 L・コワコフスキに対する懐旧と個人的尊敬と中欧文化への敬意を滲ませて2009年9月に追悼文章を発表したあと、1年経たない翌年の8月に、T・ジャットも死ぬ。満62歳。
 死因は筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリック病)とされる。
 トニー・ジャットの最後の精神的・知的活動を支えたのは妻の Jeniffer Homans で、硬直した身体のままでの「精神」活動の一端を彼女がたしか序文で書いているが、痛ましくて、訳す気には全くならない。
 フランソワ・フュレの死も突然だった。上記のとおり、トニー・ジャットは1997年12月に追悼を込めた、暖かい文章を書いた。、  
 エルンスト・ノルテがF・フュレに対する公開書簡の中で「フランスの共産主義者(communist)だった貴方」とか書いていて、ここでの「共産主義者(communist)」の意味は昨秋の私には明瞭ではなかったのだが、のちに明確に「共産党員」を意味することが分かった。下掲の2012年の本によると、F・フュレは1949年に入党、1956年のハンガリー蜂起へのソ連の弾圧を期に離れている。
 つまり、L・コワコフスキは明確にポーランド共産党(統一労働者党)党員だったが、F・フュレも明確にフランス共産党の党員だったことがある。しかし、二人とも、のちに完全に共産主義から離れる。理論的な面・原因もあるだろうが、しかしまた、<党員としての実際>を肌感覚で知っていたことも大きかったのではないかと思われる。
 なぜ共産党に入ったのか、という問題・経緯は、体制自体が共産主義体制だった(そしてスターリン時代のモスクワへ留学すらした)L・コワコフスキと、いわゆる西側諸国の一つだったフランスのF・フュレとでは、かなり異なるだろう。
 しかし、<身近にまたは内部にいた者ほど、本体のおぞましさを知る>、ということは十分にありうる。
 F・フュレが通説的またはフランス共産党的なフランス革命観を打ち破った重要なフランス人歴史家だったことは、日本でもよく知られているかもしれない。T・ジャットもむろん、その点にある程度長く触れている。
 しかし、T・ジャットが同じく重要視しているF・フュレの大著<幻想の終わり-20世紀の共産主義>の意義は、日本ではほとんど全く、少なくとも適切には、知られていない、と思われる。原フランス語の、英訳名と独訳名は、つぎのとおり。
 The Passing of an Illusion - The Idea of Communism in the Twentithe Century (1999).
 Das Ende der Illusion - Der Kommunismus im 20. Jahrhubdert (1996).
 これらはいずれも、ふつうにまたは素直に訳せば、「幻想の終わり-20世紀における共産主義」になるだろう。「幻想」が「共産主義」を意味させていることもほとんど明らかになる。
 この欄で既述のことだが、日本人が容易に読める邦訳書のイタトルは以下で、どうも怪しい。
 <幻想の過去-20世紀の全体主義>(バシリコ, 2007、楠瀬正浩訳)。
 「終わり」→「過去」、「共産主義」→「全体主義」という、敢えて言えば、「書き換え」または「誤導」が行われている。
 日本人(とくに「左翼」およびその傾向の出版社)には、率直な反共産主義の書物は、<きわめて危険>なのだ
 フランスでの評価の一端について、T・ジャットの文章を訳してみよう。
 『この本は、大成功だった。フランスでベストセラーになり、ヨーロッパじゅうで広く読まれた。/
 死体がまだ温かい政治文化の中にあるレーニン主義の棺(ひつぎ)へと、過去二世紀の西側に広く撒かれた革命思想に依存する夢想家の幻想を剥ぎ取って、最後の釘を打ったものと多くの論評家は見た。』
 後掲する2012年の書物によると、1995年1月刊行のこの本は、1ヶ月半で7万部が売れた。6ヶ月後もベストセラーの上位にあり、1996年6月に10万部が売れた。そして、すみやかに18の外国語に翻訳されることになった(序, xi)。(時期の点でも邦訳書の2007年は遅い)。
 やや迂回したが、フランソワ・フュレ自身は満70歳での自分の死を全く想定していなかったように思える。
 ドイツ人のエルンスト・ノルテとの間で書簡を交換したりしたのち、1997年6月、突然の死の1月前には、イタリアのナポリで、E・ノルテと逢っているのだ。
 また、1996年から翌1997年にかけて、アメリカ・シカゴ大学で、同大学の研究者または関係者と会話したり、インタビューを受けたりしている(この辺りの事情については正確には読んでいない)。
 そして、おそらくはテープに記録されたフランソワ・フュレの発言をテキスト化して、編者がいくつかのテーマに分けて刊行したのが、2012年のつぎの本だ。邦訳書はない。
 François Furet, Lies, Passions & Illusions - The Democratic Imagination in the Twentirth Century (Chicago Uni., 2014. 原仏語, 2012).〔欺瞞、熱情および幻想〕
 この中に、「全体主義の批判(Critique of Totaritarianism)」と題する章がある。
 ハンナ・アレント(Hannah Arendt)の大著について、「歴史書」としては評価しない、「彼女の何が素晴らしい(magnificent)かというと、それは、悲劇、強制収容所に関する、彼女の感受性(perception)だ」(p.60)と語っていることなど関心を惹く箇所が多い。
 ハンナ・アレントに関する研究者は多い。フランソワ・フュレもまた「全体主義」に関する歴史家・研究者だ。 
 エルンスト・ノルテについても、ある面では同意して讃え、ある面では厳しく批判する。
 <最近に電話で話した>とも語っているが、現存の同学研究者に対する、このような強い明確な批判の仕方は、日本ではまず見られない。欧米の学者・知識人界の、ある種の徹底さ・公明正大さを感じとれるようにも思える。
 内容がもちろん重要で、以下のような言葉・文章は印象的だ。
 <民主主義対ファシズム>という幻想・虚偽観念にはまったままの日本人が多いことを考えると、是非とも邦訳してみたいが、余裕があるかどうか。
 <共産主義者は、ナチズムの最大の犠牲者だと見なされるのを望んだ。/
 共産主義者は、犠牲者たる地位を独占しようと追求した。
そして彼らは、犠牲者になるという驚異的な活動を戦後に組織化した。」p.69。
 <共産主義者は実際には、ファシズムによって迫害されてはいない。/
 1939-41年に生じたように共産主義者は順次に衰亡してきていたので、共産主義者は、それだけ多く、反ファシスト闘争を利用したのだ」。p.69。
 日本の共産主義者(日本共産党)は、日本共産党がのちにかつ現在も言うように、「反戦」・「反軍国主義」の闘争をいかほどにしたのか?
 最大の勇敢な抵抗者であり最大の「犠牲者」だったなどという、ホラを吹いてはいけない。
 以上、Tony Judt、Leszek Kolakowski、François Furet 等に関する、いいろいろな話題。

1584/日本の「特定保守」とT・ジャットやL・コワコフスキ。

 「私がこの序文(Introduction)を書く方法はただ、人間をその考え(思想, the ideas)と分かつことだ。そうでなければ、私は、愛して1993年から2010年の彼の死まで結婚していた人に、その人間に、引き込まれてしまう。進んでその考えに引き込まれるのではなく。」
 Jennifer Homans.
 =Tony Judt, When the Fact Changes, Essays 1995-2010 (2015) の序文。
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 トニー・ジャット(Tony Judt, 1948-2010)は、1978年の三巻の英訳本があった Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976) がアメリカの Norton 社によって新たに一巻本(三巻合冊)として再刊することが決まったとき、それを称賛して、あるいは「前宣伝」のつもりもあったのだろうか、2006年9月の書評誌に、L・コワコフスキとこの書物に関する長い文章を書いた。これは、邦訳書になっている、以下に収載された。
 Tony Judt, Reapraisal -Reflections on the Fogotten Twentieth Century (Penguin, 2008).
 =河野真太郎=生駒久美ほか訳・失われた二〇世紀/上・下 (NTT出版, 2011.12).
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)に関するものは以下。
 Chapter VIII/Goodbye to All That ? -Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 =上掲邦訳書上巻第8章「さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」。
 書評誌の性格として、執筆者がやたら褒めまくる書評記事もあるのかもしれない。しかし、瞥見のかぎりで、その前の章の、エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbaum)の自伝書に関するジャットの書評および「人生」論評は、日本では想像もできないほどに辛辣で厳しい。
 秋月の感想が混じるが、組織あるまでは最後までイギリス共産党員で決して遡ってマルクス主義そのものを批判することがなかったというホブズボーム的な欧米の「容共・左翼」に対するジャットの批判的な目があるだろう。この欄でいつぞやホブズボームを「少なくとも左翼」と書いたが、それ以上だ。だからこそ、一部の<日本の左翼>読者のためにも、この人の邦訳書は多い(それに対して、L・コワコフスキのものは?)。
 トニー・ジャットのL・コワコフスキに関する文章は、邦訳書で計21頁になる。週刊誌1頁ほどの書評記事では全くない。L・コワコフスキ(+アルファ)に関する堂々とした論考だ。
 日本での紹介状況もふまえて私なりにいうと、優れているのは、第一に、L・コワコフスキの人と業績、とくにこの<マルクス主義の主要潮流>に関する欧米の評価を端的に(むろんジャットなりに)示してくれている。
 第二に、L・コワコフスキ<マルクス主義の主要潮流>の、大判合冊で1200頁を超える文字通りの大著の、内容の要点・特徴を概括してくれている。私はろくに目を通していないが、かなりよく(むろんジャットなりに)まとめてくれていて、きわめて参考になる。
 この部分だけでも邦訳しようかともふと思ったが、日本語訳書を見て、書物全体に比べれば勿論ましだが、写すだけでも相当に長い文章が必要だと分かって、諦めた。
 第三に、L・コワコフスキのこの著に関連して、トニー・ジャットの、この論考執筆時点での「マルクス主義」に関する見方がある程度まとまって述べられており、関心を惹く。
 マルクス主義に関する考え方というのは、マルクス主義又は「共産主義」(両者の関連もL・コワコフスキにかかわって問題ではあるが)そのものをどう理解し、是か非かという単純なことを指しているのでは全くない。
 世界、または少なくともトニー・ジャットにとっての主要な「知的関心」の対象である欧米の社会と政治と歴史(社会思想・政治思想・歴史思想)にとって、まさに現在、「マルクス主義」はどういう意味をもつのか(持っていないのか)、そのことをどう評価すればよいのか、という問題についての考え方をいう(この人はユダヤ人系イギリス出自で、イギリスで育ち研究者になり、のちにアメリカの大学へと移った。ちなみに、ホブズボームもユダヤ人出自だという。L・コワコフスキについてはそういう紹介はない)。
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 日本にある<日本会議>の設立宣言こうは書く。1997年5月。
 「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露されたが、その一方で、世界は各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入している。にもかかわらず、今日の日本には、この激動の国際社会を生き抜くための確固とした理念や国家目標もない。このまま無為にして過ごせば、 亡国の危機が間近に忍び寄ってくるのは避けがたい」。
 かかる<時代認識>自体に大きな欠陥がある。後半については別にも触れる。「各国が露骨に国益を追求し合う新たなる混沌の時代に突入」という認識で救われている「各国」が、間違いなくある。
 既述のとおり、「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」とするのは、マルクス主義・共産主義に対する闘いをもはやする必要がない、ということを言っているのと同じだ。日本の<保守>全体に、マルクス主義研究・マルクス主義への関心がきわめて弱いのは、ここにも原因がある。
 また、そもそも、こう宣言した者たちが、「マルクシズム」をどのようなものと理解して「誤謬は余すところなく暴露された」と言うことができているのかはなはだ疑わしい
 <冷戦構造の崩壊>という理解自体、少なくとも東アジアでは現実に反しているが、そそもそも<冷戦構造の崩壊>→「マルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」という理解は、どういう論理関係になっていると関係者が説明できるのかも、はなはだ疑わしい。
 現実の政治、日本の国家のためにも-マルクス主義=「科学的社会主義」を謳う政党が厳然とあるではないか?-「マルクス主義」の研究・分析、日本共産党のいう「科学的社会主義」・綱領等の批判的分析は、「反共産主義」者こそが、きちんと行わなければならない。
 これを正面から掲げていない「日本会議」は決して「反共産主義」者の団体・運動体ではない、と断固として判断できる。
 「日本会議」または一部保守系三雑誌(うち二つの編集長は櫻井よしこを長とする「研究所」の評議員、残り一つは月刊正論(産経))の基調、および産経新聞の基調または「主流派」を、この欄ではこれから<特定保守>と呼ぶかもしれない。
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 トニー・ジャットは「ネオ」との形容句も「変種」との語尾もつけないで、「マルクス主義」という概念をそのまま使って、以下のように述べている。「日本会議」発足後の2006年9月に公刊の文章だ。邦訳書に依拠する。
 ・新世紀の冒頭に「二つの対立する、しかし奇妙に似かよった幻想」があるが、「二つめの幻想は、マルクス主義には知的・政治的未来があるという信念である」。p.196。
 ・「今までのところ国際的な『辺境』や、学問の世界の周縁でのみ見られるが、このマルクス主義、つまり政治的予言としてでないとしても、少なくとも分析ツールとしてのマルクス主義に対する新しい信念は、主として競争相手がないという理由で、今やふたたび国際的な抵抗運動の共通手段となっている」。p.196。
 ・「わたしたちが不平等、不正、不公平、搾取について耳にすることは増えこそ減りはしないだろう。/それゆえ、…刷新されたマルクス主義の道徳的魅力が高まる可能性がある」。p.194。
 最後に一つ、L・コワコフスキ著の紹介の中で語られている以下の文章にも、注目されてよい。
 ・「コワコフスキのテーゼ」は「率直であり曖昧なところはない」。/マルクス主義を「真剣に考える」必要があるのは、「階級闘争に関するその主張」や「資本主義の不可避の崩壊」・「社会主義への移行」を約束したからではなくて、「マルクス主義が①独創的なロマン主義的幻想と②断固とした歴史的決定論」の、「真にオリジナルな混合物を提示した」からだ。①・②は秋月が挿入。p.182。
 「階級」とか「搾取」とか「プロレタリアート」とかを今日のマルクス主義者がそのまま露骨に使うことはほとんどない。
 注意すべきなのは、私なりにさらに簡潔化すれば、①「幻想」を夢み、かつ②「運命主義」(歴史的不可避主義?、歴史決定論?)に陥るという、そのものだ。
 この二点において、すでに不破哲三と櫻井よしこの類似性・共通性に言及したことがあるのだが、「日本の左翼」と「日本の特定保守」の間にないのかどうか、関心がある。
 ②は将来のことについてとは限らない。例えば、現実を変えた(勝利した)がゆえに<明治維新>は素晴らしかった(やむをえない不可避のものだった)、と観念的・抽象的に考えてしまうのも、一種の「運命」主義だろう。
 「特定保守」には、破綻したという「左翼」・マルクシズムと発想それ自体に類似性がある、と感じている。
 <理念>・<観念>・<狂熱>・<精神論(だけ)>というものほど、じつは恐ろしいものはない。日本の、世界の歴史から見ても分かる、と思う。<観念・イデオロギー>による運動によって、多数の人々が人為的に殺戮された。
 <思考方法>は、政治思想・社会思想上も重要な論点だ。平板に、「右」か「左」か、「保守」か「左翼」かを問題にしてはいけない。

1525/L・コワコフスキ『マルクス主義-』1976年の構成②。

 トニー・ジャット(Tony Judt)の以下は、L・コワコフスキーの『マルクス主義の主要潮流』について一章を設けている(第二部/第8章)。この部分は、「称賛の価値ある」Norton社による一巻本での再発行の決定を契機に2006年9月のNew York Review of Booksに掲載したものを再収載しているようだ。
 Tony Judt, Reappraisal -Refrections on the Fogotten Twentieth Century (2008). - Part Two, Chapter VIII -Goodby to all that ? Leszek Kolakowski and the Marxist Legacy.
 =トニー・ジャット(河野真太郎ほか訳)・失われた二〇世紀/上(NTT出版, 2011)/第二部/第8章「さらば古きものよ ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」。
 また、同じくトニー・ジャットは、つぎの著の一部(第5部/第18章)で L・コワコフスキーの逝去のあとで哀惜感溢れる文章でコラコフスキーの仕事と人物を振り返っている。これは、2009年9月にやはりNew York Review of Booksに掲載したものが初出だ。
 Tony Judt, When the Facts Change -Essays 1995-2010 (2015). -Part 5, Chapter 18 -Leszek Kolakowski (1927-2009).
 後者は、トニー・ジャットのいわば遺稿集で、彼はコワコフスキの死の翌年、上を書いてほぼ1年後の2010年8月に、62歳で亡くなった(1948-2010)。
 以下は構成内容の紹介のつづき。一部について、節名も記した。
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第三部・破滅。
 第1章・ソヴェト・マルクス主義の初期段階、スターリニズムの開始。
  第1節・社会主義とは何か ?。
  第2節・スターリニズムの諸段階。
  第3節・スターリンの初期と権力への到達。
  第4節・一国社会主義。
  第5節・ブハーリンとネップのイデオロギー、1920年代の経済論争。
 第2章・1920年代のソヴェト・マルクス主義の理論的諸論争。
  第1節・知的および政治的風土。
  第2節・哲学者としてのブハーリン。
  第3節・哲学論争:デボーリン対機械論者。
 第3章・ソヴェト国家のイデオロギーとしてのマルクス主義。
  
第1節・大粛清のイデオロギー上の意義。
  第2節・スターリンによるマルクス主義の編纂。
  第3節・コミンテルンと国際共産主義のイデオロギー上の変形。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化
 第5章・トロツキー。
 
第6章・アントニオ・グラムシ(A. Gramsci): 共産主義修正主義。
 第7章・ジョルジ・ルカーチ(Gyorgy Luka'cs):ドグマ提供の理性。
 第8章・カール・コルシュ(K. Korsch)。
 第9章・ リュシアン・ゴルトマン(Lucien Goldmann)。
 第10章・フランクフルト学派と『批判理論』。
  第1節・歴史的および伝記的なノート。
  第2節・批判理論の原理。
  第3節・消極的弁証法。
  第4節・実存主義的『真正主義』批判。
  第5節・『啓蒙主義』批判。
  第6節・エーリヒ・フロム(Erich Fromm)。
  第7節・批判理論(続き)、ユルゲン・ハーバマス(Juergen Habermas)。
  第8節・結語。
 第11章・ハーバート・マルクーゼ(H. Marcuse):新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第12章・エルンスト・ブロッホ(Ernst Bloch):未来派的直感としてのマルクス主義。
  第13章・スターリン死後のマルクス主義の発展。
  第1節・『脱スターリニズム』。
  第2節・東ヨーロッパでの修正主義。
  第3節・ユーゴスラビア修正主義。
  第4節・フランスにおける修正主義と正統派。
  第5節・マルクス主義と『新左翼』。
  第6節・毛沢東の農民マルクス主義。
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 以上。
ギャラリー
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