秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

トクヴィル

2450/F. フュレ・全体主義論⑥。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 第8章の試訳のつづき。
 ——
 第6節。
 (1)ヒトラーは疑いなく、ドイツの支配階層、右翼の政界によって権力を与えられた。だが、彼がそこにいたという理由だけで、権力を掌握した。
 彼は右派にいる目的をもって、大衆の大部分を納得させなければならなかった。
 言い換えると、ドイツの支配階層によって操り人形のごとく権力を与えられたのではなかった。
 現実には、彼は長い間、権力の門を叩いてきていた。
 仲間の党員たちがおり、財源等々を持っていた。
 そして、全ての対抗者たちを消滅させるこの機会を得た。
 ドイツでの公然たる異論が封じられたのは、ほとんどは1934年と1935年に起きたことだった。
 私はこれを、ナツィ革命または全体主義の始まりと呼んでいる。
 権力掌握以前からヒトラーには大衆に対する魅力があり、政治的エリートたちとは関係がなかった。
 しかしながら、ドイツ議会の右派の無知のおかげの権力掌握後に、ヒトラーの革命は起きた。その右派を、彼は左翼に対して行ったように壊滅させることになる。
 革命が行なったのは社会全体を服従と沈黙へと縮減することであり、ナツィ体制への忠誠を声明するのを義務づけることで、社会は破壊された。
 ヒトラー・ドイツをスターリン・ロシアに最も似たものにしたのは、この特徴だ。すなわち、イデオロギー的な一党国家。完全であるために、私的生活すら、家族内であってすら、被支配者は制約のもとに置かれるという専制体制。//
 (2)このような体制の最も重要な特質は、社会生活の全体的な統制、完全に自律性がなくなるまでの市民社会の縮小だ。
 だから私は、イタリアは特殊な例だと思う。ファシスト・イタリアは、ナツィ・ドイツが経験したような政治的隷属の程度には全く達しなかったのだから。
 ロシアとドイツには、一つの大衆政党、イデオロギーの絶対的優位性があった、とされる。
 ファシストと共産主義者では国家の長の役割にわずかな違いがある、とも言われる。共産主義体制の場合よりもファシスト体制の場合に、長の役割はより重要だ。一方、共産主義体制での国家の長の機能的側面は、ナツィ体制に比べて、より強調されてはいる。
 そうして、日常生活に関するかぎりでは、二つの体制はお互いによく似ていた。また、両体制はともに、専制政(despotism)の伝統的形態と比べて、全く新しいものだった。
 厳密に用いるかぎりで「全体主義」という言葉が好ましく響くのは、これら両体制は新しいからだ。
 それらに相応しい言葉は、以前には存在しなかった。
 事物が存在して名前が必要となったがゆえに「個人主義」という言葉が1820年と1830年の間にフランスで出現したのと全く同様に、「全体主義」という言葉が、事物が存在するがゆえに作り出されなければならなかった。そしてこの言葉は、ナツィズムとスターリニズムを正確に特徴づけるものとして考案された。
 この言葉なくして我々は何をできるのか、私には分からない。
 この観念を受け入れようとしない者たちは、まともではない党派的な理由でそうしている、と私は思う。
 そのような者たちが代わりにどんな用語を使うのか、私は知らない。//
 (3)「暴政(tyranny)」は、古典的古さをもつ典型的な用語だ。
 この用語は、全体主義の現象がもつ民主主義的側面を考慮に入れていない。
 民主主義的側面とは、イデオロギーの観点を生むということだ。というのは、大衆の間に連帯意識を生み出すために、共通する考えの一体が必要とされ、党または国家の長により宣伝された。そしてこれは、新しい種類の君主政、全体主義的王政、の特徴だった。
 全体主義とは民主主義の産物であり、大衆が歴史に参加することだ。これは、H・アレントに見られるが、他の重要でない思想家にはほとんどない理論だ。
 西側の政治学は、トクヴィルの民主主義思想を理解していないように思える。—個人の平等は自由への途を開けるだけではなく、専制体制への途も開く。
 そして、政治的自由を「民主主義」という言葉と結びつける傾向がいつもある。//
 (4)トクヴィルに関して素晴らしいのは、ともに出逢う人々が自分たちを対等だと考えるときに人間性へと向かう新しい時代が始まった、という彼の確信だ。
 条件の平等は、人々が平等であることを意味しない。そうではなく、仲間である人間に遭遇するときに近代の人間は自分自身がその人と平等だと思う、ということを人類学的に明らかにしている。
 そしてトクヴィルは、これは人間性の歴史における革命だ、と理解した。//
 ——
 第8章、全体主義論、終わり。

0769/阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(2008)におけるフランス革命-6。

 阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(2008)-6。
 第Ⅱ部・第6章
 〔2〕「近代の鬼子? 
フランス革命
 D(つづき、p.195~)
 フランス革命を、「ブルジョア対ブロレタリアート」、「前期資本主義における産業資本」等の経済史概念を用いて分析すべきではない。「人民主権原理が徹底されるほど、民主的で望ましい政体だ」と断定すべきでもない。まして、「歴史法則」・「民主化の程度」を対照して、ある憲法の「望ましさ」を判断すべきではない
 「自由」よりも「本質的平等」を謳う人権宣言の方が「進歩的」だとか、「人民に対して同情的な人権保障」が「進歩的で望ましい」とか決めつけるのは短絡だ。<人権は誰にも貴重だ>との前提と<民衆・弱者にとって有利か不利か>という命題との間には両立し難い溝がある。
 G・ヘーゲルはフランス革命が初めて「市民社会」を作出したと論じたが、そこでの「市民社会」は「自分自身と家族の利害を自分自身の目的としている私人」を指し、「公共善を目的として活動する」「シトワイエン」〔フランス語の「市民」〕ではなかった。
 だが、後世の社会経済史学者はフランス革命を「王党派対ジャコバン派」、「貴族対ブルジョアジー」、「伝統対革新」という「二項対立図式」で捉えた。主流派(「アナール派」)はかかる「構造的」把握によって、「旧体制からの非連続性」を強調したかったのだ。連続性を見た例外はA・トクヴィルで、ルフェーブルの著『一七八九年…』(岩波文庫、1975)は却って「修正主義」を勢いづかせた。
 (D、おわり。Eにつづく)

0765/阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(成文堂、2008)におけるフランス革命-4。

  阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(2008)-4。
 第Ⅱ部・第6章
 〔2〕「近代の鬼子? 
フランス革命
 C(p.191~)
 高橋幸八郎を代表とする日本の歴史学者の定説はフランス革命を<民衆の支持を得たブルジョア革命>と見た。それは「ジャコバン主義的な革命解釈」で、「一貫した構造的展開」があったとする「歴史主義的な理解」でもある。
 私(阪本)のような素人には「構造的展開」があったとは思えない。①急いで起草され一貫性のない「人権宣言」という思弁的文書、②その後の一貫性のない多数の成文憲法、③「ジャコバン独裁」、④サン=キュロット運動、⑤「テルミドールの反乱」、⑥ナポレオン、そして⑦王政復古-こうした経緯のどこに「構造的展開」があるのか。「フランス革命は民主主義革命でもなければ、下部構造の変化に対応する社会法則」の「体現」でもない。
 フランス革命が後世に教示したのは、「自由と平等、自由と民主主義とを同時に達成しようとする政治体制の苛酷さ」だ。ヘーゲルはこれを見抜いていた。
 革命時の「憲法制定権力」概念も「独裁=苛酷な政治体制を正当化するための論拠」だった。とくに「プープルという公民の総体が主権者」だとする「人民(プープル)主権論」こそが、「代表制民主主義」を欠落させたために、「全体主義の母胎となった」。
 <1791年体制は93年体制により完成したか>との論議には加わらない。1793年〔ジャコバン独裁の開始〕がフランス革命の「深化」と「逸脱」のいずれであれ、1789年以降の「全体のプロセス」は「立憲主義のモデル」とは言えない、と指摘したいだけ。
 フランス革命の全過程は「個人・国家の二極構造のもとで中央集権国家」を構築するもの。この二極構造を強調する政治理論はつねに「独裁」につながり、フランス革命もその例だった。<個人の解放>と<個人による自由獲得>とは同義ではなかった。この点をハンナ・アレントも見事に指摘している(『革命について』ちくま学芸文庫・志水速雄訳、p.211)。トクヴィルも言う-フランス革命は「自由に反する多くの制度・理念・修正を破壊した」が、他方では「自由のためにどうしても必要な多くのものも廃止した」等々(『アンシャン・レジームと革命』既出、p.367)。
 (Cは終わり。Dにつづく)
 

0763/阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(成文堂、2008)におけるフランス革命-3。

 阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(成文堂、2008)。
 第Ⅱ部・第6章
 〔2〕「近代の鬼子? 

 A(つづき、p.188~)
 フランス革命は「脱宗教的な形をとった文化大革命という政治的革命」で、「共同体にとっての汚染物を浄化する運動」だった。「『プープル』〔人民〕という言葉も、政治的には人民の敵を排除するための」、「経済的には富豪を排除し、倫理的には公民にふさわしくない人びとを排除するための」ものだった。だからこそフランス革命は「長期にわたっ」た。
 しかし、この「文化大革命」によって「人間を改造することはでき」なかった。「最善の国制を人為的に作り出そうとする政治革命は、失敗せざるをえ」なかった。「精神的史的大転換を表現する政治的大転回」は「偉大な痙攣」に終わった。
 B フランス革命を「古い時代の終焉」とともに「新しい時代の幕開け」だと「過大評価」してはならない。フランス革命は紆余曲折しつつ「人権」=「自由と平等」を、とくに「人の本質的平等」を「ブープル」に保障する「理想社会」を約束しようとした。それは「差別を認めない平等で均質な社会」の樹立を理想とした。しかし、「結局、中央集権国家をもたらしただけで失敗」した。「高く掲げられた理想は、革命的プロパガンダにすぎなかった」。
 「人権宣言」は法文書ではなく「政治的プロパガンダ」ではないかと疑うべきだ。立憲主義のための重要な視点は、「人権宣言」にではなく、「徐々に獲得されてきた国制と自由」にある。
 トクヴィルは冷静にこう観察した。-「民主主義革命」を有効にするための「法律や理念や慣習は変化をうけなかった」。フランス人は「民主主義」をもったが、「その悪徳の緩和やその本来の美点の伸張」は無視された。旧制度から目を離すと、「裡に権威と勢力のすべてをのみこんでまとめあげている巨大な中央権力」が見える。こんな「中央権力」はかつて出現したことがなく、革命が創造したものだ。「否、…この新権力は革命がつくった廃墟から、ひとりでに出てきたようなもの」だ(『アンシャン・レジームと革命』講談社学術文庫・井伊玄太郎訳、p.110-1)
 (Bは終わり。Cにつづく)

0762/阪本昌成におけるフランス革命-2。

 阪本昌成・新・立憲主義を読み直す(成文堂、2008)。
 第Ⅱ部・第6章
 〔2〕「近代の鬼子? フランス革命」(p.186~)
 A 近代立憲主義の流れもいくつかあり、「人間の合理性を前面に出した」のがフランス革命だった。
 フランス革命の狙いは以下。①王権神授説の破壊・理性自然法の議会による実定化、②「民主主義」実現、そのための中間団体の克服、③君主の意思が主権の源泉との見方の克服、④個人が「自律的存在」として生存できる条件の保障。これらのために、1789.08に「封建制廃止」による国民的統一。「人権宣言」による「国民主権」原理樹立。
 しかるに、「その後の国制は、数10年にわたって変動を繰り返すばかり」。これでは「近代の典型」でも「近代立憲主義の典型」でもない。「法学者が…歴史と伝統を無視して、サイズの合わない国制を縫製しては寸直しする作業を繰り返しただけ」。
 なぜフランス革命が「特定の政治機構があらわれると、ただちに自由がそれに異を唱える」(トクヴィル)「不安定な事態」を生んだのか。
 私(阪本)のフランス革命の見方はこうだ。
 フランス革命はあくまで「政治現象」、正確には「国制改造計画」と捉えられるべき。「下部経済構造変化」に還元して解剖すべきでない。「宗教的対立または心因」との軸によって解明すべきでもない。
 <フランス革命は、法と政治を通じて、優れた道徳的人間となるための人間改造運動だった>(すでにトクヴィルも)。そのために「脱カトリシズム運動」たる反宗教的様相を帯びたが、「宗教的革命」ではなく、「18世紀版文化大革命」だった。
 その証拠は以下。革命直後の「友愛」という道徳的要素の重要視、1790年・聖職者への国家忠誠義務の強制、1792年・「理性の礼拝」運動、1794年・ロベスピエールによる「最高存在の祭典」挙行。
 (Aがまだつづく)

0528/樋口陽一の「西洋近代立憲主義」理解は適切か。<ルソー=ジャコバン型>はその典型か。

 一 樋口陽一は、<ルソー=ジャコバン型個人主義>を<西欧近代に普遍的な>個人主義と同一視はしていない筈だ。樋口・自由と国家(岩波新書、1989)で、<ルソー=ジャコバン型個人主義>には「イギリスの思想」が先行していたとして、ホッブズやロック等に言及しているし(p.125)、別に「トクヴィル=アメリカ型国家像」に親和的な民主主義や個人主義観にも触れている(p.149~)。もっとも、「ホッブズ→ロック→議会主権」という系列のイギリス(思想)は「フランス」(「一般にヨーロッパ」)の方に含められて然るべきとして一括されており(p.153)、<ルソー=ジャコバン型>と<トクヴィル=アメリカ型>は「『個人主義』への態度決定」には違いはなく、「反・結社的個人主義」と「親・結社的個人主義」という(身分制アンシャン・レジームのあった旧大陸とそうではない新大陸の)「対比」なのだという(p.164)。
 樋口は上に触れたよりも多数の<個人主義>に言及しつつ、大掴みには上のように総括している、と理解できる。だとすると、<ルソー=ジャコバン型>個人主義は、<西欧に>、又は基本的にはそれを継承した?アメリカを含む<欧米に普遍的な>個人主義だと理解することはできないはずだ。
 だが、そういう観点からすると、樋口陽一は奇妙な叙述をしている。
 ①<ルソー=ジャコバン型>個人主義の諸問題への言及は重要だが、しかし、「身分制的社会編成の網の目をうちやぶって個人=人一般というものを見つけ出すためには、個人対国家という二極構造を徹底させることは、どうしてもいったん通りぬけなければならない歴史の経過点だったはず」だ(p.163)。
 このあとで1789年フランス人権宣言には「結社の自由」がないことへの言及が再び(?)あるが、個人対国家という二極構造の「徹底」が普遍的な?「歴史の経過点」(<歴史の発展法則>?)というこのような指摘は、少なくとも潜在的には<ルソー=ジャコバン型>こそを(とりあえずアメリカを除いてよいが)<西欧近代の典型・かつ普遍的なもの>と見なしているのではないか。
 次の②はすでに紹介したことがある。
 ②「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」を見事に否定する人々が日本にいるようなら、「一1989年の日本社会にとっては、二世紀前に、中間団体をしつこいまでに敵視しながらいわば力ずくで『個人』をつかみ出したルソー=ジャコバン型個人主義の意義を、そのもたらす痛みとともに追体験することの方が、重要なのではないだろうか」(p.170)。
 ここでは「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと(ホッブズからロックを経てルソーまで)」の話が、いつのまにか?、「ルソー=ジャコバン型個人主義」に変わっている。「西洋近代立憲主義社会の基本的な約束ごと」=「ルソー=ジャコバン型個人主義」というふうに巧妙に?切り替えているのではないか?
 以上は要するに、<西欧近代>あるいは「西洋近代立憲主義」等々と言いつつ、樋口はその典型・模範としてフランスのそれ、とくに「ルソー=ジャコバン型」を頭に置いているのではないか。そしてそれは論理的にも実際にも正しくはないのではないか、という疑問だ。
 二 また、そもそも樋口陽一の<西欧近代>あるいは「西洋近代立憲主義」の理解は正しい又は適切なものなのだろうか。決してそうではなく、あくまで、<樋口陽一が理解した>それらにすぎないのではないか。
 例えば、樋口はイギリス思想にも言及しているが、いわゆる<スコットランド啓蒙派>への言及はなく、せいぜいエドマンド・バークが3行ほど触れられているにすぎない(p.130)。樋口にとって、「イギリス」とは基本的に「ホッブズ→ロック」にとどまるのだ。
 そのような理解は、典型的には、樋口が上の如く「西洋近代立憲主義の基本的な約束事」を「(ホッブズからロックを経てルソーまで)」と等置していることに示されている、と思われる。
 樋口陽一のごとく<西欧近代>を単純化できないことを、たぶん主としては佐伯啓思のいくつかの本を参照して、じつはこれまでもこの欄で再三紹介してきたように思う。樋口が理解しているのは、端的に言ってマルクス主義の立場から観て優れた<西欧「近代」思想>と評価されたもの、そこまでは言わなくとも、せいぜいのところ雑多な<西欧近代>諸思想潮流の中で<主流的なもの>にすぎない、のではないか。
 ここでは坂本多加雄・市場・道徳・秩序(ちくま学芸文庫、2007)の「序」に興味深い叙述があるので、紹介してみよう。なお、日本「近代」の四人の「思想」を扱ったこの本は1991年の創文社刊のものを文庫化したものだ(「序」も1991年執筆と思われる)。故坂本多加雄(1950~2002)は、次のようなことを書いていた。
 ①<従来は多くは何らかの完全な意味での「近代」性を措定して、思想(史)の整理・分析がなされてきた。「近代」性の限界を発見して完全な「近代」性探求が試みられたり、「マルクス主義的な段階論」に依って「ブルジョア民主主義思想から社会主義思想への発展過程」の検出がなされたりした。しかし必要なのは「あるひとつの基準」で「近代」性の程度・段階を検証することではない。「過去」を「現在」に至る「直線的な評価のスケール」の上に並べての研究は、「現在」のわれわれ自身の思想・言語状況に関する「真剣な反省の意識をかえって曇らせる」(p.13-14)。
 ②いくつかの留保が必要だし、再検討の余地もあるが、ハイエクは、「近代の社会思想」は、第一に、「モンテスキュー、ヒューム、〔アダム・〕スミス、そして一九世紀のイギリスの自由主義、トクヴィル、ギゾー等に受け継がれていく」「スコットランド啓蒙派」に代表される立場と、「ホッブズや、フランスの啓蒙主義、ルソー、またサン・シモン主義、そして、マルクスのなかにその担い手を見出していく」「デカルト的」な「構成的合理主義」、という「二つの系譜を異にするもの」が存在する、と述べた(p.18)。
 上の二点について、とくにコメントを付さない。いずれも<西欧近代>・「西洋近代立憲主義」の理解の単純さについて、および普遍的「近代」を措定しようとすること自体について、樋口陽一に対する批判にもなっている文章だと感じながら、私は読んだ。

0519/<ルソー・ジャコバン型>は肯定的に評価されるべきなのか-樋口陽一。

 菅孝行は、「樋口陽一は、…、日本人は一度は強者の個人主義をくぐれ、ルソー・ジャコバン型民衆主義をくぐれと執拗に提唱している」と書いた(同・9・11以後丸山真男をどう読むか(2004)p.88)。菅はこの提唱を意義あるものとしてその後に文章をつなげていっているのだが、樋口がかかる提唱をする本として、樋口陽一・自由と国家同・比較の中の日本国憲法の二つを示している。出版社名・出版年の記載も頁の特定もされていないないが、いずれも岩波新書で、前者は1989年、後者は1979年の刊行だ。
 上の前者は所持していないが、後者を見てみると、<ルソー・ジャコバン型民衆主義をくぐれ>との旨を明記している部分はどうやらなさそうだ。但し、類似の又は同趣旨だろうと思われる記述はある。
 樋口・比較の中の日本国憲法p.8-10は、要約部分も含めるが、次のように言う。
 「西洋近代」を批判する者(日本人)は「社会現象としては西洋近代だけが生み出した」「個人主義のエートス」を自分にも他人にも「きびしく要求」すべきだ。/西欧と日本の「落差」は「型」ではなく「段階」のそれと見るべきだが(加藤周一に同調、p.5)、その見地に立って「西洋近代とは何かという問いを追求した代表的な仕事」は「大塚〔久雄〕=高橋〔幸八郎〕史学」や「丸山〔真男〕政治学」で、「私たちは、こういう仕事の問題意識と問題提起に、あえて何度でも、しつこくたちもどる必要がある」。(〔〕は秋月が補足)
 いつか記したことがあるように樋口陽一は丸山真男集(全集)の「月報」に一文を寄せて丸山真男を「先生」と呼んでいる。上の文章においても、大塚久雄・高橋幸八郎・丸山真男の仕事に
「あえて何度でも、しつこくたちもど」れ、と(1979年に)書いていたわけだ。私(秋月)や私たちの世代には殆ど理解できない<戦後進歩的文化人の(そのままの)継承者>がここにいることに気づく。
 上の岩波新書では<ルソー・ジャコバン型>うんぬんに明示的には言及していないように思えるが、最近にこの欄で言及した、樋口陽一「フランス革命と法/第一節・フランス革命と近代憲法」長谷川正安=渡辺洋三=藤田勇編・講座・革命と法/第一巻・市民革命と法(日本評論社、1989)は明瞭に、「ルソー=ジャコバン型国家像」という概念を「トクヴィル=アメリカ型国家像」と対比される重要なものとして用いている。
 もっとも、「ルソー=ジャコバン型国家像」とは何かは分かりやすく説明されてはいない(丸山真男が「ファシズム」一般の定義をしていないのに似ている?)。
 樋口によると、「ルソー=ジャコバン主義」という語はフランスで用いられることがあるようなのだが、それは、<主権=政治の万能=国家とその法律の優越=一にして不可分の共和国>という脈絡で用いられている。これだけでは理解し難いが、1789年の否定・1793年〔ジャコバン独裁期-秋月〕の「ブルジョア革命」逸脱視を意味するのではなく、フランス近代法の「個人対集権国家の二極構造のシンポル」としてのそれらしい(以上、p.130-1)。要するに、<近代的>「個人」と(中央集権的)国家の対立(二極構造)を基本とするフランス的意味での<近代的>国家観のことなのだろう。
 別の箇所では、「ルソー=ジャコバン型国家像」は、フランス第三共和制(1875~)以来、「一般意思の表明としての法律の志高性」の観念のもとで「徹底した議会中心主義」の形態で実定化それてきた、ともいう(p.132)。
 大統領制との関係・差違は問題になりうるが、結局のところ、「ルソー=ジャコバン型国家像」とは国家と個人の対立構造を前提とした、「一般意思」=「法律」→法律制定「議会」(→議員を選出する者=「個人」(国民?、人民?、民衆?)を尊重又は重要視する、(フランス的)国家理念(像=イメージ)なのだろう。
 それはそれでかりによいとして、だが、かかる国家像をなぜ<ルソー=ジャコバン型>と呼ぶことに樋口陽一は躊躇を示さないのか、ということが気になる。今回の冒頭に示した菅孝行の言葉によっても、樋口は<ルソー=ジャコバン型>を消極的には評価しておらず、むしろ逆に高く評価しているようだ。
 そのような概念用法自体の中に、看過できない問題が内包されているように見える。

0507/桑原武夫編・日本の名著((中公新書、1962)と佐々木毅・政治学の名著30(ちくま新書、2007)

 一年以上前に桑原武夫編・日本の名著-近代の思想(中公新書、1962)に言及した。
→ 
http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/154432/
そして、アナーキスト・マルクス主義者・親マルクス主義者等の本が15程度は取り上げられていて多すぎる、1960年代初頭の時代的雰囲気を感じる、とか述べた。あらためて見てみると、桑原武夫の「なぜこの五〇の本を読まねばならぬか」との命令的・脅迫的なタイトルのまえがきの中には、「わたしたちは過去に不可避的であった錯誤のつぐないにあたるべき時期にきている」という、「過去」を「錯誤」とのみ切り捨てて<贖罪>意識を示す言葉もあった。
 また、あらためて50の本の著者全員をメモしておくと、つぎのとおり(1年余前にはかかるリストアップはしていない)。
 福沢諭吉・田口卯吉・中江兆民・北村透谷・山路愛山・内村鑑三・志賀重昂・陸奥宗光・竹越与三郎・幸徳秋水・宮崎滔天・岡倉天心・河口慧海・福田英子・北一輝・夏目漱石・石川啄木・西田幾太郎・南方熊楠・津田左右吉・原勝郎・河上肇・長谷川如是閑・左右田喜一郎・美濃部達吉・大杉栄・内藤虎次郎・狩野亮吉・中野重治・折口信夫・九鬼周造・中井正一・野呂栄太郎・羽仁五郎・戸坂潤・山田盛太郎・小林秀雄・和辻哲郎・タカクラ=テル・尾高朝雄・矢内原忠雄・大塚久雄・波多野精一・小倉金之助・今西錦司・坂口安吾・湯川秀樹・鈴木大拙・柳田国男・丸山真男
 名前すら知らない者も一部いるのだが、それはともかく、これらのうち、幸徳秋水や大杉栄は「読まねばならぬ」ものだったのだろうか。日本共産党員だった野呂栄太郎(山田盛太郎も?)、一時期はそうだった中野重治(他にもいるだろう)、マルクス主義者の羽仁五郎も「読まねばならぬ」ものだったのか。
 すでに被占領期を脱して出版・表現規制はなくなっているはずだが、「右派」と言われる者の本は意図的にかなり除外されているように見える。<日本浪漫派>とも言われた保田與重郎はない。「武士道」の新渡戸稲造もない。「共産主義的人間」(1951)の林達夫は勿論ない。「共産主義批判の常識」(1949)の小泉信三もない(小林秀雄はあるが、福田恆存江藤淳はまだ若かったこともあってか、ない)。
 上のうち秋水、河上、野呂、山田、羽仁、大塚の項を担当して何ら批判的な所のない記述をしているのは河野健二。  桑原武夫と河野健二はいずれもフランス革命研究者だが(中公・世界の名著のミシュレ・フランス革命史の共訳者ではなかったか?)、当時の主流派的フランス革命解釈を採用し、かついずれも親マルクス主義又は少なくとも「容」マルクス主義者だったとすれば、以上のような選択と記述内容になるのも無理はないのかもしれない。
 日本かつ近代に限定した上の本と単純に比較できないが、佐々木毅・政治学の名著30(ちくま新書、2007)という本もある。世界に広げかつ「政治学」関係に絞っている。そして、(良く言えば)バランスのとれた?佐々木毅による本のためかもしれないが、桑原武夫が1960年代に選択したとかりにしたものと比べると、ある程度は変わってきていると考えられる。
 すなわち、30の全部をメモしないが(日本人は福沢諭吉・丸山真男のみ)、ルソー、マルクス、へーゲルらの本とともに、バーク・フランス革命についての省察、ハミルトンら・ザ・フェデラリスト、トクヴィル・アメリカにおけるデモクラシー、ハイエク・隷従への道、ハンナ・アレント・全体主義の起源という、<保守主義>又は<反・左翼>の本も堂々と?登場させている。40年ほど経過して、<時代が(少しは)変わってきた>ことの(小さな?)証拠又は痕跡ではあるだろう。

0129/日本を益する自由擁護の保守主義系の思想家たち。

 中川八洋・保守主義の哲学(PHP、2004)p.384で表示されている「日本を益する自由擁護の保守主義系の思想家たち」計30名は、つぎのとおりだ。
 ベスト4(没年順)-コーク、バーク、ハミルトン、ハイエク
 その他26(没年順)-ヘイル、マンドヴィル、ヒューム、ブラックストーン、アダム・スミス、ファーガソン、J・アダムス、マディソン、トクヴィル、サヴィニー、バジョット、ディズレーリ、ドストエフスキー、メイン、ブルクハルト、アクトン、ル=ボン、バビット、ホイジンガ、ベルジャーエフ、オルテガ、チャーチル、ドーソン、ハンナ・アーレント、オークショット、カール・ポパー、サッチャー。
 「日本を害する…」に比べて、名前に馴染みのない人が多い(これも、中川によると日本の学界・出版界・教育界に原因がある)。また、作家のドストエフスキー、むしろ政治家のチャーチルやサッチャーを挙げないと30名にならないのが中川の苦労したところだろう(バークも18世紀英国の国会議員だが)。
 ベスト5だと、言及頻度からして、トクヴィル(仏)が入ってくるのではなかろうか。
 中川によると、ロシア革命前に没してはいるが、ドストエフスキーは、レーニン・スターリンの社会主義体制の到来を最も早く予知したロシア知識人で、小説・地下生活者の手記は「反・社会主義宣言」だった。この小説で彼は、自らを「地下生活者」としつつ、地上に立つ透明な「水晶宮」を「内証で舌を出して見せたり、袖のかげでそっと赤んべをしたり、そんな真似のできない」、「個人をガラスごしに二十四時間監視し統制する社会」だと喝破していた、という(p.257-8)。余裕があれば、数十年前に少し手にしたことのあるドストエフスキーの本を反共産主義という観点から読み直してみたいものだ。

0115/中川八洋・保守主義の哲学(PHP、2004)はあと70頁。

 勝谷誠彦は<さるさる日記>の2006年12/12にこう書いていた。
 「私はこの国は小泉政権からタライの中を水がザブンザブンと行ったり来たりするようなメディアが囃すと馬鹿踊りが始まる衆愚政治時代に入ったと思っている。
 これを読んで一瞬に感じたのは、では小泉政権以前の時代は「衆愚政治時代」ではなかったのか、とっくに「衆愚政治」だったのではないか、ということだった。森首相、小渕首相、橋本首相…、どの時代であれ、民主主義とは極論すればつまりは衆愚政治のことではないのか。
 民主主義は衆愚政治に陥る危険があるという言い方もされるが、民主主義(デモクラシー)、すなわち直訳すれば大衆(民衆)支配政治(体制)とは、「大衆(民衆)」が全体として賢くなく愚かであれば、もともとの意味が「衆愚政治」のことなのだ。
 こんなことを書くのも、中川八洋・保守主義の哲学(PHP)の影響だろう。民主主義と平等主義とが結合するとき、「多数者の専制」(バークの語)となる。「多数者」の判断が誤っていれば、少数者にとっては我慢できない圧政となる。
 トクヴィルはこう言ったという。「デモクラシー政治の本質は、多数者の支配の絶対に存する」。また、中川によれば、デモクラシーを「専制」又は「暴政」と捉えるのは、「英米とくに米国では普通」のことだという。
 民主主義を最高の価値の如く理解している日本人も多いのかもしれないが、多数の(過半数の)者が支持した決定は相対的には合理的なことが多いだろうという程度のことにすぎず、少数者の判断の方がより合理的でより正しい可能性は客観的にはつねに残されている(何がより合理的でより正しいかを決定するのがそもそも困難なのだが)。
 民主主義という「多数者の専制」を排するために存在するのが、国民により「民主的」に選出された代表が構成する議会の「民主的」な決定(法律の制定等)も憲法には違反できないという意味で、憲法だ。
 憲法は民主主義と対立する、それを制約する価値を秘めてもいることを理解しておいてよいだろう。
 民主主義なるものを最高の価値の如く理解していけないのは、民主主義の名のもとに、「人民の名」による圧政が現実にあったし、今でもあることでも判る。社会主義・東ドイツの国名はドイツ「民主」共和国だったし、北朝鮮の国名は朝鮮「民主主義」人民共和国だ。
 民主主義と平等原理が結合するとき、容易に社会主義への途を開くことにもなる。日本共産党系の大衆団体が「民主」の名を冠していることが多いのも理由がある。民主主義文学者同盟(機関誌は「民主文学」?)、民主青年同盟(民青)、全国民主医療機関連合会(民医連)、民主商工会…。日本共産党が民主主義の徹底を通じて社会主義へという途を展望しているのは、周知のことだろう(日本共産党を支持する多数派の形成は容易に同党の「多数」の名による=「民主主義」の名による一党独裁を容認することになろう)。
 フォン・ハイエクの有名な著は隷従への道(東京創元社)だが、中川によると、このタイトルは「デモクラシーの全体主義への転換」を論じるトクヴィルの次の文章に由来するのだという(p.277)。
 「平等は、二つの傾向をうみ出す。第一の傾向は、…突然に無政府状態になることがある。第二の傾向は、…もっと人知れず、しかし確実な道を通って人々を隷従に導く」。
 なお、ここでの「隷従」状態とは、トクヴィルやハイエクにおいて、「全体主義」の支配を意味する。そして、「全体主義」とは共産主義又はファシズムのことだ。
 安倍首相が、「人権、自由、民主主義、法の支配」の<価値観外交>を進めてよいし、中国との関係では進めるべきなのだが、上の4つの全てについて、~とは何かという厳密な議論が必要であり、現に議論されてもきている。
 中川八洋の具体的な主張には賛成し難い点もあるのだが、読了まであと70頁ほどになった彼の本が、知的刺激に満ちていることは間違いない。

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