秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

デモクラシー

0356/「民主主義」の喜劇。西部邁・正論10月号。

 民意を尊重すること、これが民主主義の要諦だ。
 こういう文章があったとする。妥当なようだが、どこかおかしくないだろうか。すなわち、一般的理解によれば、民意を尊重することが民主主義の意味のはずなのであり、上の文は、民主主義は民主主義だ、民意を尊重すべきだから民意を尊重すべきだ、というアホらしいことを言っているのにすぎないのではないか。
 むろん民意の尊重の具体的仕方についての議論はありうる。だが、民意を尊重すべきことを民主主義でもって基礎づけたところで、上記の如く循環論証または同義反復に陥るだけではないか。
 多少とも「民主政治」に関係するマスメディアの中に、上のようなことを平然と書ける人間がいるとすれば、驚天動地だ。即刻クビになっても不思議ではない。
 というようなことを枕詞にして、月刊正論10月号(産経〕の西部邁「民主喜劇の大舞台と化した日本列島」から、その「民主主義」に関係する、私の納得できる叙述をメモ書き的にまとめておこう。
 〇デモクラシー=民衆政治とは「多数参加の多数決制」が客観的に存在していることをいうが、<戦後民主主義>はこれを民衆の「主権主義」という主観的当為にまで高めた。かかる指摘をすべき言論勢力等も、「民主主義の前に深々と跪いている」。p.46.
 〇七月参院選は、かの「マドンナ選挙」をはるかに超えて、「大衆喜劇ぶりを底知れず俗悪化」した。p.50.
 〇かつて自己責任論と「小さな政府」論でもって自民党を破壊せんとした小沢一郎の民主党が「生活が第一」と掲げたのは「度外れに醜く映った」が、かつての小沢の論を「忘れることのできるのは、痴呆化したデーモス(民衆)、つまりオクロス(衆愚)のみ」だろう。p.51.
 〇「朝日新聞などの左翼系メディア」が安倍政権のスキャンダル暴露に「大活躍したのは周知の事実」だが、(テレビ)メディアは「醜聞で騒ぐのが商売柄」なので、「左翼流に便乗しただけのこと」だ。p.52.
 〇安倍政権の憲法改正等の主張に「真っ向から抵抗せず」に「スキャンダル暴露の作戦」に出たのは、「アメリカ製の揺り籠のなかで相も変わらず泣きわめいていたいから」だ。左翼を含む日本人の大半は、憲法論に見られるように、アメリカへの「諾否」同時存在という「精神の病気にとらわれて」いる。p.52.
 〇平成デモクラシーの過程で、「大衆〔=マス〕の進撃」と「公衆の絶滅」という一事が明瞭になった。「国柄の保守」を貫き「国柄に公心の拠り所を見出そうとする」「公衆」の「正気」の「ほとんど最後の一片に至るまでもが吹き飛ばされ」、「大衆の勝利」が生じ、それを祝うべく「大衆の民主喜劇」が盛大に演じられている。大衆は公衆であることを忌避しており、「社会のあらゆる部署の権力が大衆の代理人によって掌握された」。p.53.
 〇「大衆喜劇」の舞台のマスメディアは第四どころか「第一権力」で、「大衆の弄ぶ流行の気分」=「世論」に立法・行政・司法が「追随」している。第一権力は議会や首相官邸にではなく「お茶の間ワイドショー」に帰属している。だからこそ、「政治家も学者も弁護士も、三流テレビ芸人の膝下に、陸続と馳せ参じている」。p.54.
 〇第一権力は「匿名の独裁者」としての「人気」=ポピュラリティだ。もともと「民衆の欲望を無視する」政治は長続きせず、「政治の根底は時代を超えて民衆制」なのだが、その「民衆制が独裁者や寡頭者たちを生み出すだけ」のことで、今や「人気者というお化けめいた者が、民衆の茶の間のど真ん中で、大衆政治のどたばた劇」を一日中取り仕切っている。p.54.
 以上。今回はここまでとする。 

0349/デモクラシーに再言及すると。

 デモクラシーとは元来は讃えられるべき状態又は理念を意味したのではなく、悪い状態又は忌むべき理念だったことは、長谷川三千子の文春新書にも書いてある。
 長谷川三千子・文春新書だから信用できない、という(朝日新聞・岩波シンパにはいるかもしれない)人は、かの<権威がある、正しいことが書いてあるはずの>岩波新書、福田歓一・近代民主主義とその展望(1977)のp.3にさっそく次のように書かれているのを知るとよいだろう。
 ヨーロッパの場合はどうかというと「実はここでも民主主義という言葉ははなはだいかがわしい言葉であって、それが間違いなく正当な言葉、いい意味をもった言葉として確立したのはこの第一次大戦のときだったのであります」。
 単純・素朴な<民主主義>礼賛者は、マスコミの中にいる人も含めて、こんな単純なことも、おそらくは知らないのだろう。
 もう一点、別のことに触れておくと、第二次世界大戦は<民主主義対ファシズム>の闘いだったという理解の仕方も、戦勝国側の後づけ的な説明によることが多大であることを知っておく必要があると思われる。
 日本はいかなる意味で<ファシズム>国家だったかという基本的な問題がまずあって、丸山真男のそもそもの出発点が誤っている可能性が大だが、その点は別としても、社会主義・ソ連を含めて<民主主義>陣営と一括して理解することに、相当の欺瞞があったと言うべきだろう。
 かかる<民主主義>概念の曖昧さ、「人民民主主義」とか称して社会主義は「民主主義」と矛盾しないと説かれた、その<いかがわしさ>は、1929年のケルゼン・デモクラシーの本質と価値(岩波文庫、1948)の序文の中にも実質的にはすでに論及されている。

0347/「民衆政治」と「民主主義」-西部邁。

 前回に、デモクラシーにつき、<「民主」という訳語も、<主>の意味は元来はなかったと思われるので不適切だろう>と書いた。この旨を、西部邁「嗚呼、許すまじ『民爆』を-従僕の平和と大衆の民主」正論12月号p.63(産経新聞社)はとっくに書いていた。
 西部邁いわく-「デモクラシーを(民衆の政治ではなく)民『主』主義と訳したことの非が咎められなければなりません。民衆政治そのものは、民衆という名の『多数者』の『参加と決定』という一個の政治方式をしか意味しません」。
 さらにいわく-「いいにくいことをあっさりいうと、その多数者がおおむね阿呆ならば、愚かしい議論と過てる決定がなされるということです」。
 さらに<民主>主義にも論及が進む。西部によれば、<民「主」と称して政治に「主権」概念が持ち込まれて、「民意」が「神意」も同然と見なされた。元来の政治学は古代アテネの「民衆政治」批判だったが、「民主主義」礼賛は「現代の金科玉条」になってしまった。「民衆政治」に「民主主義」の衣装が着せられ、自然の成り行きとして、「民意」が誰も逆らってはならぬ「神意」となった。>
 西部邁の議論をしばらくメモしてみようか。

0286/無限に近い目的は「罠」だ-日本共産党綱領。

 日本共産党の綱領(2004.01、第23回党大会)が最後に「五、社会主義・共産主義の社会をめざして」と題してまず「生産手段の社会化」を提唱していること自体の中に、ソ連・東欧の失敗や北朝鮮・中国での経済運営の失敗に学べないマルクス・レーニン主義(科学的社会主義)の病弊を看てとることができる。
 さらに、その「五」の最後には、「(一七)社会主義・共産主義への前進の方向を探究することは、日本だけの問題ではない」との見出しを立て、「二一世紀を、搾取も抑圧もない共同社会の建設に向かう人類史的な前進の世紀とする」ことをめざすという、美辞麗句らしきもので結んでいる。
 読書のベースは阪本昌成の別の著の次は同・リベラリズム/デモクラシー〔第二版〕(有信堂、2004)だったのだが、やっと、第一部のp.116まで読了した(その次は、阪本昌成・法の支配(勁草書房)の予定)。
 そのp.111にA・ゲルツェンという人の次の語句が引用されている。
 「無限に近い目的などは目的ではない。それはいわば罠なのだ」(ゲルツェン・向う岸から)。
 この文章を阪本は「統治」は「人類や労働者階級を救済するためにある」のではなく「人びとが現世の諸利益を獲得し、維持し、増進することを可能にする」ためにある、ということから、<政治理論>・<国制論>に関して引用している。
 私は日本共産党の上のような<政治理論>を連想してしまった。<21世紀の遅くない時期に民主連合政府を>という目標もすでに「無限に近い目的」だと思うが、その後の「社会主義・共産主義への前進」などは「無限」そのものの将来の目標ではないか。そして、それはじつは「罠なのだ」。
 可哀想にも「」に嵌ってしまった日本共産党員以外に、どの程度の支持を同党が獲得できているか、それは私の今月末の参院選の結果についての大きな関心の一つだ。
 いずれ消滅する政党だとは思うが、とりあえずは、憲法九条護持の主張を(社会民主党とともに)明言して、選挙の争点の一つとしているのは、この点が曖昧な民主党よりはそのかぎりで潔いし立派だ。
 そして、6000ほどもあるという「九条の会」が一般国民をも巻き込み、かつ日本共産党の支持を増大させていれば、同党の得票や議席は増えるはずだ。しかし、同党の得票や議席が変わらないか減少するとすれば、「九条の会」運動は、次の二つのいずれかであることが判明するだろう。
 第一に、憲法九条改正反対の国民の集まりであり、日本共産党が主導権を持っておらず、又は少なくとも選挙時の投票行動にまで影響を与えるには至っていない。
 第二に、日本共産党の地域・職場の「支部」が名前を変えただけのものに殆ど等しく、ほとんど<仲間うち>だけの「会」になっている。
 憲法改正に向けての障害物に他ならない日本共産党(と社会民主党)の選挙での帰趨を早く知りたい気もする。

0150/阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー(第二版)「まえがき」。

 4/30午前0時台のエントリーで紹介したように、阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー(第二版/有信堂、2004)は「マルクス主義憲法学」批判を鮮明にしている。そのときに紹介しなかったマルクス主義批判の文に、次のようなものもある。
 「正義は、人間の知性によって積極的に作り上げうるものではなく、また、人間の情念を度外視して語れるものではない。二〇世紀最大の人類的規模の実験が失敗に終わった理由は、ここにある」(p.23)。
 デカルト以降の「理性」信仰(私流に言えば、人は、人間や社会を「合理的」に認識・説明でき、改革できる筈だとの、人知の及ばない領域があることを無視した「近代」の傲慢さ)への批判が上の文にも含められているだろう。
 5/13のやはり午前0時台のエントリーで述べたように、中川著の後の読書のベースは阪本昌成の上の本で、50頁くらいまでは進んだ。基礎概念の意味と論旨展開は重要なので、メモ書き代わりにここに記していこう。
 阪本にとってマルクス主義はもはや「論敵」ではないとされ(p.22)、既述程度の文章しかないのだが、マルクス主義批判の文のあとには「福祉国家」が「警戒すべき実験」として語られる(p.23)。
 先走ったが、阪本も自称ハイエキアンであり、ハイエクを(きわめて)肯定的・積極的に評価する中川八洋と同様の論調である所があるだろうことは容易に想像がつく。
 さて、最初から出発しよう。「まえがき」によれば、「リベラリスト」とは「統治の正当性・限界を、人びとの合意に求めることを避けて、すべての人に保護領域が与えられるべきことに求めようとする立場の人」だ(「保護領域」とはさしあたり「自由に行動できる生活空間」で十分)。
 一方、「デモクラット」とは「統治の正当性・限界、すなわち立憲主義の源泉は人びとの合意にある、と強調する人」だ(p.1)。
 書名でも明らかなのだが、リベラリズムとデモクラシーは矛盾しあう・対立しあうということが著者の議論の前提だ。あえて日本語を使えば、自由主義と民主主義自由と民主の差違・関係が阪本の関心事であり、かつこの問題が(マルクス主義うんぬんよりも)今日的・現実的な意味をもつ、と考えられているものと思われる。
 そして、阪本は自分は「ラディカル・リベララリスト」だと既に結論的に宣言している(p.2)。となると、未読の部分の方が多いが、デモクラシー(民主主義・民主政治)への批判が多いだろうと想像できる。
 つぎに言う。「リベラル」や「リベラリスト」は米国では「社会民主主義(者)」を指すため、「真のリベラリズム」のために「リバターリアニズム(リバターリアン)」という言葉が作られ、後者は、ア.個人主義徹底、イ.国家の強制力は反道徳的、ウ.国家・公共の利益に懐疑的、という態度だ。だが、阪本は「リバターリアニズム」と共通性があるかもしれないとしつつ、リベラル/リバターリアルの区別の論議に入らず、「リベラリズム」を次の共通性をもつものの意味で用いるとする。
 1.「自由を消極的に捉えること」(秋月注-「消極的」とは「否定的」の意ではない)、
 2.「ルールの源泉を人間の意思に求めないこと」、
 3.「ルールは社会のなかで自己増殖的にできあがり、そのルールは一定の属性をもつに至ると承認すること」等。
 但し、「リベラリズム」は社会民主主義を含む曖昧さを持つので、上の意味でのリベラリズムを「古典的リベラリズム」、「社会民主主義的な自由観」を「修正的リベラリズム」と称することもある、という(p.2)。
 その後、若干の主張が(結論示唆的に?)なされる。
 「法学でいう自由」とは「個人の人格的規律や意思の不可侵性」といった「個人の内面領域」ではなく「政治・統治の領域」での概念で、リベラリストは、「私たちの日常的な利害対立の調整または解決を政治過程にできるだけのせないことが望ましい」と考える。
 リベラリストはこう考える傾向にある。1.「個人の内心の自由」は「政治的自由」の「根源的な位置」にあるものではなく、「歴史的にみて最初のものでもない」。
 2.個人の「内面的自由は「政治的自由」を否定された人びとが「内面への退却」をしたときに気づかれたもので、「内面的自由は人間の尊厳にとって固有の領域」だとの「誇張された主張」は、自由の問題を「人格的自律や意思の不可侵性」を問う議論へと「再び誘導する」だろう。しかし、この筋道を避けて、「人と人との交わりのなかで世俗的な利害の調整のあり方に賢慮を」めぐらすべきだ。
 3.「「法の支配」を真剣に受けとめる」。「法の支配」とは「私たちの消極的自由を保障するための思想であり、制度だ」。一冊の本が必要なところを「あえて簡単にいえば」、「国家が法律を制定するにあたって、私たちを匿名の存在として扱うルールに従うこと」だ。(p.3-p.4)
 「まえがき」の僅か4頁のためにこれだけ費やしたとは先が思いやられる。
 だが、何らかの共通了解があって語られているようにも見える「自由」も「民主」も(そして「立憲主義」も「法の支配」も)じつは簡単に語りえない複雑な側面をもち、両者は単純な関係には立たない(ようだ)。
 若い頃から近年までの勉強不足、思考不足を嘆きつつ、読み終えてみよう(計230頁程度)。
 ところで、中川八洋の本を読んでおいたことはよかった。阪本著で外国人の名とその「思想」が出てきても殆ど全く、驚きはしないからだ。

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