Richard Pipes, The Russian Revolution (1990).
「第18章・赤色テロル」のつづき。
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第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員②。
(07) しかし、チェカ擁護論者は、その組織を防衛しただけではなかった。「プロレタリアート独裁」の勝利のために不可欠のものとして称賛した。
チェカは、無限の闘争であるレーニンの「階級戦争」のテーゼを発展させて、自らを赤軍と相補関係にあるものと見た。
両者の唯一の違いは、赤軍はソヴィエト国境の外で階級敵と戦い、チェカとその軍事部隊は「国内の戦線」で階級敵と戦う、ということにある。
内戦は「二つの前線での戦争」だとする考えは、チェカとその支持者が好んだ主題の一つになった。赤軍で働く者とチェカに勤務する者は、腕を組む同志だと言われた。それぞれのやり方で、「国際的ブルジョアジー」と戦っているのだ。(注108)
こうした類似性でもって、チェカは、自分たちにソヴィエトの領域内で殺害が許容されていることは、軍隊の兵士が前線で目に入る敵兵を殺害するのと同じ権利のようなものだ、いやじつに、義務ですらある、と主張することができた。
戦争は、正義の法廷でなかった。Dzerzhinskii の言葉によると(Radek の報告によるが)、無実の者も、無実の兵士が戦場で死ぬのと全く同じように、国内の前線で死ぬ。(注109)
これは、政治は戦争だ、という前提から演繹される見方だった。
Latsis は、両者の類似性を、つぎのような論理的な結論へと押し進めた。
「非常委員会(チェカ)は捜査機関ではなく、判決を書く法廷または審判所でもない。
戦闘の機関であって、内戦の内部戦線で活動する。
敵に判決を下すのではない。打ちのめすのだ。
バリケードの向こう側の者たちを赦すのではなく、焼いて灰にする。」(注110)
警察テロルと軍事戦闘との間のこのような類似性は、むろん、両者の重大な違いを無視していた。すなわち、兵士は生命を賭けて敵の兵士と戦ったが、チェカ機関員は、自らについての危険を冒すことなく無防備の男女を殺害した。
チェキストが示すべき「勇気」は、身体的または倫理的な勇気ではなく、良心を抑えつけようとする意欲だった。その「不屈さ」は、被害を受けない能力にではなく、苦痛を被らせる能力にあった。
それにもかかわらず、チェカは、この表面的な類似性を語るのを好むようになった。これでもって、批判に反駁し、ロシア人が抱く嫌悪感を克服しようとした。
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(08) レーニンは、論争に立ち入らなければならなかった。
チェカを好み、その残虐性を是認した。しかし、チェカの公的イメージを改善することによってでも、とんでもない悪罵は抑制される必要がある、ということにも同意した。
〈週刊チェカ〉の記事が拷問の使用を要求していることに慄然として、Latsis の機関の閉鎖を命じた。レーニンは、Latsis を優れた共産党員だと呼んでいたのだが。(脚注2)
1918年11月6日、チェカは、訴追されていない、または2週間以内に訴追できない収監者全員を釈放することを、指示された。
「必要がある」場合を除き、人質も解放された。(脚注3)
この措置は、共産党諸機関によって「恩赦」として歓迎された。審理されて判決を受けた者だけではなく、訴追すらされていない者にも適用されたので、「恩赦」という類のものではなかったけれども。
だが、この指示も、空文のままだった。すなわち、1919年のチェカの監獄は、明確な理由なく投獄された収監者、その多くは人質、で溢れつづけていた。
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(脚注2) レーニンは、1918年11月7日に、チェキストの「会合音楽会」で挨拶して、チェカを批判から防衛した。彼はチェカの「困難な仕事」について語り、チェカに対する不満を「愚痴」(〈vopli〉)だとして斥けた。チェカの特性として選び出したのは、断固さ、速さ、とりわけ「忠誠さ」(〈vernost’〉)だった。Lenin, PSS, XXXVII, p.173. ヒトラーのSS の標語は「Unsere Ehre heisst Treue」(「我々の栄誉は忠誠という」)だったことが、想起される。
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(脚注3) Dekrety, III, p.529-530. これは、チェカは訴追しないままで抱えている多数の収監者を何とかしてほしいとの、10月初めのモスクワ・ソヴェト幹部会の要請に対する反応だった。Severnaia Kommuna, No.122(1918年10月18日), p. 3.
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(09) 政府は、1918年10月の末にかけて、心ならずも、他の国家諸機関と緊密な関係をもたせることで、チェカの独立性を制限する方向へ進んだ。
チェカのモスクワ本部は、司法人民委員部および内務人民委員部の代表者たちを受け入れるよう命じられた。
州の諸ソヴェトは、地方チェカ機関員の任命や解任を行なう権限を与えられた。(注111)
しかし、チェカによる政治的な濫用をなくす意味ある措置は、1919年1月7日に行なわれた、チェカの〈uezdy〉——への吸収だった。この〈uezdy〉は、酷い残虐行為や大規模な強要行為で悪名高い、最小の行政単位だった。(注112)
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(10) チェカの権威は、ボルシェヴィキ党モスクワ委員会から不満が示されることで、慢心を原因として揺すぶられた。モスクワ党委員会は、1919年1月23日の会議で、統制されないチェカの活動に対する強い抗議の声を聴いていた。
チェカを廃止しようとする動議が提出された。これは、「ブルジョア的」だとして採用されなかった。
しかし、時期が到来していた。
1週間のち、国の最も重要な同じモスクワ党委員会は、4対1の票差で、チェカから審判所として活動する権利を剥奪し、捜査機関というもともとの活動に限定した。(注114)
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(11) 党中央委員会は、このような不満の増大に対応して、2月4日に、1918年12月のKrylenko の提案を再検討した。
Dzerzhinskii とスターリンは、報告書を準備するよう求められた。
二人は、数日後に提出した勧告書で、こう提案した。チェカは、治安妨害行為を捜査し、武装反乱を鎮圧するという二つの機能を維持する。だが、国家に対する犯罪に判決を下す権限は、革命審判所に留保される。
この原則に対する例外は、ときに国の広大な領域に及ぶことのある戒厳令の下にある地域で認められた。この地域では、チェカは従前どおりに活動することができ、死刑判決を下す権利を保持した。(注115)
党中央委員会は、勧告書を承認し、是認を求めて中央執行委員会(CEC)に提出した。
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(12) CECの1919年2月17日の会合で、Dzerzhinskii は主要報告を陳述した。(脚注4)
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(脚注4) これは、39年後に初めて公にされた。IA, No. 1, p.6-p.11.
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彼は、こう語った。チェカが存在した最初の15ヶ月のあいだ、ソヴィエト体制はあらゆる分野での組織的抵抗に対抗する「容赦なき」闘争を展開しなければならなかった。
しかし、今では、かなりの程度はチェカの活動が、「我々の内部の敵、元将校、ブルジョアジー、帝制期の官僚たちを、打ち負かし、解散させた」。
今後の主要な脅威は、「内部から」破壊工作を実行するためにソヴェト組織に潜入している反革命者たちにある。
チェカが大衆テロルを展開する必要は、もうない。これからは、犯罪者を審理して判決を下す革命審判所のために、証拠を提供することになるだろう。
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(13) 表面的には、一つの時代の終わりが画された。当時の人々はある程度は、改革を歓迎した。2月17日、CECは、敵を粉砕した「プロレタリアート」がもうテロルという武器を必要としなくなった証しとして、この改革をいつものとおり承認した。(注116)
しかし、この改革は、ロシアのテルミドール(Thermidor)ではなかった。ソヴィエト・ロシアは、当時もその後も、テロルなしで済ますことはできなかった。
1919年、1920年、そしてそのあと、チェカとその後継組織のGPU は、革命審判所に照会することなく、逮捕し、審理し、判決を下し、収監者や人質を処刑しつづけた。
まさに、Krylenko が説明したように、このことは大して重要でなかった。「質的に見て」(qualitatively)、法廷と警察の間に違いはないはずだったのだから。(注117)
Krylenko の見方は、つぎのことを考えると、正しかった。1920年の時点で、裁判官は、被告人の有罪が「明白」と見えるときは、通常の司法手続を履行することなく被告人に判決を下すことができた。これは、チェカが行なってきたことと全く同じだった。
1919年10月、チェカは自らの「特別革命審判所」を設置した。(注118)
それにもかかわらず、改革を目ざす努力は、実らなかったとはいえ、記憶されるに値する。その努力は、少なくともボルシェヴィキ党員の一部には、1918-19年に既に、秘密警察は体制の敵のみならず自分たちや友人たちの脅威でもある、という予感があった、ということを示しているのだから。
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第九節、終わり。
「第18章・赤色テロル」のつづき。
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第九節/抵抗するボルシェヴィキ党員②。
(07) しかし、チェカ擁護論者は、その組織を防衛しただけではなかった。「プロレタリアート独裁」の勝利のために不可欠のものとして称賛した。
チェカは、無限の闘争であるレーニンの「階級戦争」のテーゼを発展させて、自らを赤軍と相補関係にあるものと見た。
両者の唯一の違いは、赤軍はソヴィエト国境の外で階級敵と戦い、チェカとその軍事部隊は「国内の戦線」で階級敵と戦う、ということにある。
内戦は「二つの前線での戦争」だとする考えは、チェカとその支持者が好んだ主題の一つになった。赤軍で働く者とチェカに勤務する者は、腕を組む同志だと言われた。それぞれのやり方で、「国際的ブルジョアジー」と戦っているのだ。(注108)
こうした類似性でもって、チェカは、自分たちにソヴィエトの領域内で殺害が許容されていることは、軍隊の兵士が前線で目に入る敵兵を殺害するのと同じ権利のようなものだ、いやじつに、義務ですらある、と主張することができた。
戦争は、正義の法廷でなかった。Dzerzhinskii の言葉によると(Radek の報告によるが)、無実の者も、無実の兵士が戦場で死ぬのと全く同じように、国内の前線で死ぬ。(注109)
これは、政治は戦争だ、という前提から演繹される見方だった。
Latsis は、両者の類似性を、つぎのような論理的な結論へと押し進めた。
「非常委員会(チェカ)は捜査機関ではなく、判決を書く法廷または審判所でもない。
戦闘の機関であって、内戦の内部戦線で活動する。
敵に判決を下すのではない。打ちのめすのだ。
バリケードの向こう側の者たちを赦すのではなく、焼いて灰にする。」(注110)
警察テロルと軍事戦闘との間のこのような類似性は、むろん、両者の重大な違いを無視していた。すなわち、兵士は生命を賭けて敵の兵士と戦ったが、チェカ機関員は、自らについての危険を冒すことなく無防備の男女を殺害した。
チェキストが示すべき「勇気」は、身体的または倫理的な勇気ではなく、良心を抑えつけようとする意欲だった。その「不屈さ」は、被害を受けない能力にではなく、苦痛を被らせる能力にあった。
それにもかかわらず、チェカは、この表面的な類似性を語るのを好むようになった。これでもって、批判に反駁し、ロシア人が抱く嫌悪感を克服しようとした。
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(08) レーニンは、論争に立ち入らなければならなかった。
チェカを好み、その残虐性を是認した。しかし、チェカの公的イメージを改善することによってでも、とんでもない悪罵は抑制される必要がある、ということにも同意した。
〈週刊チェカ〉の記事が拷問の使用を要求していることに慄然として、Latsis の機関の閉鎖を命じた。レーニンは、Latsis を優れた共産党員だと呼んでいたのだが。(脚注2)
1918年11月6日、チェカは、訴追されていない、または2週間以内に訴追できない収監者全員を釈放することを、指示された。
「必要がある」場合を除き、人質も解放された。(脚注3)
この措置は、共産党諸機関によって「恩赦」として歓迎された。審理されて判決を受けた者だけではなく、訴追すらされていない者にも適用されたので、「恩赦」という類のものではなかったけれども。
だが、この指示も、空文のままだった。すなわち、1919年のチェカの監獄は、明確な理由なく投獄された収監者、その多くは人質、で溢れつづけていた。
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(脚注2) レーニンは、1918年11月7日に、チェキストの「会合音楽会」で挨拶して、チェカを批判から防衛した。彼はチェカの「困難な仕事」について語り、チェカに対する不満を「愚痴」(〈vopli〉)だとして斥けた。チェカの特性として選び出したのは、断固さ、速さ、とりわけ「忠誠さ」(〈vernost’〉)だった。Lenin, PSS, XXXVII, p.173. ヒトラーのSS の標語は「Unsere Ehre heisst Treue」(「我々の栄誉は忠誠という」)だったことが、想起される。
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(脚注3) Dekrety, III, p.529-530. これは、チェカは訴追しないままで抱えている多数の収監者を何とかしてほしいとの、10月初めのモスクワ・ソヴェト幹部会の要請に対する反応だった。Severnaia Kommuna, No.122(1918年10月18日), p. 3.
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(09) 政府は、1918年10月の末にかけて、心ならずも、他の国家諸機関と緊密な関係をもたせることで、チェカの独立性を制限する方向へ進んだ。
チェカのモスクワ本部は、司法人民委員部および内務人民委員部の代表者たちを受け入れるよう命じられた。
州の諸ソヴェトは、地方チェカ機関員の任命や解任を行なう権限を与えられた。(注111)
しかし、チェカによる政治的な濫用をなくす意味ある措置は、1919年1月7日に行なわれた、チェカの〈uezdy〉——への吸収だった。この〈uezdy〉は、酷い残虐行為や大規模な強要行為で悪名高い、最小の行政単位だった。(注112)
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(10) チェカの権威は、ボルシェヴィキ党モスクワ委員会から不満が示されることで、慢心を原因として揺すぶられた。モスクワ党委員会は、1919年1月23日の会議で、統制されないチェカの活動に対する強い抗議の声を聴いていた。
チェカを廃止しようとする動議が提出された。これは、「ブルジョア的」だとして採用されなかった。
しかし、時期が到来していた。
1週間のち、国の最も重要な同じモスクワ党委員会は、4対1の票差で、チェカから審判所として活動する権利を剥奪し、捜査機関というもともとの活動に限定した。(注114)
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(11) 党中央委員会は、このような不満の増大に対応して、2月4日に、1918年12月のKrylenko の提案を再検討した。
Dzerzhinskii とスターリンは、報告書を準備するよう求められた。
二人は、数日後に提出した勧告書で、こう提案した。チェカは、治安妨害行為を捜査し、武装反乱を鎮圧するという二つの機能を維持する。だが、国家に対する犯罪に判決を下す権限は、革命審判所に留保される。
この原則に対する例外は、ときに国の広大な領域に及ぶことのある戒厳令の下にある地域で認められた。この地域では、チェカは従前どおりに活動することができ、死刑判決を下す権利を保持した。(注115)
党中央委員会は、勧告書を承認し、是認を求めて中央執行委員会(CEC)に提出した。
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(12) CECの1919年2月17日の会合で、Dzerzhinskii は主要報告を陳述した。(脚注4)
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(脚注4) これは、39年後に初めて公にされた。IA, No. 1, p.6-p.11.
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彼は、こう語った。チェカが存在した最初の15ヶ月のあいだ、ソヴィエト体制はあらゆる分野での組織的抵抗に対抗する「容赦なき」闘争を展開しなければならなかった。
しかし、今では、かなりの程度はチェカの活動が、「我々の内部の敵、元将校、ブルジョアジー、帝制期の官僚たちを、打ち負かし、解散させた」。
今後の主要な脅威は、「内部から」破壊工作を実行するためにソヴェト組織に潜入している反革命者たちにある。
チェカが大衆テロルを展開する必要は、もうない。これからは、犯罪者を審理して判決を下す革命審判所のために、証拠を提供することになるだろう。
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(13) 表面的には、一つの時代の終わりが画された。当時の人々はある程度は、改革を歓迎した。2月17日、CECは、敵を粉砕した「プロレタリアート」がもうテロルという武器を必要としなくなった証しとして、この改革をいつものとおり承認した。(注116)
しかし、この改革は、ロシアのテルミドール(Thermidor)ではなかった。ソヴィエト・ロシアは、当時もその後も、テロルなしで済ますことはできなかった。
1919年、1920年、そしてそのあと、チェカとその後継組織のGPU は、革命審判所に照会することなく、逮捕し、審理し、判決を下し、収監者や人質を処刑しつづけた。
まさに、Krylenko が説明したように、このことは大して重要でなかった。「質的に見て」(qualitatively)、法廷と警察の間に違いはないはずだったのだから。(注117)
Krylenko の見方は、つぎのことを考えると、正しかった。1920年の時点で、裁判官は、被告人の有罪が「明白」と見えるときは、通常の司法手続を履行することなく被告人に判決を下すことができた。これは、チェカが行なってきたことと全く同じだった。
1919年10月、チェカは自らの「特別革命審判所」を設置した。(注118)
それにもかかわらず、改革を目ざす努力は、実らなかったとはいえ、記憶されるに値する。その努力は、少なくともボルシェヴィキ党員の一部には、1918-19年に既に、秘密警察は体制の敵のみならず自分たちや友人たちの脅威でもある、という予感があった、ということを示しているのだから。
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第九節、終わり。




























































