猪木武徳・戦後世界経済史―自由と平等の観点から(中公新書、2009)p.372以下の要約的紹介。
・近代化の一側面は「平等化」で、万人の「法の前の平等」は、「近代社会」の「偉大な成果」だった。しかし、そこに「奇妙な論理のすり替え」が起こる可能性を看過すべきではない。人は法の前で「平等であるべき」なのであり、「事実として人間の有様が同じ」なのではない。しかし、「『真』の理想に燃える『社会哲学』」は、人は「平等であってしかるべきだという考えを押し広め」た。
「平等」への情熱は「自由」のそれよりも「はるかに強い」もので、既得の「自由の価値」は容易には理解されないが、「平等の利益」は簡単に感得される。「自由の擁護」と異なり、「平等の利益の享受」には努力は不要だ。「平等を味わう」には「ただ生きていさえすればよい」(トクヴィル)。
・だが、「平等は自由の犠牲において」実現することが多い。すべての人が「自由かつ平等な社会」は「夢想でありフィクション」にすぎない。平等をめざして自由が失われ、自由に溢れた社会では平等保障がないことは「過去二〇〇年の世界の歴史」が明らかにした。
・「デモクラシーの社会」には多様で複雑な課題があり、新しい価値選択を迫られるが、それには「高度の専門性」が必要であるにもかかわらず、一般国民、そして政治家に十分な知識があるというのは「フィクションに近い」。このフィクションを「メディアや一部の啓蒙家」が補正するのは限界がある。したがって、「問題に対する理解」が不十分ならば、「最終的判断のベース自体があやしい」ものになる。
民主国家に重要な、国民による「倫理的に善い選択」には「十分な知識と情報が必要」だ。難問を処理する「倫理」を確かなものにするには「知性と情報が不可欠」なのだ。
・トクヴィルのアポリア(難問)=「平等化の進展は自由の浸蝕を生む」は「人的資本の低い国に起こる可能性が大きい」。この「人的資本」の重要な構成要素は「市民道徳を中心とした『知徳』」だ。かかる意味で、「人的資本の蓄積の不十分な」=「知徳の水準が不十分な」国でのデモクラシーは「全体による全体の支配」を生み出しやすい。
これは経済的後進国のみを指しているのではなく、「日本のような経済の先進国でも、市民文化や国民の教育内容が劣化してゆけば、経済のパフォーマンス自体も瞬く間に貧弱になる危険性を示唆して」いる。
以上。なかなか示唆に富む。
最後の部分を表現し直すと、「人的資本」、すなわち市民道徳・倫理(「知徳」)の水準が低下していくと、民主主義国も「全体による全体の支配」を生み出す傾向があり、日本についても例外ではない、ということでもあろう。
そうであるとして、日本においてそのような<全体主義>へと近づく「人的資本」の劣化をもたらしているのは、いったい何なのか?
教育であり家庭であり…、ということになろうが、「一億総白痴化」を実際にもたらした<テレビ>を含む、大衆に媚びる、「知徳」の欠乏した、戦後の<マスコミ>も重要な一つに違いない。
石原慎太郎・新堕落論(新潮新書、2011)も読み終えているが、日本人の「堕落」の原因をしっかりと剔抉する必要がある。
なお、石原慎太郎によれば、例えば、戦後の日本人の心性の基軸は「あてがい扶持の平和に培われた平和の毒、物欲、金銭欲」で、日本人が追求し政治も迎合している「価値、目的」とは国民各自の「我欲」で、我欲とは「金銭欲、物欲、性欲」だ(p.40-41)。
こうした「我欲」に満ちた、「市民道徳」を失いつつある日本国民に、<全体主義>化を抑止するだけの「知徳」をもつことを期待できるだろうか。「テレビ局」をはじめとする大手マスコミは、逆に、日本人の「我欲」追求を助長している大犯罪者なのではないか。
テレビ
一般新聞(全国紙)とテレビの報道(ワイドショーも含む)だけでを見聞きして世の中が解ると(ほぼ正しく認識できると)勘違いしている日本人は多すぎるのではないか。全国紙ではなく、各県紙といわれる新聞を含めてもよい。その読んでいる新聞が朝日新聞だったり、特定の「傾向」を持った地方紙であれば、「ほぼ正しく」どころか、<歪んで>日本と世界の動向を「理解」してしまうだろう(以下、とりあえず現在に限るが、<歴史認識>についてもまったく同じ)。
上のことはもはや常識的で、何らかの雑誌・専門誌紙やネット情報を加味しないと、もはや「世の中を解る」ことはできなくなっている。一般新聞(全国紙)とテレビの報道(ワイドショーも含む)だけでも誤った「理解」をもってしまう(一定の認識へと誘導される)可能性が大なので、そのかぎりですでにマイナスだが、読んでいるのが朝日新聞だったり、ましてや日本共産党・社民党の機関紙・新聞や両党系の雑誌・冊子類だったら絶望的で、決定的で大きなマイナスになる。
かかる大きなマイナスを受けるよりは、きちんと一般新聞を読まずほとんどテレビの報道を観ない日本人の方が、むしろ素朴でかつ本能的に適切な感覚を、日本の政治・社会の動向について抱くのではないか。
さて、一般新聞(全国紙または地方紙)とワイドショーも含むテレビの報道だけを見聞きして世の中を理解したつもりになっている者が、この欄で書いているような内容を見聞きすると、<偏っている>と感じるらしい。
今日の日本の一般新聞(全国紙または地方紙)とテレビの報道(ワイドショーも含む)の影響力は怖ろしいほどだ。ほとんど努力することなく一般新聞・テレビからだけ情報を入手し、専門書も論壇誌等々も読まない人々は、何となく<身につけさせられた>意識・認識が日本の中正または中庸あたりの理解・認識だと勘違いしてしまうから、じつは少なからず存在するが一般新聞のほとんどやテレビのほとんどでは表に出てきていない意見・理解・認識を示されると、違和感をもち、<偏っている>と感じてしまうのだ。
率直にいって、一般新聞(全国紙または地方紙)とワイドショーも含むテレビの報道からしか日本・世界の情報を入手しない者は<バカ>になっているのだが、その人たちはそのことに気づいていない。<バカ>ならまだよいのかもしれないが、NHKの一部番組も朝日新聞等々も特定の傾向をもつから、<アブナい>人間になってしまっている可能性もある。
そうなるよりは、上記のように、一般新聞(全国紙または地方紙)やワイドショーも含むテレビの報道をろくに見聴きしない方がまだましだ。
この欄の閲覧者の大部分にとっては、全く余計なことを書いたかもしれない。
但し、例えば<保守>論壇の中にいて、身近に<保守>的な人々ばかりがいて、日常的に<保守>的会話を交わしているような人々は、<保守>は決して多数派ではないこと、日本人の多くは一般新聞(全国紙または地方紙)やワイドショーも含むテレビの報道だけを見聞きして、一昨年8月末には多くが民主党に投票したり、昨年参院選の東京選挙区では唖然とするような票数を民主党・蓮舫に投じたりするのであることを、しかと認識しておく必要があるだろう。
仲間うちだけの議論で満足してはいけない。「左翼」政権のもとにあること、自分たちは<少数派>であることを、本当は悲痛な思いでつねに自覚しておくべきだ。
1963年(昭和38年)に、「文学座」分裂事件が起こり、これには三島由紀夫も福田恆存も関係している。この事件は、<親中・媚中>の「左翼」で、のちに大江健三郎のそれの次の年に日本の文化勲章受賞を拒否した杉村春子が主人公のようで、「政治」と文芸(・新劇)との関係あるいは<進歩的文化人>なるものの所為を知る上でも興味深い。1963年とは、東京五輪の前年になる。
遠藤浩一・福田恆存と三島由紀夫(下)(2010、麗澤大学出版会)p.214-によると、福田恆存はこの1963年から翌年にかけて、「日本近代史論」を月刊文藝春秋に連載したらしい。この論考は現在刊行中の福田恆存評論集(麗澤大学出版会)には収載されていないようだ。
遠藤によると、福田論考の内容は、次のようだ(「」はもともとの福田恆存の文章の引用部分)。
明治以降の「近代化」は「壁なし社会」形成という成果はあるが、「大壁、小壁が存在しなくなったのではなく」、「透明な部分が多く」なりかつ「在り場所が不規則に」なっただけのこと。悪法も無視することで「存在を透明に」して「あたかも無きがごとき錯覚」を与えうる。特に戦後の日本は一九四六年製の胡乱な憲法によって拘束されているが、その歪みに対する疑念は拭われていない(「悪法は法に非ず」が安直に実現され日常化されている)。
また、日本の国際化は国際的視野が広がったのでは必ずしもなく、「国家という大城壁が崩れ去」り「透明になり見えにくくなったという意味」にすぎない。
さらに、大衆化現象の進展・マイメディアの発達による都市化の急速化で大都市・農村を問わず「彼等の欲望を強烈に刺激し、その欲求不満を掻立てる」ようになった。そして自然科学の進歩や技術革新により、日本人は「悪夢の中」に「他方では限り無く美しい薔薇色の夢の中」に包まれて、「自由を束縛する壁」や「危険を守ってくれる壁」の存在が「全く解らなくなっている」。
以上だが、なかなかに含意に富む。
<透明化>とは近年ではよい意味で使うことが多いが、ここでは存在するのに見えなくすること(見えなくなること)の意味だ。
①日本国憲法制定過程・手続に大げさには「悪」があったとしても、見ても見ぬふりをする(気づいていても知らないふりをする)心性にほとんどの日本人が陥っていたのではないだろうか。また、過程・手続にのみならず内容自体にも奇妙なところがあることを意識していた者も少なくなかっただろうが、あえて言挙げする者の方が少なかったのだろう(だからこそ憲法改正は現実化しなかった)
②1963-64年の時点にすでに福田恆存はマスメディア等が日本人の「欲望を強烈に刺激し、その欲求不満を掻立てる」現象を指摘している。大宅壮一がテレビによる<一億総白痴化>を語ったのは1957年くらいらしい。だが、経済成長に伴う、とくにマスメディアを通じた<消費「欲望」肥大化>・<「物質的」豊かさの追求>に対する批判的なコメントとしては、1963年頃でも早いと言えるだろう。
③「壁」が見えなくなっているとの指摘は、「国家」意識の減退・縮小や規律・秩序の弱体化・崩壊を意味しているようだ。
そして驚くべきことに、上の①~③のような、福田恆存が1963年頃に含意させていたような事柄は、今日、2010年でも、基本的には何ら変わっていないのではないか。
遠藤浩一も言うとおり、<「戦後」はまだ続いている>。
「悪法を改めることもせず、その解釈拡大(無視)によってしのぎ続ける日本人。『国家という大城壁』を崩壊に任せたままの日本人。欲望の充足だけが政治の課題だと信じ込んでいる日本人。自らを守るものを見失ったままの日本人。何も変わっていない」(p.216)。
産経発行・月刊正論3月号(2008.02)の佐伯啓思「『偽』の国から『義』の国へ」のうち共感できる又は参考になる叙述は以下。
1 ・明瞭な「偽」ではない「虚」というものもある。世界的金融市場でのある種の投機的活動は後者にあたる。
・経済だけでなく、政治の世界でも「虚」が闊歩しており、典型は昨年の参院選挙だった。「長期的な展望にたったスケールの大きな争点」、つまり「本来の争点」としては「憲法改正、教育改革、日米関係や対アジア関係」、あるいは「戦後レジームからの脱却」をめぐる問題、これらが大きすぎればせいぜい「小泉改革」=「構造改革」の評価、が論点とされるべきだった。だが、争点は民主党がもち出し、自民党が「その戦略に乗せられ」、「大方のジャーナリズム、マスメディアがその方向へと世論を誘導した」、「消えた年金」と「政治とカネ」に縮減された。
・「『戦後レジーム』の見直しという『真』の争点ではなく、『消えた年金』という『虚』の問題を政権選択の争点にした」という意味で、2007参院選は「いわば壮大な『虚』」だった。「地方の病弊と格差」が選挙を左右したのは事実だが、これは「小泉改革」=「構造改革」の評価を問うことを意味するはずなのに、「自民も民主もマスメディアも」この争点を問題にする姿勢を示さなかった。自民党は「改革の継続」を訴えすらした。/「改革」の意味は不明瞭だった。自民党は「改革」と連呼すれば勝てると錯覚していたのか。ここにも「実」のない「虚」の言葉があった。
・政治の「虚」化は、2005衆院選でも見られた。
2 ・教科書通りの合理的な民主政が「合理的な政治体制」を生むとは限らない。十数年来の日本の政治がその例。「『民意』を反映するはずの透明な民主政治が、著しく政治を不安定化し、一種の人気投票に変貌していった」。
・小泉純一郎の政治手法は「ポピュリズム=大衆迎合政治」とは少し違う、「デマゴーグ政治=大衆煽動政治」というべき。内閣直属の民間人専門家集団の活用は、「『民意』を反映するという名目で直接民主制的な要素をたぶんに持ち込んだ」。/「党主導の派閥政治」から「『民意』の反映という劇場型政治」へと大きく変化した。その際、「テレビやマスメディアの情報が、政治を動かす…決定的な力を持つようになる」。
・テレビは、決して物事のありのままを映像化しない、本質的に「虚」のメディアで、「その映像的効果そのものが、不可避的に作り出されたもの」だ。そして、「テレビに大きく依存した政治(テレ・ポリティックス)は、ますます政治を『虚』のものとして」いき、この「虚」を通じて「世論」=「民意」も作られる。<「民意」を反映した民主政>という口実の完成だ。
・「民意」自体が一つの「虚」だ。テレビの影響力を批判しているのではなく、それは「現代政治の条件」に組み込まれていることを「深く自覚」すべきと言っている。
・「テレ・ポリティックス」による「世論形成」に「政策」は左右されるので、「選挙」を前にした政治家はこの「『虚』の構造に巻き込まれざるを得ない」。政治家は「自分自身の確固とした見解」を持ってはならず、「思考停止」に陥って、「民意を尊重する」、「民意に従う」と言わざるをえない。
・「民意」という「虚」→政治家の政策・公約形成=「民意」の表明→「民意」による現実の政治、という「循環構造」の中で、「民意」は「実体をもたずに」「『偽装』されてしまう」。
・日本は「虚」と「偽」の国家になった。
以上(p.80~p.86)で、とりあえず終える。産経新聞の一部記者に見られた単純・素朴な<民主主義・民意>論とは大違い。
佐伯はこのあと、別の論稿でも書いていることだが、<戦後日本>そのものに大きな「虚」と「偽」があることを述べている。
勝手に書けば、占領(主権喪失又は主権制限)下での「新」憲法の制定、その憲法上の「陸海空軍その他の戦力」の不保持の明記と「自衛隊」(という実力・武力組織)のれっきとした存在……。基本的なところにすでに日本国家には「虚」と「偽」がある。これでは、誠実・真摯に物事を考える人々にとってますます「広く深くニヒリズムに覆われた時代」(佐伯・正論p.91。佐伯の文脈とは違う)になってしまうのもやむを得ないのではないか。
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